全113件 (113件中 1-50件目)
宮沢賢治 著 「税務署長の冒険」を扱った論文を読んでいます。 宮沢賢治 作 「税務署長の冒険」 https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/1941_17444.html 米地文夫 著 「宮沢賢治の「税務署長の冒険」における創作地名 : イメージのなかの景観と関わって」 https://iwate-u.repo.nii.ac.jp/index.php?active_action=repository_view_main_item_detail&page_id=13&block_id=21&item_id=11543&item_no=1 この論文では、作品のモデルとなった事件が次のように書かれています。 (以下引用) 大正 12年 6月 1日,花巻税務署は8人の税務属を和賀郡湯田村および沢内村の隣接する二つの村へ密造取締まりに派遣した。税務属たちは2隊に分かれ,1隊は盛岡,雫石を経て,山伏峠を越えて北から沢内村に入り,1隊は黒沢尻 (現北上)から平和街道経由で東から湯田村に入った。山間地の湯田村はちょうど田植えの終わったあとの慰労の宴会 「早苗振 (サナプリ)」最盛期でもある。酒を飲む確率の極めて高い日を税務署は選んで取り締まりを行ったのであった。 北から入った隊の一人,白鳥税務属は,午後 7時ごろ湯田のある家で密造の証拠を見つけ,押収 したが,その帰 りに後ろから? 襲撃され,顔に全治三週間の傷を負い,一時昏睡し帽子や帯剣その他証拠物件などを奪われた。意識を取り戻した白鳥税務属は,同僚に救われ,湯田村川尻の宿舎に帰り,同夜治療を受け,花巻警察署川尻分署に届け出た。翌 2日未明に川尻分署の巡査が犯人 として,前記農家の夫婦を逮捕,3日には花巻直裁判所検事代理 として花巻警察署長が花巻税務署長 らとともに現地へ向かった。襲撃された白鳥税務属は4日に花巻に戻った。 (引用終了) 作品中の「シラトリ属」と同じ名前の白鳥税務属が、取り締まり中に農家の襲撃を受けてケガをしたそうです。 作品では税務署長がケガをしますが、現実では部下がケガをしていました。 これについて、論文では、「怪我をした白鳥税務属のように,実際に取り締まりの第一線に立ち,密造者たちの憎悪の的となり,その必死の抵抗に身をさらすのは,ヒラの下級官吏である。賢治はそのことへの皮肉 もこめて(略)税務署長自身の潜入 という物語を書いたのであろう。」とのべています。 「指揮官先頭」、「ノブリス・オブリージュ」、のように、地位の上の者が自ら危険に飛び込むほうが、物語としても盛り上がる、という一面もあると思いました。 #宮沢賢治 #税務署長の冒険 #酒 #産業組合
2021.09.10
コメント(0)
宮沢賢治 著 「税務署長の冒険」を扱った論文を読んでいます。 宮沢賢治 作 「税務署長の冒険」 https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/1941_17444.html 米地文夫 著 「宮沢賢治の「税務署長の冒険」における創作地名 : イメージのなかの景観と関わって」 https://iwate-u.repo.nii.ac.jp/index.php?active_action=repository_view_main_item_detail&page_id=13&block_id=21&item_id=11543&item_no=1 この論文では、次のように書かれています。 「その素材ないしヒントとなった出来事は大正 12年 6月 1日に和賀郡湯田村で起 こった,密造者検挙に当たった花巻税務署白鳥永吉税務属の負傷事件である。 この白鳥永吉属が作中の 「シラトリキキチ属」のモデルであることは間違いない。」 この作品には、実際にモデルとなった事件があり、登場人物にもモデルがいる、といいます。 実際に密造酒摘発事件で負傷した花巻税務署員が、登場人物「シラトリ」のモデルだといいます。 #宮沢賢治 #税務署長の冒険 #酒 #産業組合
2021.09.09
コメント(0)
米地文夫 著 「宮沢賢治の「税務署長の冒険」における創作地名 : イメージのなかの景観と関わって」 https://iwate-u.repo.nii.ac.jp/index.php?active_action=repository_view_main_item_detail&page_id=13&block_id=21&item_id=11543&item_no=1 この論文では、次のように書かれています。 「この村は奥羽山脈の山間の村で当時,濁酒密造が盛んに行われており,地名にも湯本があり,温泉地である。つまり,賢治は和賀郡湯田村すなわち 「ユダユモト」を第一の素材 とし,そこで起 こった事件からヒントを得て, これを「ユグチュユモト」つまり稗貫郡湯口・湯本両村に舞台を置き換えて 「税務署長の冒険」を書いたのである。」 つまり、岩手県の、和賀郡湯田村湯本、稗貫郡湯口村、同郡湯本村、の3か所がこの作品のモデルになったと、書いています。 #宮沢賢治 #税務署長の冒険 #酒 #産業組合
2021.09.08
コメント(0)
宮沢賢治 作 「税務署長の冒険」が実際の事件を基に書かれた、という、興味深い論文です。 米地文夫 著 「宮沢賢治の「税務署長の冒険」における創作地名 : イメージのなかの景観と関わって」 https://iwate-u.repo.nii.ac.jp/index.php?active_action=repository_view_main_item_detail&page_id=13&block_id=21&item_id=11543&item_no=1 #宮沢賢治 #税務署長の冒険 #酒 #産業組合
2021.09.06
コメント(0)
国税庁のサイトより 「密造取締りに大活躍する税務署長を描いた宮沢賢治の作品です。昭和24年に北海道酒類密造防止協力会から刊行されました。」 https://www.nta.go.jp/about/organization/ntc/sozei/shiryou/library/13/08.htm 1949(昭和24)年に国税庁の関連団体が、「税務署長の冒険」を刊行していたとは、驚きでした。お役所の関連団体が出すには、税務署に対する風刺が効きすぎている気もします。それだけ面白いという証拠でしょう。
2021.08.30
コメント(0)
宮沢賢治は、禁酒運動に賛成し、農村の酒による疲弊に、心を痛めていました。 いっぽうで、原理主義的な禁酒主義者では、ありませんでした。 科学的に共同組織で高品質な密造酒を造る農村と、酒税徴税に燃える税務署長の戦いを、ユーモラスな小説に描いています。 宮沢賢治 作 「税務署長の冒険」 https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/1941_17444.html 税務署長が講演でこう言います。 「どうせやるならなぜもう少し大仕掛けに設備を整へて共同ででもやらないか。すべからく米も電気で研ぐべし、しぼるときには水圧機を使ふべし、乳酸菌を利用し、ピペット、ビーカー、ビュウレット立派な化学の試験器械を使って清潔に上等の酒をつくらないか。もっともその時は税金は出して貰もらひたい。さう云ふふうにやるならばわれわれは実に歓迎する。技師やなんかの世話までして上げてもいゝ。こそこそ半分かうじのまゝの酒を三升つくって罰金を百円とられるよりは大びらでいゝ酒を七斗呑めよ。」 税務署長のセリフですから、納税に力点が置かれていますが、半分、賢治の考えが入っていると思います。 都会の大資本が製造した酒に農家の所得が吸いとられることを懸念していたのでしょう。 米価と農家所得が下がり、酒の販売額は上がる状況に心を痛めていたのでしょう。 自分たちの組合を作り、安い米を価値のある酒にして、農村に雇用の場も作り、農村で経済がまわることを夢みたのでしょう。 #宮沢賢治 #税務署長の冒険 #禁酒運動 #産業組合
2021.08.29
コメント(0)
1927(昭和2)年、宮沢賢治は、岩手県岩崎村(現 北上市)の杉山式農法の見学の際に、隣村の藤根村(現 北上市)の禁酒会をみて、感激し、詩を作りました。 宮沢賢治 作 「藤根禁酒会へ贈る」 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202108220000/ 賢治は、鉄道の開通で交通が便利になり、林産物などの臨時収入が増え、酒が農山村に流れ込んだという内容を、書きました。 農村だけの資料はありませんので、岩手県全体でみてみます。 1910(明治43)年から、1926(大正15,昭和元)年を比較します。 酒類出荷量は、約1.5倍に増えています。 酒類出荷額と酒税額は2倍以上に増えています。 1910(明治43)年 酒類出荷量 50,187石 酒類出荷額 2,367,170円 酒税額 978,417円 出典 岩手県勢要覧 明治44年 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806179 1926(大正15,昭和元)年 酒類出荷量 76,209石 酒類出荷額 6,233,189円 酒税額 2,769,454円 出典 岩手県勢要覧 昭和2年 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1456447 #宮沢賢治 #藤根禁酒会に贈る #酒税
2021.08.28
コメント(0)
1927(昭和2)年、宮沢賢治は、岩手県岩崎村(現 北上市)の杉山式農法の見学の際に、隣村の藤根村(現 北上市)の禁酒会をみて、感激し、詩を作りました。 宮沢賢治 作 「藤根禁酒会へ贈る」 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202108220000/ 「しかも鉄道が通ったためか/みちは両側草と露とで埋められ/残った分は野みちのやうにもう美しくうねってゐる」 鉄道が通ったためか、道の両側に草が生え、美しくなった、と書いています。 鉄道開通前は、馬の背中に荷物を乗せ(駄載)たり、馬車で運んだりしていました。馬は道草を食う(文字通りの意味で)ので、道の両側は土がむき出しになっていたのでしょう。それが鉄道開通で、馬の交通が減ったために、草が生え、農村景観まで変えたようです。 「これらの運輸の便宜によって/殆んど無価値の林や森が/俄かに多くの収入を挙げたので/そこには南からまで多くの酒がはいって」 これも鉄道開通の影響です。交通が便利になる光の部分と、影の部分を対比させるために、前半に草の生えた美しい農村景観を描写したのかもしれません。 宮沢賢治全詩集【電子書籍】[ 宮沢賢治 ]価格:100円 (2021/8/27時点)楽天で購入 #宮沢賢治 #藤根禁酒会に贈る #鉄道 #禁酒
2021.08.27
コメント(0)
1927(昭和2)年、宮沢賢治は、岩手県岩崎村(現 北上市)の杉山式農法の見学の際に、隣村の藤根村(現 北上市)の禁酒会をみて、感激し、詩を作りました。 宮沢賢治 作 「藤根禁酒会へ贈る」 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202108220000/ この当時、アメリカでは禁酒法ができるほど世界的に禁酒運動が盛んでした。 日本の農村でも、生活改善運動として、禁酒運動が盛んになります。 賢治の後輩で、賢治を尊敬していた松田甚次郎は、羅須地人協会で賢治の教えを受けたあと、故郷の山形県稲舟村鳥越(現 新庄市)で農村改革に取り組み大きな成果をあげています。そこでも禁酒運動に取り組んでいます。 新庄偉人伝「松田甚次郎」(山形県新庄市サイト) https://www.city.shinjo.yamagata.jp/090/040/020/20150611135742.html #宮沢賢治 #松田甚次郎 #禁酒 #農村改革 #生活改善
2021.08.26
コメント(0)
1927(昭和2)年8月、宮沢賢治は、自分の肥料設計した、地域の農家の水稲の草丈が伸びすぎて、大雨で倒伏したようすに衝撃を受け、多くの作品を書きました。 また、ウサギ飼育などの副業をしても農家所得が十分に補てんできないようすも、同時期に描いています。 宮沢賢治 作 「降る雨はふるし」 水稲倒伏被害の分析へ https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202108120000/ 宮沢賢治 作 「このひどい雨の中で」若者の副業努力と厳しい現実 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202108150000/ その後、9月に賢治は杉山式稲作の見学に出かけました。 詩「藤根禁酒会に贈る」に書かれています。 宮沢賢治 作 「藤根禁酒会へ贈る」 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202108220000/ 杉山式農法を見学した賢治には、水稲の倒伏を防ぐ肥料設計をするための参考にしたいという考えがあったと思われます。 また、肥料代を節約しながら水稲を増収させ、農家所得を向上させたい、とも考えたと思われます。 賢治の初期の肥料設計は、高価な化学肥料中心で、やや冒険的な増収をねらった傾向があるように思われます。 いっぽう、こののち、石灰肥料工場の経営者の鈴木東蔵と出会った賢治は、自家有機肥料と石灰肥料中心の、低コスト肥料設計に舵を切ります。 杉山式農法も人糞尿といった自家有機肥料と、くん炭肥料をあわせて、化学肥料を削減するものです。 賢治が、化学肥料中心の肥料設計から、石灰と有機肥料中心の肥料設計にかわっていく過程で、杉山式農法などの民間農法の影響を受けた可能性について、検討する必要がありそうです。 宮沢賢治全詩集【電子書籍】[ 宮沢賢治 ]価格:100円 (2021/8/25時点)楽天で購入 #宮沢賢治 #杉山式農法 #藤根禁酒会に贈る #水稲 #石灰 #くん炭 #肥料 #肥料設計
2021.08.25
コメント(0)
1927(昭和2)年9月に宮沢賢治は岩手県岩崎村に、杉山式稲作の見学に出かけました。 詩「藤根禁酒会に贈る」に書かれています。 宮沢賢治 作 「藤根禁酒会へ贈る」 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202108220000/ 杉山式農法は、くん炭肥料を使うことが特徴です。くん炭が化学肥料を吸着し、流亡を防ぎ、肥料効率があがります。 その、くん炭は、現在バイオ炭(バイオすみ、バイオチャー)として注目されています。肥料、土壌改良効果だけでなく、炭素の土中貯蔵による大気の二酸化炭素減少効果、地球温暖化抑制効果が注目されています。排出権取引により農家の新たな収入源になる可能性があります。 農林水産省のバイオ炭説明会 https://www.maff.go.jp/j/press/kanbo/kankyo/201021.html 宮沢賢治は、グスコーブドリの伝記で、世界で初めて地球温暖化を童話に取り入れた作家だと思います。その賢治が、くん炭の炭素貯蔵効果に着目していたとすれば面白いのですが、残念ながら杉山式農法と地球温暖化について賢治が書き残した資料はありません。 #宮沢賢治 #杉山善助 #杉山式 #くん炭 #バイオ炭 #バイオチャー
2021.08.24
コメント(0)
宮沢賢治の作品、「藤根禁酒会に贈る」に書かれた杉山式農法について調べます。 宮沢賢治 作 「藤根禁酒会へ贈る」 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202108220000/ 賢治は、1927(昭和2)年9月、岩崎村(現在の岩手県北上市和賀町岩崎)に杉山式農法の水稲を視察するために出かけています。 杉山式農法を開発普及した杉山善助は、茨城県出身の篤農家です。 明治時代に流行した伝統的農法の天理農法と、杉山が茨城県農事講習所で学んだ近代農法をもとに、杉山式農法を開発しました。有機物を焼いたくん炭肥料と人糞尿中心の天理農法と、化学肥料中心の近代農法の長所をあわせようとしました。 経済的な杉山式農法は、関東、東北、を中心に普及していました。杉山は、大日本農事改良会(大日本農会とは別団体)という民間団体を設立し、本を出版し、杉山式農法の普及に努めました。 杉山善助の著書「天理応用 麦作改良法」に杉山式農法の開発普及の経緯が記載されています。 国立国会図書館のサイトより 杉山善助 著 「天理応用 麦作改良法」 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/922448 #宮沢賢治 #藤根禁酒会に贈る #杉山式 #杉山善助 #天理農法 #人糞尿 #くん炭 #化学肥料
2021.08.23
コメント(0)
1927(昭和2)年9月16日の作品です。 同年8月に大雨と水稲の倒伏に苦しめられた賢治は、翌年の稲作に向けた勉強をしていたようです。杉山式稲作法を視察するために岩崎という村に向かったようです。 そこで、岩崎の隣村の藤根禁酒会の人々とあったようです。 三年続く干ばつと、この年の大雨で農家経営は大きな打撃を受け、酒に逃げて、さらに厳しい状況に追い込まれた農家も多かったのでしょう。 また、鉄道が農家の消費を促し、密造酒よりもアルコール度数の高い酒の購入に拍車をかけたことでしょう。西に向かう花巻電気鉄道、東に向かう岩手軽便鉄道には、賢治の父が資本家として協力しており、賢治にとって他人事ではありません。 「酒を呑まなければ人中でものを云へないやうな/そんな卑怯な人間などは/もう一ぴきも用はない」 「酒を呑まなければ相談がまとまらないやうな/そんな愚劣な相談ならば/もうはじめからしないがいゝ」 厳しい言葉です。 つい二十年ぐらい前まで、仕事の話を酒の席で決める習慣があった感じがしますが、最近は新型コロナウイルス感染症の問題もあり、すっかり、そんな習慣も無くなりました。時代が賢治に追い付いてきたのかもしれません。 (本文開始) 一〇九二 藤根禁酒会へ贈る 一九二七、九、一六、 わたくしは今日隣村の岩崎へ 杉山式の稲作法の秋の結果を見に行くために ここを通ったものですが 今日の小さなこの旅が 何といふ明るさをわたくしに与へたことであらう 雲が蛇籠のかたちになってけはしくひかって いまにも降り出しさうな朝のけはひではありましたが 平和街道のはんの並木は みんなきれいな青いつたで飾られ ぼんやり白い霧の中から立ってゐた しかも鉄道が通ったためか みちは両側草と露とで埋められ 残った分は野みちのやうにもう美しくうねってゐる この会がどこからどういふ動機でうまれ それらのびらが誰から書かれ 誰にあちこち張られたか それはわたくしにはわかりませんが もうわれわれはわれらの世界の 一つのひゞを食ひとめたのだ この三年にわたる烈しい旱害で われわれのつゝみはみんな水が涸れ どてやくろにはみんな巨きな裂罅がはいった われわれは冬に粘土でそれを埋めた 時にはほとんどからだを没するくらゐまで くろねを堀ってそこに粘土を叩いてつめた それらの田には水もたまって田植も早く 俄かに変ったこの影多く雨多い七月以后にも 稲は稲熱に冒されなかった 諸君よ古くさい比喩をしたのをしばらく許せ 酒は一つのひびである どんなに新らしい技術や政策が 豊かな雨や灌漑水を持ち来さうと ひびある田にはつめたい水を 毎日せはしくかけねばならぬ 諸君は東の軽便鉄道沿線や 西の電車の通った地方では これらの運輸の便宜によって 殆んど無価値の林や森が 俄かに多くの収入を挙げたので そこには南からまで多くの酒がはいって いまでは却って前より乏しく 多くの借金ができてることを知るだらう しかも諸君よもう新らしい時代は 酒を呑まなければ人中でものを云へないやうな そんな卑怯な人間などは もう一ぴきも用はない 酒を呑まなければ相談がまとまらないやうな そんな愚劣な相談ならば もうはじめからしないがいゝ われわれは生きてぴんぴんした魂と魂 そのかゞやいた眼と眼を見合せ たがひに争ひまた笑ふのだ じつにいまわれわれの前には 新らしい世界がひらけてゐる 一つができればそれが土台で次ができる (本文終了) 宮沢賢治全詩集【電子書籍】[ 宮沢賢治 ]価格:100円 (2021/8/22時点)楽天で購入 #宮沢賢治 #藤根禁酒会に贈る #杉山式 #水稲 #干ばつ #鉄道
2021.08.22
コメント(0)
1927(昭和2)年8月20日に書かれた、大雨と水稲の倒伏を描いた作品群のひとつです。 自分が肥料設計した水稲が倒伏し、農家の冷たい視線に落ち込んでいます。 経済が厳しいなかで、自然災害にまで襲われ、「もう村村も町々も、/衰えるだけ衰へつくし」ていく姿を想像しています。 (本文開始) 倒れかかった稲のあひだで ある眼は白く忿ってゐたし ある眼はさびしく正視を避けた ……そして結局たづねるさきは 地べたについたそのまっ黒な雲のなか…… あゝむらさきのいなづまが みちの粘土をかすめれば 一すじかすかなせゝらぎは わだちのあとをはしってゐる それもたちまち風が吹いて 稲がいちめんまたしんしんとくらくなって あっちもこっちも ごろごろまはるからの水車だ ……幾重の松の林のはてで うづまく黒い雲のなか そこの小さな石に座って もう村村も町々も、 衰へるだけ衰へつくし、 うごくも云ふもできなくなる たゞそのことを考へやう…… 百万遍の石塚に 巫戯化た柳が一本立つ (本文終了) 宮沢賢治全詩集【電子書籍】[ 宮沢賢治 ]価格:100円 (2021/8/19時点)楽天で購入 #宮沢賢治 #水稲 #倒伏 #大雨 #ヤナギ
2021.08.21
コメント(0)
以前、ご紹介した詩ですが、大雨の被害から農作物が立ち直ることを願って再掲します。 宮沢賢治 作 「和風は河谷いっぱいに吹く」八月版草稿形 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202107150000/ 実際は、稲が倒伏から回復する可能性は7月のほうが高いです。下記の7月の作品のほうがより現実に近いと考えられます。 宮沢賢治 作 「南からまた西南から」倒伏した稲が起き上がった https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202107140000/ また、同じ日の1927(昭和2)年8月20日に書かれた作品群と天候状況に大きな違いがあります。 それだけに、この作品には、こうあってほしいという、賢治の強い願いがこめられていように思われます。 (本文開始) 一〇二一 和風は河谷いっぱいに吹く 一九二七、八、二〇、 たうたう稲は起きた まったくのいきもの まったくの精巧な機械 稲がそろって起きてゐる 雨のあひだまってゐた穎は いま小さな白い花をひらめかし しづかな飴いろの日だまりの上を 赤いとんぼもすうすう飛ぶ あゝ 南からまた西南から 和風は河谷いっぱいに吹いて 汗にまみれたシャツも乾けば 熱した額やまぶたも冷える あらゆる辛苦の結果から 七月稲はよく分蘖し 豊かな秋を示してゐたが この八月のなかばのうちに 十二の赤い朝焼けと 湿度九〇の六日を数へ 茎稈弱く徒長して 穂も出し花もつけながら、 ついに昨日のはげしい雨に 次から次と倒れてしまひ うへには雨のしぶきのなかに とむらふやうなつめたい霧が 倒れた稲を被ってゐた あゝ自然はあんまり意外で そしてあんまり正直だ 百に一つなからうと思った あんな恐ろしい開花期の雨は もうまっかうからやって来て 力を入れたほどのものを みんなばたばた倒してしまった その代りには 十に一つも起きれまいと思ってゐたものが わづかの苗のつくり方のちがひや 燐酸のやり方のために 今日はそろってみな起きてゐる 森で埋めた地平線から 青くかゞやく死火山列から 風はいちめん稲田をわたり また栗の葉をかゞやかし いまさわやかな蒸散と 透明な汁液(サップ)の移転 あゝわれわれは曠野のなかに 芦とも見えるまで逞ましくさやぐ稲田のなかに 素朴なむかしの神々のやうに べんぶしてもべんぶしても足りない (本文終了) #宮沢賢治 #和風は河谷いっぱいに吹く #水稲 #倒伏
2021.08.20
コメント(0)
1927(昭和2)年8月10日と20日の作品群は、現実の岩手県を舞台に、水稲の倒伏などの大雨被害を扱っています。 いっぽう、8月16日に書かれたこの作品は、やはり水稲の倒伏を扱っているものの、舞台は空想のイーハトーブです。 あまりにつらい農業災害から現実逃避したくなったのかもしれません。 賢治は、現実でもダリヤ品評会の審査員をつとめていますが、時期は、例年9月下旬のことが多いようです。この時期に実際にダリヤ品評会があったのではないようです。 審査対象のダリヤは土に植えられているのではなく、「気圏」から取られて、「第四次限」に軌跡を刻む、不思議な花です。 1つ目の花は新たな時代を表します。賢治が支援して弾圧された労農党、クリスチャン、農業教育者が登場します。 2つ目の花は、歴史や伝統美を表すようです。支那(中国)、岩手県遠野、シルクロードのヤルカンド、といった歴史ある地名がでてきます。 3つ目の花は炎です。時期的にお盆の迎え火、送り火を連想させます。 (本文開始) 一〇八六 ダリヤ品評会席上 一九二七、八、十六、 西暦一千九百二十七年に於る 当イーハトーボ地方の夏は この世紀に入ってから曾って見ないほどの 恐ろしい石竹いろと湿潤さとを示しました 為に当地方での主作物 oryza sativa 稲、あの青い槍の穂は 常年に比し既に四割も徒長を来し そのあるものは既に倒れてまた起きず あるものは花なく白き空穂を得ました またかの六角シェバリエー、 芒うつくしい Horadium 大麦の類の穂は 畑地のなかで或は脱落或は穂のまゝ発芽を来し そのとりいれはげにも心せはしくあはたゞしいかぎりでありました これらのすき間を埋めるために 諸氏は同じく湿潤にして高温な 気層のなかから、 四百の異るラムプの種類、 Dahlia variaviris の花を集めて この色淡い凝灰岩の建物の 石英燈の照明と浸液アルコールのかほりの中 窓よりは遥かに熱帯風の赤い門火の列をのぞみ 白いリネンで覆はれた卓につらねて その花の品位を われら公衆の投票に問はれました すでに得点は数へられ その品等は定められたのであります故に いまわたくしの嗜好をはなれ これらの花が何故然く大なる点を得たのであるか その原因を考へまする 第百一号これはまことに二位を得たのでありますが かつその形はありふれたデコラチーブでありますが 更にし細にその色を看よ そは何色と名づけるべきか 赤、黄、白、黒、紫 褐のあらゆるものをとかしつつ ひとり黎明のごとくゆるやかにかなしく思索する この花にもしそが望む大なる爆発を許すとすれば 或ひは新たな巨きな科学のしばらく許す水銀いろか 或ひは新たな巨大な信仰のその未知な情熱の色か 容易に予期を許さぬのであります まことにこの花に対する投票者を検しましても 真しなる労農党の委員諸氏 法科並びに宗教大学の学生諸君から クリスチャンT氏農学校長N氏を連ねて 云はゞ一千九百二十年代の 新たに来るべき世界に対する 希望の象徴としてこの花を見たのであります これに次では 第百四十 これは何たるつゝましく やさしい支那の歌妓であらう それは焦るゝ葡萄紅なる情熱を 各カクタスの瓣の基部にひそめて よぢれた花の尖端は 伝統による奇怪な歌詞を叙べるのであります 更にその雪白にして尖端に至って寧ろ見えざる水色を示すものは その情熱の清い昇華を示すものであります もしこの町が 未だに近代文明によって而く混乱せられざる 遠野或いはヤルカンドであらば 恐らくこの花が一位の投票を得たでありませう 更に深赤第三百五、 この花こそはかの窓の外 今宵門並に燃す熱帯インダス地方 たえず動ける赤い火輪を示します 最後に一言重ねますれば 今日の投票を得たる花には 一も完成されたるものがないのであります 完成されざるがまゝにそは次次に分解し すでに今夕は花もその瓣の尖端を酸素に冒され 茲数日のうちには消えると思はれますが すでに今日まで第四次限のなかに 可成な軌跡を刻み来ったものであります (本文終了) 宮沢賢治全詩集【電子書籍】[ 宮沢賢治 ]価格:100円 (2021/8/18時点)楽天で購入 #宮沢賢治 #水稲 #倒伏 #大麦 #ダリヤ
2021.08.19
コメント(0)
宮沢賢治を悩ませた、1927(昭和2)年8月の岩手県の豪雨について調べます。 気象庁 ホーム 各種データ・資料 過去の気象データ・ダウンロード https://www.data.jma.go.jp/gmd/risk/obsdl/index.php 8月第1半旬(8/1~5)と8月第6半旬(8/26~31)に平年を超える降水量が観測されています。 作品群が書かれた、8/10と8/20とは、少し時期がずれています。 盛岡のデータなので、花巻とは降雨時期が数日ずれたのかもしれません。 降雨と執筆の日付にずれがあるのかもしれません。 ただ、この時期に大雨があったことは確かです。 #宮沢賢治 #大雨 #気象庁
2021.08.18
コメント(0)
1927(昭和2)年8月20日に書かれた、水稲倒伏、道迷い、農家副業、に関係する作品群を、晩年に文語詩としたものです。 時間をおいて、表現形式をかえて、当初の作品より冷静になっているようです。 それでも、副業収入では、農家所得の減少を十分補うことができなかった無念さは、晩年まで賢治の心に残っていたようです。 (本文開始) 副業 雨降りしぶくひるすぎを 青きさゝげの籠とりて 巨利を獲るてふ副業の 銀毛兎に餌すなり 兎はついにまにあはね ひとは頬あかく美しければ べっ甲ゴムの長靴や 緑のシャツも着たるなり (本文終了) 宮沢賢治全詩集【電子書籍】[ 宮沢賢治 ]価格:100円 (2021/8/17時点)楽天で購入 #宮沢賢治 #副業
2021.08.17
コメント(0)
1927(昭和2)8月20日の水稲倒伏に関する作品群をご紹介しています。 本作「祈り」では、農家経営、所得、に関する懸念が描かれています。 借金して化学肥料を買って、苦しい経営をしている農家を見た体験が、のちの石灰工場時代の安価な石灰と自給有機肥料中心の施肥設計につながったのかもしれません。 (本文開始) 一〇八八 祈り 一九二七、八、二〇、 倒れた稲を追ひかけて これからもまだ降るといふのか 一冬鉄道工夫に出たり 身を切るやうな利金を借りて やうやく肥料もした稲を まだくしゃくしゃに潰さなければならぬのか 電気会社が ひなかも点すこのそらのいろ 田ごとにしめも張り亘し かながらの幣さへたてゝ 稔りある秋を待つのに 無心に暗い雨ぐもよ (本文終了) 宮沢賢治全詩集【電子書籍】[ 宮沢賢治 ]価格:100円 (2021/8/16時点)楽天で購入 #宮沢賢治 #祈り #水稲 #倒伏
2021.08.16
コメント(0)
「雨中謝辞」からはじまる、1927(昭和2)年8月20日の作品群のひとつです。 豪雨による水稲の倒伏に苦しめられた10日後、賢治が投影された主人公は、農村を迷い歩き、知人の親戚がウサギ飼育の副業に取り組んでいるようすを見ました。 しかし、そうした新しい取り組みも、厳しい自然災害や、不在地主に取られる高い小作料を補うには、「間に合はない」現実がありました。 (本文開始) このひどい雨のなかで しづかに兎を飼ってゐる いゝ兎なので 顔の銀いろなのもあり めじろのやうになくのもある そしてパチパチさゝげをたべる けれどもこれも間に合はない 間に合はないと云ったところで ああいふふうに若くて 頬もあかるく 髪もちゞれて黒いとなれば べっかうゴムの長靴もはき オリーヴいろの縮みのシャツも買って着る そしてにがにがわらってゐる かぐらのめんのやうなところがある なにをやっても間にあはない その親愛な仲間のひとりだ くらく垂れた桑の林の向ふで 南のそらが灰いろにひかる (本文終了) 宮沢賢治全詩集【電子書籍】[ 宮沢賢治 ]価格:100円 (2021/8/15時点)楽天で購入 #宮沢賢治 #このひどい雨の中で #ウサギ
2021.08.15
コメント(0)
1927(昭和2)年8月20日の作品群をご紹介しています。 水稲の倒伏に苦しめられ、農村で道に迷う賢治です。 最初に書かれた「雨中謝辞」は、道に迷う部分と、農村の副収入が「間に合はない」ことを嘆く部分からできていました。 宮沢賢治 作 「雨中謝辞」稲の倒伏、間に合わない副業収入、道に迷う賢治 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202108130000/ 本作では、道に迷う部分だけに絞っています。また、表現を追加しています。より心細い感じが強まっています。 目の見えない老人という新たな人物が登場します。 (本文開始) 一〇八九 一九二七、八、二〇、 二時がこんなに暗いのは 時計も雨でいっぱいなのか 本街道をはなれてからは みちは烈しく倒れた稲や 陰気なひばの木立の影を めぐってめぐってこゝまで来たが 里程にしてはまだそんなにもあるいてゐない そしていったいおれのたづねて行くさきは 地べたについた北のけはしい雨雲だ、 こゝの野原の土から生えて こゝの野原の光と風と土とにまぶれ 老いて盲いた大先達は なかばは苔に埋もれて そこでしづかにこの雨を聴く またいなびかり、 林を嘗めて行き過ぎる、 雷がまだ鳴り出さないに、 あっちもこっちも、 気狂ひみたいにごろごろまはるから水車 ハックニー馬の尻ぽのやうに 青い柳が一本立つ (本文終了) 宮沢賢治全詩集【電子書籍】[ 宮沢賢治 ]価格:100円 (2021/8/14時点)楽天で購入 #宮沢賢治 #二時がこんなに暗いのは #水稲 #倒伏
2021.08.14
コメント(0)
水稲の倒伏を描いた詩の10日後、1927(昭和2)年8月20日の作品です。 水稲だけでなく、木や草も倒れ、雷雨が続くなか、道に迷い、目的の家を探してさまよっています。 稗貫農学校を卒業後、稗貫農学校助手、花巻共立病院レントゲン技手として働いていた、高橋忠治の家を訪問しようとして、そのいとこに道を教えてもらっているものと思われます。 ウサギ飼育は、毛皮が軍用防寒具の材料となり、肉はソーセージ等の原料となるため、この当時の農家の副業として人気がありました。賢治も農家にすすめていました。 そうしたささやかな副業の努力も、水稲の倒伏のような自然の脅威や、高い小作料、安い米価といった大きな社会問題に対しては、「間に合はない」と嘆いたものと思われます。 また、賢治からみて、近代的な副業に熱心に取り組んでいる高橋のいとこのような農家青年も、わらじを作るような伝統的な副業が高く評価される農村では、「のらくらもの」と言われてしまうことは、賢治自身への批判のように感じられたのかもしれません。 (本文開始) 一〇八九 ◎雨中謝辞 八、二〇、 路が野原や田圃のなかへ 幾本にも斯う岐れてしまった上は もうどうしてもこの家で訊くより仕方ない 何といふ陰気な細い入口だらう ひばだの桑だの倒れかかったすゝきだの おまけにそれがどしゃどしゃぬれて まるであらゆる人を恐れて棲んでるやうだ 雨のしろびかりのなかの 小さな萓の家のなかに 小さな萓家の座敷のなかに 子供をだいて女がひとりねそべってゐる そのだらしない乳房やうちわ 蠅と暗さと、 女は何か面倒さうに向ふを向く 病院のレントゲンに出てゐた高橋君の…… おれはほとんど上の空で訊いてゐる ◎ 何をやっても間に合はない 世界ぜんたい間に合はない その親愛な仲間のひとり また稲びかり 雑誌を読んで兎を飼って その兎の眼が赤くうるんで 草もたべれば小鳥みたいに啼きもする 何といふ北の暗さだ また一ぺんに叩くのだらう さうしてそれも間に合はない 貧しい小屋の軒下に 自分で作った巣箱に入れて 兎が十もならんでゐた もうここまででも みちは倒れた稲の中だの 陰気なひばやすぎの影だの まがってまがって来たのだが あっちもこっちも気狂みたいに ごろごろまはる水車の中を まがってまがって来たのだが 外套のかたちした オリーブいろの縮のシャツに 長靴をはき 頬のあかるいその青年が 裏の方から走って来て はげしい雨にぬれながら わたくしの訪ねる家を教へた わたくしが訪ねるその人と 縮れた髪も眼も物云ひもそっくりな その人が わたくしを知ってるやうにわらひながら 詳しくみちを教へてくれた ああ家の中は暗くて藁を打つ気持にもなれず 雨のなかを表に出れば兎はなかず 所在ない所在ないそのひとよ きっとわたくしの訪ねる者が 笑っていふにちがひない 「あゝ 従兄(いとこ)すか。 さっぱり仕事稼がなぃで のらくらもので。」 世界ぜんたい何をやっても間に合はない その親愛な近代文明と新な文化の過渡期のひとよ。 (本文終了) 宮沢賢治全詩集【電子書籍】[ 宮沢賢治 ]価格:100円 (2021/8/13時点)楽天で購入 #宮沢賢治 #雨中謝辞 #水稲 #倒伏 #ウサギ
2021.08.13
コメント(0)
1927(昭和2)年8月20日の、水稲の倒伏を描いた一連の作品の、最後に書かれた詩です。 代表作「もうはたらくな」の熱い感情にくらべて、冷たい諦めの気持ちが目立ちます。 また、被害の状況を冷静に分析して、翌年の肥料設計に活かそうという姿勢があらわれています。 (本文開始) 降る雨はふるし 倒れる稲はたほれる たとへ百分の一しかない蓋然が いま眼の前にあらはれて どういふ結果にならうとも おれはどこへも遁げられない ……春にはのぞみの列とも見え 恋愛そのものとさへ考へられた 鼠いろしたその雲の群…… もうレーキなどほうり出して、 かういふ開花期に 続けて降った百ミリの雨が どの設計をどう倒すか 眼を大きくして見てあるけ たくさんのこわばった顔や 非難するはげしい眼に 保険をとっても辨償すると答へてあるけ (本文終了) 宮沢賢治全詩集【電子書籍】[ 宮沢賢治 ]価格:100円 (2021/8/12時点)楽天で購入 #宮沢賢治 #降る雨はふるし #水稲 #倒伏
2021.08.12
コメント(0)
1927(昭和2)年8月20日の水稲の倒伏を描いた一連の詩の代表作が、この「もうはたらくな」です。 前回、ご紹介した「ぢしばりの蔓」とくらべて、やや表現が穏やかに、やや分析的になっています。 宮沢賢治 作 「ぢしばりの蔓」8月の豪雨と倒伏。保険金での弁償。 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202108100000/ 前作「ぢしばりの蔓」では、 「おれの教へた稲」となっていた部分が、 本作では、 「おれが肥料を設計し/責任のあるみんなの稲が」 と、謙虚な表現になっています。 「夜明けの雷雨が」と簡素だった部分が、本作では、「この半月の曇天と/今朝のはげしい雷雨のために」とより詳細に倒伏の原因を分析しています。 「働くことが却って卑怯なときもある」の部分が、 「働くことの卑怯なときが/工場ばかりにあるのでない」とかわりました。 この時代流行した工場労働者を描いたプロレタリア文学と、都会の読者を意識したのかもしれません。 (本文開始) 一〇八八 一九二七、八、二〇、 もうはたらくな レーキを投げろ この半月の曇天と 今朝のはげしい雷雨のために おれが肥料を設計し 責任のあるみんなの稲が 次から次と倒れたのだ 稲が次々倒れたのだ 働くことの卑怯なときが 工場ばかりにあるのでない ことにむちゃくちゃはたらいて 不安をまぎらかさうとする、 卑しいことだ ……けれどもあゝまたあたらしく 西には黒い死の群像が湧きあがる 春にはそれは、 恋愛自身とさへも云ひ 考へられてゐたではないか…… さあ一ぺん帰って 測候所へ電話をかけ すっかりぬれる支度をし 頭を堅く縄(しば)って出て 青ざめてこわばったたくさんの顔に 一人づつぶっつかって 火のついたやうにはげまして行け どんな手段を用ひても 辨償すると答へてあるけ (本文終了) 宮沢賢治全詩集【電子書籍】[ 宮沢賢治 ]価格:100円 (2021/8/11時点)楽天で購入 #宮沢賢治 #ぢしばりの蔓 #もうはたらくな #水稲 #倒伏
2021.08.11
コメント(0)
8月になり、水稲の草丈が伸び、穂が出ると、重心が高くなり、倒伏の危険があります。 倒伏を描いた詩は、「もうはたらくな」が有名ですが、この「ぢしばりの蔓」はそのもととなった作品です。 「死んでとれる保険金」で「弁償」とは、ぶっそうな表現ですが、責任を感じて必死に働く賢治の姿が見えるようです。 (本文開始) 一〇八七 一九二七、八、二〇、 ……ぢしばりの蔓…… もう働くな 働くことが却って卑怯なときもある 夜明けの雷雨が おれの教へた稲をあちこち倒したために こんなにめちゃくちゃはたらいて 不安をまぎらさうとしてゐるのだ ……あゝけれども またあたらしく 西には黒い死の群像が浮きあがる 春には春には それは明るい恋愛自身だったでないか…… さあ 帰ってすっかりぬれる支度をし 切できちっと頭を縄って出て 青ざめて こはばったたくさんの顔に 一人づつぶっつかって 火のついたやうにはげましてあるけ 穫れない分は辨償すると答へてあるけ 死んでとれる保険金をその人たちにぶっつけてあるけ (本文終了) 宮沢賢治全詩集【電子書籍】[ 宮沢賢治 ]価格:100円 (2021/8/10時点)楽天で購入 #宮沢賢治 #ぢしばりの蔓 #もうはたらくな #水稲 #倒伏
2021.08.10
コメント(0)
前回ご紹介した、詩「増水」の続きと思われる詩「白菜はもう」です。 宮沢賢治 作 「増水」水害に襲われる賢治の畑 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202108080000/ 大豆の葉は毛が多く、そこに空気を貯めるので、水に沈むと光を反射して、銀色にみえます。 増水した川に石を投げる農民、「封介」の行動が、「増水」より詳しく描かれています。 農民が「続けて五分もおこれない」とあるのは、世の中の大きな流れに対する農民の無力さ、賢治が支援した小作農の政治運動が弾圧に屈していったようすなどを連想させます。 増水して水害を起こす川は、ここでは、農民や農業技術者では対抗することのできない、戦争に向かう世の中の大きな流れを象徴しているかのようです。 (本文開始) 白菜はもう 三分の一やられたよ、 ……悪どい雲だ…… 鍬もながした ……大豆の葉が 水のなかで銀いろにひかってゐる…… おいおい封介 どなって石をなげつけたって ……この温い黄いろな水だ…… 来るところまでは来るよ ……いくら封介が黒く肩を張ってどなったところで 水の方は、 雲から風からひとから地物から、 すっかり連鎖になって、 きまってしまった巨きなもんだし 封介の方は、 やっといまびっくりして、 むらきにどなりだしただけだ 続けて五分もおこれない だからもう かたつむりの痕のやうにひかりながら うしろからも水がひたしてくるのだ…… (本文終了) 宮沢賢治全詩集【電子書籍】[ 宮沢賢治 ]価格:100円 (2021/8/9時点)楽天で購入 #宮沢賢治 #水害 #増水 #白菜
2021.08.09
コメント(0)
1928(昭和3)年8月に宮沢賢治は過労のため肺結核の症状が悪化して、自宅療養に入りました。 その前年、1927(昭和2)年の夏は、賢治は「むちゃくちゃに」働いたようです。 そんな賢治の畑を水害が襲ったようすです。 「田になった古川のあと」は、いわゆる旧河道です。肥沃な農地になりますが、水害に弱い土地です。 国土地理院「旧河道」 https://www.gsi.go.jp/CHIRIKYOUIKU/kawa_1-4-3.html 現代でも台風などで水害が頻繁に発生しています。低い土地の浸水に注意しましょう。 (本文開始) 七三〇ノ二 増水 一九二七、八、一五、 悪どく光る雲の下を 川は黄いろにひろがって もう古くさい土佐絵の波もたててゐる 川下からは 田になった古川のあとを ぢりぢり水があくってきて 豆のはたけはかくれてしまひ 桑のはたけももう半分はやられてしまひ かたつむりの痕のやうにひかりながら 島になって残った松の下の草地と 白菜ばたけも浸されさう 盛岡の方では まだまだ降ってゐるらしく 向ふ岸でも やぱりかういふ古川が 野菜ばたけをやってるらしい いつの間にどうして行ったのか その温い恐ろしい磯に 黒くうかんで誰か四五人立ってゐる 一人は網をもってゐる はゞきをはいて封介もゐる 封介がいま吠えるやうに叫んで その巨きな濁りの水に石を投げた (本文終了) 宮沢賢治全詩集【電子書籍】[ 宮沢賢治 ]価格:100円 (2021/8/8時点)楽天で購入 #宮沢賢治 #増水 #水害 #旧河道
2021.08.08
コメント(0)
1928(昭和3)年8月に肺結核を発症した宮沢賢治は、花巻共立病院佐藤隆房院長らの治療により、小康を得ました。 賢治は、佐藤隆房院長の新築祝いに、バラの苗を贈りました。 このバラが、賢治のバラとして、各地で栽培されていることは、前回ご紹介しました。 宮沢賢治が佐藤隆房院長に贈ったバラ「グルス・アン・テプリッツ」 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202108060000/ このバラが、全国のバラ愛好家に知られるようになったきっかけには、バラ育種家で「レジェンド」「ミスターローズ」といわれた、鈴木省三の活躍がありました。 鈴木省三 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E7%9C%81%E4%B8%89 鈴木省三は、1913年東京生まれ。賢治より17才年下です。賢治と直接の面識はなかったものと思われます。 しかし、若いころ肺の病気で苦しみ、園芸で心を救われた経験があることで、鈴木省三は、賢治に親近感を抱いていたようです。さらに、賢治設計施工の花壇を花巻温泉株式会社が取り壊して作ったバラ園の設計を鈴木省三が1956(昭和31)年に担当し、賢治の足跡を身近に感じていました。 花巻バラ会では、佐藤隆房院長から、賢治が贈ったバラを、寄贈されましたが、品種が不明でした。 そこで、花巻ともゆかりがあり、バラの第一人者であった鈴木省三に、その品種同定を依頼し、このバラが、グルス・アン・テプリッツであることが判明しました。 さらに、このグルス・アン・テプリッツは、鈴木省三の父が愛し、鈴木省三が初めて育てたバラだったそうで、鈴木省三と賢治の不思議な縁を感じさせます。 バラの物語 https://gardenstory.jp/stories/12146 バラ苗【6号新苗】グルスアンテプリッツ【日光】(Ch赤) 国産苗 6号鉢植え品《J-OB15》 0707販売価格:1980円(税込、送料別) (2021/8/7時点)楽天で購入 #宮沢賢治 #鈴木省三 #バラ #グルス・アン・テプリッツ
2021.08.07
コメント(0)
1928(昭和3)年8月に肺結核で自宅療養した宮沢賢治は、花巻共立病院の佐藤隆房院長らの治療により、小康を得ます。 治療のお礼の意味もあったのでしょう、賢治は、佐藤隆房院長の自宅新築祝いに、バラの苗を送りました。 グルス・アン・テプリッツという品種の、赤いバラです。 グルス・アン・テプリッツは、現在、賢治のバラとして、各地で栽培されています。 神奈川県平塚市(花巻市の友好都市)で咲く グルス・アン・テプリッツ http://www.city.hiratsuka.kanagawa.jp/koryu/page-c_00267.html バラ苗【6号新苗】グルスアンテプリッツ【日光】(Ch赤) 国産苗 6号鉢植え品《J-OB15》 0707販売価格:1980円(税込、送料別) (2021/8/5時点)楽天で購入 #宮沢賢治 #佐藤隆房 #花巻共立病院 #バラ #グルス・アン・テプリッツ
2021.08.06
コメント(0)
宮沢賢治は、1928(昭和3)年8月10日に結核による両側肺湿潤の診断を受け、自宅で花巻共立病院(現 総合花巻病院)の医師たちの治療をうけることとなりました。 賢治は、結核で倒れる前に、花巻共立病院の花壇を設計施工していました。 東京農産商会からヒアシンスを取り寄せたようです。1928(昭和3)年6月の東京旅行の手帳のメモにある、「農産商会」とは、ここのことかもしれません。 (本文開始) 病院の花壇 夜どほしの温い雨にも色あせず あんまり暗く薫りも高い この十六のヒアシンス まっ白な石灰岩の方形のなかへ 水いろと濃い空碧で すっきりとした折線を 二つ組まうとおもったのに 東京農産商会は このまっ黒な春の吊旗を送ってよこし みんなはむしろいぶかしさうにながめてゐる 今朝は截って 春の水を湛えたコップにさし 各科と事務所へ三つづつ 院長室へ一本配り こゝへは白いキャンデタフトを播きつけやう つめくさの芽もいちめんそろってのびだしたし 廊下の向ふで七面鳥は もいちどゴブルゴブルといふ 女学校ではピアノの音 にはかにかっと陽がさしてくる 鋏とコップをとりに行かう (本文終了) #宮沢賢治 #佐藤隆房 #病院の花壇 #花巻共立病院
2021.08.05
コメント(0)
宮沢賢治は、1928(昭和3)年8月10日に、肺結核の診断を受けて、羅須地人協会から実家に移り、自宅療養をはじめました。 6月の東京、伊豆大島旅行、7月の水田巡回などの過労と、羅須地人協会での不規則な生活などで体力が落ちたために発症し、自宅療養を余儀なくされました。 以上が定説となっています。 本人の手紙と、医師の著書も根拠となっています。 書簡243 1928(昭和3)年9月23日 沢里武治あて 封書 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202108010000/ 「八月十日から丁度四十日の間熱と汗に苦しみましたが、やっと昨日起きて湯にも入り、すっかりすがすがしくなりました。六月中東京へ出て毎夜三四時間しか睡らずつかれたまゝで、七月畑へ出たり村を歩いたり、だんだん無理が重なってこんなことになったのです。」 佐藤隆房 著 「宮沢賢治 素顔のわが友」より 1928(昭和3)年の肺結核発症の原因と症状 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202108030000/ 「昭和三年の八月、食事の不規則や、粗食や、また甚だしい過労などがたたって病気となり、たいした発熱があるというわけではなく、両側の肺浸潤という診断で病臥する身となりました。」 いっぽう、結核による自宅療養は、表向きの理由であって、実は警察等の追及を避けるための自宅謹慎であったという説があります。 宮沢賢治研究家の鈴木守氏が、ブログと著書で主張していらっしゃいます。 ブログ「みちのくの山野草」 「昭和3年8月、賢治実家にて「蟄居・謹慎」」 https://blog.goo.ne.jp/suzukishuhoku/e/1db6b5ca2e15a1b13c68f73084d08ae7 「昭和3年8月10日に賢治が実家に帰ったのは体調が悪かったからということよりは、「陸軍特別大演習」を前にして行われた特高等の凄まじい「アカ狩り」から逃れることがその主な理由であり、賢治は重病であるということにして実家にて蟄居・謹慎していた。」 #宮沢賢治 #佐藤隆房 #沢里武治 #書簡 #素顔のわが友 #鈴木守
2021.08.04
コメント(0)
佐藤長松医師とともに、宮沢賢治を治療した、花巻共立病院院長の佐藤隆房氏は、著書「宮沢賢治 素顔のわが友」で、賢治の結核の原因と症状について、次のように記しています。 (本文開始) 昭和三年の八月、食事の不規則や、粗食や、また甚だしい過労などがたたって病気となり、たいした発熱があるというわけではなく、両側の肺浸潤という診断で病臥する身となりました。 (本文終了) 賢治本人が手紙で書いていたとおり、実家を離れた羅須地人協会での不規則な生活や、東京、伊豆大島への旅行、水田巡回などの、過労が原因との診断です。 書簡243 1928(昭和3)年9月23日 沢里武治あて 封書 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202108010000/ 肺結核は、高熱ではなく微熱が続く症状のようです。軽い風邪かと放置していると、重症化してしまうようで注意が必要です。 宮沢賢治最新版 素顔のわが友 [ 佐藤隆房 ]価格:2860円(税込、送料無料) (2021/8/3時点)楽天で購入 #宮沢賢治 #佐藤隆房 #素顔のわが友
2021.08.03
コメント(0)
1928(昭和3)年8月10日、宮沢賢治は、花巻共立病院(現 総合花巻病院)内科医長佐藤長松博士の診察を受けました。診断は、肺結核による両側肺湿潤でした。 賢治は、6月に東京、伊豆大島を3週間旅行し、7月は花巻周辺の農村の水田を巡回していました。疲労が蓄積していたようで、7月20日には電車の停留所で倒れていました。 賢治は1922(大正11)年に最愛の妹トシを、肺結核で失っています。また、それ以前から賢治は熱を出すことがたびたびあり、自分は結核かもしれないと心配していました。かなり以前から結核菌が感染していたものと思われますが、体力のある賢治は、これまでは症状が軽かったものと思われます。賢治が正式に結核と診断されたのは、これが初めてです。 花巻共立病院は、移転した稗貫農学校の跡地に、賢治の父が協力して建設した病院でした。賢治自身も、この病院の花壇の設計施工をしています。 花巻共立病院院長の佐藤隆房氏は、のちに「宮沢賢治 素顔のわが友」を出版し、そのころのことを書き残しています。2012年にこの本は再販されており、図書館などで読むことができます。 「宮沢賢治 : 素顔のわが友 最新版」 https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000001-I023443864-00 宮沢賢治最新版 素顔のわが友 [ 佐藤隆房 ]価格:2860円(税込、送料無料) (2021/8/2時点)楽天で購入 #宮沢賢治 #佐藤長松 #佐藤隆房 #結核 #花巻共立病院 #総合花巻病院
2021.08.02
コメント(0)
宮沢賢治は、1928(昭和3)年6月に東京、伊豆大島方面を約三週間旅行し、7月は地元の水田巡回に取り組んでいましたが、7月20日に発熱し、8月10日に倒れました。 そのときの様子を、同年に花巻農学校を卒業し、師範学校に進学した教え子の沢里(旧姓高橋)武治あての手紙に、書いています。 (本文開始) 盛岡市外 岩手県立師範学校寄宿舎内 高橋武治様 八月廿三日 花巻 宮沢賢治 (引用者注:上記の封筒裏書の「八月」は、九月の誤記) お手紙ありがたく拝見しました。八月十日から丁度四十日の間熱と汗に苦しみましたが、やっと昨日起きて湯にも入り、すっかりすがすがしくなりました。六月中東京へ出て毎夜三四時間しか睡らずつかれたまゝで、七月畑へ出たり村を歩いたり、だんだん無理が重なってこんなことになったのです。 演習が終るころにはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかゝります。休み中二度もお訪ねくだすったさうでまことに済みませんでした。豊沢町に居ることを黒板に書いて置けばよかったとしきりに考へました。こんど出るときは大体葉書を出してください。学校ももう少しでせうがオルガンなどやる暇もありますか。どうかお身体を大切に折角ご勉強ください。まづはお礼乍ら、 柳原君へも別に書きます。 九月廿三日 宮沢賢治 高橋武治様 (本文終了) 宮沢賢治全集 9価格:1210円(税込、送料別) (2021/8/1時点)楽天で購入 #宮沢賢治 #沢里武治 #高橋武治 #手紙 #書簡
2021.08.01
コメント(0)
宮沢賢治から教え子の菊池信一あての手紙を読み解き、賢治の考えや、当時の農業技術について考えます。 書簡239 「1928年7月3日 菊池信一あて封書」 倒れる前の賢治の予定 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202107250000/ 「もしお仕事のすきまにおいでになれるならお待ちして居ります。葉書をさきにお出しください。」 前年の詩「もうはたらくな」で「さあ一ぺん帰って測候所へ電話をかけ 」とあるとおり、宮澤家には電話があったと思われます。しかし、当時の電話は、災害や急病などの非常時に使うもので、葉書で連絡をとりあうのが普通だったのでしょう。 昭和2年ごろの電話加入料金は1220円、年間基本料金が45円でした。公衆電話料金は3分で5銭(0.05円)でした。 一方、葉書は1銭5厘(0.015円)でした。 「肥料の本もそのときはお返しいたせます。一番除草でお忙しいでせうが折角お身体大切に。 まづは。」 当時は水田除草剤がありません。6月5~20日ころに田植えを行ったあとに10~14日ごとに3回中耕除草を行っていました。 大農家であった菊池家では、手押し式の人力除草機を使い、7月3日ころは、まだ、1回目の除草作業が終わっていなかったと思われます。 1928(昭和3)7月3日の年菊池信一への書簡の読み解きは、今回で終了です。 今後は、1928(昭和3)年7月20日に発熱し、8月10日に倒れたころの賢治について、調べてみます。 宮沢賢治全集 9価格:1210円(税込、送料別) (2021/7/31時点)楽天で購入 #宮沢賢治 #菊池信一 #書簡 #手紙
2021.07.31
コメント(0)
宮沢賢治から教え子の菊池信一あての手紙を読み解き、賢治の考えや、当時の農業技術について考えます。 書簡239 「1928年7月3日 菊池信一あて封書」 倒れる前の賢治の予定 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202107250000/ 本ブログは、いつもは資料に基づいて考察しますが、今回は、資料が未発見なので、妄想に近いことをご了承ください。 前回、ご紹介したとおり、1928(昭和3)年6月19日、20日のメモから、賢治が農林省を訪問した可能性があります。 正確には、「農商ム省」とメモされていますが、1925(大正14)年に農商務省は、農林省と商工省に改組されていますので、誤記と思われます。 さて、ここからは妄想です。 二つの可能性を想像してみます。 一つは、手紙に「技術者たちといっしょに働いて」とあるように、農林省の技術者に会って、最新の農業技術などについて情報交換した可能性です。 二つは、賢治と農林省の官僚が、農地解放について、情報交換した可能性です。 農地解放は、戦後、GHQ(連合国総司令部)の指示により、大地主の農地を、小作人に安く売り自作農を育てた政策として有名です。 しかし、農林省は、戦前から農地解放を計画していました。地主が高い小作料を取るため、小作農は、化学肥料も農薬も農業機械も新しい品種も買えず、農林省が理想とする先進的農業が普及できなかったため、地主制度を改革したいと考えていました。 しかし、警察は社会の変化を恐れ、農林省の動向に目を光らせていました。賢治の死後になりますが、社会主義者の疑いで農林省の官僚を逮捕する事件も起きています。 一方、賢治も、羅須地人協会で化学肥料の使用を普及したり、社会主義政党労農党員の小作農を集めて無料肥料相談会を開いたり、活動資金をカンパしたりしていました。警察の取り調べを受けてもいます。 賢治が農林省官僚に連絡し、農地解放、小作人待遇改善について、話し合い、警察を恐れて、資料はすべて破棄した。そのため、資料が現存しない。 そんな妄想を楽しんでみました。 次回は、菊池信一書簡の最終回です。 #宮沢賢治 #菊池信一 #書簡 #手紙 #農林省 #農地解放 #労農党
2021.07.30
コメント(0)
宮沢賢治から教え子の菊池信一あての手紙を読み解き、賢治の考えや、当時の農業技術について考えます。 書簡239 「1928年7月3日 菊池信一あて封書」 倒れる前の賢治の予定 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202107250000/ 「約三週間ほど先進地の技術者たちといっしょに働いて来ました。」 賢治は、1928(昭和3)年6月7日に花巻を出発し、仙台、伊豆大島、東京を中心にまわり、6月24日ごろ帰郷しました。このときのことを書いたのだろうと思われます。 手紙や手帳からどんな技術者とどのような交流をしたのか、探ります。 6月7日の宮城県仙台市では、東北産業博覧会を見学しています。主に水産加工品について見学したようですが、先進地の技術者と接触したかどうかわかりません。 また、東北帝国大学も見学しましたが、文学部の教授と知り合いになったようですが、技術者との接触は記録にありません。 6月8日は茨城県水戸市の茨城県立農事試験場を見学しています。このとき茨城県の農業技術者と交流した可能性があります。 6月12日に、父にスルメの加工法について自分でも充分やれる確信がついた、と東京から手紙を書きました。このころ水産加工技術者と交流した可能性があります。 6月12日から6月14日ころの3日間、伊豆大島で農芸学校設立準備中の伊藤七雄を訪問し、一緒に農作業をし、これからの農業について語り合いました。 宮沢賢治 作 「三原 第二部」3 種まきについて語る賢治 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202107010000/ 6月17日の手帳に「農産商会及花の用」と書かれています。農産物卸売業で働く技術者や、園芸技術者と接触したのかもしれません。残念ながら詳細は不明です。 6月19日、20日の手帳から、農林省、西ヶ原農事試験場(現在の東京都北区にあった国立研究施設)を訪問した可能性があります。残念ながら詳細は不明です。 このころの東京周辺での賢治の行動には未解明のことが多くあります。羅須地人協会の活動が警察にマークされていたので、友人知人に迷惑をかけることを恐れて、詳細な記録を残さなかったのかもしれません。面会相手の日記などの資料の発見が待たれます。 #宮沢賢治 #菊池信一 #書簡 #手紙 #伊藤七雄 #茨城県 #東北大学 #スルメ #伊豆大島 #東京都 #西ヶ原 #農林省
2021.07.29
コメント(0)
宮沢賢治から教え子の菊池信一あての手紙を読み解き、賢治の考えや、当時の農業技術について考えます。 書簡239 「1928年7月3日 菊池信一あて封書」 倒れる前の賢治の予定 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202107250000/ 「すっかり稲の形が定まってからのことにして」 現代農業であれば、稲の形が定まる前に、いろいろ打つ手があります。生育不足なら追肥をするとか、生育過剰なら倒伏軽減剤もあります。 しかし、基肥重視のこの時代の稲作では、生育不足でも基肥が利くのを待つしかありませんし、生育過剰でも葉をむしるくらいしか対策がありません。 「来年の見当をつけるだけのことにしようと思ひます。」 賢治は、ことしの対策はあきらめて、稲を見ながら、来年の基肥量などを話し合う巡回相談に切り換えるつもりだったようです。 「お手数でも訊かれたらどうかさうご返事願ひます。」 上記のような基本方針を伝えて、農家からの問い合わせに対して、回答を菊池に任せたようです。賢治の肥料相談所の助手のような仕事をしていた菊池信一に対する、深い信頼が感じられます。 前年1927(昭和2)年の賢治は、自然と天候に抗い、「むちゃくちゃ」に働いていたようです。1927(昭和2)年8月20日の詩「もうはたらくな」では「おれが肥料を設計し/責任のあるみんなの稲が/次から次と倒れたのだ/稲が次々倒れたのだ/働くことの卑怯なときが/工場ばかりにあるのでない/ことにむちゃくちゃはたらいて/不安をまぎらかさうとする、/卑しいことだ」と書いていました。 前年の1927(昭和2)年の7月8月にむちゃくちゃに働いてみて、大自然の力に対して、当時の科学と人間の無力さを感じて、この年、1928(昭和3)年の賢治は、ある種の諦観の境地にあったのかもしれません。 しかし、結局は1928年も積極的に水田を巡回し、7月20日には発熱して停留所で倒れてしまいます。 宮沢賢治 作 「停留所にてスヰトンを喫す」(初期形) https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202107210000/ 宮沢賢治全集 9/宮沢賢治【3000円以上送料無料】価格:1210円(税込、送料別) (2021/7/27時点)楽天で購入 #宮沢賢治 #菊池信一 #書簡 #手紙
2021.07.28
コメント(0)
宮沢賢治から教え子の菊池信一あての手紙を読み解き、賢治の考えや、当時の農業技術について考えます。 書簡239 「1928年7月3日 菊池信一あて封書」 倒れる前の賢治の予定 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202107250000/ 「それで約束の村をまはる方は却って七月下旬乃至八月中旬すっかり稲の形が定まってからのことにして」 賢治の肥料相談所の助手のような立場であった菊池信一と、村を巡回する約束をしていたようです。 現代の稲作理論では、7月中下旬の幼穂形成期は追肥を判断する極めて重要な時期です。7月下旬ないし8月中旬というあいまいな時期の指定はありえません。 前回考察したように、基肥の吸収が遅れているために、賢治は追肥をしない方針だったようで、打つ手も無いので、巡回を送らせる考えのようです。 現代では基肥が遅く利きすぎて、草丈が延びすぎた場合には、倒伏軽減剤という茎が延びるのを抑える農薬があります。その散布の診断がありますので、追肥の予定がなくても7月中下旬の巡回は必ず行います。 賢治の時代では伸びすぎた稲は、葉をむしるくらいしか対策がありませんでした。「稲作挿話」で「斯ういふ風な枝垂れ葉をねえ/むしつて除つてしまふんだ」「ちようどシヤツの上のぼたんを定規にしてねえ/葉尖をとつてしまふんだ」と表現されています。 宮沢賢治 作 「稲作挿話(未定稿)」(発表形) https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202107100000/ 宮沢賢治全詩集【電子書籍】[ 宮沢賢治 ]価格:100円 (2021/7/26時点)楽天で購入 #宮沢賢治 #菊池信一 #書簡 #手紙
2021.07.27
コメント(0)
昨日は、宮沢賢治から教え子の菊池信一あての手紙を紹介しました。 書簡239 「1928年7月3日 菊池信一あて封書」 倒れる前の賢治の予定 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202107250000/ この手紙を読み解いていきます。 当時の農業技術や賢治の考えを垣間見ることができます。 「肥料の本を自働車に頼んで置いてそれがしばらく盛岡行をやめて届かなかったのでまだ手許にあります」 「肥料の本もそのときはお返しいたせます。」 賢治は、菊池信一から肥料の本を借りていたようです。賢治は農業関係の多数の蔵書を持っていたことで知られています。教え子から本を借りていたとは意外な気がします。菊池が賢治の教えを受けてよく勉強していたことの現れなのでしょう。 「ちゃうど追肥を調べる時季ですが」 「追肥だけはみんなやらないことにしようと思ひます。どの肥料もまだ殆んど利いてゐないのです。」 1950年代に松島省三博士が現代の水稲追肥理論を完成させるまで、近代稲作は基肥重視でした。 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202012130001/ 基肥重視には、初期生育を促すよい面があります。いっぽう、なかなか肥料が利かない場合、稲の草丈が延びすぎになりがちな7月上中旬になってから肥料が利きはじめる恐れがあります。草丈の延びすぎは倒伏につながります。この時期の賢治の詩には稲の倒伏に関するものが多くみられます。 宮沢賢治全集 9価格:1210円(税込、送料別) (2021/7/26時点)楽天で購入 #宮沢賢治 #菊池信一 #書簡
2021.07.26
コメント(0)
宮沢賢治は、1928(昭和3)年6月に、伊豆大島、東京方面を旅行し、同年7月初めに岩手県花巻に帰郷。花巻周辺の水田を巡回し肥料相談を行います。7月20日ごろから発熱し、8月10日に肺結核で倒れます。 このころの本来の予定を、教え子の青年農家の菊池信一あて書簡で書いています。 (本文開始) 石鳥谷駅前 菊池信一様 平安 七月三日 宮沢賢治 お変りありませんか。先日は結構なものをまことにありがたう。肥料の本を自働車に頼んで置いてそれがしばらく盛岡行をやめて届かなかったのでまだ手許にあります。ちゃうど追肥を調べる時季ですが 今年はこの通りの天候でとてもさきの見当もつきませんし 心配なことは少しもありませんが 追肥だけはみんなやらないことにしようと思ひます。どの肥料もまだ殆んど利いてゐないのです。それで約束の村をまはる方は却って七月下旬乃至八月中旬すっかり稲の形が定まってからのことにして来年の見当をつけるだけのことにしようと思ひます。お手数でも訊かれたらどうかさうご返事願ひます。約三週間ほど先進地の技術者たちといっしょに働いて来ました。もしお仕事のすきまにおいでになれるならお待ちして居ります。葉書をさきにお出しください。肥料の本もそのときはお返しいたせます。一番除草でお忙しいでせうが折角お身体大切に。 まづは。 七月三日 (本文終了) 宮沢賢治全集 9価格:1210円(税込、送料別) (2021/7/25時点)楽天で購入 #宮沢賢治 #菊池信一 #書簡
2021.07.25
コメント(0)
春に平均にムラなくまいた基肥が切れてきて、この時期の水田では地力ムラが稲の葉色のムラとなって現れます。 現代では前年の葉色ムラをドローンで記録して、翌年の施肥量をかえる研究も進められています。 しかし、この問題を完全に解決するまでにはいたっていません。 チッソムラは、いもち病や、倒伏につながるので注意が必要です。 (本文開始) 一〇八四 〔ひとはすでに二千年から〕 一九二七、七、二四、 ひとはすでに二千年から 地面を平らにすることと そこを一様夏には青く 秋には黄いろにすることを 努力しつゞけて来たのであるが 何故いまだにわれらの土が おのづからなる紺の地平と 華果とをもたらさぬのであらう 向ふに青緑ことに沈んで暗いのは 染汚の象形雲影であり 高下のしるし窒素の量の過大である (本文終了) 宮沢賢治全詩集【電子書籍】[ 宮沢賢治 ]価格:100円 (2021/7/24時点)楽天で購入 #宮沢賢治 #ひとはすでに二千年から #肥料 #葉色
2021.07.24
コメント(0)
東京、伊豆大島から帰った宮沢賢治は、1928(昭和3)年7月初めから、同年8月10日に肺結核で倒れるまで、花巻周辺で肥料相談や水田巡回を行いました。 手紙での農業相談もあったようで、返書の下書が残っています。7月15日に相談者農家宅を訪問するにあたり、品種や肥料などをメモしておくよう依頼する内容です。 残念ながら農家からの来信や、賢治からの清書は、発見されていません。 (本文開始) 拝復 貴簡拝誦 仰せに従いて七月十五日午前十時までに参上可仕 拝見の分は、 一、品種 二、肥料反当用量 三、田植期日 四、其の他特種時項 御書付置奉願候 敬具 七月五日 (本文終了) なお、項目四の、「時項」は「事項」の誤記ではないかと思われます。 宮沢賢治全集 9価格:1210円(税込、送料別) (2021/7/23時点)楽天で購入 #宮沢賢治 #書簡 #肥料相談
2021.07.23
コメント(0)
1928(昭和3)年7月24日の詩です。 穂ばらみ期の水田を農家のみなさんと巡回したのでしょうか。渇き疲れた主人公に甘酸っぱいアンズを持ってきてくれた人がいました。 4日前の7月20日に電車の停留所で倒れて詩「停留所でスヰトンを喫す」を書いただけに体調が心配です。 さて、現代農業では幼穂ができるころ、チッソ追肥をします。この時期に追肥をすると一穂あたり籾数が増えることがわかっているからです。 しかし、この詩では追肥の表現がありません。 幼穂形成期追肥、V字稲作理論は、1955(昭和30)年ごろ、農林省農業技術研究所の松島省三博士が、発見しました。 https://www.jataff.or.jp/senjin/vji.htm 今では農家や農業技術者には常識のこの理論を、1928年の賢治が知らないのは当然です。しかし、潮汐発電所や、地球温暖化理論など当時最先端科学を作品に書いたほどの賢治が、現代農業の常識を知らないという当たり前のことが意外に感じられます。 なお、松島博士は、1912年生まれで、賢治より16才年下で当時は中学生だったと思われます。賢治が退職した農学校の生徒たちと近い年代です。もちろん面識はないと思われます。 (本文開始) 杏 一九二八、七、二四、 つかれて渇いて 夕陽の中を 萓で囲んだこのちっぽけな観音堂へ みんないっしょに漂ひ着いた いちにちの行程は ただまっ青な稲の中 その水いろの葉筒の底で 三十億の一ミリの羽 けむりのやうな稲の穂が いまこっそりとできかかり この一月の雨や湿気の心配は 雲や東のけむりとともに 青い夕陽に溶かされる 麻シャツを着た さっきの人が帰って来る どこからとって来たのだらう 杏を帽子にいっぱい盛って 稲で傷つき過労に瘠せたその顔に 何かわらひをかすかにうかべ 萱の間を帰ってくる (はね起きろ、観音の化身!) ひとはしづかにわらってくる (本文終了) #宮沢賢治 #松島省三 #アンズ #幼穂 #V字稲作理論
2021.07.22
コメント(0)
1928(昭和3)年7月20日の詩です。 賢治は、同年8月10日に肺結核で倒れます。すでに7月のこのころから発熱があったようです。スイトンすら食べられないようではかなり体力が落ちているようです。 以前は推敲された後期形をご紹介しました。 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202012210003/ 今回は、初期形です。 最後の「残りはもしもあの川岸の石につかねて置くならば/大へんわたくしにはうれしいのだけれども/そのことはもう/云っていけないことらしい」の部分が後期形と大きく異なります。まるで三途の川を思わせるような表現です。 (本文開始) 停留所にてスヰトンを喫す 一九二八、七、二〇、 わざわざここまで追ひかけて せっかく君がもって来てくれた 帆立貝入りのスイトンではあるが どうもわたくしには熱があるらしく 雲を食べてゐるやうで仕方ない 除草や桑の仕事のなかで 幾日も幾日も心掛けて きみのおっかさんが拵えて学校行きの弁当箱に いっぱいに詰めた雲の形の膠朧体 それを両手に載せながら かうもあやしくふるえてゐる このガラス作りの停留所の さっきにくらべて何としづかなことだらう あの組合の倉庫のうしろ 川岸の栗や楊は 雲があんまりひかるので ほとんど黒く見えてゐる きみはわたくしの隣りに座り わたくしがたべてゐる間 じっと電車の発着表を仰いでゐる また稲を一刈し その入口に来た人は たしかこの前金矢の方でもいっしょになった きみのいとこにあたる人かと思ふのだが あんまり光る雲を見てゐたためなのか その顔色も蒼ぐらく 向ふもわらってゐる わたくしもたしかにわらってゐるけれども どうも何だか半分ひとのことのやう さて 友だちよ空の雲がたべきれないやうに わたくしはきみの好意がたべきれない 残りはもしもあの川岸の 石につかねて置くならば 大へんわたくしにはうれしいのだけれども そのことはもう 云っていけないことらしい (本文終了) 6月初めから3週間、東京と伊豆大島をまわり、岩手県花巻に帰郷。6月下旬に地元の農村を巡回する決意を歌いました。 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202106250000/ それから約1か月たち、賢治の体力は限界に近づいていたようです。 #宮沢賢治 #停留所にてスヰトンを喫す #電車
2021.07.21
コメント(0)
1928(昭和3)年 農林省農務局 編 病虫害駆除予防奨励資料 第10号 稻熱病ト其ノ防除法 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1050818 5ページより 「過石灰「ボルドウ」液、砂糖「ボルドウ」液、銅石鹸液等ノ散布ニヨリ被害ヲ軽減スルコトヲ得ベシ」 ボルドー液は、硫酸銅と石灰を混合し反応させたものです。 銅石鹸液は、やはり硫酸銅と、脂肪酸を混合し反応させたものです。 宮沢賢治が農業技術者として活躍した当時は、銅イオン系以外の化学合成殺菌剤がまだ開発されていませんでした。そのため、銅イオン系殺菌剤に頼るしかなかったものと思われます。 銅イオン系は、様々な菌に効く長所があり、予防的な殺菌剤として、現代でも使われています。 しかし、抗生物質や新しい化学合成殺菌剤に比べると、効果が出るのが遅く、多発してしまった稲熱病(いもち病)には十分な効果が期待できません。 当時の農家や農業技術者は、今以上に、稲熱病(いもち病)に苦労していました。 #宮沢賢治 #稲熱病 #農林省農務局 #稲熱病ト其ノ防除法 #ボルドー #銅石鹸
2021.07.20
コメント(0)
日付不明ですが、おそらく7月の詩です。 「稲熱病」は、現代ではひらがなで、「いもち病」と書くことが多いです。今も昔も水稲の最大の病気です。伝染性が極めて強いので、発生源となった農家の翁が、近くの農家に囲まれてうろたえています。農業技師の作者は、表情の見えない月夜だったらよかったと、やや現実逃避ぎみです。 (本文開始) 稲熱病 稲熱に赤く敗られた稲に みんなめいめい影を落して ならんで畔に立ってゐると 浅黄いろした野袴をはき 蕈の根付を腰にはさむ 七十近い人相もいゝ竹取翁、 しかも西方ほの青い夏の火山列を越えて 和風が絶えず嫋々と吹けば シャツの袖もすゞしく みんなの胸も閑雅であるが 恐らく半透明な黄いろの胞子は 億万無数東方かけて飛んでゐるので 風下の百姓たちは はやくもため息をついて 恨めしさうに翁をちらちら見てゐるのだ この田の主はふるえてゐる 胸にまっ黒く毛の生えた区長が 向ふの畔で 厚い舌を出して唇をなめて 何かどなりでもしさうなのだ そらでは幾きれ鯖ぐもが きらきらひかってながれるのだ これが烈々たる太陽の下でなくて 顔のつらさもはっきり知れない月夜ならば 百姓たちはお腹が空いたら召しあがれえといふ訳で 翁は空を仰いで得ならぬ香気と 天楽の影を慕ふであらうし 拙者もいかに助かることであらう (本文終了) 宮沢賢治全詩集【電子書籍】[ 宮沢賢治 ]価格:100円 (2021/7/18時点)楽天で購入 #宮沢賢治 #稲熱病
2021.07.19
コメント(0)
1927(昭和2)年7月15日、宮沢賢治は口語詩「圃場」を書きました。 宮沢賢治 作 「圃場」突然の雨のなか畑で立ち尽くす https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202107160000/ その後、口語詩「驟雨(カダチ)はそそぎ」などを経て、何度も推敲されます。 賢治の死の年、1933(昭和8)年まで推敲は続けられ、文語詩「驟雨」に生まれ変わります。 賢治の口語詩は、その清新なエネルギーに溢れた表現で、日本文学史を画期するものと、高く評価されています。 いっぽう、賢治の文語詩は、病気による衰弱で文学史的に退化したもの、という評価すら、かつてはあったそうです。 幸い、最近は、文語詩の再評価がされているようです。 宮澤賢治「文語詩稿 五十篇」評釈 一 信時 哲郎 http://www.konan-wu.ac.jp/~nobutoki/papers/bungoshi1.html 元気だったころの、農作業中の憤りなどの感情を思い出しながら、病床で推敲を続ける賢治を思うと、切なさとともに、崇高なものを感じます。 (本文開始) 驟雨 驟雨そゝげば新墾(にひはり)の、まづ立ちこむるつちけむり。 湯気のぬるきに人たちて、 故なく憤る身は暗し。 すでに野ばらの根を浄み、 蟻はその巣をめぐるころ。 杉には水の幡かゝり、 しぶきほのかに拡ごりぬ。 (本文終了) #宮沢賢治 #驟雨 #文語詩稿
2021.07.17
コメント(0)
1926(大正15)年7月15日の詩です。 宮沢賢治は、同年3月末に農学校教師を退職し、羅須地人協会を開き、畑仕事を始めました。 農作業中の突然の雨に打たれながら、思うようにならない仕事を思う気持ちがあらわれているように感じます。 この季節、突然の豪雨には気をつけて、農作業にあたりたいものです。 この詩は、後に推敲されて、「驟雨」という詩にもなります。 (本文開始) 七二八 圃場 一九二六、七、一五、 黒く燃されて 開墾(おこ)した土のなかに立ち うつつに雨を浴びてゐる いったいこれがおれなのか 枯れた羊歯の葉 菊芋の青い茎 壊れて散った塔のまはりを いまいそがしく往来する蟻 夏立ちの雨よ まっすぐに降りそゝいで おれの熱い髪毛を洗へ (本文終了) #宮沢賢治 #圃場 #カダチ
2021.07.16
コメント(0)
「和風は河谷いっぱいに吹く」では、下記がもっとも有名なバージョンです。 感動的な展開で多くのファンを持つ詩です。以前ご紹介しました。 (宮沢賢治 著)和風は河谷いっぱいに吹く https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202012090000/ 今回、ご紹介するのはその前の草稿です。 前回、ご紹介した「南からまた西南から」は7月の詩でした。この詩は、8月になっています。7月のほうがより現実に近いのかもしれません。 8月になって草丈が伸びたり穂が出たりすると、重心が上にずれて、水稲はより倒伏しやすくなります。また、回復もしにくくなります。 他のバージョンでは登場しない「きみ」が主人公を避けている様子が描かれています。「きみ」は、農家青年のように見えます。 この草稿では、豊作の祭の様子が描かれ、伊豆大島の友人伊藤七雄あて書簡の表現と似ていることも目を引きます。 書簡240 〔7月初め〕伊藤七雄あて 下書 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202107060000/ (本文開始) 一〇八三 和風は河谷いっぱいに吹く 一九二七、八、二〇、 南からまた西南から 和風は河谷いっぱいに吹く 起きあがったいちめんの稲穂を波立て 葉ごとの暗い露を落して 和風は河谷いっぱいに吹く あらゆる辛苦の結果から 七月稲はよく分蘖し 豊かな秋を示してゐたが この八月のなかばのうちに 十二の赤い朝焼けと 湿度九〇の六日を数へ 稲は次々穂を出しながら 茎稈弱く徒長して しかも次第に結実すれば ついに昨日の雷雨に耐えず およそ相当施肥をも加へ やがての明るい目標を 作らうとした程度の稲は 次から次と倒れてしまひ こゝには雨のしぶきのなかに とむらふやうなつめたい霧が 倒れた稲を被ってゐた しかもわたくしは予期してゐたので やがての直りを云はうとして きみの形を求めたけれども きみはわたくしの姿をさけ 雨はいよいよ降りつのり 遂にはこゝも水でいっぱい 晴れさうなけはひもなかったので わたくしはたうたう気狂ひのやうに あの雨のなかへ飛び出し 測候所へも電話をかけ 続けて雨のたよりをきゝ 村から村をたづねてあるき 声さへ枯れて 凄まじい稲光のなかを 夜更けて家に帰って来た さうして遂に睡らなかった さうしてどうだ 今朝黄金の薔薇東はひらけ 雲ののろしはつぎつぎのぼり 高圧線もごろごろ鳴れば 澱んだ霧もはるかに翔けて 見給へたうたう稲は起きた まったくのいきもののやうに まったくの精巧な機械のやうに 稲がそろって起きてゐて そのうつくしい日だまりの上を 赤とんぼもすうすう飛ぶ あゝわれわれはこどものやうに 踊っても踊っても尚足りない もうこの次に倒れても 稲は断じてまた起きる 今年のかういふ湿潤さでも なほもかうだとするならば もう村ごとの反当に 四石の稲はかならずとれる 森で埋めた地平線から 青くかゞやく死火山列から 風はいちめん稲田をわたり また栗の葉をかゞやかし 汗にまみれたシャツも乾けば 熱した額やまぶたも冷える じつにさわやかな蒸散と 透明な汁液(サップ)の移転 この秋こそは祭りの晩に 赤シャツを着た道化師に わたしの粟も豆もたべてくださいと みんなでそれを投げたやうな あゝいふ豊かな年が来る あゝわれわれは曠野のなかに 芦とも見えるまで逞ましくさやぐ稲田のなかに 素朴なむかしの神々のやうに べんぶしてもべんぶしても足りないでないか (本文終了) #宮沢賢治 #和風は河谷いっぱいに吹く #草稿 #水稲 #倒伏
2021.07.15
コメント(0)
全113件 (113件中 1-50件目)