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まずは前回のあらすじから。107年、倭の国王を称する「帥升」たちが中国の皇帝に謁見を願います。その後、倭国は内部で争いあい、まともな王もいなかったようです。そして『魏志』倭人伝で、「女王の都する所」邪馬台国が登場するのです。ここでいう女王とは卑弥呼のことですが、なぜ彼女が選ばれたのかは正直言って謎です。『魏志』倭人伝では、「もともと倭では男の王をたてており、7~80年くらいはうまくいっていたけれども、その後内乱が打ち続き、終止符をうつためにクニグニが共同して一女子をたてた」と書いてあります。もちろん卑弥呼はフツーの女性ではありません。特技は?とたずねると、こんな答えが返ってくるでしょう。「わたくしは呪術を駆使し、神の意志をきくことができる特別な存在なのです。ゆえに、民たちもわたくしを畏敬しております」確かに、私たちがあまりに巧みなマジックに心奪われるように(マジックに例えると卑弥呼さんは気を悪くするかなあ?)、卑弥呼の力には人々の心をがっしりとらえる何かがあったに違いありません。しかも、演出という大事なツボもバッチリ押さえてます。人前に極力姿を見せないようにして神秘さをアピールしてますし、なんらかの儀式で登場するときには、魏からおくられた銅鏡に光を反射させて、卑弥呼を見上げている人々にその光を当てたそうです(まばゆい光で卑弥呼がよく見えず、しまいには光=卑弥呼のように思えたことでしょう。心憎い演出です。ヨッ、○○屋!)それでもなぜ卑弥呼が約30のクニを束ねる王として選ばれたのか、そこがどうもよく分からんのです。*もともとは男の王をたてていて、それがうまくいかなくなったからといって、すぐ女の王に乗り換えられるのか?(現代では女性天皇という存在自体がまだ認められていないのに…)*卑弥呼をたすけていたのは弟というから、卑弥呼はあくまで付録で(もちろん欠かせない付録ですけど)、弟の政治手腕が買われたのか?*そしたら弟が王になってもいいじゃん…と思いますが、卑弥呼に比べてぐんとカリスマ性に劣っていたから黒子に徹して涙を呑んだのか?*それとも卑弥呼には、30のクニの利害をうまく切り盛りし、絶妙なバランスを維持させていく高度な政治的才幹があったけれど、女子ということで首長たちの意見も割れて、弟との共同統治というカタチをとったのか?考えれば考えるほど、グルグル混乱してきますね~(私だけ?)。ただ、この時代はそれなりに女性が尊重されていたと思われるので、男尊女卑という面から考察するのは早計かな、という気がします。皆さんのご意見もぜひお聞かせ下さい!では、ここで卑弥呼のプロフィールを披露しましょう。「鬼道(呪術のこと)を事とし、能く衆を惑わす。年巳(すで)に長大なるも、夫婿なし。男弟あり、佐(たす)けて国を治む。王となりしより以来、見るある者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝へ居処に出入す」←このひとりっきりの男子は一体…もしかして愛人?! 239年、使者を魏に遣わして、「親魏倭王」の金印紫綬と銅鏡100枚などを賜りました。狗奴国の男王卑弥弓呼(ひみここ)との不和も続くなど、苦労が絶えなかった様子もうかがわれます。卑弥呼が死んだときは、墳丘のような大きな墓を作り、奴婢100人以上がともに殉死したと書かれてます。さて卑弥呼の死後、時代はどう移り変わっていくのか。それは次回へ回すとして、最後に『魏志』倭人伝から分かる倭人のすがたを少し紹介しますね~。(1)男は、おとなも子供も顔や体に刺青をしていた。←見てみたい~。(2)男は木綿で頭をまき、服は横幅の布をただ結わえているだけである。女は髪をうしろで結い、一枚の布を頭から貫いて着ていた(貫頭衣と呼んでます)。ちなみにみんな裸足。(3)倭の地は温暖なので、冬も夏も生野菜を食べている。飲み食いには高杯を使い、手で食べている。(4)一般人である下戸(げこ)は、支配階級の大人(たいじん)と道で会ってしまったら、しりごみして草むらに入ります。大人の言葉を聴くときはうずくまったりひざまずいたりして、両手を手にあてて敬っています。ちなみに邪馬台国はどこにあったのか?これは興味の尽きない謎ですね~。大きく分けると近畿説・九州説がありますが、『魏志』倭人伝の著者に一言言いたい!「邪馬台国への道のりもいいけどさ、場所をきっちり書いといてや~~!」でも謎がないのもつまらないから、これはこれでいいのかな?(どっちやねん…)では次回こそ弥生時代ファイナルです。<参考文献> 森山豊明著「語る日本史データベース」文芸社 2001(銅鏡の使い方について、引用させていただきました)
2005年01月31日
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前回、生き残りをかけたサバイバルレースで勝ちを重ねたムラ(集落)は、規模の巨大化や支配する側/される側という階層が生じてきたことによって、クニ(小国)と呼ばれるまでに成長したことをお話しました。もちろん、クニ同士の争いも続くのですが、ここからは中国の歴史書からその様子を探っていこうと思います。(注…中国では日本のことを「倭」と呼んでいますのでご了承下さい)クニの様子が書かれている歴史書は三冊あります。(1)『漢書』地理志(2)『後漢書』東夷伝(3)『魏志』倭人伝では上から順番に見ていってみましょう。ちなみに『~』の部分は歴史書のタイトル、地理志というのはいわば章みたいなモノです。(1)の「漢」の歴史書で書かれた記事は以下の通り。「夫れ楽浪海中に倭人有り、分れて百余国と為る。歳時を以て(定期的に)来り献見すと云ふ」短い文章ですが、大事なのはこの二点です。*その頃、クニは百以上ほどあった。*漢の出先機関であった「楽浪郡」に使者を送っていた。百以上あったということは、クニといってもまだムラ(集落)に毛が生えたよーなものを想像させますが、やがて本格的な内乱で統廃合していく経過は、(3)で見てみましょう。では中国の王朝(ここでは漢)になぜ使者を送っていたのか?まずは親分-子分の関係を思い浮かべて下さい。親分は力もあっていばりんぼです。子分に声をかければ皆はせ参じます。その代わり気前がよくなければ、「この親分ケチでいけねーや」と子分に軽んじられてしまいます。中国は親分です。それどころか長い間世界の中心、唯一の大輪の花として君臨しました。まわりの国は子分たちです。子分たちは定期的に、親分のご機嫌うかがいに出かけないといけません。でもこれには大きなメリットがあったのです。なぜなら親分は、子分たちにナメられたらおしまいですから、彼らの持ってないようなお宝を与えることによって、「オレはスゴイだろ!だからおとなしく従うんだぜ!」と圧力をかけなくてはいけないからです。で、子分たちはそれを自分たちの国で見せびらかし、「オレは中国の皇帝さまとすげー親しいワケよ。だから逆らうと身のためにならねーぜ」と、こちらも圧力をかける道具として使えるわけです。クニの首長たちが中国へ使者を送った背景には、こうしたしたたかな計算もあったのです。(一部聞き苦しい言葉がありましたが、ご勘弁下さい^ ^;)(2)になると、もうちょっと詳しい内容になります。文献からの引用は長くなるのでカットして、要約を二点書き出します。*57年、奴国(なのくに)の王が後漢に使者を送り、皇帝から印綬(印=はんこ、綬=印に付くくみひも)を受けた。*107年、倭の国王らが生口(奴隷のこと)160人を差し上げて、謁見を願った。奴国は現在の福岡県博多地方にあったと推測され、江戸時代には金の印が発見されています。そこには何と「漢委奴国王」と刻まれていたのです!それはまぎれもなく奴国王に与えられたはんこでした。(ちなみに"委"は倭の間違いじゃないの?と気づいた方もいるかと思いますが、これは印を作った人のミスと考えられます)ちなみに綬(ひも)の方はくっついて出てきませんでしたが、色によってランク付けされていたようです。奴国の王がもらったのは紫色の綬で、中国では最高の大臣クラスに与えられるモノだったそうですが、「けっこういいランクじゃん」か「それ程度の扱い」だったのかは、それぞれのご判断にゆだねます。あと個人的に気になるのは、160人の奴隷のこと。異国で苦しい生活を送り、おそらく一生ふるさとの土を踏めなかった160人それぞれの人生に思いをはせると、ちょっと切なくなりますね…。(3)はあの女王卑弥呼が登場することでも有名な史料ですね。こちらも要約だけ載せます。後漢の末期から中国は戦乱に突入し、やがて三国が並び立つ「三国時代」を迎えますが、日本でも長くて深刻な内乱が勃発していました。終わりのみえない内乱に疲れ果てたクニグニは相談を重ね、呪術に長けた一女子を王にたててようやく一つにまとまります。約30のクニからなるその「まとまり」が邪馬台国連合であり、神の意志をきく一女子こそがヒミコ=卑弥呼だったのです。邪馬台国連合と卑弥呼の物語は次回にて。ではでは。
2005年01月30日
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開設してから一週間がたちました。思いのほか多くの方に訪問していただき、そして色々なコメントまでいただきまして、本当にありがとうございます。正直、すっごく嬉しいです!地味なブログですが、これからも細々とやっていきますので、どうぞよろしくお願いします^-^さて今回の日記ですが、いつもいつも「勉強」みたいだと読まれる方も肩がこると思うので、一週間に一日の割合で息抜きしてみることにしました。今扱っている時代に関係なく、日本史に関するネタなら何でもOK!というお気楽エッセイにしたいな~と考えてます。ということで、今回は私のおすすめ歴史マンガを紹介しますね。「あぶない丘の家」全三巻(文庫版では全一巻)著・萩尾望都/角川書店いよいよ大河ドラマ「義経」が始まりました。個人的には、その前の「新選組!」がとっても好きだったのですが(これを語っているとキリがないので以下省略)、せっかくということで、義経を主人公にしたマンガを挙げてみました。全三巻のうち、この作品で義経が登場するのは二巻目です。あらすじをカンタンに説明すると、タイムスリップの能力をもつ少年・真比古(マヒコ)が、ふとしたことから源平合戦の時代に入り込んで義経・頼朝兄弟と出会い、義経の絶頂期からその最期までを見届ける…というもの。マヒコは義経びいきなのですが、頼朝好きの安達君、平家マニアの赤間君などを登場させて、それぞれの立場をバランスよく解説してくれている点でも、読みごたえあると思います。(私は赤間君を一押し!)その他、歴史にくわしいセンセが加わってきて、頼朝・義経の関係を客観的に評価してくれます。先生「頼朝と義経を同じ土俵でくらべるのはムリだよ」安達「格がちがうからでしょ!!」先生「一方は政治家、一方は武将。大統領とオリンピック選手をくらべるようなものだよ」(では頼朝とくらべられるその時代の政治家とは?コレは漫画を読んでのお楽しみ)絵はチト古くさいのですが、歴史の手引書としてはとても上質だと思います。もう一つ私が高く評価したいのは、頼朝の立場や悲しみも描いてくれているところ。萩尾さんは多分義経好きなんだろうな~とは感じるんですが、義経の悲劇によって頼朝嫌いになってしまったマヒコでも、最終的には「幕府をつくり、上皇とタイマンはって、坂東をまとめ……立派だよ頼朝…!」とあらためて彼を見直すのです。そしてラストシーンは圧巻。平治の乱でつかまって14歳で流刑の身となり、たったひとりでそまつな小屋に住んでいる頼朝少年。「ああ どんなにさみしかっただろう 見捨てられ悲しかっただろう」「このさみしさはぬぐえない 父の無念とともに このさみしさは誰にもゆずれない これは頼朝のもの」ここではじめて、マヒコは頼朝の哀しみを共有したのです。他にも心に残るすばらしいセリフがたくさんありますので、興味をもたれた方はぜひぜひ。皆さんのおすすめがありましたら、ぜひコメントに残してやってください。すっごく助かります^ ^;どうぞよろしく。次回は本筋に戻って、弥生時代の(おそらく)ラストに入ります。
2005年01月29日
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前回稲作を中心にご紹介したところ、次のようなコメントをいただきました。「そして、興味深かったのが、田んぼの生産能力でしょうか?やっぱり、頭のいいリーダーがいる地域は、生産能力も高くて、どんどん力を蓄えていってクニの首長みたいなものに、なっていったのでしょうか?」今回のメインテーマの一つは、まさしくここにあります。稲作が本格化するに従って、弥生社会は激変していきますが、今回は「勝ち組・負け組」をキーワードとして(あまり好きなコトバではないのですが、他に思いつかなかったので、ご容赦下さい)、弥生時代の熾烈な生き残りレースを展開させていきたいと思います。大陸から北九州地方に伝わった稲作は、日本列島(北海道など一部は除く)に着実に広まっていきました。そして、耕地の拡大・生産能力の向上など、どんどん本格化されていきました。その原動力はずばり、「米はうまいから!」の一言に尽きるような気がします(笑)昔生徒相手に、「つまりね、気候の変動によって違いはあっても、毎年毎年一定量の収穫は見込めるという稲作は、人々の生活に安定をもたらしたからなんですね」な~んて、理論的にカッコつけてみたこともあるんですが(もちろん、そういうメリットもあります)、つまるところ、人間を突き動かすものは「欲求」なのではないかと。お米はおいしい。だからもっともっと作りたい。それこそが一番の原動力ではないか、と声を大にして主張したいワタシ自身、相当食い意地のはった人間であります。ともかく理由はおいといて、田んぼをどんどん広げるのはよいのですが、良い耕地というのはどうしても限られてきます。さらに川からあまりに離れていると水もひけなかったでしょうから、水場に近いというのも不可欠な条件です。そういう訳で、耕地や水をめぐって集落の間で衝突=争いがあいつぐようになり、勝ち組集落・負け組集落の二分化が生じてきました。 こうした修羅場を勝ち抜いた集落は、多くの集落を従えて小共同体(小国=クニと呼ばれています)へと発展していき、クニ同士の戦い、すなわち内乱状態はしばらくの間続くことになります。こうしたクニの様子は、中国の歴史書にちょこっと紹介されているので、それは次回で見てみたいと思います。さて、勝ち組集落の内部はどうなっていたのでしょうか。ここでもう一度、冒頭のコメントを思い出してください。「頭のいいリーダーがいる地域は、生産能力も高くて、どんどん力を蓄えていってクニの首長みたいなものに、なっていったのでしょうか?」まさにこの通り、サバイバル社会を生き抜くために、そして大規模になっていく集落の生活レベルを保っていくためには、非凡なリーダーが必要でした。稲作などの生産活動を維持・もしくは向上させて集落の人々を飢えさせないようにし、戦いがあれば先頭にたって指揮をとり、集落を守り抜く。リーダーはほんっとタイヘンです。くたびれます。だからこそ、すぐれたリーダーは集落内で強い力を誇示することができたのです。この強い力は人々を支配する「権力」となり、リーダーは「権力者」となりました。集落の内部でも強い者と従う者の二分化が始まったのです。ちなみに、「権力者」たちは日本史では首長と呼ばれています。首長、というコトバはしばらく出てきますので、どうぞお見知りおきを。最後に、図にあった「防御的集落」の例として、ふたつの集落を紹介します。(1)敵の攻撃に対して優位に立たねば…そのためには高い場所に集落を作るべし!→コレを高地性集落といいます。なーんか難しそうな響きですが、単に高いところにある集落ということです。(2)集落をぐるりと囲む深い深い濠を作って、敵が襲撃してくるのを防ぐべし!→コレを環濠集落といいます。わっか状の濠のある集落という意味です(これもまあ、そのまんまですね)。写真で見た堀はV字型で、バスケットボール選手ですっごく背が高い中国の人でも(お名前は何でしたっけ?)、すっぽり入りそうなほどの深さでした。攻撃をやりすごし、何とか濠をクリアーしても、今度は高い柵がめぐらしてあるので、敵はなかなか侵入できないというわけです。戦いのすさまじさをうかがわせるものとしては、首のない骨や、矢をうけたあとのある骨などがあります。弥生時代は戦争が始まった時代でもありました。次回はいよいよ卑弥呼登場です。それにしても記事が長くなる一方ですみません…。
2005年01月28日
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前回紹介したように、大陸の人々は、稲作技術とそれに不可欠な道具(つまり農具ですね)、その他いろんな最新技術をたずさえて日本列島へやってきました。今回は、弥生文化の核となる稲作をメインに、語っていきたいと思います。その前に!大事なことを忘れてました。この時代のシンボル、弥生土器についてまだ何にも触れてなかったですね。スミマセン^^;ちょこっと説明させてもらいます。縄文土器が「縄目の文様の土器」という土器そのものの特徴から名づけられたのに対し、弥生土器は「これでいいのか?!」とつっこみたくなるくらい、ある意味カワイソウな名前の付け方をされてます。というのも、東京都本郷弥生町で発見されたから…。思春期のさびしい心をかかえた少年少女ではありませんが、「何で縄文土器だけ、ズルイじゃない!わたし自身とキチンと向き合ってよ!」と、内心たましいの叫びをあげてるかもしれません(ちとオオゲサ?)弥生土器は、さすが技術面が向上しているだけあって、うすくて硬く、洗練されたフォルムをしています。実用性を重んじるようになったのか、形も固定化・限定化されて、貯蔵用の壷・煮炊き用の甕・食べ物を盛り付ける高杯(たかつき)などが基本セットとなりました。下の図を参考にしてください。 同じ品質のものを提供するために、カタチをシンプルに統一化する、現代の生産方法と通じるものがありますね。その点、縄文土器は技術的には劣っていたものの、何に使われたのかサッパリ分からないキテレツなものがあったりして、個性がたいへん強いのが印象的でした。もっとも、どちらが良い悪いという問題ではないので、あとは個々のお好み次第、といったところでしょうか。それでは弥生時代の稲作について、順を追ってみていきますね。そもそも、この時代はどんな田んぼを使っていたのでしょうか?田んぼへ水をひく技術(=灌漑技術)がまだ出来上がっていない初期のころは、ジメジメした湿田に籾をまいてました。しかし、水をはり、終わったら排水して休ませる、ということをしないと、田んぼは疲れ果てて栄養失調になってしまうため、つねにジメジメとしていた湿田では生産能力も低かったそうです。のちに灌漑技術が整ってからは、一部では乾田が出現し、生産能力もアップしました。では稲作の手順を追いながら、農具の紹介もしていきますねー。(1)種まきしよう!…籾を水田に直接まく直播(じかまき)が主流だったそうですが、苗まで育ててから植えつける、いわゆる田植えもあったそうです。(2)稲よ、育て!…今でもおなじみの鍬(くわ)や鋤(すき)の他、湿田には特に欠かせない田下駄が使われていました。これで足がめりこまずにすみますね~。 (3)お待ちかねの収穫!…今は根元から刈っていきますが、当時は石包丁を使って、稲の穂先だけを刈り取っていました。これはこれで、手間が相当かかりますね…。(4)このままじゃ食べられないので脱穀!…臼と杵をもちいて、トントントンと、歌でも歌いながら気長にやっていたのでしょう。(5)お待ちかねの食事!…今とは違い、蒸して食べていたそうです(おかゆみたいな感じかな?)。餅のようなモノもあったとか。(6)あまったものは保存です…床が高く持ち上げられており、風通しのよい高床倉庫(そのまんまの名前でグー!)に運び込んで収納されました。また来年もがんばっておコメ作りに励みましょう!ちなみに、コメ作りの大変さは、日テレで日曜日夜7時から放映されている「鉄腕ダッシュ」で、その片鱗を知ることができました。興味をもたれた方はぜひアクセスしてみてください。その他の技術としては、鉄や青銅など、金属器と呼ばれるものを製造する事が挙げられます。鉄は農具にも使われましたが、腐りやすいため、現在ではほとんど残っていません。青銅は銅とずずの合金で、こちらはうってかわって今でもたくさん目にすることが出来ます。青銅器は銅矛、銅剣といった武器系が多い中で、銅鐸(どうたく)というスカート状のキミョーな代物があります。どう使ったのかは明らかではないですが、木の枝などにつるして鐘のようにカラカラ鳴らしたのではないか…といわれてます。 それはともかく、銅鐸の表面には絵が描かれていることがあって、狩りの様子など人々の生活が描かれているものもあります。そういうのは見ているだけで楽しいですネ~。次回は、こうした新しい生活・新しい技術が日本社会をどう変えていったのか、ダイナミックかつ繊細に(意味不明)スケッチしたいと思います。卑弥呼も登場できるかな?
2005年01月27日
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前回どうするべ、と言っておきながら、あっさり弥生時代へと入ってしまいました。縄文時代のネタはしばらく寝かせておいて、折をみて紹介するということで、どうぞよろしくお願いします。さてときは江戸末期、アメリカの黒船が日本にもたらしたインパクトは相当のものでしたが、弥生時代の幕開けも、それに負けず劣らず(あるいはそれ以上?!)強烈でありました。高度にすすんだ新しい文化が、まとめてドドドドッと、縄文文化の日本へ押し寄せてきたのです。稲作を中心としたその文化は、急速に広がっていき、弥生文化と呼ばれるまでになりました。弥生時代の始まりです。(弥生時代は一応、紀元前300年位から紀元後300年位の、約600年間とされてますが、開始の年はハッキリしていない、というのが現状です。というのも、稲作などの文化が「伝わった」時点で弥生時代が始まるのか、「日本列島に広まってある程度根付いた」時点でやっと弥生時代といえるのか、意見が分かれているからです。個人的には後者を押したいところですが。)この新しい文化は、大陸(日本史では中国や朝鮮半島を意味します)からやってきました。大陸の気候の寒冷化→食料難による大混乱→難民(もしくは移民)の日本列島への流入、という背景があったと考えられてます。弥生文化=稲作というイメージがありますが、彼らがもたらしたものは、稲作を核とした全く新しい生活様式と言っていいと思います。強引に例えるなら、アメリカ文化に染められた戦後の日本というところでしょうか。肉食、パン、ファーストフード、ジーンズ、テレビ、マイカーなどなど、日本人の生活は大きく変わりましたよね。つまり、先進地域から後進地域へ、キラキラ輝いて見える文化がやってきた!という点で、戦後も弥生時代もおんなじだと思うのです。大陸から多くの人々がやってきたとき、縄文の人々はきっとさまざまな反応を示したことでしょう。新しい文化にすぐなじんだ人、なじもうと努力した人、カルチャーショックに悩んだ人、今までの生活スタイルを守ろうとした人、土地を追われた人……しかし、縄文人たちは結果的に彼らを受け入れ、彼らの文化をおおいに学ぶことになりました。最後に、縄文人と、弥生人(大陸から来た人々やその血を濃く受け継いだ人たち)の顔の比較をのせておきます。むかし、「キミは縄文、弥生、どっち系の顔?」なんてやったような気がするなあ。さんざん「新しい文化」と言っておきながら、一言も触れずに終わってしまったので、次回こそ弥生文化一色でいきたいと思います。それでは。
2005年01月26日
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突然ですが、クイズです。○×でお答え下さい。その1…平均年齢は50歳前後である。その2…乳幼児の死亡率は高かった。その3…現代人とちがい、虫歯など無かった。その4…犬を飼っていたひともいた。では採点してみましょう。1は×(30歳くらい)2は○(5~6歳まで生き延びられたのは3、4人にひとりだったとか)3は×(実はけっこう多かった!歯医者がないのにどうしたのかチト心配)4は○(狩りのお供もしたのかも)になります。近年、縄文時代への評価が上がるにつれ、戦争も無く、豊かな自然に抱かれて穏やかな生活をしていた…といった良いイメージが先行していますが、やはり生きていくのは相当タイヘンだったに違いないでしょう。「人生ね、そんな甘ったるいモンじゃないよ!」と縄文人から一喝されてしまうような気がします。では、縄文の人々のラフスケッチを紹介したところで、この時代ならではの、風変わりな慣習をいくつか挙げていきます。<アナタは耐えられるか?恐怖の成人式!!>昔の成人儀式(イニシエーション)というのは、東西とわず過激なモノが多かったそうです。うろ覚えで申し訳ないのですが、体中にいれずみを彫ったり、同性愛行為を強いられたり等々、「なんでオトナになるのにそこまでしなくちゃいけないの?!」と、現代人には到底信じられない荒々しさ。というのも、昔のオトナというのは今よりもはるかに厳しく強い存在でした。そのオトナとして認められるためには、それ相応の覚悟が求められたのでしょう。それでは、縄文時代の成人儀式とは何か?それは抜歯と考えられています。もちろん麻酔などありません。そのままぐいぐい抜くわけです。…とここまで書いていて、自分でもゾッとしてきました。歯医者は嫌い、抜歯するときも「麻酔が痛くてやだやだやだ~」なんて言っている場合ではありません。麻酔をかけていただくだけでありがたいのです(これからはそう思って、観念することにします)。蛇足ですが、成人式で荒れるコドモに対しては、ぜひこの抜歯を体験してもらいたいよーな気もします。…モチ麻酔抜きで。<なぜ破壊されたのか?謎に満ちた土偶たち!!>土偶というのは、土製の人形のことで、多くは女性像をしています。妊娠している女性像もあれば、一風変わった像もあります。下図を参照してください。 これらの土偶は故意に破壊されている事が多く、その理由ははっきり分かりません。ただ、おそらく人々の身代わりとして、破壊されたと考えられてます。妊娠の女性像をこわすのは、命がけであっただろう出産の無事を祈るため、変わった形の土偶は、なんらかの病気を表しており、回復を祈って壊されたのかもしれません。縄文時代の「お守り」と考えれば、共感しやすいかもしれませんね。まだ書き足らない点もあるのですが、おそらく次回は弥生時代に入る予定。でも気が変わって、縄文こぼれ話をやっているかも。うーん、どうするべか。
2005年01月25日
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今回は衣食住についてのお話ですが、前後をひっくり返して、住・食・衣という順番でいきたいと思います。まず住について。人々は「竪穴住居」と呼ばれるウチを作って家族仲良く(あるいはケンカしながら?)暮らしてました。竪穴住居は、下図のような感じで発掘されます。この柱穴に木の柱をたて、ウチの骨組みを作り、壁に板をはり、屋根をススキなどで葺いて、復元したりします。ちなみに「竪穴」というのは、下図のように、地表からタテに深く床をとるからです。 こういった竪穴住居が平均4~6軒集まって、集落(ムラ)と呼ばれるものが形成されます。なんとこの集落、夏用と冬用と使い分けているところもあったとか。別荘みたいでなんかうらやましい…。次は個人的にとっても関心のある食(笑)。お父さんたちは弓矢や槍などの、狩りの道具を使って、森や草原へくりだしたのでしょう。そして獲物を集落に持ち帰って、石匙(せきひ:図の左を参照して下さい)で皮をはぎ、肉を切り取っていきました。あるいは川へ行き、釣りをしたり、石錘(せきすい:石のおもりのこと。図の右を参照して下さい)にあみを結わえ付けて、わなをはったりと大忙しです。 お母さんたち女性陣ももちろん頑張ります。貝類を集めたり、クルミやクリを拾ったり、食材を確保する他にも、調理の仕事もあります。その他、パン(!)を作ったり、ゴボウなどを栽培することもありました。現代人の軟弱なあごでは咀嚼するのもタイヘンそうですが、一回くらいは縄文人と食卓をともにするのも楽しそうです。ちなみに、食べ終わった獲物もなるべくムダにせず、動物の骨や角は、釣り針や銛、縫い針などに利用しました。これを骨角器といいます。これも人々の知恵ですね。では最後に衣の話題へ。石匙ではぎ取った皮は、冬の間は重宝したと思います。ただし日本列島は温暖なので、風通しのよい服も作られたことでしょう。そしてアクセサリーはホントに多いのです!耳飾り、くし、首飾り、腕輪、指輪、腰飾りなどなど、素材も多種多様で、「あのヒト、なかなかオシャレね~」なんて羨まれた人もいたかもしれませんね。ちなみに私がよくつけるアクセサリーは、せいぜい指輪かネックレス位かな…負けてるよ、私…。次回は縄文人の実情をスクープ!をお送りします。
2005年01月24日
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縄文時代は紀元前1万年から紀元前300年ころまでの間をさします。大体9700年間続いたことになりますね。紀元後になってからようやく今で2005年目ですから、縄文時代はその五倍弱の長さを誇ったわけです。気が遠くなりそうな話ですね…。なぜ1万年から始まったかというと、気温の低かった時代=氷河期がその頃に終わり、温暖化によって、自然環境が大きく変化して、人々の暮らしもまた新しいものへと移り変わったからです。つまり、そういったニューライフの総体を、私たちは縄文文化、縄文時代と呼んでいるんですね。暖かい気候のもとでは豊かな自然がはぐくまれ、人々の生活のレベルも向上しました。では、そもそも縄文とは何か?この時代のシンボルとされたのが、縄目の文様の土器=「縄文土器」だったわけですが、土器というのは作るのがタイヘンです。こねて形をととのえ、焼成してなどなど、高い技術が求められるのですから、「ここまで文化の質があがっているんだよ~」という、一番分かりやすい目安になりますよね。土器はともかく、縄文自体はおうちでもカンタンに作れます。縒ってある縄を一本用意し、それをほどいてもう一度縒ります(縒り方は忘れちゃったので、皆さんで適当に)。それを粘土の上でころころ転がせば完成です。他にも色々縄文のつけ方はありますが、学生時代に習ったのはこの方法でした。図の左が完成想像図です(タブレットを使い始めたばかりで、図がホント下手くそですが、ご容赦下さい)。 縄文土器の特徴は、全体的に黒っぽく、厚手で、もろいことが挙げられます。焼成温度もそれほど上げることができず、うすい肌の土器はまだ難しかったのでしょう。ただ、中には図の右のような、複雑怪奇な「火えん土器」というのもあり、相当レベルの高い技師(この場合は芸術家、といった方がピッタリくるような気がします)がいたことをうかがわせます。どういう人がこんな奇想天外な土器をこしらえたのか……想像するのも楽しいですね。「火えん土器」はともかく、フツーの縄文土器の使い方は、「煮る・炊く・保存」の三つが柱だと思われます。どうやらお酒や塩も作れたそうです。食生活が豊かになって、お母さん大助かりですな~。次回は縄文時代の衣食住です。
2005年01月23日
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私は小さい頃から外国物のファンタジー小説が好きで、自分でも書いてみたい、とずっと思ってました。でも実際書こうとすると本当に難しいものです。何よりも、その世界を自分の手で構築していかないといけないのですから。世界を作る、ということはその世界の歩み=歴史を作っていくことに他なりません。なので、歴史を勉強することは私にとって、二重三重のメリットになりました。読んでくださる方にとって、このささやかな日記が何かの役に立つかどうかは分かりませんが(まあ別に役に立たなくてもそれはそれでよし!ですよね)、「日本」という世界の、長い長い道のりをともに歩んでもらえれば、たいへん嬉しいです。次回は早速、縄文時代へとぐううっとさかのぼっていきますね~。
2005年01月22日
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