海外旅行紀行・戯言日記

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アインシュタイン



再受験の為、アーラウという小さな町の州立学校でヴィンテラー教授の家庭で8ヶ月勉学にいそしみ、1896年工科大学に進むことが出来ました。後年のリベラルな思想はこの教授に拠る所が大きいとされています。

1900年工科大学を卒業したが、同級生4人の内3人は助手として大学に残ったのですが、彼だけは「怠け者でぼんくら」との印象を抱かれ、選に洩れてしまったのです。
仕方なく、臨時の口を探しながら不安定な生活を送り、漸く1902年ベルンの連邦特許局に採用されたのです。
ここで7年の役人生活を送るのですが、その前半わずか2年半で神業と言われる「特殊相対性理論」を完成、発表してしまいました。
その評価は素晴らしいもので即ノーベル物理学賞に受賞決定しました。

一転、チューリッヒからもベルリンからも正教授招聘の話が来る様になりました。「それにしても18年前、工科大学の助手になりたいと言う希望が叶ったら、どんなに嬉しかったことか! 世の中とは“阿呆の住居”の様なものだ。有名になりさえすれば全ては片づくのだ。僕の他に良く出来る人もいるのに」と慨嘆したのです。

1909年から5年間のチューリッヒ工科大学、それから19年間のベルリン大学を
経て、ナチスドイツの迫害を逃れ、米国プリンストン大学に行き生涯を閉じることとなりました。

しかし、スイス国籍を貰ったアインシュタインは終生これを持ち続けました。米国市民権を付与された後も、変わることはありませんでした。
「私はスイス人が好きだ。他の国の人より、全体としてヒューマンだからだ。全世界がヒステリーに取り憑かれた時代にも、スイスは何時も理性的な政府を持つことが出来、そして外からの圧力を見事にはね返した。」と言って・・


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