Welcome to Ichiro’s Home Page

Welcome to Ichiro’s Home Page

優越性、完全性の目標を具現する神



 上野千鶴子は高橋かず子が決して同意しないであろうような次のような分析をしている(『サヨナラ学校化社会』pp.69-70)。ここには二重の意味での権威主義がある。

「ひとつは天才だと思える男を選んだというプライド。もう一つは自分が天才にふさわしい女だというプライドです」

 多くの場合、こんなふうに思って最初献身的であった女性も幻想から目を覚ますことになる。そして「どうしてあなたは私の献身に値しないのか」と男を責める。

 高橋たか子も、上野によれば、同じだというわけである。

「高橋たか子はそのうち現世の男を天才だと思うような幻想から覚めて、神という究極の権威に仕えるようになります。神は裏切りませんし、温泉にも行きませんから」

 信仰をこんなふうに解釈されたら高橋はとんでもないというだろうがこれが社会学の切り口であろう。

 アドラーの『人はなぜ神経症になるのか』には、「他の人を喜ばせる」のが自分の仕事だと思っている女性のケースが引かれている(pp.184-5)。夢の中で彼女はイエスとともに天国に行く。そこでの仕事は他のすべての人を喜ばせることだ、とイエスはいう。ところが天国に行くと、神様は…

「髭を剃り、薬局の広告に出てくる男の人のように見え、動き回っていました。私は大いに絶望し、立ち去りたいと思いました」

 この女性は結婚を恐れているので結婚生活が魅力的であると思ってはいけない。結婚しない決心をするためにイエスに導かれて天国に行く夢を見て、絶望するのである。

『アナイス・ニンの日記 1931~34』(筑摩書房)を目下読んでいる。アナイス・ニンは1903年フランス生まれ。十一歳の時から日記を書き始めて以後七十四歳まで書き続ける。1932年にパリでヘンリー・ミラーに会っている。『ヘンリー&ジューン』(角川文庫)は登場人物の性生活に触れすぎたため削除されていた1931年から1932年までの日記を復元した完全版である(こちらは映画化されている)。今回手にした日記もヘンリー・ミラーとの邂逅に始まる。還暦直後から書きためた日記を少しずつ公表し始めた。

 矢川澄子は解説のなかで次のように書いている。

「子供はしばしば、みとめられたいという欲求だけで重度の歩行障害に陥ったりするものだ。この子(アナイス・ニン)はしかし、病気に逃げ込むにはあまりい気丈でありすぎた。身近に見る同じ暴君(父親のこと)の犠牲者たち―非力な母や弟たちのためにも、少女はみずから率先して失地回復にあたらなくてはならない。そこで、とりあえずは一冊のノートにむかい、自分を彼に見直させるための訴状を綴りはじめる―」

 なぜノートに向かったのか? 再会した父親も、知的には互角のはずのヘンリー・ミラーも、聡明な分析医のオットー・ランクですら、アナイスにSOSを発信するよわい男=子供にすぎなかった。

「少なくともニン自身を理解することにかけて、彼女を凌駕する者はついに見当たらないのだった。ただひとり、こうした告白のすべてをだまって受け容れてくれる、日記という神様をのぞいては」(矢川)

 アドラーは、神秘的なこと、証明できないことを認めない人だった。神についてもそれは実在するものであるとは考えず、優越性、あるいは完全性の目標を具体化した観念(idea)というふうに考える人だった。

 社会学や心理学からのこのような考察を信仰のある人が納得するかは疑問だが、一つの見方として紹介した。


© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: