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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2026.09.12
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カテゴリ: カテゴリ未分類
 志筑忠雄は、ニュートン力学を紹介した「暦象新書」の訳者として知られる蘭学者です。
 ”志筑忠雄”(2025年1月 吉川弘文館刊 大島 明秀著)を読みました。
 ニュートン力学を紹介した『暦象新書』の訳者として知られ、西洋天文学や世界情勢を日本に伝えた蘭学者の志筑忠雄について、その生涯を紹介しています。
 1760年頃 長崎の商家に生まれ、幼少期からオランダ語や算術を学びました。
 志筑忠雄は長崎の通詞ネットワークの中で育ち、通詞としての活動を始めました。
 1776年に義父のオランダ通詞・志筑孫次郎の跡を継いで、稽古通詞に就任しました。
 翌年、病弱を理由にいったん通詞を辞職しましたが、その後もオランダ語と学問の研鑽を続けました。
 1780年から1790年代には、オランダ語文法や訳語の工夫に取り組みました。
 そして、革命的な蘭語学の研究を独自に進めました。
 天文学や自然哲学の蘭書を読み込み、ニュートン力学の理解に努めました。
 1790年代末から1800年代初めに、西洋天文学書を土台に『暦象新書』を著しました。
 これにより、日本で初めて本格的にニュートン力学が紹介されたのです。
 その後は、『万国管窺』『魯志亜志附録』『鎖国論』などを著しました。
 これらは写本として回覧され、幅広い知識人に読まれました。
 1806年8月21日に亡くなり、大正5年(1916年)に従五位を追贈されました。
 江戸時代を通じて、最高の通詞の一人だったと評されています。
 その生涯は蘭書翻訳に身を捧げる一方で、多病であったようです。
 大島明秀さんは1975年大阪府生まれ、1999年に関西学院大学文学部を卒業しました。
 2003年に、九州大学大学院比較社会文化学府国際社会文化専攻修士課程を修了しました。
 2008年に同大学院同専攻博士後期課程を修了しました。
 同年に、九州大学より博士(比較社会文化)を授与されました。
 2023年に、西日本新聞文化財団より第82回西日本文化賞を受賞しました。
 主な研究分野は蘭学・洋学史で、2025年から洋学史学会監事を務めています。
 志筑忠雄は、三井越後屋の御用商家であった中野家三代用助の子として生まれました。
 中野家は1775年に地役人株を購入し、忠雄は16歳でオランダ通詞の志筑家の養子となりました。
 地役人株は、貿易などに携わった長崎土着の役人である地役人の家を継ぐ権利です。
 忠雄は同家第八代として稽古通詞に就任しましたが、病を得て休職に至りました。
 稽古通詞は、通詞の職制の中で下位にある職です。
 体調が良い時は、蘭書の翻訳やそこで得られる知見の執筆活動などを行っていました。
 その後再び病状が悪化し、1786年に退役しました。
 その後、実家の中野家に戻り、天文学書の和訳に専念しながら、国際情勢の訳出も行いました。
 20歳頃から、ニュートン物理学書の和訳という前人未到の仕事に取り組みました。
 ジョン・キールの『天文学・物理学入門』蘭語版から、『天文管閥』を訳出しました。
 並行して、西洋のさまざまな雑色を記した『万国管閥』を書き上げました。
 さらに、36歳頃からロシア南下情報や西洋人日本観など、国際情勢に関する翻訳に取り組みました。
 1801年に、ヶンペル『日本誌』蘭語版附録第六編を『鎖国論』として訳出しました。
 この頃、蘭書を通して日本で初めてニュートン物理学を紹介した『暦象新書』を著しました。
 ほかにも、ネイピアの法則を案内するなど、忠雄は自然科学分野で稀代の才能を示しました。
 その慧眼と能力は、国際関係分野においてもいかんなく発揮されました。
 忠雄のオランダ語力は、同時代の水準を超越していました。
 蘭文法書と蘭文和訳論は、19世紀日本人のオランダ語読解力を飛躍的に向上させました。
 数々の自然科学分野の術語を創出したことも、日本語史上重要な仕事でした。
 「引力」「重力」「弾力」「遠心力」「求心力」「真空」「分子」「鎖国」「植民」などです。
 そして、晩年には、後進に向けたオランダ語学書の執筆を行いました。
 絶筆となったのは、1806年に著した『二国会盟録』です。
 忠雄は、主に蘭書訳出を通して、数々の新しい知識、視点、方法をもたらしました。
 著者は、それらは4点にまとめることができるといいます。
 第一に、訳業を通して自分の言葉でオランダ語理解と蘭文和訳の要諦をまとめたこと。
 その方法を、幕府の蘭書翻訳機関・蕃書和解御用の訳員だった、馬場佐十郎が学んでいました。
 このことから、忠雄の蘭語学が江戸に伝播し、爾後、オランダ語読解の水準が上がりました。
 また、忠雄のオランダ語文学書は、大垣藩の江馬家や尾張藩の吉雄常三の塾で教科書とされました。
 さらに、地元長崎において末次忠助らによって読み継がれていきました。
 第二に、『暦象新書』を代表とする天文学、弾道学、数学などを扱ったこと。
 天文学については、一部、後世の享受が確認できますが、享受者は例外的でした。
 同時代の天文学と比較して内容が突飛かつ難解で、大半は理解にまで至らなかったようです。
 弾道、数学については、これを学んだ末次忠助を通して、熊本藩の池部啓太などに継承されました。
 忠助は、忠雄門下の蘭学者で、天文学、物理学、数学にすぐれていました。
 啓太は、伊能忠敬に測量術、末次忠助に天文学、高島秋帆に西洋砲術を学んだ熊本藩士です。
 しかし、大槻平泉に伝授した天文学や数学が受け継がれた形跡は見当たらないといいます。
 平泉は、江戸時代の儒学者で、仙台藩の藩校の養賢堂の学頭として起用された人物です。
 第三に、地理誌あるいは物産分野の著作を行ったこと。
 多くは忠雄序脱落本が伝播し、忠雄の名を認識しないまま変容した写本を享受したと見られます。
 第四に、西洋に照準を合わせた国際情勢の著作を行ったこと。
 何と言っても『鎖国論』が与えた衝撃が大きいです。
 近世後期から幕末にかけて転写され、90点以上の現存写本が確認できます。
 ただし、ケンペルの論旨や忠雄の意図とは異なった形で享受され、読み継がれたといいます。
 特徴的なのは平田篤胤の影響で、日本の優位性を説く典拠として利用されたことです。
 篤胤は、『鎖国論』を世界における日本の優位性を説く際に読むべき書としました。
 そのため、国学者やさまざまな学者間で利用すべき、基本文献として定型化されていきました。
 なお、忠雄の社会的活動は短く、一次史料がきわめて少ないそうです。
 そのため、第2章以下の主要な史料は、生前の著述とならざるをえません。
 各章では、忠雄の仕事を手掛かりにして、内容や様式を検討して、その生涯を見ていくといいます。
はしがき/第一 生い立ちと通詞の辞職/第二 学問への熱情と献身/第三 学問の変容と再仕官の夢/第四 『暦象新書』の完成とその後/第五 オランダ語読解の革命/第六 晩年と没後の影響/中野家略系図/志筑家当主略系図/略年譜/生前の分野別著作・署名一覧/参考文献





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Last updated  2026.09.12 08:05:53 コメントを書く


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