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平頼綱は、若年の北条貞時を傀儡として鎌倉幕府を支配したと言われます。 ”平頼綱 諸人恐懼の外、他事無し”(2026年3月 ミネルヴァ書房刊 細川 重男著)を読ました。 やりたい放題やらかしたと悪人の評が高い、平頼綱の生涯を紹介しています。 平頼綱は、1237年頃に平盛時の三男として誕生したのではないかとされます。 しかし、正確な生年は不明です。 1256年に20歳の頃、御的始射手(おまとはじめのいて)の候補となっています。 御的始は年始などに行う的射の始めの儀式で、射手は弓を射る人です。 頼綱の活躍は、第8代執権の北条時宗に仕えたことで始まっています。 時宗は、鎌倉幕府執権職を世襲する北条氏の嫡流得宗家に生まれました。 得宗家は、鎌倉幕府の実権を握った北条氏の嫡流の家系です。 2代執権の北条義時の系統が本家となり、その法名や呼称にちなんで得宗と呼ばれました。 時宗は、5代執権である北条時頼の次男でした。 鎌倉幕府第8代執権に就任して、1268年から1284年まで在職しました。 内政にあっては得宗権力の強化を図り、モンゴル帝国による2度にわたる日本への侵攻を退けました。 頼綱は有力な御内人(みうちびと、みうちにん)として、頭角を現しました。 御内人は、鎌倉時代に執権北条氏の家督・得宗に仕えた、武士、被官、従者を指しています。 弘安7年(1284)に時宗が死去すると、子の第9代執権である北条貞時を補佐しました。 貞時はまだ13歳でしたので、頼綱は乳母父(めのとふと)として権力を強めました。 すると、幕府を支えた御家人のリーダーの安達泰盛と、将軍家の家臣のトップ頼綱が対立しました。 そして1285年11月17日に、鎌倉市内で激しく戦った霜月騒動が起きました。 泰盛とその子らは敗れ、自害したり討たれたりしました。 勝った頼綱は得宗家執事(内管領)として強い権力を持ちました。 これにより、北条氏の本家による政治の仕組みが完成したのです。 弟の長崎光綱ら御内人とともに、政権を取り仕切りました。 巨万の私財を築き、奢侈を尽くしたと言われています。 頼綱は朝廷政治にも介入し、持明院統・大覚寺統に分裂した皇統のバランスを取ろうとしました。 また、次男の飯沼資宗を将軍にしようと画策しましたが、それを嫡男の平宗綱が貞時に密告しました。 すると貞時は、永仁元年/正応6年(1293)に武蔵七郎らに鎌倉経師が谷の頼綱邸を急襲させました。 そして、頼綱と飯沼資宗ら一族90余人は、戦死したり自決したりしたのです。 細川重男さんは1962年東京都生まれ、1987年に東洋大学文学部史学科を卒業しました。 1990年に、同大学院文学研究科日本史学専攻修士課程を修了しました。 1993年に、立正大学大学院文学研究科史学専攻博士後期課程を満期退学しました。 1997年に、得宗専制体制の研究で立正大学より博士(文学)号を取得しました。 現在、東洋大学・國學院大學非常勤講師、日本史史料研究会主任研究員を務めています。 専門は、日本中世政治史、古文書学です。 平頼綱は、御内人筆頭で平・長崎氏の三代目でした。 平・長崎氏の初代は平盛綱で頼綱の祖父にあたり、長崎を称しました。 盛綱以後は、二代目の平盛時と長崎光盛の2系統となりました。 頼綱は、北条時頼の命を受けて奔走する、祖父盛綱と父盛時を見ていたはずです。 盛時を含めた得宗派の人々は、時頼への権力集中に突き進みました。 その結果、時頼は将軍の後見役として、鎌倉幕府の最高権力者となりました。 自分の家系を、執権職を独占する一族である北条氏の嫡家として確立したのです。 時宗は時頼の嫡子として、生まれながらの得宗でした。 18歳のとき執権に就任し、22歳のとき二月騒動を決行しました。 二月騒動は、文永9年(1272)に時宗の一門内で起きた北条一族の内紛事件です。 元寇を前に得宗専制を強化する過程で、反対勢力の粛清によって権力基盤が固まりました。 時宗は、将軍の源惟康を擁して、幕府の権力を完全に掌握して将軍権力代行者となりました。 鎌倉時代の1〜3代は源氏将軍で、在職は約30年弱です。 4代以降は、九条家や皇族出身の将軍でした。 源惟康は、第6代将軍宗尊親王の嫡男として相模鎌倉に生まれました。 文永3年(1266)に、父が廃されて京都に送還され、3歳で第7代征夷大将軍に就任しました。 親王宣下がなされず、惟康王と呼ばれていました。 文永7年(1270年)に臣籍降下し、源姓を賜与され源惟康と名乗りました。 実権は北条氏が握り、得宗専制政治の第一段階の得宗独裁制となりました。 頼綱は、得宗家執事・侍所所司・寄合メンバーとして、時宗に側近く仕えました。 時宗治世期は、蒙古襲来の時代でした。 幕府は緊張下にありましたが、幕府権力は前代より強大になっていました。 蒙古襲来がさしせまった状況下で、日蓮は過激な他宗批判を行い宗教対立を扇動していました。 文永8年(1271)に、頼綱は浄土宗の僧の訴状により日蓮の取り調べを行いました。 御成敗式目の定めに従い、幕府に異を唱える日蓮に悪口の咎により佐渡流罪としました。 その後、佐渡流罪から3年後の文永11年(1274)に釈免され、鎌倉で頼綱と面会しています。 時宗の嫡子である貞時の、乳母夫(うばおっと)となりました。 乳母夫は、乳母となった女性の夫、または乳母をしている妻を持つ男性を指します。 貞時は14歳で執権に就任したため、代わりに祖父の安達泰盛が実権を掌握しました。 泰盛は元寇によって窮乏していた御家人を救うため、弘安徳政を推し進めました。 しかし、不満を持った荘園領主や御内人らが反発しました。 こうして起こったのが、弘安8年(1285)の霜月騒動でした。 泰盛は政変に敗れ、頼綱が実権を掌握しました。 鎌倉幕府は、霜月騒動から48年存続し繁栄を極めました。 頼綱は、得宗家執事(内管領)に在職した7年間は権勢を極め、巨万の富を築きました。 頼綱政権期は、鎌倉幕府にとって政治的には停滞の時代でした。 しかし、大きな政争も起こらず、経済的には繁栄に向かっていました。 頼綱は、繁栄の永続を願い、自家の家格強化と皇位の交代までやりました。 頼綱の行為によって現出した両統迭立下では、分裂した各派は幕府へ接近しようとしました。 しかし、同時に幕府への敵対意識を天皇家内部に醸成しました。 やがて後醍醐天皇の登場により、その存在は反幕府勢力の結節点となりました。 これが鎌倉幕府の命運を決し、鎌倉幕府滅亡へとつながっていきました。 頼綱は、多くの政敵を倒して権力を集中させたので悪人と呼ばれやすいです。 霜月騒動で泰盛らを倒し、多くの人を滅ぼしました。 これが、残忍で権力欲が強い人物という印象につながりました。 また、頼綱は日蓮に対する弾圧に関わった人物としても知られます。 しかし、実際は、有能な実務家という面もあったようです。 頼綱は歴史研究者の問でもほぼ無名で、研究の基礎となる史料が少ないです。 また、御内人を主要な研究テーマにしているも研究者も少ないです。 第一章はまるまる御内人に充て、出自と系譜・父祖については第二章を充てています。 第三章では、時宗死去直前までの鎌倉幕府における頼綱の動向と背景を記しています。 第四章は、時宗死去から霜月騒動までを、頼綱の動向をメインに記しています。 第五章は、霜月騒動後から平禅門の乱の前までの幕府の政治状況を記しています。 第六章は、平禅門の乱と頼綱が滅んだ後の鎌倉幕府政治史について記しています。序章 今は無名の悪人/第一章 御内人/第二章 出自・系譜・父祖/第三章 平頼綱と北条時宗独裁/第四章 北条時宗没後の政治情勢と霜月騒動/第五章 平頼綱専制の実像/第六章 平禅門の乱とその後の鎌倉幕府/終章 「御後見の輔翼」/主要参考文献/あとがき/平頼綱略年譜 [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]平頼綱 諸人恐懼の外、他事無し (ミネルヴァ日本評伝選) [ 細川 重男 ]北条貞時の時代 [ 北条氏研究会 ]
2026.09.26
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志筑忠雄は、ニュートン力学を紹介した「暦象新書」の訳者として知られる蘭学者です。 ”志筑忠雄”(2025年1月 吉川弘文館刊 大島 明秀著)を読みました。 ニュートン力学を紹介した『暦象新書』の訳者として知られ、西洋天文学や世界情勢を日本に伝えた蘭学者の志筑忠雄について、その生涯を紹介しています。 1760年頃 長崎の商家に生まれ、幼少期からオランダ語や算術を学びました。 志筑忠雄は長崎の通詞ネットワークの中で育ち、通詞としての活動を始めました。 1776年に義父のオランダ通詞・志筑孫次郎の跡を継いで、稽古通詞に就任しました。 翌年、病弱を理由にいったん通詞を辞職しましたが、その後もオランダ語と学問の研鑽を続けました。 1780年から1790年代には、オランダ語文法や訳語の工夫に取り組みました。 そして、革命的な蘭語学の研究を独自に進めました。 天文学や自然哲学の蘭書を読み込み、ニュートン力学の理解に努めました。 1790年代末から1800年代初めに、西洋天文学書を土台に『暦象新書』を著しました。 これにより、日本で初めて本格的にニュートン力学が紹介されたのです。 その後は、『万国管窺』『魯志亜志附録』『鎖国論』などを著しました。 これらは写本として回覧され、幅広い知識人に読まれました。 1806年8月21日に亡くなり、大正5年(1916年)に従五位を追贈されました。 江戸時代を通じて、最高の通詞の一人だったと評されています。 その生涯は蘭書翻訳に身を捧げる一方で、多病であったようです。 大島明秀さんは1975年大阪府生まれ、1999年に関西学院大学文学部を卒業しました。 2003年に、九州大学大学院比較社会文化学府国際社会文化専攻修士課程を修了しました。 2008年に同大学院同専攻博士後期課程を修了しました。 同年に、九州大学より博士(比較社会文化)を授与されました。 2008年より熊本県立大学文学部講師、2010年に准教授、2022年に教授となり現在に至ります。 2023年に、西日本新聞文化財団より第82回西日本文化賞を受賞しました。 主な研究分野は蘭学・洋学史で、2025年から洋学史学会監事を務めています。 志筑忠雄は、三井越後屋の御用商家であった中野家三代用助の子として生まれました。 中野家は1775年に地役人株を購入し、忠雄は16歳でオランダ通詞の志筑家の養子となりました。 地役人株は、貿易などに携わった長崎土着の役人である地役人の家を継ぐ権利です。 忠雄は同家第八代として稽古通詞に就任しましたが、病を得て休職に至りました。 稽古通詞は、通詞の職制の中で下位にある職です。 体調が良い時は、蘭書の翻訳やそこで得られる知見の執筆活動などを行っていました。 その後再び病状が悪化し、1786年に退役しました。 その後、実家の中野家に戻り、天文学書の和訳に専念しながら、国際情勢の訳出も行いました。 20歳頃から、ニュートン物理学書の和訳という前人未到の仕事に取り組みました。 ジョン・キールの『天文学・物理学入門』蘭語版から、『天文管閥』を訳出しました。 並行して、西洋のさまざまな雑色を記した『万国管閥』を書き上げました。 さらに、36歳頃からロシア南下情報や西洋人日本観など、国際情勢に関する翻訳に取り組みました。 1801年に、ヶンペル『日本誌』蘭語版附録第六編を『鎖国論』として訳出しました。 この頃、蘭書を通して日本で初めてニュートン物理学を紹介した『暦象新書』を著しました。 ほかにも、ネイピアの法則を案内するなど、忠雄は自然科学分野で稀代の才能を示しました。 その慧眼と能力は、国際関係分野においてもいかんなく発揮されました。 忠雄のオランダ語力は、同時代の水準を超越していました。 蘭文法書と蘭文和訳論は、19世紀日本人のオランダ語読解力を飛躍的に向上させました。 数々の自然科学分野の術語を創出したことも、日本語史上重要な仕事でした。 「引力」「重力」「弾力」「遠心力」「求心力」「真空」「分子」「鎖国」「植民」などです。 そして、晩年には、後進に向けたオランダ語学書の執筆を行いました。 絶筆となったのは、1806年に著した『二国会盟録』です。 忠雄は、主に蘭書訳出を通して、数々の新しい知識、視点、方法をもたらしました。 著者は、それらは4点にまとめることができるといいます。 第一に、訳業を通して自分の言葉でオランダ語理解と蘭文和訳の要諦をまとめたこと。 その方法を、幕府の蘭書翻訳機関・蕃書和解御用の訳員だった、馬場佐十郎が学んでいました。 このことから、忠雄の蘭語学が江戸に伝播し、爾後、オランダ語読解の水準が上がりました。 また、忠雄のオランダ語文学書は、大垣藩の江馬家や尾張藩の吉雄常三の塾で教科書とされました。 さらに、地元長崎において末次忠助らによって読み継がれていきました。 第二に、『暦象新書』を代表とする天文学、弾道学、数学などを扱ったこと。 天文学については、一部、後世の享受が確認できますが、享受者は例外的でした。 同時代の天文学と比較して内容が突飛かつ難解で、大半は理解にまで至らなかったようです。 弾道、数学については、これを学んだ末次忠助を通して、熊本藩の池部啓太などに継承されました。 忠助は、忠雄門下の蘭学者で、天文学、物理学、数学にすぐれていました。 啓太は、伊能忠敬に測量術、末次忠助に天文学、高島秋帆に西洋砲術を学んだ熊本藩士です。 しかし、大槻平泉に伝授した天文学や数学が受け継がれた形跡は見当たらないといいます。 平泉は、江戸時代の儒学者で、仙台藩の藩校の養賢堂の学頭として起用された人物です。 第三に、地理誌あるいは物産分野の著作を行ったこと。 多くは忠雄序脱落本が伝播し、忠雄の名を認識しないまま変容した写本を享受したと見られます。 第四に、西洋に照準を合わせた国際情勢の著作を行ったこと。 何と言っても『鎖国論』が与えた衝撃が大きいです。 近世後期から幕末にかけて転写され、90点以上の現存写本が確認できます。 ただし、ケンペルの論旨や忠雄の意図とは異なった形で享受され、読み継がれたといいます。 特徴的なのは平田篤胤の影響で、日本の優位性を説く典拠として利用されたことです。 篤胤は、『鎖国論』を世界における日本の優位性を説く際に読むべき書としました。 そのため、国学者やさまざまな学者間で利用すべき、基本文献として定型化されていきました。 なお、忠雄の社会的活動は短く、一次史料がきわめて少ないそうです。 そのため、第2章以下の主要な史料は、生前の著述とならざるをえません。 各章では、忠雄の仕事を手掛かりにして、内容や様式を検討して、その生涯を見ていくといいます。はしがき/第一 生い立ちと通詞の辞職/第二 学問への熱情と献身/第三 学問の変容と再仕官の夢/第四 『暦象新書』の完成とその後/第五 オランダ語読解の革命/第六 晩年と没後の影響/中野家略系図/志筑家当主略系図/略年譜/生前の分野別著作・署名一覧/参考文献 [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]志筑忠雄 (人物叢書(新装版) 325) [ 大島 明秀 ]【中古】蘭学のフロンティア 志筑忠雄の世界志筑忠雄没後200年記念国際シンポジ/長崎文献社/長崎大学(単行本)
2026.09.12
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