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カテゴリ: 社会


 このようなわけで、たとえば、男女間の関係においても、欲望は相互に相手の肉体ではなく、相手の欲望を望むのでないならば、また相手の欲望を欲望として捉え、この欲望を 「占有」 し、「同化」 したいと望むのではないならば、すなわち、相互に 「欲せられ」 「愛され」 ること、あるいはまた自己の人間的な価値、個人としての実在性において 「承認され」 ることを望むのではないならば、その欲望は人間的ではない。同様に、自然的対象に向かう欲望も、同一の対象に向かう他者の欲望によって 「媒介され」 ていなければ人間的ではない。他者が欲するものを、他者がそれを欲するがゆえに欲することが、人間的なのである。

(中略)

 すなわち、私は私の価値が他者によってを彼自身の価値として 「承認」 されることを欲するのであり、私は私が彼によって自立した一つの価値として 「承認」 されることを欲するのである。換言すれば、人間的欲望、人間の生成をもたらす欲望、自己意識つまりは人間的実在性の生みの親としての欲望は、いかなる者であれ、終局的には、「承認」への欲望に基づいている。

                    コジェーブ『ヘーゲル読解入門』(第一章より)


 上記の書の解説によれば、アレクサンドル・コジェーブという人は、1902年にモスクワに生まれ、革命によって家族とともにロシアを離れ、ヤスパースに学んだ後にフランスに移ったという経歴を持っている。彼は、フランスにそれまでほとんど知られていなかったヘーゲルの思想を導入した人物であり、彼が1933年から1939年まで開いたヘーゲルの『精神現象学』講義には、バタイユ、ラカン、メルロ=ポンティ、サルトルなど、多数の哲学者がこの講義には出席していたそうだ。その意味で、戦後のフランス思想に、非常に大きな影響を与えた人物の一人といって言いだろう。

 上で引用した部分は、ヘーゲル 『精神現象学』 の有名な <主人> と <奴隷> という支配の弁証法についてのコジェーブの解釈である。( ついでに言うと、このコジェーブの 『ヘーゲル読解入門』 という彼の講義録を編集したのは、映画にもなった 『地下鉄のザジ』 の原作者であるレーモン・クノーという人である)

 ここで言われている、「他者による承認」 という人間の欲求については、説明の必要はないだろう。人間にとって、あるいは人間が人間となるうえで、愛情や認知、評価といった 「他者による承認」 が重要な役割をすることに、異論を唱える人はいないと思う。

 アメリカのバージニア大学で、韓国系青年による銃乱射という衝撃的な事件が起きてすでに1月が経っている。地元ではむろん、事件の傷跡はまだまだ生々しく残っているのだろうが、海のこちら側では、長崎市長の殺害事件のあと、町田の立てこもり事件、福島の母親殺害事件、それに先日の愛知の事件など、様々な事件が立て続けに起きたおかげか、すっかり話題に上らなくなったようだ。

 こういう事件が現在とくに頻発しているのかどうかは、よくわからない。たしかに、海外からの銃の密輸入などは水面下で増えているのかもしれない。ただ、福島で起きたような事件は、一定の割合で起きていることは確かなように思う。いずれにしても、人間は 「いま」 という時間の中でしか生きられないものだから、こういう事件が起きると、ある程度長生きした人間は、ほとんどが反射的に 「ひどい世の中になったもんだなぁ」 みたいな感想を持つのではないかという気がする。

 日本では、さいわいまだ銃器による大量殺害事件は起きていないが、バージニアの事件に一番近いのは、たぶん6年前に起きた大阪の池田小事件だろう。バージニアでの事件の犯人はその場で自殺したが、池田小事件の犯人は、周知のように逮捕後の裁判も終わり、すでに死刑が執行されている。しかし、この犯人の場合も、最初から自分が死刑に処せられることを前提にして犯行に及んだように思われる。

 アメリカには銃を無意味に乱射したり、弾を込めていない銃をわざと警官に向けることで、意図的に警官から射殺されることを求めるといった行為をさす、Suicide by Cop (警官による自殺) という言葉があるそうだ。池田小の犯人にはそれ以前から自殺願望のようなものがあったという話も聞くが、彼が取った行動は、まさに 「死刑による自殺」 とでもいうべきものなのだろう。だとすれば、あの事件に巻き込まれた子供たちは、彼の自殺のために殺されたということになる。これは、ずいぶんやりきれない話である。



 話はとぶようだが、古代ギリシアには、世界七不思議の一つ、エフェソスのアルテミス神殿に放火して名を残そうとしたヘロストラトス (エロストラート:サルトルには同名の短編がある) という男の話が残っている。そこから、そういう悪行によって名を残すことを 「ヘロストラトスの名誉」 と言うのだそうだ。とにかく、なんでもいいから後世に名を残したい、というような破滅的な自己顕示欲というものは、実は大昔からあるのであり、それこそ人間の歴史とともにあるといってもいいくらいなのだろう。

 福島の事件などの場合、そのような顕示欲は感じられないのだが、自己破壊的衝動というものは同じように感じられる。今回の事件の場合、少年は警察に自首したが、一昨年に東京で起きた事件などのように、少年が事件後に逃走した場合も、実際にはその後のことなどなにも考えていないようだ。そこには、たんに犯人が幼稚だったとかいうことよりも、自分自身を社会から消去したい、自分の人生を終わりにしたいというような願望がうかがえる。実際、10代の少年にとって、自分の家庭を破壊することは自己を抹殺することに等しいというべきだろう。

 こういう事件は衝撃的であり、異常性ばかりが取り沙汰される。たしかに、この少年はある一線を越えた世界に入ってしまったという意味では、了解不能な部分が残るのも事実である。しかし、人間の行動というものには、自己であれ他人であれ、またなんの異常性もないごく普通の行動であっても、つねに了解不能な部分があるものだろう。結果として表れた行動は確かに異常である。しかし、そこにいたる過程というものは、たぶんそう異常なものではないのかもしれない。ただ、ある一線で踏みとどまりそこからこちらへ帰ってくるのか、それともそのまま一線を踏み越えてしまうのかという違いにすぎないようにも思える。

 そして、その違いというのは、たぶん親という存在の大きさを相対化できているかどうかに掛かっているような気がする。思春期の子供が親に反発し、反感を持つこと自体は珍しいことではない。だが、にもかかわらず自分にとっての親という存在、あるいは親との距離を相対化できないときに、こういう事件が起きるのではないだろうか。

 その意味では、この時期の子供が「親のすねかじり」という立場であるにもかかわらず、自分の親のことを、たとえ青臭い論理に基づいたものであろうと、たとえば「ただの俗物にすぎない」みたいに、いったんは卑小化してしまうこともあながち間違ったことではないように思える。「親の心、子知らず」という言葉があるが、子供が自立していく過程では、そういう背伸びをした時期があってもいいだろうし、むしろある意味、必要なのかもしれない。

 犯行後の少年の行動だとか、彼がどんな本を読んでいたとか、どんな音楽やビデオが好きだったのかといった話が出てきているようだが、そんなことにはたいした意味はないように思う。





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Last updated  2007.05.23 10:53:23
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