悪の要素。



処女とセックスがしたいと思うのは、自分の色に染めたいから。

そう、誰も足を踏み入れたことのない真っ白な雪があったら、自分の靴で泥まみれにしたいような、ちょうどそんな感じである。

ところで「純粋な人」は汚される対象になり易い。


意地悪な世間は次のように考える。

「本当に純粋な人なんているわけがない。」

「純粋ぶっていても、少し苛めたら化けの皮が剥がれ烈火のごとく怒り始めるんだろ?」

「化けの皮の下には、僕らと同じように不純なこころを持った君がいるんだろ?」

みんな純粋な人を見かけたら汚したくてしかたない。

実際、宗教にはまるのは純粋すぎる人たちばかり。


純粋な人、もしくは、純粋ぶっている人は世間から皮肉の意味を込めて「天然」と呼ばれる。

自分で「私は天然で~す」と言っているのは論外であるが、天然と言われて良いことは一つもない。

「天然」とは「ぼけぼけしていて、意地悪しても絶対怒らない扱いやすい存在」くらいの意味でしかない。

「天然」って言われたら、馬鹿にされているだけなんですね。もしも、馬鹿にされているということにすら気が付かないなら、その人は本当に「天然」かもしれない。

僕も「清純」「純粋」「いい人」というもの憧れて目指していた時期もあったがそれは当に昔のことである。

人間的に魅力がある人というのは、得てして「悪」の部分も持つ。全く「悪」の部分を持たない人には魅力はない。

例えば、かわいらしい例を挙げてみる。

孫は人から小遣いを貰うことが禁止されているとしよう。
おばあちゃんは「お母さんには内緒よ」と言ってこっそりお小遣いを孫に渡す。孫にとってこれほどの嬉しいことはないのだ。

タバコを吸うのだって、ちょっとした悪の要素があるから、魅力敵なのだ。

20前に吸うタバコは美味い。

「あ~。やべ~。オレって悪だよ。未成年なのにタバコなんて吸ってる。」
という気持ちのおかげだ。

哺乳瓶を吸い付くのが「極悪」とされていたなら、やさぐれた中高生は競って哺乳瓶に吸い付くだろう。


しかし、タバコというのも20過ぎたら「合法化」される。僕は現在、「カッコつけるため」ではなく、惰性で吸っている。

あの頃の自分がかわいらしい。

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