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ご存知ない方が大半と思いますが、昔、魁皇(かいおう)っていう強いお相撲さんいたんです。 魁皇と言えば怪力で有名で大関まで行きました。 その時代は若貴(若乃花と貴乃花のこと)全盛期で、特に貴乃花が無敵状態でした。 細かいことは忘れましたが、オールマイティーな強さを持つ貴乃花に対して、魁皇というお相撲さんは強いは強いのですが、どこかもろいところがあり、横綱になるほどの強さはありませんでした。そんな魁皇ですが、一つだけ誰にも負けない強さがありました。それは「魁皇の右上手(みぎうわて)」です。 格上で無敵だった貴乃花が相手でも、右上手を取ると勝つことがあります。 会場のお客さんも知っているので、魁皇が右上手を取るだけで会場が大いに沸きました。 で、これをふ踏まえて私の話。 私は小さい頃から算数・数学しかできませんでした。暗記系からきしダメ。国語も社会もダメ。理数系の理科でさえ暗記系になるとダメです。。。 社会人になっても相変わらずそういった傾向があります。遺伝子レベルの問題思います。能力のなさを憂いたことも何度もあります。。 ただ、そんな私でも、算数、数学だけは他の人よりもできると思っています。自分で言うのもなんなのですが、稀にハマるとたまにひかることがあるのです。そういった時は、東大の人よりもできることがあります。繰り返しなりますが、数学という一点のみの話です。。。 私はこういった事象を「魁皇の右上手」と思っています。 素晴らしい力士であった魁皇と比べるのは恐縮ではありますが、「他はダメダメだけど、これだけは負けない」っていう一つの武器持っているという点で共通していると思います。 嫁にこの話を言ったら、次のように言われました。 「それは、善逸の「雷の呼吸」だね(鬼滅の刃のことね)」 なるほど。今風にいえば確かにそうとも言えそうだ。 言葉も時代に合わせてアップデートしていくべきと思った今日この頃でした😃
2021年02月11日
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先日、脱ステ界の権威、佐藤先生の会があったので参加してきた。 私の症状をみて、すぐに痒疹(ようしん)と診断された。 佐藤先生、さすがです。
2016年09月19日
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脇の下が痒い 肩甲骨から脇の下にかけての場所が痒い 肘の内側が痒い 膝裏が痒い 陰部も痒い 首、額、目の横も痒い 痒みの原因はシコリだ。 最近は、このしこりによる痒みと戦っている。 しこりのできる理屈は次の通り。 アトピーで痒いので掻く →傷口から細菌が入る →その細菌が体内に巡らないように、リンパ節でせき止める →せき止められたものが老廃物となりがシコリとなる →シコリが痒みとなる このシコリは皮膚の少し下の方にある。取り除くためには強く掻く必要がある。取り除く際、痛みをともなうことも多い。また、血が出ることもある。 しこりは取り除くと、その部分は痒みが治るように思う。一度しこりを取り除いても再発する場合もあるが何度も同じようにしこりを取り除いていけばだんだん程度が軽くなっていき最後はなおると思う。 こういったことは過去に太ももの内側や袋はぎでも身を持って経験している。 現在私は、ステロイド依存症やアトピーではなく、これらを経験してきたことで生じたしこりに苦しめられる。 しこり。 このシコリは脱ステの最後の試練であり、これを取り除けば脱ステは終了だ。 少なくとも私はそう確信している。 後少し、頑張りたいと思う。
2016年08月04日
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先週は辛かった。 痒みで夜ねれない日が続いた。一睡もできない日があり、あまりの辛さに次の日は午前年次をいただいた。 太もものつけねの状態が良くない。 皮膚の奥にしこりがあり、痒い。 リンパ液が固まったものだ。わかりやすくいえば皮膚の下にできたカサブタだ。掻くとシャリシャリする。過去の経験からこのシャリシャリが痒みの原因であることはわかっているため、掻き出したいのだが簡単ではない。 皮膚の下だからシャリシャリの到達するためにはまず表面の皮膚を壊さなければならず痛みを伴う。シャリシャリの到達してもこのシャリシャリは固くてはなかなか除去できない。私の太もものシャリシャリはかなり広範囲な存在しており、取り切るのは非常に大変だ。 シャリシャリとの格闘では痛みのため、あーだのうーだの奇声を上げる。 脱ステして1年5ヶ月。早い完治がのぞまれる。
2016年04月03日
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腕と首にジュクジュクがあります。 夜9時頃から四肢の痒みが出ます。 1時間程度で収まります。 痒みは最悪の時期に比べれば楽です。
2016年01月03日
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ここ2、3日、調子がいい。 劇的に良くなってきた感じがする。 夜、家に帰った時にいつも生じていた猛烈な痒みがかなり軽減され、楽になった。 ただ、まだ100点ではなく、背中、肩、腕と太ももの内側はまだ痒みがある。
2015年09月29日
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腕にしこりがあり、爪で引っかくとシャリシャリする。 さらに掻くと、シャリシャリがなくなり、神経の通った皮膚が現れる。 私は、このしこりは除去しないと正常な皮膚が再生されないと考えている。 そこで、除去した。すると、腕から滲出液がでた。痛みも半端なく、9/1は休みを戴いた。
2015年09月06日
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ここ最近変化が現れた。 夜の痒みがぐっと減ったこと。 落屑がへったことだ。 また、皮膚の所々で潤いのある正常な皮膚ができてきている。 あと少しか?
2015年08月21日
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ここ四日間、眠れた。 とても、嬉しい。 よくなってきたのかな?
2015年07月08日
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(私) パンはパンでも食べられないパンはな―んだ。 (娘) 硬いパン ・・・・、想定外の答えだが、間違ってないかも !!?
2015年06月27日
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正常な肌が広がってきたかも。
2015年06月25日
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木、金、土と三日連続で寝れなかったが、日曜は寝れた。 お陰で、今日、月は割りと元気に出勤できた。 依然として、夜になると痒みと痛みが来るが、少しずつよくなっている気もする。 痒み、痛みが割りと短い時間で落ち着くようになった。 胸に健全な皮膚が現れ、少しずつ広がっている。 腕と内腿は相変わらず悪い。 5月に一度かなりよくなったのに、6月悪くなるのは暑さと湿気だろうか? 眠くなるとき体が熱を持ち、痒くなる。 早く直って欲しい。
2015年06月22日
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木曜は、夜中、悶絶しており、布団に着いたのは12時なのに、寝れなかった。朝方、鳥のさえずりが聞こえた。 金曜は、会社が終わって帰るときに猛烈な痒みが発生。 10時から1時まで三時間、車の中で動けなくなった。家についたのは夜中の2時。 土曜は夜中、悶絶するも、なんとか寝れた。 今は、日曜の昼。 体がヒリヒリとして痛い。針山。 例えるなら、皮膚の下に剣山があり、常に刺されているような感覚だ。 少し動くのも物凄くエネルギーが要る。 同じような脱ステの経験を持つ人のブログに支えられている。 その人は、2ヶ月の針山のあと、劇的に良くなった。 自分も早くそうなりたい。
2015年06月07日
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ここ二週間、調子が悪い。 季節の変わり目だからだろうか。 暑さのせいではないか。 汗ばむと痒い。 今までと違い、昼夜を問わない。 落ち着く時間もあるが、すぐに痒くなる。 精神的にも肉体的にもしんどい。 早く、正常な体に戻りたい。
2015年05月30日
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脛の内側部の掻き壊しもあるが、腿から下が状態が悪い。 また、少し落ち着いていた、腕や脇がまた痒くなってきた。 変化点としては、プロテインを飲むようになつたことと、温暖な気候になってきたことだ。 プロテインは辞めた。 誰かのプログにあったけど、治るのは涼しくなる秋口頃かな。 関係ないけど、今日、バイクを売ることにした。XJR1300。悲しいけど、乗らないからなー。やむを得ない。
2015年04月27日
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脛の内側に固い皮膚の層があり、上から掻くと、しゃりしゃり音がする。 内側の皮膚ができていないのに、上から皮膚ができている。 いつまでも、正常な皮膚ができないと思うので、固い皮膚を掻き壊す。 すると、血が出てきて、大変だった。 浸出液もでる。 自己流だが、この処置は正しかったのだろうか?
2015年04月20日
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バアバのうちに来ている。 昨日は肌の調子が悪くてあまり眠れなかった。 今日はずっと寝ていた。 起きたのは夕方。 肌の調子はいい。睡眠が足りているとやはり調子がいいのかな。
2015年04月11日
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ここニ三日、調子が良くはなかったが、著しく悪いわけではなかった。 しかし、今日はとても痒みが酷かった。夕方に食べたクッキーがまずかったか? それとも、昨日は飲んだノンアルコールビールか、それともそのつまみか?
2015年04月09日
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ここ3日間、状態が改善。 昨日は、痒みは少なく、睡眠も十分に取れた。 最近、落屑の量が減った。 皮膚が象の皮膚のようにガビガビになり、落ちる皮膚も無い状態である。 地獄の脱ステもそろそろ終盤か。 このまま治ればいいな。
2015年04月01日
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5歳の娘が面白いことを言った。 「せいふくって自分のものにするってこと?」 嫁と私は意味が分からなかった。 「制服」は自分の服ってことかな?幼稚園の制服と私服とを混同しているのかなと思った。 娘は続けて「世界を征服するってどういうこと?」 私と嫁は初めて理解した。セイフクとは、世界を征服する征服のことなんだと。よくよく考えると、確かに世界を征服するとは、世界を自分のものにすることだ。 征服と言う言葉を知らなかったのに、文脈から推測する娘の理解力にただただ感心させられた。
2015年03月30日
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地獄の一週間を終え、ここ2日は小康状態。睡眠も取れて今までよりもずっと楽。 このまま治っていくといいなー
2015年03月27日
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昨日は一睡もできなかった。 会社から帰ってきたとたん、身体中掻きむしってします。 体からは粉粉が舞う。 掻いた後は、ヒリヒリ地獄。 体を服ですっぽり埋めた状態が一番楽。 動くのがかなり辛くエネルギーがいる。 寝床に着きたいのに、寝る前の歯ブラシを取ってくるだけでもとても大変。 寝床に着いても、身体が痛痒くて眠れない。 肌の表面から奥のほうが、痒みを催す。 身体がアレルギーに対して、戦っているようだ。 辛いけど、ステロイド依存から離脱している感覚はある。 次の朝、土曜だけど仕事があり、出社。 脱ステ四ヶ月目。 この地獄から脱っするにはあとどのくらいの期間がかかるのだろう。
2015年03月14日
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2014年11月9日から脱ステを開始。 今日で3ヶ月と半がたちます。 ここ数日、痒くて痛くて仕方がないありません。 一ヶ月目は落屑。二ヶ月目はひりひり。三ヶ月目はごわごわ。 脱ステについては、インターネットで研究し、三ヶ月目で治っている予定でしたが、まだ、全然です。 ここ数日、痒くて掻く→皮膚を壊す→かさぶた→治りがけに痒み→また掻く、の繰り返し。 日中は割りと平気ですが、仕事が終わって家に帰る時間になると、気が緩むせいか、とたんに痒くなります。 この継続的な辛さによって、神経が疲れてきてしまい、気が短くてなります。 ああ、何故神は、このような試練を私にお与えになるのでしょうか、なんて思ってしまいます。 脱ステ、恐るべしです。
2015年02月23日
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お盆は4連休で今日がその初日前回の日記を書いてから丸1年が経っています。時間の過ぎる速さにビックリさせられます。前回と同じイヤな上司の下でまだ頑張ってます。日々、忍耐の連続です。一度、大喧嘩したこともあって、一年前に較べると状況は多少好転しましたが、そんな今でも1週間に1回程度はキレそうになります。サラリーマンって逃げ場がないですね。このまま苦痛に耐えますか?それとも会社を辞めますか?って二択を迫られている感じです。サラリーマンは安定した職業と思われがちですが、最近甚だ疑問を感じてしまいます。首切りに遭うかもしれないし、精神的に追い詰められて退職に追い込まれるとも限りませんよね。そういった面では、収入面では不安定でも自営業の方が安定しているとも考えられます。私は、部下がウツになるほど追い込むということは、人の人生を無茶苦茶したという意味で犯罪に匹敵する悪行と思います。ウチの上司はパワハラと言っていいほど強烈なプレッシャーをかけてきますが、こういった上司の下でなんとかやっていくには、"いい加減さ"というのもが必要になってきます。会社というのは際限なく無茶なことを言って来るけれど、すべて真に受けて従うのではなく、どこかで線引きをし、自分を守ることも必要だと思います。馬鹿であっては駄目だけど、馬鹿になれなくては駄目って心の中では思っています。
2010年08月13日
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いったい、この上司の下であと何年働かなければならないのだろう。入社以来、苦節3年と4ヶ月。その間に嫁も子も出来ました。会社勤務という長~いトンネル。日々耐えることの連続です。私は長いトンネルの入り口からちょっと入った所にいます。これを抜けるにはあと35年の歳月を必要とします。65歳の私は意欲も体力も今よりもずっと落ちているに違いありません。出来ることも限られてしまうことでしょう。トンネルの向うにバラ色の人生が待ってるわけでもないでしょうに。
2009年08月12日
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会社に入ってから、ずっと思っていたことがある。それは「柔道がしたい。」ということ。インターネットを用いて、調べてみた。いくつか近所で柔道教室はあることがわかった。しかし、そのいずれもが小学生を対象とした教室であった。半年間、柔道から遠ざかっていたが、11月に転機が訪れた。それは県のサッカー協会会長と話が出来たことだった。その方から教えて頂いた情報を元に、探していき、ついに私の求める柔道教室を発見することが出来たのである。柔道教室は、私の住まいから車で2、30分のところにある体育館で行われているという。私は、さっそくその教室の責任者に電話をかけた。そして、「年明けに参加する」というアポを取った。そして、ついに昨日その体育館に私はいくことにしたのだ。とても、緊張した。受け入れて貰えるものなのか。教室の師範は、私をすんなりと受け入れて下さった。その教室には、高校生が10人くらいいた。2時間ばかりの練習に参加させて頂いた。1年近くご無沙汰だったせいもあり、途中でバテることもあった。しかし、久々に全力で身体を動かすことができ、とても有難かった。当初、「高校生には勝てるんじゃないかな?」と思っていた。しかし、中にはすごく強い高校生もおり、自分の認識の甘さを痛感させられた。高校生に紛れて一人だけ社会人がいる、というのは、微妙な立場ではあるが、なんとか、この柔道教室にお世話になっていきたいと思っている。彼らの邪魔にならないよう、師範に失礼のないように心がけ、今後とも参加させて頂けることを願うばかりである。
2007年01月14日
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35年間工場で働いている西村さんという人がいます。西村さんは55歳。西村さんには22歳の大学生の息子がいます。西村さんはとても愛想がいい人です。西村さんの下で働いている人たちは3~5人の契約社員です。契約社員の人は勤続3ヶ月程度であり、仕事はほとんどわかりません。契約社員の人は老齢の人ばかりです。契約社員の人は理解は遅いし、ミスは多いのです。西村さんは、とてもニコやかな人です。明るい職場を作ることに努めています。契約社員の人がミスをしても怒りません。契約社員の人がなんども同じことを質問をしても怒りません。ニコやかに教えてあげます。工場長に近藤さんという人がいます。近藤工場長は西村さんのことを「ひとつの現場しかできない人」という評価をしていました。西村さんは一つの現場しかできない人。潰しが効きません。西村さんは近藤工場長にはあまり評価されていないようです。西村さんは、いつもセカセカしています。でも、西村さんは契約社員の方にモノを頼むときにも「悪いけどコレやってくれない」というように、気遣い出来る人です。西村さんは、職場が楽しい雰囲気になるようにいつも笑っています。西村さんの息子は大学4年生。西村さんには息子の他に娘もいるそうです。職場ではニコニコの西村さん。こんな西村さんでも、もしかしから、家では家族に対してイバりくさっているかもしれません。もしかしたら、息子は父のいうことに反発するかもしれません。もしかしたら、家族からないがしろにされているかもせいれません。でも。。。許してあげてください。理解してあげてください。家族のために、こんなに一生懸命頑張っているんですから。親の心子知らず。親にならないと親の気持ちというのはわからないものとはいうけれど、一度でいいから、家族にこんなに頑張っているオヤジの姿を見せたいものです。
2006年12月05日
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私は、昨日から、私の携帯電話の電話帳に登録されている人のほぼ全員から住所を聞き出そうとしています。もちろん、聞く際に相手に私の住所を明かしておきます。この作業を通じて、すでに使われなくなったメールアドレスが多数見つかり、携帯電話の電話帳の整理が出来ました。メールが相手に届かないときは直接電話をしました。しかし、電話番号もつながらない場合もあります。そういった場合は、もうその相手とは連絡を取るすべがありません。携帯電話の切れ目が縁の切れ目になります。私は携帯電話の情報を交換しただけの友人関係に疑問を抱いています。それだけで友達と言えるのでしょうか。携帯電話を交換した二者の関係は、一方が携帯番号とアドレスを変更した際、もう一方に変更した旨に教えなかった時点で終了します。個人情報の取り扱いに慎重になっているご治世なので、第三者から情報を聞き出し、失われた関係を元に戻す、ということは極めて難しいことです。かといって、関係を失わないようにするために、例えば3ヶ月に一回程度用も無いのにメールする、というのは馬鹿げた話でしょう。いたずらに自分の時間が奪われるばかりか、メールを受けた者にも手数を掛けることになります。そこで、私が考えたのが「年賀状」です。住所は携帯のアドレスほどコロコロ変わるものではありません。携帯電話は、相手の住所を知った上でのプラスαとしては大変威力を発揮するツールであると考えます。転居しても携帯電話は変わらないので、携帯を通じて転居先を聞くこともできます。携帯電話を批判して来ましたが、居住地が変更したときには大変有効です。私には、中学校時代からずっと年賀状をやりとりしている鈴木君という友達がいます。彼と私は同じ塾に通っていて仲良くしていましたが、高校も別々になりました。普通ならそこで関係が終了することでしょう。高校1年の冬、鈴木君から年賀状が届きました。私は、彼といつ住所を交換したのかさえ忘れていました。それからというもの、私が年賀状を出さないときでも鈴木君が出してくれたり、一方が喪中の年もありましたが、次の年はしっかり出したりと、ずっとそういった関係を続け、あるときからお互いが必ず出すようになりました。私が大学4年くらいの頃でしょうか、鈴木君と実際に会うことにしました。7、8年ぶりの再会でした。中学校時代のあどけない顔を想像していたため、彼の変貌ぶりには驚かされました。その日、彼と昼食を一緒に取り、昔のことについて話し合いました。話しているうちに、昔の鈴木君と変わらない部分が浮き彫りになっていくように感じました。外見的には変わっていても内面的な部分はそれほど変わらないのでしょうか。最近、私の周りでは年始の挨拶を「年賀メール」で終えてしまう人がいます。確かに、年賀メールは大してコストも手間も掛からず、また送信してから相手に届くまでのタイムラグもないというメリットがあります。しかし、年賀メールでは、何年か後になって、誰から貰ったか、どういう文章であったかを覚えておくことは難しいでしょう。メール自体も時期がくれば自動的に削除されます。携帯電話のメモリ容量の制約もあるので、年賀メールをずっと取っておくことは難しいですし、そのメールには、労を要してまで大切にするほどの重要性はないと思います。私は電子メールを数通貰っても、心に充足感を抱くことは出来ません。それは当然です。電子メールでは、簡単に関係が切れてしまいます。そんなもろい伝達手段では何度やり取りをしてもを人間関係は成長していかないと思います。友達関係を築く手段として電子メールは適していません。「住所なんてわからなくてもメアドがあればいいじゃん」とか「悪用される可能性があるから教えたくない」という人も多いでしょう。そういう人たちとは、やはり、それだけの関係でしかないということです。特に後者の場合、メールの上でのみの友達と位置づけ、現実的な友達関係とは違った付き合い方をする他ありません。メールのみの関係であることを否定しているのではないのです。相手の意向に沿った付き合い方が必要であると思うのです。電子メールという新しい伝達手段が登場した昨今、手紙とはずいぶん古臭い手段のように思われます。しかし、手紙には、相手の筆跡、絵、添付品などの電子メールには無い沢山の情報が込められているように思います。効率を考えた通信手段はビジネスでは力を発揮しますが、プライベートをあまりにも効率化すると悪い結果につながるように思います。新しいからよいとか、むやみに古いものを大切にしなくてはと言うのではなく、両者の特性をよく吟味し、状況に応じて上手く使い分けることで、時代の波に振り回されることなく、ゆっくりと時間を掛けて人間関係を深めていくことが出来ると思います。
2006年11月26日
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8月後半の日曜日にソフトボール大会があった。うちの所長(部署のトップ)が野球好きのためだ。新人は強制参加。このソフトボール大会は、本来は7月ごろに行う予定だった。しかし、雨のため、延期を繰り返す。延期にはなっても決して中止にはならないのが体育会系のノリである。で、8月の後半にようやく開催されたというわけだ。気合入りすぎだろ…。言えないけど。ちなみに、その所長はボーリングも半端ない。マイボールを二つとマイ手袋持参し、調子のよい時は200を超えることもある。200超えのスコアなんて見たことねぇ~よ(汗)ちなみにオレ。ボーリングは下手くそ。スコアで100いけば、「う~~ん。悪くない♪」その場にいるときは、「練習しないと。」って思うんだけど、ボーリング場を出ると、めんど~で練習する気なんてなくなっちゃうんだよね。で。ソフトボールの話に戻ると、やったこともないのに、ファーストやらされてさ~。どうせ、大会するなら、サッカーにしろよな~。ってか。日曜に出勤してんだから、休日手当てだせ~。ぶつぶつ。で。まあ、ぶつぶつ言いながらも、やってみればゲームとは面白いもの。ファーストってのは、素人でも結構なんとかなるだね。投げるのは下手でも、キャッチができれば何とかなるんだ。守備の穴場。清原がファーストを守っているのは、きっと送球がヘタクソなんだ。試合前に、所長に「死んでも取れ」と言われたため、ボールを落とすまいとして、身を投げ打ってボールに飛びついたため、グローブをしていない側の指を痛めてしまった。。突き指だと思っていたが、二週間経っても痛いので、整形外科に行くことに。レントゲンを取ると、中指が骨が折れているのがわかった。ははは。ど~りで痛いわけだ。で、医者曰く「もう、くっつき始めてるから、なにもしなくていいよ。」ははは。シップ一枚貰えずに今日に至る。
2006年09月14日
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のび太は寮生活をすることになった。しかし、冷蔵庫がない。そこで、いつものようにドラえもんに頼むことになった。のび太「ドラえも~ん。冷たいビールが飲みたいよ~」ドラえもん「仕方ないな~、テュリュリュリュッテュリュ~。天然冷蔵庫~」のび太「コンビニのビニール袋…!?」ドラえもん「この袋の中に缶飲料を入れて、カーテンのフックに掛けるんだ。外に出し、窓を閉める。そうすると、(5月までは)冷やすことができるんだよ。」ざけんな。
2006年04月20日
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昨日、ピアノサークルのイベントがあった。名目は、「卒業生を送る会」である。今年卒業する私は主賓の1人だった。気持ちよく送り出してもらうはずだった。実は、サークル内には、私が嫌う男、Sがいた。一つ前の飲み会のときのことである。私のことを冗談半分でからかってくるO氏がいる。O氏は、サークル内ではボス格である。私は、O氏の音楽性の高さを素晴らしいと思っている。しかし、このO氏は、飲み会になると、頻繁に人をイジる。場を盛り上げるためだろう。イジる対象は日にもよるが、そのときのターゲットは私であった。イジるとは、ユーモアを交えて、人を困らせることである。「イジること」は盛り上がっていない飲み会を、ましにする手っ取り早い手法だ。これは、二人の間に信頼関係があった場合に使える手法である。O氏のフリには、ユーモアがなかった。全然、笑えない。しかも、話のフリ方が酷い。「で?小林くん。どうよ?」という感じである。(←イジめ。)あたかも、私の一言で場を一気に爆笑の渦にしてくれ、と言わんばかりである。気の利いたことが言えなければ、「あ~あ、盛り下がっちゃったじゃん。」というなるわけだ。(だったら、自分の力で盛り上げろよなぁ~。)お笑い芸人でもない限り不可能である。ましてや、フリの酷さのため、テンションの低い私には、なおさらである。しかし、まだO氏は許せるのである。多少の信頼関係があるからだ。問題なのは、O氏の発言を助長するS氏である。S氏は1人でいるときに攻撃性は無いが、O氏が言い始めると、力を得たかのごとく、一緒になって、騒ぎ立てる(=スネ夫)。さながら、強い犬と一緒に後ろの方からキャンキャン吠える小さい犬のようである。私は、この飲み会の後に、「よく、あの状況を耐えた」と自分を誉めたことを覚えている。それほど、酷かった。S氏とは、まだ、信頼関係は築けてはいない。だから、S氏に言われるとカチンとくるのである。さて、これは2月の飲み会のことだった。これからが昨日の話。いろいろとあったが、親しげに話し掛けてくるS氏を前にして、以前のことは水に流そうと決めた。私は彼に対する不快感を露わにしなかった。しつこく話し掛けられるので、適当に相槌を打つ。相槌を打つだけでは、不自然なので、私は、たまには興味深げにS氏に質問をしたり、笑いかけたりするといった按配だ。何故か、S氏は私にばかりカラんできたように思う。私がメンバーの中でも話しやすいのだろうか。S氏はよく話す。しかし、一方的。他人同士が話していても、いきなり、割り込んで来ては、自分の考えを述べたり、浅薄な知識を披露してくる。あまり、人の話を聞かない。彼の話の多くは、ゲーム、マンガ、スポーツであり、内容が彼の世界でのみ通用するマニアックなものだ。別の人と楽しく話をしていても彼に阻害される。私は、そんな彼に辟易していた。打ち上げの飲み会になった。私は、S氏と離れた席に座りたかった。しかし、彼は私の横に座ってきた。私は、露骨に避ける態度を出すのを良くないと判断し、S氏とは隣り同士で座ることを受け入れた。以前のこともあり、私は初めからテンションが低かった。O氏に「こいつは、飲むと説教くさくなるから、飲む前に一言を貰おう」と言われる。私は、あまり、多くは話さなかった。なぜなら、私が何か発言すれば、O氏とS氏の嘲笑、私が窮するような質問や、むやみに乱発される盛り上げの要求などが、矢のように向かってくる、ということを知っていたからである。私は、主賓として迎えられているハズだったのに、イジめ受けていたわけだ。私の勘に触ったS氏の発言の中で、覚えているものを挙げてみる。私をつつきながら「酒を飲むと、キャラが変わるね」支払いで2000円を払うとき、「2万円払ったら?」「モテんじゃ~ん。ひろしー。ひろし~。」もう、ホント、意味不明なんだけど、人を嘲りたいという空気は持っているんだ。リアクションは取りにくいし。私は腹わたが煮え繰り返るほど、不愉快に感じていた。しかし、表面的には然も無いかのごとくとりしましていた。飲み会の最中、1人にだけ私の気持ちを打ち明けた。その人は「言われるまで、全然、気が付かなかった」と。O氏に、「一次会のあと、二次会、三次会に付き合うよ」と言った。私は、「明日の朝早くからヤボ用がある」ということにし、一次会の途中で帰った。酒に酔っているから怒りっぽくなっているのではなかった。S氏をブッ飛ばしたい気分だった。怒鳴りつけたかった。しかし、場の雰囲気を壊すのはなんとしても避けたかったのである。さて…。今日の朝は、最低の気分だった。これだけ人に不快感を与えるとは。しかし、一度ならず二度までも。むくむくと怒りが募ってきた。私はブチ切れた。許さん(怒)S氏に電話を掛けた。私が話した内容の詳細は覚えていない。相手は、寝起きだったようで、キョトンだった。まさに、寝耳に水。確か、最後に、「二度とオレに話し掛けてくるんじゃね~。ボケ~!!」と言って電話を切ったのは覚えている。電話を掛けたのは、朝の10時だった。10日間くらい、S氏を宙ぶらりんの状況にしたかった。彼に苦しんでもらいたかった。自分が何をしたのか、何が悪かったか、ということを考えて欲しかった。S氏から電話があったのは、今日の午後4時だった。半日で、電話を掛けてくるなんて、甘い、と思った。「うぜ~な。」と思い、着信を3回ほど無視した。可哀想なので、4回目には出てあげた。「なんか用?」。ぶっきらぼうに出る私。S氏から以外な発言が、「もう、許して貰えないかもしれないけどさ、僕が何をしたのか、何が不快にさせたのか、それだけは教えてくれない?」だと。…う~ん…こいつは、自分が人を不快にさせていることにすら気付いていなかったんだ。とチョット驚いた私。そして、私は、彼が私にしたこと、それに対して、私が感じたことを、(どんな馬鹿にでもわかるように)わかりやすく説明した。彼は消え入りそうな声でこういった。「ごめん。」。朝の電話を受けてからずっと悩んでいたそうだ。途切れがちな会話は20分ほど続いた。彼は、こうも言った。「今まで、こんなに怒ってくれる人いなかったから、指摘してくれて嬉しいよ。だから、ありがとう、って言ってもいいかな?」"ありがとう"は丁重に断った。私は、単に、自分の主張をしただけ。"ありがとう"と言ってもらうことはない、と思った。私のブチ切れ電話が、予想以上にダメージを与えているのを踏まえ、私は、彼のフォローに回らざるを得なかった。。。(メンドクセ~なぁ)「いやぁ、人生は、こういうことの連続だから。」「喧嘩するのも必要で、その後には、以前よりもわかりあえるよ。」「いやぁ、わかってくれれば、いいんだよ。オレは根に持つタイプじゃないから。」などなど。。。。(なんでオレがフォローしてんだぁ~。)まあ、いい。とにかく、こうして、一件落着。O氏は、別に問題ではない。O氏の拡声器の役割を担っていたS氏の存在がイタかった。まあ、他にもいろいろと話した。私は、S氏の悪態を指摘し、そして、そのフォローをする。言いたいことは全部いったので、すっきり。可哀想に、今日は、S氏にとって、人生でも忘れられない日になったことだろう。
2006年03月12日
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勉強も難しいが、人間関係は、それ以上に難しい。勉強の能力は、人間関係があった上で、発揮できるものだから、いくら頭がよくても、仕事ができる人とは言えない。勉強はイマイチでも、人間関係が円滑に行える人は、それだけで、仕事ができる。こういう人こそ「できる人」と言えるのだろう。人間関係、信頼関係とは、一朝一夕で築くことはできない。。長い年月をかけて、ときには、腹の底から怒りを覚えたり、楽しいこともあったりと。一時の感情で、それらすべてを台無しにしてしまうこともあり、賽の河原のように、また、0から積み上げていくこともあれば、確固たるピラミッドを作りあげるものもいるだろう。僕自身、「あのとき、人間関係を放棄しなくてよかった~。」と思ったことはいくらでもある。楽しいことばかりではない。不愉快なこともある。でも、それらを許したり、妥協したりしながら、少しずつ、積み重なっていくのが人間関係というものだ。ニートの人口が80万と聞いた。ニートの中には、初めから就業意欲のない人もいるだろうが、会社での人間関係、仕事上、苦境に立たされたときに、耐え切れなくなった人もいるという。世の中には、必ず、嫌な人、嫌な上司、というものはいるもの。僕自身、「ああ。コイツさえいなければ。」と思うことがよくあるが、もし、「コイツ」がいなくなったとしても、また、「第二のコイツ」、「第三のコイツ」という具合に、無限に新しいコイツが現れるだけである。会社という組織は、仲良しグループでは成り立たない。ノルマを達成するために、上役が叱咤するのは必然だ。嫌なこと、苦しいこと。これらは無いほうがおかしいのであり、そんな会社があったとすれば、経営は右肩下がり。上役も下役もなく共倒れることになる。しかし、苦しい状況と言うものは、何年も続かないものだ。同じ日はなく、状況は、日々刻々と変わる。3年から5年のスパンで考えてみれば、自分を取り巻く状況もずい分、変わってくることだろう。必要なのは、その試練の何年間の時期を乗り越えるだけの体力と器用さである。「あ~。もう、やだ~。」と言ってしまっては、また、0からの出発になる。今度は、前回とは違い、同期に遅れをとっているため、より過酷な条件の下で働くことになる。前の会社で放棄した人が、新しい会社に入ってやっていけるか。これは、ケースバイケースであるが、その多くは、同じことを繰り返すことになるのが現状だ。一朝一夕にはいかないのは、会社も人間関係も同じ。耐えたことが報われる日は必ずくるハズ。試練こそ力を発揮するチャンスと捉え、頑張っていきたし。
2006年02月05日
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ネットというのは、便利であるが、その弊害も多い。こんなことは、ちまたでは、当たり前のように言われるが、実際にそうだ、と思えることは何回かある。メールを通じて、誤解を与えてしまう。与えられる。そんな経験を持つ人も多いのではないだろうか。たとえば、会ってるときに、「あほだな~。」って言われるのと、掲示板に「あほだな~。」って書き込まれるのとでは、受ける印象が全く違う。また、会っているときならば、その場だけの会話になる。しかし、掲示板に書かれると、文章が残る。何度もその文書を読み返すことができる。また、第三者がその会話が見れるということもある。このように、会って話すのとは、違った影響力を持つだろう。相手の顔、言い方、雰囲気。こういうものは、メールからは伺うことはできない。会って話すのに比べ、情報量は圧倒的に小さい。情報量が小さいのに、影響力が大きくなる、とすれば、被害は甚大になろう。東京電力の社長がこんなことを言っている。「いくらインターネットでグローバルな社会が進んだとはいっても、会って話すことの重要性はいささかも衰えていな。」家庭教師の生徒のお母さんに、「先生の教え方は歌の歌詞を教えたりして、息子が英語が嫌いになった、と申しております」というメールを貰った。僕は、てっきり「私」のことを指して言われている気がし、大層、憤慨したものだ。あとで、人づてで聞いてみると、その「先生」というのは、「学校の先生」を意味していたらしい。お母さんとは、普段から会っている関係であったが、それでも、こうしたことが起こるのだから、ネットだけでは、もっと大きな誤解を招くこともあるだろう。最悪なのは、ネット上での喧嘩。自分が安全な場所にいることをよしとし、相手のことを非難できる。また、受けた文書は、永久に残すこともできる。誤解を解くこともできなければ、妥協をしなければ、泥沼の戦いになることだろう。こうしたことを受け、ネットとは、「実際に会って話す」ような関係があって、その+αとしての連絡用ツールとして使うことが妥当ではなかろうか。ネットにはいろいろといい点もたくさんある。悪い点があるから、使わない、というのではなく、いい点と悪い点を、よく見極めた上で、上手に使っていくことが賢いネットの使い方だと思う。
2006年02月04日
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さて。小、中学校時代の友達からミクシーを通じて連絡があったので、中学時代のことについて思うところがあったので、簡単に書いてみる。僕が行っていた中学は、不良の巣窟であった。区(人口50万)で、警察に補導・検挙された中学生のうち、60%がウチの中学校の生徒というものだった。ガラスの修繕費は年間100万円。授業中、歩き回る上級生。だぼだぼのズボンを下級生に渡しにきたり、二階から椅子が落ちてくるは、喧嘩は起こるは、ローカや体育館を自転車で走り回る人がいる、という状況だった。中学一年の終わりの方になると、友達が友達でなくなり、不良になっていくのに驚かされた。タバコを吸う、髪を染める、ピアスをする。ズボンを腰の辺りまで下ろし、ぶかぶかに履く。当時、僕はというと、私立中学校の受験に失敗し、当公立(不良養成)中学に入学した。中学校受験では、同じ私立中学を受験した小学校時代の友達は合格し、僕は落ちた。"頭がいいこと"をウリの一つにしていた僕としては、これは耐え難い屈辱だった。その無念を晴らすべく、勉強をした。友達と遊ばずに、とにかく勉強をした。中学2年のときの話である。クラスは、完全に二つのグループに分かれていた。一つは不良系。バカをやって、仲がいいものでつるむ、活発でクラスの中心的なグループ。権力は絶大なものがあった。もう一つは、面白くない大人しいオタクの権力のない系グループ。当時の僕は、人と遊ばなかったこと、話題性に乏しいこと、不良の素質がなかったこと。精神的に不安定な時期であったこと。身体が小さかったこと。いろいろな理由があったが、とにかく、「権力のないグループ」に分類されていた。さて、権力ない系グループとは何か。別に仲がいいからグループを組んでいるわけではなかった。活発グループに入れない人が追いやられてできた集まりである。烏合の衆と言っていい。所属していても当然、面白くない。権力ある系グループに直接なにかされるわけではないが、何かにつけて、虐げられていた。中学に入り、権力ないグループに分類されていた僕は、常に、クラス内での自分の位置ずけに対して不満を感じていた。小学校時代、なにげに人気者だったがゆえ、プライドが高かったのである。いま思うと、申し訳ない話であるが、当時としては、"そのグループに所属していること自体、恥ずかしくて仕方がなかった"のである。所属しているだけで、"下"に見られるのがイヤだった。だから、なるべく、グループでつるまないようにしていた。1人でいた方がいくぶんマシだったのだ。中学校では、本当にカスのような扱いをされていた。日々、悔しくてしょうがなかった。不良は、バカやって、友達が多くて、いつも、大勢でつるんでいて。ルールがない。権力がありすぎて、喧嘩にもならない。不良同士の結びつきは強いので、個人ではどうすることもできないのである。当時、考えていたことを思い出す。「こいつらと、今、喧嘩しても勝てないのは認める」「でも、ボクシングで喧嘩でもいいが、同じルールのもと、一対一で、戦ったら、不良のうちの半分には勝てる」このように僕は負けず嫌いではあったが、現実、連中の前には手も足もでなかった。身を小さくし、火の粉が降りかからないようにするだけだった。テストで100点を取っても隠していた。ここでは、頭がいいことは何のステータスにもならない。バカほど嫌味がなくてよい。面白い方がよい。喧嘩が強い方がよい。0点を取る人の方がよほど大手を振って歩けるわけだ。そんな中にあって、僕は、すべてのノートの隅に覚えたての英語のことわざを書いた。「He laughs best who laughs last(最後に笑う者が最もよく笑う)」不良達は、今、いい思いをしているが、最後に勝つのは、このオレだ、と思っていた。中学時代の3年間というものは、当時は、永遠の長さのように思えた。その時代の地位や権力がすべてのように思えた。自分の考えが誤りでは、と何度も思ったことか。しかし、僕は、中学受験に失敗した悔しい思いを胸にしながら、シコシコと勉強した。お陰で、僕は全国でも上位に入る高校に受かった。中学の友達に僕が行った高校を知る人は、ほとんどいなかった。不良以外の者も、成績の良し悪しの基準は専ら、定期テストや内申点にあった。都立西高校を筆頭とし、富士、豊多摩…と続く。はっきり言うと、彼らの最高峰、西高校ですら、開成、筑駒、筑附、学芸レベルからすれば、カスに等しい。だが、僕は全く気にしなかった。別に褒めて貰おうなどいう気持ちは毛ほどなかった。「勉強ができてスゴイ」などと言って貰おうなどという気持ちはとうの昔に捨てていたからだ。だから、今でも、生徒には「勉強とは自分のためにするものだ」言っている。「お母さんが喜ぶから」とか「友達にスゴイと言ってもらいたいから」などという甘っちょろい考えは捨てろ、と教えている。最近、町では全くと言っていいほど不良だった人たちを見かけなくなった。ある年齢になり、我々に、好きな人以外と付き合わなくて済む権利が与えられたとき、彼らはどうなるだろう。彼らに対して、悪い感情を抱いている人は多い。不良から暴力団になればそれなりに生きる道もあるだろう。だが、その道もイバラの道である。だが、そこまで気合の入ったものも少ないだろう。大半は、一般の人と同じ生活を送ることになる。そのときに、彼らは、お日様のもと、大手をふって町を歩けるだろうか。彼らは、あまりにもやりすぎたのだ。僕は、一流大学へ進学し、一流企業へと勤めることになっている。このように、僕は、自分が一段高い階段に歩を進めるたびに、立ち止まってみて、振り返り、そして、確信を強めるのだ。自分が正しいと思ってきたこと。自分が選んできた道。これまでの生き方に何一つ間違いはなかった、ということを。それが、自分をさらけ出せる理由であり、現在と将来における、推進力の源になっているのである。
2006年02月02日
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私は貧乏学生のため、割引商品を狙い午後10時にスーパーの惣菜売り場を徘徊するというハイエナのような生活をしている。こちらはレジ店員の顔を覚えてしまった。逆に向こう側にも覚えられてやしないかビクビクする毎日である。「あ~、あの割引商品ばっか買っていく学生ね。恥ずかしくないのかしら~。」「いや~ね~。」という会話がスーパー裏の給湯室でなされているに違いない。昨日は、幸か不幸か、割引商品がなくなっており、定価でしか買えなかったが、胸を張ってレジに立ったものだ。今日、おにぎりが半額だったので、二個買おうとレジに持っていく。店員が読み上げていく。一個目のおにぎり。「こちらの商品、半額になります。」「ピッ」(←スキャン)二個目のおにぎり。「こちら商品も半額になります。」「ピッ」機械的に、「こちら商品、半額になります。」「こちら商品、半額になります。」と続けて欲しい。「も」がとても恥ずかしいのだ。「あなたは、この商品『も』半額で買おうとされているんですね。」といわれていれるようだ。(もちろん店員にそのつもりはない。)ああ、すいませんね~。私は貧乏学生なので、半額商品を二つも買いました。悪いですか?もし、お売りになりたくなければ、初めから商品を半値で陳列されなければよろしいでしょう。私は心の中で開き直る。実際はただレジを打つ店員と客。そこには、知られざる自分との戦いがあるのである。
2006年01月10日
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今日は、おせち料理を食べ、お雑煮を食べました。 姉夫婦が遊びにきてました。 25にもなってお年玉を貰ってしまいました。 今年が最後のお年玉になることでしょう。 幼少期にはもろ手を挙げて喜んでいたものですが、この歳になると、お年玉を貰って嬉しいと感じなくなりました。 むしろ、申し訳ない気持ちでいっぱいであり、苦痛に近い感情を抱いてしまいます。 「ああ、すいません。あなた様の命の一部をたいした理由もなく譲り受けてしまって。」と思うのです。 さて、正月だというのに、研究が心配なので、大学にいます。 道中、不愉快なものを見てしまった。 客を拾おうとして、強引に割り込んできたタクシーに、ワゴン車が激怒。 車から出てきたオヤジはタクシーのドアをバンバン叩きながら、「開けろよ。」と怒鳴る。 新年早々あんなに怒んなくても、と思った。 タクシーは振り切って逃げた。 オヤジもオヤジで、一度抜いた刀を今さら納めるわけにはいかなかったのだろうか。 オヤジはすばやく車に乗り込み追いかける。その後、そのタクシーとワゴン車がどうなったかはわからない。 僕は「助けに行けばよかったかな。」と考えたが、とばっちりを食うのはヤだし、「タクシーもねぇ」と思ったり。 で、結局見てただけです。すいません。ここは、都会砂漠でした。 でもさ。こういうときって、絶対にドアを開けちゃダメね。アレが運チャンの身を守っているんだね。でさ、タクシーは、警察に駆け込んで、解決してもらうのがいいね。 あと、日頃から身体は鍛えておくべき。男の社会は厳しいな。
2006年01月01日
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震度5強の地震が起きていたら、死者が出ていたかもしれない。偽装は確かに悪いこと。姉歯のやったことは、悪いことなのである。しかし、心情的な見地からみて見れば、彼も被害者の1人だった、ということがわかってくるはずだ。可哀想な彼の境遇を知れば、同情の余地さえ生まれてくるかもしれない。姉歯には4人の家族がいる。病気の妻や未就職の息子たちを支えなくてはならなかった。他の業界に比べ、建築業界が不振なのは有名だ。そんな中、木村建設に「できなければ仕事をやらない」と脅される。偽装をしなくては生きていけない。苦渋の決断の末、姉歯は悪事に手を染める。今日は姉歯の証人喚問があった。弱い部分を必死で隠しているようであり、今にも泣き出しそうでもあるような面持ちであった。姉歯の返答は、弱弱しい声だが的確なものだった。頭のいい人に違いない。罪を認め、いかなる罰をも受け入れる覚悟ができているのだろうか。すべてを正直に話す彼の心中を察するあまり、私は目頭が熱くなった。
2005年12月14日
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25年間都会に暮らしてみて、都会に対する疑問を書いてみた。都会の物件は高い。いったい誰が買うのか、という値がついている。3LDKのマンションでは4000万~5000万はする。子供は2人が限度だろう。管理費は1万5千円。別途車庫代を取るマンションもある。先日、30代の夫婦がウチの近所に家を買った。価格は7000万円。65歳までローンを組んで買ったという。そうまでして、都会に住むメリットとはなんなのだろう?と思い、考えてみた。都会には一流があふれている。地方で名を上げた企業は東京に進出する。お笑い芸人だって、歌手だって、東京で売れたいと思って上京する。物が手に入りやすい。出版物でも他よりも早く手に入れることができる。服のセンスだっていい。品数が多いから選びやすい。上野に行けば、年中、美術展が開かれている。オペラ鑑賞、スポーツ観戦にしても行こうと思えばいつでもやってる。さて、果たして、それらのメリットを享受できる時間とお金を持て余した人がどれだけいるか、ということだ。給料が700万円の人がいたとしよう。身を粉にして働いた金は、住宅ローン、生活費、育児費、税金に当てられる。生きてためだけ以外にも、交際費、カルチャースクール、スポーツ施設への費用、車の維持費。他にもたくさんの費用がかかる。子供が大学に行くとなれば、その費用を捻出しなくてはならない。塾の費用もかかるだろう。このような状況の中で、観劇などを楽しむ時間とお金と体力があるだろうか?時間とお金を持ち、都会を生活を満喫しているのは、ごく一部の層の話である。都会というところは、働く場所であり、住むところではない、というのが僕の意見だ。農作業のできない冬に出稼ぎにくるのが東京の使い方として正しいと思う。主な放送局は東京にある。NHKもフジテレビも日本テレビもだ。地方で成功した人は東京に進出してお金持ちになるかもしれない。IT企業の社長が今、持てはやされているが、六本木に住み、ヒルズ族と呼ばれている。いかにもステータスがありそうだ。一流の人、物の集まる場所が東京。僕は、そういうイメージが、異常なまでに東京を憧れの対象に仕立て上げている、と考える。僕は、東京に対して、疑問を抱き続けていた。「東大を出て一生働いても家一つ立たない。」建ったとしてもローンにがんじがらめ。夫婦共働きも強いられることもある。友達の母親は、家を建てたあとに、自殺をした。家のローンは保険金で返済した。彼女は、薬剤師の仕事が忙しく、数十人もの顧客を抱えていた。もし、住宅ローンが無ければ、薬剤師を辞めることもできたはずだ。これでも「世の中は金ではない」と言えるであろうか?金だけではないが、金はかなり重要な位置についていることは紛れもない事実。金、金というのは品位のない、下賎な人間と思われる。僕自信、そういう人間は好きではない。しかし、現実をよく見据えてみれば、お金というものの力は絶大であることがわかる。資金力があれば、テレビ局を乗っ取ることだってできる。それが資本主義社会というものだ。資本主義社会においては金は神様である。カネカネいうのは下賎な人間だと言ったが、もし、その彼に一生使っても余りあるほどのお金を与えたら、二度とカネのことをクチにしないで済むだろう。無いから執拗なまでに求めるのである。都会においては、「上品だ、ゆとりがある」というのは、お金がある、ということの指標にはなれど、このことから人間性までを評価することはできないのである。「世の中はお金ではない」というのは危険である。そう考えると、現実との食い違いから、損や失敗をすることは免れない。「世の中を動かしているのは、金であるが、それを踏まえた上で、欲望に惑わされず、お金じゃない部分も大切にしていきたいね。」と考えるのが賢明だと僕は考える。さて、都会の悪い点についてもう一つ。人間関係が希薄、ということ。我が家の近所では、向う三軒両隣くらいは、面識はある。20年くらい住んでいてこのくらいである。面識があると言っても、行ったり来たりするようなことはない。ゴミ出しの時くらいに顔を合わせて、会釈する程度のものだ。どの家もいかめしく門を構え、不審者の進入を許さない。都会には雑多に人間が往来するためセキュリティーが厳しい。その結果、不審者どころか、ご近所さんも容易受け付けない様相を呈すのである。電車では、毎日、すし詰めに押し込まれたサラリーマンとOLが神経質そうな面持ちで目を閉じたり、音楽を聴いたりしている。僕はこういう状況に遭うたびに、貨物車にすし詰めにされた家畜か奴隷船を思い浮かべる。これは人間の扱いではない、と思いながら。そもそも、人間には相手との一定の距離が必要だ。自分の尊厳を示すとともに、相手への敬意を示すものである。その距離は国によって違うらしい。何かの文章でよんだ。人間も動物であるため、テリトリーというものがある。「これ以上他者を近づけると身の安全が確保できない」というボーダーラインである。満員電車を極度に嫌う人の話を耳にするが、その人は、きっと防衛本能の強い人に違いない。こう感じる人の方がむしろ正常だ、と思う。満員電車の椅子に座り、無防備に顔を上げて寝ている人がいるが、いきなり殴りかかられたらどうするのだろうか。僕も顔を下げて眠ることがあるが、いきなりアッパーカットが飛んできたら、対処する自信はない。僕はそれほど防衛本能が強いわけではないが、駅のホームでは背後に気をつける。後ろからタックルされてホームに落とされることを懸念してのことだ。自殺者と心中はごめんだ。つまりだ。人と人の間には一定の距離が必要なのだ。その距離が人間を人間たらしめる。しかし、都会ではその距離が守られないので、トラブルも発生するということだ。都会には人が多い。満員電車に乗ると人だらけ。だが、知り合いは1人もいない。都会はお金がかかる。生きているだけでお金がかかるのである。すべての場所は誰かのものであり、そこに留まっているにはお金を払わなくてはならない。都会においては、止まっているのは悪である。路上に車を置くのは悪である。駅に自転車を置くのは悪である。スーパーマーケットで長い時間売り物の前で立ち止まっているのは悪である。他の人の買い物の邪魔になるからである。常に動いてなくてはならない。止まるならお金を払わなくてはならない。払うために稼がなくてはならない。ニュータウンという、同じ棟が林立したアパート群を見るとゾッとする。通勤時間1時間以上もかけ、一生懸命都心に向かう必要などこにあろうか。先日、事件で女子高生が殺された事件があったのは町田のニュータウンである。次に、都会で1人暮らしをすることを考える。新入社員の給料は20万。1人暮らしをしようとしたら、アパート家賃が7万。食費、被服費、交際費を含めると、20万なんて一瞬で吹き飛んでしまう。貯金もできなければ、ただ生きているだけ、という状況だ。そんな人生に対しては疑問を感じてしまう。親元から通勤するのはどうか。まず、カッコ悪い。マザコンかと思われてしまう。彼女も家に呼べない。実家に車を余剰に置くスペースがなければ、車は持てない。駐車場を借りたら月2~3万円かかる。こういった状況の中、都会で晩婚化、少子化が進むのは当然である。女性の平均結婚年齢が29歳と聞いた。就学前の児童の医療費負担が3割から2割に引き下げられたとあったが、そんなものは気休めにもならない。友達と遊ぶにしても、都会にはカラオケと飲みとボーリングしかやることがない。趣味が合えば、美術館めぐりや、美食の食べ歩き、スポーツ観戦、音楽鑑賞などもできるが、誰もが楽しめるものではないし、それぞれお金がかかる。遊ぶためにはお金が要るため、お金を稼がなくてはならない。だからみなバイトに明け暮れる。2人が会うのは比較的容易だが、3人以上になると予定の調整に大変な苦労を要する。都会砂漠。人が多いゆえに、人は警戒心を増し、容易に他者を受け入れない。非常識なことをしても、同じ人と二度と会わなければ、その行いは後を引かない。嫌な人とは、携帯から番号を消去し、着信拒否するだけで、他人になれる。代わりはいくらでもいる。友達になるには、ある逃げられない環境が必要とする。都会にはいい意味でも悪い意味でもいくらでも逃げる場所があるので、「いやになった。別れる」ということになる。家族は嫌になっても逃げられない。だから、喧嘩する。しかし、大人になればなるほど、親、兄弟というものが掛けがえのないもののように感じられる。友達とは喧嘩することが必要であり、喧嘩することでお互いを理解していくことができる。一度嫌な思いをしただけで、「はい終了」というのでは、人間関係はサイの瓦である。好き勝手した果てに、手元には何一つ残らないのである。
2005年12月01日
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僕は塾講師をやっている。生徒同士の話が面白かったので、ここに記すことにする。中学1年のショウは運動神経がよく、金持ち私立中に通うおぼっちゃんである。しかし、やんちゃでませている。一方、忠太は、公立中に通う。学年は2年とショウより一つ上だが、甘えん坊で気が弱い。授業中にショウが忠太のところへ来て、真顔で言った。「ねえ。おまえ、どうしてそんなに面白くないの?ねえねえ。どうしてなの?」忠太は言葉に詰まる。返す言葉がない。また、じゃれあいながら、パンチなどしている。もちろん笑える範囲であるが。僕は、忠太の元からショウを追っ払おうとして言った。「おまえ、向こうにいけ。からむな。」ショウは、ナメたように顔を歪めながら、「はぁ?キャラメル?」と憎たらしくとぼける。僕は若干むかつきながら、ショウを睨みつけ、もう一度言った。「からむな。」ショウは、その言葉を無視し、別の人とまた楽しそうに話をし始めた。僕は「ショウに嫌われたな」と思ったが、イジめ(のようなもの)を見逃すよりは、嫌われたほうがましだった。すぐにはわからなくても、少し大人になれば、僕が言ったこともわかってくれるんじゃないかと思った。これが二週間前の話。先週は塾が休みだったので、ちょっとした諍いの後に、ショウに会うのは今日が初めてだ。僕としてもいささか塾に行きたくない気持ちがあったが、いつものように行った。塾に行くと、塾長にクリスマスの装飾を頼まれた。装飾をしていると、ショウが来た。僕はショウに対していつもと同じように接したが、ショウは僕に対して少し挑発的だった。「あ~、きっと先々週のことで嫌われたんだな~」と思った。あんまり、続けて怒るのもいたずらにショウとの関係を悪くするだけだ、と思ったので、今日は基本的に大らかに構えていた。さて、授業中。今日もショウは忠太に絡んでいた。ショウは言う。「調子こいてんじゃね~よ。おまえ。」忠太も必死で反論、「は、ふざけんな。」とは言っても、忠太の方が圧倒的に弱い。ショウにとっては冗談かもしれないが、忠太にとっては笑えないのである。ショウは授業の終わりにこんなことも言った。「よくそんな顔で頑張って生きてるね。」これには僕も笑ってしまった。中学生にしか思いつかない台詞、大人には絶対に言えない台詞だ、と思った。ただ、ショウは僕を意識してだろうか、今日は前回に較べると忠太に対する追撃の手が控えめになっていた。彼もわかってくれたんだろう、と思い、僕は少し嬉しかった。そして、ショウと僕の関係も改善していたのである。おわり。
2005年11月30日
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世の中には、「矛盾」という言葉があります。世間では、「それ、矛盾だよ。」などという言葉をよく耳にします。しかし、果たして本当に世の中に「矛盾」というものが存在するのでしょうか?私は、世の中には何一つとして「矛盾」などない、と考えます。「矛盾」な出来事、たとえば、今日だけ太陽が西から昇ったり、人が今日から急に空を飛べるようになったり、という現象を矛盾というのでしょう。たとえ、実際に太陽が西から昇ったとしても、物理的にちゃんと原因があり、ただ、それが人智には及ばない現象だった、というだけにすぎないのです。「矛盾だから、太陽が西から昇ったなんてオレは信じない。」といくら言ったところで、起こった事実は変わりはしません。ところが、世で言われている「矛盾」というのは、私が今述べたような「物理的にありえない現象」という意味ではないようです。例えば、「やつが出世して、オレがヒラのままなんて、世の中矛盾している。」とか、「あんたの言っていることはさっき言ったことと矛盾している。」などという使い方をします。矛盾だろうが、なんだろうが、世の現象は、実際に起っているので、相手に「それは矛盾だ。」と言われようと、存在する事実なのです。矛盾したことなんて何一つありえないのに、なぜ、矛盾と言う言葉が横行しているのでしょうか。「矛盾だ。矛盾だ。」という人は、自分である前提を決めちゃっているんです。先ほどのヒラ社員の愚痴の例を見てみましょう。きっと彼は、「努力した人は報われ、努力しない人は報われない。」という一般に社会的に考えられている通念に沿った"前提"で考えているのです。その人からすれば、「オレは努力した。才能もある。だから、本当に出世するべきはあいつではなく、オレなんだ。」と考えているのでしょう。この程度の例ならば、前提が間違っていることはすぐに見抜けるでしょう。「努力すれば成功する」というのは、努力をすることが推奨される中学、高校等の学究的施設で刷り込まれた教えでしかないのですから。もちろん、努力と成功には強い関連性があります。しかし、大人になるにつれて、その前提が絶対ではない、ということに気づいていくべきでしょう。さて、次の例を見てみましょう。「あなたの言っていることは矛盾している。」これを言った人もやはり、ある前提を踏まえているようです。「世の中にあるすべての発言は、初めから終わりまで首尾一貫している。」「前に言ったことと後になって言ったことが同じ意見でなくてはならない。」と考えているのでしょう。この前提も間違いでしょう。政治でも、時代に応じて目まぐるしく法律を変えていきます。「一度言ったことがすべて」など言い出したら、柔軟性のない政治になってしまいます。砂漠でオアシスを見つけても、「私はミネラルウォータしか飲まない」と言って死んでいく人はいません。確かに意見をその場その場でコロコロと変える人は信用されません。だからと言って、「意見は絶対に変えないもの」というするのも間違ってます。人は自由に喋る権利があるし、仲の良い友達とは思いついたことを自由に言い合ってもいいのです。遊んでいるときにまで、前後の話の整合性を考えながら話すのは疲れることですし、その必要もありません。つまり、相手と場所に応じて、話の整合性の度合いを変えるべきでしょう。「絶対」などと考えずに、「意見は一貫している方が信用されるから望ましい。」という風に考えれたらよいのではないでしょうか。何度も言うようですが、不条理なことに対して、いくら「矛盾している」と叫んだところで、その不条理な出来事は起こっているのです。このことから、世に言う矛盾とは真に矛盾ではなく、「自分にとって到底理解できないもの」のことを指しているということがわかります。ですから、常軌を逸するような人に対しては、「矛盾」という言葉より、「非常識、マナー違反」などという言葉が適しているように思います。「あいつは頭もよく、スポーツ万能のクラスの人気者。オレは運動もだめ、顔も悪い。友達も少ない。世の中は間違っている。矛盾だ。」と愚痴をこぼす人もいると思います。そういう人は、「何人たりとも生まれながらに平等である」という前提を捨てましょう。これは憲法に書いてある"権利"の話であり、個々人の容姿や能力まで平等とは言っていないのです。世の中、生きていれば理解できないことは多いと思います。でも、それも世の中なのです。受け入れ難きも受け入れて生きていきましょう。
2005年11月12日
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茨城の友達が陳腐なことを言う。「いばらぎ、じゃなくて、いばらき」ありきたりの話で面白くない。初めて聞いたときは、「へ~、そうなんだ~。本当は、ギではなくてキなんだね。」さて、その話も、度重なると嫌気が差してくる。茨城の人はいったい何を主張しているのか、疑問に感じる。茨城の人は「いばらぎ」と発音されることを嫌う。馬鹿にされた気がするのだろうか。どう考えても、いばらぎ、という言い方は定着しており、いばらきより言いやすい。いいにくい発音を強いられるのは僕にとって癪だ。われわれは「一字一句間違わない発音をする」という目標を別に掲げてはいない。コミニュケーションの第一の目的は、「相手に自分の思いを正確に伝えること」である。間違っていても、内容が正確に伝われば、その言葉は、言葉として正しく機能している、といえる。そもそも、「いばらぎという発音は間違い」という主張もあやしい。言葉というのは、変化するものである。毎年、辞書には新しい言葉が追加されたり、削除されたりしている。今、喋っている言葉は昔の言葉とは違う。誰かが、話し方を変えたり、間違えているうちに、その言葉が世の中に浸透し、定着したのだ。昔の言葉が正しくて、今の言葉は誤りだ、とは決していえないのだ。現代においても、一部の人しか使わない言葉が間違いだ、とはいえない。大阪弁は、関西の人しか使わない。けれど、「大阪弁は間違いだ」と言う人はいない。あるコミュニティーの中で通用する単語は、もはや誤りではなく、立派な言葉だと言える。さて、「いばらぎ」という言葉だが、もはや、「いばらぎ」という言葉を使っている人は大半であり、コミニュケーションの妨げにはならない。少数派はむしろ、「いばらき」といわせようとしている方であり、使っている人数からすれば、もはや、「いばらぎ」の方が正しい。「いばらぎ」と言われて腹を立てる「いばらき県」の人がいたとしよう。では、その「いばらぎ」と何気なく言った人に「いばらき」の人を侮辱するような意地悪な気持ちがあっただろうか?僕は、「いばらぎ」を使いたい。その方が茨城をしっくり感じることができる。「馬鹿にされた」などという「いばらき県人」がいたとすれば、それは、自分の方に問題があるのではないか。自分の県にコンプレックスを抱いているから過剰に反応し、なんらかの形で主張をしたくなるのではないのか。自分の県に自信を持っていれば、「いばらぎ」と言われようが「いばらき」と言われようが、気にもとめることはないだろう。過剰に反応するのは、その人が自分の県にコンプレックスを抱いていることの現れであり、むしろ、その人こそ、県に対する背徳だ。成城や田園調布に住んでいる、と言う人がいたら、「ああ、すばらしいし、さぞお金持ちでお育ちが良いのでしょう。」と感嘆を漏らせばよい。所沢から東京の高校に通っていた人が(もちろん冗談だが)その友達に「都民の日に休むなよ」と言われ、(冗談とは言え)ちょっとムッとしていた。そもそも、生まれ育った場所は、単に親が居を構えた場所でしかない。自分が何かエラいことをしたわけでもない。自分の努力とは無関係なわけだ。いい場所に住んでいて、「オレは高級住宅地に住んでいるんだぞ」という人がいれば、それは、「オレのお父さんは国会議員なんだ。」とか、「先祖に偉い人がいたんだぞ」みたいな自慢と同列であり、気に入らない。(もちろん育った場所と人物は無関係ではないが)それだけで人を判断したりしてはいけないのである。各々、生まれた場所を愛せばよいのである。茨城の人に限らず、自分の出身地に誇りを持っていけばいいと思うし、そう思える人は輝いていると思う。自分の家族を愛するように。
2005年11月05日
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大型二輪免許が欲しいので、昨日、大学生協で申し込みをした。そのときに発行されたクーポン券を持って、今日、さっそく教習所へいった。さて、受付にいく。親切なお姉さんが迎えてくれた。書類を書いた後、視力検査をすることになった。僕は目は悪いが、コンタクトをしているので、右目の視力はある。視力検査の機械は、”E”という文字が、いろいろな向きででてくるのを当てるというタイプだった。まずは右目から。「上」「下」「左」「右」…という具合に当てていく。”E”という文字は、大きさ別に1~12まであり、12が見えると視力1.5はある、ということになるらしい。僕は、「高いお金を払ったのに、視力で落とされてはかなわない」と思い、本気であてにいく。9くらいまでは楽に見えたが、10くらいになると、雰囲気であてにいくしななくなった。”E”という文字が見えなくても、どっちに開いているかくらいは、うすボンヤリわかるのである。その結果、最後の12までもミスなく言い当てることができたのである。さて、今度は左目の検査である。表示された12個の”E”の向きは、右目で用いたときの向きと完全に同じであった。僕は、左目の視力は、右目よりも悪い。しかし、先ほど必死で右目の検査をしたためであろう、順番を全部覚えてしまっていたのである。おかげで全部いい当てることができた。見えないものを見る力のおかげでなんとかなった。超能力も能力のうちさ。ふ~、と思い気を抜いていたら、今度は両目の検査だった。安心していたためか、先ほどの暗記した順番を忘れてしまっていた。小さい文字の11番12番あたりが怪しかった。目の検査ではなく、僕の記憶力知能テストであった。12番が違っていたらしく、お姉さんに、「片目ずつだとが1.5、1.5なのに両目だと1.2ですね。おかしいな?」なんて、言われ、結局片目も1.2、1.2に直されてしまった。お姉さん曰く、「バイクに必要な視力は片目0.3以上、両目で0.7以上でいい」らしい。僕は不必要に頑張りすぎていたのだ。まあ、そんなことはどうでもよい。入校する前に、倒れたバイクを起こすことができるかを検査する、といわれて、びっくりした。まさに寝耳に水。バイクの起こし方は…1年前に普通二輪を取ったときのことを思い出す。筋力トレーニングはやっているから、普通の人よりは強いはず、と自己暗示。さて、場所は、教習所内の道路。教官が一人ついてくれた。顔をみるなり、「普通二輪免許はうちでとった?」といわれ、「はい」と答えると、「見たことある顔だよ」と言われた。今は9月、普通二輪に通っていたのは、昨年の4月くらいだっただろうか。僕に似た人と間違えているのではないか、それとも、僕の喜ばせるためにそういっているのだろうか?そのとき、頭はそこまで回らず、「おお、覚えているもんなんだな~」と嬉しくなった。さて、目の前にバイクがある。CB750というやつだ。「旋回してみて」と言われたので、バイクを引きながら円を描いてロータリーを小さく一周した。次に、バイクをゆっくりと倒した。「起こしてみて」と言われた。バイクを起こすのは今回で2度目なので、コツを掴んでいたのであろうか、簡単に起こすことができた。コツを掴めば、女性でも起こすことができると思われる。今日はそれだけだった。明日の午後は、適性検査を受ける。2週間くらいで取り終えれたらいいな、なんて思っているが。。どうなることやら。
2005年09月16日
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今日は台風の影響で風が強い。その風が強いのを表現しようとしたら、壁にぶつかる。風が「吹きすさぶ」、なのか、「吹きすさむ」なのか。ネットで調べてみると圧倒的に「吹きすさむ」の方が多い。でも、「吹きすさぶ」という記述もちらほら見受けられる。どっちでも、よいのだろうか。あとで、調べてみよう。
2005年09月07日
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塾講師のアルバイトを通じてあったいろいろな体験談を忘れないうちに書いていこうと思う。第一弾『つるかめ事件』これは問題児のうちの1人、U子の話である。僕はグループ授業でU子に算数を教えていた。ある日のこと、U子を個別指導していたU田先生からこんな話が来た。「U子はつるかめ算もできないんですけど。」その時、僕はU子を担当してから3週くらいしか経っていなかった。つるかめ算は、僕の授業で扱う単元ではなかった。だから、つるかめ算ができなかったのは、僕の前にU子のクラスを担当していた先生のせいだ、と言える。しかし、現時点でのグループ授業を担当は僕。責任があるのは事実。僕が教える生徒につるかめ算も解けない生徒がいると言われるのは大層不名誉なことと感じられた。責任を感じるとともに恥ずかしくもあった。U子は僕に対して反抗的だった。無神経に僕が傷つくことを言う。「前の先生の方がよかった。」「うざい。」「キモい」人には強烈なことを言うくせに、ちょっと人から言われただけでも傷つく。これはこの年頃の子供に共通したことなのだろうか。攻撃は一人前なのに防御はまるでダメなのだ。扱いにくい年齢である。U子は問題を解かせようとしてもしない。彼女を形容すると「フニャフニャした剣」だ。才能がないのではなく、勉強に対する意欲がないのだ。「受験したくないのに、親にやらされている」ということを友達と話していたのを聞いたことがある。受験を敵。剣が生徒。剣を持って切りかかるのが先生としよう。いくら強く剣を振りかざしても、敵になんのダメージも与えることができな。このようなことから、僕には「U子がつるかめ算くらいは解けるようになって欲しい」という気持ちが潜在的にあった。夏期講習の二日目だった。塾長に呼ばれて話をした。塾長「先日、U子さんのお母さんから電話があって…」なにやら相談らしい。「授業中に『つるかめ算もできないのか。』と二度も言われたっていうんだ。」僕「はい。一度言ったのは覚えているんですけど、二度も言ったかな?」塾長「U子はみんなの前でいわれたことがイヤだったんだって。しかも、二度も言われたから大変ショックを受けた。U子のお母さんは『U子も悩んでいるので、そういうことは言わないで欲しい。』と言ってきている。」塾長「怒られて、『なにくそ』と奮起するような子たちばかりじゃないからね。とくにレベルの一番低いクラスだから、なるべく今後は言わないようにしたほうがいいよ。」と言われた。U子たちのことを思い浮かべた。僕のクラスの問題児集団。そんな優しく言って聞くような連中ではない。僕「しかし、あいつらは甘い顔をしてると無限に増長するんです。」塾長「まあ、一番下のクラスだから仕方ない部分があるよね。まあ、今回の件は生徒には言わず、今後はやんわりとやったほうがいいよ。」ふむふむ。ちょっと考えてみよう。子供は残酷である。小さい子供は相手を思いやることができない。だが、小6ぐらいになるとある程度はできる。ただし、友達同士に限ったものである。「先生」と「友達」とで明らかに態度を使い分けをしている。友達は日常生活に大きく関わってくるもの。敵にしたら自分の身が危ない。先生は別である。日常生活とは関係ない。授業だけで接する関係である。先生に対して悪い態度を取るのは、自分たちの権利を拡大することになる。例えば、生徒Aが先生に「ウザい。」と言ったとしよう。そのとき、もし、先生がAを咎めなかったとすると、「その先生には今後ずっと『ウザい』」と言ってもよい。」という事になる。生徒Aが切り開いた道は、A以外の生徒たちにも開かれる。その結果、周りの生徒の自由度は増し、発言の幅が増える。このことは周り生徒にとって嬉しいことであり、危険を顧みず切り込んだAの勇気は賞賛の対象になる。Aが苦労して「先生に『ウザい』と言える道」を切り開いたことよって、周りの生徒たちは以前よりも自由に振舞うことができ、Aは株が上がり、仲間内での地位が上がる、という算段だ。つまり、先生は敵に回した方が、仲間内ではよい効果がある、ということなのだ。生徒たちのトゲのある発言は筆舌に尽くしがたい。「うざい。」「きもい。」「バカじゃないの?」「なんで、勉強しなくちゃなんないの。」「焼き鳥が冷えちゃうから食べたい」「先生、絵描いてていい?」ある日のこと、あまりにも「絵を描きたい描きたい」と言うので、僕は「じゃあ、描いていいよ。」と言った。「周りの生徒は勉強してるんだし、しばらくしたら、不安になって勉強を始めるだろう」と思ってた。しかし、その生徒は90分の授業の間ずっと絵を描いていた。しかも、悪びれることなく楽しそうに。授業中に絵を描かれるのは耐えがたかった。その子の席は前から2番目。先生からよく見える位置である。僕がどれほど楽しそうに絵を描く生徒の横っ面を引っ叩きたい、と思ったかはご想像にお任せする。だが、耐えた。いつか、自ら勉強をしよう、と思う日が来ると信じて。授業後に、その生徒はこう言った。「連絡帳に『ずっと絵を描いてました』って描かないでね。先生が描いていいって言ったんだからね。」連絡帳は親が見るものだ。この問題児も塾で勉強していないことを親に知られるのは嫌なのだ。生徒のペースにはまっていること気づき、屈辱感を覚える。言いなりになるのはごめんなので、連絡帳には間接的な表現で今日の授業の様子をほのめかした。連絡帳に「絵が上手なようですね。絵もいいですが、勉強の方も頑張りましょう。」と書いたことを覚えている。生徒を震え上がらせ、言うことを聞かせられるようになった今となっても、過去に横行したこのような出来事は鮮烈に覚えている。だから、いつ同じような状況になるとも限らない、また、このような状況を二度と起こしてはならない、という気持ちが強い。生徒に対して、厳しくなるのも当然の成り行きである。それでも、愛情を持って、「頑張れ。」「わからないところは聞きにきてください。」「大変なのはわかる。」と生徒の立場も考えつつエールを送っている。以前、生徒たちを野放しにしすぎて、「指導力がない」とM美の母から苦情を頂いた。今度は、厳しくあたったら、「傷ついた」とU子の母から苦情が来る。8人も教えているのだから、全員が納得する教え方はない。どんな教え方を教え方をしても、苦情はくる、と割り切るべきなのか。「つるかめ算も解けないのか。」と言わないようにするのは簡単なことだ。だが、そんな生徒が受験を突破できるのかは甚だ疑問が残る。
2005年08月26日
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今年の4月から務めていたアルバイトを辞めることにした。アルバイトとは某大手進学塾の講師のことである。思えば大変なことの連続だった。辞める主な原因を一言で言うと、僕と生徒との軋轢である。問題となる生徒と初めて会ったのは今年の5月。学年は小6。一クラス8人のうち女子7人男子1人だった。女の子から人気のある先生になれたらいいな、なんて幻想を抱いていたのは考えが甘かった。男の子の反抗期は概ね中2から高2年。だが、女の子の反抗期は小6だったのである。そのクラスは、塾のなかで成績と素行が一番悪い生徒で構成されていた。僕は、理屈の通じない連中たちの相手をするはめにあった。初めて授業をする日のことである。少し前に仲のよくなった別のクラスの生徒Y太からボソっとこう言われた。「先生苛められるよ」。そんなこともあり、覚悟はして望んだが、問題児たちの素行の悪さは想像を絶するものがあった。まず、驚かされたことは、出席をとるために名前を呼んでも返事をしない、ということだ。だから名簿はあっても、生徒の名前と顔が一致しない。教えてもくれない。それでも、8人中5人は何とかわかった。しかし、残り3人は、どうしてもわからなかったので、想像で呼んでいた。ハーフっぽい名前があり、ハーフっぽい顔の女の子がいたので、その名前で呼んでみた。だが、リアクションに乏しい。結果的に違った。3人の名前を別々の名前で呼んでいたのだ。そのことも生徒との関係を悪く一因となった。2週目まで名前を間違えていることに気が付かなかった。3週目にして初めて生徒の申告を受け、訂正したのだった。授業はひどいものであった。一挙手一投足に対して、不平、不満が矢のように飛んできた。新米の講師と言うこともあり、僕はニコニコと受け入れていた。僕の中に、「生徒と信頼関係を築く前に叱り付けたら、嫌われるだけであり、損だ」という思いがあった。3週目までは、彼女たちの言うことを野放しにしていた。3週目の授業の前に先ほどのY太から「小林先生、評判悪いよ」と聞かされる。大きなプレッシャーを受けながらの授業は辛かった。4週目が一番大変だった。朝起きると、声が潰れていた。声を出そうとしても、低音のしゃがれ声だった。スーツに糸一本ついていても、おもちゃ箱をひっくり返したような騒ぎと笑嘲が起こる。ましてや、こんな声で講義をしたら生徒たちに何を言われるかわからない。困り果ては挙句、正午に塾に出向き社員の人と相談をした。当日のことなので、他の先生に頼んで今日の授業を変わってもらう、ということは極めて難しい。社員から「風邪なのか」と聞かれるが、わからない。医者にいくことを進められてたので、医者に行くことにした。近所にある個人病院に行ってみた。しかし、運がわるく、病院は正午から3時までが昼休みであった。塾が始まるのは5時なので時間がない。仕方がないので、薬局いき、喉をよくするための薬を購入。薬剤師と相談し、ソプラノ歌手が常用するという、極めて即効性のよい薬を購入した。塾が始まる前に錠剤を舐めつづけたが、声は対して改善されなかった。結局、いつもどおり僕が授業をすることになったが、そのときの絶望的な気持ちときたらなかった。熱はなかったが明らかに風邪ぎみの様相。もしも、生徒にうつしてしまったら一大事である。うつさなくても、僕が風邪気味だということが生徒やその親にばれたら問題になる。したがって、3時間もある授業の間、一度も咳またはくしゃみをしない、と自分に厳命する。体調が優れない上に、そういったプレッシャーを受けながら授業をした。開口一番、当然のごとく生徒からバカにされる。「もう、その声聞きたくない」とまで言われた。声を出さずに授業をすることは不可能である。おおきな声もでないので、生徒を抑えることもできない。バカにされながらも、僕はその苦しい一日をなんとか終えた。喉を痛めた人が頑張っていたら、心配したり励ましたりするのが普通であろう。しかし、生徒たちは、思いやりの片鱗も見せず、あざけ笑う。また、4週目には生徒の母から苦情を貰う。「うちの子(M美)は勉強がしたいのに、周りの生徒に流されて勉強ができない。授業中に手紙が回ってきたりする。いったい授業はどうなっているのか?」という内容である。その子(M美)は僕に対して最後まで反感を持っていた2人のうちの1人である。1週目は8人の生徒全員が敵だった。授業中、不満は言いたい放題。しかし、僕の頑張りにより、「この先生は信頼できるかも。」という生徒がポツポツ現れていた。勉強をまじめにしたい、と思う生徒も現れ始めた。M美と仲のよかった友達(A里)も僕への反発と警戒心を弱めつつあった。クラス全員が反小林派だったとき、M美は授業中に不平不満を言えたが、小林派が少しずつ現れるにつれ、先生に対するM美の発言力は弱まっていった。僕に直接言えなくなっていたので、親に言うようになったのだろう。しかも、その苦情の内容というのが「娘(M美)は勉強したいのに先生の指導力のなさのため勉強ができない」という内容だから唖然とする。勉強したいなら、自分から友達に「私は勉強したいから授業中にちょっかいを掛けるのはやめてね。」と言わないまでも、態度で示せばよいことである。小学生には友達を拒否する力がないのはよくわかる。しかし、M美自信のやる気のなさは棚に上げ、全て先生のせいにする。また、親も親で、娘を思いやるあまりに、自分の子供の意見を鵜呑みにし、塾長にクレームを言う。そのクレームは弱っている僕にダメージを与えるのに充分の威力を持っていた。そして、ついに僕の怒りは頂点に達した。一週間考えた。重苦しい重圧と共に怒りを蓄積させた。僕は人を叱るという経験が乏しい。また、感情的になるタイプでもない。だから、怒りを爆発させるのが苦手である。しかし、今の現状は叱らないとダメなのだ。先生を先生とも思わない連中、恐れをしらない連中は、動物の調教と同じように一度震え上がらせないとしつけができない。僕はそう強く感じた。そこで、僕は叱るためのマニュアルを作った。生徒がこういう態度を示したら、この手段を使う、という手順をこと細かく紙に書いた。僕はその紙を「ぶちきれマニュアル」と呼んだ。塾との契約上、生徒に手を挙げることは許されない。手を出さない範囲で生徒に苦痛を与える手段をいろいろと考えた。具体的には、机を蹴っ飛ばす、反省文を書かせる、家に帰らせる、親に電話する、などということである。5週目の授業は、僕にとっての決戦の日だった。いつのタイミングでぶち切れようかと思案していた。だが、機会はすぐにやってきた。いつものように一番の問題児(A子)がわがままをいい始めた。同じことを連呼する。騒ぐ。わめく。その瞬間、僕はドアを蹴っ飛ばし、怒鳴った。「うっせんだよ、くぉるぁあ(怒)」。鬱積させた怒りは自然に爆発した。するとクラスの空気は一変した。なおも、僕はその問題児を睨みつける。ぐちぐちと怒った説明でもしようと考えていたが、怒鳴った効果があまりに絶大だったので、細かいことを言う必要がなくなった。そこで、僕は何事もなかったかのように、そのまま授業を進めた。まだ人間として未熟な生徒には、いちいち怒られる理由を説明するのではなく、頭ごなしに叱ることが有効である、とわかった。言ってもわからない子供に対しては、叱るしかないのである。その後の授業は極めてスムーズにいった。問題児A子の態度の急変振りには驚いた。なんとA子は「問題を解きたくて仕方ない子」へと一変したのである。甘えた声で「ねえ、せんせ~。これであってる?次の問題解いていい?」という風になった。恥も外聞もなく恐れを抱いて僕へへつらってくる。口は達者でも、所詮、まだ子供なんだな、と思った。A子だけを叱ったのだが、別の生徒へも大きな影響を与えた。急に真顔になり、怯えるように問題を解き進める。一言も喋る者はいなかった。僕は生徒たちのあまりの変貌にホワイトボードに向かいながら密かに笑った。「あいつら、なにそんなマジになってんだろ?」と心の中で思っていた。だが、甘い顔はできない。ここで甘い顔をすれば叱り飛ばした効果が消えてしまうからだ。人間という生き物は最も扱いにくい存在である。しかし、動物の調教と違って、人間は一度言えばその恐怖を忘れない。だからある意味では楽な部分もある、と思った。生徒たちは、決して怒らないと思いナメきっていた先生がいきなりブチ切れたもので、衝撃は計り知れなかったようだ。授業後に、M美は「こんなに勉強したのは初めて」ともらして帰っていった。6週目は、就職活動の関係で塾を休んだ。生徒たちはどれほど僕が来るのを恐れていたかしらないが、別の先生に担当してもらった。代わってもらった先生は、去年一番上のクラスを受け持っていた大ベテランの先生である。その先生の前でも、問題児たちは大騒ぎしていたらしい。このことから、どんな大ベテラン先生でも、このクラスを1、2回の授業でまとめようとするのは不可能である、ということがわかり、安心した。なぜなら、このことは、クラスをまとめることができないのは、僕の力量のなさだけが問題ではない、という根拠なるからである。そして、夏期講習に突入。今までは一週間に一回問題児たちと顔を会わせればよかった。しかし、夏期講習は連日である。この問題児たちと4日間連続で付き合うのは予想以上に辛かった。なんとか終える事ができた。しかし、ほうぼうから陰口を叩かれるのが悲しかった。夏期講習で初めて上位クラスを受け持った。成績のよい生徒たちの勉強意欲に驚かされた。いい点数を取りたい、という気持ちが強い。先生の話を吸収したいという姿勢が見える。僕は生徒たちの質の違いに驚いた。なんと授業が進めやすいことか。最下層の生徒は、まず、「なんで勉強しなくちゃいけないの?めんどくさい」というところから始めなくてはならない。いくら算数の教え方の上手い先生でも、技術を発揮する場が与えられないのである。怒ったり、誉めたり、なだめたり、すかしたりすることを通じて、まず根性から叩きなおさなくてはならないのだから、勉強どころではない。水の欲しくないラクダをいくらオアアシスに連れて行っても無駄である。生徒の前に歩きやすいように道を作ってやっても生徒が歩こうとしなければ、やはり無駄である。たいてい優秀なクラスはベテラン講師が担当する。優秀な生徒はますます成績を伸ばし、塾の実績を上げる、というのは営利を目的とする企業の理念に一致している。しかし、言われなくてもやる生徒の面倒をみるのは実はベテランでなくてもできるのである。一方、新米講師はレベルの低いクラスの担当をする。レベルの低い生徒を指導するほうがよっぽど大変なのに、である。ベテランの講師こそレベルの低い生徒の指導にあたるのが、教育的には正しい考え方ではある。優秀児を教えたら、「最下位クラスでは先生の評判悪いのに、なんで、上のクラスではいいんだろうね。(問題児たちが)先生のことを何言っているかわからないっていってたよ。でも、(僕らにとっては)わかりやすいじゃん。」今日、そう言ってくれた生徒がいた。僕は心の中でとても喜んだ。「何言っているかわからない」というのは、問題児たちに吸収する力がないためである。僕だってなるべくわかるように説明をしているつもりだ。少しばかりの算数の知識をもち、ちょっとでも授業を聞こうという意欲のある生徒にはウケがよいのである。問題児たちは「わからないこと」を自分たちの能力と努力が足りないことと思わず、「先生の説明が悪い」と捉える。今日思ったことは、バカにつける薬はない、ということ。そういう思いから僕はこの塾講師というアルバイトを辞めることにした。
2005年08月19日
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塾講師をやっているが、最近、辞めたくなってきた。どうしたものやら。
2005年08月08日
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先日、私はバイク事故に遭った。100%相手が悪い事故だったので、金銭面では相手がすべて負担してくれることになっている。しかし、私は、現在、その事故の影響で、父親にバイクを禁止されそうになっている。私の生活の足はバイクであり、危険なのはわかるけれども、取り上げられると生活が成り立たなくなる。免許の費用も、バイクも費用も自分で出した。親が心配なのはわかるけれど、取り上げられるのは勘弁して欲しい。来年度から、私は社会人になり、地方勤務になる。あと少しで親元を離れることがわかっているので、ここで、父親と激しい対立するのは得策ではないと考えた。そこで、とった行動は"逃げ"である。頭の固い老人の考えを変えるのは無理である。戦いを避け、逃亡を図っているのである。もう一週間になるだろうか。大学という場所は生活ができる。シャワー有り、パソコンあり、部室あり。寝袋を持っているので、寝ることも可能だ。食事の費用だけがかかるが、これはやむを得ない。バイトのお金は銀行に振り込まれるので、食費くらい捻出することはできる。パソコンがあるので、メールをチェックすることはできる。携帯電話があるので、コンタクトには困らない。つまり、家を通さずにすべてなんとかなるのである。こんな生活を続けているうちに、『本当にバイクは危ないのか?』という疑問が浮かんできたので、昨日夜いろいろと調べてみた。車とバイクの危険性をちゃんとした論拠に基づき、統計的に比較するようなサイトはかなり探したが無かった。多くの人は、単にバイクというイメージだけで「危険だから乗らないほうがいい。」と口々に物を言っているに過ぎないのである。ちゃんと、どれだけ危険なのか。何人が死んでいるのか。車と比較してどうか。バイクよりももっと危険視しなくてはならない要素はあるのか。都道府県別交通事故発生状況(平成16年)によると平成16年に交通事故による死亡者数は7,358人そのうち、自動車乗車中(同乗者も含む)2918人。自動二輪車乗車中(原付は含まない)の死者は725人保有台数は乗用車5528万8124台、自動二輪車(原付は含まない)は318万925人なので、1万台の車に対して1年間で0.528件の死亡事故が起きていることがわかる。一方、二輪車はどうなのか。1万台の二輪に対して1年間で2.279件の死亡事故が起きている。単純に保有台数に対する死亡事故の割合で比較するのは、おかしな統計だとは思うが、とりあえず、この計算方法によるとバイクは車の4.31倍の死亡事故の危険性があるということになる。バイクの方が圧倒的に走行距離が少ないので、走行距離に対する死亡率でいったらもっと高い確率になるに違いない。しかし、バイクでそれほど遠出をすることは稀なので、走行距離ベースでの計算は信憑性に欠けるだろう。それでも、バイクに乗る人は必ずいる。自殺は交通事故の4.4倍だ。外に発散しないと変な精神的な病気になって、死んでしまう、という確率のほうがよっぽど高いのだ。何か危険で、何が危険でないかを見極める必要があるのだ。生きている上でリスクのないものは存在しない。自転車に乗っていたって撥ねられることはある。『カミナリに打たれることを恐れて、雨の日に外に出ない』という奴はいないだろう。火事になるから火を使わないで生活することができるだろうか。そして、いくら危険とはいっても確率の低いものであれば、利便性を取るべきではないだろうか。交通事故はなくならないし、毎年死亡する人は必ずいる。だったら、車に乗ってはいけないという法律を作るべきだろう。利便性とリスクを天秤にかけ、リスクが十分低いと思われるのならば、利便性を取るべきなのである。世の中は自然とそうなっているのである。だから、私はバイクに乗り続けるのである。
2005年07月19日
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今日も怒涛のような一日だった。朝、起きる。バイクに乗る乗らないをめぐり、父と口論になることは目に見えていた。そのため、起きたら僕は食事も取らずに家を出た。父と顔を突き合わせたりしたら大変である。父を避けるために速攻で家を出ようとする僕。それを逃すまいとして父は僕にいう。「バイクに乗らないほうがいい。」と僕は父に付き合わない。「病院にいかなくてはならないので急いでいる。話ならあとにして。」朝8時20分に家をでる。9時に大学近くの総合病院に着いた。受付で「診察は事故によるものだ」というと受付係に「保険証はいらない」と言われた。事故用の用紙に住所、氏名等を記入すると、整形外科に回された。整形外科のブースの前には多くの患者が診察の順番が来るのを待っている。係りの者に待ち時間は1時間程度だと言われた。結局診察を受けたのは10時半。Y先生の診察を受ける。「痛いところは?」と先生に聞かれた。「尾てい骨と腕の骨が少し痛みます。あと、3箇所ほどかすり傷があります。でも、特には問題ないです。」と僕は言った。先生が言うには、痛みは何日かして発生することもある。交通事故で診断を受けないと、被害者側が不利になる。だから、ちゃんと検査したほうがよい。という。そこで、レントゲンを取ってもらうことになった。骨盤と腕のレントゲンだ。レントゲン室に行った。レントゲンを取ってくれるのはY先生ではなく、別の先生だった。そのとき、僕は腰の痛みに気づいたので、無理を言って腰のレントゲン写真も撮ってもらうことにした。結果的にどこにも骨の異常は見当たらなかった。お尻には少し打撲があった。Y先生は「全身打撲」というカッコいい病名をくれた。全身打撲!!お尻をちょっと打ち、手首に軽い痛みを覚え、かすり傷にも満たないような傷で、全身打撲。僕はその物々しいネーミングが滑稽でたまらなかった。待合所では男性患者と看護婦とのやり取りが聞けた。看護婦は中腰の姿勢になり、患者のひざに手を当てながら言う。「あのね?MRIを受ける日は○月○日じゃないの~。△月△日なの~。わかる?ごめんね。でもしょうがないの。」僕はその看護婦の対応にはいささか疑問を感じていた。子供をあやすような口調。女性という武器を使い、年配者をやすやすとコントロールする。看護婦のほうが主導権を握っているので、甘えさせるだけ甘えさせたあと、例えば、患者が勝手に勘違いし、甘えの要求が負担になるほど強くなったとしても、突き放すのは簡単である。また、患者は患者で、自分ではなにも出来ないような幼児のようにたどたどしい日本語で、看護婦に甘える。ひねた見方ですいません。しかし、僕が老人になったら、看護婦に幼児のような喋り方をさせられるのはごめんだ。「は~い。お口あ~ん。おいちいですか~?」などと言われた日には屈辱の極みである。死ぬまで一人の大人として接して頂くことを望む。そんなことはどうでもよい。本題に戻る。結局、11時半までかかった。大学では10時から12時までゼミがあった。僕がゼミ室に着いたのは、ゼミが終わる10分ほど前だった。終盤に入室するのは気まずかったが、交通事故なのでやむを得ないと思った。さて、保険の話が進み始めた。1時ごろにAO損保のOTさんから電話があった。内容は次のようである。バイクの修繕の件だが、バイク屋が決まったら連絡して欲しいということ。病院費用をどうするか、という件についてだった。なんども通院するのであれば、保険会社を通じた方が得だし、一度や二度の通院であれば、加害者が直接支払ったほうが得、という風な具合だ。したがって、僕の怪我状況がどうなのか、その後通院することが頻繁にあるのか、または無いのかが気になる様子だった。結局、加害者であるYさんの話も聞かないと病院費用の処理について話は決まらないということになった。AO損保がYさんに電話を入れたようだ。その後、Yさんから電話がかかってきた。Yさんとの話で次のように決まった。「Yさんのメールアドレスに僕の振込み先と医療費の合計を明記し、送る。そうしたら、Yさんが銀行に振り込んでくれる」ということ。この話を聞いて、少し残念だったのは、慰謝料は含まれないだろう、ということだ。保険会社を通じて医療費を支払って貰うと一日にいくらかの手当てがつく。直接交渉だとそれがつかない。でも、いままでのYさんの誠意はすごく感じていたので、「利益はいいや」という気になっていた。さて、僕は2時に大学を出た。バイク屋に向かう。僕のバイクは外傷はあるが走るには問題ない。バイク屋着いて、バイクの修理を依頼した。バイク屋の保険に詳しい人が出てきた。Tという人だ。作業着の胸ポケットに赤ラーク(タバコ)を入れている。T氏の態度は親切とはいえなかった。僕が「保険会社の人と直接話して欲しいんですけど。」と言い、そのあと電話番号を言おうとすると、「ここじゃ(修理場の前)番号言われても覚えられないよ。」とたしなめられた。僕は「は~、そうですか」っという感じで話を進める。話は「この場でバイクを置いて言って修理に出すかどうか。」ということになった。バイクは僕にとっての生活の足なので、代車が必要になる。代車の経費を保険会社が出してくれるかがポイントだった。僕はAO損保に電話を入れる。AO損保のOTさんはバイク屋の人と話したそうだった。バイク屋のT氏に携帯を渡そうとすると「いまの話は、代車を借りる代金を保険会社が出してくれるかどうかでしょ?」と馬鹿にされる。僕は言った。「保険会社がTさんと話したがっています。代車の件も含めて直接話し合って頂いた方が話が早いでしょう。」実際、要領を得ない僕を介するよりも、バイク屋と保険会社が直接話す方がよっぽど話がスムーズに進んだ。バイク屋のオヤジ(T氏)は、今回の事故で僕に非がないということがわかったとたん急にお客様扱いをするようになった。意味がわからない。T氏の中では、バイクに乗る若造が無茶をして事故った。→修理代をめぐって保険会社ともめている。→若造の自業自得であり、いちいち付き合いきれない。だったのが、若造(僕のこと)は100%被害者→修繕費の出所も確保されているという心境の変化があったのだろうか。とにかく、T氏は態度を変え、その後いい奴になる。そして、破損したバイクを初めてちゃんと見てくれた。「結構、強くぶつかられたね~」などと言うので、「は~、吹っ飛びましたよ。」と言っておいた。その後の展開はスムーズだった。今後の流れは次のようになるらしい。保険会社とバイク屋が話し合う。修理の見積もりを立てる。見積もりの結果を僕が見る。OKならば、修理し始める。それまではバイクの修理はしないのである。だから、見積もりの結果みて、僕が了承したらすぐに修理開始してもらうようにバイク屋に言わなくてはならない、というのは念を押されたことである。代車も用意してくれた。ボロかった。シートに穴も開いている。サイドミラーの位置が悪く、後ろが見えにくい。音も僕のバイクに較べてうるさい。やはり自分のバイクがいい、と思った。家に着くと、今度は、僕の方の保険会社の人(Kさん)から電話があった。彼からはいろいろと知恵を付けされてもらった。診療費の件は、直接するよりもやはり、相手の自賠責の保険会社を通じた方がよいと提案された。その方が、慰謝料もつくらしい。通院にかかった交通費も出る。一キロ当たり15円という計算だ。相手の自賠責の保険会社は、「事故証明書」というものに記載されているらしい。郵便振替、手続きなど、面倒らしいが、これはAO損保さんが行ってくれるということ。あと、ファミリーバイク特約についても教えてもらった。今回の件は適用外らしい。相手が100%悪いからだという。ファミリーバイク特約は、相手との接触の際、相手の損害は補償してくれるが、自身の損害(バイクの損傷)は適用外らしい。自損事故(電柱にぶつかる)でも出るという。僕の味方をしてくれるA損保のKさんは親身になって教えてくれた。一つだけ気になる点は、「なにかわからないことがあれば無料で相談に乗ります。」というフレーズだ。この電話の中で3回言われた。まあ、親切で言ってくれているのだが、そう無料、無料言われると、無料なのは当然じゃないのかな?と思ってくる。そのために払っている高い保険料なんだからね。相談番号という6桁の番号を貰った。Kさんに取り次いで貰うには、その相談番号が必要なのだ。このあとにAO損保に電話を入れた。K氏の言う通りに、示談ではなく、自賠責を用いて、医療費の支払いをしてもらうことにした。会社が払うので、相手のYさんの金銭的な負担もなくなると思う。このあとは、個人的なことだが、塾講師のアルバイト。そのあと、家に帰る。食事をして、風呂に入る。携帯ショップに行って、1週間前に修理に出した携帯を受け取りに行ってきた。故障の原因であった基盤を取り替えたらしい。受信メールのデータはなくなっていた。まあ、いいや。データフォルダに入っていた写メールも無くなっていた。これは少しだけ残念だった。その足で大学へ向かう。天敵の父親に会わないように今日は大学に籠もる。一週間も家に帰らなければ、父親の気持ちも変わっているに違いない。
2005年07月11日
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さきほど、バイクで夜の環状線を走っていたら、追突事故に遭った。信号が赤なので、止まった。すると後ろからぶつかられる。ど~ん(←追突される)僕はバイクと共に押し出される。対抗斜線にはみ出て、バランスを崩して倒れた。追突されるときの状況は、スローモーションのように克明に覚えている。まず、考えたのは、僕と同じように赤信号で止まっていた前の車にぶつかる、ということである。ハンドルを切り、なんとか、前の車にぶつからないようにした。前の車にはぶつからなかったが、反対斜線にはみ出た。道路に投げ出された僕はうつ伏せの格好になって倒れた。この時に考えたのは、「対向車にはねられるのではないか」という不安である。パッと顔を挙げると幸いそこに車はいなかった。実は反対斜線の少し先では別の事故のため、通行止めになっていたのである。そのレーンは車が通れるようにはなっていたが、すぐ前方で斜線変更をしなくてはならないので、多くの車はあらかじめもう一つの斜線に移動していたのである。次に考えたのは、バイクのことである。バイクは破損。バイクは僕の5メートルほど先で横倒しになった。実は、今日の昼、エンジンオイルを交換していた。そのついてに、このバイクを綺麗にするために丹念に磨いていた。このバイクに乗る前に僕は原付に乗っていた。2年間乗ったが、一度も磨いたことはない。原付、バイクは僕にとって生活の足である。バイクマニアではないのだ。しかし、買ってから一年になるこのバイクを何を思ったか磨いた。磨き始めると、バイクは輝きを放ち始める。ピカピカになって、意気揚揚とお出かけをしていたわけである。ちなみに、今日は雨の中、FC東京というサッカーのクラブチームの試合の観戦に行ってきたのだ。吹っ飛んだ僕はむっくり起き上がり、後ろを見る。見ると、僕を突き飛ばした赤い車が止まっている。丁度、反対車線で、別の事故を処理していた警察が30メートル位向こうに見えたので、僕は大きな声を出して呼んだ。「すいませ~ん。」警察を呼んでいる間に、車から二人の人が出てきた。運転手は女性だった。僕は女性に向かって言った。「これ(バイクを指しながら)直して貰えるんですよね?」女性は、「あ、もう当然です」といいながらしきりに誤ったり、僕の身を案じたりしてくれた。警察が来ていきなり聞かれた。「ジンシン?ブッソン?」ん??僕には意味がわからなかった。警察は畳み掛けるように聞いてくる。しかも、荒い調子で。「人身?物損?」「え?なんですか?それ。」僕は答える。警察は言う。「人身か物損かあんたが決めるんだよ」話しているうちにわかってきた。ああ。なるほど。つまり、怪我があるかどうかで、事故の処理が変わってくるんだ。で、怪我がある場合は、病院に行って検査を受けてきたほうがよいのだ。加害者の女性に「一応、病院に行ったほうがいいですよ」と言われた。僕は瞬間的に考えた。お尻が少し痛いけど、かすり傷もあるけど、大したことはない。どう考えても大した怪我はしていないと判断したので、「物損でお願いします。」と言った。しかし、そんな重要なことが僕の判断に委ねられているというのは少々ビックリだった。事故っていうのは、もっと客観的に処理されるものだと思っていた。警察に「バイクが動くか?」と聞かれ、「はい。」と答えると、「一番近くの警察署に行って手続きをしてくれ」と言われた。言われるままにその警察署に行った。警察署の前には守衛のような人がいた。何も言わずに署に入るのもなんなんで、守衛に事情を説明した。「事故に遭いまして、その手続きをしに来たんですよ」困ったことに守衛は理解しない。「現場に警察官は来たのかい?」とか、「手続きはその警察官がするはずだけどな。」とか。「保険に関することは、署ではやらないんだけど。」とかいろいろ言われた。「あの~、現場のお巡りさんに署に行って、そこの長椅子に座って待っていてくれって言われてんですけど~。」と言っても、解さない。???僕の後に、加害者の二人が到着。すると、ようやく理解したのか、署に入ることを認めて貰えた。加害者の女性からは、何度も謝ってもらった。いや~、別にいいのに。と心で思っていた。長椅子で待っている間に、彼女がうな垂れているので、「あの~、そんなに深刻にならないでもいいですよ。」と言ってあげた。僕は絶対的な被害者である。しかも、無傷でピンピンしているので、そんなことを言ってあげる余裕も自ずと生まれてくるのだろう。加害者の人には申し訳ないが、被害者は絶対的に立場が上。しかし、弁償はしっかりとやって貰わなくてはならないので、僕は毅然とした態度は崩さなかった。僕のスタンスとしては、『怪我は大したことないし、精神的な苦痛とか変なダダはこねないので、とにかく、バイクだけは直してくれ。ちゃんと直してくれれればそれでよい。』というものである。つづいて、事故処理手続きが行われた。免許証と自賠責が必要だということで提出する。あと、車の登録した紙が必要だと言われた。ナンバープレートを貰うとき区役所で登録したやつだ。?そんなもの在ったっけ?と思う。「あ~、もしかすると家にあるかも~」なんて言ってたら、ちゃんと、バイクの籠にあったので、助かった。手続きはこんな感じだった。事故の事実関係を確認する。お互いの連絡先の交換。相手の女性の名詞も貰った。これは一種の出会い系だな~と思ったほどだ。警察に言われて印象的だったことは、「相手の保険会社の名前と連絡先を聞いておいた方がよい」ということだ。言うに従って、相手から、聞き出しておいた。まあ、こんな感じかな?全体的に30分程度のものだった。FC東京の観戦中、雨で服がずぶぬれになっていたので、事情聴衆の間は、寒さで震えていた。警察の人は気を利かせて、「タオルを持っているなら、取ってきてもいいよ」と言ってくれた。この事故の間、僕は自分自身少し驚いたことがある。それは、この一連の騒動を通じて、全く気が動転することがなかった、ということだ。心臓の鼓動が激しくなることもない。聞かれたことには答える。加害者に対しても威圧的にならないよう配慮した。それでいて、弁償はちゃんとして貰えるようにはした。家に帰ってからソファーで寝ている母親に話した。「今日さ~、バイクに乗ってたら、後ろの車に突っ込まれて、道路に吹っ飛ばされたよ。」うちの母親も別段騒ぐこともなかったが、心配はしてくれた。最近、楽天(当サイト)で日記を書かなくなったけど、記憶が新鮮なうちに書きとどめて起きたかったので、ここに記した。こういっちゃあなんだけど、こちらとしては被害がなかったわけだし、いろいろと経験できるのは。。。楽しい。
2005年07月09日
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みなさんは北風と太陽という物語をご存知でしょうか?僕もあまり正確には知りませんが次のような話であると認識しております。ある人(面倒なので彼の名をマイケルする)が歩いている。それを見た北風が太陽に向かって言った。「お前にあいつ(←マイケルのこと)の上着を脱がせることができるか?」そこで、北風と太陽は賭けをすることにした。上着を脱がすことが出来たほうが勝ち、という賭けである。まず、北風の番である。北風は風の力で上着を脱がそうと必死に頑張る。「ふ~。ふ~。(←北風が風を吹く音)」マイケル曰く。「おお。寒い。寒い。コートを羽織らなければ。」北風の思惑とは逆に、北風が風を吹けば吹くほど、マイケルはしっかりとコートを身に付けるのでした。次に太陽に番である。太陽はサンサンとマイケルに暖かい陽を照らす。マイケル曰く。「おっ。あったかくなってきた。コートを脱ごう。」というわけで、北風と太陽の勝負は太陽の勝利に終わった、というわけさ。ところで、いきなり現実的な話をしたい。僕はお金がほしい。ざっと5千万から1億ほどである。だから、金を設ける方法に日々思案に暮れている。しかし、今は不況である。こんなご治世にいったい誰が金を使うというのだろうか。不況時に人から金を稼ぐというのは、寒い日に人からコートを奪うのに似ている。もっと、自然にコートを剥ぎ取る方法は無いか。僕は思案に暮れる。そうだ。暖かくすれば良いのだ。ここで言う「暖かくする」というのは、「景気が好転すること」の比ゆである。暖かくなれば、セーターを剥ぎ取り易くなるに違いない。でも…。とさらに思考を進める。そのときのセーターにはなんの価値もなくなっているのではないか。だって、もはやセーターは必要ないのだから。。。そう考えると、世の中はいかに上手くいかないものであるかがわかる。まあ、世の中はそんなもんでしょう。
2004年11月26日
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