2003/11/21
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カテゴリ: 国内小説感想
 いくつか今まで読まないで来ていた、名作として知られる有名な長めの作品を読んでいこう、という、珍しく目標を立てた読書の中で読んだ一つが『枯木灘』であった。『死の棘』『北回帰線』『南回帰線』がそれぞれそうであり、途中で飽きて止めた『死せる魂』をのぞけば、どれもそれなりの収穫があった。しかしその中で『枯木灘』が特別面白かったというわけではない。むしろ、前作『岬』と同様に、何もかも語りすぎる主人公に反感を覚え、特別に中上健次という作家を高く評価したわけではなかった。
 そのことには今もあまり変わりはない。
 短編集「千年の愉楽」「重力の都」「化粧」に収められていた諸編は大方気に入った。しかし「岬」に収められていた表題作以外への嫌悪は消えず、「19歳の地図」だとかあの辺りに手を伸ばす気になれないでいる。
「熊野集」は、いや、作品名は『』で、本の題名の場合は「」として使っているのだけれど、「熊野集」は、「化粧」と似た傾向の短編集。私小説風の短篇がやや多い。そこで描き出されて、その通りではないにしろ漠然と浮かぶ作者の人間性は、小説家だからこんな風でも構わないだろうと思えるにはやや遠い。素直に沸き上がるのは嫌悪感。中世の幻想的な世界の短篇だけ書いていてくれたらなとまで思う。

 路地の三叉路の脇にある玄関をあけはなした家に入り、初めて実父の家に入って、実父のふところの深さがどのくらいのものか、趣味は、家の暮らしの様子は、と見ているが、さして動じもしないというふうに坐った私に、父親であるとかまえる気など毛頭ないというようにボソボソと話しはじめた実父を見て、私はやりきれなかった。これが私の小説の主人公秋幸が自然そのものの化身とも、蠅の王とも呼んだ浜村龍造かと腹さえ立ち、これでは秋幸という私生児の物語の主人公がかわいそすぎるじゃないかと、嘲いさえしたのだった。つまり、さならが私は浜村龍造そのものとしてその子秋幸の性根のなさを見た。話はシャブ中毒から来る幻覚だけでなく、元々あるふがいなさがいま身中にうごめいているとしか思えない。

『桜川』より


 小説で書かれる、悪の魅力を持った浜村龍造(R’’)のモデルである作者の実父(R)は、作者の持っていた実父のイメージ(R’)とは違い、情けなくクダをまくただのシャブ中の老人でしかない。その幻滅に耐えきれず作者は自分を浜村龍造(R’’)と同一化することにより、秋幸(R’’)、作者(R)、作者の書く小説の中の作者(R’)の人間性の幅を広げ、書くことを増やす。
 急に出てきた変な記号は


 つまりRは、彼女と出逢うことによって、生かされた男だった。永遠に生かされた──彼女の最初の小説の中に閉じこめられることによって、その段階で、Rは用済みとなり、R’’が生き始める。
 R’’が犠牲にしたのは、実在のRだけではなく、R’もまたそうだった。R’というのは、RでもなくR’’でもなく、彼女の空想世界にだけ住む男である。実在のRから、あの夜の内に摘出された男──、それがR’。

森瑤子『死者の声』(「戦後短篇小説再発見16「私」という迷宮」収録)より

 から。
 最後『鴉』でぶちまけられる親族への、文壇への憤懣を読むと、やはり何もそこまで、と思うが、全部読み終えてから開き直すと、中世ものがどうも薄っぺらく見えてくる。そこで書かれるのは直接の作者の周辺ではない。それらは創り事である。そうするとこちらはこの作者への距離をどうとればいいか分からなくなる。嫌悪感を抱えつつ読みながらも快感もある。路地とその周辺の登場人物たちの系譜が頭の中に展開する。浜村龍造と秋幸のように、相反するように見えて同じことを繰り返している者の物語を読めば、中世の話も現実に近い路地の話も根は同じなのだから二つを区別する必要などないとも思える。それにこの本には言うほど中世の話はない。


 私ハ「熊野集」ニ路地がイヨイヨ取リ壊サレルトイウノデ、コトサラ路地ノ動キヲ書キトメテイタ。新宮市デハ「群像」ガ発売ト共ニスグ売リキレタ。路地の土建屋ラガ刻々ト変ワル情勢ヲ知ロウトスルヨウニ「熊野集」ヲ読ミ、私ガ路地ノ事デ姉と喧嘩シ、姉ノ夫ガ「熊野集・妖霊星」ヲ読ンデ、身内ノ恥ヲ他ノ土建業者ヤ世間ニサラシタト怒ッテイル事ヲ知ラサレタ。

『鴉』より


「小説家と結婚をしたら身内のことを洗いざらい書かれるというから、女子は将来気をつけないといけませんよ」と言ったのは小学校5、6年の時の担任の女教師だ。彼女は独身だった。中上健次は100年も1000年も前の時代の作家ではないから、ひょっとしてそれなりに重みのある言葉だったかもしれぬ。その独身女教師とは縁戚関係にあったとしても不思議はない。授業時間を潰して生徒と一緒に遊んだ為に授業に遅れが出たことをいつまでもぶつぶつ言い続けていたその独身女教師を好いている生徒などクラス内にはいなかった。 私小説風の短篇の中の語り手は「俺一人行く、他の者には手をつけるな」と言って自殺した兄を『龍の背中に乗って』では笑い、まるで作者の書く小説世界の中のものと同じような親族の恥を聞き「小説に書く種などいらぬ」と悩む。それらの作品の中の作者は既に彼の書く小説世界に呑み込まれているように見えて、「路地」の中の、書き込みの多い一人の登場人物として見えてくる。



1988年 講談社文芸文庫





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Last updated  2004/10/29 01:10:30 AM
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