2005/03/12
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 ヘンリー・ミラーの『北回帰線』と『南回帰線』は僕とNとが、ボロボロになるまで回し読みした2冊だった。ただ読むだけの僕と違って、何でも書きたがるNは「俺は『西回帰線』という題で傑作を書くから、おまえも『東回帰線』を書いてついてこいよ」と言っていた。回帰線には北と南しかないと言っても聞かなかった。「ないなら俺が引くよ。インドを縦に割るような線でいいだろ。東は任せた」そう言って本当にNはインドまで出かけていった。3年半後に日本に帰ってきたNは、新しい回帰線こそ引けなかったようだが、『西回帰線』という小説を引っ提げて、実家に帰るより先に僕を訪ねてきた。最初の方こそ原稿用紙だが、ホテルの便箋になったり、メモ用紙だったり、レシートやトイレットペーパーまで混ざるその膨大な量の原稿を僕に預けて、「清書しといてくれ。売れたら3割やるからさ」と言い捨ててNは出て行った。その夜遅く、レンタカーで帰省中にNは事故を起こしてあっけなく死んでしまった。
 手元に残された『西回帰線』に僕はいつまでも手をつけようとはしなかった。正直気が進まなかったのだ。旅の思い出も語らぬまま、彼が近くにいない間読み漁った、Nが帰ってきたら話してやろうと思っていた、面白い本について一言も話させてくれないままに、さっさと死んでしまった親友に対して、僕は悲しみよりも怒りの方が大きかった。それに、ただ与えられた物語をむさぼり読んで感動するだけの僕と違い、小さな頃から物語を紡いでは人に聞かせて、老若男女巻き込んで、笑わせ、怒らせ、泣かせ、呆れさせてきたNが、命を削るような放浪と3年半という歳月をかけて(Nが書く小説はいつも30分程度で完成させるものだった)書いた小説が、傑作でないはずがない、読む前から自明であるのだから、すぐに手に取らなくても、老後の楽しみにでも、死病を得て入院した時にでも読むことにすればいいじゃないか、と僕は思っていた。
 嘘だ。僕は読む前からわかっていた。Nが残した何千枚もの大作が、その量と同じだけの紙くずの値打ちしかないことがわかっていた。いや、そうでなければならなかった。Nの書くものは、本当はことごとく酷いものだった。盗作と模倣の乱れ打ち、独自のものといえば原稿に署名されたNの名前くらいだったろう。僕同様乱読家であったNは、読んだ作品をすぐさま真似て、盗んで、よく似た別の物語を自分のものとして人に読み聞かせた。もとの作品を知らない人たちはただただ関心した。だけど僕はNの作り出す物語のからくりを知っていたので、いつも冷たい目で彼を見ていた。一方、贋物でも何でもとにかく何かを作り出して、そのことで人と関係を築けるNが羨ましくもあった。僕はいつまでも一人で本を読むばかりで、その話をする相手も結局N以外出来なかっのだから。
『西回帰線』の中には呪詛と冒険と色物語と一掴みの真実が書かれているだろう。それはヘンリー・ミラーそっくりの文体と物語だろう。清書して出版社に持ち込んだって「こういうの、もういくらでも書かれてるんだよね」とすげなく断られるようなものだろう。それがわかってるから、僕は『西回帰線』をいつまでも放っておくのだ。
 これも嘘だ。本当は『西回帰線』が紛れもない傑作であるかもしれないと恐れている。これほどのものを残しながら、どうしておまえは死んでしまった! と、途轍もない悲しみが襲って来るのを恐れている。
 だから、いつか自分で『東回帰線』を書き終わる時まで、『西回帰線』は読まないでおこうと決めた。何か書こうとすると、あれほど嫌っていた、人の模倣をやってしまいがちなので。乱読の悪影響から抜け出すまでまだ何年も何十年もかかるかもしれないから、永遠に『東回帰線』は完成せず、Nの遺産原稿は僕の棺桶に入れられ、結局誰にも読まれることなく灰になるかもしれない。それならそれで構わない。
 ボロボロになった、ヘンリー・ミラー『北回帰線』を今日も僕は読み直す。隣で『南回帰線』を読み直す人はもう二度と現れてはくれない。





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Last updated  2012/04/07 03:54:27 PM
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