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6月の半ば、三浦・鎌倉歩きの達人からのお誘いで 美味しい釜飯を食べに行ってきた 場所は、「浦賀」からバスに乗って「鴨居港」へ 下車して直ぐのお店 この日梅雨の奔りでお天気が 雨模様 達人は「俳人」なので、雨が降ろうが、風が吹こうが、 中止は殆どない 雨も小降りなので勿論 goー goー である 何時もは行列が出来る店だそうだが、この日は 我々ともう一組だけだった そのせいかどうか、店主が色々話しかけてくれ 楽しいランチになった 前菜3品に 刺身の盛り合わせがでた 最後にメインの「アナゴの釜めし」 達人は「タコの釜飯」 少しづつシェアーして食べたが、どちらも 美味しくて美味しくて、笑いが出てしまう ゆっくり頂いて外へ出たら雨は止み、すっきりしていた お店の隣には「八幡神社」の立派な「鳥居」がある 近くで見ると貫禄に圧倒された 傘を畳むと歩きやすい 海辺をぶらぶら散策する、達人との歩きは 隅々まで勝手知ったる所なので、案内が楽しい 「鴨居」と言う名前は「横浜線」にもある 海の「鴨居」は納得だが、街中の「鴨居」は そうだ「川」があるから鴨が来るのだろうか 雨上がりの海だが、波も無く穏やかである何かいる 「鵜」だと言う 、ずーっとこのあたりを行き来していた ここはきれいな海だ 雨上がりなのにグリーンに海底が見えた 砂が白く、海藻が赤い 大潮の日だったので、きれいな海藻がいたる所に見えた 海藻の色がこんなに種類があるのを初めてみた・・・感動 遠くには大きな船が見える この海岸は、黒船が来たところである 帰り道は「渡し船」に乗って海を渡った 渡しの乗り場 東から乗って西へ降りた バスに乗って「久里浜」へ行き帰る この日も達人の案内で美味しいランチと貴重な素敵な時間だった 夏は歩くにはきついので、秋又何処かへ連れてって貰いたいとお願いした 覚書「御茶禱の祈り 命どう宝 子どう宝」真栄平節子 「命の器」宮本輝「隠された十字架」法隆寺論 梅原猛
2016年07月11日
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久々昨夜から眠りが来なかったので、眠気を待って起きていたら、朝になってしまった。本を読んだりしながら、ぶろぐの整理をすることにした今日は寝ないまま過ごそうか?どうしようかな?1年にこんな日が2~3回ある あるがままに委ねよう・・・・・・・ 「伊藤若冲」 今年生誕300年だそうだ 東京美術館で4月から5月に展覧会を開催したら待ち時間が4・5時間だったらしい 若冲展は十数年前に見ていたので、今回は行かなかったどうしてこんなに人気が出たのであろうか? 知る人ぞ知る画家だと思っていたが・・・ 余ほど広報がうまく行ったのであろう 若冲の絵は、彼以外描けない独特の画法である <<若冲の人となりについて簡単にネットから引用する>> (1716年3月1日 - 1800年10月27日) 江戸時代の絵師 別号、斗米庵(とべいあん、絵を米一斗と交換したから)。八百屋や魚屋が軒を連ねる京の胃袋、錦小路の青物問屋通称「枡源」の長男として生を受ける。問屋の仕事は小売ではなく、生産者や仲買・小売の商人に場所を提供して販売させ、彼らの関係を調整しつつ売場の使用料を徴収する流通業者である。桝屋は多数の商人を管轄していたらしく、商人たちから場所代を取れば十分な利益を上げることが出来たという海の幸や山の幸に囲まれて過ごしたことは、若冲の原体験として、後の作品に反映されている。22歳で父が没し家業を継ぐ。若冲と親しかった京都相国寺の禅僧によると、若冲は「人の楽しむところ一つも求むる所なく」と評されている。 彼には絵を描くことが人生の喜びの全てで、芸事にも酒にも女遊びにも興味がなくこうした世間の雑事のみならず、商売にもあまり関心がなかったらしい。 とにかく、頭の中は絵筆を握りたいという思いしかなかった。 彼は模写の為にどんどん各寺へ足を運んだ。寺院通いを続けるうち、若冲は修行僧のように頭を剃り、肉食も避けて、自ら「平安錦街居士」と称するようになる ある時若冲は店を家人に任せて丹波の山奥に入り、2年間も音信が途絶えてしまう帰宅した彼は、1755年、39歳で弟に家督を譲って隠居する。弟は兄をよく理解し、画業を経済面から支えた。これ以後、若冲は四半世紀の間、ずっと作画に専念する。 1788年、72歳になった若冲を突然不運が襲う。“天明の大火”だ。京を火の海にしたこの大火事で、彼の家も画室も灰になり、焼け出されて大阪へ逃れた。 私財を失って生活は貧窮し、若冲は70の齢を過ぎて初めて家計の為に絵を描くことになった。大阪では西福寺の金地の襖に『仙人掌(サボテン)群鶏図襖』を描いた。 1790年(74歳)から最後の10年間は、京都深草の石峯(せきほう)寺の門前に庵をむすんで隠棲した。1792年(76歳)にずっと彼を援助してくれた弟が他界してから画1枚を米一斗で売る暮らしを送るようになる 1800年、84歳の長寿で大往生する、生涯独身だった。 代表作 錦市場の玄関口にある「若冲」の絵 虚空は、この市場の絵を見て「若冲」の事を思い出しこの市場の出身で有ることを、今年1月初めて知った その後の300年記念展で、2度驚いた 入り口にある説明文 錦市場 …新年で少し客の姿が少ない 新年用の野菜が並んでいた 錦市場を通り抜けると「錦天満宮」がある 新年で賑わっていた 天満宮の前を入ると「寺町」に行く 小路で見つけた、和食屋で「ランチ」を食べた 覚書 「西国巡礼」 白洲正子「王妃の離婚」 佐藤賢一「本をつんだ小舟」宮本輝
2016年06月11日
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故事ことわざ 「怠け者の節句働き」とは、 普段怠けている者に限って、 休日に働き出すものだということ 正に「虚空」は、そんな日常を過ごしている 昼間はグータラしてのんべんだらりン 夜、世間様が静寂になるのを待って、一人遊びをする 人が眠りに付く頃、お料理を始めたり 洋裁に手を出したり、 節句ではないが、世間一般と上手くつながらない 旅に出たときだけ、社会生活の真似事をしている はっきり言えば、勝手気ままの我儘人生なのだ それに付き合って下さる友人家族の方々に、感謝の日々である 前置きが長かったのは、これから書く内容が 約2か月遅れであることを「忸怩たる気持ち」なのだ 毎月末だけ開店する「手打ちそば」屋さんの3月の蕎麦 蕎麦は絶品、着いてくる副菜がこれまた愛の凝縮料理 何時も付いてくる「塩にぎり」が「なんでこんなに美味しいの」? 毎回人々が思わず口にする言葉 丸5年5か月、月末に通い詰めている。陶芸家の神魂を込めた蕎麦の味は、そん所そこらの蕎麦屋さんには太刀打ちできない魂の蕎麦である。 食べた人はみんな知ってる 詳しくは「蕎麦屋さん」のサイトを見て見て 別の日4月4日・・・鬼の「撹乱中」の約束だったので 相当無理して出かけた 「新横のホテル」のレストランで ゆったりランチ 何とか出たものは8割ほど食べられた 彼とは初めての食事だった 話の回転が速く、面白い人なので楽しい時間だった 3時間程掛けて食事・ティータイムを終り 駅前で再開を約して別れた。無理はしてみる価値のあるランチだった 新横から桜も終わりに近いので、初めての道を ぶらりぶらりと、歩いて見つけた、 タンポポと名残の花びらたち 無造作に 咲く花もあり 美しき 横浜に 鬱蒼となせり 谷の家並み 柔らかそな「蕗」にこころ魅かれるも・・ 手出し兼ねる 一山越えて降りたところは、 散歩道の「岸根池」がある 期待通り、ここでディナーを食べる「蒼鷺」に会えた 周囲の動きには何にも感応されず ひたすら食べ物に集中の姿 生きるとは、人も鳥も同じこと さくらの池に溶け込んでいる「蒼鷺」君?さん?の 去就に見とれて時間が過ぎて行く 池の少し方向を変えると、 桜の色彩がまるで異なる風景に見えるのは何故だろう 今年の桜は長く見られた、毎年時期も季節も変化してこうなるああなると言えないのが、四季なのだろう 来年の桜が見られるのやら、見られないのやら来年の事を言うと、鬼に笑われる 覚書 「沙中の回廊」下 宮城谷昌光
2016年05月27日
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4月の初めごろ、鬼の撹乱をやって予定していた旅がオジャンになった撹乱も少し落ち着いたので「荒療治」を計画日帰りの旅をすることにした 行き先は「上野」乗り換え「水戸」乗り換え、水郡線へ ローカル線の楽しみは「単線」にあり 初めての線でのもう一つの出会いは 駅名である 「静」「瓜連」二つとも面白い 春の空は晴れていても、靄ってすっきりしない 古いのか新しいのか洒落た 「駅舎」に見取れていたら、駅名が通り過ぎた この日金曜日だったが、水戸からの乗客は多くなく、目的地に近くなると益々閑散として空気が澄んできた 進行方向左側には「きれいな水の川」が続く 駅に止まる度、運転手さんが「料金箱」を持って走り出るこの路線無人駅が多い 運転手さんは忙しい、運転も集金も一人で担う 降りる客から運賃を回収して箱に入れる これぞローカル線の見どころ この日、電車が少し遅れ気味で心配しながら 降りてダッシュし、バスに飛び乗った・ら・・・「お客さん大丈夫ですよ、電車に合わせてますから」っとドライバーから声を掛けられ、ふぉっと 呼吸を整える降りた駅は「袋田」 「滝元」行のバスである・・・客は虚空一人、たったひとりだった 滝元迄約10分であった、近いようだが、歩くのは時間が有るときだ この時間、午後2時では先が急がれる最終バスが4時半と確認をして 観瀑台へ・・・・・・・約15分 さくらと鯉のぼりのコラボを見ながらてくてく 入館料ではなく、トンネル使用料¥300を払いトンネルを使用? しながら進む 暫く歩くとドーーーーと言う音が聞こえてくる ここ「袋田の滝」は高さ120m・幅73mの大きさ、大岩壁を四段に流れることから、別名「四度の滝」とも呼ばれ、その昔、西行法師が訪れた際、「四季に一度ずつ来てみなければ本当の良さはわからない」と絶賛したことからとも言われている 一番下から見る全景 落瀑の迫力をカメラで撮るのは無理がある 一番上の台から降りるとき、中国の観光客が来た 人が居る時と居ない時の「滝」は、何かが違って見える わかった! 空気だ 一段降りた時、一人人が居た 飛沫は飛んでこなかったが、迫力は凄い 観瀑台 ↑つり橋から見た観瀑台 行きも帰りもトンネルで人には会わなかった 「滝元」の駐車場には車が1台も無かった 週末や観光シーズンは一杯なのだろうか 帰り道 直火で焼いた「アユ」の焼きたてを頬張りながら駅まで歩いたのは美味しくて空腹を少し満たしてくれた ご馳走様 食べながら歩いていたら 、90歳と言う女性から声を掛けられた「美味しいでしょ」っと「美味しいです」と答えると笑顔が美しかった 「ゆっくりできないの」?言われ「バスの時間が」と言ったら、4時半だものね急いで行きなさいと、急かされたこの地の人はバス時間がしっかり インプットされているようだ 帰りの「袋田駅」で青空に会えた水戸行は待ち時間40分、ここからの乗客は虚空ともう一人 食べる時間が無かったので、駅周辺を探したが1軒も食べ物屋は無く、すきっ腹を抱えて帰宅した・・・・・空腹は最高のご馳走である この駅も無人駅である 水郡線は進んでいる1時間1~2本の列車があるが、駅で見た進行情報が素晴らしい 欧州・韓国で見たが、国内では初めて見る これがあると、待つ人は余裕が出来る首都圏は列車数が多すぎて、無理なのだろうか 17時近くの列車なのでライトが付いていた 袋田を出て暫く行くと、アオサギが悠々と川面を飛んでいた 別れの挨拶だったのかな 行きたかった所へ行けて良かった袋田は行ってみなけりゃわからない結構乗車時間が長かったが、何かお弁当を持ってゆくとよかったかも 取り替え時間や、現地の観光時間に余裕がなかった飲み物だけはたっぷりあったので良い滝の凄さは一見の価値ありである 四季折々行けたら確かに良いだろう出来たら秋深き冬近い時期が魅力である でも1回でも見られて満足した2回目があれば贅沢である 覚書「ゲド戦記」帰還 ル=グウイン 「ゲド戦記」「アースーシ^の風」ル=グウイン
2016年05月05日
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鎌倉歩きの達人から「桜貝を取りに行きませんか」と 誘われて、「逗子海岸」へ行った 逗子は縁故もあり、以前はよく来たことがある 海水浴にも来ていたが、昔はこの海はとても汚れていた 久々に来て驚いたのは、海水がきれいな事である この日は大潮なので、桜貝が見つけやすいと言う 達人は「俳人」で「季」に対しても達人である 「桜貝」を見つける為 下を向いて歩いた・・・楽しくて時間を忘れていた ふぉっと海に目をやると、江の島の近くに ウインドサーフィンの帆が3艇くっきりと見える 瞬く間に1艇がこちらへやってきた 海岸に着いた ! これもウインドサーフィンと言うのだろうか? 聞いてみたら、2度と言えない横文字の名前だった 逆光の海のキラキラが良い ↓潮が満ちはじめ、少し風も出てきたのを待っていた サーファー達が、4・5艇と動く 下ばかり見るうち、人がだんだん出始めた ここで何が釣れるのだろうか楽しそうに 釣りをする人、水に足を付ける人、春なのだ サーファーも増えてきた 桜貝も取れて、足を休めに海の見えるカフェで ティータイム 間もなく満潮である 舟を出す人も見られる・・・ゆったりした時間 駅まで歩く道すがら、西方には、 落ち行く陽が輝いて美しい 帰宅後、桜貝を洗って眺めた時は、至福であった 桜貝がこんなにも傷つきやすく、軽く そして可憐で、素敵で魅力あるとは、初めて知った 風が吹くと、ファっと飛んでしまう 思ったより沢山見つかり、友人達に配ると みんな思わず「わーーっと」声が出る 喜んで貰えた・・・よかった 他にもきれいで、不思議な貝も見つけた 又行こうと思っている。 素晴らしい時間を貰った気がする・・・ 時々見ては思わずにっこりである ここで一句と言う「センス」も無いのは残念 達人に感謝 覚書「ゲド戦記」3 さいはての島へ ル=グウィン
2016年04月01日
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ネットから面白い「お話し」を頂いた 知る人ぞ知るなので、 百も承知の人は、面白くも何ともない、だろう 虚空は、面白くてつい、ここで書きたくなった 博多の町人に 古くから 『 仙がくさん 』と呼ばれ愛された和尚がいた 仙がくさんは1750年、美濃(岐阜県)に生まれ、1837年、87歳まで長生した。 11歳で出家し、諸国行脚の旅を続け、 40歳で日本最初の禅寺といわれる博多の『 聖福寺 』の第123世住持となる。 仙がくさんは若い時から非凡であり、風刺のきいた軽妙な墨絵書画を多く残しているが、その中に 『 老人六歌仙 』という詩句がある。 仙がくさんの「がく」の字が、このブログでは使えない字なので、ひらがな表示にした 1.しわがよる、ほくろができる、腰まがる、頭ははげる、 ひげ白くなる。 2.手は振れる、足はよろつく、歯は抜ける、耳は聞こえず、 目はうとくなる。 3.身に添うは、頭巾、襟巻、杖、眼鏡、 たんぽ、温(おん)石(じゃく)、 しびん、孫の手。 4.聞きたがる、死にとむながる、寂しがる、心はまがる、 欲ふかくなる。 5.くどくなる、気短になる、ぐちになる、出しゃばりたがる、 世話やきたがる。 6.またしても、同じはなしに子を誉める、 達者自慢に人は嫌がる。 御迎の来たとき ■還暦(60)で御迎えの来たときは、只今留守と云え! ■古希(70)で御迎えの来たときは、まだまだ早いと云え! ■喜寿(77)で御迎えの来たときは、せくな老楽これからだと 云え! ■傘寿(80)で御迎えの来たときは、なんのまだまだ役に立つ と云え! ■米寿(88)で御迎えの来たときは、もう少し米を食べてから と云え! ■卒寿(90)で御迎えの来たときは、そう急がずともよいと 云え! ■白寿(99)で御迎えの来たときは、 頃を見てこちらからぼつぼつ行くと云え! 『 仙がくさん 』の最後の言葉は 「死にとう無い」だったそうだ 同じような言葉が「韓国」にもあるようだブログから頂いた ■60才であの世からお迎えが来たら まだ若いから行けないと伝えておくれ~ ■70才であの世からお迎えが来たら やることがまだ残ってて行けないと伝えておくれ~ ■80才であの世からお迎えが来たら まだ使いものになりそうだから行けないと伝えておくれ~ ■90才であの世からお迎えが来たら 自分で行くから催促するなと伝えておくれ~ ■100才であの世からお迎えが来たら いい日いい時間に行くからと伝えておくれ~ アリラン アリラン アラリヨ アリラン峠をまた越えていく ■80才であの世からまたお迎えが来たら プライドが傷ついたから行けないと伝えておくれ~ ■90才であの世からまたお迎えが来たら 自分で行くと言ったのにまた来たのかと伝えておくれ~ ■100才であの世からまたお迎えが来たら いい日いい時間を探しているんだと伝えておくれ~ ■150才であの世からまたお迎えが来たら わたしゃ既に極楽世界に来ていると伝えておくれ~ アリラン アリラン アラリヨ みんな元気に生きていきましょ~! 長生きの賜物・・・素敵な空 あの世が透けて見えるような 見えないような
2016年03月19日
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昨日は東北震災から満5年だった 考えてもどうにもならない事がある それでも忘れてはいけないことがある 当事者と同じ気持ちになるのは難しい 少しでも寄り添いたい 何も出来ない事を嘆くより 少しでも寄り添いたい 忘れているわけではないから 昨年7月の明け方の空 夕空は何時も見るが、朝焼けは1年のうち めったに見る事がない この日は、眠りが来なくて空を見た 月が残っていた これは7月の20日 19:04 19:06 19:07 19:08 刻々と変わる西の空に、飽きることなくカメラを向けた 覚書 「影との戦い」ゲド戦記2 アシュラ・k・ル=グウィン
2016年03月12日
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京都の写真を後回しにして・・・・・・・ 1月半ば鎌倉歩きの達人から「美術館」が閉館するので 最後の一般公開を見に行こうと、誘われた 全く知らなかったので、二つ返事で同行した 鎌倉へは、時々歩きに行っているが、 この美術館は、何年か前、特別展を見て以来である 1月31日をもって最終と言う事で、観覧者は多かったが 行列をすることはなかった 所蔵の内容は、懐かしい作家たちがほとんどで、 久々に好きだった作品に振れ、嬉しい時間だった 下記の画家たちは、昔油彩を描いていた頃、色んな場所で 好んで見て歩いた人達である 全員鬼籍に入られた方達の一部 靉光・青木繁・青山義雄・浅井忠・有島生馬・石垣栄太郎 猪熊弦一郎・梅原龍三郎・ 荻須高徳・岸田劉生 黒田清輝・小出楢重・佐伯祐三・ 坂本繁二郎・須田国太郎 藤島武二・松本竣介・三岸好太郎・安井曾太郎・萬鉄五郎 国内の美術館の殆ど、ここも、写真を撮ることが出来ないので 作品の絵はないが、絵画好きには、 きっと絵が思い浮かぶ方々ばかりだといえる 神奈川県立近代美術館 鎌倉(略称:鎌倉館)の閉館 の経緯について 鎌倉館(旧館・新館)は1951年11月開館し、65年が経過した 老朽化が顕著になっており、また、国史跡に指定された鶴岡八幡宮境内では史跡にそぐうもの以外の現状変更が認められず、美術館として改修することは困難であるため、2016年3月末で美術館としての活動は終了することとしております。 ・今後の鎌倉館について 神奈川県立近代美術館が鎌倉館にて開催する展覧会は2016年1月31日(日曜)までとなっており、その日をもちまして一般公開は終了となります。その後の美術館活動は、鎌倉別館と葉山館の二館体制で行っていく予定です。 ・建物について 旧館棟については、現時点では鶴岡八幡宮に引き継ぐ方向で調整しております。また、別棟(附属屋)と、耐震に問題があるため2007年より展示のための使用を中止している新館棟(第3展示室)は取り壊す方向で検討しています。 ・収蔵品について 鎌倉館の収蔵品(現在鎌倉館の敷地内にある屋外彫刻など)に関しましては、鎌倉別館と葉山館で保存・管理し、両館での展示や他館への貸出などに活用いたします。以上の説明文が、ネット上で掲載されていた 1月の閉館近い時期は、沢山の行列が出来、 入館するのに、相当時間がかかったと、聞いた 鎌倉駅で合流し、まずはランチタイム 和食は、何時も美しく、美味しい デザート 美術館のベランダ?に妙なお団子??がある ここは、水の反映効果を計算されて作られたそうだ 確かに効果満点 美術館から北鎌倉へ行き、 「北鎌倉古民家」で開催中の 「アイヌ刺繍展」を見にゆく 昨年鎌倉のやはり別の「古民家」で 見せて貰った 015・6月アイヌ刺繍展の内容 この展覧会は「個展」で、大な作品が一杯 作家のエネルギーが伝わって驚きと 感動に満ちていた 同時期「上階」で開催されていた「人形展」も見た 昭和時代の懐かしい家庭を作られたいた とても繊細に、温かい雰囲気が出ていて、よかった 一歩外へ出ると、何か発見がある 閉じ篭もりがちな生活になり安いが、季節も良く 外出を心がけようとちょっよだけ、「反省」をするこの頃 覚書 「ソルハ」 帚木蓬生「宿神」(四) 夢枕獏
2016年03月05日
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数年前、浅田次郎の作品 「壬生義士伝」「輪違屋糸里」等を読んだ 印象に残っている京都の場所が、今回宿泊したホテルから近いことを知ったお天気もよく、ぷらぷら歩きに絶好である 西本願寺をじっくり観光し、目的の所「島原」へ 以下は、ネットから参照 江戸の吉原と比較される京の島原は、花街の名称 室町時代に足利義満が現在の東洞院通七条下ルに許可した傾城町が日本の公娼地の始まりといわれる。桃山時代(1589年)には豊臣秀吉の許可を得て、原三郎左衛門らが二条万里小路(までのこうじ)に「二条柳町」を開設した。江戸時代になると六条付近に移されて「六条三筋町」と呼ばれるようになり、吉野太夫などの名妓が輩出した。1641年にはさらに朱雀野付近への移転が命ぜられ、以後「島原」と呼ばれた。「島原」の名称は、この移転騒動が島原の乱時の乱れた様子に似ていたためについたという説や、周りが田原であったため、島にたとえて呼ばれたという説など、諸説がある。 新しい土地の周りは壁や堀に囲まれ、出入り口として東の大門ができた。島原は元禄期に最も栄えたが、立地条件が悪かったこと、また格式の高さが原因となって祇園町、祇園新地、上七軒、二条などの遊里に人が流れ、その後は幾度かの盛衰を繰り返したものの、次第に衰えていった。廓の女性達は(手形が必要ではあるが)自由に廓の外へ出ることができ、一般人も(男女問わず)自由に出入りができた。清河八郎や頼山陽のように、実母を「親孝行」として揚屋で遊ばせた例もあり、外部から「閉ざされた」遊所ではなかった。 嘉永4年(1851)の大火で揚屋町以外の島原のほとんどが焼失し、祇園新地で仮営業をしていたが、大半が島原に戻ることなく街は寂れていった。明治以後は公家、武家の常連客がいなくなり、さらに窮状に置かれるものの「太夫道中」などの行事で支えていた。昭和初期までには居稼ぎ(店に住みこみ、登楼してくる客の相手をする)の娼妓本位の花街になっており、街に古色は残るものの非常に寂れた状態となった。 昭和後期にお茶屋、太夫、芸妓の人数が減り、ついにはお茶屋組合が解散して普通の住宅地と化した。残存していた多くの建物や門も、取り壊しなどで姿を消し、現在は「大門」、「輪違屋」、「角屋」がその面影をとどめているだけである。すでに揚屋としての営業は行っていないが、角屋は建築物としては今も日本に唯一残る揚屋造の遺構である この長屋は、門の外である。手前の3階建てが、大家 この道を行くと「大門」がある 珍しい姿の人 大門の前にあった「石碑」 外側から見た「大門」 「輪違屋」 輪が二つの家紋 小説を読んだとき、まさか現存しているとは思いもしなかった ここに立って、小説の話が蘇り、「糸里」がいるような 不思議な時が過ぎて行った このあたりは、町家が所々残っている 「角屋」はとても大きな家だった この道の左右とも「角屋」である 「大門」の中から外を見る 「大門」から出て帰り道の外の家を見ると、 屋根の上に人のように見える置物 何だろうとカメラをズームしてみる やはり人型であり、侍なのだろうかと、眺めていたら この家の住人が自転車で帰ってきた 「カメラ」を撮っているのを見られ謝ると、「どうぞどうぞ」と 家の中まで案内された この像は「鍾馗」で、町家には置いている家が結構あると言う 面白かった話は、「鍾馗」の目線が色々有り 向えの家の「鍾馗」と目が合わないように作るのだそうだ 少し目を伏せたり、横へ向いたり、上を見たり 「鍾馗」同士が睨み合いにならないようにするのだとか この家は200年近い「京町家」であり、この方は 「町家」を専門に雑誌を編集しているうちに 町家を買って住む事になったと話してくれた 町家の作りを説明しながら見せて貰った 話が弾み、次回はゆっくり時間を取って来て欲しいと言われ 京都に訪ねる人が出来た、旅の真骨頂である 今はメールのやり取りで繋がっている 鍾馗を置く意味 京都市内の民家(京町家)など近畿~中部地方では、現在でも大屋根や小屋根の軒先に10~20cm大の瓦製の鍾馗の人形が置いてあるのを見かけることができる。 これは、昔京都三条の薬屋が立派な鬼瓦を葺いたところ向かいの家の住人が突如原因不明の病に倒れ、これを薬屋の鬼瓦に跳ね返った悪いものが向かいの家に入ったのが原因と考え、鬼より強い鍾馗を作らせて魔除けに据えたところ住人の病が完治したのが謂れとされる この家は、 獅子のようだ 覚書 「宿神」(三) 夢枕獏 「私の古寺巡礼」 井上靖
2016年02月28日
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上賀茂神社から帰りながら、何処へ寄り道しようか 考えていたら、昨日急遽帰った友人からメールが来た 帰り道に「詩仙堂」と言う所があるので、寄ってみたらと言う 友人も行ったことがないので詳しくはわからないが、 良いところらしい 何処へ行くと言う予定もなかったので、 渡りに船とばかりに行くことにした バスに乗ってドライバーに聞くと、あまりはっきりと 言葉が通じない声が小さく、言葉で説明が面倒だったらしい 京言葉に戸惑っている虚空を見て、乗客の女性が 助け舟になって、ドライバーさんに聞いて下さり、 丁寧に教えて頂く・・・乗り場の事・バスの乗り換え方・ バスの便が少ない事で迷っていたらしい ここで降りて!乗り換えをと言われたので、 お礼を行って下車 言われたように、乗り換え場所迄少し歩くと 便の少ないはずのバスが 直ぐ来て、驚くやら、有難いやら、 思わず感謝の笑が出た 最寄りのバス停「一乗寺下り松町」 下車 緊張で、空腹を忘れていたが バス停近くの「うどん屋」を見て、遅いランチを食べる 空腹に不味いものなしである 気持ちも落ち着き、場所を聴き、ゆっくり歩く事に この周辺には、色々な神社仏閣があるらしい 詩仙堂は「史蹟」とある 100米の上り坂の両側は、日本家屋が並んでいる 上り坂は、楽とは言えなかった 目的地「詩仙堂」にたどり着いてふぉっとする 詩仙堂は、京都市左京区にある、江戸時代初期の文人石川丈山の山荘跡。国の史跡に指定されている。現在は曹洞宗の寺院でもあり丈山寺という。 詩仙堂は徳川家の家臣であった石川丈山が隠居のため造営した山荘で、名前の由来は、中国の詩家36人の肖像を掲げた詩仙の間による。 詩仙は日本の三十六歌仙にならい林羅山の意見をもとめながら漢晋唐宋の各時代から選ばれた。肖像は狩野探幽によって描かれ詩仙の間の四方の壁に掲げられている。 詩仙堂は正確には凹凸窠 (おうとつか) という。凹凸窠とはでこぼこの土地に建てられた住居の意味であり、建物や庭園は山の斜面に沿って作られている。 丈山は詩仙の間を含め建物や庭の10個の要素を凹凸窠十境と見立てた。 寛永18年 (1641年)、丈山59歳の時に造営され、丈山は寛文12年 (1672年)、90歳で没するまでここで詩歌三昧の生活を送った。 この建築は、一部を除いて後世の増築である ここを上がった この門を潜る 何か見えてきた 受付の女性に庭はカメラだが 部屋の中はだと言われた 庭を見て思わず「ワーーと」 声が出た 誰もいない静寂の庭・時々響く「鹿威し」の音 何も考えないでやってきたこの場所 この座敷にただひとり、座って風を感じ、 鳥の声を聴き 鹿威しのコーンと言う音が響くたびに、現実に戻る 僥倖な時間を頂いた どの位の時間だったのか、時計を見る事もなく 座敷の中を見たり、庭を眺めたり 浮世から別の世界にいたような・・・ 中国の詩家36人の肖像を掲げた詩仙の間 庭にある白砂に、西方の陽が当たり、それを見ている それだけで、ここに身を置く事が出来よかった トイレの脇にある手洗い 受付へ戻ると「どうでしたか」と聞かれ、 「夢のようでした」と答えた 「お客さんがひとりと言うことは、めったに無いのでお聞きしました」 と言う 何時もあることかと思っていたが、声を掛けられ 真の僥倖だったのだと思った 人生にはこんな事が侭ある、あの時この時 色々想い出す時間を頂いた 少し歩くと庭へ行けると聞き、母屋の周りを出てみた この石垣は古色蒼然としている 苔が黄色・・・ 狭い道を抜けると、庭が大きく広がって目に入る ここも別の世界を作られていた 池の中に屋根が何だろう ここに「コーン」の鹿威しがあった 庭から、先ほど座っていた所が見えた 屋根の事を 受付の女性に聞きに行ったら 「池の魚の休憩室」だと言う 日除け・雨よけ・音よけ・外敵よけ 聞けば納得 帰りがけには、 部屋は人の話し声で賑わっていた ・・・ 帰り道でこの位置の高さに気がついた 自転車の上りは如何にも「辛い」・・・ 下りはスピードが出すぎで「怖い」かな タイミングよく連絡してくれた友人に感謝 彼女は京都の大学出身で4年の生活から 京都歩きの達人である 何時かまた、同行二人を願いたい 覚書 「愛の徴」天国の方角 近本洋一 「影との戦い」ゲド戦記1 アシュラ・k・ル=グウィン
2016年02月17日
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10月・12月・1月に次いで2月も京都に行ってきた 今回は、西方の友人と前日の夜電話していて、 「どうする」「行こう」 っと、急遽決定し、京都駅前のホテルを取った 今迄いろんな所へ一緒に行ったが、前日決定は今回初めて 日頃何役もやっている友人だが、丁度2泊だけは空いていた 振り返って我が家を見ると掃除・洗濯・その他諸々、 さあ大変日頃の怠慢が・・・・・ 数時間で家の仕事を熟して旅支度 バタ バタ バタ 旅は何時でもうれしい今回は降って湧いたようなそんな気分 京都でお昼に合流して、ランチを一緒にと言う予定 3ヶ月連続で「富士山」と会えた この日は温かそうな雲を着ていた 春を待つ農閑期の田園 伊吹山は雲が掛かっているが、悠然として貫禄充分 雪のある山は、一段と美的である 新幹線は早い早い・・・友人はバスで3時間半 13時前京都駅前で合流出来た ホテルへチェクイン後、ホテルのレストランが良さそうなので ここで、ゆっくりランチタイム 昨年10月に近畿の旅をして以来なので、話が尽きない 約半日、近場を歩いていた夕方、友人に一報が入った 家族が急病になったと言うのだ バスに乗れば今日中に帰ることが出来る急いでホテルに帰り 荷物を取ってバスチケットを買う バス停に行ったら1分後発のバスに間に合った 数時間のまるで逢瀬(男女だったら)のような 明日からどうしょうっと 2階へ上がって梯子を外されたような気分 夕食は何食べよう等駅前の地下街をうろうろ いっそ数日このままひとり旅を続けようか気持ちが揺れ揺れ 一人旅に慣れているし、一人旅が好きなのだが 今回は妙に落ち着かない 千々にに乱れると言う気持ちを経験した 2泊のホテルはそのまま、3泊目からのホテルを取れたら このまま続けようと駅前のホテルを歩いたが、何故だろう 1軒のホテルも空きがないツインはあったが、高すぎる これで、気持ちが決まった今回は2泊で帰ろうっと 次の日2月3日・・・ 病人は落ち着き、友人が介護することになったとメールがあり 少しフォっとした 二人で行く予定のこの旅の一つの目的場所へ、 一人でバスに乗った そこは・・・「上賀茂神社」 節分手作り市 この市に、初めて知人が出すと言うので見に来た 京都駅前から1時間弱、客はまばら 上賀茂神社は、京都でもっとも古い神社であり、雷(いかづち)の御神威により、厄を祓いあらゆる災難を除き給う厄除(やくよけ)明神・落雷除・電気産業の守護神として広く信仰されている 正式名称を「賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)」といい、京都市内の北部上賀茂の地にあり、神代の時代から信仰を集めている・・・そうだ・・ 人が少ないのが少し気になる 午後には「豆まき」があるので、こんな風景が見えた 何故かここには「白馬」がいた人参を買って 口に持ってゆくと、美味しそうに食べた 馬は本当に人参が好きだった初めて見た ここで何かが始まるらしい どんど焼き 古い御札・お守り・しめ縄・門松等々 神事の物を、この日ここで燃やす 最後は、燃えカスになって、 午後から風が少し強くなり、 風に吹かれ空へ飛んで行ったり舞ったりした 火は風を呼ぶ 1回目の「豆まき」は、13:30分から始まる それまでは、誰もいない 時間が近くなると、人が三々五々集まり始め 瞬く間に人の輪が大きくなった そこへ入ってきたこの日の「豆まき人」 舞台に上がってからの神事が、待つ人には長く感じる やっと始まった「福は内・福は内」 投げる人は嬉しそう 拾う人も楽しそう 長く生きているが、神社の豆撒きは、初めて見た カメラ片手なので、遠巻きにして拾う事はなかった 出店している知人の所へ行くと、豆があり、頂いた 小さな袋に入っているので、食べる事も出来る この市は、客が少なく余り売れなかったようだが・・・ 旅としては、楽しい旅だったらしい 帰る前に神殿に参拝しに行くと、行列が出来ていた 大きな「破魔矢」が印象的だった 帰りに振り返ると「手づくり市」が見えた 2月にしては寒さも程々なので、楽しめた 距離的に、もう来ることは無いだろう この日買って帰ったのは 「漬物」「鮎の甘露煮」「鮒寿司」 「アップルパイ」「なんとかパン」等 琵琶湖周辺からの出展者が多いらしいどれもとても美味しく、近かったら買いに行きたい物ばかりだった 覚書「流れゆく者」上橋菜穂子
2016年02月10日
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京都駅から歩き、東本願寺前で空を見た 飛行機雲がはっきり線を描きながら 大阪方面へくっきりとラインを残しながら飛行していった こんなに長い飛行機雲を見たのは、何時以来だろう 夜の帳が降りる頃、鴨川の橋の上にいた 少し歩くと「祇園」がある 祇園社(明治以降は八坂神社)の門前町であったので この名が付けられた町は、鴨川から東大路通・八坂神社までの 四条通の南北に発展した。 京都有数の花街(舞妓がいることでも有名)であり、 地区内には南座(歌舞伎劇場)、祇園甲部歌舞練場、 祇園会館等がある 現在は茶屋、料亭のほかにバーも多く、 昔のおもかげは薄らいだが、 格子戸の続く家並みには往時の風雅と格調がしのばれる。 北部の新橋通から白川沿いの地区は、 国の重要伝統的建造物群保存地区として選定、 南部の花見小路を挟む一帯は、 京都市の歴史的景観保全修景地区に指定され、 伝統ある町並みの保護と活用が進んでいる。 1階は然る事ながら、2階の照明に何か惹かれる この二人の装いが、在りし日の、この街を象徴している この垣根は 犬矢来(いぬやらい)と言う 由来は犬の放尿除けである、とよく言われるが、生活に根差した実用性も高く、泥棒除けや道路との境界線の役目も果たしているようである 実際には建物の外壁の裾(下の部分)に雨水がはね返って、 傷むのを防ぐとともに、装飾の役目も果たしていると考えられる 京都の名産「竹」の使い方が美しい これは竹ではないが、洒落た「窓」に見惚れる 京都タワー高さは131mあり、京都市内では最も高い建造物である。1953年、京都駅北側の土地に建っていた京都中央郵便局が移転することが決まり、移転後の跡地の活用が検討されていた。またこの土地は国際文化観光都市たる京都の表玄関、京都駅の真正面に当たる物であり、それに相応しくまた公共性に富む土地活用が求められていた。京都商工会議所主催の懇談会で株式会社物産観光センター(のちに株式会社京都産業観光センター)の設立が決まり、翌1959年4月11日、創立した タワーは1964年2月3日に立柱式、12月28日の開業であったその構造は、鉄骨を一切使わず、厚さ 12mm - 22mm の 特殊鋼板シリンダーを溶接で繋ぎ合わせ、 円筒型の塔身を作ったもの(モノコック構造)となっており、 タワー外部に仮設タワーとクレーンを設け引き上げを行った、 工期は約1年10カ月、総工費は38億6400万円であった 何度も来ているが、タワーに初めて上がった 360度が見渡せる、京都は山と寺の街らしく、思ったより 灯りが落ち着いていた こちらは「京都駅」ビルの前 こちらは「東山方面」 展望台の中から 外から見るとこの円形が強調される 最終日チェックアウトをして、先ず行ってみたのは 「伏見稲荷大社」 京都駅から奈良線で2区目、たった5分だった 歩ける距離である 全国に約3万社あるといわれる稲荷神社の総本社 和銅年間(708 - 715年)一説に和銅4年(711年)2月7日に、伊侶巨秦公(いろこのはたのきみ)が勅命を受けて伊奈利山(稲荷山)の三つの峯にそれぞれの神を祀ったことに始まる。 応仁の乱の最中の応仁2年(1468年)、 稲荷山は細川氏側の軍勢の陣地となるが、 山名氏側の攻撃を受けて敗退した際、 稲荷社も山上の建物を含めてすべて焼きつくされることとなった 慶応4年=明治元年(1868年)の鳥羽・伏見の戦では 再び戦場となりかけたが、 幕府軍は早々に戦闘行為を諦めて大坂に退却したため、 稲荷社の被害はほとんどなかった 同年の神仏分離・廃仏毀釈によって、 文化財の保存の点では戦いよりも 神仏分離のほうが影響は大きかった 明治政府は稲荷社から領地をすべて召し上げ、境内地も4分の1に減らされた。 明治4年(1871年)には「稲荷神社」とし 「官幣大社稲荷神社」となった 1946年宗教法人化とともに社名を「伏見稲荷大社」と改称 何故「狐」なのかズーット疑問だったので、 調べてみた 稲荷神は元々は農業神であるが、狐は穀物を食い荒らすネズミを捕食すること、狐の色や尻尾の形が実った稲穂に似ていることから、狐が稲荷神の使いに位置付けられた 江戸時代に入って稲荷が商売の神と公認され、大衆の人気を集めるようになると、稲荷狐は稲荷神という誤解が一般に広がった。またこの頃から稲荷神社の数が急激に増え、流行神(はやりがみ)と呼ばれる時もあった。今日稲荷神社に祀られている狐の多くは白狐である 稲荷神には神酒・赤飯の他に稲荷寿司およびそれに使用される油揚げが供えられ、ここから油揚げを使った料理を「稲荷」とも呼ぶようになった。ただし狐は肉食であり、実際には油揚げが好物なわけではない。 調べてみて、益々稲荷神に対して、が大きくなった ??????? 子供に何と説明しているのだろう 鳥居に何を祈る この道は「面白い」 芸術的 この池は「新池」と言ったような??? ここまでも結構坂を上ったので、時間を気にして ここから、同じ道を下って帰ることにした 最終日なので、効率よく歩こうと、駅から遠くない 「壬生寺」へ行った 園城寺(三井寺)の僧快賢が、991年(正暦2年)に自身の母のために建立したとされる。京都では珍しい律宗(総本山は奈良・唐招提寺)寺院である。 江戸時代後期の幕末には京都の治安維持を目的に活動した 新選組(当初は壬生浪士組といった)の 本拠が壬生村の八木家に置かれた。 当寺境内は新選組の兵法調練場に使われ、 武芸などの訓練が行われたという。 その縁で境内には局長近藤勇の銅像や、 新選組隊士の墓である壬生塚がある 立派な寺であったが、何か空々しい空気が漂っている 幕末に関わる本を数冊読んでいたので、 何となくその地を歩きたかった が・・・・・早々にこの寺から立ち去った 今や、この寺の敷地内は「老人ホーム」が2ヶ所と 幼稚園があり、金満振りが鼻についた 「壬生塚」 の場所、入場料を払ってはいると 小さな池があり、「蒼鷺」 が目の前に見られた この池の住人 蒼鷺は何時見ても美しい が・・・この鷺は、全く動かず、ふてぶてしい程、 人に慣れていた 鷺のイメージが少し揺らいだ 彼?彼女?にとって、ここが自宅なのかもしれないので悠々としているのだろう鷺にとって、都会は似合わない 昨年の1月・10月に次いで3回目の京都旅 その都度同行者が違うので、旅の色も変わって 面白い 旅は何時も楽しく魅力的である 年が変わって、京都一人旅をした 覚書 「天国の囚人」 カルロス・ルイス・サフォン
2016年01月29日
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京都へ旅する人の多くは、大原へ行くだろう 虚空は、18年振りに訪れた 京都駅から直行バスがある、所要約1時間 以前は市電だったかどうか「出町柳」まで行き、 乗り換えた記憶がある その時も紅葉の季節だった、 こんなに土産物屋は無かったような気がする 道も歩きやすく、観光地として発展している 「大原三千院」への道 三千院は、京都市左京区大原にある天台宗の寺院。明治4年(1871年)三千院門跡と称する。山号は、魚山、本尊は薬師如来、開基(782年~806年)は最澄である。 京都市街の北東山中、かつては貴人や仏教修行者の隠棲の地として知られた大原の里にある。青蓮院、妙法院とともに、天台宗の三門跡寺院の1つに数えられている。 この日は人も少なく、静かだった 入館料を払って入ると、大きな広間がある 全く記憶にないが・・・・・ この広間に「書」があった 意味は字の通り 己を忘れて、他利を求めよ。すなわち、 己を忘れるくらい世のため人のために尽くせ・・ ということだろう 「言うは易し、行うは難し」でもある 「人の為」と書いて偽というが如しか 行きにくい世の中、「忘己利他」=(もうこりた) 精神があれば、少しは生きやすくなるだろうか 往生極楽院・・・ ここにはツアー客が居たので 少し賑わっていた、男性が少ない この前の庭は「有清園」と言う この庭にある「わらべ地蔵」 冬にも枯れない美しい緑の芝 この日ランチを食べたいと近くを歩いて、やっと見つけたのが 山荘ランチあるのか行ってみたら、やっていた 案内に出てきたのが、この家に相応しい、年齢を重ねた 淑やかな女性で、思わず頬が緩んだ 空腹を満たすには十分な食事だった 友人が食べた「味噌煮込みうどん」 虚空は「そば定食」何処へ行っても「蕎麦」 ここも美味しかった 満腹のお腹を抱えながら大原と来れば 「寂光院」である バス停に戻って反対方向へぷらぷら歩く 田舎風景が嬉しく、呼吸さえ楽になる気分 お天気も快晴、寒くなく、暑くない 三千院からゆっくり30分余りで到着 2000年年5月9日未明、放火により、 ご本尊は大きく焼損してしまった このニュースを聞いて、前年秋訪れたばかりで、 驚いた記憶がある 2005年復興して10年、古式さも見られ、貫禄もある 時間を切って、内部の説明を聴くことができる 寂光院は天台宗の尼寺で、山号を清香山、寺号を玉泉寺といい、寂光院は玉泉寺の子院であった。推古2(594)年に、聖徳太子が御父用明天皇の菩提を弔うために建立されたと伝えられる。 寂光院初代住持は、聖徳太子の御乳人であった、玉照姫敏達十三(548)年に出家した日本仏教最初の三比丘尼の一人で、慧善比丘尼という 第3代の建礼門院徳子(平清盛の息女、高倉天皇の皇后、安徳天皇の国母)は、文治元(1185)年9月に入寺し、真如覚比丘尼と称した。そして源平の戦に破れて遠く壇ノ浦で滅亡した「平家一門」と、我が子「安徳天皇」の菩提を弔い、終生をこの地で過ごした 「四方正面の池」には「鯉」が沢山居た この時期、鯉は餌を食べず「冬眠状態」に入るらしい こちらに見える「鯉」は横になって全く動かない 同行の友人(俳人)によれば この状態を「俳句」では「冬鯉」 と言うそうだ ちょっと調べてみたら、 「冬」は11月初旬の「立冬」から2月初旬の「立春」 「寒」は1月初旬の「寒の入り」から2月初旬の「立春」までの間、 「寒中」限定であるっとあった・・・「寒鯉」と言うのか また一つ知識が増えた こちらは「汀の池」・・・赤さに惹かれ目が止まる 来た道を帰る・・・この地に数日滞在したい気分 バス停から見た 一期一会の空 往路は気がつかなかった窓外 復路は、自然の色彩に 窓から目が離せなかった 覚書 「天使のゲーム」下 カルロス・ルイス・サフォン
2016年01月20日
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二日目、電車で「嵐山」へ行く 目的は、奥嵯峨・・・バスがあるはずが、 バスを待つ地元に人からこのバス停は 奥嵯峨方面行きは無いと聞かされる 関東から来ていた二人連れも、やはり同じ方向に行くというので 4人でタクシーに乗った 車の距離では大した事はなく、千円弱で着いた 着いた所は「鳥居本」 彼らとはそこで別れ、鳥居本の古い町並みの景色を眺めながら 山を下って歩く 奥嵯峨鳥居本・・・ 小倉山の北麓から、清滝付近にかけての地域名 愛宕山に近い「愛宕神社」への参道に当たり、 その「一の鳥居」付近に集落が形成されたことから地名になった 奥嵯峨鳥居本の一之鳥居付近は、 国の重要歴史的建造物群保存地区に選定されている このあたりは観光客も少なく、のんびりとした集落が良い 下紅葉も上紅葉も真っ盛り、期待を上回って嬉しい限り 十数年振りに、京都の最高潮の秋に出会えた 思い立って来た事が正解だった、 僥倖な旅に感謝 大好きな下紅葉が 暫く歩くと「化野念仏寺」に着いた 寺伝によれば、建立されたのは約1200年前、 弘法大師が五智山如来寺を開創し、 その後、法然上人の常念仏道場となった。 境内には多数の石仏や石塔がある。 化野は東山の鳥辺野、洛北の蓮台野と並ぶ平安時代以来の墓地であり、 風葬の地として知られる境内の約8000体という 夥しい数の石仏・石塔は、明治36年(1903年)頃に、 化野に散在していた多くの無縁仏を掘り出して集めたものである この風景は驚きであった 寺を出て歩く道すがらも、冬とは思えない暖かな日和である 坂道を下がってくるとそこには 「祇王寺」がある 元々は浄土宗の僧・良鎮が創建した往生院の跡を引き継いで今日に至る『平家物語』にも登場し、平清盛の寵愛を受けた白拍子の祇王が清盛の心変わりにより都を追われるように去り、母と妹とともに出家、入寺した悲恋の尼寺として知られている その後往生院は衰退をたどり、明治時代の初期に一時廃寺となるが、嵯峨大覚寺の支配を受け真言宗に改宗し、1905年(明治38年)に富岡鉄斎らの尽力もあって復興を遂げた 祇王寺は竹林と楓に囲まれたつつましやかな草庵で、祇王寺は昔の往生院の境内にあり、 往生院は法然上人の門弟良鎮によって創建されたと伝わっている 山上山下にわたって広い寺域を占めていた往生院も後年は荒廃し、 ささやかな尼寺として残り、後に祇王寺と呼ばれるようになった 祇王寺から小径を下がってくると、「落柿舎」がある 松尾芭蕉の弟子、向井去来の別荘として使用されていた草庵で、去来がこの草庵について書いた「落柿舎ノ記」がある古い家の周囲には40本の柿の木があったという庭の柿を売る契約をしたのちに、柿がすべて台風で落ちてしまったためこう呼ばれている 去来が落柿舎を営んだのは、 貞享 四年(1687)の以前で、 芭蕉が初めて 訪れたのは元禄二年(1689)、 併せて三度来庵する 元禄四年(1691)には四月十八日 から五月四日 迄滞留し、 その間に『 嵯峨日記 』を誌した この日、沢山の小さな柿が落ちもせず、残っていた この庭の柿の木々は沢山あり、 細いが背が高く、この舎の名に相応しい趣である 常寂光寺への当たりは中腹で、展望が良い 常寂光寺・・・ 古来、紅葉の名所として知られる 小倉山の中腹に寺域を占める日蓮宗の寺院 慶長元 年(1596)、大本山本圀寺十六世究竟院日愼上人が、 この地に隠棲して開創した。 寺域 が幽雅閑寂で、 天台四土にいう常寂光土の観があるところから寺号となる この辺に来ると、観光客が多くなる 嵐山の観光地が近いことを意味する 平地に降りると、人の多さに驚き歩くにも自由に動けない ここを抜けるには、寺に入るしかないっと 「天龍寺」に入った 歩き疲れた事と、空腹なのでゆっくり見ることは出来なかった 人混みを避け、何とかランチ目的の店に辿り着く この蓮の事を「枯れ蓮」と言うそうだ 同行の友人は、俳人である「枯れ蓮」は冬の季語だと言う 調べてみたら 蓮に関してはいくつも季語があり、整理すると以下のようになる。 お陰で蓮のことが色々知ることができた 【春】 蓮植う 【夏】 蓮、はす、はちす、蓮の花、蓮華 紅蓮、白蓮、蓮(の)葉、蓮(の)浮葉 【秋】 蓮の実、破(れ)蓮、敗苛、やれはす やれはちす、秋の蓮、蓮の飯 【冬】 枯(れ)蓮、かれはす、かれはちす 蓮枯る、蓮の骨、蓮根掘る 渡月橋は人の行き来が多いところである 高い建物が無いので、時代を感じさせない風景がある 渡月橋から見た山の紅葉は、思わず声が出る 渡月橋の前にある「蕎麦屋」でこの年2回目のランチを食べた 歩いた寺等の説明は、ネットから参考にさせていただいた。ネットで調べれば、内容の真偽は言えないが、当たらずとも遠からじと、考える。沢山の情報が満載されているので有り難く頂く次第である。 感謝 感謝 覚書 「天使のゲーム」上 カルロス・ルイス・サフォン
2016年01月15日
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2015年12月始め、友人と「まだ紅葉は残っていそうだから 「京都の行きたいわねーー」「どうする」「行こう」っと話がまとまり、急遽ホテルを取った 新幹線の自由席もがらがら 京都に何回行っても疎い虚空を、案内してくれる有難い友人 以下3箇所は初めて行った、何処も行ってよかった素晴らしい所である この日初めて「蹴上」の疎水を見にゆく 琵琶湖疏水とは?明治2(1869)年,東京遷都に直面して,京都の地位低下を怖れた京都の人々は,水路開発による都市機能の再生を願って,疏水計画を立てた。当時の京都府知事は槙村正直だったが,後任の北垣国道(1835~1916)の主導で事業が推進されることになった。 その計画は,通船だけではなく,多目的なものになった。第1は運輸のため,第2は灌漑のため,第3は動力源確保のため,第4は飲料水確保のためだった。 明治24(1891)年に疏水を利用する蹴上発電所が設けられ,これにより工場動力の電化がはかられ,明治28(1895)年には,市街電車を全国にさきがけて走らせた。 疏水は現在も京都の上水道源としての役割を果している。夷川管理棟では, 1983年以降,疏水遠隔監視制御設備を整備して,集中的に流量管理をしている。 落差の大きい蹴上と伏見にはケーブルカーと同じ原理のインクラインが設置され、船は線路上の台車に載せて移動された。水運の消滅に伴いインクラインはいずれも廃止されたが、蹴上インクラインは一部の設備が静態保存されている 蹴上インクラインの線路跡 疎水の保存された設備 蹴上から歩いて数分にある「南禅寺」へ行く・・・絶好の散歩道ホンノリと紅葉は見える臨済宗南禅寺派の本山。1291年(正応4)亀山法皇の離宮を賜り、無関普門(大明国師)が開山。室町時代は隆盛を極め、「五山之上」に列せられた。応仁の乱で焼失した伽藍を‘黒衣の宰相’といわれた以心崇伝によって復興。 最盛期を過ぎても、十分美しい紅葉 三門の柱が凄い 「知恩院三門・東本願寺御影堂門」と共に、京都三大門の一つになっている 南禅寺からまた山の方へ歩くと「永観堂」がある 浄土宗西山禅林寺派の総本山。正式名称は禅林寺といい、仁寿3年(853年)空海の弟子・真紹が藤原関雄の山荘を譲り受け、尊像を安置、真言宗の道場としたのが始まり。紅葉の名所として名高く、毎年秋には寺宝展や夜の特別拝観が実施される ここの紅葉は、見応え充分で目が朱くなりそうだった 永観堂にある「みかえり阿弥陀」の事永保2年(1082)永観50歳のころである。2月15日払暁、永観は底冷えのするお堂で、ある時は正座し、ある時は阿弥陀像のまわりを念仏して行道していた。すると突然、須弥壇に安置してある阿弥陀像が壇を下りて永観を先導し行道をはじめられた。永観は驚き、呆然と立ちつくしたという。この時、阿弥陀は左肩越しに振り返り一言 「永観、おそし」 と声をかけられた。本寺の阿弥陀如来像はそれ以来首の向きが元に戻らず、そのままの姿で安置されているのだという ・自分よりおくれる者たちを待つ姿勢。 ・自分自身の位置をかえりみる姿勢。・愛や情けをかける姿勢。 ・思いやり深く周囲をみつめる姿勢。 ・衆生とともに正しく前へ進むためのリーダーの把握のふりむき 真正面からおびただしい人々の心を濃く受けとめても、なお正面にまわれない人びとのことを案じて、横をみかえらずにはいられない阿弥陀仏のみ心 知らずにお堂を見ると、横向きの仏像が鎮座していた あらっっと びっくりする・・・友人の説明でヘーーーっと納得 気持ちが暖かくなる「阿弥陀如来」であった
2016年01月12日
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写真の上でクリックすると、拡大機能あり 昨年12月7日から3泊で友人と京都に行った 2015年は3回京都に行った 新年が明けて4日から4泊で又、京都一人旅をした 理由は、単純に行きたかったから・・・ 2015年12月7日の富士山 ・・・この日初冠雪だった 2016年1月4日の富士山・・・1ヶ月で雪が溶けて薄くなっていた今年は雪が少ないと聞いていたが、温暖の現象を目の当たりにした 京都駅は12月のクリスマスツリーに変わって 駅ビルの谷間の階段に、イルミネーションが新年を飾っていた写真を撮る人が多く、人を避けて隙間から撮った数分で絵が変わるので、ちょっと忙しい こんなに電気を使っても、不足していない何故この上、原発電力を再稼働したいのだろうか再稼働をしたがる本当の理由は何だろうきちんとした説明が聞きたいものだ 今回は新年らしいの写真を纏めた 京都中何処へ行っても、着物姿の男女が見られ、在りし昔の日本の正月を彷彿とさせた 着物を着ているのは、顔だけでは区別がつかないが 殆ど「外国から旅行者」 みんな、「しゃなりしゃなり」とお淑やかに歩いていた と言うより、闊歩出来ないので、辛そうな人も多かった この日は、「清水寺」周辺を歩いたので、人も多かった このカップル2組は、相当辛そうだった 同じレンタル屋で借りると、ヘヤースタイルも同じになる ショールは別値段・・・なんだかんだで 1式借りると、最低5千円から2万円らしい 着物の質で金額が変わる・・・見て歩くと、相当差が分かるのは 日本人でも日頃着物を着る人、古い人だろう 今年の京都は暖かかったので、薄い着物でも何とかなった この先はどうだろう 京都では、昨年12月も沢山の着物姿を目にしたここ暫く節季に関係なく、レンタル着物で歩く人が沢山いるだろう 京都はとても歩きやすい町である 自転車も乗りやすく、道路整備が行き届いている狭い道路は一方通行になっていて、これも都市計画として素晴らしい 今回あらためて、そんなことを見たり試したりしながら ぷらぷらと歩いた 次回から12月の京都を・・・・・・
2016年01月10日
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4泊したホテル近くの食堂・・・おばんざい こちらで食べる 女性客が少ない ホーチミンに着いた日は、道を渡るのに若い男性が介助してくれた ハノイにきた頃には、悠々とバイクを尻目に渡ることが出来るようになった「習うより慣れろ」と言う言葉もある こんな「門」を時々見かけた、交通往来の門である 出来た時は、城壁が続いてあったのだろうか 奥に見えるのは 「ロンビエン橋」ベトナム・ハノイ市内のベトナム北部を流れる紅河(ホン川)にかかる鉄橋。全長は1700mフランスによる植民地時代にハイフォンとハノイを鉄道で結ぶ目的で造られ、1899年に着工、3年後の1902年に竣工した。ベトナム戦争中には米軍により繰り返し爆撃を受け破壊されながらも修復され、今日もなお利用されている。このため橋中央付近の山形のデザインは破壊されたままになっている。ロンビエン(龍編)は、「龍が躍る」の意味。鉄道線路と歩道があり、バイクは通行できる。近年は、老朽化が問題になってきている。数年のうちに、この橋を改修すると言う話を聞いた 全長は1700mの内、見てきたのはほんの一部、陸の部分残っている100年以上前の鉄橋である、 当時としてはインドシナで最も大きく、最も美しい橋と言われた この橋は、歴史の全てを運んだ、年輪が残酷な姿にする 改修されるまで、安全な運行を願うばかり ホテルから歩けるところに「教会」があった ベトナムの人口9千万人強の8割が「仏教徒」クリスチャンは1割強(殆どカトリック)だと言う、教会もあちこちにあるこの夜は、ミサがあり中は満席だった 新年のカレンダー屋が出ていた、赤を基調にした物が多い こちらは、クリスマスカードの屋台 複雑に手の込んだ素敵なカードに魅了され、数枚買って帰った 10日間のベトナムの旅はここで終わりかねがね行きたかった国だったので、誘ってくれた友人に感謝 海外旅行はこれが最後になりそうである(韓国除く) 今は国内旅行に惹かれ、今月も京都に行ってきた 次回は京都をアップするつもり今年1月・10月・12月と京都に行った お正月明けたら、再度京都へ行く予定、何度行っても新しい発見がある わくわくするから・・・・・
2015年12月27日
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ハノイは4泊した、このホテルはランドマークの「ホアンキエム湖」から1本入ったとても便利な場所にある良いホテルだったが・・・部屋はバスルームのブラインドを下げないと 丸見えバスタブも広々で使いやすい 朝食も品数がたっぷりで、味もよかったもし次回があったらここに泊まりたいホテル ハノイをぶらぶら歩いて見たもの ・・・ 日本の昔見たことがある風景、生みたての汚れたままの卵 自転車が見えない程荷物を積んだ・・・素晴らしい 果物も見るからに新鮮、南国の種類も豊富 鶏が店番しているような堂々とした態度 床屋さん 鏡に映っているのはお客さん そう、ここで只今理髪中こんな風景今の日本には何処にもない この店の売り物は、ベトナムの麺「フォー」専門店お客さんが次から次からやってくる・・・喋る暇なし 時間に関係なく、席を見つけて座る客 この店の売り物は 「バインセオ」ベトナム風クレープなどとも呼ばれる、ベトナム南部の名物料理、この鮮やかな黄色はターメリックの色 米粉入りの生地、周りは薄くぱりぱりに焼かれるが、中心は対照的に、少しモチッとしていて1枚で2つの食感である。中身はもやし、海老、らしい物が少し入っているフライパンで焼いている 出てきたこれが「バインセオ」確かに食べたことがない食感、妙に美味しい 風呂の椅子に座って、フォーも食べた ・・・ホテルやお店で食べるより何故か美味しかった そして安かった 友人が最終日ベットから出ないので、一人でぶらぶらこの二人が座り込んで何か食べているニコニコして、見せてくれる・・・美味しいーーーよと言っているらしい よく見ると、もち米になにか入っているそれをナッツらしき物を付けてたべる試食してと言うので、少し食べさせてもらった・・美味しーーーい後ろで座っている女性に欲しいと言ったら、もう売れてしまってないと言うエエエエーーー残念と言ったら、1時間後に持ってきてくれるという事になった言葉は通じないので、全てジェスチャーと、子供達の微妙な英語で通じたと言うことにしよう 1時間後に確かに4人前持ってきてくれた友人も美味しいと食べ虚空は、土産に家まで持って帰った・・・家族は喜んだ この二人、何を売っているのだろう聴きそこねた 続く・・・・・・・・・・・・・
2015年12月24日
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ベトナムへ行ったのは昨年の12月だったあれからまるっと1年経ってしまった、この旅最後の「ハノイ」4泊が残ったので、記憶を辿って写真をアップ 前日、街角にあるエイジェントにツアーの予約を入れた集合場所にバスが来て、各国のツアー客と混載である ハノイからバスで3時間から4時間掛かって、ランチを食べ、船に乗るランチは、アジア系・欧米系でグループになり、中華料理を円形テーブルで食べた写真は、食べ終わったテーブル 日本人3人マレーシア・韓国他 韓国・マレーシアの方々と、和気あいあいで食事が出来た一人参加の東京の男性が、一緒だった ハロン湾の船は、思ったよりゆったりして、乗り心地良かった ハロン湾は、ハノイより約160キロにあるベトナム北部、トンキン湾北西部にある湾 クアンニン省のハロン市の南に位置し、カットバ島のほか大小3,000もの奇岩、島々が存在する。伝承では、中国がベトナムに侵攻してきた時、竜の親子が現れ敵を破り、口から吐き出した宝石が湾内の島々になったと伝えられている。 カットバ島以外の島は現在は無人だが、約7,000年前の新石器時代にはわずかに人が住んでいた。また、数世紀前までは海賊の隠れ家として利用され、また モンゴル軍の侵攻の際には軍事的に利用された。 ベトナムに行く以上、ハロン湾は行きたかった場所の上位であった 想像以上の素晴らしい景色である 何かに似ている 船を降りて、鍾乳洞へ案内される 沢山の観光船が来ている ここの鍾乳洞の規模は狭く、小さい 帰りに見た「夕日」が良かった 往復バスだけで7時間、船もたっぷり乗れてうれしかった 残念だったのは、友人が帰りのバスで具合が悪くなった、交通渋滞があり長時間で辛かったらしい ハノイに帰ったのは、21時近くになり、遅い夕飯だったが、友人も食べられたので良かった旅先の体調不良は、対処が難しい ハロン湾へ行けて良かった 覚書 「風の影」下 カルロス ルイス サフォン「狐笛のかなた」 上橋菜穂子生と死についてわたしが思うこと」姜尚中「沙中の回廊」上 宮城谷昌光
2015年12月23日
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琵琶湖畔にある「佐川美術館」 この美術館は・・・ 1998年佐川急便創立40周年を記念して開館した。収蔵作品は、日本画家・平山郁夫と彫刻家・佐藤忠良の作品が中心となっている。2007年9月2日には、十五代樂吉左衞門の陶芸(樂茶碗)作品を展示する「樂吉左衞門館」が敷地内に新館として併設された。他の特筆すべき収蔵品としては国宝の梵鐘がある 琵琶湖大橋を渡るバスから美しい琵琶湖が見えた 美術館の敷地は大部分が水庭(人工池)になっており、水の上に浮かぶように見える2棟の切妻屋根の展示館 目的は、古田織部(1544~1615年)展 没後400年を迎えるにあたり、ゆかりの茶道具のほか、傾いた織部自筆書状、主君の織田信長・豊臣秀吉・秀頼・徳川家康・秀忠の書状、門下の伊達政宗が織部に宛てた書状など150点を展示されていた この人が「織部」 写真は、ネットから織部らしい色彩と形の作品 展示室は全てなので、写真はない 見終わった時間はランチタイムが少し過ぎていた館内のレストランで、ランチを食べる目の前は、水に映った空が見える 虚空は「和食」 友人は「洋食」どちらも美味しかった 食後二人共「紅茶」 ぼんやり水を見ていたら、 向こうのガラス窓に水がゆらゆら眺めながら、ゆったりティータイム、こんな時を至福と言える 落ち着いた良いレストランだった 春の湖北旅についで、今年2回目の二人旅は、この日で終わった毎年素敵な旅を誘ってくれる、良き友に感謝 衝撃の映像を見つけたのでここに 覚書 「風の影」カルロス・ルイス・サフォン
2015年11月30日
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伊賀上野からの車窓 刈り取り後の「藁」の括り方は、その地その地により色々 宇治駅前にある「ポスト」は茶壷 駅から参道を歩いた先にあるのが「平等院」入口 時間指定で「鳳凰堂」へ入る 鳳凰堂はシンメトリーで作られていて美しい 藤原道長の別荘で「宇治殿」と呼ばれていたものを藤原頼通が1053年(永承7年)に宇治殿を寺院に改め『平等院』とした。 当時、仏法が廃れ、天災人災が続き、世の中が乱れるとする末法思想が、貴族や僧侶らに信じられていた。だから、極楽往生を願い阿弥陀如来を祀る仏堂が、盛んに造営された。平等院の鳳凰堂もその1つ。 平等院の鳳凰堂(阿弥陀堂)は、奇跡的に戦災にも合わず、約1,000年の時を経て現在に至っている。世界遺産に登録されている 宗派は17世紀以来天台宗と浄土宗を兼ね、現在は特定の宗派に属さない単立の仏教寺院となっている。本尊は阿弥陀如来。 56年ぶりの修理で創建時の姿に戻った平等院鳳凰堂 平等の理念は、1700年代後半にフランスで市民が革命によって獲得した権利だ。それより700年も前の日本で、権力者の頼通が平等を唱えたことを外国人は不思議がるのだという。 「鳳凰堂」に入って説明を聞いた・・・相当興味深い内容だった クリック ネットから頂いた平等院の写真 は素晴らしい 池を挟んで「阿弥陀如来像」を撮るが、難しい 金色に輝く「鳳凰」は左右にあり、今にも飛び立ちそう 宇治川の橋をわたってのんびりと歩く 宇治川の鵜飼は、平安時代にはすでに行われていたと言われている 平安時代の後期になると仏教の教えの影響をうけて次第に宇治川での殺生が戒められるようになり、西大寺の僧叡尊は、宇治川における殺生の全面的禁断を命じる太政官符により、 浮島のあたりに漁具・漁舟を埋め、日本最大の十三重石塔を建立し魚霊を供養し、宇治橋の再興を行いました。そして平安貴族の衰微とともに、宇治川の鵜飼も衰退しいった。 現在の鵜飼は、大正15年に再興し、宇治川花火大会と共に宇治の夏の風物詩となっている 夏活躍する「鵜」達、狭いところで退屈そう 覚書 「自分の木のしたで」 大江健三郎
2015年11月22日
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上野市で見た「秋桜」のある風景 芭蕉の像がある「上野市駅」 この駅にも見られた「CM電車」 ホームで見た「子供達」のスタイルが電車の色にマッチ この旅で2箇所目の「城」、特別興味があるわけではないが、 行ってみたら城のある所だった 上野城は、白い三層の美しい城郭が鳳凰が翼を休める姿に見立てられ『白鳳城』とも呼ばれている築城の名手『藤堂高虎』が1608年に伊勢国津藩(三十二万石)の藩主に着任し五層の天守閣を建設したが、慶長17年(1612)当地を襲った大暴風で倒壊現存する天守閣は昭和10年に復元されたもの 日本有数の高さ(30m余り)を誇る内堀の石垣も 高虎が築城した当時のままである 石垣を見に城の周囲を歩くことにした、人影もなく、静かな場所から眺めた 確かにこの石垣は高かった 上野城は彦根城と違い、山に作られていないので セキュリティーとして、必要な高さだったのであろうか ホテルの窓から見た上野城は凛々しい この街で食べた「ランチ」麦トロご飯・・・久しぶりのとろろは美味しかった ホテルの朝食・・・一見豪華味も良かった朝から皿数だけで十分満足出来た 次の日・・・・・三重県から京都府へ宇治へ 覚書 「狐笛のかなた」上橋菜穂子
2015年11月18日
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伊賀上野と言う場所があることは知っていたが、 初めて駅を下りて 伊賀・甲賀は「忍者」の土地だった事を実感する ここ伊賀上野ではなく「上野市」駅である伊賀上野駅周辺は、ホテルも少なく、「上野市駅」が中心地らしいこの駅の近くのホテルに泊まった 駅前に佇む銅像はここの出身である「松尾芭蕉」だった そうとも知らずやってきた虚空は、びっくりしながら嬉しくなった先ずは腹ごしらえをするため、あちこち歩く さすがこの街は「芭蕉」に因む所が観光名所になっている 食後まず行ったのは「蓑虫庵」 (1688)3月に芭蕉がここを訪れ、庵開きのお祝いとして贈った 《蓑虫の音を聞きに来よ草の庵》の句にちなんで『蓑虫庵』と名付けた 芭蕉の門人・服部土芳の草庵で、芭蕉五庵(無名庵・西麗庵・東麗庵・瓢竹庵・蓑虫庵)のうち唯一現存しているのが、この『蓑虫庵』のみ 入口から何か古色蒼然とした雰囲気が見える 「芭蕉堂」 茅葺き屋根の上に光っている白いものはよく見ると「アワビの貝殻」 である何のため・・・「鳥避け・鳥払い」・・・「火伏せの魔除け」と言われているらしい 山城から近江にかけて、茅葺き民家の地域的な「意匠」として定着する ところ変われば、風習も変わるものだ 近くの町中を歩くと、彦根の町に似ている・・・道路の幅が広い この家は「味噌屋」だったのか今は覗いてみなかったので不明 下水溝の蓋が 芭蕉の実家跡 (現在資料館になっている) これぞ「芭蕉」である ある寺の庭で見た手入れの行き届いた「木」 覚書「長安物語」 伴野朗
2015年11月13日
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二人共行ったことがない街へゆく、今回そんな目的の1つに「八日市」 があった、そこでこの日の宿をこの街に予約した 「八日市」へ行く為、近江鉄道「彦根駅」に19時頃着いたこの時間は1本しかなく、夜のホームで40分程待つ ローカルの旅は、よくあること、この日はたっぷり歩いたので休憩時間としては、悪くなかった 近江鉄道の電車は、PR が素晴らしい もっと驚いたのは「自転車」が持ち込めることだったヨーロッパでは、あちこちで見られたが、日本でOKの路線は珍しいのではないだろうか自転車好きの虚空は見るだけでうれしく、羨ましかった 泊まった宿は2食付きだったが、夜着いたのが9時近かったので冷えた揚げ物が出たりして、ちょっとがっかりしたが、温泉に入れたのでプラスマイナスZERO 翌朝、前夜は暗くて全く目に入らなかった風景が ローカル豊かな街道で、「こう言う町素敵ねーー」っと 思わず笑顔になる このお店貴重な風景を見せている 饅頭屋らしい 道しるべになる街角 歩がゆっくりになる家並み 昨夜は宿探しで、振り返る余裕がなかった「八日市駅」 駅前に停車している「バス」も、電車に負けず劣らずのカラフルな宣伝振りである 電車から見た、目を引く家 この時期刈り取り後の、ゆったり田園風景 次は二日目の目的地へ・・・・・・・ワクワク 覚書 「天に星・地に花」 帚木蓬生 「天と地の守り人」(1・2・3) 上橋菜穂子
2015年11月07日
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写真をクリックで拡大可能 広場にあるベンチで、ゆっくり、ぼんやりした時間を過ごす 彦根城の広場から見た、「琵琶湖」に落ちる薄明光線が美しい この風景は、何時まで見ていても飽きることがなかった 分刻みで変化をしてゆく 時とともに、「天使の梯子」が鮮やかに なってくる 陽・雲・水のコラボレーションは美の真骨頂 城からの帰り道、日差しがそこここを染め始めた 落ち葉の上を歩くと、秋の始まりで、心を豊かにする (秋生まれの虚空には、これからが一年で最高の季節) この屋根は何だろうと言いながら歩く 下に降りたら、「お地蔵さん」の家だった 沢山のお地蔵さんが衣装をまとい、休んでおられる 思わず楽しい笑いになった 城から下る道には、苔がむした「石積み」が見られた 年輪の貫禄である 堀に出ると「白鳥」がすいすい、そして「屋形船」がゆったり浮かぶ お堀の「屋形船」は、お客を乗せて回ると後で知った ここも夕日に染められ、ホンの少し秋の色が始まっていた 振り返れば「彦根城」が、どっしりと存在を主張する姿である 町へ足を向けると、「城下町」らしい家並みがある 石の町印は、この場所に良く似合っている この日の宿は「八日市」と言う、初めての所に取った初めて「近江鉄道」に乗り、移動する 覚書 「蒼路の旅人」 上橋菜穂子
2015年10月31日
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写真の上でクリックすると、拡大可能 ランチタイム過ぎ、西からやってきた友人と「彦根駅」で合流し、空腹を満たす店を探した 和食で合意駅から歩いて数分のレストランで食べた客が少なくちょっと気になったが、味はまあまあ、「空腹は最大のご馳走」 満腹になり、城内へ歩く時、中堀で見た黒鳥と白鳥の関係を二人で眺める 二羽が急ぎ向かっているのは何処 餌の箱らしい場所へ、黒鳥が先に着いた 後から負ってきた白鳥が、威嚇して黒鳥を追い払った 「私が先でしょ貴方は私が終わってからよ」っと、言った ような気配であった 高圧的な白鳥・・・ 黒鳥が小さくなって 黒鳥氏はすごすごと、我々のいる方向にやってきた 女性上位どちらが男女か不明 黒蝶の背中に白い羽がある そんなドラマを勝手に想像し、のんびり歩いたところに 「桜・さくら」のような・・・咲いてる やはり「桜」だった 桜に二期作があったのは、初めて知った今年は少し早咲 城へ向かう道は、段々それらしい建物が見えてきた これは「内堀」「中堀」・・・「彦根城」はお堀を三層作り守りを万全にした 外堀・中堀・内堀と・・・明治時代から徐々に外堀は埋め立てられ、現在は市街地になっている 城へは足元に気を抜けない道が始まる 坂道・階段など結構登って来たとき「城」が見えてきた こちらが正面 3階建てで小振りに見える この石積みは 「打込み接・乱積み」 登ってきた方向がこちら この日、城内へ入るには、団体客が行列を作っていたので我々は止めて、琵琶湖に落ちる夕日の景色を眺めて、お茶を飲む 続く・・・・・・・・・・・・・・・
2015年10月25日
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写真の上でクリック拡大可能 9月後半、四国から帰る東海道線に見た田園は、刈り取り前の黄金色の稲が目に眩しい ここは、強風の影響を受けた悲しい姿の稲田である 赤く見えるのは、曼珠沙華 名古屋で遅いランチを食べる為、駅前の高層ビルに入ったら、 目の前の完成間近のビルの上方に、窓拭きのゴンドラが見えた 食事を終わった頃、ゴンドラが降りてきたホッ 名古屋の駅前は、高層ビルラッシュ・・・左下にはこれから建つようだ 徳川家康が400年前に築城した名古屋城は、 の所に微かに見えた今や影が薄くなり、お城を見に観光客が来ているのだろうか ここで食べたランチ、美味しかった旅に出ると、美味しいものを食べ過ぎて、何時も体重が帰ってから、調整するのが一苦労 ここからは、今月12日再び新幹線に乗った この数年春・秋の2回 一緒に旅する友人と、「近畿」の旅に出た 沿線で見たこの家並み・・・相当びっくりである 「前向けーーー前」って言う風景 新幹線は余り好きではないが、何が 嬉しいかと言えば 富士山に出会えるかも知れないという、期待である 山の向こうに雪を被った富士山が どのあたりだったかこの日「初冠雪」があり、美しい富士山見えますと車内アナウンスがあった雲一点無く、こんなにはっきり見えたことは記憶にない 富士山は「雪」が似合う この日は「僥倖」だった これから段々雪が積り、ますます美しさに磨きがかかる又いつか、そんな富士山に会えるだろうか この度は行ったことがあるかもしれない、無いかもしれない「近畿」を歩こうと言うテーマである日程が短いので、何処へゆくのか、決定しないで、当日決めようと慌てず、ゆっくりのんびり旅にする予定だった 、 二人旅で行ったところ覚書 京都・奈良・東北(秋田・山形・宮城・岩手・福島)滋賀(北琵琶湖)新潟・岐阜・富山・金沢・鳥取・島根・山口・岡山・香川・徳島回数は10回余今回又増えた・・・・・ 十数年前にオランダ・ドイツ・オーストリア 覚書 「神の守り人」下 上橋菜穂子
2015年10月22日
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高松へ往路は新幹線・瀬戸大橋線で行った 出来たら帰り道はルートを変えたいと調べたら、海上ルートを見つけた船好きの虚空としては乗ってみたくなり、情報を集めた高松発神戸行きの大型フェリーがあった、しかも午後発なので、余裕のある帰り時間である 徳島へ帰る友人に、帰る日の午前中、船のチケットの購入に付き合って貰ったその後、2回目の(前回アップした)「蕎麦屋」へ行けた 船の甲板から見ると 大型フェリーと名の通り、船には沢山のコンテナが積み込んである 船内は乗客も少なく、寝そべるには広すぎる部屋 ここは、女性専用の椅子部屋があり、隣には同じく、女性専用の和室と言うか、絨毯部屋もある こちらは一般椅子部屋であり、ここが一番人が多かった 船内の移動は、この階段を利用する・・・甲板が4階にある全体に豪華な作りで、フェリーとしては乗り心地満点である この日は少し霞がかかっていたが、海は穏やかで、船は揺れもなっかた 瀬戸内海は、島の多いことが目に取れた島から島へと、さよならするのよーーー 初めて小豆島を目の当たりに出来た ここだけ途中下船する、そして乗船する人が結構いる 若い団体が乗ってきた手に手に「楽器」を持っている 乗船後4時間余りで「明石大橋」の下を潜ると言う、アナウンスがあった。時間は18:30分頃、既に夕日は落ちている 橋の下を潜る寸前 あっという間に過ぎ、ブレてしまった、とても狭く、スリムに見える 上から見た大橋 くぐり抜けた 乗船客が甲板に大橋を見に上がっていた 夜の帳に溶け込みそうな 空から 全長3,911m、中央支間1,991mで世界最長の吊り橋である。明石海峡大橋の主塔の高さは海面上298.3mであり、国内では東京スカイツリー(634.0m)、東京タワー(332.6m)、横浜ランドマークタワー(296.3m、海抜は300mで同じ高さとなる)を超える高さの構造物である。1986年着工1998年(平成10年)4月5日に供用が開始された。建設費は約5,000億円。着工から竣工に至るまでの施工における事故死者はいなかった。 覚書 「神の守り人」上 上橋菜穂子「草原の風」下 宮城谷昌光
2015年10月10日
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高松に着いた日は、ホテルにチェックインし、すぐ琴電で「長尾」まで行く 友人の車で迎えて貰い、展覧会会場へ 時間が遅く、閉館間際なので、絵の鑑賞はザーーットで終わる その足で友人の自宅へ行く、彼女は住職夫人 ここで暫く時間を潰す ここへ来ると何時もこの池の周りを散策する、この日は「曼珠沙華」が美しい お嬢さんが連休で里帰りしていたので、3人で夕食に行く びっくりするほど、山海の珍味が次から次へと並ぶ 高松は食の宝庫なのだろうか うどん県なのは知っているが、来るたび美味の食事に巡り合う友人がグルメなので、行く先々大満足である まず始めに出てきたのが、「湯葉うに」 ハモの湯引き 刺身盛り合わせ 牛ロース鉄板焼き ベイナスの味噌焼き 締めは、「ハマチの丼」 最後まで頬が落ちないよう押さえながら頂いた 御馳走様でした 次の日と、その次の日二日続けて「蕎麦屋」のランチ 理由は後ほど・・・ 二日とも大満足・・・この蕎麦屋の店主は拘りの真骨頂予約必至・相席不可・時間2時間のみ 2回目の「そば尽くし定食」 2000円也 (手前左から・・ソバ飯・そば味噌焼き・そば焼き・・・上・・鴨焼き・厚焼き卵・そばパスタ) 十割そばおろし付き コーヒー又は紅茶 そば羊羹 味も、もてなしも、満点・・・蕎麦屋さんは拘る人が多い中でもトップクラス 蕎麦屋を出ると、白鷺が3羽あちこちにいた・・・急いでカメラを出す鷺は大好きな鳥である、うっとり見とれてしまう すくっと立ったこの姿素敵 別の所にいた1羽が場所を移動した 蕎麦屋は、左にある小さな家「福得妙満」 連続蕎麦屋に行った理由 1回目・・鳴門の陶芸家の友人が急に時間が出来たと来てくれたのでランチ蕎麦やへ2回目・・徳島の山の中で「蕎麦屋」をやっている友人が、展覧会を見るため、山を降りてきた。蕎麦好きなので是非行こうと予約を入れた 急なお知らせ 陶芸家の「個展」が今日からやっている詳しくはここをクリック 場所はここ
2015年10月03日
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ヴェトナムハノイがアップ出来ていない・・・その間に旅があちこちへ 秋が深まるまで、旅行を予定していなかったが・・・・・・ さぬきの友人の父上が、60年描き続けた作品の一部を 「回顧展」として展覧会を開催されるというので、 見たい気持ちが疼き、新幹線に乗ってしまった 連休の最終日だったが、自由席はがらがらである 白鷺城・・・「姫路城」が白じろとしていた 間もなく刈り入れの稲穂が、緑濃い 瀬戸大橋を渡る列車から、瀬戸の島々が見える ここは何島立派な家並み 高松が近くなった、風景が一変する 岡山から乗ってきた「マリンライナー」 高松の駅構内にこんな二人(3人)が出迎える 今回の旅のメインテーマ 「回顧展」会場 8日目の閉館前なので、来客は少なくじっくり見せてもらった、 27才から88才までの55点が展示されていた現在91歳 になられ、矍鑠とされている素晴らしい人生を送られている、幸せな方である絵の一枚一枚どれを見ても、精魂込められた作品見せてもらう側も幸せである 会場の写真は拡大してみて 幸せな二人 源平合戦絵巻1985年の作品横長の巻物・・・写真では伝えられない精巧な絵巻物・・・・・感動 思い切って出掛けてよかった 旅は何時何処へ行っても後悔はない この旅、まだまだ続く 覚書 「夢の守り人」 上橋菜穂子「虚空の守り人」 上橋菜穂子「星降る街の物語」 木崎さと子 「草原の風」上・中 宮城谷昌光
2015年10月02日
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この日は一日王宮観光の予定途中、「シクロ」と言う人力車に声をかけられ、安かったので乗ることにした予定より遠くに連れてゆかれ、降りるとき約束の金額以上を請求され一悶着したが、しぶしぶ負けさせて払ったモグリの自転車らしく、写真を嫌がり、払う時も人気のない場所だった大した被害ではないが、金銭的なトラブルが後日またあった 嫌な気分を一掃して、王宮の見学・・・何処も破壊された跡が痛々しい ここは、修復されたのか色彩も美しくほっとする 王宮の庭は広々として、扉の隙間から入る風が心地よい 王宮の中の池が、暑さを和らげる ランチタイムには、一度王宮を出て、近くの店でフォーを食べたり、揚げバナナを見つけたので初めて食べた。美味しかった 宮殿周辺で何組も、結婚の記念写真を写真屋さんが撮影していた。それぞれのポーズが面白く、暫く立ち止まって見る 閲是堂 当時、皇族はここでフエの宮廷舞踊を鑑賞していたと言われている。皇族のみが鑑賞をすることができる宮廷舞踊は当時の庶民の民間舞踊ではなかったとされる。また、この宮廷舞踊はユネスコの世界無形遺産にも登録されている 友人のたっての希望で、舞台を見ることになった 虚空は、殆ど居眠りしてしまい、彼女のひんしゅくをかった興味がなかったの上、午睡の時間だった 帰りはホテルまでブラブラ歩き、隣のホテルの屋上で、ティータイム 下に見える橋を歩いてきた このジュースとっても美味しかった 二人でゆっくりしていたら、このホテルに宿泊の日本人ツアーがドドドっとやってきた高級なツアーらしく、高齢者夫婦が多くある夫婦が、我々に話しかけてきた・・・ツアー客と馴染めないとか 素敵な夕日に見とれて、フエの旅が終わる フエの面積は中部最大の都市ダナンの15分の1程度の小規模の地域 ダナンから北上すること約2時間ちょっと。自然に恵まれた環境の中にある古都 ベトナム最後の王朝があったフエは、ベトナム戦争により激戦区となり、現在世界遺産に登録されている阮朝王宮(中国の紫禁城の4分の3の縮小した)をはじめ、多くの遺産が破壊された 戦争の傷跡がはっきり目で見られた街 戦争の無い国は素晴らしい、ベトナムも現在は豊かに、穏やかに、素敵な国である
2015年09月12日
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列車でダナンから「フエ」に着いた ホームがクラシックで素敵 改札がここ 改札を出ると、これまた古さを感じる「駅舎」 タクシーに乗り、ホテルへ向かった ホテルは、古いヨーロッパを彷彿とさせる落ち着いた部屋だった 広いベランダがあり、ロケーションが素晴らしい 見える建物は、やはり「ホテル」フエのホテルは安価でも、高級感がある 散策しながら「夕食」を食べる店を探すベトナムの食事は何処も美味しい、この日は、友人が事前に探しておいたベトナムの中華料理店・・・・・内装が洒落ている この照明にすっかり魅了された 料理は予想通り、どれも美味である 色々食べたが、写真取り忘れ 食事をしたお店の外観・・・2階で食べた フランス領だったので、こんな雰囲気の店が見られる 「アオザイ」の店、色とりどりで見るだけでも楽しい フエの歴史ホンの一部 紀元前111年に前漢によって設置された日南郡の首府は 、フエ近郊に位置すると推定されている。 2世紀末に建国された林邑(チャンパ王国)の 首都はフエ付近に存在したとされている。林邑の時代のフエは東南アジア内陸部の物品を中国に出荷する積出港として機能していた 旧市街地の真ん中に位置する阮朝王宮は世界遺産にも指定されている貴重な建築物。 1802年政権を樹立した阮(グエン)王朝、ベトナム最後の王朝として、1883年フエはフランスによって占領され、この地で二回にわたって条約が締結された。第二次フエ条約(パトノートル条約)によってベトナムがフランスの保護国とされた後も、阮朝の皇帝は第二次世界大戦末期までフエの宮殿に住み続けた。1945年8月24日に皇帝バオ・ダイは退位を宣言してフエを去り、阮朝は滅亡する(ベトナム八月革命)。 1963年、寺の僧侶が民主化・伝統的仏教の弾圧を行うゴ・ディン・ジエム政権に抗議して焼身自殺を行った。1968年のテト攻勢では1月31日から2月24日にかけてフエで戦闘が展開され、町は多大な被害を被った。テト包囲戦の中で、およそ2,800人の官吏、警官、教師、学生が南ベトナム解放民族戦線の兵士によって殺害された(フエ虐殺) 覚書 「不自由な心」白石一文「精霊の守り人」上橋菜穂子「闇の守り人」上橋菜穂 「宿神」「一」「二」 夢枕獏 「睡蓮のまどろみ」宮本輝
2015年09月09日
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ホテルの朝食・内容は豊富であり、野菜たっぷりフォーは定番ヴェトナムは何を食べても美味しく、口に合う 街で見た樹木信仰 ヴェトナムは川が多く、立派な「橋」が沢山見られた ここも、肉を売り歩く人あり あるビルでのトイレ扉なしペーパー無し、便座無し使い方は、自己責任 ・・・使わず退散 ダナンの駅前には機関車がドーーーンと 立派な駅舎 ランチ食をホテルの近くで買ってきた、野菜・ハム等のサンドイッチが見かけ以上に美味しい 弁当は、目の前で、熱々の沢山の惣菜から選び盛り合わせて貰う、ランチタイムに行列が出来ていた 列車を待つ間に、二人でたいらげた・・・ご馳走さま 待合室は乗る人、迎える人で賑わっている 乗ってみたかったヴェトナムの鉄道・・・ 「ダナン」から「フエ」へ約2時間半の旅 この風景、何時だったか、欧米の古い映画で見たような、懐かしさがある、心がときめく場所だった 一日十数本の列車の為なのか食品・土産もの・日用品等沢山の品々が置いてある 「ホーチミン」からやってきた 長い長い列車何両あるだろう、 車内は、りっすいの余地もなく、満席である 座席は、テーブル付きで、悪くない・・・高齢のヴェトナム人が、何かと 気にして話しかけてくれたのは、少しホンワカである 窓が汚れているので、写真は霞む 海岸線に沿って美しい景色が続くこの沿線はとても良いコースである 旅に出ると、心に残る情景・風景が時々ある ダナンの長い列車・物売る店の並び、写真を見るたび もう一度あの場に立ってみたいと思う 覚書「沈黙の王」宮城谷昌光「平家物語の女性たち」永井路子
2015年08月11日
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このヴェトナムの旅は、出来たら列車で縦断の旅をするつもりだったが、ヴェトナムは、南北に長い国土で列車では時間が掛かりすぎるそこで、15時間を短縮して、ダナンまでは空の旅にした ホーチミン〈飛行機)ダナン(列車)フエ(飛行機)ハノイ ホーチミン「タンソンニャット空港」から「ダナン」へ ベトナムエアの中型機で ・・・ 空から見ると何処までも、濁った川がうねうねと続く アジアの空港の多くは、住宅地をスレスレに降りるので何時もドキドキする ダナンは中部地方最大の都市として近年著しく発展を続けており、北部はハノイ、南部はホーチミン、そして中部はダナンと呼ばれるほど商業が盛んな街ダナンは15世紀まで栄えたチャンパ王国が置かれていた場所でもある 列車で行く場合はハノイ、ホーチミン共に15時間飛行機であればハノイ、ホーチミン共に1時間半ほどで行く ダナンのホテルは「クリスマス」モード ダナンは、リゾート地もあり、歴史に残る「遺跡」もある我々は、中間地点として立ち寄ったに過ぎず、あまり観光を考えていなかった。時間を取って、歩くのも一考である ホテルから下を見るとここにも「バイク」 歩道は何処も飲み食いで占拠されている この日のディナーは「中華料理」・・・ 舞台では、歌舞音曲が真っ最中 中国人らしき団体さんが、かぶりつきで美女に夢中この後、団体さんが出て行ったら、演奏も終わったお陰で、静かに食事が出来た 欧州の中華屋さんは、殆どヴェトナム人が経営しているその味は、とても美味しく、欧州では中華を食べることが多かった 本場!!ヴェトナムの中華を期待した・・・・・まあまあであるが団体が入るお店は、避けたほうが良い ホテルへ帰ったら、フロントの人から「マッサージ」がサービスに付いていると言われびっくりするも、折角なのでやって貰うことにした 施術師は若い女性である、足マッサージと、上半身マッサージ共オイルマッサージで、30分だと言う(半信半疑ながら) 友人は「足」虚空は「半身」を選びベットに横たわった 何となんと、二人共大満足であった ホテルのサービスでこんなの始めて・・・縁があったらまた泊まりたい 覚書 「諸葛孔明」下 陳舜臣「青雲はるかに」下 宮城谷昌光
2015年07月22日
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狭い道を十数分行くと、メコン川の狭くて浅い所を小さな手こぎ舟に乗る 小さな舟の漕ぎ手は、殆ど女性 2~3人乗せてゆるゆると小さな舟旅のんびりして揺られて着いたところは ランチのお店・・・相当な粗食である 丸いテーブルに6人で座った、4人はハノイから来ている「ヴェトナム人」彼女たちから誘われて、「エレファントフィッシュ」 の唐揚げを食べるメコンで採れる川魚・・・ここの名物らしい 大きな姿のまま揚げられて出てきた食べ方は ライスペーパーの上に、サニーレタスのような野菜と細麺のフォーそれにエレファントフィッシュを載せて巻いて食べる 始めはちょっと手を出しかねたが、ハノイ組を参考に食べてみると美味しーーいみんな夢中で食べた 気がついたら、骨だけが残っているハノイ組の食べ方は素晴らしい魚を食べ慣れている人たちなのだろう日本人は、初対面でここまで完璧に食べるの人は少ないと思う、簡単な会話だったが、とても気持ちの良い人たちだった、忘れられない時間である ツアー舟に乗り帰る時、大きな観光船を見た、数年前の「長江下り」の時を彷彿とさせた メコン下りを終り、帰りも約3時間のバス旅で「ホーチミン」に帰った 3泊のホーチミン最後のディナーは、「フレンチ」を予約したレストランの入口は、鉄格子のドア 中は、 ここ オーナーらしき男性に案内されて、オーダーも彼が聞くお勧めの物を、頼む・・・まず出てきたのは、パンとこれっフレンツェで食べた事ある・・・肉系のジャム とても美味しく、食べたいと思っていた、でも名前は 貝色々をソテーしたものとエビの何とかこの日の料理の名前は全部忘却 肉系だった デザートと紅茶 何を食べたか、名前はなんだった等、全部忘れたのだ すべてのことに訳がある・・・・・このオーナーがおしゃべりで、 しかも「フランス語混じりの英語」でべらべら・べらべら・・・・・説明から、調理方法から、食べ方等々・・・・・味はどうか美味しいか等々 何もかも本当に美味しかったことだけは覚えているが・・・ 面白い体験のレストランだった、今では懐かしい
2015年07月18日
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ツアーバスがホテル前まで迎えに来た、バスの中からは、早朝にもかかわらず見慣れた「バイク」風景が何処までも繋がっている、出勤時間だろうか 約3時間のドライブで、メコン川に着いた、長丁場も退屈せず楽しかった クルーズと言っても、舟の種類は数々あり、メコンの舟はこれっ 今回のメンバーは、何ヵ国かの混載で日本人は我々二人だった ガイドさんは、英語とヴェトナム語のみ友人は英語堪能なので安いツアーを買ったらしい長時間英語を聞くうち、何となく伝わって、何となく付いてゆく この周辺はメコン川が生活道路に近いので、舟が交通機関の中心らしい 舟から生活が垣間見える・・・・・ベネチアを想い出した 自転車も、バイクも、舟で移動する 舟を下りて歩くのは、ジャングルのような道である 立派な教会が川の向こうに見られた、ヴェトナムは、仏教国だと思っていたがクリスチャンが結構いるらしく、別の街でも時々教会を見た メコン川は長く、広い川であり、浮き草が沢山流れたり、浮かんだりしている 不思議な風景に見えた・・・この草、金魚草に似ている ティータイム虚空は、果物・生もの・水に手を出さない・・・インド・アフガニスタン・パキスタン・シリア・ヨルダン・レバノン等で果物を食べた人が、腹痛になったのを数々見てきたので、念の為に予防する癖が付いた バナナがタワワに実っているここは亜熱帯の国なのだ これは何という果物だろう ここにも知らない実が成っている 土着信仰なのだろうか「お地蔵さん」のような 七福神の布袋様に似た福福しい像があった布袋様は、中国に実在した伝説的な仏僧。 本来の名は釈契此(しゃくかいし)であるが、常に袋を背負っていたことから布袋という俗称がつけられた。布袋が背負っているこの袋は堪忍袋ともいわれるそうだ ジャングルの道を歩いた時果物の木の近くで、お昼寝中の幼気ない少女を見た、どんな夢を見ているのだろう目が覚めたら、舗装していない道で自転車の乗るのだろうか ズーット幸せでいてほしい 覚書 「青雲はるかに」上 宮城谷昌光
2015年07月11日
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昨年末に行った、ベトナム縦断の旅のブログアップは2回だけしたが、気にしながら半年手が出なかった。記憶も薄れそうなので、気持ちにムチを入れアップすることにした 市民劇場は、昼間散策で歩き公演内容を聞き、夜のチケットを購入しておいた ホーチミンシティの市民劇場は、1899年に統治国フランスがオペラハウスとして建てた建物で、美しいバロック様式の建物。南ベトナムの時代には国会議事堂として使用されていた。周辺にはコロニアルな建物が数多く残っている。 周辺の風景に溶け込む素敵な建物である チケットを買ったとき、この店で好きな「ティー」がサービスとして付いてきた 歩き疲れた時だったので 有り難く不思議なサービスであった劇場から離れているレストランなので、係りの人がここまで案内してくれた ティータイムで、ゆっくり足の疲れをほぐすうち、夕方になったこの店の支度風景を見ていたら、美味しそうな匂いと食欲をそそる食材が目に入り、揃ってあれ「食べたーーい」少し早めの「ディナー」にしようと、意見一致 普段パン食はしない虚空だが、「サンドウイッチ」をオーダーする 予想以上に美味美味後々まで、あのサンドウイッチもう一度食べたいねーーっと、声が合うフランス領だったので、パンはとても美味しい さて、いよいよ夜の公演へ 早めに席え座ると、客は少ない大丈夫かなーーっと心配するも 分刻みで座席が埋まってゆく 劇場の雰囲気は「パリオペラ座」「ウイーンオペラ座」を縮小した感じ 公演後、ロビーは観客で一杯 ヴェトナムは竹の国である竹をふんだんにを使った内容クリックで動画をホンの一部アップ 出演者がそろって、客たちと記念撮影に応じていた素晴らしい演技力・体力を見せた内容で、観客を魅了した この時の出し物は、2013年4月よりロングランで上演している「アー・オー・ショー(À Ố Show)」だった。AOとは(ベトナム語で驚きを意味する感嘆詞) 内容は、ベトナム南部の昔の生活から現代の様子を演じる構成である。 大中小のカゴや長い竹竿などを使った様々なアクロバットや、ベトナム人の生活をコミカルに表現し、舞台照明やベトナム楽器を使った音楽などの素晴らしい演出とともに味わえる現代アートパフォーマンスである。 ショータイムは約1時間。終わるまで息をもつかせぬ程変化に富んだ動きに感動する。 出演者は10~20代の男女約20人の若者が、とてもエネルギッシュに演じていた。 この公演が見られてヴェトナムが少し近く感じられた・・・よかった 覚書 「漂流」吉村昭
2015年06月28日
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久々の鎌倉である、待ち合わせは「江ノ電側」土曜日だったので観光客の多さにびっくり しながら駅周辺をぶらぶらする友人との待ち合わせ時間前に合流できた。 この日の目的は、何時も通っている「月末だけの蕎麦屋」かまなりやさんが1年数回ここ鎌倉で、出張蕎麦屋をされているのだ。初めてその場所にお邪魔した鎌倉の長谷にある「いしわたり古民家スタジオ」と言う家行ってみたら、色んな催事があり、楽しい所だったまずは「蕎麦」をいただく、一限のお客さんも多く、出張蕎麦屋をされる事に納得ここの庭は、自然なままで気取りがなく、気持ちの収まりが良い かまなりやの教室でされている「アイヌ刺繍」の作品を、所狭しと展示されていたどれを見ても、魅力的で手の込んだ刺繍が施されていたこれだけたくさんのものを見たのは初めてのことだった作り手の心を感じながら見せていただいた・・・素敵だった 催事を覗かせてもらった後、「鎌倉歩きの達人」の案内で市内を歩くことに・・・長谷寺へ行くつもりだったが、あまりの人の波に乗り切れづ、隣の「光則寺」へ行き先変更 日蓮の佐渡配流に際し鎌倉幕府5代執権北条時頼は、弟子の日朗も捕らえ家臣の一人 宿屋光則邸の土牢に監禁した。しかし、監視役の光則は日朗と日蓮を私淑する様になり 、文永11年(1274年)、日蓮の放免後自邸を寺に改め日朗を開山に迎えに創建した日郎が入っていた「牢獄」跡 光則寺は鎌倉大仏と長谷寺の間にある小さなお寺。季節ごとに花が咲く美しい「花 の寺」として親しまれ 、珍しいと言われる紫陽花など季節の花々が鉢植えにしておかれていた 光則寺には不思議な鳥がいた この鳥の「お尻」である裏表がこんなに違うのは驚き この時、羽を広げ我々を迎えてくれた、話しかけるように近づいて来る孔雀と対話したのは初めてである・・・広いところに出してと言っていたかな この日は「江ノ電」沿線を歩いた、光則寺から御霊神社へ行く神社の前を江ノ電があるので、電車が来る度人々がカメラを構えるトンネルから出てくる電車を撮すのが狙い 御霊神社に珍しい「 紫陽花」が咲いていた名前は「八丈千鳥」1年に2回咲く花だとか・・・ちょうど満開だった・・・幸せ 少し上り坂だが、一見の価値ある場所「成就院」「立札」の通り「紫陽花」は咲いていないが、振り向けば 「由比が浜」が一望に見えるここを見るだけで十分来た甲斐あった 「極楽寺」他も行ったが、カメラ撮り忘れ 彼女は、鎌倉の隅から隅まで熟知している「稀有」な人何時も着いてゆくだけで、鎌倉の歴史を見せてくれる貴重な人 帰りは、江ノ電に乗り鎌倉まで帰り、逗子に回って駅前の魚屋で活きの良い「鰺」を見つけ、なめろうを作ると言って持ち帰った彼女美味しく出来たかな またいつかを楽しみに 覚書 「風よヴェトナム」平岩弓枝
2015年06月13日
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ここ暫く野暮用で 「銀座」に行くことが続いた 日曜日が多かったからか、以前の銀座の風景が違って見えた もしかしてここは「上海」 「北京」 道行く人たちは殆ど「中国語」日本語は聞こえない 「松坂屋」が無くなっていた 「三越」へ入ると音声案内が「中国語」 遊歩道が終わったとたん「観光バス」の行列が始まった 銀座は、駐停車オーケーなのだろうか 交通ルールも変えられるお客様達 新橋のガード下にもお迎えらしき「バス」 買い物ツアーの皆様お疲れ様でした 銀座は何年ぶりに行ったのだろう余りの変化に 戸惑うことしきり ・・・・・ネットで読んでいたが、現場を目の当たりにして、納得 二十数年前「ハワイ」「パリ」等のブランド店に並んでいた「日本人」を想い出したブランドの何かも知らない虚空は、びっくりするやら、呆れるやら 国が違ってもお金の使い道は似たようなものだと、思わず笑った 今の銀座のお店は、ニンマリだろう中国は広くて、人口も多いので、当分この状況は続くらしい 日本の経済に貢献されているので、感謝するべきなのだろうか 庶民には何の関係も影響も無い以前の銀座は消えたので魅力は無くなった ・・・影響が出たと言える 銀座金座・・・十分「名」に恥じぬ街になっている 買い物行列は、今や銀座の風物 かも 覚書 「諸葛孔明」(上)陳舜臣「安土往還記」 辻邦生「99年の愛」橋田壽賀子「湖の伝説」 梅原猛「ほっとする良寛さんの般若心経」加藤僖一
2015年06月13日
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4月の旅の後半、磐越西線に乗り 「会津若松」へちょとだけ寄り、 お城が見たいというので、タクシーを飛ばして「「鶴ヶ城」へ行った 城内へ入ると、侍衣装の男性が一緒に写真に入ってくれた 天守閣から見た会津は、高層ビルがなく、山に囲まれ 落ち着いた町である 会津若松から乗って暫くすると、雨も強くなり「窓外」はまるで吹雪の感である 乗降の少ない路線らしく、座席はゆったり出来、雨の外を見ながら、とても安らいだ 磐越西線の終着駅「新津」に着いたときは、夜になっていた雨の冷たさもあり、寒ささえ感じた 前夜、「新津」から乗り換え「長岡」で1泊した 一夜明けると、快晴になっていた 昨年秋、「良寛さん」を歩いた時から約半年振りである 前にも書いたが、母の出生地なので何時でも寄りたい所である 長岡は歴史もある街だが、太平洋戦争で街は殆ど「焼失」古い建物は全くという程無い 初めての同行者に見せるところが無いので 長岡の駅からバスで「信濃川」を見にゆく 「信濃川」は日本で一番長い川(367キロ)とされている新潟県から長野県に入ると「千曲川」になる 川幅も広くこの橋「大手大橋」は878.3米ある 周囲の山々の残雪が美しく、橋を歩きながら景色を眺める 橋の下は、農地になっていた。長い冬が去り、作物の植え付け作業に人々が働いていた この旅はとても忙しい・・・たった2泊でたっぷり乗り物を利用する青春18切符の「旅」だから長岡を歩き、午後上越線で帰宅の途につくこの線は、連絡が少なく、首都圏まで帰るには、午後2本しかない 「新幹線」が通ると、ローカル線が「冷や飯を味わう」事になる「北陸新幹線」が出来て、ゆったり18切符で旅するにはJRから変わった「第三セクター」に乗らねば「富山」方面には行けなくなった 兎に角急ぐ旅が主流の日本である 上越線の沿線は、まだまだ雪がたっぷりである 雪起しでもしたような跡は何だろう 拡大するとこんなことになっている隣の座席の方から説明を聞いた地元の人で、これは「自然現象」だと言う 何故こうなるのか「温度・風??」等解明されていないが、人の手によるものではなく何時も起こっていることなのだそうだ・・・自然現象はロマンがある 清水トンネルを超えるまで、雪景色が楽しめた 慌ただしい旅だったが、それなりに楽しかったこんなに沢山の「雪」が見られただけで得した感じがする 乗り物(列車)好きな旅人にとって、18切符はうれしい次回は夏なので、思案である
2015年05月23日
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今日も「入日」に会えた 最後まで、秒単位で変化して行くのを見られた 日が落ちてゆくのは早かった 今日も良い日だった 覚書 「魚影の群れ」吉村昭
2015年05月20日
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写真の上にマウスを!!! 久しぶりに、美しい夕焼け雲に気がついた こんな空を見られるときは、何時も胸が高鳴る 不思議な形の夕日階段のような 肋骨のような 瞬く間に、形が崩れてゆく 空のキャンバス 覚書 「99パーセントの誘拐」 岡嶋二人
2015年05月19日
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>>写真をクリック << 今年は毎月、何処かをうろうろする珍しい年である 3月に使った「青春18切符」の残りに2セット買い足して、4月の始めに、若い連中と短い旅に出た 先ずは「仙台」を目指して、新橋で一人合流する この旅も、乗り換えが4回ある所要時間は約8時間 横浜⇒ 宇都宮 黒磯 郡山 福島 ⇒仙台 黒磯で乗り換え時間に余裕があったので、駅前に出てみた 春が北上しているのが目に楽しい 沿線に沢山の桜を見て、この国は「桜」の国だと思った 遠くにうっすらと雪のある山が見える 安達太良山らしい雪があると、美しさが映える 何の障害もなく「仙台」に着いた 「牛タン」定食を食べて駅前の展望ができるビルから市内の夜景を見た・・・4月だが、夜は相当冷えた 4年連続で来ているが、初めて見る風景である 4年前のあの日、ここが津波の水害にあったとは現在は、立ち直って、全く想像も出来ない 長ーーーい「アーケード街」が真下に見え驚く 次の日、お天気に合わせて、行き先予定を変更する 若い二人の希望で 「磐越西線」に乗り「会津若松」のお城を見にゆく事になった 会津磐梯山が凛々しい 田園には雪も残っている レトロな看板 お天気のご機嫌が斜めで小雨が降り出した 虚空は、この城は初めてである さくらはまだ咲いていない雪が残っているこの地の春は、もう少し先なのだ 日本が縦に長いのが、季節ではっきりわかる ここは、福島県なのだから 覚書 「塩一トンの読書」 須賀敦子
2015年05月15日
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写真をクリックして 琵琶湖の近くまで行って、琵琶湖を見てなかった そこで、距離はあるが自転車を飛ばして、琵琶湖を見にゆくことにした いったい何年振りなのか忘れているほど、琵琶湖は見ていない 琵琶湖がこんなに美しい所だったのか感動であった この日(2015・3・18)この時間段々お天気が下り始め 曇りがちになって来た・・・島並が霞、幻想的に見える これが「竹生島」一度は行ってみたい 水鳥達が岸に集い始めていた この日「湖北水鳥ステーション」と言う「道の駅」で 遅いランチを食べた ここは、夕陽が美しい所らしい夕日を見るには時間がご縁があったら見たい所である 「高月」周辺の観音をめぐり、琵琶湖も見て この旅は4泊だったが、思わぬ中味の濃くて深い「旅」であった 最後の宿は「大津」駅前にとった この旅もお天気に恵まれ、大津までの電車に乗った途中から雨が降り出した ホテルから見た外は、空気をすっきり変えるに相応しいどしゃ降りである 最後の夕食は、今回初めての晩酌をゆっくり楽しんだ 旅の思い出を語るうち、近江・琵琶湖周辺は時間が出来たら まだまだ何回か来たいものだと気持ちが一致、次回が楽しみである 奥琵琶湖には、ざっと数えただけで60箇所以上の観音寺があるらしい「観音めぐり」「観音路」等観音の付く言葉があちこちに見られた今まで観音に殆ど関心が無かった、知らなかったこれから少しは気にすることにしよう 次の日、大津駅で友人と別れ、東海道線を18切符でのろのろと帰宅した 帰りは、電車が遅れもなく順調だった・6回乗り換え(約8時間) 大津 米原 大垣 豊橋 浜松 静岡 熱海 横浜 雨は途中まで降っていたが、帰った頃には星がキラキラした空だった 我ながら、電車好きにも呆れつつ 、半月もせず、また旅にでた 覚書 「華栄の丘」 宮城谷昌光
2015年05月09日
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写真にマウスを乗せてみて 「西野正妙寺」への道は、相当山を登ってゆくお堂と言うより仏壇が山の中にあると言う感じ西野正妙寺…西野の集落の北はずれ、日枝神社の上手、山の中腹にお堂は建っていた。 40センチ十一面千手千足観音立像 本尊は日本でここだけに現存する、千の手と千の足を持つ、上半身は裸形で腰布をまとい、顔は馬頭観音のように憤怒相をしている。 (1004~1010年)に西野のこの地で建立され、(1573~1591年)に西野丹波守秀方が現在の場所へ移したが(1617年)に兵火にかかり堂は消失。村人の努力で戦禍から守られた。 明治四年(1871年)に現在のお堂が建立され観音像が安置された。 額には縦に目を持つ三眼で、頭上には9つの化仏と大きな頂上面をもつ。 憤怒相と言われているが、その表情は一見ユーモラスな感じさえする・・・左下に「日枝神社」があった湖北地方は「観音の里」と呼ばれている地域で、地元の集落それぞれで観音様を維持管理しているこの地は、完成度の高い観音様が多い地域である その中でも代表的な観音像が、国宝に指定されている向源寺の観音像 <<<国宝の十一面観音像>>は、日本全国に七体ある。 室生寺(奈良)聖林寺(奈良)法華寺(奈良)観音寺(京都)六波羅蜜寺(京都) 道明寺(大阪)向源寺(滋賀) その中でも向源寺の十一面観音は最も美しく、 日本彫刻史における最高傑作と言われている。 向源寺正面 真宗大谷派向源寺の所属で、渡岸寺観音堂は通称。8世紀奈良時代、聖武天皇の勅願により、泰澄が十一面観音立像を刻んで観音堂を建立したと伝えられる。その後最澄が七堂伽藍を建てて以来栄えた。寺伝では泰澄作とされるが、像容に密教思想の影響がみられることから、実際の制作年代は9世紀とされている。 1570年、浅井・織田両軍の戦いで、寺は焼失したが、しかし観音を篤く信仰する住職巧円や近隣の住民は、観世音を土中に埋蔵して難を逃れたという。高さ195センチ平安初期の一木造 この後巧円は改宗し、光眼寺を廃寺とし浄土真宗向源寺を建立した。 1974年に収蔵庫の慈雲閣が完成してからはそちらへ移されている祭壇はなく、間近に見られるので、驚きの迫力である。美しくも有り、どっきりする程艶かしささえ感じる。右脚を遊脚として立ち、腰をこころもち左にひねる。 必要な時に直ぐ体が動けるような足の位置だと言う 頭部十一面 後ろ姿の美しさが間近に見られた 頭部後ろの一面は、暴悪大笑面と言い、邪気を笑い飛ばし寄せ付けない姿を表している。
2015年05月03日
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奥琵琶湖二日目は、宿泊した「高月」駅で「レンタサイクル」に乗ってこの日も晴れで、ありがたくて、うれしくてハミングが青鷺・白い鷺等が、悠々と遊ぶ長閑な田園を見ながら今日は何処へ行く ブログの表紙にしている「きつね」が、暫く我々を眠たげに見ていたが安心したのかスっーと寝てしまった野生のきつね(だと思う)を初めて見た この日の始めはココ「コロリ観音」 本尊は、いずれも平安時代初期の作で国の重要文化財指定。災い転じて利となす「転利(コロリ)観音」といわれ、三回参拝すれば極楽往生できるともいわれている。 ここも、電話しておき、担当の方が待っていてくださった 日吉神社と同じ敷地内にあった・・・「スギ花粉」が飛散真っ最中 ここも説明のテープが流れ、聞き終わると厨子が開かれ、中を見せてくださる 写真撮れないので、ネットから頂いた。約1200年前の平安時代前期の作と言われ、創建以来秘仏として公開されていなかった昭和44年、国の重要文化財指定を受けたのを機に開帳されるようになった。千手観音―一木作り・高173.6cm 伝・聖観音立像一木造=高さ182.2cm 本尊2体とも化仏や持物、手などがすべてなくなっているのは、戦国時代に姉川の合戦や賤ヶ岳の戦いなどの兵火を受けて仏像が焼失してしまうことを恐れた村人が川底に沈めて隠した時、流失してしまったと伝えられている 手のない仏像は、一瞬ギョっとするが、戦争の悲惨さの一部を目の当たりにした気がする戦禍は多くの人達を犠牲にする。人(権力者)は何故戦争をするのだろう 「西野薬師堂」 昔、西野の小字寺山に天台宗の泉明寺と称する寺があり、大友皇子の末裔・西野丹波守家澄が菩提寺として庇護したといわる。その後度重なる戦乱により荒廃したが、村人によって守られてきた。堂内には、穏やかな表情で肉付き豊かな十一面観音像と目鼻立ちの整った相好の薬師如来像が安置されていた 平安時代(10世紀~11世紀)の制作 十一面観音立像(159.4センチ) 薬師如来立像(166.7センチ) ここまで、殆どの寺で住職と言う人はいなかった それでも維持管理が成り立っているのは、地域の人々が拠所にしているのだろう 覚書「西行花伝」 辻 邦生「街道をゆく」24 司馬遼太郎「三陸海岸大津波」吉村昭
2015年04月25日
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石道寺から自転車で木ノ本駅へ向かう途中、友人が「観音寺」へ行こうと言う虚空は勿論、行こう行こうと付いて行く自転車の前かごに「マップ」を広げながら、広々とした平野の真っ直ぐな道を、目指す橋を渡ったり、田園の中を通ったり、するうち、家並みが見え始めるここが、「木之本町黒田」の集落である観音字寺の前の壁に<<参拝希望の時は、電話してください>>と張り紙があった 早速電話すると<<直ぐ行きますから待ってください>>と言う返事10分程待つと、車で駆けつけて下さった 鍵で開けて中に入ると、狭いながら本堂がある・・・先ず「録音テープ」で大まかな説明を聴くテープが終わると、厨子を開けて観音様を見せてもらう 黒田観音・・・行基建立のお寺のひとつ。一木造りの千手像は平安時代初期の物で、頭上に仏がないことや18本の腕を持つことから准胝観音と見ることもできると言われている。高さ199cmの一木造で、三重の蓮台(蓮台共に約3m)の上に立つ。厳しさの中に優しさを覗かせているような面影で、天平期の特徴を残している。夫婦円満、治病の御利益があると地域の信仰が厚い。 ここ「黒田」は、黒田勘兵衛の出身地である ネットから写真を頂いた この地域の仏像は、戦国時代に多くを破壊・焼失したが、この千手観音は、大きな傷もなく保存された貴重な仏像である。どのようにして守られたかは、不明だと言う 自転車の返却時間17時ぎりぎりに帰ることができた日差しも傾き始めた 駅周辺の街には、人影もなく、夜の帳の降りるのを迎える準備なのだろうか その街を二人でゆったりと散策 電車の来る時間潰しに歩いて見つけたのが「木ノ本地蔵院」境内には秘仏本尊の写しである高さ約6メートルの地蔵菩薩大銅像があり、これは日本三大地蔵の一つとされている。眼の地蔵菩薩として信仰を集めている。公式の寺号は浄信寺(じょうしんじ)であるが、一般には「木之本地蔵」「木之本地蔵院」の名で知られていると言う。寺の歴史は古く、白鳳時代に遡り、空海、木曽義仲、足利尊氏、足利義昭も参拝した記録があり、賤ヶ岳の合戦では秀吉が陣を置いた 面白いのは身代わり蛙と言う陶器の蛙があり、 それを奉納することで 健康を祈願するらしく、 沢山の身代わり蛙が奉納されている光景は何何これはと言う感じ そう言えば、近江八幡で<<「蛙」が一杯のお寺がありますよ>>と聞いた事を想い出した ここだったのだ「鰯の頭も信心から」と言う言葉もある 足元にもぎっしり この日の宿は、電車で一区行く「高月」駅の近くにある 宿の夕食は家庭料理の延長のようなメニューである品数多く、余りの量の多さで、久々に残してしまった 次の日も「自転車」でたっぷり走った
2015年04月17日
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己高山(こだかみやま、923m)の「レストラン」でゆっくりランチを食べたさしみ好きの虚空としては、山の中の刺身は余りありがたくないが、 日本中和食には付いてくる、空腹だったので、美味しく頂いた このレストランから見えた周辺の景色、下に見えるのが帰り道 この日、石道寺がオープンしているかどうか、己高閣の方が電話で確認して頂いた 己高山から下って、里の道をスイスイと走ること10数分 別の集落が見えてきた 自転車を置いて歩くと森の中に見えたのが目的の己高山「石道寺」期待でワクワク 西国三十三番とある 石道寺(726)年創建の古寺。観音堂に安置する木造十一面観音像は、びっくりするほど美しい。観音様は、女性なのだろうか石道寺も己高山関連寺院の一つで、もとは現在地よりさらに1kmほど東の山中にあったが、1914年本堂を現在地に改築し、石道観音堂を合併し新石道寺が誕生した。寺は地区住民により管理されている。 この日(015・3・17)は男性二人が当番で、詰めていた参拝客は少なく、二人の男性から、地域の厳しい現状を色々聞くことができたこの周辺には、猿・猪・鹿等 沢山の動物が生息していて、畑の作物が、収穫寸前に美味しいところを、根こそぎ食べてしまうのだそうだ見頃になる「花」でさえ、食べられてしまう 人が住むのが難しくなっているそうだ。若い人は都会へ出てゆき、住人は高齢者が残り、廃墟が増えているこのお堂の管理も年々難しくなって来ていると言う 今回回った所は、寺を管理しているのは、殆ど地域住民であり、当番制だった 街並みの保存も、寺の維持管理も人とお金が無くては出来ない。今後益々高齢化が進み地方の環境問題の一部、現実を見た ・・・ ネットから頂いた ここも、神社が隣にあった 集落を歩くと土塀がそのままの姿で使われている沢山見た 寺から少し下がると、静かな街並みがある 駅に向かう途中「高時川」の橋の欄干に、「梵鐘」があった しばしこの川を眺めて休憩 青鷺も休憩中 美しい川の流れだった、水の音が爽やかである 「木ノ本」駅に向かう道のりは、日和で
2015年04月16日
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長浜から北陸線に乗り「木ノ本」駅で下車・・・この日(2015・3・17)は、木ノ本駅周辺を歩く事にしたバスを待つ間地図を貰う為、「観光案内所」に行く そこで見つけたのが「レンタル自転車」 早速友人に「自転車乗れる」と聞く「何十年も乗ってないけど乗れると思う」 と言う返事早速レンタル自転車を借りることにするここの交通手段はバス・車 ・タクシーしかないが、バスが一日数本なので、歩いて回るのは難しい「電動自転車」があったうれしーーーい虚空のマイカーは「電動自転車」なのだ バスを待つ事なく早速目的へ向かって風を切る 数十年ぶりという友人は、毎日乗って居るような巧みな運転である この街は、車も人も少なく、道幅が広い 自転車にとって最高の道路であり この日は、風もなく、気温も温かく、サイクリング日和である 素晴らしい風景を見ながら行く 坂道もすいすいと、上がって下に家並みが見える小高い山の上に目的の場所己高閣がある 鶏足寺は、奈良時代 行基(668~749年)と、泰澄(682~767年)により、信仰の霊地でとして己高山(923m)の山中に開かれた。寺は(1933年)に焼失し、その後は事実上廃寺となっている。 山麓の古橋地区の与志漏神社境内には薬師堂、大日堂のほか、己高閣(1963年、鶏足寺本尊の十一面観音像、七仏薬師像)世代閣(1989年、薬師如来像、十二神将像、菩薩立像(魚籃観音)、十社権現像など)2棟の収蔵庫が建ち、鶏足寺や関連寺院に伝わった仏像などはこれらの収蔵庫にて収蔵・公開されている(指定文化財の仏像の所有者名義は「鶏足寺」となっている) 現在は地元住民によって管理されている。 大日堂・・・普段は公開されていないので、コノ格子の中に安置されている 外から覗いて写真を撮った 上の写真の小さな仏像を拡大 こちらの「薬師如来」も外から覗くしかない 何とか写真を撮れた ・・・虚空はフラッシュを常時使わない この中には、沢山の仏像が安置されている、残念ながら写真は 保存管理はとても大変だと聞いた、寺院ではないので、間近に見せてもらえる迫力があるが、展示仏のようで、何か虚しい気がする 今回近江の仏像を見て回り、不思議な事を知った「寺院」の敷地には、必ずと言う程「神社」ある見て回った所は、全てそうだった 神仏が隣り合わせと言うのは、 近江独特の事なのだろうか 神社の周辺には、小さな石仏や、木が置いてあった 初日のサイクリングは、ここから始まった・・・これから沢山の仏様に会える・・・
2015年04月10日
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午後、友人と合流・・・昨年11月の「良寛さんの旅」以来の再会である中庭が見飽きない洒落た「カフェ」で、明日からの旅の計画を話し合う この日は「長浜」を歩く・・今は、こんな店を見ることは中々ない貴重な店構え 「うらくろ通り」と言う・・昔にタイムスリップしたような街並みがあった ここは、創業数百年の老舗から、開業したばかりの店等、個性的な24軒が並んでいる1軒1軒見て歩くと、何処も思わず店の中まで入って見てしまう、センスの良い店ばかり 着物姿が似合う街である 卯建が上がっている家もあった 木の臼が植木鉢にリサイクル 長浜御坊参道 真宗大谷派の寺院である。同派の別院。真宗本廟(東本願寺)を 本山と仰ぐ。本尊は阿弥陀如来。山号は「無礙智山」。別名は「長浜御坊」。「長浜別院」... 大通寺本堂は初代・東本願寺御影堂とされている。実際の記録でも、 1652年から54年にかけて京都から長浜に御影堂が移築された 総けやき造りの山門 近寄ってみると、柱の大きさは圧巻である 寺の内部は仏とは関係ない「城」のような・・・贅を尽くした作りである 寺を後ろに外へ出ると、「うらくろ通り」は夕日に映えていた 小路が残っている アーケード街は既に閉店し、人の気配も無かった この日の夕食は、折角の近江なので「近江牛のすき焼き」を食べる前菜と地酒3種 前菜は「さくら」を基調にした、琵琶湖の地産地消 近江牛は美味しそうだが、少し安めを選んだので、期待ほどでは無かった 長浜にて(2015・3・16日) 覚書 「星と祭」 井上靖
2015年04月07日
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