くちばしらんど。

くちばしらんど。

二度と戻りたくない子ども時代



この文章を書いている今も、精神的にとてもつらくきちんと文章になっているかわからなくなることもある思います。また、両親に対する怒りの感情が激しく、お見苦しいところが多々出ると思います。
それでも、読んでくださる方、どうぞお付き合いください。

もう一度、楽しかった子ども時代に戻りたい・・・。
そんな方はとても幸せな子ども時代を過ごされたんでしょうね。
お父様、お母様の深い愛情に感謝なさってください。

私は、そんな普通の生活すら持ちえる事はできませんでしたが・・・。

私は、型枠建築技師(大工)をする父と専業主婦の母の間に長女として生まれました。

私の上には2歳年上の重度知的障害を負う兄がいます。
私は生まれながらにして、妹であり、姉だったのです。

そして、両親は宗教を信仰していました。
これも、私には救いどころか最悪でした。

物心が付いた時には、「私は要らない子どもなのだ」と思っていました。
母に対する激しい怒りと大事に育ててもらえなかった悲しみでいっぱいでした。同時に「母」=「大人」という認識もできていました。
大人は皆、母と同じで、子どもの気持ちを無視して大人の都合を押し付けるだけのものと思っていました。

後にこれが、学校などの団体生活、私が大人になり、結婚、出産をする際に大きな壁となり苦しみを生む事になりました。

私は生きる意味さえなく、私にはうまれ付いてこの方居場所がなかったのです。

両親や兄弟がいるというのに、そこは家族などという言葉とは程遠い、薄ら寒く、争いしかないような生き地獄でした。
それでも、父と母が恋しいのです。子どもですから。
激しい怒り、憎しみ、悲しみと同時に激しく母を愛する私がいたのです。
常に激しい感情の渦に飲み込まれ、苦しみ続けました。


子どもは親も兄弟も選べません。
受け入れるしかないのです。しかも、無知な状態で。
親の存在がすべてなのです。どんな不条理なことでも受け入れるしか術がないのです。

これが、最大の不幸です。
保護者である親が加害者であること、こんな、悲しいことがあっていいのでしょうか?
そして、家庭内で何が行われているのか誰も知らないということです。
母は周りにはそれなりにつくろっていますし、それなりに世話もしているので、外からは解らないのです。

ご飯を食べさせて、衣類を着せて、学校に行かせてやれば、それでいいのでしょうか?
優しい言葉やハグ、は要らないのでしょうか?
母は「生んで育ててやってるんだ感謝しろ!」といつも言っていましたが、感謝したことなどありませんでした。

ご飯やお菓子も「ほらよ。」
夕飯時にまとわりついたと言って拳骨で頭を殴って「うるさい!クソガキ!!」と罵声を浴びせられ、ひどい時は蹴られて小さな体が吹き飛ぶ事もありました。
毎日毎日、きたない言葉と暴力。
やさしい言葉などかけてもらえず。
「お前よりお兄ちゃんの方がよっぽど可愛い!」
「お前はなぜ女なのだ?」
「生みたくて生んだんじゃない!」
家に帰るのが嫌で早く帰らないと、殴られて外に放り出される事もあった。
母はたまに近づいてきたかと思うと、私の足や腕をつねった。
テレビを見ていると突然、首を絞めてきた事もあった。

なぜ、これが私の母親なの???
私は絶対、もらわれっ子で本当の両親がいるのだろう、そう思っていた。

父は見てみぬふりだった。
「また、殴られたのか?アハハ・・・」
そんな暴力を止めてもくれない父が許せなかった!

兄は重度の知的障害を負っていて、赤ちゃん同様。
2歳くらいの知能だと思います。性格は大人しく優しいタイプですが、カーッとなると暴れて手に負えません。

母が父に怒鳴り始めると、兄は決まって私の髪の毛をわしずかみにして、家中を引きずり回しました。
父と母のケンカを止めるためです。
重度の障害を負った兄でも、必死だったのでしょう。

母はあわてて兄を止めますが、被害にあった私には「大丈夫?」の一言もなく、自分たちのケンカが原因であるにもかかわらず「お兄ちゃんは何もわからないのだから、仕方ない」と言い放ち、いつも私は痛い頭を自分でさするしかなかったのです。
とても、悲しかった。

誰も助けてくれる人がいなかった。
誰もわかってくれる人がいなかった。
知識のない私にはどこにも助けを求めることができなかった。

小さな頭で一生懸命道化を演じるしかなかった。
意地を貼り続け頑張るしかなかった。







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