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せっかくなので、「失われた帝都の遺産」の一つカールス教会も写真があるので行きましょう
・・と思いながら書いていて迷走してしまいました![]()
新しい所に移る時には導入口に悩むのです。広げすぎて違う所に向かう所でした![]()
カールス教会 1 (リンクシュトラーセ)
オーストリア共和国(Republic of Austria) ウィーン(Wien)
カールス教会(Karlskirche) Part 1
ヴィーナー リンクシュトラーセ(Wiener Ringstraße)
カールス教会は、リンクシュトラーセの外にあります。前回のベルヴェデーレ宮殿の近くです。
でもその前にリンクシュトラーセの紹介から入りjます。
図書館でゲット・・。
ウィーン市内の地図です。写真上の川はドナウ運河です。

ブルーで色づけした所がリンクと言われる環状道路
です。
写真下の黄色の囲みがカールス教会で、リンクの中の赤い三角が王宮です。
ヴィーナー リンクシュトラーセ(Wiener Ringstraße)・・・・・城壁の撤去
リンクは、 正式名はヴィーナー リンクシュトラーセと言う旧市
街を囲んだ環状道路
です。
リンクは、もとはウィーンの 王宮や市を守る城壁と濠があった場所
なのです。
18世紀末頃からヨーロッパの多くの都市では中世以来の城壁と堀の撤去
が始まり、それを環状道路として活用するのが流行していました。
すでに安定し始めていた社会に城壁は無用の長物で、都市の発展を阻害するもの
だったからです。
リンク沿いの物件だけ少し紹介
ブルク劇場・・・・1741年宮廷劇場として創立。ヨーロッパで最も美しいと言われる劇場。

現在のイタリア、ルネッサンス様式になったのは1888年の改修からで、大戦で破壊されたものが1955年に再建されている。
国会議事堂(Parlament)・・・1883年

完全にギリシャ神殿です。前に建つ像は女神アテナイ。デンマークの建築家ハンセンの設計。
ブルク門(Burgtor)・・・1824年

ヴィーナー リンクシュトラーセ(環状道路)の「ヘソ」と言えるこの場所は王宮への入り口
ライプッィヒの戦勝記念の言わば凱旋門でしたが今は第一次大戦の戦没者らが奉られているそうです。
ウィーン自然史美術館館

リンクを挟さむブルク門の向こうにはマリア・テレジアの巨大な座像と美術館が対に建っている。
城壁撤去の遅れ
ウィーンはかつてトルコ帝国から何度も攻撃された経緯があり、 城壁の取り壊しが他国よりかなり遅れ
ていました。(市民は撤去を望んでいた。)
ウィーンの 城壁取り壊しの決断は、ナポレオン軍の進撃の前にはあっさり1夜で粉砕されたから・
・とされています。(もはや近代兵器の前では意味が無くなった)
皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は 1857年撤去を表明
。
跡地に環状道路を設ける事と跡地の3割を公用地とし、残る7割を民間に売り渡し
たのです。
そして、 時代はちょうど産業革命が成熟して巨万の富を得たブルジョアジーが台頭してきた頃
です。政府の売り出した土地を購入してりっぱな建物がどんどん建ったのだそうです。
城壁取り壊しの遅れが、ある意味、新たな近代的な街づくりに役だった・
・と言うわけです。
そうしたこの時代を
「リンクシュトラーセ時代」と言う、ウィーンを語る上での一つの文化として語られています。
5つ星のブリストルホテル・・・・1892年創立

カールスブラッツ駅最寄り、ウィーン国立歌劇場隣
ウィーン国立歌劇場(オペラ座)・・・かつては宮廷歌劇場

王宮のすぐそばにあるこの建物は、実は地下でカールスブラッツ駅につながっているそうです。そしてカールスブラッツ駅は、カールス教会の目と鼻の先なのです。
今回はあくまで、カールス教会がメインなのでリンクの建物は一部だけ・・・![]()
参考に追加した写真のせいで、違う方向に行きそうでしたが・・・![]()
リンク沿いでなくても、その界隈には素敵な建物が沢山建てられています。またの機会に紹介します。
カールス教会(Karlskirche)
さて、カールス教会は、青いドームと両サイドの円柱が特徴の教会はバロック建築の傑作として知られていますが、
城壁のある時代に城壁の外に建造された教会です。

1713年、ウィーンで17度目の黒死病(ペスト)が流行
して死者をたくさん出したおりにマリア・テレジアの父、 カール6世(1685年~1740年)が建立を指示
。
「 ペスト退散の守護聖人」、カール・ポロメーウス(カルロス・ボロメウス)に献げられた教会
なのだそうです。
教会の名前は聖人の名前カールから
来ているのですが、アントワープにもカルロス・ボロメウス教会(改名して)があり、そこも恐らく同じ理由、黒死病(ペスト)に関連して改名したのかもしれません。もっとも、ペストの守護聖人は、地域によっても異なるようです。
※ カール・ポロメーウス(カルロス・ボロメウスについては、2014年9月「ミラノ(Milano) 8 (ミラノ大聖堂 6 福者)」の回で解明できました。彼はミラノ大聖堂の聖人となっているカルロ・ボロメオ (Carlo Borromeo)でした。
リンク ミラノ(Milano) 8 (ミラノ大聖堂 6 福者)

着工は1723年で完成は1737年。
設計はフィシャー・フォン・エルラッハ親子
中心には高さ72mの緑のドームがそびえ、正面入り口はギリシャ神殿風の柱廊。
左右にはトラヤヌス帝(古代ローマ五賢帝)の凱旋記念柱をモデルにしてポロメーウスの生涯がらせんに刻まれた巨大な記念柱がそびえています。
建築の意図
カール6世は、 ペスト退散祈願と言うよりは世人の驚愕するようなバロックの教会を造る事で神聖ローマ皇帝としては、カトリックの威光と、ついでにハプスブルグ家の威光を内外に示す必要があったのではないか・
・・と考えられます。
なぜなら、いわゆる ルターの宗教改革以降、プロテスタントの威力が増し、カトリックの権威も落ちかけていた時期
でもあるのです。
そこで 宗教改革騒動を反省したカトリック側は、いかにも力強く、荘厳なイメージの礼拝堂を持つも豪華絢爛なバロック式の教会や修道院を盛んに建造
したと言われています。
因みに、プロテスタントでは修道院は全廃、聖母マリアや聖人、聖遺物の崇拝は一切否定され、教会内外のそれらは一切撤去されたと言う事です。
礼拝に必要なのは神に近い荘厳さよりも礼拝の中身だ・・と言う理論です。
次回、なぜリンクの説明もいれたか・・と内部です。
Back number
リンク カールス教会 2 (失われた帝都の遺産)
リンク カールス教会 3 (ウイーン・バロックの巨匠)
リンク カールス教会 4 (天井画の聖人と黒死病)
関連Back number
リンク ミラノ(Milano) 7 (ミラノ大聖堂 5 聖カルロ)
リンク ミラノ(Milano) 8 (ミラノ大聖堂 6 福者)
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