PR
Keyword Search
Category
Freepage List
今回解答編で最後です。
しかし、簡単に終わらせるか少し詳しく載せるかで悩みました。結果解答編を2回にして、次回が最終章にします。
2011年お正月 クイズここはどこ? シリーズ 3-3
アクロポリス (akropolis of Athens)
アクロポリスの丘・・と言えばもちろんここは ギリシャ
です。
そして今回の答えは アテネ
なので、アテネのアクロポリスです。
アクロポリスは「小高い丘」
をさす言葉で、もともとは諸王の居城や神殿があった場所をさしています。
都市国家ポリスが誕生してからは、神殿や集会施設が建設され、有事の際は砦の役割をしたようで、それらはギリシャ各地に多数存在
していたようです。
しかし、 一般にアクロポリスと言えば、アテネにあるアテナイの守護神であるアテナイ神を祀ったパルテノン神殿のあるこの丘を指して呼びます
。
アテネのアクロポリスを西にあるフィロパポスの丘より撮影
アクロポリスの丘全体は半結晶石灰岩で覆われ、海抜は150mだが市街地からは70mの小高い丘です。東西の長さは270mで南北は最大のところで156m。
丘の西面以外は絶壁になっています。
この位置から昔の復元地図を紹介。照らし合わせて見て下さい。
丘の左に手前がヘロデス・アティコス音楽堂
右手前が前回紹介しているディオニッソス劇場跡です。
右の円柱が連なる神殿がもちろんパルテノン神殿です。
写真、丘の左手が入り口となるブーレの門と参道、そして前門(プロピュライア)が残っています。
それらの奥にはエレクティオンとアテーナの古神殿があり、わずかに見えています。
フィロパポスの丘から
アテネの街が見渡せるアクロポリスの丘から、周りを眺めると、不思議な事に平地に小高い丘がい幾つもあるのがわかります。
昔は、松明による伝令が丘から丘に伝わった・・と言われていますが、確かにここならそれも可能なのだ・・と思います。
なぜ丘がはっきり解るのか? 東京ならビルが建ち並び丘も何も解らなくなっていますが、ここは昔から丘の上に教会や神殿などがあったり、軍事に利用されてきたからでしょうか? 丘はそのまま緑ある丘として今も残っているからです。
アクロポリスの悲劇
かつてこの地はオスマントルコとベネチアの取り合いの場所。
ヴェネチアとオスマントルコの戦争では、ヴエネチア軍はこの丘に大砲を据えてアクロポリスを吹き飛ばしたそうです。
1460年からトルコのの領地となっていた時期にはパルテノン神殿はトルコ軍の士官の宿舎となり、エレクセオンはトルコ軍指揮官のハーレムとなっていたそうです。
ここを奪還したいベネチアの攻撃による神殿破壊と、砦を築く為に神殿を破壊して回ったオスマントルコは共にとんでもない大馬鹿ものです
復元図面
図の右下が山門であり参道となっていて現在もそこが登り口です。
ブーレの門跡・・上から撮影
280年頃にローマ人によって建造された門は発見者であるフランスの考古学者エルネスト・ブーレの名前がつけられている。
ブーレの門から参道は階段がジクザクついてたようですが、今はまばら、古代ギリシャの時代もこれとほぼ同じ参道を歩いていたらしいです。
左の柱は台座で、アグリッパの記念碑。
当然かつてはそこに青銅の戦車に乗ったアグリッパの像が建っていたと言われています。
台座のあるあたりは見晴らしが良く、展望台になっています。
そして写真右に神殿への前門となるプロピュライアが建てられています。
プロピュライアの建築はパルテノン神殿完成後すぐだったBC5世紀頃。
建築家は当代一のムネシクレース。
中央楼と左右に北翼と南翼がある造りとなっています。写真は中央一部と北翼。
ゲート全体を写した写真がないのですが、現在はこれでも大分修復されています。
何しろここが先に紹介したトルコとの戦いでベネチアの砲撃を受けて吹き飛ばされたり爆薬庫の爆発があった場所なのです。
アグリッパの記念碑の後ろの展望台から
つづく
リンク 2011年お正月 クイズここはどこ? シリーズ 3-4 (パルテノン神殿)
back number
リンク 2011年お正月 クイズここはどこ? シリーズ 3-1
リンク 2011年お正月 クイズここはどこ? シリーズ 3-2 (ゼウス神殿)
2013.9 クイズ 「このロゴは何 ?」 2013年09月03日
2013年1月 ここはどこでしょう? クイズ… 2013年01月30日
2012 .9 これは何でしょう? クイズ (チェ… 2012年09月04日