** 長島便り **

2007/07/11
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銭湯の裏側をご存知ですか?

ワタシの親戚は東京のど真ん中で銭湯を営んでいます。
子供の頃は、正月や休みの日に、よく家族で訪れました。
ワタシの渡米後は数年に一度の挨拶のみになってしまいましたが
この4月に帰省した際に、夫と双子を連れて挨拶に行って来ました。

銭湯を営むこの親戚宅は、訪れるたびに、懐かしい昭和のにおいと
自分の子供時代の記憶がどんどん蘇ってくる
ワタシにとって、とても特別で不思議な空間なのです。


今は亡き先代と、同じく他界した私の最愛の祖父は親友でした。
この祖父 のことです。)
先代と祖父は、第二次大戦中 東京が焼け野原だった頃に知り合い
祖父は先代の妹をお嫁さんにもらい、故郷の熊本へ連れて帰りました。
そのお嫁さんが、23年前に62歳という若さで他界したワタシの祖母になります。
つまり、ここはワタシの祖母の実家になります。
この祖母 のことです。)


先代が元気だった頃は、毎年正月に ご近所や常連のお客さんを集めて
「餅つき大会」をしていました。
当時のマラソンランナー、瀬古選手も常連さんでした。

ワタシは、蒸篭(せいろ)で湯気を上げるアツアツ蒸したてのもち米を

「おめぇが飯のまま食っちまうと、餅がつけねぇだろうよ、オイ」と
目じりを下げた 江戸弁丸出しの先代によく頭をクシャクシャにされたものです。

ここへ来ると、今でも「明けましておめでとうございます」の声と、お年玉、
杵と臼、「あいよっ」「それ、どっこい」と合いの手を打つ声、
大根おろしや、柚子、きな粉に、白菜の塩漬け、鍋の中で煮えるアンコ、



先代はちょっと変わり者で、猿が好きな人でした。
銭湯の湯を沸かす燃料「薪」が置いてある小屋に、
ニホンザルを一匹飼っておりました。
ワタシは5つか6つの頃、お猿と遊ぶために一人で薪小屋に入ると
その日は小さな檻の中に入っていたお猿が
ワタシが顔を近づけるや否や、檻の隙間から手を伸ばし
ワタシの頭の毛をワッシと掴んで大暴れをはじめたのです。
ワタシの悲鳴で駆けつけた大人達数人掛りで
やっとこさ手を放させたという逸話が、今日もこの銭湯で語り継がれております。


先代の奥さんにあたる、ここの銭湯のおばあちゃんは
今年米寿を迎えますが、今でも現役で番台に上がっています。
この家に嫁いで来た人なので、ワタシとは血のつながりが無いのですが
私のことを、実の孫のように、それはそれは可愛がってくれます。
ワタシが成人してからも、行くたびにお小遣いをくれます。
今回夫と双子を連れて行った時には、双子にお小遣いをくれました。
この封筒は一生大事に取っておきます。


先代も、ワタシの祖父も、祖母も、皆他界してしまいましたが
この家(銭湯)に来ると、彼らが生きていた頃と何も変わらぬ
黒電話や、柱時計が迎えてくれるのです。
「じいちゃんが生きているうちにこれを聞きたかった」と思う事も
ここにいるおばあちゃんに聞けば良いのです。
「焼け野原だった東京に、ポツンと残った銭湯の煙突、
遠くからでも良く見えた」それを実際見た人がまだここに居てくれるのです。
祖父や祖母と同じ時間を共有して、私の知らない彼らの話を
嬉しそうに話してくれる人が、まだここにいる、ありがたいことです。


この家の仏間には、子供の頃は見知らぬ顔ばかりだったご先祖達の写真にならんで
見慣れた先代の顔がニヤッと笑って「おう、来たか?」とワタシを見下ろしています。
あと何十年もすれば、ワタシと時間を共にしたこの家の人達の顔も並ぶのだろうなぁ。
それまで銭湯が続くといいなぁ。
仏壇には、ワタシの祖父母の位牌もありました。
位牌の前には銘々に、おちょこのお水が供えてありました。
あの世の祖父母に代わって、おばあちゃんに「いつもありがとうね」
と言わずにはいられませんでした。
この日ワタシは、何年ぶりかに、祖父母に線香を焚いてやりました。


ところで、都内の銭湯を経営するのは新潟出身者が多いのをご存知でしょうか?
ワタシの親戚も、新潟から上京して銭湯を始めた一家です。
ワタシの祖母の実家と前述しましたが、
祖母は新潟の女学校を卒業しているので、故郷は新潟になります。
この銭湯の屋号「鶴の湯」は、新潟から出てきて
この地に風呂屋を始めた初代の奥さんである「お鶴さん」
つまりはワタシの祖母の母(曾祖母)の名前が由来しています。


先代の後を継いだ長男、現在の鶴の湯の主人は、ワタシの母の従兄弟になります。
もうとっくに還暦を過ぎています。
おじさんが若い頃、額に汗をにじませて、白い息を吐きながら
「そぉれっ!そぉれっ!」と杵を振り下ろして餅をついていた姿を
今でも鮮明に覚えています。
「おめぇが旦那と子供連れて挨拶に来るようになるとはよう」と
先代と同じように、目じりを思いっきり下げて、江戸弁で喜んでくれました。
孫に恵まれないおじさんは、ワタシの双子をずっと傍らに抱いて
子供の髪の毛をクシャクシャしていました。先代がワタシにそうしていたように。


その奥さんも、おばあちゃん同様、血もつながっていないワタシの
訪問を喜んで、よくお小遣いをくれていました。
いつも決まって「アタシが嫁いで来た頃、あなたのお祖母ちゃんに
こうしていつもお小遣いをもらってさ、ホント良くしてもらったから、
だから、取っといてよ」とワタシにお金を握らせ、
お勝手の奥に入って鼻をかんでいます。


「銭湯の写真、撮ってもいいですか?」と聞く夫に
「おう、いいよ、いいよ、どこでも撮っていきなよ、釜見るか?」とおじさん。
その写真をいくつかご紹介します。


「ザ・銭湯の裏側」です!



↓玄関脇の黒電話、昔のままで今も現役です。



↓この玄関をワタシはハイハイで上り下りしていたのです。当時のままです。



↓お昼にお蕎麦をとってもらいました。



↓子供の頃、この急な階段は、手をついて後ろ向きで降りていました。



↓1歳になったばかりの息子は、当時のワタシより勇敢でした。



↓人の手垢で黒光りする木造の手すりには、
ワタシの祖父母の手垢もしみついているのです。皆が生きていた証です。



↓電気スイッチですら、子供だったワタシを覚えていてくれるようです。



↓家の中(住居側)から見た女湯です。もちろん開店前。



↓逆に銭湯から見た、住居スペース。
 ちなみに、銭湯のペンキ絵を描く専門の職人さんは3人ほどしかいないそうです。



↓薪を焚く釜のひとつです。この部屋にお猿がいました。



↓昔も今も、分からない機器たち。。。



↓番台の横で。銭湯もまだ木造のままです。



↓番台から見た脱衣所です。



↓「武田工務店」の柱時計、年代物です。



↓このレトロな按摩機は、使用料金20円だったかな。
 同じくレトロな「森永の横型冷蔵庫」には、定番の瓶入りコーヒー牛乳等。



↓男湯側には涼める庭があります。金魚もいます。



↓庭から外へ出る木戸も昔のままです。



↓こちらは下駄箱。



↓下駄箱の鍵も「木」でございます。



↓外に出て、銭湯の正面。
開店前なのでまだ暖簾(のれん)が出ていません。



↓煙突と瓦屋根です。



↓住居側の門には、赤い郵便受けです。




↓さて、開店時間になりました。
浴室内だけはリフォームされて近代的なのがちょっと寂しいワタシ。





「うち風呂」が一般化した現代では、一部の「銭湯愛好家たち」を除いて
銭湯に通う人が激減しました。温泉施設は大流行らしいですが。
都内現存の銭湯は、900店舗余りと何かで読んだ記憶があります。
ワタシの子供の頃の思い出が沢山つまったこの銭湯
4代目、5代目と、後を継いで生き残って欲しいものです。

「おめぇ、自分はアメリカに行っちまったくせに、
ナニ勝手な事言ってんでぃ、ばかやろう」
と目じりを下げて笑っている先代の声が聞こえてきそうですが。。。







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最終更新日  2007/07/11 04:41:45 AM


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