Locker's Style

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『橋の下の彼女』(14)-2


 将人がそばを食べ終わってくつろいでいると、喫煙所に行っていた関内、辰三、城村の三人が日本食店舗に戻ってきた。城村がカウンター越しに、フィリピン人料理長に厳しい口調で何か言っている。
 辰三は将人の向かいの席に腰を下ろした。関内と城村は隣のテーブルに座る。気付けば、エミリーやカルロたちも、すぐ後ろのテーブルにかたまって座っていた。みな一様に、ほっとしたような、満足そうな表情を浮かべて、時間を忘れたようにくつろいでいる。
 数分して、フィリピン人料理長と高橋が、三人前の竜田揚げ定食をテーブルに運んできた。関内たちのテーブルに二人前、将人たちのテーブルに一人前が置かれた。
 関内と城村が、竜田揚げ定食を前にさっそく評論を始めた。「これはとても竜田揚げとは呼べないな」とか、「盛り付けが汚らしいんだよ」などと酷評している。
 城村の脇で、媚びるような笑みを浮かべて立っているフィリピン人料理長は、日本語がわからないはずなのに、関内たちの言葉に、すまなそうな顔で大きく頷いていた。関内と城村は竜田揚げを箸で突っついたり転がしたりするだけで、一口も食べようとしない。マグロの火の通り具合や、添えられたキャベツの刻み方がどうのこうのと言いながら、定食をかき回している。
 フィリピン人料理長とは、雑用係として厨房を一緒に駆けまわっているうちに、まるで長い間苦楽を共にした同僚ような気分になっていたというのもあって、将人は「味見もせずに彼の料理の何がわかるんだ」と関内たちに怒鳴りたい気持ちをぐっと抑えていた。
 辰三は腹が減っていないというので、将人は竜田揚げ定食を、キャベツの千切りの一本すら残さず平らげた。
「ありがとう、とてもおいしかったよ」
 空になった皿を下げに来た料理長に、将人はそう言って微笑んだ。作り置いただけあって見た目はしなびていて衣の歯ごたえもいまいちだったが、味はしっかりと竜田揚げそのものだったし、実際においしかった。
 料理長は歯を全部見せて微笑み、片言の日本語で「ドモ、アリガトゴザイマス」と親指を立てた。

 関内と城村が喧嘩のような口調で評論を続けているあいだに、カルロたちは帰り支度を始めた。途中、手が空いたところで、カルロが辰三のところにやってきた。
「今日はとても勉強になりました」
 カルロがぎこちなく頭を下げた。
「お前は覚えが早いから、良い料理人になるよ」辰三はカルロの肩を両手でたたいた。「それからよ、そばゆでるときは、温度ははからなくていいからさ」
 カルロは小さい笑い声を漏らして、わかりました、と言うと、続いて将人に向き直った。
「あなたの通訳がわかりやすかったので、戸惑うことなく料理ができました。ありがとうございます」
 カルロから礼を言われるとは思っても見なかったので、将人は思わず照れ笑いした。
「それにしても、あなたは英語が上手ですね、セキウチさんのまえでも、もっと自信を持って話せばいいのに」
 そんなに簡単だったらどんなに良いか、と将人は言いかけて、代わりに「確かにそうだね」と苦笑いした。

 日本食店舗のマネージメントの話を語りつくした関内が、いつもの日商赤丸時代の逸話を始める気配を見せたとき、城村が「所用があるので、お先に」と席を立った。
 そのおかげで、午後三時をすぎてようやく、AMPミナモトの一行は帰路につくことができた。
 TTCの社員食堂での試験販売は予想以上の成功を収めた。帰りの車中でも、関内は上機嫌に、城村に話しそびれた日商赤丸時代の同じ話を辰三相手に何度も語った。しかし辰三はといえば、さすがに疲れたらしく、関内が話している途中でいびきをかきはじめ、そのままGFCサンパブロ工場に到着するまで一度も目を覚まさなかった。


 夕食ができるまでゲストハウスで休んでいいと関内に言われたので、将人は辰三と一緒にリビングの丸テーブルでくつろいでいた。
「サマール――ついに明日だな」
 うつむいて身動き一つしなかったので、てっきり眠っていると思った辰三が、そうぼそりとつぶやいた。
「あ、はい。明日ですね」
 将人は答える。明日、サマールに発つのだ。
 辰三が顔を上げ、将人を見据えた。
「俺がフィリピンに来たのはな、AMPミナモトのためじゃなくて、ブエナスエルテ社のためだってのは、もう話したよな。確かに今日は大成功だったが、はっきりいやぁ、あれは余計な仕事だった。最初は三ヶ月だったサマールの滞在予定がな、あれよあれよという間に、一ヶ月とちょっとに短くされちまったし、その貴重な一ヶ月の貴重な一週間をよ、もうサンパブロで使っちまったわけだ。つまりだな、サマールへ行ったら、鮮魚を買い付ける港をどこにするか決めて、使えそうな魚種を選別して、加工場で働く従業員を雇って、そいつらに出刃の使い方から魚のさばき方から干物の干し方から冷凍保存のやり方まで教えて、俺がいなくても会社が動くまでにする――それを、たった三週間でやらなきゃならねぇことになっちまったわけだ」
 辰三は苦々しい顔を左右に振ったあと、つぶやくように付け加えた。
「だけどそれをやり遂げねぇかぎり、俺は日本に帰って会長に合わす顔がねぇんだよ」
 そういえば、〈ミツオカプロジェクト〉は、ミナモト水産の会長が、次男坊の辰三に、ミナモト水産の社歴に残るような実績を上げさせてやるために始めた、というようなことを久保山が言っていたのを将人は思い出した。
 辰さんが続けた。
「サマールに行くとな、まずレックスの息子、ライアンがいる。それから、レックスの女房の弟が二人――ジョエルとリンドンだ。あと、AMPミナモトから派遣されてる、アルマンってやつ。この四人が、ブエナスエルテ社を取り仕切ってる重役だ。アルマン以外の連中は、もともとブエナペスカ社でミルクフィッシュの養殖に関わってたから、それなりに魚のことはわかってる。でもな、知ったふうなこと言ってる関内さんが、実は魚にはど素人なんだよ。だからだろうが、季節や天候にとことん左右されやすい水産業のこと知りもしねぇで、レックスに無茶な要求を突きつけてるみたいなフシがあってな。レックスだけじゃなく、ライアンたちの中にも、関内さんに対する不満がたまってるかもしれねぇ。今までは関内さんを通してしか、俺たちはあいつらと話す手段がなかった。だがな、今回は違う、お前がいるからな。とは言っても立場上、俺はすこし距離をおいてやつらに接するからよ、代わりにお前が連中とどんどん仲良くなって、いろいろと本音を聞きだして欲しい。お前とライアンは、年も近いから難しいことじゃねぇはずだ。向こうへは関内さんも一緒に行くが、数日でサンパブロに戻るって話だから、連中の本音を聞きだすのはそのあとになるだろうが――」
 そのとき、玄関のドアがノックもなくいきなり開いて関内がリビングになだれ込んできた。
 あまりのタイミングの良さに、どこかに隠しマイクでも仕掛けてあるのではないかと、将人は思わずまわりをきょろきょろと見まわしてしまった。
「辰三さん、今日は夕飯食べながら、試験販売成功のお祝いを、ぱあっとやりましょうか。明日からはサマールですし、その前夜祭も兼ねてね」
 祝いとは言いながら毎度の晩酌と同じじゃないか、と将人は思った。辰三も同じことを思ったらしく、ひきつった笑みを浮かべている。
 関内は続いて将人に向き直った。
「そうそう柏葉君、若い人は若い人同士で楽しんでもらうとしますよ。こんな老人と一緒に酒を飲んでもつまらないだろうから」
 おっしゃるとおりです、と将人はあやうく言うところだった。
「どういうことですか?」
 しかし関内は答えず、「さあお祝いお祝い」と辰三の背中を押しながら母屋に向かわせた。
 仕方なく、将人もそのあとに続いた。
 母屋の裏口の手前まで来たところで、関内が振り返り、「若い人は表へまわって」と将人に言った。
 辰三が、助けてくれ、と言わんばかりの苦い顔を将人に向けたが、関内に押し込められるように、母屋の中に消えていった。
 将人は今夜も長い晩酌に付き合わされる辰三を気の毒に思いながら、母屋の表へと向った。AMPミナモトの調理場でカルロたちが夕食でもふるまってくれるのだろうかと考えながら歩いていると、車庫の方から「ショウ!」と呼ぶ声が聞こえた。
 振り向くと、ガレージのギャランの横に、エミリーとラウルが立っていた。
「まさかトランクの中には関内さんの備品がいっぱい入ってて、『実は今から二人でかけおちするところなんだ』なんて言うんじゃないだろうね?」
 将人の冗談に、ラウルもエミリーも大声で笑った。
「ちょっと、変なこと言うとおいてくわよ。あなたはね、今から私たちと一緒に、サンパブロ市街へ食事に出かけるの」
「食事? 若い人たちだけって、まさかエミリーとラウルのこと?」
「私が若くないっていうの?」
 エミリーがおどけて唇を尖らせた。将人は慌てて謝った。
 ようやく状況が把握できた。つまり、マニラでのラウルとのショッピング以来、関内から、再びつかの間の自由を与えられたのだ。
 将人がギャランの後部座席に乗り込もうと歩き出すと、ラウールがドアに先回りした。
「今夜は私の方が早かったですね」
 ドアを開きながら、ラウルが言った。
 将人は大笑いしながら車に飛び乗った。

 後部座席に、将人はエミリーと並んで座った。GFCサンパブロ工場の高い門を守衛たちが開け、ギャランがゆっくりと表の道に出た。
「なんだか刑務所から出所するみたいな気分だよ」
「そうそう、あなたは通訳が上手く出来ない罪で懲役を食らったの。今夜ようやく仮出所よ」
 言って、エミリーがぷっと吹き出した。心なしか、彼女はいつもよりメイクが濃いような気がした。
「エミリーだって、関内さんから開放されて、見違えるようにスッキリした顔してますよ」
「だって、実際にそうなんだだから仕方がないでしょう」エミリーはくすくすと笑った。「ところでショウ、あなたはどんな食べ物が好き? とはいっても、もう八時だから、選択肢はかなり限られるけど。中華料理か、フィリピンの大衆食堂か――」
「中華でいいです。それより、こっちもお祝いしませんか? 試験販売の大成功と、僕のサマール行きを祝して」
 エミリーはラウルとタガログ語で楽しげになにやら話してから、「そうね、じゃあ、サンパブロで最高級の中華料理店に行くわ」と言った。
 真っ暗だった道に電球が見え隠れするようになり、やがて見覚えのある町並みが見え始めた。
「ここ、まえに来たことがあるんじゃない?」
 将人は聞いた。
「この辺りはミスター・シロムラのお宅の近くです」
 ラウルが答えた。
 未舗装の悪路が舗装路に変わってほどなく、目的の中華料理店に到着した。ラウルは路肩に車を寄せて止めた。
 将人はエミリーに続いて車を降りたが、ラウルが降りてこない。
「どうしたのラウル? 一緒に行こうよ」
「ラウルはもう夕食を食べてしまったのよ」
 エミリーが代わりに答えた。
 ラウルの浮かべた苦笑いから、将人は何か事情があるのだと察した。サンパブロの最高級の店となれば、きっと関内も利用しているだろう。運転手のラウルが将人たちと一緒に食事したことが、店員を通して関内に伝わらないとも限らない。ラウルの表情からして、関内がそれを不愉快だと感じるだろうことは明らかだった。
 仕方なくラウルを車に残して、将人は小さなビルの一階にある、日本ならどこにでもありそうなごく普通の中華料理店へ歩みを進めた。
 入り口まで来ると、白い解禁シャツに黒いズボンという、ラウルと似た服装のドアボーイが、ガラス張りのドアを開けてくれた。
 店内は照明を抑えているようで薄暗かった。壁際に置かれたガラスケースの中には、バナナやマンゴなどのフルーツがぎっしりと並んでいる。
 エミリーは店の一番奥にある八人掛けのテーブルを選んだ。長々としたテーブルに、二人だけで向き合って座る。
「ショウは何にする?」
 将人は英語も併記されているメニューを手に取ったが、料理の名前を読んでも、それがどんなものかまるで想像できなかった。
「何でも食べますから、エミリーの好きなものを頼んでください」そこまで言いかけて、将人ははっと思った。「もしかして、ここって自腹ですか? だったら、できれば一番安いものを――」
「心配しなくていいわよ、会社の経費でいいって、セキウチさんから言われてるから」
 ほっとしたのが顔に出ていたのか、エミリーがくすくすと笑った。
「そういうことだったら、チキン、ポーク、エビのメイン料理をそれぞれ一つずつ注文してもらえます?」
「そんなに食べたら業務上横領になるわよ」
 将人の顔が引きつったのを見て、冗談よ、とエミリーは大笑いした。
 そうしているうちに、ウェイターがやってきた。

 三種類のメインディッシュを全て平らげるころには、将人はスラングを使って話すほどエミリーと打ち解けていた。
「エミリーは色が白いけど、中国人の移民なの?」
 ぷっと吹き出してエミリーが笑う。
「私は純粋なフィリピン人よ。私は白いけど、兄と弟はすごく黒いの。みんなは私の肌の色をうらやましがるわ。ところで、ショウは結婚してるの?」
「してないよ」
「彼女は?」
「こっちに来るまえに別れたんだ」
 言われて、ひとみ宛に書いた手紙のことを思い出した。サマールに飛び立つ前に、ラウルに託さなければならない。
「なぜ?」
「なぜって――」フィリピン行きが決まったから、と言いかけて、将人は言葉を飲み込んだ。「僕が夢ばかり追いかけてるからかな」
「典型的ね。それで、彼女、どんな人?」
「元彼女ね(ex girlfriend)」
将人はアイスティーをすすりながら、ひとみとの出会いから、フィリピンにやってくる直前の、あの空港でのやりとりまでをざっと話して聞かせた。
「あなたは女性に対してもう少し辛抱強くなる必要があるわ」
 エミリーが諭すように言った。
「僕は相当辛抱したつもりだったけど?」
 将人は、ひとみがことあるごとに前の男の話を持ち出したり、自分のことを家族には恋人でなく友達だと紹介するのだと言った。
「あなた、ハンサムなのに案外と女のことわかってないのね。彼女はあなたのこと、とっても好きだったと思うわよ」
 将人はかぶりを振った。
「もういいんだよ、終わったことだから」
 ふーん、と言って、エミリーは訳知り顔で将人を見つめた。できることなら彼女とやり直したいと考えている心の内を見透かされたようで、将人は恥ずかしくなって話題を変えた。
「そういうエミリーは結婚しているの?」
「私はまだよ。仕事はやりがいがあって給料もいいけど、とても忙しいし、社宅住まいでしょ、週末は両親に会いにいっているから、とても恋人を作る暇はないわね」
 自嘲気味に微笑んだ彼女の表情に、しかし寂しさのようなものは微塵も感じられなかった。
「フィリピン人って、何歳くらいで結婚するの?」
「人それぞれだけど、最近は遅くなってるわね。日本人も同じでしょ? 特にマニラなんかだと、三十歳くらいまで結婚しない人も増えてるわ。でもね、サマールなんかの田舎はぜんぜん事情が違うのよ、十代後半で同棲は当たりまえ、子供ができたら即結婚なんだから」
 恐ろしいような、うらやましいような話だった。
「サマールといえば、あっちがどんなところか、いまだにまるで想像ができないんだけど」
「ブエナスエルテ社のあるアレンって町はね――えっと、町じゃなくて、村って言った方が正しいかもしれないけど――」
 そのときウェイターがデザートのアイスクリームを運んできた。久しぶりにしゃべりすぎて喉が渇いていた将人は、それをスプーンで一気にかき込んだ。
「――とにかく、なにもないところ、と思っておけば大丈夫かな」
「トイレとか、シャワーとか、それはもうひどいって話を、サマールに来たことがある関係者から聞いたんだけど」
「そうね、そうかもしれない。あっちに行ったら、関内さんのサンパブロ監禁に戻してくれと、泣いてせがむかもよ」
「ちょっとエミリー、脅かすのもいいかげんにしてくれよ」
 サマールではトイレに水桶があればまだましなほうで、ひどいところだと水で流しもせず垂れ流しにしているらしい、とエミリーは続けた。
「レックスのことだから、そのあたりはしっかり考慮に入れて社宅を選んだはずだから、そんなに心配しなくても大丈夫よ」
 レックス、と言うときに、エミリーの口調がわずかに――まるで思っている男の名前を言うときのような甘い声に――変わったことに将人は気付いた。
「ブエナスエルテ社に、レックスの息子でライアンという若者がいるのは聞いているわよね? なんだか、あなたと彼は性格が似てる感じがする。きっと仲良くやっていけるわ」
 将人は、そうだといいけどね、と頷いた。
「正直に言うと、僕が一番心配しているのは、あっちの人たちと仲良くやれるかより、関内さんの英語なんだよ。発音は悪いし、文法も個性的だし、単語の選び方も独特だろ、関内さんとレックスとの会話を、辰三さんに上手く通訳できるか自信が持てないんだ。だけどエミリーにしろラウルにしろカルロにしろ、まるで超能力でもあるみたいに関内さんのヘンテコな英語を理解しちゃうんだから驚きだよ。僕が能無し通訳だって怒られるのは仕方がないとすら思えてくる。だけどね、サマールに行ってまでそんなことを続けるわけにはいかないんだ。僕は、とにかく通訳の役目をしっかりと果たしたいんだよ」
 エミリーは同情するような笑みを浮かべて頷いた。
「ここだけの話だけど、実はね、私もこの会社に入ったばかりのころは、セキウチさんの英語には本当に苦労したのよ。これはラウルやカルロ、それから他の従業員たちも同じなの。でも、私たちは雇ってもらったわけでしょ、元ニッショウアカマルのエリート、セキウチさんにね。だから彼の英語を理解できるようになるのは、私たちの仕事の一部なのよ。それに、たいして難しいことじゃないの。要所要所の単語さえ聞き取れれば、何を言いたいのかわかる。母国語で話すときも、単語を全部を聞いたりしないでしょ? 別の言い方をすれば〈慣れ〉かな。たくさん聞いて、慣れること」
 エミリーに言われて、今まで通訳が上手くできないことを関内の英語力のせいばかりにしていた自分が、将人は急に恥ずかしくなった。
「そうだね、そのとおりだ。ありがとう、エミリー」
 彼女は微笑んだ。
 おそらく関内は、こういった有能な従業員たちに囲まれているおかげで、欧米人相手にはまず通用しない英語を、長いフィリピン生活の中で独自に作り上げ、そして自分では上手く話せているのだと思い込んでしまっているのだろう、と将人は思った。似たような状況がシンガポールで起きていて、かなりの英語力がある日本人でも――ましてや英語のネイティブでさえ――最初は相当苦労する、英語関係の雑誌で読んだのを思い出した。
 久しぶりに味わう余裕のある夕食を取った将人は、エミリーとともに満腹でラウールの待つ車へと戻り、待たせてごめん、と謝りながら車に乗り込んだ。
「予定通り飲みに行く? それとも、もう監獄に帰りたい?」
 エミリーがからかうように聞いた。将人はブルブルと口で音を立てながらかぶりを振った。
「次に行く店は、ラウルも一緒に飲めるような店を選んでよ。あ、もちろんエミリーやラウルが監獄に戻りたいというなら、やめにするしかないけど」
 二人とも、将人がやったようにブルブルと言いながら、帰らない、と言って笑った。
「今日はあなたをサマールに送り出すお祝いなのよ、とことんまで付き合うわ」
 エミリーが行き先を告げると、ラウルはにこやかに頷いて、ギャランを発進させた。

 サンパブロ市街から外れると、車はそれほど大きくない湖の輪郭に沿って走った。舗装こそされているものの、街灯はひとつもなく、ヘッドライトが当たる所以外は、ブラックホールに飲み込まれたように真っ暗だった。湖の数キロ向こうには、ハイウェイなのか、一列に並ぶオレンジ色の街灯が見えている。
 ひとみをつれて登った夜景のきれいな丘から、東名高速道路を眺めたときの景色にどことなく似ていて、将人はふと、日本にいるような錯覚を覚えた。
 日本を離れてまだ一週間も経っていないというのに、まるで何ヶ月も経ったかように感じる――。
「何だか悲しそうな顔をしてるわよ」
 横を向くと、エミリーが将人の顔をじっと見つめいていた。
「ちょっと昔を思い出しただけだよ」
「あなたがフィリピンで思い出すような昔って?」
 将人が小さくうなると、ラウルが笑い声を漏らした。

 湖を半周ほどしたところで左に折れ、未舗装だが街灯のある道路に入った。道の両側に、大小のニッパハウスが建ち並び、それぞれが凝った看板を掲げている、賑わいのある、まるで映画のセットのような町が現れた。揃いも揃ってTシャツに半ズボンといういでたちのフィリピン人たちが、楽しそうに談笑しながら道端を行きかっている。
 ラウルが、町の中でもひときわ大きなニッパハウスの前で車を止めた。中から、バンドの生演奏の音が聞こえてくる。
「この店よ」
 エミリーが言って、そそくさと車を降りた。
 将人に続いて、ラウルも車を降りた。彼は門番にコインを数枚渡して、車の番を頼んでいる。
 店の正面には、ビールやカクテル、フルーツなどの絵が書かれた看板が掲げてある。表の庭には、背丈ほどまで伸びている南国らしい観葉植物が並べてあり、下から裸電球でライトアップされていた。壁板は薄く、防音の役目をまったく果たしていない。店内で音あわせをしているらしいドラムやギターの音が道まで大きく響いている。
 観葉植物のあいだを通って中に入った。店内は、柱をのぞけば仕切りらしい仕切りのまったくないただの箱といった造りで、すわりの悪そうなテーブルが、小学校の教室のように列を作って並べられている。客は、将人たちの他にカップルが一組いるだけだった。
 将人たちは店内のちょうど真ん中の席に案内された。しばらくして将人は、テーブルの脇で、床から天井まで伸びている柱だと思ったものが、実は床板を突き破って天井まで伸びたヤシの木の幹だということに気付いて仰天した。
 店の奥にステージがあり、生バンドの演奏に合わせて、女のボーカリストが歌い始めた。
 曲をリクエストすれば彼女が歌ってくれるんですよ、とラウルが教えてくれた。
 ウェイターが注文をとりにやってきた。将人はサンミゲルを注文した。エミリーとラウルはタガログ語で何やら話してから、エミリーはサンミゲルを、ラウルはアイスティーを注文した。
「ここ、どう思う? サンパブロにしてはなかなかの場所だと思うけど」
 エミリーが聞いた。
「ここはどういう店なの?」
 将人が聞き返した。
「そうね、あえて言うなら、ナイトクラブ、ってとこかしら」
 言いながら、彼女はステージの方に顎をしゃくって見せた。見れば、将人たち以外では唯一の客だったカップルが、ステージの前まで進み出て、生バンドの演奏に合わせて踊っている。
「確かに、ナイトクラブかもしれないね」
 そうしているうちに、客が増え始めた。数人組でやってきた男の客が、ステージの前で踊る女性客のグループに、踊りながらアプローチしている。
 そんな光景を眺めながら、サンミゲルとは普通に飲めばこんなにおいしいビールだったのかと、将人は感心していた。

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