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『橋の下の彼女』(15)-1
1999年6月30日(水)
フィリピン・サンパブロ→アレン
サマールへ発つ日。
その朝もニタは、まるで地面から数センチ浮いているのではないかと疑いたくなるほど足音をたてず、きびきびと朝食の支度をしていた。普段よりも笑みの多いその顔が、「サマールではがんばってくださいね」と言っているように見えた。
そんな彼女に対して、関内はいつものように、味噌汁の味がどうのこうのと文句を垂れることを忘れなかった。
エミリーやカルロのほか、数人のAMPミナモトの従業員たちに見送られながら、ギャランはGFCサンパブロ工場を九時きっかりに出発した。
昨日に続いて、車はアジアンハイウェイをひたすら北へ走り、約三時間かけてマニラ空港に到着した。
見送りロビーで、将人はラウルと固い握手をかわした。そして関内の見ていない隙を見計らって、ひとみへの手紙と、百ペソ札を三枚渡した。「封筒と切手を買うことを考えても、これでは多すぎますよ」というラウルに、将人は「お釣は子供のために」とウィンクした。このあとラウルはひとりでサンパブロまで運転して戻るので、その道すがら郵便局に寄ると約束してくれた。
空港ビル一階にある国内線の出発ロビーまで、関内のあとに続いて進んだ。滑走路と同じ高さにあるロビーのガラス窓からは、巨大な旅客機やプロペラ式の小型機などがいたるところに見えている。滑走路に向けてずらりと並んだ椅子は数百脚はあるが、空席はわずかだった。滑走路に出るゲートの手前に、航空会社別に別れたチェックインカウンターがある。ゲートの上には、航空会社別の出発予定時刻がホワイトボードにマジックで書かれていた。
将人たちが乗る〈アジアンスピリット〉のカウンターで搭乗手続きをする。サマール島カタルマン空港行きの便は、ホワイトボードでは〈一時三十分に離陸予定>となっている。
運良く二つ並んだ空席を見つけ、関内と辰三が座った。将人はその後列の、空いていた一つに大きな体を滑り込ませた。
「いよいよミナモト水産の社運をかけた大仕事が始まります。ついに辰三さんが内に秘めた実力を、みなに知らしめるときがやってきたんですよ」席に着くなり、関内は辰三を相手に、雄弁に語り始めた。「サマールでは、従業員たちを手加減なしで徹底的に鍛え上げてくださいね。カルロなんかの秀才と違って、あっちの連中はバカで怠け者だから、こっちが甘い顔するとまるで言うことを聞きません。ですから、ときには声を荒げることも必要になるでしょうが、そこはご心配には及びませんよ、実際に彼らを怒鳴るのは通訳の役目ですからね。辰三さんは笑顔で説教しながら、通訳には『怒鳴って言え』と命ずればいいんです。それで険悪な空気になったとしても、知らん顔してればいいんですよ」
信じがたいほど理不尽なことを言ってくれるな、と将人はむっとしたが、辰三が「それは良い考えですね」と真顔で即答するのを見たときには、怒りを通り越して笑ってしまった。
<役立たず>よりは<憎まれ役>でも、役があるだけまだましか、と将人は思うことにした。
ロビーには、ときおりどこそこの飛行機が到着しました、というアナウンスが流れる。そんなアナウンスがあって数分すると、滑走路に続くゲートから、人種も顔立ちも身なりも多種多様な乗客たちが、ざわざわとロビーになだれ込んでくる。客が途切れ途切れになったあたりで、凛々しい顔をしたパイロットと、キャリバッグを引いた背の高い美人のスチュワーデスが三、四人、颯爽とロビーを過ぎて行く。
将人は、行き来する乗客たちの波を見つめながら、その人種の多様性に心を奪われた。マレー系、インド系、中華系といった東洋人から、特徴のある服装の中東人、スーツ姿の白人、まれに見たこともないような民族衣装に身を包んだ黒人の姿もあった。
「――おい、聞いてるのか?」
はっと我に返ると、辰三が、前の席から身をよじって将人を見ていた。見れば、隣の席に関内の姿がない。関内はライアンたちへの土産を買いに行ったんだ、と辰三が言った。
「いいか、最初の数日は関内さんが一緒だから問題ねぇだろうが、そのあとは俺とお前だけになる。さっきも関内さんに言われたが、俺は連中に、ちょっとばかし厳しく接しなきゃならねぇ。でもな、無用にギクシャクした雰囲気にしたくもねぇ。だからさ、お前にはな、俺と一緒になって朝から晩まで厳しく怒鳴ったりするんじゃなくてよ、それこそライアンやジョエルなんかとはな、夜な夜な、遊びに出かけたりしてよ、うまくバランス取って欲しいんだよ。せっかく専属の通訳連れてサマールに来たってのに、あっちの連中が関内さんを相手にするときみてぇに本音を話さなくなっちまったら本末転倒だろ。つまりな、<憎まれ役>は俺がやるから、お前は<好かれ役>をやれってこった。処女の出血大サービスだぞ、こんちくしょう」
言い回しは別にして、さすが現場職人の辰三は男気のある人だな、と将人は感心した。
「ありがとうございます。でもアレンで夜遊びに行けるような場所なんてあるんですか? 誰に聞いても、何もない場所、って答えしか返ってこなかったんですけど」
辰三がにやりとした。
「それがあるらしいんだよ。俺は行ったことねぇんだけど、社長から聞いた話だと、海のそばに一軒だけ、カラオケバーがあるんだとさ」
「カラオケバーですって?」
将人は思わず大きな声で聞き返していた。
「何だお前、歌えないのか」
「そういう意味じゃないです。何もないはずのアレンに、まさかカラオケの機械があるとは思いもしなかったから――」
昨夜、エミリーたちと訪れた〈ナイトクラブ〉を考えれば、アレンのカラオケバーは、きっと屋根しかない東屋のようなニッパハウスに、エイトトラックカセットのカラオケ装置がぽつりと置いてあるというのが関の山だろうな、と将人は思った。
「ブエナスエルテ社の連中から見りゃ、お前はミナモト水産の人間も同然だ。遊んだときの支払いはこっち持ちにしねぇとな。だから、お前が連中と遊びで使う金は、必要経費ってことで、ミナモト水産で持つからよ、くれぐれもワリカンなんかにするんじゃねぇぞ」
遊ぶ金を会社が払う――将人は耳を疑った。確かに、会社勤めをすれば、交友費のようなものが出るのは聞き知っていたが、友人と飲みに行っても十円単位で割り勘してきた将人にとって、三人、もしくはそれ以上で飲んでも会社がすべて払ってくれるというのは、たとえそれが業務の一環だとしても、衝撃的な驚きだった。
「それからよ、関内さんがサンパブロに戻ったら、俺たちが泊まる社宅に、ライアンとジョエルも一緒に住まわせて、ブエナスエルテ社の成功のために、気持ちを一つにしていこうと思ってんだよ。くだらねぇ身分だとか階級だとか、そんなもんはどうでも良い、一緒に寝起きして、一緒にメシ食って、一緒に働く。そうしてるうちに、俺の目指すものとか、考えとかが、言葉じゃなく、態度で伝わるんじゃねぇかってな」
「いい考えだと思います」将人は微笑んだ。「では、向こうに着いたら、彼らに提案してみ――」
そこまで言いかけて、辰三は顔をぐっと引きつらせて押し黙った。将人が振り返ると、〈ミスター・ドーナッツ〉の袋を右手に下げた関内が立っていた。左手には、四角いジョニ黒の箱が二つ入ったビニールを抱えている。
辰三が苦笑いしながら言った。
「ミスター・ドーナッツはライアンとジョエルの大好物なんだよ。ダバオにいた頃はよく食べてたらしいけど、さすがにアレンじゃドーナッツなんて売ってねぇから、サマールに行くときは、関内さん、必ずここで土産に買っていくんだ」
関内が辰三の隣に座った。
「いやぁ、種類がいっぱいありすぎて年寄りには全部同じに見えるからさ、この箱詰めのやつをふたつ買うことにしたんです。それから、これ、命の水」
言って、関内はジョニ黒の袋を辰三の目の前に掲げてみせた。辰三が笑顔で頷いたのを見て満足すると、関内は「これは君が運びなさい」と、将人にドーナッツとジョニ黒の入った袋を渡してきた。
一時間ほどして、アジアンスピリットのカウンターの上に掲げられたホワイトボードが、脚立に乗った空港職員によって〈搭乗手続き開始〉と書き直された。それまで退屈そうに座っていた乗客たちが、忙しなく手荷物をまとめて立ち上がる。関内も立ち上がると、彼らと先を競うようにゲートに駆け寄って行く。居眠りの真っ最中だった辰三は、疲れた顔でのそのそと立ち上がり、衛星電話の入った重い手荷物に加えて、ドーナッツとジョニ黒のビニール袋を抱えてもたついている将人がゲートの列に並ぶまで辛抱強く待っていた。
出発ゲートの脇で、百七十センチ近くありそうな長身のマレー系と中国系の美しいスチュワーデスが二人、乗客に笑みを投げかけている。将人は、今までマレー系フィリピン人を美しいと思ったことはなかったが、その黒髪のショートカットが恐ろしく似合うスチュワーデスを見て、本物のマレー系の美しさを思い知らされたような気分になった。
チケットチェックを済ませると、ゲートを通って滑走路に出た。途端に、むっとした熱気が襲ってきた。目の前に、黄色と赤色の飾り文字で〈アジアンスピリット〉とかかれたシャトルバスが待機している。
バスに乗り、だだっ広い滑走路を進む。やがて前方に三機のプロペラ機が見えてきた。そのうち一機の体に、バスと同じ〈アジアンスピリット〉の飾り文字が見て取れた。
プロペラ機の脇でバスが止まった。スチュワーデスに先導されて、乗客たちが前部ドアから下ろされたタラップに向かって歩く。機体のすぐ近くまで来て、将人はプロペラの大きさに驚いた。地面からプロペラの頂点まで、二階建ての建物ほどの高さがある。
タラップの最下段で、制服姿の係員が再び搭乗券をチェックした。そのとき、将人は機体の横に日本語で〈定員六十四人〉と書かれているのを見て取った。
「これはYS11という日本製の航空機なんですよ」
関内が辰三に説明しているのが聞こえた。日本から払い下げられた機体だという。
将人はそれを、日本製の航空機だから安全、と喜んでいいのか、国内ではもう引取り手がないほど落ちぶれた航空機なのだ、と心配すればいいのかわからなかった。
プロペラ機の中は外にも増して蒸し暑かった。座席は左右に二列ずつ、通路も狭く、内装のデザインはまるで昭和の旅行バスのように古臭かった。
座席番号とチケットを見比べながら進む。将人の席は窓際、ちょうどエンジンの真横だった。シート自体は小さいが、前のシートとの間隔がそれなりにあるので、百八十六センチの将人でも、それほど窮屈には感じない。
日本製だけあって、いたるところに日本語の注意書きや案内書きが残っていた。
辰三が将人の隣、通路側に座った。将人は窓側を譲ろうとしたが、辰三は首を横にぶるぶると振って動こうとしなかった。
「エンジンから火が出たら、先に焼けるのはそっち側だからな」
なるほど、と将人は苦笑いを返した。
関内は二列前の通路側にひとりで座っていた。将人たちが並んで座っているのに気付き、「本当はここが柏葉君の席だったけど、チケット間違えて渡したみたいだね。どれ、替わってもらおうか――」と言って立ち上ったが、狭い通路には他の乗客があふれていて、隣の辰三がまるで動こうとしないので、将人も通路に出られなかった。結局、どうせ二時間で着くからこのままでいいや、と関内はひとりごとのように言って、もとの席に腰を下ろした。
「エンジンかかるまでエアコンは入らないんですよ。しかし暑いね、こりゃ耐えられないな」
言って、関内はハンカチで顔をぬぐった。
マレー系のスチュワーデスは、このサウナのような温度でも汗一滴かいておらず、褐色の肌の色にひんやりとした涼しさをまとっているかのように見えた。
「あのスチュワーデス、いい女だなぁ」
辰三が言った。
「かなりの美人ですね」
「お前、ずっと見とれてたよな」
言いながら、辰三は彼女をとろんとした目で見つめていた。
搭乗から二十分ほどして、『離陸準備に入ります』というアナウンスが、英語とタガログ語で流れた。
救命胴衣の説明が始まった。マレー系のスチュワーデスがオレンジ色の胴衣を着て現れる。マイクを握った中華系スチュワーデスの解説に合わせて、ひもを引っ張ったり、チューブから空気を送り込むしぐさをする。将人はまるでモデルのファッションショーを見ているような気分になった。
飛行中の注意事項の説明が終わると、『エンジン始動します』という機長からのアナウンスが流れ、続いて機体の両側から低く唸るエンジン音が響いて、機体が激しく振動した。同時に、窓のすぐ向こう側に見えているプロペラが勢いよく回転し始める。
座席の上の送風口から、ようやく涼しい風が吹き出し始めた。隣の乗客をよそに、関内は二つある送風口の両方を自分の方に向くよう調整している。
暖気運転をするあいだ、二人のスチュワーデスが乗客のシートベルトをチェックした。関内のいる右列は中華系、将人のいる左列はマレー系。彼女たちは、それぞれの座席のベルトをチェックするたび、シートの上部を手でポンッと叩いて、確認した、という合図にしている。
スチュワーデスが辰三のところまでやってきて、ベルトをチェックし、またシートの上を叩いた。続いて将人のベルトをチェックしたが、そのときなぜか彼女の手が彼の肩に置かれていた。これはフィリピン式の『降りるまでに電話番号を交換しましょう』という合図なんだろうか、などと勝手な妄想を膨ませたが、彼女が他の乗客にも同じようにしているのを見て、将人は恥ずかしいような、悔しいような気分を味わった。
全ての安全確認が完了し、機長から『離陸します』のアナウンスが流れた。
エンジン音が一気に高くなり、ペロペラが空気をかいて前に進もうとする強烈な力が座席まで伝わってくる。
ブレーキが外れる、こすれるような音がすると、機体がぐっと前進を始めた。機内のあちこちで、ギシギシ、というあまり聞きたくない音がしている。
滑走路の長い直線に入って、機体が止まる。数十秒後、唸りを上げて回転を早めると、機体が急に軽くなったような感覚がした。ブレーキが外される音と共に、機体は打ち出されたかのように急発進した。
車輪が地面をこする音が消えた。窓越しに滑走路が下へみるみる遠ざかり、上昇する機体の傾きが増していく。背中が背もたれに押し付けられるGを感じる。
やがて機体は厚い雲の中を通過した。小さな窓の向こうで、翼の先が雲で見えなくなる。雲を抜けると、一面に素晴らしい青空が広がった。
十分な高さまで上昇すると、機体が水平になり、シートベルトのサインが消えた。『お客様の安全のため、シートベルトは着用したままにしておくことをお勧めします』という英語とタガログ語のアナウンスが流れる。
関内はそそくさとベルトを外していたが、将人はベルトを外す気にはなれなかった。隣の辰三も締めたままにしている。
続いて、『これより軽食をお出しします』というアナウンスが流れた。二時間もかからない国内線、それもプロペラ機で、軽食のサービスがあるのに驚く。
スチュワーデス二人が、カートではなく、野球場の売り子のようなトレーを首から下げて現れた。軽食といえばサンドイッチだろうと思っていた将人は、ビスケット二枚の入った小さな袋と、紙パックのオレンジジュースを受け取りながら、これは確かに<軽い食事(light meal)>だな、とひとり笑った。
辰三は自分の軽食を無言で将人に押し付けると、目を閉じてあっという間にいびきをかき始めた。関内はビスケットをちまちまとかじりながら、ときおり辰三の方を振り返るので、将人はいやおうなしに何度も目が合ってしまう。
四枚のビスケットと二本のオレンジジュースを胃袋に詰め終えると、将人は知らぬ間に眠りに落ちていた。
夢を見た――レックスと関内が並んで立ち、「こいつは居眠りばかりして本当に役立たずの通訳だ」と叱責され、なぜかそこにひとみがいて、「すみません、バカな彼氏で」と代わりに詫びた場面で目が覚めた。
アジアンスピリットの中は――エンジン音を除けば――静かだった。Gショックを見ると、離陸から五十分ほども経っていた。辰三は口を大きく開けて眠っている。前を見れば、関内の頭も垂れ下がり、縦に横にぐらぐらと動いている。
将人は窓をのぞき込んだ。はるか下に、濃い青色の海が広がり、小さな島が点々と浮かんでいる。どの島も、盛り付けすぎたサラダのように緑でびっしりと覆われていた。海沿いの開けたところにはニッパハウスが建っていて、海岸沿いには、双胴船のような小船が浮かんでいる。
視線を前方に移すと、海を覆う大きな陸地が見えていた。
あれがレックスたちの待つサマール島だろうか――そう考えたら急に緊張してきて、将人はぶるっと身震いした。
陸地の上空まで来ると、機内アナウンスが『ただいま当機はサマールの上空に到達しました』と伝えた。シートベルトのサインが点灯して、機体が少しずつ高度を落としていく。
「今どこだ?」
アナウンスで目を覚ました辰三が聞いた。
「サマールの上空です」
「サマールのどの辺だ?」
「どの辺って言われても――多分、カタルマンの近くじゃないでしょうかね」
窓の下に広がる陸地がぐんぐん近づいている。見渡す限り、絵の具のチューブから搾り出したままのような濃い緑色のヤシが生い茂っていて、そのあいだのわずかな隙間を、薄茶色の道が走っているのが見える。道沿いに建っているニッパハウスは驚くほどわずかで、それ以外には人間の営みらしいものがまるで見て取れない。
エミリーの言っていた、サマールは何もないところ、という意味が、将人はようやく理解できた気がした。
機長が訛りのある英語で『まもなく着陸します』とアナウンスした。前方に直線道路のような滑走路が一本だけ見えている。カタルマン空港には、滑走路のほかには管制塔を兼ねたこじんまりした建物がひとつあるだけだった。
「あーあ、ついに来ちまったって感じだな、正直なとこよ」
辰三がぼそりと言った。将人も内心では同じ気持ちだった。
滑走路に車輪がドスンという音を立てて接地した。速度が急激に落ちていく。
大型旅客機とは比べ物にならないほど早くプロペラ機は減速していき、停止した――小さなターミナルビルの真横に、それも滑走路のど真ん中だ。
国内線に慣れている他の乗客たちは、一斉に立ち上がって、座席上の手荷物入れから荷物を取り出し、通路にわっとあふれ出した。
搭乗口のハッチが開かれ、手動でタラップが降ろされる。機内にべたつくほど湿気を含んだ生暖かい空気が流れ込んでくる。
「辰三さん、遅れるよ」
大声で言いながら、関内は通路に隙間なく並んでいる乗客の列に無理やり割り込もうとしている。
いったい何に遅れるのかと将人は訝しく思った。
前に進もうとする他の乗客たちの列を、通路に立ち止まってせき止めている関内を見て、辰三は「そんなに急ぐなら、先にひとりで降りてりゃいいのになぁ」と苦笑いしながら、しぶしぶ立ち上がった。将人も、通路を塞がれていらついている他の乗客たちの「お前もあの老人の仲間か」というような厳しい視線に急かされて立ち上がる。
乗降口の手前で、二人のスチュワーデスが乗客たちを見送っていた。近くで見るとさらに美しいマレー系スチュワーデスの「良い旅を」の言葉に、将人は照れた笑みを返しながら、YS11のタラップを降りた。
雨が降ったのか、散水したのか、滑走路は水たまりができるほど濡れていた。照り付ける太陽の光も、地面から立ち上る熱気の温度も、サンパブロの比ではないほど高い。湿った空気が熱湯のように熱い。空港を取り囲むフェンスのすぐ向こう側には、湿ったヤシの木が高い壁のようにびっしりと生い茂っている。
ターミナルビルと呼ぶにはあまりに粗末な建物に、〈到着〉と書かれたゲートが見える。そちらに向かって歩いていく乗客たちの列に将人も続く。
ただドアを開け広げただけのようなゲートを入ってすぐに、手荷物受取所があった。〈荷物の受け取りは十五分後に開始〉とチョークで書かれた黒板が置いてある。
関内は預け入れ荷物が出てくるのを待たずに、建物の先へ進んでいった。どこへいくんだろうな、と辰三と顔を見合わせながら、仕方なくあとについていく。
建物の出口に近づくと、まわりのフィリピン人よりあたま二つ分ほど背の高いレックスが腕組みして立っているのが見えた。マカティのときのスーツ姿とはうってかわって、短パンにTシャツ、サンダル履きで、野球帽を浅くかぶっている。その隣には、薄汚れた白いタンクトップ、よれた短パン姿の、深い褐色の肌をした目つきの悪い男が立っている。
まさかあれがライアンなのか――将人は目を瞬いた。もしそうなら、エミリーから聞いた印象とだいぶ違う。
関内がレックスと握手を交わす。レックスの隣に立つ男を関内が露骨に無視したのを見て、彼はライアンではなく、おそらく運転手か召使いだろう、と将人は思った。続いて将人たちもレックスと再会の挨拶を交わす。そのあいだも、隣の男はわずかな笑みも見せず、むしろ挑むような目つきでこちらを見ていた。目が合えば人好きのする笑みを見せるラウルとは大違いだ。
「荷物が出てくるまでまだ時間がありますから、私たちは表で待ちましょう。受け取りはこの運転手にやらせます」
レックスが言った。思ったとおり、男はライアンではなく運転手だった。レックスがタガログ語で何か告げると、運転手はあいかわらず無表情のまま、手荷物受取所の方へそそくさと走っていった。
レックスに先導されてターミナルビルの外に出た。派手な色彩のトライシクルとジープニーが隙間なく並んでいる表の駐車場は、手入れを何年もさぼった運動場のようで、雨のせいかひどくぬかるんでいた。深いわだちには茶色の水が深くたまっている。
「ついさっきまで豪雨だったんです。関内さんたちの飛行機が着陸できないのではないかと心配しましたよ」
レックスは笑みを浮かべずに淡々と言った。関内がレックス相手にさっそく仕事の話を始めたので、将人は通訳しようと身を乗り出したが、辰三に「どうせ仕事の話だろ、通訳しなくていいぞ」と言われてしまった。
辰三が壁際の日陰に座り込んだので、将人もその隣に腰を下ろした。
「前に俺がうちの社長と清新設備と斉藤食材の連中と一緒にサマールに来たときな、あの黒い運転手、レックスに言われるまま朝から晩まで運転しっぱなしでさ。だから社長が気の毒に思って、ねぎらってやろうか、って話しになってな。関内さんとレックスが寝たあとに、あいつを呼んでさ、ジョニ黒を飲ませてやったんだよ。社長のカタコトの英語と、身振り手振りで何とか会話しながらな。そんで、みんなかなり飲んでさ、俺らは眠くなったから、先に寝ることにしたんだけど、まだ空けてないジョニ黒が一本あったから、それ出してやってさ、運転手に『好きなだけ飲んでいいよ』って言ったんだよ。ところがさ、次の朝起きたらよ、ボトルが丸ごとなくなってやがる。やられた、あの運転手が持ってっちまったんだ、って驚いたのなんの」辰三がうんざりしたように首を振った。「レックスや関内さんの言ってることは本当なんだな、って思い知らされたよ。やつらは心の底から貧乏人だから、下手に慈悲深く対等に相手してやろうなんて考えるとしっぺ返しを食らうってな。好きなだけ飲んでいいなら、ぜんぶ飲んでもいい、だからボトルを丸ごと持っていっちまってもいい、って考えしてんだろうな」
ラウルとはえらい違いだな、と将人は感じた。
入り口の前のレックスは、相変わらず腕組みしたまま、憮然とした顔で関内と仕事の話を続けている。
「それより見ろよ、あの車。これぞフィリピン、って感じだなぁ」
辰三が、駐車場にひしめくように止まっているジープニーに向けて顎をしゃくった。
「サンパブロのジープニーやトライシクルより、塗装が派手で、赤を多く使ってる感じですね。地域ならではの流行なんかがあるんでしょうか」
「ほら、あそこに停まってるパジェロあるだろ、古い型のやつ」辰三が駐車場の奥のほうを指差した。「あれがブエナスエルテ社の社用車だ。ミナモト水産が日本で中古車を買って、フィリピンに輸出したんだよ。左ハンドルにしたり、シフトをいじったり、ミラーの位置を変えたりしねぇと、輸入許可が下りなくてさ、大変だったんだぞ」
そのシルバーのパジェロは、角ばったデザインからして、将人のスカイラインと同じ八十年代後半の形式だと思えた。それでも、奇抜なステンレス板と派手な塗装で飾られたジープニーのあいだにあっては、原始時代の地球に降り立った宇宙船のようにすら見える。
そんな景色に見入っていると、運転手がサンダル履きの足音を響かせながら駆け戻ってきた。
「預け入れ荷物の受け取りが始まったそうです」
レックスが言った。
将人が受取所の方へ向かおうとすると、レックスに「運転手に任せればいい」と止められた。
しばらくして、運転手が押すたびにあべこべの方向に進もうとする三つのスーツケースに四苦八苦しながら戻ってきた。二人で運べばとっくに運び終わっているところを、あえてひとりにやらせるレックスは、ラウルが車のドアを開けるまで降りようとしない関内と似てるな、と将人は感じた。
レックスと関内はそそくさとパジェロの方へ向かって歩き出した。辰三がそのあとに続く。後ろでは、運転手が駐車場に下りる段差の手前で三つのスーツケースと格闘していた。将人はせめて自分のスーツケースだけでも手伝おうかと考えて立ち止まったが、サマールに着いたら運転手や召使には一切手を貸すな、と関内からきつく言われていたのを思い出し、仕方なくパジェロに向かって追って歩き出した。
水溜りだらけの駐車場の中を、三つのスーツケースを抱えてパジェロにようやくたどり着いた運転手は、後部ハッチを開けてせっせと積み込んだ。パジェロの荷台スペースは、まるで泥まみれの子供が暴れたかのように汚れている。
レックスが助手席に乗る。
「真ん中は首を寄りかけられなくて疲れるから、君が座りなさい」
そう関内に言われたので、将人が真ん中になった。関内と辰三に挟まれて窮屈さに体を小さくしていると、将人は何かががさがさと動く音を聞いて後ろを振り返った。
見れば、スーツケースのあいだに挟まれるように、若い男が座っていた。将人は驚いて思わず飛び上がりそうになった。ひざを抱え、将人の視線にもたじろぐことなく、うつむいたまま荷物のようにじっと座っている。栄養失調かと思うほど小さくか細い体に、運転手よりもさらに深く黒い肌。縮れた頭髪と彫りの深い顔は、アフリカの黒人を連想させた。三人のスーツケースが荷台の中で滑らないように、両腕で抑えている。どうやら召使のようだ。
パジェロは、わだちで波立っている地面を船のように揺れながら、ジープニーとトライシクルのあいだをぬって駐車場を出た。サンパブロ郊外のように家が並ぶ未舗装の道をしばらく進むと、舗装路とのT字交差点に出た。
「ここからはアレンまで、一時間半から二時間です。東に行けば少しは遊ぶところがあるんですけど、残念ながらアレンは西の方角なんです」
関内はそう言ったが、目の前で東西に延々と伸びる道のどちら側にも、信号も標識も、電柱すらひとつも見えない。
灰色の荒いコンクリートで舗装された道は、見た目よりも凹凸が激しく、パジェロでもせいぜい五十キロで走るのがやっとという感じだった。辰三はすぐに白目をむいてこくりこくりと居眠りを始めたが、ときおり地面のへこみに車輪が落ち込んで車が激しく揺れるので、いつものように深くは眠れない様子だ。
空港から続いていたレックスと関内の会話が止むと、車内が途端に沈黙に包まれた。
ひたすら伸びるコンクリート舗装の道路。その両脇に隙間なく茂るヤシ林と、ぽつりぽつりとたっているニッパハウス――変化のない景色が続く。
そんな中で、将人はある法則のようなものを見つけていた。ヤシの木を縦に真っ二つに割ったような半円形の板が、道路の端から端まで渡されていることがある。それを乗り越えるために、パジェロはほとんど止まりそうになるまで減速しなければならないが、その先には、決まって集落があった。
そういった集落に入ると、無数の子供たちが、ちょうどラグナ工業団地に向かうときと同じく、自分たちの庭かのように路上に溢れて遊んでいた。運転手はけたたましくクラクションを鳴らすが、子供たちが飛びのいても、鶏や水牛といった家畜は動こうとしない。水牛は飼い主に引っ張られて脇に退くが、鶏はひかれそうになってからようやく必死に翼を羽ばたかせ始める。運転手は動物が相手のときはアクセルを緩めず――むしろ踏み込むことさえあった――鶏がタイヤとタイヤのあいだを運良く抜けて無事なこともあれば、ドスッという、まるで水をいっぱいに満たしたビニール袋が衝突したような鈍い音とともにひき殺されることもある。
だから鶏が車の前で羽ばたくのが見えるたびに、将人はその気持ち悪い音に備えて歯を食いしばった。なぜレックスや関内は「鶏をひくな」と一言命令しないのか、将人は不思議でならなかった。
そんなことを考えているうちに、車は新たな集落の中を通過していた。しつこいほど鳴らされるクラクションの合間に、もう何度目になるか、ドスッ、と言う音と衝撃がまた床から伝わってきた。苦々しい思いで将人が後ろを振り返ると、白い羽を赤く染めた鶏が、路上に倒れこんで痙攣していた。
運転手を見れば、口元にうっすらと笑みを浮かべている。
彼は鶏をひき殺すのを楽しんでいる――将人ははっきりとそう感じ取った。
レックスがようやくタガログ語で運転手を口調で諭した。運転手は「ソーリー・サー」と返して車の速度を落とした。
そのやりとりが面白かったのか、荷台にいた召使が、ふふっ、と静かに笑った。
本当にとんでもないところに来てしまったのかもしれない――恐怖すら感じながら、将人は額にじっとりと浮かんだ汗を手の甲で拭った。
数秒か数十秒か、ひょっとすると数分、将人は居眠りをしていた。
「ここが、ブエナペスカの養殖池です」
浅い眠りの中で突然響いたレックスの声で、将人はぎくりと目を覚ました。
熟睡している辰三が頭をもたせかけている右側の窓の向こう側には、五百メートルほど先に見える丘の根元まで池が広がっていた。管理された養殖池というよりは、稲を植える前に水を張った、ぬかるんだ田んぼのように見える。太いあぜ道で区切られたそれぞれの池の形もいびつで、水はどんより灰色に濁っている。こんな泥水の中で育つ魚で食用にできるとなれば、ナマズかドジョウ以外、思いつかない。
「ブエナスエルテ社まで、あと三十分もかからないでしょう」
左隣に座る関内が、誰にともなく言った。
コンクリートの道は、養殖池を過ぎた辺りから上り坂になった。きついカーブをいくつか超えて、小高い丘を上っていく。そこから同じようにカーブの多い下りに入り、丘を下り終えると、道はまた長い直線になった。
道を進むうちに、ニッパハウスに混ざって、木板の合わせ屋根を持つ住宅もちらほらと現れた。縦割りのヤシの幹を数本か乗り越え、道にあふれて遊ぶ子供たちの前を過ぎる。道を往来するジープニーやトライシクルの数も増えてきた。
アレンに近づいている――その景色を見ながら、将人は感じ取った。
大きな右カーブを抜け、道路が再び直線になったとき、道の両端から渡された〈アレンへようこそ〉というアーチが見えた。
到着した興奮からか、関内が大きな貧乏ゆすりを始めた。
辰三が目を覚まし、窓の外の景色を見つめて「もうマニラに着いたのか?」と聞いた。
〈↑カタルマン45キロ・↓カルバーヨグ71キロ〉と白文字で書かれた青い標識の横を通りすぎ、右にバスの待合所のようなものがある三叉路を左折する。
「あ、あそこだ」
辰三が身を乗り出した。
道の五十メートルほど先の左側に、巨大なコンテナが二機見えた。その脇を過ぎ、パジェロは〈ブエナスエルテ社〉と木の板に赤いペンキで書かれた立て看板の掲げてある脇道に入る。十メートルほど進み、粗末な小屋がいくつか建っている雑草だらけの空き地のような場所で止まった。
「さあ、到着です。お疲れ様でした」
関内が手をたたき合わせていった。
ブエナスエルテ社のビルはどこだろう、と将人は辺りを見渡したが、それらしいものは見当たらなかった。
「ブエナスエルテ社の建物はどこです? この道の先ですか?」
将人は辰三に小声で聞いた。
「そんなもんはねぇよ、これで全部さ」
「全部って――」将人は唖然とした。「こ、ここがブエナスエルテ社なんですか?」
「予想以上だろ」
辰三がにやりと笑った。
飛び出すように降りた関内とレックスに続いて、将人と辰三も、のそのそとパジェロを降りる。
将人たちが降りると、運転手は荷台に荷物と召使を乗せたまま、どこかへ走り去って行った。
「あれ、荷物持ってちまったぞ、あの運転手!」
「荷物を社宅に降ろしに行っただけですよ」
あやうくパジェロを追いかけそうになっていた辰三に、関内がなだめるように言った。
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