Locker's Style

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『橋の下の彼女』(21)

1999年7月5日(月)

フィリピン・アレン

 五十人以上の応募者たちは、二つの巨大なコンテナを背にして、焼けた鉄板のように熱いコンクリートの上に半円を描いてじっと座っている。その半円の中心で、リンドンが採用試験の概要を大声で説明している。
 そのまるで小学校の体育の授業のようなその光景を、将人は辰三と、少し離れた木陰から遠巻きに眺めていた。環境がまるで違うが、口を真一文字に結んでリンドンの説明を食い入るように聞く応募者たちの真剣な表情が、ラグナのTTCの食堂で就職試験を受けていたあの少女たちを思い出させる。
 リンドンは説明の合間合間に、同意を求めるように辰三に頷きかけるが、そのたびに応募者全員の緊張した眼差しが一斉に辰三に注がれる。
 辰三は、彼らの視線に耐えられなくなったのか、そのうち将人の背中に隠れてしまった。だから辰三に向けられていた応募者たちの視線が、今度は将人に注がれるようになった。
「よし、これで採点するのはお前だと思わせることができたぞ」
 辰三が背中の後ろでくすくすと笑った。
「勘弁してくださいよ本当に」
 将人はかぶりを振りながらも、また頷きかけてきたリンドンに苦笑いを返した。
 予想を大幅に超えて集まった応募者たちは、男女半々といったところで、年齢も、服装も、背格好も、それから肌の色までも千差万別だった。だぶついたタンクトップとハーフパンツに、キャップをうしろ向きにかぶった若者、ステージ衣装のようなラメのたっぷり入った大きなフリルのあるシャツと黒のロングスカートをまとい、髪をアップにして丹念なメイクを施している中年女性、アイロンの効いたシミひとつない白いシャツにスラックス姿の青年、よれよれのTシャツとズボンに、乾いた泥をたっぷり染み込ませている老婆――。
「見てみろよ、あいつらの顔――」辰三が将人の肩口からそっと顔をのぞかせた。「ものすげぇ形相だ。採用しねぇなら死んでやる、といわんばかりじゃねぇか」
「そこまではいわないでしょうけど、確かにみんな、恐いくらい真剣な顔つきですね」
「だけどよぉ、選ばなきゃならねぇんだよな、全員雇うわけにもいかねぇからよ」
 おそろしやおそろしや、とつぶやいて、辰三は将人の背中にまたすっぽりと隠れた。
「どうかしたんですか、タツミさん?」
 将人の背中で小さく身をかがめている辰三を見て、レックスが怪訝な顔で歩み寄ってきた。
 将人が理由を説明すると、レックスが大笑いした。その笑い声でまた応募者たちの視線がこちらに向いたので、辰三は慌てて将人の背中で身をかがめ、「告げ口すんじゃねぇ」とうしろから脇腹を思い切りつねってきた。
「タツミさん、まえにもお話しましたが、そんな心配はまったくいりませんよ。彼らにとっては、ブエナスエルテ社も、日本人のあなたたちも、手の届かない雲の上の存在なんです。採用されなくても当然だと考えますよ。なにせ中学校も出ていない、読み書きもできないような連中がほとんどでしょうからね」
 将人が辰三に通訳している最中、レックスが「レックスファミリーに楯突くやつはいないさ」と小声で言ってウィンクした。
 リンドンは試験の説明で驚くほどの用意周到さを見せた。勤務時間や給料などがマジックで大きく書かれたダンボールを紙芝居のようにめくっていき、言葉では応募者に伝わりにくいと思われる部分には、カラフルな図や表を使っている。
「昔からああいう性格なんですよ、リンドンは」レックスが肩をすくめた。「良くも悪くもね」
 大勢の応募者を前にして、緊張するどころか、むしろのびのびと楽しんでいるように見えるリンドンは、クラスを取り仕切っている学級委員長そのものに見えた。
「ね、いったとおり、たくさん集まったでしょ?」ライアンがアルマンを連れてやってきた。「九時三十分で締め切ったんだ。応募者がひっきりなしにやってくるものだから」
「この中に、トトみてぇに使えるやつがひとりでもいてくれるといいけどなぁ」ブエナスエルテ社の面々が増えて安心したのか、辰三は将人の背から抜け出すと、レックスの隣に並んで、彼と同じように腕組みして胸を張った。「とはいっても、選り好みしてる時間はねぇからな。贅沢はいってられねぇんだけどさ」
 そう願いますよ、とレックスが答える。
「ちょっといいかな――」アルマンが将人を脇に引っ張っていった。「かなりの美人を三人も見つけたんだ。あの子たちを優先して採用してほしいって、タツミさんに伝えてくれない?」
「言うだけは言ってみるけど」
 将人は笑った。
 それから十分ほどして、リンドンの説明が終わった。
 応募者たちは、リンドンに引き連れられてぞろぞろと加工場へ移動した。アルマンの言っていた三人の美人は、探すまでもなく見つけることが出来た。端整な顔立ちをした彼女たちは、老若男女さまざま応募者の中で別格のあでやかさを放っている。
「さすがフィリピンだな、あんな若くていい女がこんな仕事に応募してくるなんて日本じゃ考えられねぇよ」
 言って、辰三は彼女たちを食い入るように見つめた。
 普段はさんさんとしている加工場が、応募者たちでいっぱいになった。改めてその数に圧倒される。
 リンドンが声を張り上げ、応募者たちを加工場の左側のブロック塀に沿って並ばせた。列が長くなりすぎたので、実技試験のために中央付近に六つ並べてあった加工テーブルは、廃車のジープニーがある右側のブロック塀近くまで移動せざるをえなかった。。
 準備が整うと、リンドンが目を輝かせながら辰三のところにやってきた。
「タツミさん、お待たせしました。実技試験を始めたいと思います」
「いったい何人集まったんだ?」
 リンドンは手書きの名簿を指でなぞり、「百二十人です」と誇らしげに答えて、試験の過程を説明した。まず、テーブルの数が六台と限られているが、採点しやすいよう、各テーブルに四人ずつ配置する。六台のテーブルに各四人で一グループが二十四人。応募者を五つのグループに分け、五回入れ替えれば、百二十人の応募者全員を試験できる計算だ。
 試験が始まったら、課題を発表して、一つのテーブルにつき二回ずつ、辰三が手本を見せてまわる。そして、三の指導のもと、一人につき二匹だけ練習させるが、この時点では採点しない。練習が終わったら、本番用に別の一匹を配り、実際にさばかせて、それぞれの腕前を辰三が採点していく。グループ全員の採点が終わったら、次のグループと入れ替える。一次選考だけでは採用予定数の十六人にまで絞り込めなかった場合には、二次、三次と試験を続ける、というのが、リンドンが考えた大まかな流れだった。
「採点はするけどよ、応募者のまえじゃ、点数は絶対に言わねぇからな」
 将人が辰三の言葉を通訳すると、リンドンは声を上げて笑った。
「それでしたら、点数をメモしてあとで僕に渡してくださればいいですよ」
 辰三は頷きかけて、いやいや、とかぶりを振った。
「でもよ、メモしたら採点してるのが俺だってバレちまうじゃねぇか。かといって、連中から見えねぇとこまでいってリンドンに伝えてたら、誰に何点つけたか、歩いてるうちに忘れちまう。ただでさえフィリピン人なんてみんな同じ顔に見えるんだから――」
 ひとり言のようにぶつぶつと言っている辰三に、リンドンが、「これを使いますから心配いりません」と、クリップボードに挟んだ紙を見せた。そこには、加工場を真上から見下ろす正確な図面が書かれており、六台のテーブルにそれぞれAからFまでのアルファベットが、各テーブルには立ち位置に従って一から四までの番号が振られていた。
「一次試験では全員を採点する必要はないでしょう。『こいつはダメだ』とか、『こいつはぜひ採用したい』という応募者を見つけたら、この図面を見ながら、例えば『Aの一、合格』というように言ってくださればいいんです。もし応募者たちに聞かれたとしても、彼らはタツミさんが誰のことを話しているのかわからないというわけです」
 さすがだな、と辰三はリンドンの肩をたたいた。
「注目!」
 リンドンが大声を出すと、ざわついていた加工場が一気に静まり返った。秘密にするはずのクリップボードを、彼は応募者たちの前で指揮棒のように振りまわしながら、五つのグループに分けていく。
 そのあいだに、アルバート、イボン、ブノンとノノイが、鮮魚の入った〈ミナモト水産〉の大バケツを、それぞれ二人一組で一個ずつ加工場へ運び入れている。
 バケツからつかみ出され、テーブルに並べられていく魚の山を目にして、応募者たちからどよめきが起こった。魚の数だけでなく、冷却用のフレークアイスにも驚いているようだ。
 奥の調理場の流し台では、何十本もの出刃包丁を、トトが一つずつ手に取り、指先で刃の具合を確かめていた。研ぎの甘いものがあったのか、そのうちの何本かを研ぎ直している。
 リンドンに促されて、トトは各テーブルに四本ずつ、神器でも扱うかのように、両手で出刃を置いてまわった。
「『タツミさんがお前を加工場の責任者に推している』とトトに伝えたら、顔をくしゃくしゃにして大喜びしましてね。それからはもう、あの通り、暇さえあれば出刃を研いでいるんですよ」
 レックスが辰三に微笑んだ。その口調は、トトが現場責任者になることを認めたように聞こえた。
「まだ決まったわけではありませんよ、応募者の中には、あいつより腕の立つものがいるかもしれませんからね」
 しかしリンドンが、聞かれてもいないのに、そう強く付け加える。
 今日集まった応募者の誰かが代わりに加工場の責任者になったとしても、他社からの引き抜きや重役たちとの上下関係の問題が解決するわけではないのにな、と将人は思った。リンドンは、ライアンたちよりひときわ強い階級意識を、従業員たちに対して抱いているように感じられる。
 リンドンが最初のグループの応募者の名前を読み上げた。応募者たちはそわそわと六つのテーブルに分かれていく。すでに諦め気味で隣の応募者とおしゃべりを始める者もいれば、テーブルの上に並べられた鮮魚と出刃包丁をじっと見つめ、緊張で顔をこわばらせている者もいる。
 いきなり肘で脇腹を突かれて将人は飛び上がった。隣にアルマンがいた。
「ほら、あの子だよ、あれがまず一人目だ。タツミさんに、くれぐれも採用よろしく、と言ってくれよ」
 アルマンの視線の先にいるのは、長い髪を後ろでに三つ編みにしている、丸顔で目の大きい、二十代半ばに見える色白の美人だった。真っ赤な口紅が印象的だ。魚をさばく試験だということは承知しているはずだが、サテンのような艶を放つ白いシャツ、黒いミニのタイトスカートにハイヒールといういでたちだった。
「彼女はアマリア。二十四歳だ」ライアンがしたり顔で近づいてきた。「リンドンの名簿を盗み見てきたよ」
「女性の応募者に年齢まで聞くんだな、リンドンは」
 将人は苦笑いした。
「ライアン、あっちの二人はわかる?」
 アルマンが顔を突き出して聞く。
「クリスティとイザベラ。二十二歳と二十歳。驚くなかれ、彼女たちは姉妹だ」
 二人まとめて嫁に欲しい、とアルマンが大声で騒ぐと、応募者たちに説明を続けていたリンドンがいったん言葉を切り、アルマンにとがめるような視線を向けてきた。
「こういう状況でリンドンに冗談が通じないのはわかってるだろ、興奮するのはわかるけど、声を抑えろって」
 クリスティとイザベラという美人姉妹は、そっくりというわけではないが、顔立ちは確かに似ていた。アマリアとは対象的で、二人とも深い褐色の肌にピンク色の口紅をまとっている。服装も、Tシャツにジーンズでサンダル履きという色気のないものだったが、姉妹そろって、髪を高い位置でポニーテールに束ねていて、それが二人の逆三角形の輪郭にとても似合っていた。
「あの三人の中なら、ショウは誰がタイプだい?」
 ライアンがにっと微笑んだ。
「クリスティ」
 将人は即答していた。顔に幼さの残るイザベラと比べて、クリスティは背が高く細身で、少しだけ垂れた目が色っぽく見えるところなどは、まさに将人の大好きなタイプだった。
「そうだと思ったよ、あの子を見るショウの目つきがちがうもの」
「まいったな」
「僕はアマリアがいいな」聞かれてもいないのに、アルマンが答えた。「アレンに住まわせておくにはもったいない美人だよ、そう思うだろ?」
 アマリアは、他の女性たちとは一風違った、冷めたような雰囲気を漂わせている。そのすまし顔が『この会社は美人の私を必ず雇い入れるわ』とすら言っているように見える。
「確かに、あの子はどこか場違いな――」
「こらお前、さっきからなにをこそこそと悪巧みの会議してんだ?」
 辰三がそう良いながら険しい顔で近づいてきたので、将人は思わず口をつぐんで「すみませんん」と謝った。ライアンもアルマンも驚いて、辰三にぺこりと頭を下げる。
 すると、辰三は急に口元をゆがませ、将人の耳元に顔を寄せてささやいた。
「お前ら、あの美人のねぇちゃんたちのこと話してたんだろ?」
「あ、いえ、その――アルマンが、あの色白の赤い口紅の子がえらく気にいったというので、ぜひ優先して採用して欲しいと言ってます。それから、あっちの二人の姉妹も――」
「ちょっと、ショウ! タツミさんに僕の悪口を言ってるんじゃないだろうね?」
 アルマンが抗議する。
「せっかく君から頼まれたことを伝えてあげてるのに、邪魔するんなら言わないぞ」
 それなら続けてください、とアルマンがへつらうように言った。
「あのな、わかってると思うが、容姿で選んでる余裕はねぇんだよ。ただでさえ時間がねぇんだから。どれだけ即戦力になるか、その腕前だけで純粋に選ぶに決まってるだろ」
 辰三が真顔に戻ってピシャリと言うと、ライアンが「そのとおりです、すみませんでした」と謝った。
 その脇でアルマンが、「アマリア、包丁の扱い方、上手だといいけど」と泣くような声でつぶやく。
「ただし――」辰三が人差し指をぴんと立てた。「――選ぶのが難しいくれぇ、器用なやつがたくさんいたときはよ、まあその、容姿とか、年齢とか、そういうもんも考慮するかもしれねぇ。やっぱりさ、職場に花があると、元気が出るってもんだろ、違うか?」
 将人が通訳して聞かせると、ライアンとアルマンが「そのとおりです」と両手をたたいて大喜びした。
 辰三の手前、苦笑いした将人だったが、確かにクリスティのような美人が職場にいれば、毎日出社するのが楽しみになるだろうと思った。
「ちょっと君たち、いいかげんに静かにしてくれないか! みんなに僕の説明が聞こえないだろ。ただでさえタガログ語がわからない応募者も混じってるんだから」
 リンドンが将人たちに向けて、英語で怒鳴った。
 ライアンが、ソーリー、と降参するように両手を上げた。アルマンも慌てて同じポーズを取る。将人も彼らに続いた。
「リンドンは厳しくやりそうだなぁ。まあ、気合入れて取り組もうって気持ちは買うけどさ、最初からあんまり締めつけすぎると、新人さんたちが長続きしてくれねぇかもな。フィリピン人だからなおさらな」
 言いながら、辰三まで降参のポーズをした。
 リンドンは応募者に向き直り、説明を再開した。

 辰三は、一次試験の課題を干物用のヒラキに決めた。皮が薄い腹側から開いて、背中の厚い皮をつなげたまま残すので、初心者でも形になりやすい。カルバヨグで買い付けた鮮魚の中でも、在庫数が最も豊富なアジに似た魚を使う。
 それぞれのテーブルで一度ずつ、辰三が手本を見せていった。そのあまりに華麗な包丁さばきに、応募者たちがため息を漏らす。口をあんぐり開けて硬直する者、あきらめたといわんばかりに手にした出刃包丁をテーブルに戻す者、身を乗り出して出刃の動きを目で追うものなど、反応は様々だ。
 トトは、そうしろと言われたわけでもないのに、辰三のあとについてまわり、わからないからもう一度最初から見せてくれ、と応募者からせがまれたときには、辰三の代わりに魚をさばいて見せた。そんなトトの出刃さばきを見ながら、辰三は「こいつ、このまえより腕が上がってるぞ」と苦笑いしている。
 練習用の二匹の魚が与えられると、応募者たちが一斉に出刃を動かし始めた。三十秒もしないうちに、勝負を投げた者と、そうでない者の違いがはっきりと見て取れる。三十代過ぎの男性応募者はほぼ全員、致命的に不器用か、明らかに集中力に欠けていた。五十歳を過ぎていると思われる女性応募者の中にも、包丁を持つのは人生で初めて、と言わんばかりの危なっかしい出刃の使い方をする者もいる。
 まだ本番前の練習で、採点には含めないはずだったが、辰三はすでに数人を不合格に決めていた。手本とはまるで違うさばき方をする者、魚に触りたがらない者、手についた魚のにおいを嫌がる者、出刃を動かすときよそ見をする者などは、ほぼ例外なく、のちのち不良品や事故につながる問題を起こすという。
 彼らとは逆に、さすがに二十代から三十代の女性応募者たちの包丁さばきは秀逸で、二匹目で見事なヒラキを完成させる者もめずらしくなかった。だが、辰三をより驚ろかせたのは、十代後半から二十歳そこそこの青年たちが、彼女たちに負けず劣らずの器用さで出刃包丁を使いこなしていることだった。
「まいったなこりゃ、さすがにトトみてぇな化け物はいねぇけど、あの小僧どもの出刃さばき見てたら、〈金の卵〉って言葉を久しぶりに思い出したよ」
 辰三はそう言って満足げに何度も頷いた。
「今配った本番用の魚を手元に置いてください。それでは、試験始め!」
 リンドンの掛け声で、第一グループの試験が始まった。
 応募者の前では採点しないとあれほど息巻いていた辰三だったが、いざ本番の試験が始まると、応募者のあいだを歩きまわり、出来上がったヒラキを手にとっては、身の残り具合、背中の皮の厚さ、全体の形などを、時間をかけて審査していった。
 全員の審査を終えると、辰三はリンドンを加工場の奥の柱の影に呼び寄せ、図面を指差しながら、ひとりずつ点数を告げていく。リンドンは、図面と応募者名簿を照らし合わせながら、採点表に点数を書き込んでいった。
 たった二匹練習しただけだというのに、そのままでも製品で使えそうなほど美しいヒラキを作る者が三名もいた。まずまずの形にはなっている、というものも含めると、二十四人中、八名が合格基準点に達していた。
 第一グループの審査が終わり、第二グループと入れ替えられた。第二グループには、アルマンお気に入りのアマリアがいる。
 試験が始まった。アマリアの包丁さばきは中の上といったところだったが、彼女は第二グループでトップの点数を獲得していた。
 第三グループは、ひときわ料理慣れした女性が多く、半分の十二名が合格基準点を獲得した。クリスティとイザベラも合格者の中に入っていた。
 第四グループの試験を行うころには、合格は無理だとあきらめたり、自分の番が来るまで待ちきれずに勝手に帰ってしまう者も多くいた。そのせいで、もともと数の少なかった第五グループと合わせても十五名が残っていただけだった。
 一次試験が終わったのは、十二時十分前だった。
「それでは、一次試験通過者を発表します」
 ひとりずつ合格者の名前が読み上げられるたびに、応募者のあいだから大きな拍手が起こり、歓喜の声と失望のうめき声がそれに続く。
 発表の早い段階で、アマリアの名前が呼ばれた。アルマンはひと目もはばからず跳びあがって喜んだ。クリスティの名前もそのあとに続いた。数人を置いてイザベラの名が呼ばれ、姉妹は抱き合って喜んでいた。
 ライアンが「やったね」と言って将人にウィンクした。
 百名以上いた応募者が、一次試験で四十人にまで絞り込まれた。最初に集まった応募者の約三分の一が合格したことになる。辰三いわく、それは良い意味で期待を裏切る驚異的な結果だった。
 レックスが将人の脇に立った。
「ああいう美人がいると、男連中は進んで力仕事をするようになる。結果的に能率が上がるんだ」。
「辰三さんも、まったく同じことを言っていました」将人は微笑んだ。
「それで、君はクリスティが好みなんだって? どうだね、今からさっそくデートに誘ってみたら? 何なら、私から彼女に伝えて――」
「ちょっと待ってください――」
 彼女に向かって歩みだしたレックスを将人が慌てて引き止めようとすると、彼は「冗談だよ」と声を上げて笑った。
「二次試験は午後一時から始めます。それまでは自由に休憩を取ってください」
 リンドンが告げると、加工場に張り詰めていた空気が一気に和やかになった。
 合格者たちの中には、時計を持っていない者も多く、午後の試験に遅れることを心配してか、昼食抜きで敷地から出て行かない者もいた。落選した応募者たちの多くは、落ちこむ様子もなく、さわやかな表情を浮かべ、互いに談笑しながらぞろぞろと帰っていく。
 ところがそのとき、合格しなかった応募者のひとりが、リンドンに詰め寄って大声でわめき始めた。梅毒を患ったことがあるのか、鼻が削げ落ち、髪の毛が部分的にごっそりと抜け落ちている。やせ細ったその中年の男は、自分の顔や頭髪を指差しながら、顔を真っ赤にして声を荒げている。彼の唇の形も不自然で、そのせいか、口の中に物が詰まっているようなしゃべり方をしている。
 リンドンは、「公平に採点した」と言うように、手にした採点表を男に向けて振りかざしている。
 男は四番目のグループだった。彼がテーブルについたとき、辰三は「あいつが加工してるのを見たら、階級社会のフィリピンじゃ、ブエナスエルテの製品はもう買わねぇ、って客がでてこねぇともかぎらねぇ。でもよ、俺が欲しいのは、顔の良い人間じゃなくて、腕の良い人間だからさ」と、採点はまったく公平に行ったのだ。
 レックスがリンドンと男のあいだに割って入ると、男の怒りはさらに激しさを増した。
「俺はしらねぇぞ、刺されるならお前が刺されろよ」
 言って、辰三は加工場の一番奥の柱の影に隠れてしまった。
 突然、男が将人に向けて指を突き出し、充血した目玉で睨みつけながらつかつかと近づいてきた。将人は反射的に空手の構えをとってしまった。それが男を刺激したのか、彼は拳を高く掲げながら、将人めがけていきなり全速力で駆け出した。
 リンドンとレックスが、慌てて男を後ろから羽交い絞めにする。
「イボン!」
 レックスが大声を張り上げた。
 数秒も待たずに、サル顔のイボンが、サンダルで地面を打ち鳴らしながら加工場に駆け込んできた。レックスとリンドンが男を羽交い絞めにしているのを見るなり、イボンはにやっと笑いながら男に近づいて、彼の肩にそっと手をかけた。
 大声を出して暴れていた男は、イボンを見るなり、顔をひきつらせて押し黙り、すっかりおとなしくなって、へつらうような笑みすら浮かべた。
 てっきり将人はイボンが男を殴り倒すとばかり思っていたが、そうはせず、同情するような笑みを浮かべながら――ただし目はまったく笑っていない――なだめるように男の両肩をやさしくたたいている。。
 そうしているうちに、鼻の欠けた男はがっくりと肩を落としてすすり泣き始めた。
 イボンはレックスたちから男を引き受け、彼の肩に手をまわすと――慰めているようにも、逃げないように固定しているようにも見えた――プエナスエルテ社の敷地を出て表を走るコンクリートのアジアンハイウェイまで誘っていった。
 イボンは送り出すように男の背中を押した。男はおとなしく歩き出した。
 しばらく歩いたところで、男は将人たちの方に振り返り、泣きっ面で微笑みながら、詫びるように手を振ってきた。そして日本のODAで作ったアジアンハイウェイの上を、南へ向かって再び歩き始めた。
 イボンが戻ってくると、レックスが、よくやった、というように両手を広げて出迎えた。
 事情を説明するイボンの言葉を、ライアンが将人に通訳した。
「あの男の外見は生まれつきで、子供の頃からずっとバカにされてきたんだってさ。だから今日も『自分が合格しなかったのは容姿のせいだ』って思い込んだみたいで、つい感情的になったそうだよ。イボンは彼のことを昔から知っているから、彼に言ったんだ。『外見で落選させるくらいなら、お前には最初から試験を受けさせてない。試験用の魚だってタダじゃないんだから』ってね。率直に言うと、もしこれがフィリピン人の会社、それも食品関係なら、彼は試験を受けられないどころか、敷地にも入らせてもらえないだろうね。彼が泣き出したのは、イボンが『日系企業が君を公平に扱ってる証拠だろ』って言ったときだってさ」
「やっぱり、彼は雇ってあげたほうがいいんじゃないかな」
 将人は思わず同情してそう言ったが、ライアンは首を振った。
「でもそれだけが理由じゃなくて、彼はマフィアにかなりの借金をしてるんだ。あと数週間のうちに返済しないと、命に関わるかもしれないって」
 だとすれば、仮にブエナスエルテ社が雇わなかったばかりに、あの男がマフィアに殺されるようなことになれば、試験は公平に行った、と言って済む問題でないような気がした。
「同情することはないよ」そんな将人の内心を読み取ったかのように、ライアンが続けた。「マフィアに借金するってことは、娼婦か、闘鶏か、麻薬――そのひとつかふたつ、またはみっつ同時に、とんでもない金をつぎ込んだからに決まってるんだ」
 そのとおり、というように、レックスとリンドンが大きく頷いた。
 将人はそのやりとりを、また柱の裏から出ようとしない辰三にも通訳して聞かせた。
「僕は、あの彼を雇ってあげてもいいんじゃないかと思うんです」
 眉間に皺を寄せ、しばらく考えてから、辰三は答えた。
「気持ちはわかるけどよ、お前、あいつの出刃さばき見てねぇだろ? 三匹とも、横にぶつ切りにして、胸を張って俺に見せてきたんだ。たぶん――」辰三はこめかみの辺りを人差し指で突いた。「――器用さとかのまえに、こっちもどうにかなってるよ」

 メイドのサンが作った昼食をクリスが社宅から運んできた。いつものように加工場の屋根の下で、レックスやライアンたちとともにガーデンテーブルを取り囲む。
 一次選考通過者たちは、ブエナスエルテ社の敷地に生える木々の木陰で、小さなグループになってかたまり、楽しそうに昼食を取っていた。ライアンは食事を終えると、アルマンを連れて、そんなグループに声をかけてまわった。アマリアとクリスティ、イザベラの三人のグループにも、ためらいもなく歩み寄って輪に加わり、昔からの知り合いのように談笑を始めた。
 昼休みも終わりに近づいて、ライアンとアルマンが加工場に戻ってきた。
「美人なだけじゃなく、話しても楽しいよ、あの子たちは」
 ライアンが言った。
「だけどショウには残念な知らせがある。クリスティは英語がほとんど話せないよ」
 アルマンが嬉しそうに言った。
「アマリアはけっこう話せたじゃないか」
「いや、それほどじゃない。もし話せたとしても、ショウ、彼女には話しかけないでくれよ」
 彼女に対する露骨な関心を隠そうともしないアルマンが面白くて、将人は「わかったわかった」と大声で笑いながら答えた。
「なんだ、アルマンはあの赤い口紅の子が好きなのか?」
 辰三が横から口を挟んだ。
「好きというか、もう完全に惚れてますよ。彼女を採用しなかったら、アルマンから〈ブスリ〉とやられるかもしれません」
 答えて、将人はくすくすと笑った。
「今回雇うのは何人だっけ?」
 辰三が聞いた。
「十六人の予定です」
 リンドンが答える。
「十六人か――」辰三が腕組みした。「実はな、昨日まではよ、加工係の中から交代で四人を梱包係に割り振ろうと思ってたんだ。でもな、試験やってみて感じたんだけどよ、あれだけ器用な連中がそろうなら、加工のスピードは予想よりかなり速くなる。だから、魚をさばく加工係と、できあがった加工品を袋詰めする梱包係を分けて雇った方が、作業の効率は良くなると思うんだよ。どうせなら、加工係を十六人にして、別に梱包係を四人雇うってことはできねぇか?」
 将人がレックスたちにその提案を通訳しようと口を開きかけたとき、辰三に「ちょっと待て」と止められた。
「アルマンお気に入りの赤い口紅の、アマリアだっけ? あの子の出刃さばきだと、公平に採点すりゃ、二次試験ではまず落ちる。それから、アマリアと一緒に座ってる美人の二人――なんだ、姉妹なのか――そう、あの子らも、十六人に残るかは微妙だ。でもな、梱包係としては最適じゃねぇか? 若い女ってのは、きれいに物を並べたりしまったりするのが上手だしな」
「なるほいど、そういうことなら、アマリアたちの採用も公平だってことになりますね」
 将人は辰三の提案をレックスに伝えた。
「実は採用人数を増やそうと、私も提案しようと思っていたところなんですよ。実際に作業が始まったら、嫌になって辞めてしまう者が何人かいるかもしれませんからね。ブエナスエルテ社の本格稼動のための人員確保ですから、こんなところで人件費どうのこうのなどど言っていられません。いっそのこと、加工係を二十人、梱包係を四人雇うことにしましょう」
「何だか順調じゃねぇか。関内さんがいねぇと、やっぱいろいろとスムーズに進むな」
 辰三が言ってレックスと握手を交わすと、後ろでアルマンが手を打ち鳴らして歓喜の声を上げた。

 二次試験の課題は、フライ用のヒラキになった。干物用のヒラキの加工に、頭を落として背骨を抜き取る工程が加わる。
 試験が始まると、本来は難しい背骨の抜き取りも難なくこなすものが続出し、結局五名ほどを苦渋の決断で落選させるのが精一杯で、結果、ミルクフィッシュの切り身を課題にして、三次試験まで行うことになった。
 三次試験が終わるころになっても、求人を見てやってきた、とブエルスエルテ社を訪れる者があとを絶たなかった。
 最終選考結果が発表されたのは、日も傾きかけた午後四時近くだった。
「以上、二十四名が最終合格者です。名前を呼ばれた者は、明日から研修を始めますので、朝八時までに、この加工場に集合してください」
 リンドンが英語で言ってから、タガログ語で繰り返した。なぜいつも二つの言葉で話すのかとライアンにたずねると、サマールの住民の中には、タガログ語が理解できないものもいるので、念のため、二つの言語を使うのだ、という返事だった。
 アマリア、クリスティ、イザベラの三人は、予定通り梱包係として採用された。
 アマリアがアルマンに歩み寄って、抱擁を交わした。
 将人がその光景を驚いて見つめていると、ライアンが近づいてきて言った。
「アルマンのやつ、昼休みに『君が合格できるよう、僕が特別に取り計らうよ』ってアマリアに言ったんよ」
「彼のそういう性格、あきれるを通り越してむしろうらやましいよ」
 将人はかぶりを振った。

 加工係として採用された二十人の男女比はほぼ半々で、男は二十前後の若者ばかり、女は三十代から四十代の中年がほとんどだったが、二十歳そこそこの、器量の良い女の子たちも数名いた。ほかに、アマリアたちとは逆の意味で目立っていた、漆黒の肌と、アルバートに巻けず劣らずの強いくせ毛が特徴的の、かなり恰幅の良い女性も合格していた。
「ねえ、タツミさんは、ああいうのがタイプなのかな?」
 ライアンがその太った女性に目配せしながら、将人に向けていたずらっぽく笑った。
「いや、そういうわけじゃないと思うけど――」
「何をコソコソ話してやがるんだ? まさか俺の人選に不満でもあるのか?」
 タツミさん、というライアンの声を聞き取ったらしい辰三が、横から顔を突き出してきた。
「あ、いえ、何でもありません、ただ――」
「〈太っちょさん〉のことか?」
 辰三は、ライアンの露骨なしぐさで、通訳するまでもなく、話の内容を理解したらしい。
「お前らな、仕事の上では女の外見をどうこう言うもんじゃねぇぞ。それにな、あの〈太っちょさん〉はよ、今日の試験じゃ一番か二番の腕前だったんだぞ。いいかライアン、お前がそんな風に従業員をバカにすると、あの子が腕を上げたとき、仕返しだといわんばかりに、よその会社に引き抜かれちまうかもしれねぇぞ」
 ライアンが「すみません」と辰三に頭を下げた。
 辰三が加工場の外に出てタバコを吸い始めると、ライアンが「つまりタツミさんは太めの女性が好きだってことだね」とつぶやいたので、将人は両手で口を塞いで笑いをこらえなければならなかった。
 レックスが辰三の隣に立った。
「今日はお疲れになったでしょう」
 辰三は実際に疲れた様子で、低くなった太陽に向って、ふぅっとタバコの煙を吐き出しながら大きく頷いた。
「しっかし今日は驚かされたよ。フィリピン人に器用なやつがこうも多いとはね」
 レックスがにこやかに頷き返した。
 辰三はタバコを咥えたまま、加工テーブルを歩いてまわり、フレークアイスの上に載せられたままのヒラキや切り身を手にとっては、満足げな顔でビニールパックに詰めていった。
「今までのところ、怖ぇくれぇに順調だ。ただし――」辰三が、テーブルの上の出刃を取り上げて、将人に刃先を向けた。「ブスっとやられなけりゃ、の話だけどな」
「今夜は部屋のドアにかんぬきをかけます」
 将人は微笑んだ。
 そのとき、アルマンの「ああ、愛しのアマリア!」と叫ぶ声が加工場に響いた。見れば、彼は表の道路を歩いていくアマリアの背中に向けて、ジュリエットに求愛するロミオさながらに、両手を伸ばしてひざまずいている。
 加工場にいた全員が、張り裂けんばかりの笑い声を上げた。

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