Locker's Style

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『橋の下の彼女』(38)

1999年7月22日(木)

フィリピン・アレン

 力強いリズムを奏でながらメインストリートを進む鼓笛隊の演奏が、朝だけでなく昼間にも、頻繁に聞こえてくるようになった。ブエナスエルテ社の前の道路を行き来する通行人たちの中にも、バロン・タガログ(長袖の白い正装)や、祭り用の派手な衣装を着ている人が少なくない。
 従業員たちも、鼓笛隊の演奏が聞こえてくるたびに、わずかのあいだだけ出刃を止めて、メインストリートの方へ顔を向ける。日本でいえば催しものを告げる花火の音が聞こえてきたようなものだろうな、と将人は思った。
 だが辰三は今日も、まるで機械になったかのように黙々と出刃を動かし続けていた。普段なら朝一番で、どの魚をどう加工するかといった指示をリンドンに与えるのだが、それすらしなかった。しかしリンドンは大して動じる様子もなく、「もうやることはわかってるから、タツミさんの指示がなくても大丈夫」と、各テーブルにてきぱきと指示して回った。
 辰三が誰とも口を聞かず、目も合わせず、勝手気ままに加工をしているというのに、加工場の作業は滞ったりせず、むしろいつも以上に順調に進んでいる。この状況は喜ぶべきことである反面、辰三に、もはやあなたは無用の存在だ、と告げているも同然だった。こんなことでは辰三に帰国を翻意させるどころか、逆に後押しすらしているも同然だということに、リンドンはまるで気付いていないようだ。
「ほら、祭りに気を取られてないで、仕事に集中!」
 現場の全てを自分の裁量で動かせるのが楽しくて仕方がない、といった顔で、リンドンは意味もなく短いホイッスルを吹いてまわっている。
 辰三は、そんなリンドンの声高の指示が飛ぶたびに、険しい顔をわずかに上げて他の加工テーブルを見まわす。鮮やかな手つきで出刃を動かす加工係たちは、辰三の目がなくても、おそらく彼ら自信のプライドで、製品の仕上がりに妥協を許してはない。
 ブエナスエルテ社は確かに成長している。しかし今まで将人が聞いた話を総合すると、ミナモト水産が〈ミツオカプロジェクト〉に出資したのは、将来的に投資した以上の金が戻ってくるのを期待してというより、ミナモト水産の社歴に残る何かしらの実績を辰三に残させるためだ。つまり、辰三がこれ以降、〈ミツオカプロジェクト〉に関わらないとなれば、ミナモト水産が投資を引き上げるような事態にもなりかねない。良い意味でも悪い意味でも、現場一辺倒のリンドンドは、そのあたりの裏事情にはかなり疎いと将人は感じざるを得なかった。
 将人はため息をつきながら、ブエナスエルテ社の敷地をぐるりと見渡した。
 きれいに魚がさばけると、得意げな笑みを浮かべてかざして見せる加工係たち――ただひたすら製品を袋に詰めていくだけの作業を、にこやかにこなす梱包係たち――青い顔でコンテナを出入りしているイボンとブノン――自分の体重ほどもあるバケツ氷を担いで行ったり来たりを繰り返すアルバート――。
 一日わずか百五十ペソかそれ以下の賃金で懸命に働く彼らと、そんな彼らの何年分か何十年分かに匹敵する役員報酬を毎月受け取っているにも関わらず、加工場の隅でふてくされている辰三――。
 将人の中で、再びあの疑問が鎌首をもたげた――資本主義社会とは、結局は搾取社会なのか?――いっしょうけんめい働く人間が一番損をする社会なのか?――そして、それを恥じることも忘れてしまった貪欲な資本家たちだけのための社会なのか?――。
 嫌なら会社を辞めればいい。確かにそうかもしれない。彼らは捕らわれの奴隷というわけではなく、志願してここで働いているのだ。将人とてしかり。ティサイのことを考えれば、これkらも通訳としてミナモト水産に雇われることが最良の選択だということはわかっている。将来的に正社員登用されるならなおさらだ。
 しかし、と将人は考えた――もしミナモト水産の正社員になれば、〈ミツオカプロジェクト〉においては、〈雇われ通訳〉という中立的な立場から資本家側にぐっと近くなる。数千万を投資した新規事業の立ち上げで職務放棄しても、親族というだけで解雇されるどころか懲戒処分を受けることもなく役員に留まることができる会社に従属し、ブエナスエルテ社の従業員たちを搾取することに協力し、その見返りとして、ティサイの人生をやり直させることができるだけの報酬を手にする、ということも同じになってしまうのではないか――それでは他人を犠牲にして自分のエゴを追及する資本家の考え方と同じではないか、と。
「おい、ショウ!」
 辰三の突然の呼びかけに、将人だけでなく加工場の全員が一斉にびくりとした。
「はい!」
 将人は我に返ると、慌てて辰三に駆け寄った。
「あのテーブル、見てみろや」
 辰三は三列に並んだ加工テーブルの中央の列に向けて顎をしゃくった。
 見ると、リンドンがフィリピン人向けといって買ってきた、グロテスクな魚をヒラキに加工している。
「現地人向けって言ってた、あの気味の悪い魚ですね」
「ところがどっこい、あのバカども、普通にパック詰めして、もう何度か計量所へ運んでいきやがった。サンパブロに運ぶつもりだとしか思えねぇ」
「さすがにそれはないでしょう。きっとアレンの道端で売るか、従業員のまかない用に分けてとりあえず冷凍するつもりじゃないでしょうか」
 辰三が出刃を加工テーブルに突き立てた。従業員たちがざわつく。
「おい、今は会社の立ち上げ時期の一番大事なときだって、わかってるよな? 関内さんにたくさん売ってもらうために、一パックでも多く製品を出荷しなきゃならねぇって、わかってるよな?」
 だったらふてくされてないでしっかり監督したらどうですか、と言い返したい気持ちを押し殺して、将人は「もちろんです」と答えた。
「わかってんなら、あのテーブルの魚をとっとと片付けさせろ! 何のためにお前を雇ったと思ってんだ」
 将人は問題のテーブルに駆け寄って、リンドンを呼び寄せた
「何か問題でも?」
 リンドンがあっけらかんと聞いた。将人は辰三が言ったことをそのまま伝えた。
「ああ、この魚はサンプルでAMPミナモトに送るんだよ。袋にも、しっかりマジックで〈サンプル〉と書いてある。タツミさんが選んだ魚種が、一年を通して安定して買い付けられるとは限らないだろ。万が一の場合に備えて、比較的供給の安定しているこういう魚も、日本人向けに販売できるかどうか、実物を見て判断してもらおうと思ったんだ」 
「それは一理あるね」
 将人が頷きながら顔を上げると、いつの間にか辰三がリンドンのうしろに立っていた。将人はリンドンの意図を伝えたが、辰三は聞く耳持たず、テーブルの上に並んだ、グロテスクな皮をまとったヒラキを、汚いものでも扱うように二本指でつまみ上げては、地面へ放り投げ始めた。
「ちょっとタツミさん、何やってるんですか! 余計な口出ししてる暇があったら、さっきみたいにひとりで好き勝手に加工しててくださいよ」
 リンドンは地面に投げ捨てられた魚を広いながら、辰三を追い払うように手を振った。
 辰三の顔が真っ赤になり、醜く歪んだ。
 加工係たちの表情が凍りつく。
 リンドンだけが、辰三の形相の変化に気付いていなかった。
「どうしたんだショウ、はやくタツミさんに通訳してくれよ」
 リンドンがとがめるように言った。
「通訳できるわけないだろ」
「なぜ?」
「なぜって、『好き勝手に加工しろ』だなんて、まるで従業員扱いじゃないか。いいかい、いくら職務放棄したも同然だからって、辰三さんは君たちの会社に何千万も投資したミナモト水産の役員だってことに変わりないんだぞ。見方によっては、レックスですら辰三さんの部下と言えるんだ。君だってこの会社の重役なんだろ、だったらそういうところも、もっと深く考えろよ」
 リンドンの顔に蔑むような笑みが浮かんだ。
「考えてるさ、いや、むしろ考えたからこそ痛感させられたんだ。朝から何の指示も出さずに、むすっと押し黙ってるだけでミナモト水産では役員が務まるんだってね。まあ見ての通り、僕はもう誰かに指示を受けなくても現場を切り盛りできる。日本に帰りたい人にはとっとと帰ってもらえばいいさ。それにしても、僕は以前、ミナモト社長と話をさせてもらったことがあったけど、立派な人だったね、どこかの誰かと兄弟だなんて、とても信じられないよ」
 それを言うなら君とジョエルだって同じだろ、と将人は言いかけた。
 リンドンのうしろでは、辰三が口を真一文字に結んで、テーブルの上に戻されたヒラキを、思い詰めたように見つめている。
「そもそもね、百人以上の応募者の中から選び抜いた従業員の女に手を出したあげく解雇するなんて最低じゃないか? ショウはどう思うんだ? いくら相手がアマリアだとはいえ――」
 アマリア、という言葉が吐かれるやいなや、辰三が鬼の形相になった。赤い顔がどす黒くなり、額に太い血管が浮かび上がる。
「おいコラ!」辰三は唸るように言って、リンドンの襟首をひねり上げた。「お前は何で俺の言うことが聞けねぇんだよ」
 言って辰三は地面に落ちて汚れたヒラキをわしづかみにすると、リンドンの顔に押し付けた。
「うえっ!」
 リンドンは思い切り辰三の手を払いのけると、顔に張り付いた魚の残骸を慌てて引き剥がした。背骨のついたままのヒラキを押し付けられた彼の頬から、点々と血が滲み出す。
「何をするんだ! ちょっとショウ、この人を何とかしてくれよ!」
 地面にしゃがみこんだリンドンにまだにじり寄ろうとしている辰三を、将人はうしろから抱え込んだ。
「落ち着いてください、辰三さん!」
「ミナモト水産がどんだけの金をこのプロジェクトにつぎ込んだか、お前はわかってんのか! ぜんぶ無駄になっちまうかもしれねぇんだぞ! お前が勝手なことをしたばっかりに、ぜんぶ無駄になっちまうかもしれねんだぞ!」
 辰三は将人に腰を押さえつけられながらも、自由になっている両手でテーブルの上のヒラキをつかみ上げ、加工場のそこらじゅうに投げ始めた。
 確かに、このグロテスクな皮をまとったヒラキを、日本食です、と出されたら、あのTTCの日本食テナントに日本人は寄り付かなくなるかもしれない。だが、角の立つほど丁寧に仕上げられたそのヒラキが、加工場のコンクリートの地面に投げ捨てられていくのを見守る従業員たちの悲しそうな顔に気付いた途端、将人は全身の血が沸騰するような感覚がして――気付くと、加工場の奥の壁に辰三を投げ飛ばしていた。
 荒いセメントでつながれただけのブロック塀は、背中からたたきつけられた辰三の体重を受け止めきれず、まるで積み木のように崩れ落ちた。
 粉々になったブロック塀の中で、辰三がきょとんとした顔で将人を見返した。
「いい加減に目を覚ましたらどうですか?」言いながら、将人は自分の頬に涙が伝わっていくのを感じた。「このままじゃ、本当に何もかもダメになってしまいますよ」
「このままもクソもあるか」辰三がゆっくりと立ち上がった。肘がすりむけて、血がにじんでいる。「最初から無謀だったんだよ、ブエナスエルテ社を俺ひとりに任せるなんて」
 吐き捨てるように言うと、辰三は足早に加工場から出ていき、リーファーコンテナの脇の芝に腰を下ろしてタバコを吸い始めた。
 足音がして振り返ると、ライアンが小走りで加工場に駆け込んできた。あたりを見まわしてから、硬直している従業員たちにむけて、「さあ、作業を続けて」と声を上げながら、屈辱の表情で地面にうずくまっているリンドンをそっと引き起こした。
 将人は、目じりに溜まった涙を指で拭いながら、ライアンに頷きかけた。もはや、何があったのかをいちいち口に出して説明する必要はなかった。
「父さんを乗せた飛行機は、マニラを十時に飛び立った。もうじき十二時だから、すでにカタルマンに到着していると思う。午後の早い時間にはアレンに着くはずだ。とにかく、あと少しだけ持ちこたえて欲しい」
 辰三の精神状態が限界に近いのは明らかだった。リーファーコンテナを支えるシャシーに寄りかかりながら、血が出るのではないかと思うほど頭髪をかきむしっている。火をつけたタバコも、先端から一センチも吸わないうちに投げ捨て、また新しいタバコに火をつけている。
 レックスでも、さすがにこの状況を見たら動揺するだろうな、と将人はため息をついた。

 パジェロがカタルマンに行っているので、昼休みはトライシクルを使って会社と社宅を往復した。
 悪路を走るトライシクルの狭いサイドカーに口を尖らせて座っている辰三の顔は、すねた子供そのものに見えた。

 午後一時を過ぎても、パジェロは戻らなかった。リンドンと顔を合わせにくいからか、辰三は加工場で作業せず、リーファーコンテナと見張り小屋のあいだを、タバコをくわえながら、ただうろついていた。それを見かねたライアンが、見張り小屋の簡易ベッドで休んだらどうかと勧めた。辰三は返事こそしなかったが、そそくさとベッドの上に横になって、腕組みしたまま目を閉じた。
 驚いたことに、数分もすると辰三は豪快ないびきをかきはじめた。将人はそっと見張り小屋を出て、軒下の日影にしゃがみこんだ。
「ここのところ、タツミさん、あまりよく眠れてなかったんじゃないかな」
 ライアンが言った。
「ああ見えて、けっこう繊細だからね」将人は答えた。「そういう君だって、最近はずっと目が充血してるじゃないか」
「悩んでると、眠りがとても浅くなるんだ。体は寝ていても、頭だけはずっと起きてるみたいでさ」
「君の悩みって、やっぱり彼女のこと?」
 ライアンは苦笑いを返事の代わりにした。
「ショウも昼寝したらどう?」
「とても眠れるとは思えないけど、そうするほかなさそうだね。辰三さんがこんなだから通訳も必要ないし」
 ノノイが軒下に簡易ベッドを運んできた。将人は礼を言って横になった。
 日影を吹き抜ける湿った生ぬるい風が、地面から照り返す太陽の熱をいくぶんか和らげた。全身からじっとりふき出した汗が、風で冷やされて体温が下がってくると、途端に強烈な眠気が襲ってきた。


 乱暴にゆすぶられて目を覚ました。仰向けで寝ていた将人の顔を、辰三が上からのぞきこんでいる。
「おい、衛星電話用意しろや」
「あ、はい、今すぐ用意します」
 寝ぼけ眼でGショックを見ると、まだ二時になっていなかった。何時間も寝たように感じたが、三十分も経っていない。
 簡易ベッドから体を起こすと、見張り小屋の先にパジェロが止まっているのに気付いた。驚いて辺りを見まわすと、加工場で仁王立ちしているレックスの姿が目に入った。
 久しぶりに見るレックスは、マカティのオフィスから直行してきたのか、糊の効いたワイシャツにネクタイ、スラックスに革靴といういでたちだった。アレンではまず見かけない服装だ。
「ああ、レックスが戻ったんですね」
 辰三はむすっとしたまま返事をしなかった。
 将人が衛星電話を取りに加工場へ走っていくと、レックスがにこやかに頷きかけてきた。さっきまで凝り固まっていた従業員たちの顔に安堵が見て取れる。
 王の帰還――将人の頭に、ふとそんな言葉が浮かんだ。
「お帰りなさい、ミスター・レックス。お待ちしてましたよ」
「やあ、ショウ、久しぶりだね。ずいぶんと頑張ってるそうじゃないか。氷を運んでくれてるんだって?」
 レックスの口調があまりに陽気なので、ライアンはまだ辰三のことを話していないのだと思った。
「みんながあまりに働き者だから、じっとしていられなかっただけですよ」将人は廃車のジープニーに歩み寄ると、衛星電話を荷台から引き出した。「それより、辰三さんのことで、お話があるのですが――」
「大まかな話は聞いたよ」レックスは笑みを崩さなかった。「こうなってしまった責任は私にもある。日本に衛星電話をかけるんだね。あとで頃合を見はからって、タツミさんと腹を割った話し合いをするつもりだから、その際は通訳をよろしく頼む」
 わかりました、と将人は答えた。
「いいかい、タツミさんがどんなに汚い言葉を使おうとも、ありのまま通訳してほしいんだ。タツミさんに今の気持ちを洗いざらい話してもらうこと、そしてそれが相手にしっかりと伝わっていると感じてもらうことが大事だからね。タツミさんの素性は関内さんから聞いていたから、こういう事態も起こりうるだろうと、実はあらかじめ予測してはいたんだよ。大丈夫、私はタツミさんを説得できると思う」
 将人は「お願いします」と大きく頷き、衛星電話を抱えて辰三のところへ走った。 
 百万の援軍を得たような気分だった。

 辰三が電話した先はミナモト水産だった。予想よりも仕事が順調に進んだので帰国を早めたい、と語る辰三の言葉を信じきっている源社長は、昨日のうちに関内と折衝を済ませており、日本行きの航空券は八月二十七日、つまり来週の火曜のものをすでに用意させたとのことだった。関内は辰三を少しでも長くサンパブロに引き止めておきたいらしく、何と明日金曜の便でサマールを発つよう要請したらしいが、そこは源社長が頑として譲らず、結局、日曜日の便でサンパブロに戻ることになるらしい。長い晩酌に同じように苦しめられたであろう源社長だけに、辰三がサンパブロにいる時間をなるべく短くしてやりたいという気遣いがあるのは明らかだった。
「いろいろと手間をかけさせて悪かったな。助かるよ」
 ほっとしたのか、うしろめたさからなのか、辰三の口調は、いつもの源社長に対するものとはまるで違う、やわらかいものだった。
『いやいや、お前こそよくサマールで三週間も持ちこたえたよ。俺ならせいぜい三日が限界だろうな』
 辰三がひきつった笑みを浮かべた。
『そういや、持っていった便座は役にたったのか?』
「ああ、あれな、ぜんぜん使わなかったよ。もう便座なしのトイレでも立派に用を足せるようになったんだ。見せてやれねぇのが悔しいよ」
『そういうのはな、写真に撮って、自分の女房にでも見せてやればいいんだよ』
 受話器から源社長の大笑いが響いた。つられるように、辰三もひくひくと息を吸うように笑ったが、その声も顔も、将人には泣いているかのように見えた。
 何から何まで本当にすまねぇ、と謝るように言って、辰三は電話を切った。

 将人が加工場へ戻ると、レックスが、ライアン、リンドン、アルマンの三人を横一列に並べて、加工場の従業員たちの目の前にもかかわらず、激しく叱責していた。
 将人に気付くと、レックスは表情を緩めて近づいてきた。
「今彼らから詳しい報告を受けたところなんだが、まさかここまでひどい状況になるとはね」レックスはおどけるように眉を大きく持ち上げた。「確かに私は、もし必要ならタツミさんに女の世話をしてやれ、とは言ったが、ジョエルはやりすぎたようだ。アマリアとの関係はあくまでビジネスだと、最初にタツミさんに告げておくべきだった」
 もっともです、と将人は頷いた。レックスの叱責を恐れたジョエルが、昨日の朝一番で養殖池に逃げ帰ったのも頷ける。
「それで、タツミさんは電話で誰と何を話していたんだい?」
 将人は、辰三と源社長との間で交わされた話の内容を伝えた。
「私の知る限り、セキウチさんはマニラ行きの国内線を予約していない。していたなら、昨日の時点で私に伝えていたはずだよ、なにせマカティのオフィスで一緒に仕事していたんだからね」
「国内線を予約しないことで、帰国を強引に延期させるつもりなんでしょうか?」
 関内は、本来はフィリピン到着後二、三日のうちにアレンに移動してブエナスエルテ社の技術指導を始めるはずだった辰三を、サンパブロに一週間も留め置き、AMPミナモトの従業員指導にあたらせたのだ。今思えば、あのときも国内線の手配を遅らせるという同じ手口を使ったに違いない。
「セキウチさんは、ブエナスエルテから届いたばかりの製品の調理法を、AMPミナモトのカルロたちにみっちり教え込んでもらいたいはずだ。だが、ミナモト社長の言うとおりに航空券を手配してしまったら、タツミさんが向こうで指導できるのは、月曜一日だけになってしまうだろ」
「つまり、帰国されるくらいなら、サマールに足止めしておいたほうがまだましだと?」
「セキウチさんが本気でそういうことをやりかねない人だって、君も何となく気付いてるんじゃないか?」
 見事に内心を見透かされてしまい、将人は苦笑いした。
「でも辰三さんを無理やりサマールに足止めしたりすれば、事態はさらに悪化しますよ。何と言うか、今の辰三さんは、精神的に普通でないように見えます」
 雑草の上に座り込み、タバコに火をつけては消してを繰り返している辰三を、レックスは寂しげな顔で見つめた。
「私が以前、メトロバンクのミンダナオ島統括支局の副局長を務めていたのは話したね。その当時、仕事の重圧に耐えかねて、ああいう精神状態になってしまう同僚や部下を何人も目にしたよ。自殺未遂を犯した者も一人や二人じゃない」将人に視線を戻すと、レックスはにこりと微笑んだ。「そして、彼らの愚痴を聞き、話し合い、励まし、解決策を見つけ出し、元通りの自分を取り戻させたのも、一度や二度じゃない」
 言葉だけでなく、その顔つきからも、満ち溢れるような、それでいて押し付けがましくない、確固たる自信と信念が、レックスから湧き出してくるようだった。
「だから私に任せてくれ。だがそのまえに、セキウチさんと話さなければならないな。タツミさんは物じゃないんだ、こんな方法で引き止めたら、もう二度とフィリピンに来るものかと思うようになっても不思議じゃない」
 やはりレックスは王だ――将人は心の底からそう感じた。

 持っていたタバコを全て吸い尽くしてしまった辰三は、そそくさと加工場に戻ってくると、また何かに取り憑かれたような薄笑いを浮かべながら魚をさばき始めた。
 リンドンは、ときおり辰三に向けて腐ったものでも見るような冷たい視線を送りながら、臆することなく従業員たちに声高に指示を飛ばした。その顔には、小さな絆創膏が三つ貼られている。
 三時過ぎに、レックスが電話交換所から戻ってきた。将人は見張り小屋に呼ばれた。彼の曇った表情からして、関内との話し合いが和やかに進まなかったのは明らかだった。
「セキウチさんが何と言ったと思う?」レックスは将人に苦笑いを向けた。「『タツミさんをそれだけ長いあいだ引き止めたんだから、加工技術も相当向上していることだろう、さぞかし歩留まりも良くなったはずだから、卸値をまた見直さないといけないね』だとさ」
 老眼鏡を鼻先に乗せて、明け方に夢遊病患者のように社宅を歩きまわっていた関内の姿を、将人は久しぶりに思い出した。
「ところで、国内線を予約するのに、君とタツミさんのパスポート番号が必要だ。すまないが、タツミさんからパスポートを預かってきてくれないか?」
 わかりました、と将人は加工場へ向った。帰国の手配が滞りなく進んでいることを辰三に感じさせることができれば、気持ちが落ち着くのではないかと思えた。
 ところが、辰三は開口一番、こう言った。
「さてはお前、レックスとグルになって、俺からパスポートを取り上げて日本に帰さねぇつもりだな? そんな手にはのらねぇぞ」
 将人は呆れる思いで、「国内線の予約にパスポート番号が必要なんですよ」と伝えた。
「嘘つくんじゃねぇよ、国内線も国際線も、帰りの飛行機はぜんぶ手配済みだって、社長が言ったんだ。もう予約なんて必要じゃねぇんだよ。お前、こっちに来るまえ、あれほど裏切るんじゃねぇって念を押したのに、こうまであっさり寝返っちまうとはな」
 普通なら冗談と受け止めるべき言葉だが、今の辰三は、ぎらついた目で将人を睨みつけ、殴りかからんばかりに身構えている。重度の疑心暗鬼に陥った辰三の、険しく、それでいておびえたような表情を見ていると、本当にこの人の頭がどうにかなってしまったんだろうかと将人は恐くなった。
 仕方なくレックスのところに戻って事情を説明すると、「それなら、せめて予約に必要な部分だけを書き写してきてくれないか」と頼まれた。
 将人は仕方なくもう一度辰三のところへ行き、「番号を書き写すだけですから」と説明したが、辰三は頑として首を縦に振らなかった。
「お前が通訳じゃなけりゃ、叩きのめしてるところだぞ、この裏切り者」
「いいかげんにしてください!」将人は我慢の限界の一歩手前だった。「いいですか、国内線の予約にパスポート番号が必要なのは本当ですよ。忘れてるみたいだから言いますけど、マニラからこっちに飛ぶ前日に、関内さんにパスポートを預けましたよね? 航空券と一緒に返されたの、覚えてないんですか?」
 辰三はせせら笑いを浮かべた。
「日本に帰ったら通訳のお前なんて用なしだ。ただじゃおかねぇから覚悟しろよ」
「目を覚ましてくださいよ!」将人は大声を出していた。「僕たちのマニラ行きの国内線が予約されているはずがありません。源社長は、予約が本当にされているか確かめもせずに、関内さんの言った事を辰三さんにそのまま伝えただけなんですよ。仮に関内さんが僕たちのパスポートのコピーを控えていたとして、それを使って国内線の予約を済ませたのなら、なぜレックスは航空券を渡されていないんです? そもそも、カタルマンにせよカルバヨグにせよ、マニラに飛ぶなら、僕たちは空港までレックスに送ってもらわなければならないわけですよ。レックスが僕たちを引き止めておきたければ、空港まで送っていかなければいいだけです。でも彼は航空券を手配しようとこうしてパスポート番号を聞いている。つまりですね、関内さんは初めから国内線の予約をするつもりはないし、していないと考えるのが妥当です。下手をすると火曜の帰国の飛行機も予約してないことだって大いに考えられますよ。そうすれば関内さんはまた辰三さんを好きなだけサンパブロに留め置くことができますからね。とにかく、本当に日本に帰りたいのなら、まずはサンパブロにたどり着かないと。そのためにはレックスに国内線を予約してもらわないと。だからとっととパスポート番号を控えさせてください」
 将人は辰三に一歩詰め寄った。
「だけどいくら関内さんだって、まさかそんな嘘はつかねぇだろ、社長に対してよ」
 しかし、そう言った辰三の口調は弱々しかった。
「辰三さんだって言ったじゃないですか、まさかサンパブロに一週間も留め置かれるとは思ってなかったって。あれだって、結局は関内さんが事前の取り決めを無視して、国内線の航空券を手配せず、強引にサマール行きを引き伸ばしたからなんだと、ついさっき気付いたところですよ」
 辰三は唸り声を上げると、髪ごと皮がはがれるのではと思うほど頭をかきむしった。大きなふけがぼろぼと落ちる。
「辰三さんが予定を切り上げて帰国してしまうのは、レックスだって嫌に決まってます。でも少なくとも彼は国内線を予約しようとしているじゃないですか。関内さんとはやってることが正反対ですよ。辰三さんは信じる相手を完全に間違えています」
「うるせぇや、知ったような口聞くんじゃねぇ」
 捨て台詞のように言うと、辰三は腰につけたウェストポーチから、丸まったまま癖のついたパスポートを取り出して、将人に放ってよこした。
「けっ、そんなら何か、たとえサンパブロまでたどり着けたとしても、今度は日本行きの飛行機を予約してもらえねぇってか? あのゲストハウスに缶詰にされて、昼間はAMPミナモトの連中に調理指導、夜はくそくだらねぇ晩酌につき合わされるってか? やっとアレン刑務所を出られたと思ったら、今度はサンパブロ刑務所に入れられちまうってか? 笑い話にもならねぇよ」
 言い終わると、辰三は財布から千ペソ札を取り出して将人に差し出した。
「これで買えるだけのタバコ買ってこさせろ」

 国内線を予約するために再び電話交換所へ出向いていたレックスは、終業の五時近く似に戻ってきた。クリスがタバコのカートンとつり銭、それにパスポートを渡そうとすると、辰三はパスポートとカートンだけを受け取り、「つりは取っとけ」と言い、さらにカートンを破ってタバコをひと箱渡したので、クリスは飛び上がって喜んだ。
 やがてリンドンが終業のホイッスルを吹いた。
 鮮魚の片付けも殺菌清掃も滞りなく進む。もう加工場は辰三なしでも稼動できるようになったんだなと、将人は改めて感じた。
 辰三も同じ気持ちなのか、リーファーコンテナの日陰に座り込んだまま、タバコの灰を落とすたびに、加工場の方をちらちらと見ては、寂しそうでもあり、喜んでもいるようなあいまいな表情を浮かべていた。
 加工場の従業員たちが帰宅してしまうと、レックスは加工場の真ん中に、六脚のガーデンチェアを半円形に並べた。その半円の一方の端にライアンとアルマンが並んで、もう一方の端にリンドンが腰掛けた。
 レックスが辰三の方へ歩み寄ってきた。
 それに気付いた辰三は、座ったまま、レックスに背を向けるように体を回転させた。
「今さらですが、タツミさん、おひさしぶりです」レックスがおだやかな口調で言った。「ライアンから報告は受けていましたが、やはり聞くのと見るのとは違いますね。たった二週間ほどのあいだに、ブエナスエルテ社がここまで本格的に稼動できるようになったのを目の当たりにして、私は本当に驚いていますし、同時に心から感動しています」
 だが辰三はそっぽを向いたまま、コンクリートの隙間から伸びた雑草をむしっている。
 将人の不安げな顔に気付いたレックスが、大丈夫だよ、というようにウィンクした。
「ご希望通り、マニラ行きの便は予約しました。しあさっての日曜、カルバヨグ空港発です」
 辰三がタバコを思い切り吸い込んだ。
「日本行きの飛行機が予約されてねぇって話は本当なのか?」
 吸い込んだ煙を長々と吐き出してから、辰三がぼそりと聞いた。
「タツミさんが帰国を早めたという話を、私はここに来てから知ったんですよ。国際線の予約に関しては、関内さんに確認してみるまでは、なんとも――」
「まったく、どいつもこいつも俺をモノみてぇに扱いやがって! 言葉がつうじねぇのをいいことに、何でもかんでもやりたい放題じゃねぇか!」辰三が将人に向き直った。「おまけに通訳まで、裏でこそこそ好き勝手に遊び呆けてる始末だ、八方ふさがりってのはこういうことをだって思い知らされたぜ」
 将人は辰三の言葉をありのままレックスに通訳した。
「タツミさん、私たちはお互い、誤解している部分もあると思います。一時間とは言いません、十分だけでも、腹を割って話し合いませんか?」
 辰三は返事をせず、火のついたままのタバコを放り投げて、また新しいタバコに火をつけた。
 レックスが続ける。
「私は、タツミさんをここに引き止めるために話そうと言っているのではありません。国内線の予約を済ませたことからも、それはおわかりいただけると思います。以前、ミナモト社長とタツミさんが一緒にサマールを訪問されたとき、私たち三人は『兄弟のつもりでお互いを助け合う』と約束したこと、覚えていらっしゃいますか? タツミさんがこうして単身、日本からやってこられてから、一つ屋根の下で、共に寝起きし、共に飲み、共に食べ、共に悲しみ、共に喜び、共に笑い――私の中では、もはや血のつながった本物の兄弟のように、いや、それ以上に感じているんですよ。その絆があったからこそ、ブエナスエルテ社が、たった数週間で、ここまで素晴らしいものになったのだと信じています。今度は、私がタツミさんのために何かをする番ですよ」
「俺はな、何を言われても、帰国の予定を変えるつもりはねぇぞ」
 背を向けたままそうつぶやいた辰三だったが、顔の表情がわずかに緩んだのを、将人は見て取った。
「もうフィリピンなんてこりごりだ。もうお前らとは二度と会わねぇだろうから、そうだな、一時間くらいなら相手してやるよ。関内さんの晩酌と比べりゃ楽なもんだ」
 お心使いに感謝します、とレックスは言って、辰三を加工場に誘った。
 歩いている途中、レックスは将人の耳元に顔を近づけると、「タツミさんが単身でやってきた、と言ったのはあくまで表現だ。君のことを忘れたわけじゃない」とささやいた。
 半円に並んだ六脚の椅子の真ん中の二脚に、辰三とレックスが並んで座った。将人は辰三の隣に座る。将人の反対隣りにリンドン、レックスの隣にライアン、アルマンが座る形で、すべての椅子が埋まった。
「まず、ライアンたちの行き過ぎた行動が、タツミさんに多大なご迷惑をかけたことを、心からお詫びさせてください」
 レックスが言うと、ライアンとアルマンが「スミマセンデシタ」と片言の日本語で言って、深々と頭を下げた。
「どんな女性でも差別せず、正面から真剣に向き合い、分かり合おうとするタツミさんのような男性は、もうフィリピンにはほとんど存在していません。ジョエルやライアンのような青二才に、タツミさんのサムライ精神は理解できるはずもなく、よって、かのような結果になってしまったことを、私たちは非常に反省し、また、よき教訓にするつもりです」
 憮然としていた辰三の顔が、「サムライ」という言葉を聞いた途端、みるみる穏やかになった。
 一度言いよどんでから、辰三がゆっくりと話し出した。
「女はな、どんな無器量でも、そいつにしかねぇ可愛さみてぇなもんがあるんだよ。そいつを見つけてやるのが、男ってもんだろ」
 将人が通訳すると、レックスたちは大きく何度も頷いた。
「さっき、レックスが『兄弟』って言っただろ。日本にはな、『兄弟の契り』ってやつがあってな――」
 辰三は、そんなヤクザ風情のするような話を続けるうちに、次第に饒舌になっていき、「杯」や「仁義」、「義理人情」や「指詰め」に至るまで、得意げに語り続けた。将人の耳には誇張気味に聞こえたが、レックスたちはときおり唖然とした表情を浮かべながら、一語一句聞き漏らすまいという面持ちで、大きく相づちを打った。
「―――というわけだからな、俺は誰よりも、絆ってやつを大事にするんだ」
 胸を張ってそう言った辰三の顔には、控えめだが笑みが戻っていた。
 もちろんそうでしょう、と全員が頷いた。
「とにかく、本当に驚きましたよ」レックスが両手を広げて言った。「二週間経って戻ってきたら、ついこの前まで魚をミンチにしてた連中が、びっくりするような出刃さばきで、すいすいと加工しているじゃないですか。それもものすごいスピードですよ。こんなことを言うのもなんですが、トトなんて、もう日本に連れて帰っても、そのままスシ屋で使ってもらえるのではないでしょうか?」
「冗談抜きで俺もそう思うよ。もし俺がマカティかどっかで日本料理屋を開いたら、まずあいつを雇おうって考えてんだ」
 加工場の奥の洗い場で出刃を研いでいたトトをライアンが呼び寄せ、辰三の言ったことをタガログ語で通訳した。トトは歯を全部見せて、子供のような笑みを浮かべ、辰三に向けて照れくさそうに何度も頭を下げた。
 辰三の表情がぐっと緩んだ。
「トトを引き抜くんなら、タツミさんの店で使う食材はすべてブエナスエルテ社から買ってもらわなければなりませんね」
 言って、レックスが笑った。
「心配すんなって、関内さんみてぇに買いたたいたりしねぇからよ。俺が選んだ加工係たちの作ったもんだ、高く買ってやらなけりゃな。そうだろ?」
 言って、辰三も笑った。
 それから、会話は以前、源社長と辰三がサマールを訪れたときの話に移り、辰三の持ってきた便座の話になり、斉藤社長と山本の土下座話になり、関内の長い晩酌の愚痴になり――そして、ライアンが「セキウチさんはインポテンツなんですよね?」と真顔で聞くに至って、加工場には、しばらく聞いていなかった辰三の大笑いが響いた。
 笑いがおさまったところで、レックスが真顔になって辰三の肩に手をかけた。
「タツミさん、どうかフィリピンを嫌いにならないでください。そしてもしあなたが、もう二度とフィリピンを訪れることがないとしても、私はこれからも、あなたを兄弟だと思い続けます」
 辰三はうつむいて、しばらくのあいだ、下唇をぐっと噛み締めていた。
「おいショウ、衛星電話用意しろや」
 顔を上げるなり、辰三が言った。
「今からですか?」
「そうだよ」辰三が立ち上がった。「もうじき六時か。時差は一時間だから、日本はまだ五時だ、うまくいきゃ、社長が捕まるかもしれねぇ」
 将人はジープニーに駆け寄って衛星電話を取り上げると、加工場の前にある干し台の上で接続の準備を始めた。何度か別の衛星を捕まえてしまったが、二分ほどして、目的の衛星を捕まえることができた。
 レックスたちは黙ったまま、受話器を握る辰三をじっと見つめている。
 電話がつながった。ミナモト水産だった。
「おう、俺だ、辰三だ。社長はまだいるか?」
 少しお待ちください、と女性の声が言った。
 受話音量の大きさに驚いたレックスが目を瞬いた。
 通話の内容をこぼれ聞くためにあえてそうしているのだ、と将人はジェスチャーで伝えた。
 レックスがにこりと頷く。
『なんだ、今日はかみさんみたいに何度も電話してくるじゃないか。航空券のことなら大丈夫だから安心しろ、関内さんに頼んであるから間違いないよ』
「何時発の便か、確認したのか?」
『その辺は関内さんにお任せしてるから――』
 辰三が受話器から顔を離し、やっぱりそうだったのか、とつぶやいた。
「その話なんだがよ、その、何と言うか、実は――」
『まさか帰国日をもっと早くしてくれなんて言うんじゃないだろうな? いくらなんでもそれは無理というもんだぞ』
「違うんだよ、逆だ、逆。実はな、俺、帰るのやめようかと思って」
『なんだって?』受話器のスピーカーが割れるほどの声が響いた。『お前、永住するつもりなのか? まさか、そっちに女でもできたってのか? 女房はどうするんだ? 息子どもだってまだ高校と中学――』
「バカ言ってんじゃねぇよ」辰三が大笑いした。「来週の火曜に帰るのをやめる、って言ってんだ。すまねぇが、帰国の予定は白紙に戻してくれ」
『それはかまわないが、また、いったいどういう心変わりなんだ? やっぱり女か?』
「女じゃねぇよ、『兄弟』だ」
『兄弟だって? お前、ついにそっちの道に走っちまった――』
「そんなわけねぇだろ! とにかく、来週に帰国するのはやめたんだ。レックスかアルマンに頼んで、関内さんに事情を説明して、予約はキャンセルしてもらうよ」
 辰三は受話器を手の平で塞ぐと「どうせ予約してねぇんだからキャンセルもクソもねぇんだけどな」と将人に言って笑った。
 電話を切ると、辰三は続いて自宅にかけ、夫人に、帰国が少し先に延びそうだ、と話した。
 そのあいだ、将人はレックスに歩み寄り、「もう大丈夫ですね」と言った。
 ライアンもアルマンも、心からほっとしたという顔になった。
 夫人との短い会話を終えると、辰三はリンドンの前に進み出て、いきなり土下座した。
「虫の居所が悪かったとはいえ、手を出しちまったことは心から謝る。どうか堪忍してくれ」
 リンドンは驚いて立ち上がり、助けを求めるような顔を将人に向けた。
「日本式の、最高の謝罪方法だよ。大人には、なかなかできるもんじゃない」
 将人が言うと、リンドンは辰三の前にしゃがみこんで「もういいですから」と繰り返した。やがて二人は一緒に立ち上がって握手を交わし、にこやかに肩をたたき合った。
「さて、今日はすっかりサボっちまった。詫びに、明日はレックスに本物のブエナスエルテを見せてやるとするか」
 辰三が胸をドンとたたいた。
「それは楽しみですね。今夜はその前夜祭として、ジョニ黒でもやりますか?」
 レックスがにやっとした。
「もしかして?」
「マニラ空港で買ってきたんですよ、三本ほど」
 辰三がいきなりレックスに抱きついた。
 もう四日もシャワーを浴びていない辰三は酸っぱい臭いを放っているが、レックスは満面の笑みで、その抱擁をしっかりと受け止めていた。

 全てが元通りか、それ以上になった気がした。サマールにいられる時間も延びた。
 ただその夜も、ティサイの消息はつかめないままだった。


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