2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
2012
1月
2月
3月
4月
5月
6月
全7件 (7件中 1-7件目)
1

さて、そんなだんながたまの休みの日というのに、久しぶりに私を食事に連れて行ってくれることになった。新しいレストランを試すのはいつだってドキドキ、ちょっとしたスリルがある。なぜかと言うと私達が、あまり人の言うことを信用しないからだ。だいたい、新しいレストランが開くと大抵ローカルレストラン評論家などが大絶賛するかマーケティングが上手いレストランのどちらかで、そういう意見やマーケティングを鵜呑みにしただけの知人が私達に勧めることのなんと多いことか。だから、私達は誰が何と言おうと「おいしいか、そうでないかは自分の舌で確かめる」と決めているので、どのレストランに行っても「イチカバチ」なわけである。そして、悲しい事にデンバーには私達が思う「アタリ」なお店が本当に少ないので、年々私達が何回も行きたい、と思わせてくれるレストランが減りつつもある。そして私はだんなが「ケビンテーラー」で働いてしまったがために私の口(体も)までもが肥えてしまったと、全責任を押し付けることにしている。さて、私達は「1515」という未知なるレストランへとやって来た。ラウンジが一階で、レストランは2階になっていたので、最初お店に入った瞬間、クラブにでも間違えて入ってしまったのかと思った。(そう感じた自分の年を再認識せずにいられなかった。。。)ホストのお姉さんが私達を2階のレストランに案内してくれて、ちょっとホッとした。店内は落ち着いた感じのする、おしゃれな内装になっていたし、ナイフやフォークがしっかりとしたもので、メーカーの名前が1つずつに書かれていたし、ワインリストは豊富で、メニューもさっと見ただけだったが、まぁまぁ、かな、と思えたからだ。ウェイトレスのお姉さんも丁寧で、質問にきちんと答えられる人だったし、とりあえず私もだんなもマティーニとアペタイザーを何品か頼むことにした。まずは魚介類のアペタイザーから始まって, まぐろのタルタル、そして帆立貝のソテーを頼んだ。だんなは初っ端から手厳しかった。「まぐろのタルタルについているアボカドが凍っている!」とか、「このソースだって、マンゴの味がしないじゃないか!」とか憤慨されていた。私は私で帆立貝を口にしながらも「これくらいの味なら、あなたがしょっちゅう家で作ってくれるから、そんなに大してすごい、って思えないわね~」とか、言いたい放題である。最初の2品で、だんながお店に行く前に口にした「あんまり期待しすぎちゃいけないよ」が私の頭の中でグルグルと回り始めていた。気を取り直して私達はさらにもう2品アペタイザーから、今度は肉類の「和牛ビーフ石焼き風」と「フォアグラ」を頼んだ。この2品は「おぉぉっ!!!」と思わせてくれた、なかなかの品だったので、だんなも私も少し機嫌が良くなり、会話も弾み、やっとデートらしく(?)なってきたのだった。さて、本当はメインコースを頼むはずだったのだが、二人ともお腹が一杯になり始めていた。そんな時私達は、よくアペタイザー食べ三昧で終わる時がある。そう、今回も私達はあともう2品アペタイザーから何か頼めばお腹一杯になり満足できるだろう、とアペタイザーだけで終わることにした。私は「お肉のカパッチョ」彼は「チーズ各種」を頼み、それに合ったワインも一緒に頼んだ。ワインが先に届き、私達も楽しく一時を過ごしていた。あの、「チーズ各種」が運ばれるまでは。。。。私達のウエイトレスではなく、たまたま、違うウエイターが最後の2品を運んできてくれた。そして、静々と「お肉のカパッチョでございます。」と私のテーブルに置き、「チーズ各種でございます。」と彼のテーブルに置き、そのウェイターさんはお気遣いよろしく、その「チーズ各種」の名前をそれぞれ教えてくださっていたのだ。 そして、そこまでは誰が見たって、ごく普通に行われるウェイターとお客さんの自然な状況だったのだ。ところが。。。。ウェイターさんが1つのチーズを指し、「これがマンチェゴチーズでございます。」と言うや否や、我がだんながそのウェイターの目をしっかり見つめ、「いや、こっちがマンチェゴだよ。」。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。(この瞬間の空気を私の稚文から皆様に読んでいただくことができるでしょうか。)と別のチーズを指さして訂正したのであった。。。。そのウェイターさん、少したじろぎながらも「い、いえ、旦那様、こちらのほうこそが、マンチェゴチーズでございます。」と、丁寧ではあったが、彼もだんなの目を見据えて(?)応対したのだった。だんなとそのウェイターさんはその後2度ほど同じ押し問答をくりかえしたのだが、それでも退かず遂にだんなが、「いや、こっちがマンチェゴ、君にはこの線(←ウェイターさん、キョロキョロ、「ど、どの線の事を言ってるんだ!?」と少々焦り気味)が見えるかい?」とチーズのワックスに付けられている線を指さして、そのウェイターさんに「こっちの線はストライプだろ?で、君の言ってるチーズは網状になってる、網状になってるほうはブルーチーズ系だよ。だから、そこで違いがわかるんだよ。マンチェゴはいつだってストライプなんだ。覚えていたほうがいいよ。」とマンチェゴと別のチーズ(何と言っても別のチーズが何なのかもわかっていた彼に私は脱帽する。)の違いを事細かに延々と説明しはじめたのだった!!!熱心にずっと説明するだんな、一生懸命聞き入るウェイターさん。。。ウェイターさんは自分のプライドを傷つけた上、説明までするこの男は一体なんのつもりでこのレストランに来たのかと不思議でならなかったに違いない。。。。その様子を私は必死に笑いをかみ殺しながら見届けていた。どれ位の時間が経ったであろう、やっとの思いで(?)その場を離れることができたウェイターさんはさぞかしホッとしただろうな、と思う。ケラケラ笑い始めた私を見てだんなが「何がおかしいの?」と聞いてきたので私は「どうしても、彼にこっちのチーズがマンチェゴなんだって、伝えたかったのね。」と答えた。彼は「そうだよ、それの、何がおかしいんだい?」と、真面目に、また聞いてきたので私は「普通のお客さんはね、ウェイターさんに教えを説かないわよ」と言うか言い終わらないかで私もまた、ケタケタ笑いが止まらなかった。彼がさらに真面目に「だって、間違ったことをお客さんに言うのはよくないよ」と真剣に言えば言うほど私はおかしくなって、笑い続けながら彼にわかるように答えてみた。「確かにそうだけど、間違いを認めさせた上、どこが間違ってるのか証明してみせて、そしてそれを延々と説明し続けるお客っていうのもなかなかいないものよ。」と。彼はやっと自分が(働いてもいない)レストランで(しかもデート中)何をしでかしたのか、わかったようだった。 皆さんにご想像がつくだろうか?何も知らない、と思っていたお客さんにいきなり「チーズのワックスの切り口を指差されて」「この線が見えるかい?」なんて聞かれちゃうことなんて。。。帰り道、彼はずっと「料理のことになるとつい。。。」と照れ笑いしていた。そして、そんなクソがついてもおかしくないくらい真面目なだんなだから、私は彼の、料理に対する姿勢を尊敬することができ、その真面目さに憧れのようなものさえ抱いてしまうのだろう。。。(って、結局はまたノロケ話だったわけです。ちゃんちゃん。)(久しぶりのテオだわ~↓)
2010年07月24日
コメント(3)

さて、だんながキラキラと生き生きと輝きながらケビンのお店でエスタージュを始めた頃、私もちょっと真剣に考えていたことがあった。-もし、だんなに「僕はレストランの仕事に戻るから君も明日から働いてくれ」と頼まれたら。私はどんな仕事に就くのだろう?明日から、というのなら、多分レストランのウェートレスが一番早く見つけられるだろう。スーパーのレジのおばちゃんだって、できるだろう。でも、もし、彼にも時間的な余裕があって、私にも選択権があるというのなら、どんな職種に就きたいのだろう。。。? そんな時だった。ガストンが末期がんで最期の1ヶ月半を一緒に過ごさせてくれるために大活躍した大河ドラマ「新撰組!」(↓このドラマのおかげで今やすっかり明治維新ファン。と、オダジョーファン。その話はまた今度) のビデオを貸してくれた、ピチピチの日本男児Nさんが子犬を飼いたい、と言い出した。このピチピチ日本男児Nさんと出会ったのはキックボクシングを通じてだったが、今では道場以外の場でも親しくしていただいている。ちなみに、この「ピチピチの日本男児」と「日本語」で言ったのは、何を隠そう、うちの旦那なのだ。Nさんと初めて会った時に受けた印象から出てきた言葉で、しかもそれは、Nさんにピッタリ当てはまっていた。Nさんは子供の頃から極真空手の内弟子だったこともあり、今時では珍しいんじゃないかと思うくらい真っ直ぐで、お辞儀をするにも斜め45度ピッタリ、両手は太ももにピッタリ、呼べば「おすっ!」と返事をするような、そんな印象を与える人なのだ。(極真を極める大山さん↓) さて、そんな彼から相談を受け、私は大喜びで子犬探しを始めた。1月の下旬だったろうか、彼は自分が人に与える印象とは全くかけ離れた、かわいいラットテリアとチワワのミックスを救助グループから引き取ったのだった。その時私は「躾のことなら多少知っているから、ぜひトレーニングさせて欲しい」と何を思ったのか口走っていた。超日本男児Nさんは多少戸惑いながらも「んじゃ、トレーニングのほう、よろしくっす。」と答えてくれ、私と彼は週に一度彼のお家で「清兵衛さん」と名付けた子犬のトレーニングをすることになった。 8週間のトレーニングが過ぎ、私は彼に「やっぱり動物と接することって楽しいよね~」と言うと、彼は「The Avs Girlさんって、こういうの向いてるんじゃないですかね~」とくったくなく答えてくれた。私はその時、そういえば子供の頃、テレビで見た警察犬のドラマに首っ丈で、そんなワンちゃんをたくさん育てられたら楽しいだろうな~なんておもってたのよね~と一緒になって笑うと、彼はちょっと真面目になって「やってみたらいいじゃないですか?」と言った。私は「え?」と言うと「やりたい、と思うことがあるんだったら、やるべきですよ。」と清兵衛さんと戯れながら、そう言った。。。家に帰ってそのことを旦那に言うと彼は「今だから出来る事、っていうのもあるんだよ。必要に迫られてだと、自分の本当にしたいことよりもまず、お給料がいくらで勤務時間はどれくらいで、っていうことを優先しちゃうだろ?でも、今の君はじっくり見据えることができる。もし、専業主婦でいたいのなら僕はそれでも構わない。でも君が仕事をしたい、というのなら、僕はそれも大歓迎だよ。」と。そして、彼はこうも付け加えた。「10年前なら僕だって、エスタージュをすることなんて、考えられなかったことを、今ではできるようになったんだから。」と。動物愛護や動物シェルターから身を引いてもう、10年くらいになってしまう。。。私に、できるだろうか、また、同じ過ちを繰り返さないだろうか。。。?いや、でも、犬の訓練士になる、というのはシェルターで働く、ということではないから、と自分に言い聞かせ、だんなのように「見習い」という形で入ってみよう、と。そして、犬訓練士の免許を持つスーという女性に連絡し「見習い」として受け入れてもらうことも決まった。 そんな時、私はシェルターの仕事を辞めて以来メールも電話もしていなかったフォスター課で一緒に働いていた(ボスでもあった)へザーからチェーンメールが届いた。「元気?」と一言だけ添えて。私はそのメールを何度も、何度も読み返し考えた。こんな妙にタイミングのいいことなんて、おかしすぎる、と。気がつけば、私は彼女に返信を送っていた。「また、ボランティアとしてシェルターで働きたいんだけれど、私はもうブラックリストに載っちゃったかしら?」と冗談を込めて。。。 彼女から返ってきたメールは大喜びの言葉が並んでいた。私は電話を取り、彼女の働くシェルターにボランティアの資料とアプリケーションを送って欲しい、と伝えた。そして、遂に私はシェルターのボランティアとして復活し、へザーとまた、一緒に仕事をすることになった。彼女は10年前の頃とまるで変わらず、満面の笑みで私を迎えてくれた。ボランティアを始めた当初はきちんとした犬訓練士になるには、と技術的なものや知識などに重点を置いていたのでスーとの時間を最優先していたのだが、シェルターでボランティアをするうちに私はたくさんの疑問も持ち始めていた。虐待され続けた動物や全くと言っていい程人間との接触がなかったような動物達に「名犬ラッシー」のようになれ!と求めるのには無理があるのではないか、と。そして、シェルターに連れてこられてしまった境遇があるからこそ、多少のことは目をつぶってくれるだけの余裕がある飼い主さんにもらわれていくほうが幸せなんじゃないかとまでも思い始めていた。犬訓練士スーのもとにはブリーダーからもらわれてきた、生後8週間の純血統の子達がほとんどだから、訓練士にとってはやりやすい子達ばかりが来るのだ。私はお母さんの存在さえも知らないような子犬達や、ハイウェイでうろたえながら、なんとか保護された子達のトラウマを全く知らない、無垢なままの子犬たちと接するのは、とても楽しかったのだが同時に私の「本当にしたいこと」というのは犬を「訓練」することだけじゃない、ということに気づき始めていた。。。 (↑ ボクも誰かおうちに連れて帰ってくれないかな~)
2010年07月20日
コメント(4)

そんなある日、ケビンのお店から帰ってきた彼はまたもや「相談」を持ちかけてきた。ケビンがラインコックの皆 に、彼のお店のお得意さんが専用シェフを探している、誰かその仕事に興味がないか、と聞いていた、と。私は「それで、あなたはなんて答えたの?」と 聞いてみた。彼は「僕はバーもあるし、無理だって答えたんだ。」私はふと、聞 いてみた。「あなた、ラインコックの中では最年長さんなんでしょ?」だんなは不思議そうに「そうだけど?」と答えた。あのね、私が思うには、よ。ケビンはあなたのこと、随分長い間、知ってるわけでしょ?10年前にも働いたことがあって、今でも ケビンのやってることをあなたは尊敬していて、エスタージュの時だって、パートタイムになってからだって、お仕事は真面目にきちんとやってる、そんなあな たの姿をずっと見てきてるわけでしょ?しかも、その専用シェフの仕事って、彼のお得意さんから来てるってことはケビンだって、よっぽど誰か信頼のお ける人にしか、その仕事をしてもらいたくないはずよ。今でこそ、レストラン業や、お料理界はテレビのお料理チャンネルやらで華々しいものに見えるけれど、 実際働くと華々しいどころか、長時間、暑い所で立ちっ放しの上、お給料も安くて、しかもあなたの働くような高級レストランなんかになるとラインコックから、スーシェフに昇格なんて、一体いつできるのかわからないから20歳くらいの、どこの誰だかわかんないような若手の子は、実情を知るとすぐ辞めちゃうわけじゃない?そんな子達にケビンがそんな大切な仕事を任せるにはいかないんじゃないのかな?それに比べてあなたはレストランのいい面も、嫌な面も、全 部知った上でケビンの元へと戻ったわけだし、年は確かに取っちゃったかもしれないけれど、それだけあなたは料理に対して真剣だということも証明していると 思うの。ケビンがあなたにしてあげれることはラインコックとしてパートタイムで雇ってあげるのが精一杯だったけど、今こうして、お得意さんから「あなたに とって」いい話がきたから、ケビンは何気なく、あなたにその仕事をするべきだと促しているんじゃないかしら?だんなは、しばらくの間考えてから「そうだなぁ~。そうなのかな~。。。まぁ、バーのほうも働いてるっていったって週2.3日の何時間だから な~。。。パーソナルシェフの仕事ったって、採用してもらえるかどうかだってわからないし、よしっ、面接を受けるだけでも受けてみるとするか。相談してよかったよ。ありがとう。」と微笑みながら答え、ちょっと目が輝いた。次の日、彼はとても明るい顔をして仕事へ出かけていった。そしてお昼過ぎ、「ケビンと話したよ。彼も推薦状を書いてくれると言ってくれ たんだ。」そう、弾んだ声が携帯の向こう側から聞こえてきた。。。その後はとんとん拍子で事が運ばれた。専用シェフのインタビューとあって、彼はとても緊張していた。ケビンのお得意さんは、とんでもなくお金持ちの石油会社の オーナーで、ハミルトンさんといった。どのくらいお金持ちって、自家用 ジェットが あって、美術館に自分の名前のついた建物を何ミリオンダラーも寄付して作り、魚釣りに行くと言えば、自家用ジェットに乗ってアラスカまで行き、お年は召されていても各自在宅パーソナルトレーナーがついていてお庭にはテニスコートが2つインサイドプールが1つあり運 動は欠かさない。相当の美術好きで、モネやピカソの原画が埋まるほど彼らの図書室の壁にかかっている。そしてなんと、ご招待なし では入れないフィッ シャーアイランドという島の一角をお持ちでゴルフと 言えばその島でするという(これがフィッシャーアイランドの一角↓) (コネチカットからフェリーに乗ってたどり着く。↓) とにかくの大金持ちだった。そんなハミルトンさんご夫妻と1時間に及ぶ面接を無事済ませ、(もちろん、入り口ではセキュリティ係りが彼を止め、ハミルトンさんからの承諾を得てからしかパーキング場までたどり着けなかった。そして、家の前では執事さんが彼を向かえ入れた。)彼は私に電話をしてきた。「とりあえず、3回料理を試しに作ってくれだってさ。1つめのテーマはあひる、2つめの テーマはバッファロー、で、3つめは僕が決めていいんだってさ。」私は「よかったね、まるで‘料理の達人’みたい。」と笑うと、彼も緊張がほぐれたのか、 くすっと笑った。そして、3回のお試し料理も無事終え、ハミルトンさんは「3ヶ月、仮採用」とおっしゃり、だんなも私も大喜びした。そしてその仮採用の3ヶ月はあっという間に過ぎ、彼は毎日のように彼らが喜びそうな味を求めああでもない、こうでもない、と久しぶりに料理の本に没頭する日が続いた。ハミルトンさんのお好みのお料理とは、だんなが好きなケビンのお店ようなテクニックをあまり要さないシンプルな家庭的なものが多いので、そういった分野での経験がまだ少なかった彼にとって新たな挑戦でもあった。ただ、レストランと違って、働く時間も短く(彼は夕食だけ作る。朝食と昼食は在宅お手伝いさんの仕事らしい。)待機時間のほうが長いので彼は一品ずつ(夕食はいつも3コース食されるらしい。う、うらやましい。。。)じっくり心を込めて作ることができるし、家に帰ってくるのも早く、週末はもちろん、ハミルトンさん夫妻が旅行やお出かけになるとお休みだし、何と言ってもさすがにお給料がレストランのラインコックからはかけ離れていた、というのも私達を喜ばせた。そして、彼らは今週、10日間ほど恒例の「別荘でご招待オンリーのゴルフ会」をすることになり、だんなは20人あまりの人々に、たった一人でお料理を出すことになった。私はフィッシャーアイランドに発つ準備をしているだんなに冗談っぽく聞いてみ た。「ねぇ、あれからもう、半年以上経つんだけど、ハミルトンさん、あなたに何も言ってこないわよね。まだ本採用にはならないの?」と。だんなは肩をすく め、シェフコートをスーツケースに入れながら私にこう言ってウィンクした。「仮採用のわりには待遇いいよな」彼が出張で家にいなくて寂しくなる反面、真面目にこつこつと働いてきた彼をケビンが認めてくれたおかげで、こんな新たな道へと彼が進み始めたことを、今ちょっと誇らしく思う。。。。(彼が愛情込めて作ったPierogi。サワークリームとカーメライズドオニオンで頂く。中身はチーズとポテトが入っている。↓)
2010年07月16日
コメント(5)

あれは、2年前の暮れだったろうか。。。彼は彼の兄達と一緒に経営しているヒッピーなバーで仕事をしているが、最近はほとんど書類整理やアカウントなどのマネージメントだけで、週に2,3回仕事場に 行って手続きをすませれば後は信頼できる人達が働いてくれるようになっていて、もう朝の4時まで仕事をせずにすんでいるのだ。バーの仕事が安定期に入ったということであろうか、でも、そうなると、ちょっとつまらなくなってきた、と彼がこぼしはじめていた頃だった。もし仕事をやめて別のことをするなら全サポートするよ、と私達は話し合っていたことがあった。ちょうどその頃、自分達で小さなサンドイッチ屋さんのようなものでも持てると楽しいだろうね、と夢を描いては、なかなかそう簡単にできない現実とのギャップにため息をついていた頃でもあった。ところが彼の友人がさっさとその夢(彼の友人もコックさんだった。)を果たしてしまい、1年もしないうちにそのサンドイッチ屋さんは大流行りになっていたのが、彼をちょっと落ち込ませてしまったのか、焦らせてしまったのかもしれない。普段、彼はあまり愚痴を言う人でもないし、相談もあまりしてくれないのだが(彼が言うには私を心配させたくないらしい。)ある日、滅多にないその、「相談」を持ちかけられたのだ。「僕はやっぱり料理がしたい。」と。。。ただ、自分ももう、20歳やそこらじゃない、年も取って、長時間暑いキッチンで立ち続ける事に不安があるし、本当にそれが自分のしたいことなのか、ただ単にバーでの仕事が嫌になってるだけなのかを見極めたいから、昔、お世話になった今も尊敬しているケビンテーラーのところでエスタージュ(お給料をもらわない見習いのこと。)をしたい、と。お給料も入らず、君との時間も減っちゃうことに君がどう思うかわからないから、ケビンに相談する前に君にきちんと了解を得たかった、とも。私にはずぅっと前からわかりきっていたことだった。彼が本当に情熱を持っていること、心から愛してやまないもの。それが、料理だっていうこと。だから、私は「がんばって、自分が本当に望んでいることを見極めることができるといいね。」と喜んで送りだしたのだった。(ケビンのお店はシアターディストリクトにあるホテル内のお店。↓) そうして、彼は新しい第一歩をまた踏み始めた。最初の一週間は久しぶりの長い立ち仕事で家へ帰ると、まるで日本の中年のおっさんのように「ふろ、酒、寝る」の3拍子だったのだが、それでも少しずつエスタージュの感覚に慣れ始め、しばしば彼は苦笑いと共に楽しそうにレストランでの様子を伝えてくれた。「包丁のスピードが落ちちゃって、スローモーションのように感じるよ。」とか、「ラインコックの中では僕が最年長なんだ、なんか、時代を感じちゃうね。」とか、「ケビンの息子、覚えてる?僕が最初にケビンの元で働いてた時、彼は、まだ8つか9つだったんだよ、それが今じゃ、スーシェフ(シェフと同等、またはそれと同じくらいの地位)になっててさ、まだ赤ちゃんのような顔してるくせに、さすがに才能あるヤツだよ、僕の知らないテクニックを使って、見事な料理を提供してるんだ。」と、毎日、毎日、活気立っている彼を見るのが私はとてもうれしかったし、久しぶりの彼のシェフコート姿がとても格好良く似合っていて、まぶしいくらいだった。(毎夜、毎夜、このお店では、こんなものや↓)(こんなもの ↓ が「これでもか!」という位出てくる。。。) 3ヶ月エスタージュを続け、彼はとうとうパートタイムではあるが、ケビンの元で仕事として働き出した。週に2,3回の夜、彼はラインコックとして一生懸命働いた。全てが彼にとって納得できることらしいかった。キッチンの暑さ、時間の長さ、スピード、忙しくなった時のアドレナリン、キッチンでは1人1人が別の仕事をしているように映るが、本当はチームワークなしでは成り立たないということ、仕事を終えた後の充実感。。。どれだけ忙しくても、彼はその古巣-自分の本当の居場所-に戻れた事がうれしくて仕方ないという風だった。そして、去年の秋、彼はまたもや「相談」を持ちかけてきた。「僕はやっぱり料理することが好きだ。」と。。。ただ、レストランで働くなら、自分はケビンのお店より格が下がるお店で働くのは嫌なんだ。コロラドではケビンのお店は最高級のお店だし僕はパートタイムであっても、そんな彼のお店で働くことに誇りが持てる。ただ、彼の息子がスーシェフである限り、自分はラインコックでしかなり得ない。あのレストランで感じる、アドレナリンは最高のものだと思う。でも、やっぱり自分はラインコックでは終わりたくない、と。と、なると、やっぱり自分でレストランを開ける、ってこと?と私が聞くと彼は「多分本当に自分がしたいことって、小さなレストランを持つことなんだろうけど。。。」彼はため息と共に続けた。今のような最悪な景気の中で、資金もそれほどない上、レストランってビジネスは一番失敗しやすいんだ。だから、ローンもなかなか組めない。それに、バーを初めからやってきた僕としては、また一からの出発って言うのに自信がないんだ。10年働いたバーの半分以上は一日12時間以上働いてきただろう、それを繰り返さなきゃいけないのかと思うと今はまだ、憂鬱にさえもなるんだよ。自分のお店を開ける時って、バーをきっぱりやめて、しばらく休暇を取ってからにしたいし、家のローンとかのメドがついてからにしたいんだ、と。私は ここまで真剣に家のことや将来の事をしっかり考えている彼を見て、なんと言ってあげればいいのか言葉につまった。私は何度も同じことを繰り返して言うけれど、バーを辞めてレストランで働くというのや、お店を持ちたいと言う事で金銭的にあなたにプレッシャーがかかるのなら、私もまた仕事を見つけるから、夢を捨てるのだけはやめてね、とだけ伝えた。。。 (愛情いっぱい、心を込めて一つ一つ作る彼の手つきはまるで赤ちゃんの頬を撫でるように優しい。ちなみにこれはポーランドのぺロギ(Pierogi)と呼ばれる餃子のようなもの↓)
2010年07月15日
コメント(0)

我が家では動物達の誕生日は、我が家でその子を引き取った日である。ほぼ確実に私達はシェルターから譲渡してくるので、その子達の本当の生年月日などわかるはずがないし、シェルター側もだいたいこの位の年齢と、予測でしか言えないので、例えばミドリを引き取った時、彼女がすでに生後6ヶ月であったとしても、我が家ではその日が彼女の誕生日ということになる。7月11日はガストンのお誕生日だった。彼が虹の橋を渡って、もう、1年を迎えてしまった。。。 去年の年明け辺りから、ガストンが少し痩せたように思えたのと、鼻先がかぶれているような症状が続いていたのが心配でいつも行く、獣医さんに連れて行ったのが、2月だったか、3月だった。獣医さんは鼻先のかぶれのほうが気になったらしく気の毒そうに私を見つめてこう言った。「白い猫に特に起こりやすいんだけれど、皮膚がんの可能性があるわ、それに、お腹にも何かあるみたいなの。。。」 私の頭が真っ白になった。獣医さんは私に、それでも初期のガンなら、いろんな対処策があるから、と私を落ち着かせようとしてくださった。でも、何日か経って、帰ってきた結果は悲惨なもので、彼のガンはもう末期にまで進行しており、体中ガンに蝕まれていたことだけがわかった。先生は、漢方薬で症状を遅らせることくらいしか、もう、なす術はない、とおっしゃった。私もだんなも、ガストンにある、自然治癒力に賭けてみることにした。お別れの日が近づいていることを、彼は感じていたのだろうか、それからも、彼はずっと私やだんなに甘えまくり、いつでもすぐ側にいて離れようとしなかった。元気な頃は気ままにべったりの甘えたさんだったのに、彼は自分だけのお気に入りのバスケットを2つほど見つけ、一人で寝ることが増え、ミドリやサクラ、気ままやレイチャールズがいつもいる2階の部屋よりも、地下の部屋にいることのほうが増えた。それでも調子のいい日はご飯も自分で食べることもできたし、少しくらいなら遊ぶこともできたから、私は騙し騙しでも彼が側にいてくれることを望み、できるだけ元気に声をかけ、心配するであろうから、涙もぐっとこらえていた。 当時、私はかなりの浦島太郎子で、日本で流行っていることや起こっていることにあまり感心がなく、それを心配(?)したコロラドに住んでいる日本人(その人はピチピチの日本男児でもある。)のNさんが2004年に流行った大河ドラマ「新撰組!」の全ビデオを貸してくれていた。どちらかというと、歴史物のテレビや映画にはあまり興味がなかったのだが、ガストンと、まったりする時間を少しでも多く作りたかったので超大作のこのドラマは、その時間を作ってくれる最大の友となった。(そして私はズッポリ今や大河ドラマ狂に染まってしまっている。)毎晩、用事を済ませ、一息ついたら洗濯物をたたみながら「新撰組!」を地下にあるテレビで見始める。すると、あの、いつものちょっとヌケた声でガストンが「みゃうわうわ~」と言って私の座っているカウチにやってくる。時にはヌクヌクの洗濯物の上でグルグル言いながら寝ていたり、時には私に赤ちゃん抱っこ(彼はそうされるのが大好きだった。)をされながら、「新撰組!」はガストンと私にとって、欠かせないものとなっていた。そして、思わず、そんな日がずっと、これからも続くような錯覚さえも覚えた。 でも、ガストンは確実に弱っていた。もう、遊びもしないし、あんなに大好きだったマタタビにも見向きもしなくなり、ご飯の食べる量も減っていった。私は自分では覚悟を決めてたつもりだったが、(そんなこと、できるわけないのも、わかってはいたのだが。)脳裏に浮かぶ「その日」は何度も、何度も私を苦しめた。ある日、私がおトイレに入るとガストンも一緒に中に入ってきた。我が家のトイレには猫じゃらしが何本か置いてあり、トイレも猫との和み用部屋になっていたので、もう遊ばないというのがわかっていながらも猫じゃらしを取り出し、ガストンに「遊ぶ?」と聞いてみた。すると、ガストンは「みゃみゃみゃっ」と言って、遊ぶ体制に入り、かなりの時間、私と彼は小さなトイレ室で遊んでいた。どれだけの時間が経っただろう、私は彼が無邪気に遊ぶ姿を見て、急に涙が溢れ出て止まらなくなってしまった。なぜだろう、その時私ははっきりと感じ取ったのだ。ガストンが「おかあしゃぁん、お遊びはこれが最期だからね~。ボク一杯遊ぶけど、そろそろ行かなきゃいけないみたいだよ~」と、体で彼は伝えてきたことを。私は「いやだ、いやだ、そんなこと、まだ考えなくてもいいよっ!」と自分の考えを打ち払おうとしてみたけれど、どうしても、このお遊びが、ガストンと戯れる最期になると確信を持って感じられた。次の夜、私はいつものように地下の部屋で「新撰組!」を見るため、ガストンを呼んだ。「ガストン~はじまるよ~、一緒に見よう?」いつもなら、あの、かわいく、でもちょっと情けない声で、「みゃうわうわ~」と鳴きながらやってくるのが、その日の彼は、どこか私と一線を引いたような態度でバスケットから出ようとしなかった。私はお腹に鉛がはいっているような、重い、重い気持ちになった。そして、その気持ちは主水の時にも、困るの時にも感じたのと全く同じものだった。ガストンはグルグルも言わず、窓辺で空を見上げながら、もう、自分はここに存在していない、というような態度でその夜を過ごした。。。次の朝、私は皆にご飯をあげ、お腹に鉛のようなものが入っている気持ちのまま、ガストンにも朝食をあげたのだが、私の気持ちと反して、彼は朝食をほぼ完食したので、私は少しだけ胸を撫で下ろした。そして、漢方薬とビタミン剤をキッチンから取り出して、地下へ行ったその瞬間。。。。ガストンはフロアにへたり込んだようにうずくまり、目を大きく見開き、息ができないっ!という風に私に叫びながら訴えていた。。。彼の瞳孔は開き、足はふらつき、息も荒く、2,3歩歩いただけで、すぐにうずくまってしまう。私は急いで病院に電話をした。。。。 そして、青空の広がる、コロラドで私の最も愛する季節の春、2009年5月16日のお昼過ぎに彼は永眠した。。。 ガストンは名の通り(私の大好きな作家遠藤周作の「おバカさん」という本の主人公の名前。詳しくはこちら)ちょっとどこか抜けてて、でも人一倍のお人よしで、人を笑いで一杯に包んでくれるのが大の得意だった。病気がちで生まれてきた最初の一年は獣医通いの毎日だったが、その後は大きな病気も怪我もなく、たったの9年だけど、私達にたくさんの幸せと微笑みを与え続けてきてくれた。毎日、毎日。。。。9年前、動物シェルターで、目やにと鼻水と脱水症状がひどくて、もうこの子は無理だろう、と言われ安楽死室へ連れて行かれる直前だった。1日でも、2日でも生きてくれるのなら、私がシェルターではなく、家の生活をさせてあげてから逝かせてあげたい、そう思って引き取った子。。。そんな子が9年も生きてくれて、私達に笑いと愛を与え続けてきてくれ、大切なことを教え続けてきてくれた。「おかあしゃぁん、元気にしてくれて、ありがとね。ボクお返しに「愛」というものを時間が許す限りお届けするね。」と、あのかわいくも、情けない声で、ちょっぴりオドオドしながらも、グルグルと頭突き攻撃で体当たりしながら。階段で転んだり、困るならスッと上れるくらいのカウンターにも上れずに爪をガリガリ言わせながらズルズルとおっこちちゃったり、おもちゃのボールを犬のようにくわえて持ってきたり、キャットニップの蓋を開けたら目を大きくして必死の形相で走ってやって来たね。水植えしている竹の植木鉢から水を飲むのが大好きだったね。テレビでホッケーを見るのが好きだったね。人間のご飯にはあまり興味を示さなかったけれど、ベイビーフードの、しかもなぜか「マックアンドチーズ」味が大好きで、お誕生日にはそれさえあげれば幸せそうに舌なめずりしながら食べてたね。フリースが大好きなくせに、布団の中で寝るのは気ままがいる時だけだったね。 ガストン、たくさんの幸せと愛情をありがとう。生きていたら10歳になってたガストン、今頃は虹の橋で、また、困るに追いかけられて「みゃうわうわ~」と情けない声を出しながら元気に走り回っているのだろうか。。。
2010年07月14日
コメント(0)

しかしながら、このブログを放置して、かれこれもう、1年半ほど経ってしまった。。。そして、その間にも我が家ではいろんなドラマが繰り広げられていた。。。ガストンが末期がんで虹の橋を渡り、もう一周忌を迎えたこと。。。だんなが、自分の本当の夢、「料理」をまた真面目に受け止め始めたこと。。。私が自分でビジネスを持とうと活動をし始めたこと。。。 ミドリがK9Good Citizenの試験にパスしたこと。。。 サクラの問題行動で再確認した、「あること」。。。 気ままの21歳で迎えた大往生。。。 たかが一年や二年で、何がどうなることでもないが、今、ブログ再開に向け、過去を振り返って、やはり思う。人生には無駄がなく、私のこの、のらりくらりとした人生でさえも私に問うてくること、教えてくれること、そして考えさせられることというのは、どれをとっても、とても貴重だということ。その一つ一つを、こうしてブログとして残していくというのは、実を言うと本当はとても素敵なことなんじゃないか、そんな風に、また思えるし、ブランクのある過去2年ほどの出来事も、やっぱり残しておきたいから、ブログを続けていこうと思う。(さて、この向上心はいつまで続くのか。。。)それはともかく、私はどちらかというと社交的に映るようで、友人からも、つきあいが多そうね、と言われることが、しばしばなのだが、実を言うと片手で数える程度の「友達」しかいない。それは多分、二十歳前半でアメリカに渡ったことも大きな原因だと思われる。その当時電話代はバカ高く、(コロラドに来てすぐに日本の友達と電話で2時間以上しゃべった後、400ドルくらいの請求書がやって来てだんなに国外線をキャンセルされたこともあったっけ。)インターネットやコンピューターのない時代(年代がバレるじゃないか。。。)だったので手書きの手紙で日本の友人と連絡を取り合っていた。それでも日本との繋がりを絶ちたくなかった私は(当時)たくさんいた(と思われた)友人一人一人に近況を伝えることを欠かさないようにしていた。アメリカに来た当初は親戚関係からも手紙をもらえる状況だったのが、一年経ち、二年経ち、、、としていくうちに親戚関係はもちろん、友人からの連絡も、どんどん減っていった。コロラドに住んで18年の間に日本へは3回帰ったが、その度に「会いたい」と思う友達が減ったこともある。それは私がアメリカで変わってしまったのか、日本で生活しているうちに相手が変わってしまったのかは、わからない。けれど、友人(と思っていた)の価値観が受け入れられなくなってしまった自分を発見したり、共通点があると思っていたのに実はなかったことを確認してしまったことが何度かあって、そんな人達とはもう長い間音信不通になってしまった。今でこそ、「友達」と呼び合い、お付き合いしてくださる人もこれまた少数ではあるが、コロラドにも何人かできたけれど、最初の4,5年の間は英語という壁があったため、すぐに友人を作ることができなかった。だからこそ、よけいに「友達とは、家族とは」ということを、自分の心に整理をつけるため、真剣に考えていたのかもしれない。それから最近になって、アメリカでの生活にも随分慣れ、英語を使っての日常生活も困らなくなり、仕事上や、だんなとだんなの兄ちゃんがバーを経営していることから私を慕ってくれる人たちもかなり増えた。でも、それは「友達」とはまた違う。。。 では、私はどこで「友達」と「知人」をわけているのだろう?昔、「人」と言う漢字はヒトとヒトが支えあっているように書かれているところから来ている、というようなことを聞いたことがあるが、私にとって「友達」とは、どれだけ筆不精であっても、どれだけ連絡が途絶えていても、一旦電話をしちゃえば、大笑いをしながら、まるでしゃべったのはつい昨日のことのように感じさせてくれる、そんな関係が「友達」に当てはまる。「え~と、最後に会ったのは去年の今頃ね~、元気?(ええ~と、次何話そうか?)」とかって考えなきゃいけないような関係は「知人」なのである。実を言うと私もだんなも、大勢の人が集まるイベントやホームパーティが大の苦手である。例えば、仕事でしかお付き合いのないAさんからホームパーティに招待されたとしよう。それでなくともあまりよく知らないAさんがホスト役であり、そのパーティに来るのはAさんの家族や友人なのである。それが大勢であればあるほど私達はどうしていいのかわからないのだ。だいたい、ホスト役の人はいつも接待やお料理などで忙しいので、Aさんは私達がAさんなしでも楽しめるようにとBさんやCさんを紹介してくれるわけだ。で、Aさんは「一緒に働いているThe Avs Girlさんと、そのだんなさんよ。」とBさんやCさんに伝え、私達には「幼馴染みのBさんとCさんよ」と言って、その場を離れる。すると、残された私達だけで、紹介された以上はなんらかの会話を進めなければならない。一応自己紹介くらいはするが、そんな短い時間でどうやって相手を知ることができるだろう?しかも、それほど知り合いたい、と思って話をしているわけではない。ということは無難な話、天気や出身地や仕事の話だけで、「友達のように」会話を続けなければいけない。私達はそういった、その場限りの会話というのが苦痛にしか思えず、よっぽど行かなければいけないイベントやパーティ以外は一切行かないし、行ったとしても、1時間もいればいいところで、そそくさと帰ってしまうのがオチだ。結局のところ、私もだんなも「友達」とはお互いを「吟味」しあって、心から「理解」と「信頼」をしあえて、ちょっと嫌なところがあったとしても、まだなお「大切」に思える人のことのように思える。だから私達は「知人」は多いが、「友達」と呼べるのは本当に少ない。そんな私が、つい最近、日本にいる数少ない素敵な友達と久しぶりに会話が弾んだ。声を聞くのは日本に最後に帰って以来なので5年ぶりだった。でも、彼女達はやっぱり声を聞いた瞬間、くったくなく笑い、冗談を言い、距離感の全くない会話をし、血こそ繋がってはいないが、今も家族以上の存在で在り続けてくれていた。そして、それはどんな素晴らしい本や、おいしい ご飯にも勝る元気を私に与えてくれたのだった。たくさんの「知人」を「友達」と思い違えてるよりも、ほんの一握りだけであっても、生涯を通じて付き合える「本当」の「友達」がいるほうが、ずっと幸せだと思う。そして、私はそんな「友達」が片手で数える程も、いることに感謝している。。。。
2010年07月10日
コメント(6)
戻ってきてみた。。。。友人の鉄平ママさんに昨日電話で話した時「ブログくらい続けてくれてたら、電話がなくとも、ああ、元気なんやな、ってわかるのに」と、言われて、ちょっとうれしくなって、やる気がでたのかもしれない。一応コメントの荒しだけは削除して、さぁ、どうしたもんだか。何から書けばいいのやら。。。とりあえず、復帰するかも、ということなのかな、これって。。。
2010年07月09日
コメント(2)
全7件 (7件中 1-7件目)
1