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2022年02月04日
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2月に入りました。寒さも一段落と思ったらどうしてどうして、今日も雨模様で気温も低く5℃しかありません。でも猫たちは元気にしています。
2022年02月04日
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七夕の日に久しぶりにマキコさんが来てくれたので、シュウマイを二人で作りました。マキコさんとシュウマイ巻き巻きこれを蒸します。完成しました!いただきます!美味しいぃぃぃ。一人10個づつペロリと食べちゃいました
2021年07月08日
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2021年(令和3年)3月14日(日)トルコに移住してから26年経ちました。26年前の今日は、52歳の私が愛犬ビクターを連れて、夕闇迫るイスタンブールのアタテュルク空港に、不安と期待のない混ざる、張り裂けそうな思いで降り立ち、生涯を賭けた大冒険の第一歩を踏み出した、忘れ得ぬ渡航記念日です。かぁちゃん行くなよ、と最後まで引き留める息子に成田空港まで送られ、モスクワで給油のトルコ航空直行便で15時間後にやっと到着、出発前日に娘の会社のファックスに送った、漫画のような絵の原稿が数日前に古荷物から出てきました。本日はあいにく厳しい外出禁止令が出ているので、朝食も目玉焼きなど焼いて独りで祝います。明日からはトルコ暮らし27年目に突入です。皆様、今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。 madamkaseこと 加瀬由美子出発前日に私が娘の会社に描いて送ったファックスの絵。こんなことをしていると不退転の決意で旅立つ人には見えません。根はとことん、楽天家なのでしょう。去年の初めころから中国の武漢市で発生したと言われる新型コロナウイルスは、その後瞬く間に世界中に広がり、正体や対策のわからない疫病として不気味な影響を及ぼしているため、トルコの政令で厳しい外出禁止令が出されています。私も朝から家に閉じこもって、朝食に目玉焼きでだるまさんの両眼にたとえ、無事に26年過ごせたことをお祝いしました。夕方になってからせっかくの日曜の夜、手間暇かかるけれどもやっぱりかせ餃子を食べたいと思い、キャベツ、白菜を茹でてみじん切りにし、玉ねぎ、青ネギの青味部分は生のままでみじん切りに、にんにくと生姜もたっぷり擂りおろし、挽き肉は練って練ってまろやかにし小粒の鶏卵2個、片栗粉、塩、胡椒、鰹節だしを加え、前夜カットして置いたユフカにくるみ、味見に2個ばかり焼いてみたら、目分量でバッチリ求める味になっていました。自作の手揉みほうじ茶で、渡航記念日の夜をじっくりと味わいました。それにしても、ちょっとたべすぎですね。反省!6匹の猫たちにも、夕飯にドネルケバブの切り落としをたっぷり混ぜた餌を与えたので、全員おとなしくソファーで寝ていて、くれくれオグリも膝にしがみついて来ませんでした。それに猫たちのソファーが、こんなに素晴らしい新品同様のものになったのです。わが家のボロボロだったソファは、2月の中旬にウスタさんの奥さんが、自宅で必要のなくなったベッドカバーをプレゼントしてくれたので、持ち歩きの出来る小さなミシンを持って来て、ウスタさん自らが元のソファの形に合わせて裁断し、何日かの間にこんなにきれいな新品同様のソファにしてくれたのでした。同じ生地で、猫足型の腰掛もカバーを縫ってくれたので、こんな風に6匹の猫たちもおとなしく寝るようになりました。トルコに来て26年、過ぎてしまえばあっと言う間だったような気がしますが、やっと開いたレストランを横取りされたり、その次に開いた海を見下ろす絶景のレストランは開店半年後1998年6月半ばに、家主のホテル側が貸してくれた、メンテナンスをしたことなしという古い冷蔵庫のフロンガスが大爆発、新築のレストランそのものが雲散霧消、バラバラになって隣近所の屋根の上に吹き飛ばされてしまい、何ヵ月も営業出来ず、やっと改築して営業再開しても、「また爆発するかもしれない」と風評が飛び交い、客足はすっかり途絶えてしまいました。しかも、1999年8月17日にはマルマラ大震災で高いビルの上なので危ない、と思われて、毎日閑古鳥の鳴かない日はありませんでした。マルマラ大震災のあと、10月19日のまだ明けやらぬ早朝、日本政府から派遣された海上自衛隊の巨大な護衛艦おおすみ、補給艦ときわ、掃海母艦ぶんごの3隻が、500戸分のプレハブ住宅を飛行甲板に積載して、イスタンブール・アジア側ハイダルパシャ貨物専用埠頭に到着、4日間停泊し積み荷を降ろして、トルコに大きな福音をもたらしてくれたのだでした。その日の夕方、補給艦ときわのボイラー科の乗務員さんたちが、ガイドブックで探し当てたというかせレストランを7~8人ずつ交代で訪れてくれて、夜の客のめっきり減ってしまった店に、干天の慈雨ともいうべき潤いをもたらしてくれたのでした。心から感謝しています。10月23日早朝、まだ朝霧の晴れないうちに、3隻の巨大艦隊は粛々と黒海を目指して船出して行きました。私には今のところまだ、著書としてはたった1冊の単行本「犬と三日月 イスタンブールの七年」があるのみですが、死ぬ前にまでにせめてもう一つ、トルコを舞台にした小説を書きたいと思っています。人間万事塞翁が馬、でも、こうして数々の窮地に陥った事件を振り返ってみると、私を救い出すものは、結局のところ、自分の地道な努力だけしかないのだ、と言うことを悟りました。いま、Covid-19という前代未聞の怪物のような伝染病に汚染されてしまった地球。どんな国際的イベントでもみんながみんなマスクをかけている映像や写真を見るたび、異様なものを見ている気がします。でもこれも、自分を守ることがすなわち家族、地域、自分達の街ひいては国を守ることであると、トルコに住んでいろいろな事件に遭遇した私の思いはそこに行き着くのです。それにしてもコロナ禍が早く終息して、自由に祖国との間を往来したり、旅行に出かけたい。日々、願いはそればかり。地球に平和な日々が早く戻ってほしいです。
2021年03月16日
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日本ではいつの頃からか、今日2月22日をにゃんにゃんにゃんと読んで、猫の日、と言うことになっているようです。猫達のバイラム(お祭り)に相応しい、美味しいものをご馳走してやりたい、と12時少し過ぎにタクタキ坂を上って買い物に出ました。このところ気候もぐずついて、寒い日が多かったのですが、先週末から気温も暖かになり、坂の上から見ると青空がくっきりと広がっています。 何かいいことがあるような予感もしました。最後にいつも利用しているジハンギル・ロカンタスに寄って、晩御飯のおかずを買っていこうと店に入った途端、携帯が鳴って、10日前にとある間違いから下の階に住むイサベラさんに頂いた、誕生日ケーキの半分を届けに行ったマキコさんからでした。 「今日、お家におられるようなら、2時半か3時ころまでにお届けしたいものがあるのでお伺いしたいのですが・・・」とのこと。夫君が午後からミーティングがあるため、2時間ほどこちら方面に来るので送って貰うことになったのだそうです。「あら、それなら、わが家で遅いランチでもいかが? 休み中に餃子をたくさん作ったのよ」 いいことって、これに違いありません。家に戻って大急ぎでサロンの掃除をしました。3時15分前頃、マキコさん登場。ちょうど1年前、日本からあたふたとイスタンブールに帰ってきた私が、マキコさんが日本にネット注文した和食の材料や、ヒートテックなどすべてを娘の家に届けるよう、アマゾンに手配したので、私がトルコに帰るにあたって、キャリーケースとそこに入りきれないものは自分のスーツケースにもぎゅう詰めにしてすべて運んできた、というわけです。 マキコさんが今日わが家を訪ねてくれた理由が、「たくさんの品を運んでいただいたのに、長い間お返し出来なかったそのキャリーケースをお持ちしたかったのです」とのことでした。 ちょうど私にも、マキコさんに今度来て貰えることがあったら、2018年の夏から2年半も楽天のサーバーの不具合から、書いては送り、書いては送りしても、送信する傍から消えてしまっていたので、その後怖くて何も出来なくなってしまったいきさつがあり、それを見てほしい、という願いがありました。 やっと楽天ブログのサーバーが稼働するようになったものの、私のようにパソコンについてよく知らないユーザーにとって、下書きシステムががらりと変わってしまい、何度も挑戦したのですが、無事に送信まで行かず、とうとう2年半以上も途切れたままになってしまった悲しい出来事です。 マキコさんが今度わが家に来られるときには、「madamkaseのトルコ行進曲」を復活させたい、どこをどうすればいいのか教えてほしい、と言うつもりだったのです。 さあ、本日餃子の中味は休み中に作っておいたので、それを包んで焼くばかりにしているあいだに、私のパソコンを操作しながら、見本として2~3枚の写真を入れ、マキコさんはその続きを食後また教えてくれることになりました。 私の自慢の餃子です。ことに今回は青ネギの濃い緑の部分とにんにくをたくさん入れ、白菜もキャベツも玉ねぎもたんまり入っていて、挽き肉も練りに練って精魂込めて、自分でもこれ以上のものは出来まい、と思えるほど美味しく出来た餃子です。マキコさんにも食べて貰いたいなあ、と思っていたら、早速以心伝心か、マキコさんに通じたような気がします。そして彼女は美味しい、美味しいの連発で、ついつい親心が出てしまい、これも食べていいよ、と自分の皿の分も食べて貰いました。作り手冥利に尽きる思いだったのです。 そして、食後少しの間パソコンに移動して手順を復習して貰い、マキコさんが5時過ぎに帰った後、撮ったばかりのランチの写真を載せるところまで、教わった通りにやってみました。まだ、現在のスマホで撮った写真の縮小など、問題点はたくさんありますが、今日2人の写真で楽天ブログを復活させることが出来るかどうか、これで試してみます。神様、お助け下さい。どうぞうまく行きますように❣ 一反木綿風なかせ餃子マキコさんと私マキコさんがセルフィーでツーショットを写してくれました。
2021年02月23日
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【 9月1日・土曜日 】 わが家のあるチュクルジュマ通りに、やっと舗装の順番が回ってきました。 むむ、これは何でしょうか、花模様みたいな板は? これはチュクルジュマ・ジャーミイのモスクの前のカルドゥルム(歩道=石畳のこと)の舗装をしているのですが、ベトン(コンクリート)を流し込んで、表面を均し、真っ赤な粉を全体に撒いて色を付けます。 その上に今度は石灰みたいなものを撒いて、赤い色を定着させます。 ベトンが固まらないうちに、何やら始まりました。ややや、さっきの版画のバレン風なゴム製の板を載せ、おじさんが踏みつけています。さっき撒いた赤い粉が飛んで、ジャーミイの大理石の石段がちょっと赤くなっていますが、後で水洗いすると落ちるので大丈夫。 うっそ~! こうやって、版画のバレン風なみたいな固いゴム製の型を、まだ柔らかいベトンの上に1枚1枚敷いて、人力で踏みつけて模様を付けます。わっはっは、可愛いことをやっているじゃあないですか。 実は何ヵ月も前から、楽天ブログがいつの間にか、マイクロソフト・エッジをブラウザに使っている人のブログ編集が出来ないような事態となって、4月頃にカプジュ一家が出て行った話の後、何を書いてもわけもわからず、パッパラパ~と消えてしまっていたのです。 そのうちに、ブログの編集画面に、原因不明でマイクロソフト・エッジをブラウザに使っている人に限ってそういう現象が起きるので、原因究明に努力していますが、一時的にブラウザを他社の物に変えることをお勧めします、というお知らせが来たのです。でもブラウザってなんだか知らない私に、そんな芸当が出来るわけもなく、いつものお助けマン、イブラヒムさんに電話してみると、遠方の妹さんの家に滞在しているので、あと数日しないと戻れません、と言うお話。 そこに持ってきて、私のデジカメからパソコンに写真が取り込めなくなり、もう、どうにもならなくなり、もう一人の友人のヒクメットさんのところにパソコンを持ち込み、写真は何とか取り込めるようになり、しかも翌日、ブラウザをグーグルクロームに変えて貰い、つい先日、8月下旬のゲリラ豪雨でドロドロになった道と、9月4日のアラム・ギュルユズ監督の葬儀の件をブログに書き込むことが出来たのでした。 そこで幾日か前に、忙しい最中に、半徹夜で9月1日からのチュクルジュマ通りの舗装の模様を、事細かに書いて、写真も入れ編集画面を完成させて、公開、というボタンをクリックしたら、なんとまあ、事前にヒクメットさんに教わったグーグルクローム使用の操作をするのを忘れてしまっていて、これがどこに消えたか、また2時間くらいかけてあっちだこっちだと探しても、とうとう出て来ませんでした。 本日は幸いにして、グーグルクロームの表示画面が変わって、そこに一つ、新しいボタンが見えたので、クリックしてからブログの管理に入り、「日記を書く」をクリックして、こわごわ1行だけ編集画面に打って、下書き保存を押してみたら出来たではありませんか。 試しに編集画面に戻り、数枚の写真を貼り付けてみたら、ブログらしくなったので公開してみます。 ただし、これからまた外出しなくてはならないので、この続きはまた後刻、あるいは後日完成させて、これから先、ブログも順調に行くように努力してまいります。ではまたのちほど。
2018年09月20日
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【 9月4日・火曜日 】 昨年の10月頃、わが家の元の持ち主で、数年前から脚本家になるための勉強を始め、トルコ映画界の大御所、アラム・ギュルユズ監督に育てられたジハン・ビルギンさんの紹介で、アラム・ギュルユズ監督と出会い、大御所風を吹かすようなお方でなく、たいそう気さくな、冗談がポンポン飛び出すようなお人柄に魅せられて、ジハンさんの脚本、アラム監督のメガホンで日土合作映画を作ろうではないか、とのオファーに同意したのだった。 是非ともプロジェクトを起こそうではないか、と監督が言われたので、日本の映画制作会社、プロデューサーの知りあいの方々にも相談してみた。しかし、トルコでは前年のクーデター未遂事件、相次ぐテロの舞台になっているなど、政治的にも不安定要素が多く、日本側でこの話に乗ってくれるかどうか、いきなり合作映画と言っても大変難しい状況だった。 今年に入って私がわけもわからず多忙となって、その話を具体的に進めることが出来ない間に、なんとお元気に見えたアラム監督が9月1日、卒然と亡くなってしまった、というのだった。享年87歳、心筋梗塞を起こしたと察せられる。 ジハンさんに電話で聞いても、監督と懇意の誰しもがあまりの急な訃報にただただ驚いているばかりだという。ジハンさんにアルメニア教会の場所を教わり、現地で会う約束をして、私はアラム監督の生まれ育ったシシリー区にあるアルメニア正教の教会での葬儀に参列するため、4日の12時半過ぎには教会と隣り合う墓地の葬儀場に到着し、午後1時からの式典に加わったのだった。 イスラーム教のお葬式にも数限りなく参列してきたが、アルメニア人の家族の子としてイスタンブールで生まれ、トルコ人として成長し、映画界で大活躍された監督さんとは、晩年に2度お会いしたきりだったが、2度とも監督さんと一緒に映画の件を話し合った息子のフェルディさんにお悔やみを述べ、これからも会いましょうと約束したが、こうして埋葬の場に立ち尽くしているというのは、自分にとってはひどく悲しい出来事だった。 空には秋の気配を感じさせる大きな流れ雲が風に流されて次々に現れては消える。俳優が沢山住んでいるジハンギルでときどき見かける、顔見知りの俳優さんの幾人かも野辺送りに来ていて、ふとこれも何か映画の一シーンのようにも思えた。シシリー区の中心地、メジディエキョイの交差点の近くにアルメニア教会の墓地があります。大きな流れ雲が北の方から次々と現れては、タキシム広場のあるベイオール方面に消えてゆきます。参列した男性たちのスコップがギュルユズ家の墓地を深く掘り起こします。アルメニア正教はオーソドックスのキリスト教なので、イスラーム教と埋葬の仕方はほぼ同じです。友人代表(と思われる人)の挨拶。たくさんの花輪が捧げられました。トルコは今もアルメニアと国交断絶状態が続いているので、報道陣が沢山押し掛ける、トルコの有名人の葬儀とは異なり、ジャーミイの境内がマイクやカメラを持った人々でごった返している、などと言うこともなく、極めて静粛な2時間ほどでした。 イスラーム教の葬儀には24年の間に何度も参列して、トルコ人とあまり変わらない近所づきあいをしている私は、遠隔地の知りあいの葬儀に間に合わなければ、日を改めてお悔やみに行ったり、墓参りにも行ったりしているが、アルメニア正教の葬儀に出たのは初めてだった。 しかし、イスラーム教ももともとはキリスト教から派生した宗教だし、葬儀の仕方もあまり大きく変わるところはない。僧侶が物悲しい声を張り上げてクルアン(コーラン)を読経したり、キリスト教では司祭や牧師たちが、涙を誘われる切ない送葬の歌などを歌うことも似ているし、そう言えば、わが仏教も葬式には僧侶の読経や冥途への旅の話に泣かされたりするものだ。 宗教の違いが戦争の原因になるのではなく、宗教を利用して国民を従わせるために、時の権力者のせいで戦争が起こる。人と人は宗教が違っても、ほんとうに信仰心が篤ければ、互いに敬意を払い、隣人愛に満ちて暮らせる筈なのである。 イスラーム教の葬儀では、故人の息子や兄弟や孫など、まず近親者が最初に墓地の土にスコップをふるい、そのあと友人、近所の人、その他の参列者が交替で掘り、穴が適度な大きさ深さに達すると柩から白いケフェン(麻布)に包まれた遺体を丁寧に担ぎ出して穴に収め、僧侶たちの切ない読経の声に涙を誘われながら、また近親者や友人達が埋葬の土を亡骸の上にかけて行き、土がうず高く盛り上がったところに、寄贈された花輪や花束を載せ、参列者が花を1本ずつ手にして墓に捧げ、喪主や友人代表などの挨拶の後、散会となる。 また、イスラーム教では宗派によって、女性は一切埋葬に立ち会わない地方もある。ジャーミイで葬儀をしても、男性は本堂で、女性は二階の女性専用席で供養する。日本でも妻とか子供が先立つと、「不孝者」として一家の長である喪主は埋葬に行かない、というような地域も昔は普通にあったものだ。 今日のアラム監督の葬儀も、喪主である子息のフェルディ氏は、葬儀委員長のような立場の人に一切をゆだねていたらしい。散会のとき、通路に立って一族の人々とともに、参列者にお礼の挨拶をしていた。フェルディ氏もトルコの映画界で音声技師として有名な人である。彼と握手をしながら再会を約束し、そのあとジハンさんとも出会うことが出来て、互いにお悔やみの言葉を交わして今日のところは別れた。3時過ぎ、私は一人で胸に去来するいろいろなことを考えつつ墓地を後にしたのだった。アルメニアの伝統的な八角形のドーム屋根など、墓地の中央あたりにある広場で見られるアルメニア使徒教会(正教会)の建物の模型。右の人物はアルメニア正教の聖人、「啓蒙者グレゴリオ」の像。 去年知り合ったのち、ネットでアラム監督の履歴を検索し、残した作品が多いのにびっくりしたものだ。ざっとだが、ここでご紹介したい。 87年前、アラム監督はきっとまだ緑豊かだった山の手の住宅街、シシリー区に生まれ、カレッジ卒業後に兵役で朝鮮戦争に送られたが、やがて1955年停戦となり、兵役を終えるとすぐ電気技師として大英航空(ブリティッシュエアウェイズ)に就職、ロンドンで勤務していたが、その頃、創成期だったテレビ放送の教育を受けた。 のちに韓国で戦友だったハリット・レフィー氏の激励を受けてメトロ・フィルムを創設、映画産業にプロデューサーとして参入した。のちに、シナリオライター、プロデューサー、監督など、一人で何役もこなし乍ら、早撮りの名人、喜劇界の重鎮、などなどたくさんの名声を欲しいままにした。 1965年に結婚した相思相愛のギョニュル夫人を、3年程前に亡くした後、しばらくはメガホンも置いてしまい、友達ともあまり付き合わず隠遁生活者のように暮らしていたのだそうだが、監督の指導を受けていたシナリオライター候補生の一人で、わが家の元の持ち主だったジハンさんの書いた、日本人を題材にした物語に興味を示し、彼の書いたシナリオをもとに、日本の映画会社との合作映画を撮る気になって、昨年秋、ジハンさんを通じて私にコーディネーターとしてのオファーがあったのだった。 今、タキシム広場と同様、メジディエキョイの周辺は新しい地下鉄路線の工事などで、大変な喧騒が10年以上も続いている。こよなく愛しておられたというシシリーの街で、外の喧騒が嘘のように静かな墓苑の、亡きご両親や夫人のそばで、アラム監督、どうぞ安らかにお眠りください。合掌
2018年09月05日
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【 9月4日・火曜日 】 昨年(2017)1月、イスタンブールきっての繁華街イスティクラール通りは、工期1年の予定で全面的に改修工事に入ることになり、まずは全行程2キロ弱が車両進入禁止となって、名物のチンチン電車ノスタルジック・トラムワイも向こう1年間休業となり、ほぼ同じころ、イスティクラール通りの入り口にあたるタキシム広場の一角に、巨大なジャーミイ(イスラーム教寺院=モスク)建設の杭打ち式が賑々しく敢行された。 イスティクラール通りはあちらこちらのポイントから掘削工事が始まり、人間も通行禁止の箇所が増え、すべての掘削が終わるまで約半年、夏の暑い盛りにも埋戻しに取り掛かる様子が見られず、雨が降ればドロドロ、風が吹けばものすごい土埃、砂埃。そして埋め戻し工事と舗装工事にまた半年余り。 わが家からイスティクラール通りに出る最短距離として、ガラタサライ高校の敷地に張り巡らされた高い塀の脇を通る細道があるのだが、そこからイスティクラール通りに出てすぐに、掘削の始まる少し前に新装開店したカフェがあったのに、開店休業状態で潰れてしまったらしく、今年の春頃、チンチン電車も復活したものの、私もその店の名前も憶えないうちにまた貸し店舗の看板が出ていた。 アヤソフィア博物館やブルーモスク、トプカプ宮殿のある、イスタンブール観光のメッカ、スルタンアフメット広場などでは、本格的に隅切りのブロック石が丁寧に埋め込まれて、平らな広場になって歩きやすいが、イスティクラール通りも新市街の観光メッカだというのに、仕上げの道路面の舗装は極めてお粗末で、ベトン(コンクリート)を流し、柄付きの大きなへらでならした後、ブロックの模様が刻まれたゴム製のカルプ(型)を並べておき、上から押して模様を付け、ほどなく乾いたら型をはがして、またその先に並べて模様を付ける、要するに印刷工法、版画みたいなものである。 これらはしばらくの間は見栄えもいいが、車が通ると一番上の模様がどんどんすり減って、小石が沢山混じったコンクリートがむき出しになってくる。当然道はまたデコボコに。イスティクラール通りは歩行者天国なので、しばらくは持つのだが、それでも5年くらいするとまた道路付け替え工事で1年以上閉鎖になる、そういう繰り返しだった。 さきほど書いたわが家からイスティクラール通りへの近道は、イスティクラール通りを横切ってほかの地区に行く抜け道になっているため、車の通りが激しく、2年もするとガタガタになる。わが家の前のチュクルジュマ通りもそういう道の一つであるから、道路工事が完成しても寿命はごく短いのだった。現にジハンギルに出るタクタキ坂は、おととし工事がなされたばかりなのに、もう砂利石が露出していて、底の薄い靴や、ビーチサンダルなどで歩いている旅行者にとっては、足の裏がひどく痛くなる道なのである。 実際に今回、天下のイスティクラール通りがシャッター商店街のようになってしまった期間は1年以上だったと思う。幸いにアラブ諸国からの旅行客初め、今年2018年の夏はかなりツーリストの数も復活し、注目のタキシム広場のモスクはドーム屋根も付属施設もほぼ完成し、最近ミナレ(尖塔)の1基が建て始められた。このモスクの名前が素直にタキシム・ジャーミイになるのか、それとも現大統領の名前が付けられるのか、10月29日に開港となる第3空港の名前が新アタテュルク空港となるのか、それともこれも現大統領の名前、レジェップ・タイイップ・エルドアン空港となるのか、国民はほぼあきらめムードで、トルコリラの大暴落で失業者も激増、空港の名前などもうどうにでもなれ、というほどである。 さて、イスティクラール通りからすると、道幅も狭いチュクルジュマ一帯の道路付け替え工事は、どこからどこまで車両通行止めにして、抜け道がほとんどないために、チュクルジュマに増えた自炊の出来るスイート・ホテル群にこの夏予約した人々には、本当に気の毒な状態の工事が始まり、既に2ヵ月余り、さっぱり進展がなく、送り迎えの車もタクシーも通りに入れないので、大荷物を引っ張れないため、友達同士で支えあって運んだり、一家のお父さんが両肩にリュック、頭の上にスーツケースを担ぐという、すごい格好でデコボコ道をよろよろ歩く始末なのだ。 なんとも気の毒なイスタンブールの思い出になってしまうだろう。もう二度と来たくない、と思っているに違いない。ホテル側もインターネットで工事中のチュクルジュマ通りの写真などを載せればいいのだが、そうすると誰も泊まりに来やしないよね。 今日の写真は、この辺りの工事が始まって1ヵ月余り経った去る7月25日、軍事博物館帰りの私が、メフテルの友人にお土産に貰ったキュネフェの袋や、途中で野菜などを買った袋をぶら下げ、白いパンタロンを汚すまいと、少しまくり上げてチュクルジュマ通りに足を踏み入れたときの記念写真。 も~う、原始的なやっつけ工事で、大勢の奴隷がモッコで土を運んでいる古代エジプト時代の王様の墓、ピラミッドでも造っているかのような様相を呈している。21世紀に入って18年も過ぎているというのに。とにかくどの道でも端から端まで掘り返してからでないと、埋戻しを始めない、通れなくなった車や、歩きにくくてスーツケースも転がせないツーリスト(観光客用の滞在型ホテルやペンションが多い)や、地元の毎日出歩かなくてはならない人の迷惑など、どこ吹く風ののんびりムードでやっているお役所仕事のせいで、いつ出来上がるのか、全然公表もされないし、毎日じりじりしながら見ている我々にも見当もつかない。本当にどうしてこうなんだろう!チュクルジュマ・ジャーミイの階段の上にカメラを置いて、これも自動シャッターで写しました。なんとも情けない格好ですが、毎日こうです。後ろの方がわが家の方向。(7月25日撮影)やっと玄関の前までたどり着きました。せっかく野良ネコちゃんが出迎えてくれたのですが、荷物が重いので片手でソーセージを取り出すことも出来ず、お愛想なしでごめんね。うちのアパルトマンの玄関の重いガラス扉は、工事の始まる少し前、誰かが引っ越ししていって、大きなドラップ(タンス)が出せないので、左側のドアの蝶番を壊して出て行ってしまい、それきり閉めることが出来ず、ヨネッティジにいくら電話しても見積もりを取っている最中だと言い、もう3ヵ月も開きっぱなし、泥棒でも誰でも自由に入れてしまいます。7月25日、私の留守中(軍事博物館でコンサート観賞中)に、ものすごい豪雨がメフテル・コンサートの舞台の後ろに見えました。博物館とチュクルジュマは遠くではないので、その時の雨にチュクルジュマの道路も十分ドロドロになったようです。かつては観光客でにぎわったという、骨董品店がずらりと並んでいたチュクルジュマ通りはいま、こんな風に地元の人さえ歩くのに困るような状態です。 私が超多忙だった、と言うこともあるのだが、実はこのパソコンがwindows10を搭載し、ブラウザとして Microsoft Edge を使っていたために、4月以降、楽天ブログの編集画面に何一つ書き込みや編集が出来なくなってしまっていたため、自分では直しようもなく、パソコンお助けマンのイブラヒムさんも遠方の親戚の家に滞在中だったため、たまたま8月30日以来、写真もパソコンに取り込めなくなる、というハプニングで更に困ってしまったた私は、別な友人ヒクメットさんに見て貰い、なんとか難問が解決され、試しに本日からブログに書き込めるかどうか試してみたら、書き込めたのだけど、いざ公開した画面には、下書き中には全然間違っていなかったはずの単語などが、ひどい誤変換で慌てさせられた。 それにまた、楽天ブログは今年の4月に過去の編集画面を廃止し、新しい編集画面に切り替えたため、忙しい日々を送っていた私はいきなり新画面に遭遇して戸惑い、そのうちに楽天ブログがFacebookとの提携もやめてしまったので、Facebookのタイムラインの記事や写真をそのままブログに応用するわけにもいかなくなったため、なんとmadamkaseのトルコ行進曲は今年に入ってからたった数回しか記載出来なかったのだ。 これからは、少しずつでも順調に進められるように、また過去に書き逃した日の記事も、1年以内なら挿入出来るとのことで、こちらも試してゆきたいと思っている。 そういうわけで、どうぞ皆様、当分の間、ご勘弁くださいませ。 madamkase 加瀬由美子
2018年09月05日
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【4月26日・木曜日】 2015年頃から私の住んでいるアパルトマンでは、しばしばアサンソール(エレベーター)が故障したり、廊下と階段を照らす電灯が全くつかなくなったり、入り口についている各ダイレ(フラット)に通じるジル(呼び鈴)がまったく機能しなくなったりするようなことが多くなってきた。ビルは地上7階・地下1階建てで、地上階にはエレベーターとらせん階段を挟んで廊下の両側に、入り口が向かい合わせの2軒の家がある。 イスタンブール新市街のランドマークであるタキシム広場から、若い人の足なら5~6分でスラセルビレル通りの坂道を降りて来られる距離にあるチュクルジュマは、ジハンギルの商店街のすぐ西側に位置し、トルコ随一の名門ガラタサライ高校のある、トルコ銀座とも呼ばれるイスティクラール通りにも通じる非常に便利なところで、骨董品店が軒を連ねていることでも知られている。 ところがこのアパルトマンはもう5年ほど前から、住民の中から互選でヨネッティジ(管理人)を選んで運営されてきた住民会議の出席者が年々減り、最後のヨネッティジを数年勤めたAさんという女性が、会議を開こうとしても、6号室のS氏(トルコ国籍を持つ外国人)と8号室の私だけしか出席しないことが続いたため、とうとうヨネッティジを降りてしまい、元カプジュが好き放題にのさばる原因となってしまった。 かつてはアパルトマンの清掃、ちょっとしたメンテナンス、住民に頼まれた1日2回の買い物サービスを、1戸あたり月額いくらのアイダット(月給)をヨネッティジが集めてカプジュに渡していたものが、ヨネッティジが居なくなると、自分で勝手に値上げして自分で勝手に集めて歩き、数字の根拠も示さないし、領収書も出さない。3年前にこうした状況に不安を感じたAさんとEさん、二人の女性が、ヨネッティジ業務を専門に引き受ける会社があるので、それらの中から建築業のムラット氏にヨネッティジ代行者として依頼し、これには住民のみんなが賛成して、2016年からこのシステムでアパルトマンは再スタートしたのだった。 娘が、いまに家賃が高騰して払えなくなる時が来るかもしれない、と父親から相続した遺産で、現在の家を購入したのが1998年、私もジハンギルの借家の契約が切れるまで住んで、1999年8月には娘の家に移り住んだ。当時はすべての住民が持ち主の一家だったが、娘の予想通り、その後タキシム広場に近いジハンギルとチュクルジュマは地価が高騰し、半数以上が貸家として家を出て、自分達はもっと低廉な郊外に転居したりして、現在では家主がそのまま住んでいるのはうちを入れて4軒だけになってしまった。 かつて、14戸の住民(家主)と、1階の二つの店舗で16軒の住民のうち、3軒ほどがカプジュのアイダットを何年も払わない連中がいて、カプジュがいくら催促しても払わないため、とうとう彼ら3者を訴える代わりに、カプジュは16軒すべてを相手取って裁判所に訴訟を起こしたのだった。これはムラット氏をヨネッティジに依頼したすぐあとのことである。カプジュはこの件をムラット氏にも告げず、もちろん住民の誰一人として知らないうちに、駆け込み寺ならぬ裁判所に駆け込んだのである。 ところが裁判所からの、調停日時を知らせた公文書の封筒を、カプジュが懐に仕舞い込んで正規の受取人であるヨネッティジあるいは住民たちには一言も言わず、当日自分だけが裁判所に行き、22年勤めたので8000日くらい働いたのに、住民たちは自分にたった18日しか休暇を与えず、1日16時間勤務させてしかも、ろくにアイダットを払わず、食うにも困るありさまだ、と言いたい放題の嘘っぱちをついて帰ってきたらしい。 もちろん、誰一人出席しなかった住民側は、当然裁判所の呼び出しを無視したうえ、雇用していたカプジュを社会保険にも加入させなかった、などと言う複数の罪状を問われ、イシクル(労働省の監督機関の一つ)から、まともな勤務をしていた場合のカプジュの退職金にも相当する高額な金額を罰金として国庫に納める義務が課され、私たち住民は1戸あたり5000リラ(当時のレートで20万円弱)に近い金額を数回の月賦で否応なしに払わされることになった。 すると、アイダットを払わなかった3軒は住民グループから離脱して、これはびっくり、カプジュの肩を持つことになった。そして、カプジュが退職金としてまともに働いていたなら50,000トルコリラくらいを受け取る権利があるのに、実際にうちのカプジュが16時間働かされた、と言うのは大ウソで、8時間すら働かず、アパルトマンを抜け出してはほかの店やら仕事やらに行ってしまっており、住民がカプジュに何か頼もうと思ってもいなかったり、アパルトマン内の廊下や階段、アサンソールの中もろくに掃除をしないのでいつも小汚いありさま。 2005年までは冬場連日、朝から夕方まで石炭を焚いて、セントラルヒーティングの管理をしなくてはならなかったのに、天然ガスの導入で、カプジュは自分の家のストーブの薪割りだけすればよくなったのである。だから、平然とよそにアルバイトに行き、本来の自分が雇われているアパルトマンの仕事を思い切りさぼって平気だったのである。 それを知ってアイダットを払わなくなった3軒は、いざとなればカプジュを脅す切り札を持っているわけで、その3軒がカプジュ側の支援者になって、正直な家主グループを相手取って、カプジュが家主グループに関して噓八百並べ立てて、まんまと裁判所をだまし、イシクルに無駄な罰金を払わせたのに味を占めて、退職金を80,000リラ要求してきたところに、悪い奴らが加担していきなり、100,000リラの退職金を要求してきたのだった。 その上、私達がいわれなき罰金を払うのにヒイヒイしていた2017年には、カプジュの強欲な女房が、「アパルトマンの住民たちは、最後の7~8年、掃除婦として自分を働かせておきながら、一銭も料金を払わなかった」と言ってまた新たな裁判を起こしたのだった。この女は私がジハンギルの家に住んでいた頃からのまじめな掃除人、ギュレルさんを辞めさせて仕事のない私を雇ってよ、と顔を見るたびせがむので、ギュレルさんにも相談したら、お宅のカプジュたちは自分と同郷の人間なので、彼女に仕事が見つかるまで、私がマダムの家の仕事をしばらく休んでもいいよ、と天使のように優しい返事が来た。 カプジュの女房がどうして勤め先をしくじるか、というと、以前、ジハンギルの小学校で放課後の掃除に雇われていた時期、学校には年間予算でまとめ買いした洗剤やら掃除用の道具が倉庫に山のように保管されているので、帰りに道具を仕舞に行くふりをして、着ているコートの内側に洗剤を2~3本忍ばせて帰り、別な日にほかの家の掃除に行ったとき、それを途中で買ってきたからお金頂戴、と盗品を売るのである。あまり頻繁に洗剤が減ってしまうので、学校側も在庫調べをしたらしい。当然クビになった。 しかも、仕事をクビになってしばらく家にいたので、私の家に来るギュレルさんの人がいいのに目を付け、まんまとわが家の掃除を彼女から横取りして、そうなると来るたび私の財布から現金を盗んだほかにちゃんと料金も受け取り、自分が来ない日はまだ小学生の娘に、泥棒のやり方を仕込んで、「ジャポン・テイゼ、猫と遊んでもいい?」としばしば遊びに寄こしたものだ。10年前にこれに気づいた私が親心で、警察には突き出さず、母親が注意してやるように、と温情をかけたのに、近所中に「ジャポン・テイゼが私と娘を泥棒だと言っている!」とチュクルジュマ通りから周辺のビルに向かって大声で叫んで訴え、私を嘘つきに仕立てて罪をなすり付けようとしたことがある。でも、「ハハン、あの女、マダムからも泥棒していたんだな」と却って宣伝したかのようになってしまったのである。 それからほどなく、私も知っている人の紹介で女はタキシム広場の少し先、ドイツ総領事館の近くの会社で、アフターファイブの清掃の仕事を得て、「あたしは来月からタキシム広場のそばの会社に働きに行くからもう、あんたの家の掃除には行かないよ!」と偉そうにどや顔で私に通告した。私だっていやだよ、こんな人間雇うの。ところが1ヵ月ちょっとしたらまた夕方でも玄関前に座って、暇そうにしている。彼女を紹介した人が「恥をかいた」と私のところにやってきて真相を話してくれた。 オフィスの掃除の仕事で2時間のパートタイムで雇われた女は、社員が全部帰ってしまった後、掃除ではなく、会社の電話で自分の実家、姉や妹の嫁ぎ先、友達の家などなどに電話をかけ続け、1ヵ月後会社には膨大な市外通話料金が請求されてきたらしい。時刻が全部5時以降で、会社の業務とは無関係の、あっちこっちの県にまたがって長時間通話が続き、1ヵ月の累計では相当な金額になって、その時刻に社内にいるのは掃除の女しかいないので当然ばれることに気がつかず、喋っただけ得をしたかも知れないが、紹介者が呼ばれて嫌味を言われ、給料1ヵ月分だけ電話代は取り上げられ、追い出されてしまったのだそうだ。そりゃあ、紹介者はいい恥をかかされたであろう、気の毒に。 さて、そんなある日、幼いころから膝に抱いたり、髪を結ってやり、親に連れて行って貰えないので、私がときどき彼女の兄も一緒にマクドナルドやバーガーキングに連れて行ってやり、孫のように可愛がっていたのに、親の血を引いてふてぶてしい口答え女になりつつあったこのカプジュの娘は、泥棒事件が発覚したしばらく後、謝りたいからうちに来てほしい、と電話をしてきたので、地下室のカプジュの家まで降りて行くと、母親が戸口で仁王立ちになっていて、「この前は、うちの娘を泥棒扱いしてくれたね、落とし前をどうつけてくれるのさ!」と喚いた。 「この子の方が謝りたいというから来たのよ、後悔したんだよね、Sちゃんや、どうなの?」というと、13~4歳になっていた娘は「ジャポン・テイゼ、サチマラマ~!(馬鹿言ってんじゃないよ)」と母親よりもっと大声で喚いた。「あんたみたいに、お祈りもしないヤバンジュ(野蛮人、または外国人)はね、どんな目に遭っても文句は言えないんだよ。私たちはちゃんとお祈りや断食もするから、神様はお助け下さるけど、あんたなんか野垂れ死にがせいぜいだよ!、さあさ、お祈りの邪魔だ、帰りな、帰りな」 えっ、この憎まれ口が13,4歳の女の子のセリフだろうか。お前こそ野垂れ死にするぞ、とどなりかえしてやりたいが、それでも私はカプジュのうちが集中豪雨で床上浸水するたびに裸足で棒ぞうきんを持ち、半ズボンを穿いて排水の手伝いに行ってやっていた。時にはひと夏に二度も水浸しになったこともある。そういうとき、自分の懐が苦しいときは、寄付は出来ないがアイダット3ヵ月分を前払いして、窮地を救う手助けをしてきたつもりなのに、なんでそんな女から「カプジュの妻をただ働きさせた一人」として裁判所に訴えられなければいけないのか、恩知らずめ、とつくづく腹が立った。 そして3年前くらいだったか、その女Zの姉妹や近くの友人達3人がアパルトマンの入り口で玄関を塞いで石段に腰かけ、ひまわりの種を食べながら、皮をプップと口からほき出して、あたり一面を汚しながらお喋りしているところに裏庭の猫に餌をやりに出た私が、「Zさん、ひまわりの種の皮、後で掃除しといてね」と言ったとたん、女が私をにらみつけながら「なんで私が掃除するのよ、あたしはね、カプジュじゃないんだよ!」と口答えした。 私も娘よりもっと若い女にこんな口の利き方をされては許せない。「汚した人が自分で掃除するの、常識でしょ。それにあんたもこのアパルトマンに住んでいるんだから玄関くらい掃除してよ」と言うと、女は背が高いので私の胸ぐらをつかまんばかりに上から私を睨みつけ、ひまわりの種臭い口を私の鼻の上に持ってきて憎々しく言った。「このアパルトマンに住んでるんなら、あんたもそうだろ、あんたが掃除してもいいんだよ、たまには!」 開いた口が塞がらない、とはこのことだ。私はそれで心底この女が嫌いになり、ナンキョル(恩知らず)の代表選手はこいつだ、と思い、不快な気持ちで自分の家に戻った。それからだ3年近く、女は夫と共にアパルトマンに居座り続け、新たな裁判でもっと稼ごう、とでもしているのだろう。外出から戻った私が買い物の重いビニール袋を両手にぶら下げて坂道をやっと降りてきたとき、アパルトマンの前に女がいるとうんざりしたものだ。彼女は私を見るとさっとアパルトマンの中に入り、バタンと鉄製の、一枚ガラスの重たいドアを閉めてしまう。 やれやれ、私がビニール袋を下に置き、バッグの中からキーホルダーを探し出して、一番下にある鍵穴にかがみこんで差し込まないと開かないように、わざと戸を閉めてしまうのである。それに数年前から地下室で飼い始めたピットブルのどでかい犬がいて、息子がよそから雌犬を預かり種付けして小金を稼いでいる様子だった。この犬を時々女も散歩に連れて歩いていることがあるが、子犬の時から私を知っているので、アパルトマンの争いのことは知らないから、私をみると喜んで飛びついてくる。 道を歩いていても、女は知らんぷりしているが、犬は尻尾を振り振り、飛びつくともうすでに私の肩に前足を置いても遥かに私より背が高い。近所の人が、「マダム、気を付けた方がいいよ、あの種の犬は飼い主が命令するとたちどころに首根っこに牙を立てることもあるからね」と私に忠告してくれた。それも或いは考えておかなくてはいけないことだ。犬は恩知らずではないが、飼い主の命令に忠実でそう仕込まれたとすれば、たとえ相手が知っている人でもウサギを見つけた猟犬のように飛びかかる恐れは十分ある。 昨日、25日の夜、カプジュ一家が引っ越した、と私に教えてくれた人がいたので、夜10時過ぎ、ごみを捨てに出た時、地下の彼らの部屋の明かりが見えるところから眺めると真っ暗だった。玄関に入ってごそごそ音を立てても、あのデカ犬の唸る声はしない。なるほど、出て行ったのか。 一夜明けてからヨネッティジのアシスタント、シナンさんに電話してみると、「やあ、加瀬ハヌム、みんなの2年の努力が実って、4月24日付で裁判所の立ち退き命令が執行され、25日には最後の荷物を出して、ついに24年間住んでいた地下室から出て行きましたよ」とのことだった。シナンさんは「おめでとうございます、加瀬ハヌム。まだ裁判は結審していないので、具体的なことはわかりませんが、引き続きアパルトマンの皆様たちのために私どもも出来る限りのことはしますよ」と共に喜んでくれた。 かくてこの2年余り、私を悩ませていた一番の問題が一つ解決の方向に向かったことが確認できた。裁判官をだました罪は大きいし、仕事に忠実ではなく、ほかにバイトに行ってしまっていたのも大きな問題で、時には向こうが賠償金をこちらに払わなくてはならない立場となるはずである。まあ、それにしても流血の騒ぎにならなくて本当によかった。それにしても、本当はイスラーム教の教義は正しく寛容なものであることは知っているが、毎日昼間はお祈りに行って、夜は泥棒をして歩く奴もいるし、断食をすればあとの11ヵ月、泥棒しようが詐欺をしようが神様がチャラにしてくれるので、罪にはならない、と考えている人間もいるかと思うと、何ともやりきれない思いがする。 私は断食も毎日のお祈りもしないけど、自分の心の中に神様と一緒にいて貰っているので、こうした人間のことは理解しがたい。心が晴れ晴れ、こんな心境で窓の外を眺めています。
2018年04月26日
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【2月13日・火曜日】 今朝7時半、パソコン机を離れ、朝食に何か作ろうかと台所に行った途端、突然サロンの方からズバン‼と大きな音がしたので急遽見に戻ったら、先月とは別に、パソコン机を置いた側、テレビの真上のビームランプが爆発したようで、部屋は真っ暗、のどが痛くなるような焼け焦げた匂いが部屋中に広がってきました。急いでベランダの出口と東側の台所の窓を開放し、うちわで西側のベランダ方向に悪臭が出て行くよう扇ぎながら様子を見ていましたが、前日かなりの雨が降ったとはいえ、北側の外壁を修理して雨漏りは止まったはずなので、8時を過ぎるのを待って電気屋のハリル・ウスタに電話すると。彼は大きな工事現場に出勤途中で、夕方帰宅するときに5時くらいに寄ってくれるとのことです。 テレビもインターネットも切れてしまったのですが、幸い廊下やふろ場、台所などは配線系統が違うので、電気が使えます。今日は友人と12時半にデートの約束があり、行く前に髪を染めたいと思っていたので、西側にあるサロンだけが停電したため助かった、と思いました。食後、仕事上連絡を取ることになっている人々には電話で連絡を入れました。 10時半ころに染め始めれば十分間に合うと踏み、金髪染料を満遍なく毛根に刷毛で塗り、両手でよくすり込んで、2~30分したら洗髪しながらシャワーでも浴びよう、と置時計を風呂場に持ってきました。時刻は11時を回り、私は洗い流すために再び洗面台に行ってカランの取っ手を持ち上げると、ウンでもスンでもない、えええ! まさかの断水ではありませんか‼ さああ、困った。瞬間湯沸かし器は稼働させるのに水がなくては沸かせません。いざのとき用に洗面台の下に10リットル入りのポリタンクが置いてあるので、その水を鍋2つに入れて台所のガスレンジにかけて急いで沸かし、残った水を足し洗髪にちょうどいい温度に下げて、とにかく染料だけは洗い流そうとしました。バケツに1杯のぬるま湯が出来、次の鍋も火にかけて、洗面台に屈み手桶で染料を流してシャンプーを塗り、ごしごしと洗っているとき、つい断水なのを忘れ、栓のコックをいつもの習慣でひょい、と持ち上げてしまいました。 ありゃりゃ、水道が止まってしまいました。どうすればいいの~!? ポリタンクから鍋に水を移して台所で火にかけました。 さあ、丁度いいぬるま湯が出来たわ、これを使っているうちにあとのお湯も沸くし・・・ 髪を洗っている最中、普段の癖で蛇口のコックを持ち上げたら、こんな風にすごい勢いで冷水が頭の上に噴き出し、風呂場中水浸し、私も慌てて逃げたのにずぶ濡れ。 するとびっくり、ドバーッと冷たい水がほとばしり出て、うわ~っと風呂場中をびしょびしょにしながら私はコックを降ろし、洗面台から逃げました。着ていたインナーも濡れてしまいましたが、この断水はどこかで何かの工事のため3~40分だけ、元栓を止めただけだったようです。先ほど断水の直後に今日デートする友人には電話して、30分くらい遅れるかもしれない、と了解を得ていたので、冷水を浴びてしまったのですぐに風呂桶に入ってシャワーを浴びながら洗髪を完了させ、体を温めてから出かける支度をしました。 友達と私のお昼のデート場所は、たいていタキシム広場のそばのタリマーネ地区にある日本料理の「優曇也」さん。お相手は先月彼女が日本から戻ってきたばかりの時に、夕方私に会いに来てくれて、私も外出先から急いで帰宅、チュクルジュマで落ち合い、家には入らずちょっと1杯、とワインをご馳走になったあのひさえさんです。その時に近々日本からくる彼女のお友達に、私の常備薬バッファリンを頼んで買ってきて貰い、今日はそれを頂きに来たのです。代金を聞いたら「いいからいいから」とプレゼントしてくれたのでした。そのあとひさえさんが、近くのこちらも彼女ごひいきのパブで、小一時間お喋りしながらそれはそれは楽しいひと時を過ごしました。ひさえさん、薬とパブのお洒落な飲み物、ありがとうございました。 優曇也さんにも11月以来チョルル、エスキシェヒール、キュタヒヤ、コンヤなどなど出歩いていたため、3ヵ月以上ご無沙汰、久々の握りずし定食です。 さて、4時頃彼女とタキシム広場で別れたあと、広場の花売りのテントが並ぶ後ろ側に、目覚ましい勢いで建設の進むジャーミイ(モスク)と、それに比べて政府が修復すると言いながらもう10年くらいほったらかしの、ガラスが壊れたままで廃墟のようなAKM(アーケーメー、アタテュルク文化センター)の両建設物を、とても嘆かわしい思いで見比べながらイスティクラール通りに入りました。私の後ろ側に見える円形の建物はジャーミイの本堂、去年の初め基礎の杭打ち式をしてから1年余り、付属の建物と共にどんどん出来上がって行きます。 私の後ろの高いビルはマルマラ・ホテル、左側に半分くらい見えるのがAKM(通称アーケーメー=アタテュルク文化センター)、 もう10年も修理中と言ってほったらかしのまま。モスクなら山ほどあるので、イスタンブールに唯一アタテュルクの名の残る一大文化センター、こっちもせめて一緒に直してやってくれませんか~! イスティクラール通りはウィークデーでもたいそうな賑わいです。この頃は日本人観光客も少しずつツアーが来始めたようです。そうそう、この繁華街の塵芥収集車が最近、全部ピカピカの新台が導入され、通りの舗装も奇麗です。 そして面目一新はノスタルジック・トラムワイ、つまりチンチン電車もお洒落に塗装しなおされて、明日は「恋人たちの日」のためか、飾りつけも賑やかですね。 ずっと先のガラタサライ高校の手前でわき道を左に折れ、途中のショック・マーケットで、米2キロや飲み物やビスケットなど買い込み、かなり重いものを提げて、電気屋さんを待たせてはならじと急ぎ足で家に帰り着き、すぐに水道を確かめると大丈夫、水は出ています。そこで猫達に餌を配った後、ウスタが来る前にと思いながら、掃除機の水を取り換えてせっせとソファや床を掃除し始めました。 ところが5時と言ったのに6時半を過ぎても現れないウスタ、忘れてはいないだろうな、と電話したら今自分のオフィスに戻ってきたところで、15分以内に行きますよ、と言う返事。ほどなく彼が来て、ランプと真っ黒に焼け焦げた電気の導線コイルを穴から外し、ランプの爆発の原因は、雨ではなく、このランプが高温になるので、電線が古くなってコイルに触れていたのがショートを起こしたのだと分かり、ほっとしました。1月29日の外壁の修理後、2度激しい吹き降りの日に様子を見ましたが、これで外壁の亀裂や穴はまずは塞がれて雨漏りはなくなったと思われます。 シゴルタ(安全装置)のブレーカーが落ちているのを確認し、ウスタが焼けた電球とコイルを取り出し、応急処置で電線を絶縁し、来月以降一括修理します。 やっとテレビが見られます。パソコンも出来ますが、今日は連続ドラマを見るため、パソコンは机上に出さないことにして、夕食を済ませました。 わが家のシゴルタ(安全器)もすっかり古くなっているので、これも取り替えた方がいいと思う、とウスタさんからの提案です。本当に危ないし、怖いですよ。かつて冷蔵庫のフロンガスが洩れていて、トルコ式エレベータのモーターに安全のためのボックスがなく、広々とした和風レストランを吹っ飛ばされてとうとう文無しになってしまった私としては・・・爆発だの火事だのはもう嫌‼ 来月まで自分の予定が忙しいので、諸々の用事が済んだ後、家の中の配線工事で駄目なものは全部取り換えよう、ということになり、あああ、また出費がかさむことになりそうですが、安全のため仕方ありません。 まり子さんから仕事上の報告と相談で8時過ぎに電話が来ましたが、ちょうど夕飯の支度が出来て食べる寸前だったので、後で電話するからしばらく待っててね、と10時くらいにこちらから掛けるつもりでいたのですが、さっき重いものをもって急ぎ足で歩いた後すぐ、今度はずっと中腰で掃除機を動かしていたので足腰が痛み、電話する前に少し休もうとソファに腰かけて足を延ばしたら、テレビで毎週楽しみにしている、日本の連ドラのリメイクの「Kadın カドゥン(woman)」という番組を見ていたはずなのに、居眠りしてしまって目が覚めたら11時半、お腹の上に猫が2匹載って寝ており、話の展開など全く見られず気が付いたら最後の場面だったのです。 まり子さんに電話するはずだったのですが、いくら何でもこの時刻では、と自分も寝室に横たわったものの、いま彼女はひどい難関に直面しており、どうしたらいいのか、あれこれ考えてしまい、今度は眼が冴えて眠れません。しかしいくら考えてもどれも有効な手段でないことにがっかりし、仕方なく朝の6時半に目覚ましをかけ、実際に眠ったのは午前2時になろうという頃でした。 今日はいったい何という日だったのだろう、と今年に入っても、ひとつも楽になるどころか、なお、問題を抱え込んでしまっている自分を感じます。 まり子さんと私の運命や、果たしていかに? 年が変わっても、落ち着いて自分の調べ物、書き物に専念する体制に全然ならないまま、はや2月も半ばを過ぎ、今月は28日どまりなので、3日も損するような気がして、なんとも心細い毎日です。
2018年02月13日
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【2月10日・土曜日】 昨日9日、アパルトマンの管理費を銀行に払いに行った後、タキシム広場に上るスラセルビレル通りの大型スーパー、Carrefour(カレホル)で買い物し、最後に出口で花を買っていたら、近くのガニヤン・バイイ(街のあちこちにある場外馬券売り場)から、花屋にチャイを届けに来たエルジャンさんが、「由美子ハヌム、あなたにもチャイをお持ちしましょうか?」と言いました。 彼は23年前からの知り合いで、長らくジハンギル交差点の角にあるフィルズ・アー・ジャーミイの前のドラック(タクシープール)で、タクシー運転手として働いていた人ですが、ガニヤン・バイイが100メートルほど上のソカク(通り)に引っ越ししたので、その中でチャイ・オジャーウ(チャイの売店)を開いて働いているそうで、そのすぐ数軒先に私がいつも餌を買っているペットショップがあるので、私を見かけるたびに「ちょっとチャイを飲んでいきませんか、5分だけでも・・・」と誘ってくれるのですが、ありがとう、また今度ね、と一度も寄ったことがなかったのでした。 昨日は友人に頼まれた翻訳も終わらせ、猫にも早めに餌をやって出て来たので、気持ちに少し余裕があったせいか、オッサンばかりが集まっているガニヤン・バイイに、トルコに来て23年、初めて寄ってみようかと言う気になったのでした。エルジャンさんはスラセルビレル通りを横切るのに私の重いカートを持ち、自分の売店の前の席に私を座らせ、すぐにチャイを淹れてくれたので、冷めるまでの間店内にあるテレビ画面で、発走間近に迫ったゲートインの様子を見ていました。実は私は、日本にいた頃フジテレビの日曜3時からの競馬放送を、ほとんど逃したことがないほどだったのです。 昭和もそろそろ終わりに近づいていた頃でした。白い稲妻と言われた葦毛のタマモクロス、同じ葦毛でも1歳若くまだ顔も体もグレーの濃い野武士のような地方競馬出身のオグリキャップ、そしてこれも地方競馬で負け知らずだったイナリワン、長い金髪のテールをなびかせた尾花栗毛のゴールドシチーなどなど、好きな馬はたくさんいました。彼らの馬人生のストーリーを読むのが好きで、馬券の払い戻し金額には興味がなく、心情馬券というのか、好きな馬に勝たせたい一心から大レースではその馬券を買い、当たっても取り替えずにアルバムに挟んでおくタイプのファンだったのです。競馬雑誌「優駿」を隅から隅まで読み、競走馬のことはとても詳しく知っていました。府中の東京競馬場、千葉の中山競馬場、好きな馬達を見るためによく行ったものです。 ガニヤン・バイイで1レースを見て席を立ち、財布を取りだしたらエルジャンさんは、「由美子ハヌム、アシュック・オルスン、ヤー!(水臭いことするなよ)」と言われ、礼を言って外に出ようとしたら、棚にトルコのジョッキークラブが出している雑誌の2月号が何冊か置いてあるのを見つけました。表紙全体がゼイティンブルヌにあるヴェリエフェンディ競馬場の空撮写真だったので1冊ほしいと思いました。2015年4月には、オスマン帝国の使節を乗せたエルトゥールル号が帰途に台風に遭遇、和歌山県串本沖で遭難した有名な事件の映画化「海難1890」の撮影で、この競馬場の馬券売り場を、イランのメヘラバード国際空港のチケットカウンターに見立ててセットを組み、3日間撮影が行われたので、私も通訳として働いたことがあるのです。 TJK (Türkiye Jokey Kulübü)の月刊雑誌2月号の表紙は、Veliefendi Hipodromu(ヴェリエフェンディ競馬場)の空撮全景でした。思わず1冊ほしい、と貰いました。貰った時は左上の方にある Osman Çıkıllıという予告見出しに気づきませんでした。 私はジハンギルで顔なじみのガニヤン・バイイのオーナーに、「15年くらい前だったけど、トルコ・ジョッキークラブの役員だったオスマンさんという方が、私をこの競馬場に招待してくれて、最上階のガラス張りの部屋で、秘書の女性を付き添わせてくれて、何から何までご親切にもてなしてくれたのです。その部屋からはパドックも見ることが出来、メインレースで10番のゼッケンをつけたケイコという馬の馬券を買いたいと思ったのですが、貴賓室に入れて貰って馬券など買っていいのかどうかわからないので、とうとう買いそびれ、レースでケイコは最初後ろの方で目立たなかったのに、最終コーナーを回ったら一気に先頭に出て、2着に何馬身も差をつけてぶっちぎりでゴールしたんですよ。少しでも買っておけば大変な払戻金でした」と言いました。 日本で言う万馬券を取りそこなって、自分は一攫千金など、儲けられる運勢ではないことをその日、悟ったのでした。 さて本日、昼食を食べた後パソコンを開き、メールをチェックしてそのあとFBのページに入ったら、FBの友人の一人で、エルマンさんという青年の最新記事が最初に出て来て、トルコ・ジョッキークラブの雑誌2月号で、彼のお父さんである、オスマン・チュクルル氏についてのルポルタージュが載っているのでご覧ください、と書いてあるではありませんか。その人こそ、前夜、ガニヤン・バイイのオーナーに話をしたオスマンさんに他ならないので、私はびっくりして、後でゆっくり読もう、と思って寝室に置いた雑誌を慌てて出してきてみると、まさに的中、貰った時は気が付きませんでしたが、表紙にも記事の予告が出ているのでした。うわ~、やっぱり~! と10万馬券に当たったような驚きでした。 偶然にも、エルマンさんのアップデートしたFBの記事は、私がゆうべ貰って来たトルコ・ジョッキークラブの機関誌に載っているものでした。 オスマンさんの穏やかで上品なお顔が大きく載っています。ストゥク・ウスタとも兄弟以上に仲の良い大の親友でした。 オスマンさんとは15年前の2003年に、日本のテレビの仕事で、キュタヒヤのストゥク・ウスタを取材に行ったときに知り合い、その場所もまさにエスキシェヒールの郊外にある草競馬場でした。ストゥク・ウスタもオスマンさんも馬好きで、何頭も所有している馬主だったのです。そして忘れがたいのは同じ日に取材の合間に出かけた近くの薬局で、イルハン・マンスズのお父さんと私が知り合い、自宅に招待されてストゥク・ウスタもオスマンさんも一緒に、私もアシスタントのオカン・ギュレルさんとみんなで押しかけ、ご馳走になり、たくさんお話をしてきたのでした。 オスマンさんはたいそう裕福なお方で、事業家というより、まるでヨーロッパの古城に住む伯爵様ではないかという感じの上品なお方です。私とアシスタントのオカンさんが2003年の夏に、ストゥク・ウスタ取材の事前調査に行ったときに、ウスタが私に電話をかけてきて、明日8月31日の朝来ればエスキシェヒールのマフムディエ郡で年に一度の有名な草競馬があるので、そちらにいるから急ですまないが今夜のうちに、バスか夜行列車でこちらに来てくれないかと言われ、その晩に取るものも取り敢えずオカンさんと2人で、11時半発の夜汽車に飛び乗って出かけたのでした。 11時半にアジア側のハイダルパシャ駅を出て、エスキシェヒール駅に着いたのが明け方の5時頃。ウスタが手配してくれた出迎えの人が駅のそばの小さなホテルに案内し8時頃迎えに来るので、体を伸ばしてゆっくりとお休みください、とそれぞれに部屋を取ってくれました。8時過ぎにお迎えの車が来て、うねうねと続く肥沃な平野のただ中をしばらく走って、途中マフムディエ町役場が経営するホテルの庭で、私達は朝食をご馳走になり、食後案内されて少し行くと近くに草競馬場の広いコースがあったのです。馬場はダートで、観覧席は荒っぽい板づくり、一部に日よけの板が掛けられた部分があり、馬主席なのか、そこにストゥク・ウスタと並んで座っていたオスマンさんが一緒に降りてきて、遠路はるばるやってきた私達をねぎらってくれました。 その日のレースが終了すると、イルハン・マンスズ選手のお父さん、イルファン・マンスズ氏の家に伺い、大いに盛り上がって、たまたま、ストゥク・ウスタがオスマンさんのほかにもう一人、スポーツ記者のアブデュラーさんも連れて来たので、その日の記事は9月5日のスポーツ紙ファナティック新聞に大々的に載せられ、私など両親の真ん中で大邸宅の玄関で記念撮影したり、お母さんと家中を見せて貰っているスナップが全国にばらまかれ、イルハン・マンスズの大ファンと書かれていました。 ガニヤン・バイイで貰ってきた「トルコ・ジョッキークラブ」の月刊雑誌によると、オスマン・チュクルル氏は1935年、エスキシェヒールで祖父の祖父にさかのぼる、オスマン朝時代から続く大地主の家柄に生まれました。2~3歳の頃から馬に近づき、それからいくらもしないうちに、馬に乗れるようになったそうです。それを証明するのは子供時代だけでも何十枚という、馬上写真があることだそうです。大学は「馬と競走」というテーマで卒論を書いて、アンカラ大学農学部を卒業し、競馬に乗り気でなかった父親を無理に説得してアラブの若馬を買い、馬主稼業と馬の飼育産業に熱心に取り組むようになり、重要なレースの勝ち馬も輩出、やがてサラブレッドに注目してトルコに導入、畜産場も経営して、業界でも瞠目の成功を収めたようです。 ほほえましいエピソードと思えるのは、1978年に生まれた一人息子の名前には、1971年生まれで、若馬として目覚ましい活躍をして引退した自分の持ち馬エルマンの名前を付けた、という話。 私はその後オスマンさんと、ストゥク・ウスタのすべての行事で一緒になり、その後もウスタの跡を継いだニーダさんの展示会などでも会うことがあって、オスマンさんとは温かな雰囲気のお人柄が大好きで、ストゥク・ウスタ亡き後も交流が続いており、昨年11月15日に、大エスキシェヒール市のテペバシュ区長の主催で行われた7回忌にもお会いしました。 トルコ競馬界の重鎮でもあり、名士中の名士なのにいつも謙虚で優しいオスマン・チュクルル氏 。ストゥク・ウスタの7回忌で。 普段は行ったこともないガニヤン・バイイに行ったがために、オスマンさんを紹介する月刊誌を貰い、同時にストゥク・ウスタに関しても、懐かしいご縁の数々を思い出しながら、ほかのことは何も考えない一日を過ごしました。 水ぬるむ頃になったらまた、エスキシェヒールにオスマンさんを訪ねてみたいと思っています。
2018年02月10日
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【1月29日・月曜日】 今を去る19年前の1999年8月17日未明、イスタンブールも揺れに揺れたマルマラ大地震で、わが家のあるアパルトマンの北側の外壁に出来た、細い一筋の亀裂が次第に雨水の浸食であちこちに広がり、住民会議で何度も議題に出したにもかかわらず、住民の無関心で放置されていたため、北側のわが家8号室とその上の階10号室に、強い雨風が当たるたびサロンの天井から、ひどい雨漏りがするようになりました。 先週の木曜日の雨降りの午後、大きな爆発音とともに突然天井のビームランプの一つが火を噴いて、白煙が上がり、ものすごい焼け焦げたようなにおいが部屋中に立ち込めました。かつて1998年6月に新装開店のかせレストランが、半年後に冷蔵庫から漏れていたフロンガスの爆発で、木端微塵になってしまった経験のある私としては、もう一刻も猶予はなりません。 ヨネッティジのムラット氏に何度も電話して、やっと3回目くらいに出たので18日の顛末を話し、「一度私がいつも訴えている北側の壁の亀裂を見てください。このランプの破裂事故は私一人の問題ではなく、アパルトマン全体の問題です。私はトルコ語が分からないから黙っているわけじゃないですよ! 騒がないからと言って放っておかないでくださいっ!」と厳しい口調でムラット氏に迫りました。彼は来週早々にでもクレーン車で点検・修理をさせる、と約束しました。 その晩は電気屋のハリル・ウスタが来てとりあえずシゴルタ(安全器、ヒューズボックス)を点検、私のパソコン机の上だけはランプが点く状態にしてくれました。インターネットもテレビもない一夜を過ごしました。 20日の土曜日、まり子さんが午後から来たので、今度は彼女がヨネッティジに電話し、クレーン車で左官職人を乗せてゴンドラを吊り上げ、壁面を点検修理して貰うことに話がつきました。夕方遅く、電気屋のハリル・ウスタが再び見本のLEDランプを持ってきて取り付け、外壁の穴を塞いで雨が漏らなくなったら、サロン全体のランプをLEDに変える工事をすることになりました。そしてテレビと電話線のコードも稼働するように直してくれました。 2016年2月からしばしば雨漏りするようになったサロンのベランダ側の天井です。18日にランプの破裂した周囲は、外壁が直るまでいじれないため、こんな具合。 ヨネッティジのムラット氏も、まり子さんと私の2人に、「来週早々必ず、よく晴れた日に点検・修理を実施しますと約束し、今日は天気も良く、昼食の支度をしていると、ムラット氏の息子ブラックさんが左官屋さんと連れ立ってアパルトマンにやってきました。外壁のどのあたりに亀裂があるのか教えてほしいと言うので、まずは家の中の状況を見て貰い、それから外に出て詳しく説明しました。 クレーンが来る前に左官屋のアテッシュさんが、隣家の屋根に裏から上がらせて貰い、撮影した何枚かの写真を見ると、壁にぽっかり隙間が開いて、そこから生命力の強い木の芽が生えて、今ではたくましく伸びており、根が張るとあと1,2年のうちに壁を壊して大木になるに違いない、と言うのでした。 午後3時半過ぎ、表通りに大型車の入ってくる音がしたのでベランダから覗いてみるとクレーン車が到着し、ブラックさんとアテッシュ・ウスタが走り回っているのが見えました。私も4時過ぎに猫達に缶詰を開けてやり、自分は外にずっと立っている覚悟で寒くないよう身支度し、工事の様子を見に表通りに出て行きました。 家の前にクレーン車が停まってクレーンのアームを伸ばす作業を始めました。 築48年のビルの外壁には一度もメンテナンスをしていないため、そばで見ると無数に亀裂が走っているのだそうで、隣の家の不法増築でわが家の壁を自分の家の壁として、鉄骨なども埋め込んであり、そこにも穴が開いているのでセメントで埋めてくれました。 屋根の付近にもたくさんの亀裂、穴があり、このビルの壁の中にはどれほどの水がしみ込んでいるのか、しかも塩分の多い海砂をセメントに入れてあるとも。 地上7階、地下1階。堂々たるビルですが、怠け者のカプジュだと寿命も短かい上に、見た目にも汚くて昔の面影は全くないそうです。 さすがに餅屋は餅屋、ヨネッティジのムラットさんは建築請負業で、ブラックさんもお父さんの会社で修業中、きびきびと左官屋さんに地上から指示を出しながら、道路閉鎖許可の2時間以内に仕事をすべて終わらせるように頑張ってくれました。 巨大な壁面には無数の亀裂が入っていたそうで、通りに並ぶ骨董店に約束した2時間でそれらをすべて、セメントと特殊な防水モルタルで塗り、5時半過ぎ見つけた穴は一通りすべて塞ぎ、撤収作業に入りました。これらの費用は、まり子さんがヨネッティジに交渉してくれたので、アパルトマンの家主達全員から徴収してくれることになりました。 でもまたひと悶着ありそうな気がします。なにしろ十何年か前に、最上階の2軒の人が雨漏りがして困る、と住民会議が招集され、全フラットが500リラずつ支出して緊急に修理しようということに決まった時、3階に住む問題なオヤジが「俺のうちは屋根など使っていないから金は出さない」と言い張ったため、その分をほかの階の家主達が分担させられた、というようないきさつもあります。 いよいよクレーンを折りたたんで撤収です。3時半から5時半までどうもご苦労様でした。これで雨漏りの心配が一つ消えました。 チュクルジュマ・ジャーミイの前あたりから、チュクルジュマ通りを眺めると、新市街のランドマーク、シシハーネのガラタ塔が見えます。 手前のチュクルジュマ通りを写すとまだはっきりと明るく写ります。さすが1月も最後の日々、冬至から1か月余り過ぎ日が延びました。 その上わが家のあるアパルトマンでは、2015年にカプジュ(住み込みの用務員)の悪だくみで裁判沙汰になり、辞めさせたカプジュ一家が居座ってエレベーターの電源を切ったり、廊下や階段の電源まで切ってしまったりと嫌がらせのやり放題で困っていますが、もとはと言えばその3階のオヤジほか2軒が、カプジュのアイダット(月給)を何年も支払わなかったことに端を発しているのです。そして、カプジュの大ウソで欠席裁判にかけられた正直な家主達11軒が、イシクルという労働基準監督署のような組織に1軒あたり5,000リラ(現在のレートで15万円強)近い罰金を課せられ、実際に支払っていなかった3軒はこの罰金も逃れようとカプジュの味方に回り、さらにカプジュをそそのかして、慰謝料を2倍にも吊り上げてきて、自分達が勝訴したら山分けする気でいるようです。 そうは問屋が卸さないぞと、家主側もこのアイダットを払わない3軒を訴訟に持ち込んでいるのです。トルコはよくよく訴訟沙汰の多い国です。そんなこんなの問題山積のわれらがアパルトマンですが、来たる2月の初旬にはわが家のサロンの室内も修理をして、天井の雨漏り部分の塗り直しと、18日の爆発で駄目になったところの修理代は、これもアパルトマンの住民から費用を集めることになりました。もちろん私も同額払います。(このルールを承諾しない人がいるかもしれません) とりあえず喫緊の課題であった、天井からの滝のような雨漏りはなくなる見込みです。今後は雨が降っても安眠出来るようになりそうで、やっと安心しました。
2018年01月29日
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【2018年1月1日・月曜日】 新年おめでとうございます! 今年のイスタンブールの元旦は爽やかな晴天で明けました。めでたい限りです。今年もどうぞ「madamkaseのトルコ行進曲」をよろしくお願い申し上げます。 前日、大晦日の年越し蕎麦を美保子さんと一緒に味わいました。スーパーに生のジャンボ車海老が売っていなかったため、冷凍のジャンボむきエビを買い、それはそれで玉ねぎ、にんじん、青ネギなどと一緒にむきエビもたっぷり入れて大きなかき揚げを幾つも揚げ、15年余り前からの長い友達と楽しいひと時を過ごすことが出来たので、今度の新年こそはいいことがたくさんあるだろう、という予感がしました。 今日は遅い昼食として、日本人の元旦の定番、お雑煮にすることにし、まり子さんがトルコでもさすがに1月1日は休日なので、相伴してくれることになっていました。私は大晦日、次の朝の2時頃床に就いたのにやっぱり日本の元旦、昼のNHKニュースを見るためにいつも通り6時半には起きていたのでした。 朝はむきエビ入りのチャーハンを作り、7時から日本の昼のニュースを見た後、1ヵ月以上も書き込めなかったブログが書きこめるかどうか試してみましたが、どうしてもMicrosoft wordの文書画面が読み取り専用となってしまい、編集して文章を少し変えた部分が保存出来ないために、アップデート出来ないので諦めました。 朝からチャーハンを食べました。むきエビ買いすぎで当分あちこちに顔を出します。 昼にはまり子さんと二人分の、お餅6切れを出し、チキンのももの肉を切り、さっと茹でて肉の部分を切り取り、茹で汁を濾して雑煮の出しにしました。花切りにんじん、戻し干し椎茸、筍水煮、木耳、ほうれん草、カニのすり身、青ネギなどなど準備しました。 まり子さんが家を出るとき電話をかけてきて、途中のスーパーで何か買うものがあれば言ってえ、と言うので、昨日のうちに買い物をしてきてあるので、レモネードが冷蔵庫に入っているから今日は何もいらないよ、とまり子さんを喜ばせました。でも彼女は飲んでしまった後のスペアに、とまたレモネードを買ってきてくれました。 かくて中華料理で人気のある、海老せんべいをまず揚げておき、ほぼ準備が整った頃まり子さんがチャイムを鳴らしたので、餅を網に載せました。そして別のオジャック(ガスレンジ)の口では茶碗蒸しがもう火を入れるばかりになっていました。どちらも10分か15分のうちに食べられるようになります。昨日と言い、今日と言い、友達と楽しい食事が出来るというときは、どんなにモチベーションが向上するのか、次から次へと頭も手も動くものです。 まり子さんがテーブルを拭き、まず海老せんべいや箸や飲み物を運び、雑煮を入れた大きいどんぶりを持って行ったあとは、猫に荒らされないように番人を務め、私はあとから茶碗蒸しをテーブルに運びました。写真を写して席に座ろう、とした途端、素晴らしいことを思いつきました。 それは一昨年10月末に日本に帰国した、オスマン・ガージイ大橋建設の日本企業の所長夫妻に、最後のお別れに伺った時、沢山の未使用の日本食材料のほかに頂いたとっておきのお餞別です。日本中で限定2000本販売と言う、ヴィンテージの高級梅酒「プレミアム天女の舞衣」の栓を開けようということでした。新年を寿ぐ今日こそは友達もいるし、頂くのにふさわしい日だと思い、まり子さんも行けるクチなので急いで奥の部屋から出しました。2人で乾杯し、とろ~り、まったりの舌触り、薫り高い銘酒を心行くまで(といっても、もったいないので150㎖だけでしたが)、それでジワ~ッとほろ酔い気分になり、やたらに明るい気持ちになって、今年こそいい1年になってほしいと互いに祈りました。 まり子さんと向かい合って座りました。高級梅酒で乾杯です。 中華の海老せんべい、雑煮、茶碗蒸し 雑煮には切り餅3個、その他いろいろ、半熟玉子入り。 まり子さん。とても楽しそうです。 私もいつも同じ猫対策用のおんぼろTシャツを脱ぎ、正月らしいセーターを着ました。 お節料理の彩り豊かな多種類のご馳走を並べるようなものは、たとえ材料があっても時間のない私には作れないのですが、たったこれだけでも日本を離れて30年以上も海外暮らしのまり子さんは、私の耳がくすぐったなるほどの褒めようで喜んでくれました。雑煮と茶碗蒸しを同時に頂くのは人生で初めてですよと言うので、作ってよかった、と思いました。 食事が終わるとまり子さんがいつものように超特急で洗いものをしてくれたので、私は昆布茶を淹れ、前日の美保子さんがまり子さんにも食べて貰って、とたくさん買ってきてくれたバクラヴァを小皿に並べ、デザートにしました。まり子さんの話では、娘のまり乃さんも1月8日から会社に出勤する運びになった、と言うので、私達はさらにいっそう目の前が明るくなったような気がしました。 夜8時過ぎ電話が入って、まり乃さんが出かけていたアジア側の友人宅から帰ってきたので、親子でタキシム広場あたりで待ち合わせし、イスティクラール通りで銀ブラでもするようです。「わあ、6時間以上もお邪魔してしまってごめんなさい、由美子さん。私そろそろお暇します。今日は書き物はやめて、ゆっくり過ごしてね!」とまり子さんは嬉しそうに、ごみの入った袋をついでに捨てて行きますよと言って、両手に下げて帰って行きました。助かります。 友達が帰ってしまうとちょっとの間は、やや寂しい気がします。 9時半頃、タクタキ坂の上に大きな満月が昇ってきました。 タクタキ坂の上に月が昇ってきたのに気が付きました。 大きなまん丸い月です。私のデジカメではこれが精いっぱいです。 丸い小さなどんぶりで作ったのは、お月様のようなまん丸い茶碗蒸しです。 材料が残っているので、お月様を思わせるジャンボな茶碗蒸しどんぶりを作って、一人でゆっくり食べながら幸せな元旦の締めくくりをしたのでした。幸先の良い新年のスタートを確信出来た元旦の夜でした。
2018年01月01日
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【12月31日・日曜日】 1年の最後ですから、やっぱりジャンボな車海老のてんぷら入りの蕎麦を食べたいと思ったのですが、スーパーに生のジャンボ海老がなくて、冷凍むきエビを使うことになりました。 例によって私の掃除が来客の美保子さんの到着までに間に合わず、彼女に掃除の続きをやって貰い、その間にスーパーからむきエビが届いたので、まずは、中華の海老せんべいを揚げ、そのあと玉ねぎ、にんじん、青ネギと、ジャンボむきエビをたっぷり入れてかき揚げを作り、そばとつゆ、茹で卵などをこしらえました。美保子さんのお土産のジュースで乾杯、しかしながら私が写真を撮るのにもたもたしていたため、かき揚げがそばのつゆをすっかり吸ってしまい、見た目が悪くなりましたが、プリップリの大きなむきエビをたくさん入れたので、私どもにとってはとても贅沢な年越し蕎麦となりました。 今日の昼頃、急に美保子さんを呼んだので、私の方にもご馳走を作る余裕がありませんでした。 蕎麦もかき揚げも美味しく出来たのですが、写真を撮るのに時間がかかってのびてしまいました。 ジャンボむきエビがたくさん入ったかき揚げは、私達にはやっぱり故郷を偲ばせます。 ジャンポ車海老のてんぷらをするつもりでしたが、スーパーにエビが売っていない。でも、この冷凍むきエビでも揚げてみたらプリップリ! 二人で感動しました。 :) デザートは美保子さんのお土産で、トルコの代表スイーツ、バクラバです。最近は健康重視で、食べた途端に脳天がキーンとなるほど甘くはありません。 食後は玄米茶と美保子さんのお土産のバクラバに舌鼓を打ち、お互い仕事のほか、犬猫の世話に明け暮れていますが、来年も懲りずにやっていきましょう、と誓いを新たにしたのでした。 カメラが持ち主同様、いよいよ老化現象でぼけて写るのが残念です。シミ・シワが目立たず、いいって、か?
2017年12月31日
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【 12月12日・火曜日】 昨晩寝る前にパッキングをしましたが、2ヵ所の店で買ったイスタンブールへのお土産はすべてコンヤ・シェケリ(飴)。ざっと計算したところでは14キロを超えています。ケース自体が2キロ以上ありそうで、貨物で載せられるスーツケースその他の合計が15キロを超える場合は、超過料金を払うか、機内持ち込みの限度を超えない重さで対処するしかありません。私はイスタンブールから持参してきた緑色の大きな布袋を広げ、自分の往路運んできた衣類その他を全部それに移し、2個口の荷物をアブデュラーさんに、前もってターヒルさんの店に運んでおいて貰うことにしました。 自分のトートバッグにも詰めるだけ詰め込んで、そのほかに入りきれなかった200g入りの飴5袋を、こともあろうにビールの保冷バッグに詰めていました。これは8月に来た時、コンヤの皆さんに納豆をお土産に持ってきた保冷バッグを、恵さんが先日返してくれたものでした。 朝10時にメヴラーナ博物館駅の前でシェンギュルさんと会う約束をし、朝食を軽くご馳走になってチャーダッシュ家の起きている人々にお礼と別れの挨拶を交わし、トートバッグとビールの保冷箱だけ持って9時半頃家を出たのでした。乗り慣れた25番アドリエ行きのドルムシュが来て、乗り込むとき、先客の人々の視線がビールのケースに注がれるのを、やっぱりねえ、と思いながら運転手さんの脇の席に座ると、7日の夜チャージをしに帰ってセマー会場に戻る時に乗った親切な人でした。私を覚えていてくれたので、今日で帰ります、と挨拶すると、「来年も来ますか」と尋ね、「アッラーとメヴラーナがあなたをお守りくださいますように」と言ってくれたので思わず胸がジンとしました。だからコンヤにまた来たくなるのだ、と思います。 外気は暖かくコンヤの6泊7日は到着の6日以外、暖かく晴天続きで恵まれた日々を過ごせたことになります。ちょうど10時にトラムワイのメヴラーナ博物館駅に着きました。まだシェンギュルさんは来ていないようです。クッベ・ハドゥラー(緑の塔)とそこに路面電車の近づく写真が欲しかったので、次の電車が来るまで駅で待ちました。うまく撮れて、彼女に電話してみると、「あら、着いたの。じゃあマダム加瀬、今すぐに店を出るわ」と言う返事、も~う。結局彼女が歩きで到着したのは10時45分、すぐ目の前の、メヴラーナ財団の建物に入り、副総裁のエシン・チェレビ・バイル女史(メヴラーナの直系22代目の孫にあたる)に挨拶に伺いました。11時にはお出かけとのこと、幸いそのちょっと前に訪問出来たので、エシンさんと私は2年ぶりに抱き合って挨拶を交わしました。シェンギュルさんはエシンさんのお気に入りの洋裁師で、彼女の妹の連れ合いが亡くなってチョルム県まで行っていたことで、みんなからお悔やみの挨拶を受けました。 エシンさんは出かけ、私たちもチャイをご馳走になってお参りに行くことにしました。身支度を整えて外に出ようとしたとき、入り口で上品で穏やかな銀髪の紳士と出会いました。エシンさんの夫君、オスマン・バイルさんでした。10年近く前にお会いしたきりだったので、もう一度中へお誘いを受けたのですが、廟へのお参りと次なる約束もあったので、再会を約しお暇しました。外に出るとすぐシェンギュルさんが出口の方に回ろうと言い出し、彼女は仕事に出る前にメヴラーナ廟に毎朝のようにお参りに来るし、来るたびメヴラーナ財団の建物に寄っていくので、警備員さんたちも顔パスで出口からでも中に入れてくれるのです。 まずはメヴラーナ博物館の建物を庭の方から眺められる記念撮影ポイントがあるので、2人で私の自撮りで記念撮影、それから脇にあるハムシャン門から前庭に入りました。シェンギュルさんは、10日以上もコンヤを留守にしていたので、廟内では懐かし気に丁寧に祈りを捧げています。12時半にはユジェルさんが日本からのお客様を連れて、ターヒルさんの店の前で会うことになっていました。 シェンギュルさんは2004年に私がシェムス・アヌ・ホテルで1ヵ月半ほど滞在し、ルーム・セルジューク王朝の歴史について勉強していた頃のある日、私が教えを乞うている考古学者のヌレッティン先生が一緒に連れてきて、メヴラーナに帰依している女性で、自分の遠縁にあたるシェンギュルさんだ、と紹介してくれたのでした。思えば長い付き合いです。お母さんを早く亡くし、十代で結婚、娘3人を授かったものの、夫が家庭を顧みない暴力男だったため別れ、洋裁師の腕一つで(と言うか、足と言うか・・・)猛烈にミシンを踏みながら子供たちを3人とも大学に進ませた天晴れな女性です。「マダム加瀬、今度も私にお悔やみに来てくれてありがとう」と外に出るとシェンギュルさんは私にぺったりと張り付いたまま、腕を私の首に回し、頬にチュッチュと口付けしてくれました。今度も、というのは、おととしの9月に、私がコンヤに行く前日、彼女の故郷ホッパ(トルコの東隣の国ジョージアとの国境に近いアルトヴィン県の黒海に面した町)で大洪水発生、何人も激流に流されて犠牲者が出たというニュースを見た私が、バイラムなので彼女も郷里に行っているはずだが、と心配になって電話してみると、シェンギュルさんと娘たちはその朝バスに乗り、コンヤに戻る途中で、長距離バスの休憩時間にドライブインで事件を知ったそうですが、その時点ではまだ親類が被害に遭ったことは知らなかったそうです。私が電話を切り、コンヤに戻ったシェンギュルさんからその後連絡があったのですが、残念ながらその洪水で彼女のおじさんや従妹などが激流に呑まれて犠牲になってしまったのだそうです。 私もそれより前の9月2日にアブデュラーさんのお母さんが亡くなり、翌3日の午後、葬式の当日ポストニシン様から電話が来て訃報を知ったのですが、9月半ばに当のポストニシン様から相談を受けていた件があり、コンヤ行きのチケットもすでに買ってあったので、その際、チャーダッシュ家とシェンギュルさんのお店に、それぞれお悔やみに行ったのでした。 それにしても今回、妹さんの夫君が39歳で急逝し、驚いて駆け付けたシェンギュルさんも、初七日の法事を終えてコンヤに戻るにあたっては、妹さんが心配で後ろ髪を引かれる思いだったことでしょう。私はもう今日の午後コンヤを離れるので、次のシェビィ・アルースではなく、それより以前にコンヤを訪問する折があれば、その時ゆっくり話をしようね、ともう一度彼女としっかり抱き合いました。シェンギュルさんも本当の母親に甘えているかのように見えました。メヴラーナ広場に出ると、ユジェルさんがお客様を伴って、早めにターヒルさんの店に来ているのが見えました。さあ、私にはまた別な出会いが待っているのでした。 トラムワイの線路を渡り、ターヒルさんの店の前に近づくと、ユジェルさんのお客さんが私たちに気が付き、笑顔で会釈してくれたので、あ、この旅行に満足してくれている、と一目で感じました。シェンギュルさんもターヒルさんやユジェルさんには久々に会うので、挨拶を交わしてから私たちと別れ、二つ先の区画にある店の方角に帰って行きました。 お客のMさんはカジュアルな服装で化粧つ気もなく、しかし目元にはこの旅行にとても満足しています、という明確なメッセージを浮かべた若い女性でした。トルコに今まで2回旅行していて、メヴラーナについてもっと知りたかったのに、有名なガイドブックでも、コンヤについては1~2ページしか触れておらず、物足りなく思っていたところ、ある日「トルコスキップ歩き(トルコ文化センター刊)」というガイドブックに遭遇、その本ではコンヤについても現地の取材協力者が詳しく説明、特集されているのでそれを見てとうとうメヴラーナをターゲットにした「シェビィ・アルース直行便」とでもいうような日程の旅行を計画、都内のトラベル・エージェンシーに相談、そこからカッパドキアのベテラン・トラベルプランナーのサイマズ陽子さんにコンヤの日本語ガイドさんを探して貰いたい、と打診があり、11月の中旬に陽子さんが私に尋ねてこられたので、私は迷わずユジェルさんを推薦、かくてお客さんの願いが実現したのでした。 ターヒルさんがチャイを取り寄せてくれたので、外の小さなテーブルの周りに座って初対面同士とは思えないほど、打ち解けて話をすることが出来ました。一昨日、ユジェルさんと事前に出会った日、私はちょうど10年前にメヴラーナ生誕800年祭のときに、メヴラーナ紹介の小冊子、と言っても中味はびっしりの本を日本語に訳したことがあり、もうほとんど在庫も底をついていると思われるので、手元に保存してある何冊かのうちの1冊を持参しユジェルさんからお客さんにプレゼントしてほしい、と頼んだのでした。 午後1時ころ、私たちのいるところにアブデュラーさんがやってきました。そしてターヒルさんの店に預けてあった赤い小型スーツケースと緑色の大きな袋を自分のタクシーに移し、「2時45分までにここに戻ってくれば、私の都合がついたので空港まで加瀬さんを送っていきますよ」と言ってくれたのです。 かくてMさんとユジェルさん、私の3人は目と鼻の先の市役所のレストラン「コンヤ・ムトゥファウ」に入り、夕べ私がエスマさんからご馳走になった焼きナスとラム肉の炒め物やサラダでお昼を共にしました。話も弾み、メヴラーナ本は帰国してからゆっくりひもとき、学ばせていただきます、と嬉しそうに言いました。私もまだ初期のころの作品なので今読むと訳し方にも必ずしも満足していませんが、メヴラーナの生涯や、作品集、有名な研究家たちのメヴラーナ論、などなど薄い本の割には文字が小さいので内容はこってりで、当面は満足していただけるだろう、と思いました。 それにしても、ユジェルさんの協力した本を読んで現地に来たら、ホテルに迎えに来たのがそのユジェルさん、彼と出会った瞬間にMさんはさぞかし驚いたに違いありません。ユジェルさんは最初に行ったメヴラーナ博物館で、実に2時間半もかけて廟や本館、別館になっているマトゥバー(台所)とそれに付随する施設をすっかり説明したのだそうです。 それらは本の中にも細かに書かれているので、一度見学したMさんにはしっかりと思い出すことが出来ると思います。楽しい1時間余りは瞬く間に過ぎて、昼食はご馳走になり、2時45分、レストランの前で二人と別れ、私はアブデュラーさんに空港まで送って貰いました。せめてガソリン代だけでも取ってください、と言うと「いえ、駄目です。私が家族からお金を取りますか」と笑い、荷物をセキュリティのところまで持ってきて、がっちり握手し頬を擦り寄せて別れました。 いよいよチェックインです。赤いスーツケースがどのくらいになるか問題です。 赤い小型スーツケースは、機内にも持ち込める大きさですが、重さは8キロまでと言う制限がありますから、貨物預けにします。空港には3時15分頃着いたので、チェックインカウンターも空いていました。まず赤いのを載せてみると15.7キロと出ました。中味はケース自体の重みといくらか入っている小物の合計で、赤いケースの中には大体13キロ分の飴と言うことになり、私の手にはまだ1キロ分のコンヤ飴がビールの保冷バッグに収まっているわけです。私の衣類その他の入った緑色の布袋だけでも5キロ超、トートバッグはもっと重いので6~7キロあるかもしれません。こんなのを毎日肩にかけて歩いているので、実は肩こりも結構あって、凝りすぎていて凝っているのかどうかもわからない状態です。 コンヤ空港で飛行機の到着を待つ間、お世話になった方々に挨拶の電話をして過ごし、やが定刻通り飛行機は飛び立ち、定刻より少し早めにアタテュルク空港に着陸しました。赤いスーツケースも順調に流れてきて、機内から両肩にかけて担いできた紐長のトートバッグと布袋を載せ、到着ロビーに出ると空港ビルの出口の真ん前が、送迎のシャトルバスの乗り場になっています。一人で運ぶには重い大荷物ですが、タクシー代の節約と言うより、シャトルバスのハヴァビュス乗り場で会いたい人がいたのです。 到着ロビー出口のそばの大きな銀行の看板の前で自分の荷物の写真を写し、ハヴァビュス乗り場に行くと私は2つの大きな荷物を預け、「ハレケット・アミリ(シフト管理者)のアブデュルラフマンさんは今日、出勤しておられますか」とカプタン(運転士)に聞いてみました。「今日は夜勤だから9時頃来ると思うけど、何か?」「私は彼とハバタシュ(ハヴァビュスの以前の名)が出来た頃からの友達なの。コンヤから戻ってきたので、小さなお土産を渡したいと思って・・・」「あああ、アブデュルラフマンの日本人のお母さんはあなたですか。もしよければ私が預かって、国際線の乗り場で係りに預けて彼に届くようにしましょう」「ああ、よかった、ありがとうございます、カプタン」 私はビールの保冷ケースから取り出した200g入りの飴2袋をビニール袋に入れ、もう一袋をカプタンに差し出し、「これはあなたと皆さんでコンヤの香りを分け合ってね」とプレゼントしました。6時25分頃バスは発車、ぐるりとカーブを曲がって国際線の出口に停まりました。そこに2人くらい座れるボックス型の詰め所があり、カプタンはそこにいた係員にアブデュルラフマンさんの飴の袋を預け、もう一つの袋は開けてみんなで分けるように、と言ってデスクの上に置きました。乗客がみな乗り込み、集金係が車内に乗り込むときにドアの外にいたカプタンは「4番はアミル(管理者)のお客様だ」と彼に言いました。最前列の席の4番には私がいます。乗車賃が只になったのが嬉しい、と言うのでなく、僅かな物でも人を和やかに出来たと思うと、シェビィ・アルースに行った甲斐があったとしみじみ思います。 タキシム広場で降りるとき、荷物を出して貰いながらカプタンに礼を言うと「こちらこそ。アブデュルラフマンさんには後で電話しておきますよ」と笑顔で言いました。最近、ハヴァビュスの発着所はここ数年間停留した場所から、タキシム広場の下に降りるトンネルの脇に移動しました。そこはバスの乗降には最も不適切な場所で、バスの幅の脇に乗降するスペースはごく僅か、タキシム広場の地下に降りず、Uターンするバスやタクシー、一般車両で大混雑しているところにあります。「タクシー、タクシー」と数人の客引きの男たちが声をかけてきます。「バヤン、タクシー要るかい? どこまで行くの?」「ジハンギル方面よ」「今日はデモやなんかがあって、街中えらい混雑なので、ここから別な道を少し遠回りしなくてはならない。40リラ払えば車を出すよ」「いいえ、要らないわ」」 すると男は「じゃ35でいいよ」と・・・フン、一生客待ちしてろ! もう答えず道路を渡って広場に入ろうとしたら、1台のタクシーがUターンの場所で客を下ろし、空車になったので手を挙げると年配の運転手さんがすぐに後ろのトランクを開け、降りてきて荷物を入れてくれました。助手席に乗り、「近くて悪いけどジハンギルに行って」と言うと、「どこにでも行きますよ、近い遠いは関係なく、お客さんの行きたいところへお連れするのが私たちの仕事です」まあ、さっきの雲助たちと大違い。車は最短距離を通り、瞬く間に家の前に着きました。10リラです。お金を払い、荷物を下ろすとき、私はビールのケースにあと二つ残っているコンヤ飴の一つを、運転手さんにおすそ分けしました。「おお、懐かしい。私はコンヤの隣のアクサライの生まれでね、子供の頃はしょっちゅうこの飴をなめていたもんだ」と運転手さんは嬉しそうにニコニコして去っていきました。 さて、アパルトマンの中に入ると、出発の日に壊れていたアサンソール(エレベーター)が直っている様子、苦労なく4階の自分の家まで運ぶことが出来、猫の面倒を見てくれたアフメットさんはすでに午後1時に家を出るとき、缶詰肉を配ってくれていたものの、猫たちはお母さんが来たからご飯だ~とばかり、7匹揃って私が荷物を家に入れ終わり、「チョジュックラ~ル!」と言ったとたん、ドドド~ッと台所に走って行きました。 ああ、ありがたい、何事もなく家に帰り着き、猫たちも元気、家の中は私がいるときより心もちきれいになっていました。 コンヤ旅行のお話はこれでおしまいです。 お世話になった皆様、本当にありがとうございました。
2017年12月12日
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【12月11日・月曜日】 一昨日の女子会の別れ際に、コンヤ在住ン十年のエスマさんが「このままでは何か寂しいわ、加瀬さんが帰られる前に、私がボル・ロカンタスのエトゥリ・エクメッキで皆さんをご招待したいので、どうかもう一度集まって下さらない?」と恵さんや私に言いました。恵さんもオズデミル育子さんも異存はなく、月曜日の午後2時に、メヴラーナ広場からもほど遠からぬボル・ロカンタスの2階で再び同じ顔触れが揃うことになりました。 私は家を10時過ぎに出て、コンヤのアタテュルク博物館長になっているヌレッティン先生を訪ねるつもりで、ドルムシュに乗ってすぐ先生に電話してみました。ところが先生は今日は休暇で家におられるとのこと、でも街に出る用事もあるので、キリム問屋のアスムさんの店で会おう、11時をちょっと過ぎるかもしれんよ、と言うのでした。私もアスムさんの店にも寄るつもりだったので丁度いいと思い、ドルムシュを下りてまっすぐ店に向かいました。 アスムさんの店の人々とも、もう十何年の付き合いなので気心が知れています。おお~、加瀬ハヌム、ようこそと古参の店員が出て来て、奥のサロンに案内してくれました。広い部屋にキリムが山と積まれており、その一隅には大きな薪ストーブが勢いよく燃えていて、番頭格のナーディルさんが見積書でも作成中なのか、忙しくパソコンと計算機を交互に叩きながら仕事をしています。ソファに座るとチャイを取り寄せてくれたので、冷めるのを待ちながら私の隣で新年早々に催される大々的な商業フェスティバルのダイレクトメールの封筒詰めの続きを始めた古参店員の作業を見るとはなしに見ていました。2018年にちなんで1800枚、シェビィ・アルースの期間中に配布、郵送するために少し前から封筒詰めを始めたのだそうです。 この店員さんの名前は忘れてしまったので仮にアリさんと呼びます。アリさんがテーブルにうずたかく積まれた100枚束のカードを、人差し指をなめて1枚取り、封筒も同じく指をなめて1枚取り、カードを膝に置いて封筒を広げます。そしておもむろにカードを入れ、封筒は糊付けせず、ふたを閉めただけで段ボール箱の入れました。そして次のカードのために指をなめます。ずっとそうしているので、1枚詰めるのに1分近くもかかっている感じです。「アリさん、先生が見えるまで少し手伝いましょうか」「あんたは遠くから来た客人だ、手を煩わせては申し訳ない」 私はアリさんの横で、カードを十数枚取り、扇形に広げながら指をなめなくてもすぐに1枚持ち上げられるようにし、封筒も十数枚全部ふたを開けて並べ、それも縦にずらしてすぐ1枚つかめるようにし、アリさんのテーブルの上に載せました。彼が指をなめずに作業出来るようになり、箱の中にはみるみるうちにカード入りの封筒が詰まってきました。アリさんは「やりやすいねえ、ありがとう」と能率倍増で嬉しそうに作業しているところにヌレッティン先生が到着しました。ほどなくアスムさんも外出から戻り、先生と私がゆっくり話が出来るように、と別な小部屋を開けさせてくれました。アスムさんはナーディルさんの作成した書類を持って商工会議所に出かけなくてはならず、1時間以内に戻るので戻ったらお昼を一緒にどう?と言ってくれましたが、私には2時の女子会があるため、その前には何も食べられません。 ヌレッティン先生とたくさん話が出来、1時半も回ったことだしそろそろ女子会に向かおうと、上の階の化粧室を借りようとサロンに入っていくと、おそらくナーディルさんがそうさせたのでしょうが、各階の店員が手伝いに来ていて、テーブルの周囲にみんなが座り、一人が私のやったようにカードをずらし、封筒を開けてから並べ、これも少しずつずらして置き、あと3人がどんどん詰め込んでいく、と言う形で能率よくやっていました。 さて、そこを暇乞いして10分足らず歩けば、会場のボル・ロカンタスに着きます。エトゥリ・エクメッキがもう一度食べられるのはうれしいことです。カンディルで食べたのも美味しかったし、ボルも昼時は地元の人でいっぱいになるほど繁盛する店です。ここにもエスマさんが先乗りしていて2階の奥まった席に待っていてくれました。私も約束の2時ちょうどに到着、すぐ後から恵さんと育子さんが相次いで登場し、今日は注文品が届いた時点で話は弾むわ、食欲も増進したわで、たちまち短時間で平らげてしまいました。そして、あと1人前追加で取り寄せて、みんなで一切れずつ食べながら、普段でもときどきこうして会いましょうよ、と言う話が本決まりになったようです。 ここはエスマさんにご馳走になり、2次会がアブデュラーさんの親友、ターヒルさんのバッカル(雑貨屋)の隣にある、ちょっと洒落たHi Coffee(ハイ・コーヒー)に行って、もう1時間ほどお喋りしましょう、と全会一致で楽しみにしていた店に4時頃移動しました。 このカフェが3年前くらいに出来た時は、そのおしゃれなたたずまいにコンヤにもこんなお店が、と驚いたものですが、幸い繁盛してずっと続いているようです。あれこれお喋りしているうちに夕方5時近くなり、育子さんは坊やたちの待つ家に、恵さんもお使いをしながら帰る、と言うことで私もエスマさんへのお礼にカフェは私が支払い、2人で店に残りました。 実は本日はユジェルさんが観光ガイドとして案内に出ていて、私も朝のうち彼に電話でメッセージを送り、女子会が5時くらいまでに終わると思うので、そのあと、そちらの都合のついたとき電話をお願いします、と書き送ったのでした。彼のお客様の女性は、9日の夜東京から単身イスタンブールへ、10日早朝のイスタンブールから朝の便でコンヤに飛び、メヴラーナのシェビィ・アルースが始まったコンヤの街を観光し、夜はセマーの儀式を観賞し、翌日の夜の飛行機でコンからイスタンブールへ、その夜中にイスタンブールから成田へと飛ぶ強行軍なのだそうです。 私も土曜日にユジェルさんとちょっとだけ会っていますが、一度はゆっくり話をしたいと思い、お客様をセマー・サロンにご案内すればお役御免になります、と聞いていたので、そのあとユジェルさんに逢おうと思っていたのでした。ところが、5時を過ぎても一向に連絡がないので、その間にエスマさんに土産物(コンヤ飴)を買い足すのを手伝って貰い、そのあとはしばらく近所のおやじカフェで時間をつぶすことにしました。こちらからも電話してみたものの、全然通じないのでした。 そのうちに7時を回り、2人とも小腹が減ってきたので、今度は市役所のレストラン「コンヤ・ムトゥファウ」に入って夕飯を食べることにしました。焼きナスとラム肉の料理がことのほかおいしく、エスマさんと思いがけなく5時間以上も一緒にいられたことも、彼女の人柄をさらによく知ることが出来て幸運でした。この店に入ってユジェルさんにはここにいることをメッセージして送っておいたので、しばらくすると彼から電話が来て、今お客様をセマー・サロンに送り、私たちのいるレストランの目の前に到着した、というのです。「まあ、よかった。ユジェルさんが見えたら私はお暇しますね」とエスマさんは身支度を始めました。2人は挨拶を交わし、エスマさんはガルソンにユジェルさんと私のためにチャイを注文し、会計も全部済ませて行ってくれました。ユジェルさんはチャタルホユックという、世界遺産のヒッタイト時代の遺跡に行っていたため、電波が全く届かず、私の2度にわたるメッセージも電話も通じなかったのだそうです。「お客様は加瀬さんが用意してくれたメヴラーナ生誕800年祭の本の日本語版をとても喜んで、明日のお昼ぜひお会いしたい、と言っておられました」 ユジェルさんは私が食事を食べ終わると、コンヤ飴の入った大きな袋2つを持ち、ドルムシュに乗って一緒にメラムのチャーダッシュ家まで私を送って来てくれたうえ、メラハットさんが上がってチャイでも、というのを断り、みんなに挨拶だけして、セマーの儀式が終わるころ、お客様を出口で待っていてホテルまで送り届ける約束なので、と腕時計を気にしながら戻って行きました。彼のお陰で重いコンヤ飴の袋を2つも下げて、坂道をひいひいしながら登らずに済みました。ターヒルさんの店で買った飴も相当重いのですが、これもアブデュラーさんが家に届けておいてくれたので、今晩は荷造りを済ませ、深夜アブデュラーさんが家に戻ってくる時までに、玄関に出しておけば車に積んで日中、ターヒルさんの店に預けておいてくれることになりました。 そうなんです、明日は早くもイスタンブールに戻る日となったのです。
2017年12月11日
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【 12月10日・日曜日】 ずっと泊めて頂いているのに、家にほとんどいつかないのでは申し訳ないし、日曜日の朝は正直なところやや歩き疲れているのを感じました。両脚の膝の後ろあたりが痛みを覚え、朝、目覚めてしばらくの間、ベッドの上に座り込んで足を投げ出し、暖房器の側面に足の裏を押し付けて温めながら、ふくらはぎや大腿四頭筋を揉んだり指圧したりして改善に努めました。 日曜日は朝遅くまで寝ている、と言うのがトルコの人の常なので、私も部屋の中で時間をつぶしながら家人が起きてくるのを待ち、やがて朝食が始まったころ、結婚して近くの地区に住んでいるアブデュラーさんの妹さん2人も息子や娘たちと実家に到着しました。今日はお父さんを入浴させ、そのあとは一家団欒、大広間に集まって編み物をしたり、お喋りをしたりチャイやコーヒーを飲みながら好きなように過ごします。 ミヤセさんは近々服飾関係の展示会やシンポジュウムの準備に原稿をこしらえ、それを文書のフォームに合わせて書き込んでいく仕事を抱えているので、姪でもあり大学の教え子でもある若い娘たちに手伝わせながら、文書作成に大わらわなのでした。私も前日も翻訳をした原稿の続きを、同じ賑やかなサロンで気が散るかと思ったらかえって集中出来て、半分以上を終わらせることが出来ました。 やがて若者たちがどこかへ出てゆき、その他の大人たちはそれぞれの論文や編み物や、その他もろもろをこなしながら夕食の時刻を待っているのでした。しばらくすると、サロンの中に深い鍋を持った若者たちがワイワイと賑やかに入ってきました。手に手に、マンガル(バーベキュー)で焼いた肉や鶏、トマトやナス、玉ねぎやしし唐などの入った鍋やボウルを運んできたのです。 それは私には初めて見る光景でした。みんなそれぞれに大皿を持って、アイセルさんやアイシェギュルさんが食べ物を分けるのを手伝い、忽ちのうちに広げたテーブルの周囲にみんなが着席し、私の分も若い子が運んでくれて、食べきれないほどの量です。隣に座ったアブデュラーさんの上の息子ハリム君に「少し手伝って」と言うと「ゆっくり食べれば大丈夫ですよ、さあ、食べ始めましょう」とニコニコしながら言うのでした。 本当に私はすっかり食べてしまいました。こんなに大勢で食べることも初めてだし、この家ではみんながみんな、ちゃんと自分の役目を持っていて、互いに強く深い愛情で結ばれているのがわかります。家族関係ですら希薄になりつつある昨今、いまも一家の長であるおじいちゃん「ハリム・チャーダッシュ」さんの周りには、今は年老いたとはいえ何十年も家長として家族を守り、教育を受けさせ、生活を保障してきた父の祖父の厳しくも愛情に満ちた恩恵を受けて育った人ばかりがいるのです。 それを受け継いだアブデュラーさんは、一家にいくら財産があろうと、父親が働いている姿を子供たちに見せなくてはいけない、とタクシーのハンドルを自らも握って毎日を過ごしているのだそうです。本当は、タクシーのナンバーを何枚か持っていれば、それを貸して自分は働かなくても悠々自適に過ごせるのです。しかし、これは父のハリムさんから身をもって学んだ父親の哲学なのでしょう。そしてみんなが家族の一員であることを自覚し、助け合い、嫁姑の争いもなく、アイセルさん以下4人の姉妹はメラハットさんを本当の姉妹以上に大切に、仲良く暮らしているのを見ると、こうした家族の鑑のような一家と知り合えて、それもコンヤのメヴラーナのお膝元に暮らす人々であるかと思うと、たいそう感動を覚えるのです。 毎日食事の支度も後片付けもしないで、ご馳走になっているだけでは申し訳ない、と私もテーブルの上の調味料などを片づけようとしたりすると、「加瀬ハヌム、どうかゆっくりしていてください。あなたはもう、わが家の一番年長の、大事にされて当たり前のお姉さんなのですから」とアイセルさんやミヤセさんが言ってくれるのを聞くと、幸せってこういうことだな、とまたまた胸がいっぱいになるのでした。
2017年12月10日
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【 12月9日・土曜日 】 昨日、アブデュラーさんの家に帰りついたのは6時少し過ぎ。早速台所を覗いてみると、奥さんのメラハットさんと次姉のミヤセさんがキョフテ(肉団子)をこしらえ、茄子の薄切りをさっと油通ししたものでそれを包み、上にトマト、ピーマン、さらにもう一枚トマトを一切れ載せて、オーブンのトレイに並べ、ソースをかける作業を進めているところでした。長姉のアイセルさんは、ピリンチ(米)の中の石、ごみ、などの異物をより分けて、ピラフを炊く準備です。私はイスタンブールから持ってきたクレープのようなユフカを使って、挽き肉を少し貰い、ワンタン・スープを作る予定で材料を揃えておきました。 7時少し前に準備が整うと、女性陣はすぐにトルコ・コーヒーやチャイを淹れて、小一時間あれやこれやと四方山話で過ごしたあと、アブデュラーさんが7時半過ぎ、今日は9時頃一度家に戻り、夕食を食べたらまた仕事に戻る、と連絡してきたので、台所はまたにわかに慌ただしくキョフテの料理・イスリム・ケバブをオーブンに入れ、ピラフを炊き、料理に取り掛かりました。ミヤセさんがオーブンレンジのガラス窓を時々覗いて焼き具合をコントロールし、奥さんのメラハットさんは付け合わせの豆の煮ものの仕上げにかかりました。ワンタンスープは説明だけしてくれれば、自分たちが作るからゆっくりお茶でも飲んでいらっしゃい、とミヤセさんがスープを引き受けてくれました。なにしろ、ミヤセさんは国立セルチュク大学家政学部の準教授、服飾から料理までお手の物です。長姉のアイセルさんは児童教育の専門家として、トルコ文部省からも功労賞をいただくほどの教育者なのです。 一昨年9月にお母さんが亡くなったあと、お父さんはすっかり気力が衰え、この夏、私がポストニシン様の長男ミタットさんの結婚式にコンヤに行って、そのとき泊めて貰ったころは嫁いだアブデュラーさんの二人の妹さんも、毎週交替で姉たちとお父さんの世話をしに来ていました。ところが秋口に一挙に弱って、この2か月余り、お父さん専門のバクジュ(看護人)を雇っているのだそうです。その、住み込みのバクジュは61歳になるウズベキスタン人の女性で、お父さんの身の回りの世話をしているのですが、家族と分け隔てなく厚遇されて、アブデュラーさんの子供たちとも親しい様子です。 午後8時きっかりにミヤセさんがオーブンからイスリム・ケバブを取り出すと忽ち香ばしい肉の香りが家中に広がりました。チャーダッシュ家の食洗器は、日に何度も洗う皿小鉢、チャイやコーヒーのカップなど満タンで、ごうごう音を立てて稼働しています。盛り付けのために開かれた食洗器、ぎっしり詰め込まれているので、そこから注意深く必要な皿やスープ皿を取り出すのです。そして食事が済むとまた食洗器が満タンに・・・。休む暇もないよ、と食洗器がストライキを起こさないといいのですが。 奥さんが盛り付けてくれたので早速席についてご馳走になりました。ミヤセ・コックさんのワンタン・スープはやはりどことなくトルコのスープになっているような気がしますが、まあいいか。9時少し前、アブデュラーさんが帰宅しました。コンヤで英語を話せる数少ないタクシー業者であるアブデュラーさんは、シェビィ・アルースの期間中引っ張りだこ、夜と言わず昼と言わず、ほとんど休息することが出来ないほどなのだそうです。毎年来ているヨーロッパからのお客さんが遅い飛行機で到着するので迎えに行き、ホテルに送り込んで明日は早くから一日あちこちを回り、夜のセマーに送っていったら、その間にまた、家に食事に来る、と言っています。明日は私がミヤセさん達に日本風コロッケを伝授する約束になっているので、また明日の晩、コロッケで一緒に食事出来るのは嬉しいことでした。 食後あまりゆっくりも出来ず、また出かけて行かなくてはならないお父さんに会いに、下の階からアブデュラーさんの息子2人(ハリム君、オヌル君)と末娘のアルズちゃんも来て、嬉しそうにコーヒーやジュースを飲みながら話をしてゆきます。アブデュラーさんは家に戻ると、まずはお父さんの部屋に様子を見に行き、それからダイニングキッチンに来るのですが、昔ながらの長幼の序や家族愛に満ちた、大家族を守る大黒柱のようなアブデュラーさんは、時に厳しくても、慈愛に満ちた父親の鑑のような人で、それはとりもなおさずいまでこそ病床にいても、ババジャン(父親気質)に満ちたハリムさんが築き、アブデュラーさんが受け継いだ家庭の素晴らしさを見る思いがしました。 コンヤに来て早や4日目、日付が変わってから床に就いたにもかかわらず、やはり早く目覚めたので、ダイニングキッチンにまだ誰もいないうちに、イスタンブールの友人に頼まれた日本語翻訳原稿を取り出し、ノートに訳しながら手書きでメモして行きました。そのうちメラハットさんが起きて来て、チャイダンルック(二層式のやかん)を火にかけてくれました。アブデュラーさんは2時過ぎにいったん家に戻り、仮眠と軽い朝食をとって、6時前には家を出たのだそうです。外はまだ星が降るようだったことでしょう。 私も土曜日だし、今日開く予定のコンヤ女子会は2時の集合だったので、寝ていてもかまわなかったのですが、貧乏性と言うか、宿題など持ってきたので、やらずにいるとそれはそれで気が気でないのです。やがて10時くらいになると奥さんもミヤセさんも起きてきたので、コロッケの作り方をメモして、簡単な絵と身振り手振りも入れて日本のコロッケの平たい楕円形を説明し、お姉さんたちは夕方私が戻るまでには揚げるだけにしておく、と言います。私も集合時刻の2時には早いものの、余裕をもって家を出て、ドルムシュで最初に7日の朝に降りた場所まで行き、とある眼鏡屋さんに寄ったのです。 7日の朝、パレードの出発点に行くときに降ろして貰った場所で、歩きだしたらすぐ、眼鏡屋さんがあったので眼鏡拭きの布を買うつもりで入ったのですが、愛用の眼鏡がもう何年もかけっぱなしで傷だらけなので、ガラスを入れ替えることが出来るかどうか、駄目元で聞いてみたのでした。するととても親切な眼鏡職人さんが、私の外したメガネのフレームとレンズを見て、一目で「これはいい品ですね。しかしレンズの方の傷は直らないでしょう。新たに眼鏡を作るには、トルコでは病院の検眼を受けてその診断書を提出しないと作れないことになっていますが、このフレームがまだしっかりしているので、レンズを取り換えるだけ、ということでお直ししましょう!」と引き受けてくれたのでした。 昨日の夕方までに出来る、とのことでしたが、今朝寄ってみたところ、レンズ取り寄せのカーゴがまだ届かないとのことで、夕方もう一度来ることになりました。チャイを出してくれたので、座ってチャイが冷めるまでの間に、仕立て屋のシェンギュルさんに電話してみると、チョルム県に嫁いだ妹の夫が、10日くらい前の朝、朝食を始めるとき、いすに座ったまま突然亡くなって、シェンギュルさんも急遽チョルムまで来て、初七日まで滞在したため、月曜の晩に帰宅することになる、と言うのでした。 聞けば心臓発作でまだ39歳の若さなのだそうで、どれほど家族が悲しんだことでしょうか。「ご愁傷さま、妹さんの旦那さんが天国で眠ることが出来ますように」とお悔やみを言ったのでした。コンヤに来ているので会いたいと思ったのですが、この分では最後のイスタンブール出発の日に会うことになるかもしれません。 歩いてとろとろ行くうちに、後ろから同じ路線のドルムシュが来たのでそれに乗り、メヴラーナ博物館と並ぶセリミエ・ジャーミイの前で降ろして貰い、それからせっせと歩いて見覚えのある待ち合わせ場所にやっと着いたのでした。カンディル・レストランは2014年に出来て以来、もう何度も来ているので、オーナーとは顔なじみ、コンヤの最古参エスマさんが、シャルク・オダス(東部地方の様式の部屋)で待っていてくれました。 ほどなく皆さんが揃って、とは言え一時からすると日本女性も減って、エスマさん、恵さん、育子さんと私の4人だけ、それにもう一人、育子さんが3年前から住んでいた日本女性と偶然ショッピングセンターで知り合いとなり、その女性の話が出たらエスマさんが、「じゃあ、次回加瀬さんが見えるまでに、その方にも声をかけて、みんなで参加出来るようにしましょうよ。それに、もっともっと私たちも普段の交流を盛んにして、いろいろお付き合いしたいわ~。いつかまたうちにも来ていただいて、楽しくやりましょう」と言ってくれたのでした。 今日、これが初めてのコンヤ・エトゥリ・エキメッキです。たまたま団体さんがたくさん来ていたので、カンディルは超混雑していましたが、個室を取っておいてくれたので楽しいひと時を過ごすことが出来ました。昼は3時半でお開きになったので、みんな揃って昨日のイスラーム文化センターに行ってみることになりました。かなり遠いですが、みんなで歩けば遠くない、とばかりぶらぶらと歩きながら到着、文化センターの内部を見学、皆さん本当に感嘆の声を上げ、素敵な会館が出来たのね、今度また来てみるわ、と評判は上々でした。、最後に広場の前で育子さんと別れた後、記念撮影をしなかったことを思い出しました。育子さんはお子さんたちが待っているので急ぎ足で立ち去った後なので、仕方なく3人で自撮りをしました。育子さんの写真は、2015年の9月に出会った時の写真を貼りました、ごめんね。 エスマさんが「もう一度会いたいので12日の昼、私が皆さんをご招待しますので是非来てくださいな、ボル・ロカンタスのエトゥリ・エクメッキも美味しいのよ~」と熱心に言ってくれるので、もう一度会う機会がありそうです。メヴラーナ広場の前のターヒルさんの店で土産にするコンヤ・シェケリを買っているうちに、ユジェルさんが到着、2人でまずは眼鏡屋さんに行き、店長のシナンさんと、職人のハヤッティさんとも話が弾み、私の眼鏡もきれいに新しいレンズがはめ込まれ、フレームも上等品とはいいながら、長年使っていたのでゆるんでしまったネジや鼻の上の支え具などもきっちり直してくれました。 きれいになった眼鏡は軽くて使いやすく、イスタンブールのエドで買った老眼鏡もスペアに出来るし、万事うまくいきました。それにお店では「あなたはメヴラーナを日本に紹介し、シェビィ・アルースに毎年来てくれるので、眼鏡の修理はレンズ代だけを頂きます」と店長さんも職人さんもニコニコして、え、それだけでいいの?、と言うくらいのお値段しか取ってくれなかったのです。 最終的にはありがたく好意に甘え、またコンヤに来た時は伺いますよ、と約束して店を後にし、ユジェルさんとそのあと近くのケーキ屋でチャイを飲み、彼には飛行機のチケット代を立て替えて貰っていたのでお返しし、今セルチュク大学の図書館で、間近に迫った修士論文の作成のために毎日勉強しているので、今回はあまり一緒にいられませんが、とてもいい日々を過ごしているというと、「加瀬さんはコンヤの皆さんの大事なお友達ですから」とユジェルさんも喜んでくれました。慌ただしいけれど心温まるひと時を過ごしたのち、彼はメラム行きのドルムシュを呼び止め、私を車に乗せるまで一緒にいてくれたのでした。さあ、チャーダッシュ家のコロッケはどうなったでしょう。 帰り道は土曜日でもあり勤め帰りの人が少ないので7時頃に乗ったドルムシュも空いていて、コンヤ市内の渋滞もほとんどなかったため、7時半にはもう家に着きました。ダイニングキッチンに声をかけてから奥の部屋に荷物を置き、帽子やジャケットを脱いで手を洗い、キッチンに入ると、「素晴らしいのが出来たのよ、加瀬ハヌム!」とミヤセさんの朗らかな声が出迎えてくれました。「私たちや子供たちは待ちきれなかったのでもうお先にいただいたけど、美味しいわねえ。あなたもすぐに食べるでしょ、盛るわよ!」「ええ、ありがとう。エルレリニゼ・サールック(作ってくれた人へのお礼の言葉=あなた方のお手に健康を)!」すぐにメラハットさんも立ち上がり、大皿にエリシテ(トルコうどん)を盛り、そのあとミヤセさんに渡すと、大きなコロッケを2つ盛って長姉のアイセルさんが漬物を盛り付けて渡してくれました。希望すれば豆の煮ものなども添えてくれますが、昼が遅かったので、それだけで十分でした。 コロッケはトルコ料理の「イチリ・キョフテ」のような形をしていました。つまりちょっと紡錘形なのです。あれあれ、ほぼ丸くまとめたものを、両方の手のひらに挟んで軽く押しつぶし、平たくする工程を手ぶりで示したのだがなあ、と思いながら食べてみると、あれ、何か食感が違います。おおお、挽き肉がこってりで、ポテトの量が僅かなので、ぬめりがなくだいぶゴワッとしているのです。 私がちょうど食べ終わり、デザートのメロンが出て来たところに、アブデュラーさんが帰ってきました。「いや~、これはうまいね、イチリ・キョフテにちょっとポテトを加えるだけで、こんなにうまいキョフテになるとはね。8月にはシュウマイを教えて貰い、あの後も作ってくれたんですよ。妹たちも学んだし、コンヤに見えるたびに何か伝授して貰えれば、姉妹たちや家内もレパートリーが増えて大喜びですよ」とアブデュラーさんは上機嫌です。「あの、本当は日本のコロッケはもっとポテトが主で肉よりたくさん入っている柔らかいものなんですよ、アブデュラーさん。例えば100gのコロッケでは、50gがポテト、あと、肉と玉ねぎが25gずつ、というぐあいに・・・」「ああ、そうなの。でも私はこれがいいなあ、肉が大好きだからねえ。その家の家族が好きなものを優先して入れればいいんじゃないの、量目にはこだわらずに」私は目から鱗が落ちるような思いでした。料理教室やコンクールでご馳走を作るわけではないのですから、これが究極のコロッケだ、と言うものを伝授しなければならない、という決まりもなし、また教わったものをベースに、習った人はいろいろ自分なりの工夫を加えてもいいのです。 可愛い子には旅をさせよ、と言うのは昔のことわざですが、私もこの歳になっても旅先で学ぶことがたくさんあります。伝えたかったコロッケと少々違うけど、アブデュラーさんはじめ家人がみんな美味しく食べてくれたなら、それはそれで多少なりと役に立ったのだと解釈した方がいいのだ、と思いました。
2017年12月09日
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【12月8日・金曜日】 今日もまた上天気、大平原のコンヤ盆地で、ただ一ヵ所、お盆の縁のように低い山脈の中腹メラム地区の高台にある友人アブデュラーさんの家を出て、坂道を下ります。前日デジカメのチャージに戻って、2度もコンヤの中心地へ往復したので、通勤(?)にもかなり慣れてきました。 シェビィ・アルースのためにコンヤに来た時は、真っ先にメヴラーナ博物館内の、メヴラーナ廟に参拝することが多いのですが、イスタンブールを出る前日には急ぎの用事を済ませ、猫の世話をしてくれるアフメットさんに使ってもらうために、徹夜で猫のせいでめちゃくちゃだった寝室を整え大掃除、台所と風呂場もざっとではあっても、とりあえず掃除したため実はへとへと状態で6日の午後、イスタンブールを出発しました。 コンヤに着いてから、アブデュラーさんの家族の皆さんと話が弾み寝たのが夜中の2時、昨日7日は11時過ぎに家を出て、開幕パレード、メフテル・コンサート2回、そしてチャージのため家への往復、また街に戻ってセマー観賞、夜中に帰宅などなどでまたまた就寝が2時頃になりました。今朝はそれでも体内時計が命ずるまま、いつものように6時には目が覚めて、ベッドの上で両脚を1時間以上もマッサージして、何年もさぼっていたエクササイズをたっぷりしたら、どうやらまっすぐに歩けるようになりましたが、今度は全身が余計くたびれてしまいました。 奥さんが調えてくれた朝食をいただき、坂を下ってバス通りに出ると、運よくすぐにアラアッディンの丘の麓にあるバス・ターミナルまでのバスが来て、コンヤ・カルト(プリペイドカードの乗り物乗車券)も、昨日のうちに充填してあったので何の不安もなく乗り、30分ほどでアラアッディンに着きました。降りるとすぐ後方に、トラムワイのアラアッディン駅が見えます。この駅では2車線が乗り入れており、メヴラーナ博物館の前を通ってアドリエ(裁判所)まで行く路線はプラットフォームの後半に停車します。 しばしば文中に出るアラアッディンの丘とは、これもメヴラーナ博物館と並んでコンヤのランドマークであり、平らな街の真ん中にいきなり巨大な楕円形の丘があり、おそらく紀元前にこの土地を征服した民族が大平原を見下ろすために築いた人工の丘で、その後ビザンティン帝国を経て、ルーム・セルジューク王朝の大王(スルタン)たちの居城となり、第7代の最強のスルタン、アラアッディン・ケイクバド1世の時代に(在位1220~1237)、丘をぐるりと囲む切り石を積んだ城壁と豪華な居城が完成、現在も残るアラアッディン・ジャーミイも修復・完成された、と伝えられています。当時の城と城壁はなぜかほとんど消滅してしまいましたが、ジャーミイは今も健在で、礼拝堂にはギリシャ・ローマ建築の列柱が数多く使われており、大理石の柱はエンタシスで、柱頭にドーリア式やイオニア式、コリント式などを見ることが出来ます。 そして現在アラアッディン・ジャーミイの隣にある、八角形の建物は歴代の11人のスルタンの廟となっており、覗くと棺の形をしたサンドカの下に、それぞれのスルタンが眠っているというのですが、世界中の考古学者・歴史学者たちがこの丘を学問的に発掘したいと願い出ているにもかかわらず、トルコの文化観光省が聖地を掘る話には一切耳を貸しません。アナドル(アナトリア)でも、13世紀の終わりごろから君侯国の中からオスマン・ベイを始祖とする新たな勢力が台頭、次なる覇者となったオスマン帝国の歴代スルタンたちも、メヴラーナの息子と愛弟子が残したメヴレヴィーリッキ(メヴレヴィー教団)を手厚く保護、現在に続くメヴラーナの教えを守ってきたのでした。なお、メヴラーナというのは、もとは尊い師と言う意味で学者への敬称でしたが、今は世界で唯一人、聖メヴラーナ・ジェラーレッディン・ルーミイ(ローマの土地ルムに住んでいる人の意味)の敬称となっています。 かく申す私、メヴラーナの研究者と名乗るのもおこがましく、10年以上経ってもいまだに門前の小僧程度で、しかも習わぬ経は読めませんが、お参りにだけは来ています。7代目のスルタン、アラアッディンはもっと東のラーレンデ(今のコンヤ県の東隣カラマン県)で、その地の領主に手厚く保護されて日に日に名声を高めていた父の学者大メヴラーナと、息子の若きメヴラーナやその一族を、首都であるコンヤに招聘し、現在のメヴラーナ博物館のある、王宮の薔薇の園だった土地を道場の建設地として寄進します。スルタン・アラアッディンの保護のもと、父の大メヴラーナの跡を継いだ青年メヴラーナはその地でアッラーの教え、預言者ムハンマドの教え、人間としての道を人々に説き生涯を閉じました。 身分の上下も教育のあるなしも、どんな宗教を信じているかも関係なく、「来たれよ、来たれ、あなたが誰であろうとも来たれ。この道場は苦しみではなく希望の道場なり・・・」と唱え、門前に人々は列をなした、と言います。メヴラーナが逝き、やがてセルジューク王朝が滅びてもオスマン朝、共和国となってもその教えは現在に続いているのです。 髪をコンヤの作家メラハット・ウルクメズ女史にいただいた黒い上品なベールで包み、メヴラーナの22代目の子孫、メヴラーナ財団の副総裁エシン・チェレビ・バイル女史にいただいた緑のメノウのネックレス、アッ君のプレゼントのメヴラーナ指輪、そのほかに今は亡き友人たちの形見や思い出の品を全部身に着けたり、バッグに入れて持ち、廟にお参りしました。清々しい気分で外に出て、自撮りで博物館を背に写真を撮っていた時です。目の前にボルドー色のかっこいいダウン・ジャケットを着た若い衆が右手を私に伸ばして「ヤルドゥム・エデル・ミシニス(私を助けてください)」と言ったのです。耳を疑いました。一人で写真を写しているお婆さんを見たので、「ヤルドゥム・エデイム・ミ(お手伝いしましょうか?)」と言ったのかと思いました。しかし、彼の右手は心持ち指を丸め加減で、何かちょうだいよ、スタイルです。 「何て言ったの? もう一回言ってみて」 男はやった~と言わんばかりにトルコ語が通じたからバラ銭でもいいや、何かくれそうだな、とにんまりしながら一歩近づきました。新品の、Mavi印のデニムを穿き、ジャケットと同じ色のドイツの有名なメーカーのスポーツシューズを履いています。「ちょっと待ちなさい、ここで何をしているの、あなた!」 私の口から娘がいつも心配する「説教婆さん」の決まり文句が出てしまいました。彼はそれには答えず、私の後ろにいた60歳代位のトルコ婦人にも同じ言葉で右手を差し出すと、その人には「テイゼ、キラ(家賃)があるんで、恵んでください」と言い、まんまと1リラ(33円くらい)をせしめました。そして私の方に向きなおってまた右手を出して、「テイゼ、ビル・ヤルドゥム・オルスン(ちょっとでも助けてよ)」。私は忽ち怖い顔になりました。「ピカピカの新しいジャケットを着て、流行のズボンと靴を履いて、手には最新の携帯を持って、なんで乞食をしているの、あなた。見ればたくましくてなかなかのハンサムなのに、どうして働こうとしないで、よりによってシェビィ・アルースの日に、メヴラーナ博物館で物乞いをしてるの、恥だと思わないの!」 そばにいた1リラ恵んだ婦人が慌てて私の手を抑えて「まあまあ」となだめようとしました。若い男は怒るでもなくつまらなそうに離れ、すぐに近くのほかの人に手を差し出しています。その婦人が私に「あなたはどちらから?」と聞き、私は「日本人ですが、イスタンブールに住んでいます。毎年お参りに来ていますよ」と答えました。 「奥さん、あなたの方が正しいわ、でも私も2年前にあの青年の年ごろの娘を急な病気で亡くして、メヴラーナにお参りして少し気が晴れるように、と思っているところに彼が現れたのね、ついほだされて・・・」 私は思わず婦人を抱きしめ、「ご愁傷さまでした。娘さんが天国で暮らしておられますように」とイスラームのお悔やみの言葉を言うと、婦人はもう涙が止まらなくなって、私の手を放そうとしません。メヴラーナ廟で、それこそ袖擦りあうも他生の縁、と仏教の言葉を思い出しながら、その人の娘さんが二十歳を過ぎたばかりで、これから、と言うときに亡くなった話を聞き、婦人の気の済むまで相手をして、Adidas男にムカついていた気分をその人が癒してくれたと思い、心の中で礼を言いながら別れたのでした。さあ、13時半にはポストニシン様と再び会うことになっています。 実は昨日7日の午後、ポストニシンのファフリ・オズチャクル氏を訪問する約束があったので伺うと、よそで行われている儀式が長引いて終わらず、セマー楽団の団長室にまだ戻っていませんでした。4時20分前に帰って見えたものの、私がメフテル・コンサートの第二会場に4時までに行くことになっているのがわかっていたので、もし明日お時間があればもう一度ご足労をお願いしてもいいですか、と言われました。私も明日出直してきますと約束し、ポストニシン様は運転手のケマリさんを呼び、キュルトゥル・パルク(文化公園)まで私を送らせてくれたのでした。そういうわけで、本日メヴラーナ廟の参拝が終わった後、13時半にファフリさんを再訪したのでした。 8月6日に長男のミタットさんが結婚式を挙げ、私も早くから招待状を受けていたので前日の飛行機で飛び、一晩ホテルに泊まり翌日の午後、「嫁迎えの儀」とでもいうのか、花嫁の家に、花婿とその一族或いは花婿側の友人達がコンボイ(車列)になって迎えに行く、という大そうな行事にも加わらせて貰ったのでした。ファフリさんの家は代々セマーゼンで、父のメフメットさんも1987年に日本公演に参加したことがある、というお家柄です。 実は私は2003年にNHKBSのドキュメンタリー番組で、カッパドキアとコンヤを取材し、その折、シェムス・アヌ・ホテルのオーナー、勝新太郎によく似たベキルさんがコンヤの旅行業者協会の会長で、番組のコメンテーターとして、べキルさんの親友の考古学者、ヌレッティン先生を紹介して貰い、そのヌ先生が2004年に、私が見たいと思っていたベイシェヒール湖のほとりにある、クバドアバド宮殿の発掘現場への往復に、友人のタクシー業者アブデュラーさんの車で一緒に案内してくれたことからアブデュラーさんと知り合いました。 その後彼がキリム問屋のカラヴァン社長アスムさんを紹介してくれたあと、2006年の夏、ファフリさんと知り合った私が、メヴラーナ文化センターで、当時セマーゼン・バシュだったファフリさんを訪問した後、アブデュラーさんのタクシーを呼んだ際、乗り場まで見送りに来てくれたファフリさんに紹介すると、なんとなんと、この二人が子供時代、メヴラーナ博物館の向かい側にある大きな墓地の向こうの旧市街で育った近所同士で、子供時代かくれんぼや鬼ごっこをして遊んだ仲だったのだそうです。 40年ほど前にコンヤ市役所の都市計画が始まり、旧市街が整地されることになったため、それぞれに別な地区に引っ越して、30年以上も全く音信不通に過ごした旧友同士だったことが判明、2人はその場で「やあやあ、加瀬ハヌムが私たちを再会させてくれましたね」と抱き合って喜びました。目と鼻の先で働きながら、全然出会わなかった、と言うのもすごいですが、殿方はどちらも身長185くらいあろうかという堂々たる恰幅の頼もしい男性たちです。その後時々旧交を温めるために、ファフリさん一家がアブデュラーさんの両親に会いにきたり、家族ぐるみマンガル(BBQ)をしたり、バイラムなどに昔のように互いに行き来を始めたのだそうです。 この5人の中年紳士がすべて知り合いで、皆さん揃ってコンヤの文化や商工業に大きな役割を果たしている人々なのでした。コンヤも広いようで狭いものだと思ったものです。(コンヤはトルコ81県のうち最も広い) 楽しい1時間半は瞬く間に過ぎ、夕方セマーの準備でポストニシン様もお忙しくなるでしょうから、と私も暇乞いをしました。すると、ファフリさんはメヴラーナ文化センターと、ウチレル墓地の間に新しく建設された「イスラーム文化センター」について説明してくれたので、私はその施設をのぞいてみることにしました。するとまたまたファフリさんは運転手のケマリさんを呼び、私が昨日から動き回っているので、少しでも楽に行けるようにと、彼に送らせてくれたのでした。 そのイスラーム文化センターには、ファフリさんの新婚の息子ミタットさんと花嫁のアスルさん夫婦が、10月から揃って働いているとのことで、若夫婦にも逢いたいと思っていた私には渡りに船、のようなお話だったのです。ポストニシン様に見送られ、セマー楽団の通用口から、車ならものの5分ともかからない距離なのですが、送って貰えたことは大いに助かりました。ケマリ青年は普段は県の職員として別な部門で働く国家公務員なのですが、シェビィ・アルースの期間中、メヴラーナ文化センターやセマー楽団が非常に忙しいため、応援に来ているとのこと。彼は、アタテュルクの生まれ育ったテッサロニキ(現在はギリシャ領)生まれのお父さんと、コンヤ出身のお母さんがいて、青い目と金髪の色白なところはとてもイスラーム教徒に見えないのですが、話をしているとバリバリのムスリマンであることがわかりました。車内でも、今度またお会いしたときは、由美子ハヌムの宗教観をお聞かせください、などと言うのでした。 さて、門構えからしてイスラーム模様、それがまた見事に周囲の環境と調和しています。メヴラーナ博物館(メヴラーナ廟)、メヴラーナ文化センター、そしてウチレル墓苑の隣にあるチャナッカレ戦争の殉職者記念会館などが隣り合って一つの地域を構成しているからです。イスラーム文化センターはまだ完全にオープンしてはおらず、出来上がった施設から使い始めている様子、そのためにまだ整然としてはいないのですが、男女の一般職員たちは揃いの丈長な茶色のベストを着て、きびきびと動き回っており、ファフリさんの長男ミタットさんの職掌は来客やグループの案内、インフォメーション、その他事務などのようです。 お父さんから事前に連絡があったようで、ミタットさんは同僚に呼ばれるとすぐ私のところに来て、館内をぐるりと案内してくれましたが、セマーゼンですから顔の下半分は濃い口髭と顎鬚に覆われていて、本当は白皙の貴公子顔、ちょっともったいないような気がします。昨年はトルコの国営放送TRT1で、メヴレヴィー教団の創始者、最後の愛弟子フサーメッディン・チェレビを描いたドキュメンタリー映画で、チェレビを演ずるなど多才な活躍をしています。 この夏8月6日に華燭の典を挙げ、新婦のアスルさんもエブルの腕前を買われてこの文化センターで、トルコの伝統芸術エブルの教室を担当する教師として採用されたとのこと。ミタットさんは「私たちにぴったりの仕事です、どうぞたくさんの方々に見学していただき、いろいろな教室で技術・芸術・音楽などを身に着けていただきたいと思います」とにっこり微笑みながら、それぞれの教室を見せてくれました。 最後にアスルさんのエブル教室に行くと、額入りの何枚かの作品が後ろに並べてあり、似合いの夫婦が幸せに働いているのを見せて貰い、安心しました。たっぷり時間をかけて案内して貰ったので、外はそろそろ日が傾き、寒そうに見えたので明日にでもまた続きを見せて貰います、と言って暇乞いしました。明日は、コンヤの日本女性が私に会いに来てくれる女子会なので、そのあと、コンヤに住んでいてもまだみんな知らないであろう、この文化センターに案内する気になったのでした。 私は少し歩いてドルムシュ(乗り合いマイクロバス)の通り道で待ち、メラムの丘の裾にあるアブデュラーさんの家に早めに帰ることにしました。朝、家を出る前に今日は晩御飯を家でご馳走になります、と約束してあったのです。いい具合に私の行きたい路線のドルムシュがほどなくやってきました。西空の夕焼けを見ながら家に帰るのは素敵です。家ではアブデュラーさんの奥さんやお姉さん方が腕を振るってご飯の支度をしてくれていることでしょう。
2017年12月08日
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【12月7日(木曜日)初日】 前夜の冷たい雨風とはがらりと変わり、春を思わせる好天に恵まれ、アラアッディン大通りの開幕パレードに参加、先頭を練り歩くメフテル軍楽隊のしんがりに並ばせて貰い、それに続くセマーゼンとの間で、県庁前からメヴラーナ広場までの約1キロを行進しました。去年に続いて2度目です。 シェビィ・アルースの開幕日、恒例の開幕パレードが始まります。右はメティン中佐、左はデニズ少佐、幸せいっぱい、今年最高の日 メフテル軍楽隊を先頭に、そのあとをセマーゼンの皆さんが続きます。 メヴラーナ広場に近づくと博物館の緑のドームが見えてきます。 キョスゼン(大太鼓奏者)シェラーフェッティンさん 広場で最初のコンサート、そのあと、セマー儀式のポストニシン(道場の長)であるファフリ・オズチャクル氏を、メヴラーナ文化センターに表敬訪問、開幕日の招待券をいただき、氏の公用車でメフテル軍楽隊の第2回目のコンサート会場に送っていただきました。ところが、最初のコンサートで動画を僅か数分撮ったために、思い切り古めかしい私のデジカメのバッテリーが、前夜充電しておいたのにも関わらず早々と空っぽの警告、あいにくチャージセットを持たずに出てしまったので、コンサート会場でメフテルの皆さんと別れ、泊めていただいている友人アブデュラーさんの郊外の家まで、バスのターミナルで聞いても聞いても、どの路線がそちら方面に行くのか、さっぱりわかりません。 あちこちうろうろしながら30分以上過ぎ、家には小一時間後やっと帰りつきましたが、充電を始めた途端に、私に起こりがちなイスタンブール都市伝説、それがここでも停電になったのです! 夜8時のセマー儀式の開幕まで間に合わせたいので、ハラハラドキドキ、奥さんやお姉さんたちが腹ごしらえをしていらっしゃい、とろうそくの明かりの中で軽食を温めてくれたので、それをいただいているうちにほどなくパッと電気が点きました。 ああ、助かった、あと少し充電できればセマーだけなら大丈夫、と思った矢先、また電気が消えて真っ暗に・・・・大急ぎで食事を終わらせ、トートバッグを抱えてチャージセットも外し、鞄に入れた途端に電気が! 散々おちょくられたものの、多少なりとバッテリーもチャージされ、奥さんが門まで送ってくれたので、今度は下り坂をせっせと転ばぬように下りてゆくと、いい具合にちょうどメヴラーナ文化センターの真ん前で下ろしてくれる、ぴったりコースのドルムシュ(乗り合いマイクロバス)が来ました。 8時ちょうどに会場に飛び込んで息を切らして指定席まで行くと、揃いの茶色の丈長なベストを着た学生アルバイトの若者たちが待ち構えていて、私の重いバッグを持って、階段を下りる手助けをしてくれました。かつて軍事博物館のコンサートホールで、階段式の観覧席の上の方から舞台に向かって転げ落ちた経験のある私は、こういうローマ風の劇場は苦手です。 8時半開幕のはずが、一向に始まる気配がありません。例によってプロトコールの文化観光大臣や、政府や県のお偉いさんたちがまだ会場に到着していなかったようです。結局のところトルコ時間で30分以上遅れて開会となりました。 メフテル軍楽隊の2回目のコンサートの後、急いで郊外の友人宅にデジカメのチャージに帰り、あろうことかやっと充電を始めたら停電、それも2回もです。でも動画さえ撮らなければ何とか写せるでしょう。夜7時20分、丘の中腹にある友人宅から出て、坂道を転げるようにバス通りまで下り、幸いメヴラーナ文化センターの真ん前を通るドルムシュ(乗り合いマイクロバス)がすぐに来て、運転手さんがとても親切に、近道の裏門の前で降ろしてくれました。 息を切らせて小走りに入場口に行くと、セキュリティの長い行列のところで、コンヤ県文化観光局の課長メフメット・ユンデムさんが、行列の先頭にいた女性たちの一行に「毎年お見えになる日本のご婦人にどうぞ順番を譲ってあげてください」と頼んでくれたので、女性たちはニコニコ顔でどうぞ、どうぞ、と快く先頭に入れてくれました。 おかげですぐにセキュリティを通過、建物は円形になっていて、2階にセマー・サロンの入り口があり、階段を上って観覧席は3階から下に向かって降りる古代劇場風で、正面にミュージシャンの席があり、その向こう側に招待者用のDブロックがあり、会場整理の若者たちが揃いの茶色のベストを着て、私をみるとすぐにバッグを持ち、5段目の席までゆっくり付き添ってくれました。8時半開演に十分間に合いましたが、会場はまだ五分の入り、コンヤの地元のの人は心得ていて、どうせ来賓が遅れてくるので、8時30分ピタリには始まらないのを知っているのでしょう。それに主催側や来賓の長い挨拶やスピーチを聞く気はなく、ゲストのコンサートとセマーだけ見ればいい、と思っている人もたくさんいそうです。 8時20分頃、元セマー楽団団長オメル・ファルック・ベルビランル氏が744回目のシェビィ・アルースの開催の祈りを捧げ、そのあと司会者が出て来て、英語とアラビア語の通訳女性が二人付き、主催者であるコンヤ文化観光局長、コンヤ市長、コンヤ県知事などの挨拶が続きました。毎年シェビィ・アルースの期間中、自分のバンドを引き連れてコンサートを開く国民的歌手アフメット・オズハン氏が30分に渡り美声を披露したあと、高名なメヴラーナ研究家のシェビィ・アルースに関する解説があって、9時40分頃、やっとセマーの儀式が始まることになりました。 セマーの儀式の最高責任者であるポストニシン様の座る場所には、コンヤのキリムが1枚敷いてあり、まず若いセマーゼンの一人が、その上に赤い毛皮を置きに出てきます。旋回するセマーゼンたちの場所にはすでに白い毛皮が敷き詰められていて、セマーゼンたちの入場が始まりました。10時ちょうど、最後にポストニシン様が登場、ゆっくりと赤い毛皮の場所に進み、正座して正面に向かい一礼すると、ミュージシャンがメヴラーナを称えるナートという曲を歌います。このソリストは特別にナートハンと呼ばれ、選び抜かれた技量の持ち主だけが歌うことを許されています。初めて聞いた十数年前には「これが歌か」と私も本当にしびれてしまいました。 セマーは3度の休息(1分程度)を挟んで4回、旋回が繰り返されます。これにはそれぞれ意味があるのですが、長くなるので省略します。セマーの最中、去年までは赤、黄色、緑と最後の海の底のような紫色の照明がどぎつくて閉口し、最後は写真を撮ってもはっきり出ないので、ポストニシン様に相談してみました。今年は少し改善されていたのがわかりましたが、照明の技師はきっとよくよくあの紫色を気に入っているのでしょう。 その夜はたいそう遅くなり、友人宅に帰るにも家に着いたのが12時半で、まるで夜遊び帰りのシンデレラ婆さんとなりました。 セマーの儀式を途中で退席したことは一度もないのですが、今回は町中のホテルに泊まっているわけではないので、帰途に公共交通機関が無くなったら困ります。お世話になっているチャーダッシュ家を出る前に、トラムワイやバス、ドルムシュなどが何時まで動いているかを家の人に教わっておいたものの、やはり心配なのでセマーの最後の旋回が終わるところで席を立ちました。時に11時10分前。ドルムシュは11時頃までしか営業していないので、トラムかバスがいいとのこと。文化センターの建物の裏側に回ると、トラムワイの駅があり、そこからアラアッディン駅に、そして「メラム・トゥプ・ファキュルテシ」行きのバスに乗ることを考えていたのですが、普段12時まで動いているはずのトラムワイの駅は森閑としていて誰もいません。 駅の向こう側にバス停もあるのですが、全然バスが来る気配もありません。時間ばかりどんどん過ぎて途方に暮れていたら、セマーの最後までいた聴衆が帰っていきます。バスの乗り場が表門の方に変更されているらしく、たくさんの市営バスがはるか遠方の踏切を渡ってあとあと出発していくのが見えました。表門の方に回っている間にトラムが来てしまうかも、バスが来てしまうかも、とそこを離れるわけにもいかずいたずらに夜が更けていくのに身動きが取れません。すると、二人組の中年男性がトラムの駅に入ろうとしているので、「すみません、もう30分以上もここにいるのに、トラムも来ない、バスも来ないので、ここにいてはアラアッディンに行かれないのでしょうか」と聞いてみました。年長の男性が少し若いもう一人に何か言うと、彼は持っていた携帯でトラムの運行について調べてくれたのです。電話をしてくれたアリさんが、年長のメフメットさんに小声で何か伝えました。 「奥さん、市の交通局ではフェスティバルが始まったので、今日からは11時に運行を停止して、保守点検で入庫することになっている、と言うんですよ。呆れたもんだ、シェビィ・アルースは毎年この日と決まっているんだから、保守点検は1ヵ月前から始めて、フェスティバルの間は夜中の1時まで動かせばいいのに、なんだい、連中は何を考えているんだ、やることが反対じゃないか!」 アリさんはシャイな人らしく今度は携帯でバスの運行を調べてくれたようで、メフメットさんに何か耳打ちしました。「奥さん、あと6分後にアラアッディンを通るバスがここに来るそうですよ。私らもそれに乗って、キュルトゥル・パルク(文化公園)まで行きますから、あなたもそこからメラム行きのバスに乗ればいいんですよ」トルコもすごいな、都内のバスのように目的のバスが今どこにいて、何分後に到着する、などと言うのがわかるんだ~! スマホをいまだに持っていないガラケーお婆はびっくりです。キュルトゥル・パルクの停留所に電光掲示板で、何番のバスがあと何分で来るか表示が出ています。自分たちのバスの方が早く来たのに、メフメットさんとアリさんはそれぞれ自分のバスをやり過ごして、私のバスがくるまで待っていてくれました。 メフメットさんは現役の頃は工業技師だったそうで、日本のマキタの工具を使っていましたよ、日本人は素晴らしい、働き者ばかりだ、と褒めてくれました。私こそ、トルコではお二方のような親切な方がたくさんいらして有難いですよ、と心から言い、やがてバスも来て親切なお二人に見送られ、暖かい気持ちになって、長い坂を上るにも大して苦にならず、コンヤはやっぱりいいところだと思ったのでした。アブデュラーさんの家でもあらかじめ電話連絡しておいたので、奥さんやお姉さんたちが、そろそろ着く頃ね、とチャイを沸かして待っていてくれたのでした。ところで私は旅をするとき、特にシェビィ・アルースに来るときは、指輪、ネックレス、写真、スカーフなどなど、たくさんの品物を鞄に詰めて持ってきます。今は亡き人々の形見、あるいは写真などを一緒に持ってくるのです。いまに加瀬さんに会いにトルコに行きたいわ、と言って果たさずに星になってしまった人々を旅行先にご案内しているツアコンの気分です。こういう品を携えているので、コンヤの夜道は怖くありません。
2017年12月07日
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【12月6日 水曜日】 直前まで行かれるかどうかがはっきりしない状況だったものの、一昨日の夜やっと何があっても行こうと決心して、夜になってからユジェルさんに頼んで飛行機のチケットを取って貰った。昨日は出発前に片づけておかなければならない2つ3つの用事に関してパソコンと首っ引き、あちらこちらに電話をかけているうちに夜が更けてしまった。留守中猫の面倒を見に来てくれるアフメットさんに泊まって貰う部屋を片付けて見苦しくない程度に掃除し、これが終わったのがもう明け方になる頃。 そのままNHKの朝のニュースを見て、そして入浴、洗髪を済ませた後、朝食を簡単に済ませ、洗濯物は台所への廊下に吊るしスーツケースの中を再点検し、最後にもう一度猫の砂箱を清掃して7匹にたっぷりと缶詰を与え、タクシーを予約しておいたのでいよいよ来て貰おうともう一度電話を入れると、今1台も車がないとジハンギル・タクシーはつれない返事をする。何のための予約だったのかと、運転手達のリーダー、アリ・シャーヒンカヤさんに電話してみると、自分の車はもう交代時刻よりやや早く雇いの運転手に渡してしまったので、彼に電話してどこにいるか聞いてくれるという。 アリさんからの連絡を待っていると、彼の運転手イブラヒムさんは客を送り届けて戻る途中だそうで、15分以内に来てくれるというので待つことにしたが、ではその前にごみを捨てておこうとエレベーターの前に行くと、6階に止まったまま故障している様子だった。仕方なくまたごみを部屋に戻し、アフメットさんが明日の昼頃来るので彼に頼むとして、10キロ余りの赤いスーツケースを左手で壁に手をつきながら、やっとのことで一段ずつらせん階段で降ろしたのだった。 15分以内に来ると言っていたタクシーが実際には20分以上かかってやっと来たので、アジア側のサビハ・ギョクチェン空港行きのシャトルバスを、30分早く出るのに乗れるようにタクシーを頼んだのだが、ちょっと怪しくなった。そこに持ってきて、シャトルバスの乗り場がごく最近変わったらしく、運転手もエルマダーのタリマーネ地区のどこかだよ、としか知らないのだそうだ。タリマーネはタキシム広場とエルマダー交差点との間にあり、いくつものソカクが入り組んでいるところだ。 結局その中のどこにシャトルバス「ハヴァビュス」の乗り場があるのかわからず、またタキシム広場の前に戻ってきてしまったので、予定していたバスには完全に乗り遅れたし、イブラヒムさんはボスポラス海峡の橋が大混雑する時刻なので、次のバスでは完全に飛行機を逃すよ、と言う。仕方なく私はイブラヒムさんに続行してくれるように頼み、予定外の大出費になってしまうが、タクシーでサビハ・ギョクチェン空港に乗りつけることにしたのだった。 イブラヒムさんは混雑するオンベシ・テンムズ・シェヒットレル・ヴェ・ガージレル・キョプルス(7月15日戦没者達・生還者達の橋=旧名ボアズ・キョプルス)を避けて、少し遠回りすることになるが空いていると思われるファーティヒ・スルタン・メフメット大橋(通称第二大橋)を渡って空港に急いでくれた。おかげで5時少しすぎにはサビハ・ギョクチェン空港に到着、今度は搭乗まで2時間近く待つことになった。でも、2015年の暮れには、途中の大混雑で飛行機を逃した人が続出、私もラストコールでコンコースを必死に走った記憶があるので、やはり搭乗まで不安のない時刻に着くと後が楽だった。 サビハ・ギョクチェン空港の207ブリッジから黄昏時のグラウンドを見る。 搭乗口の待合室 夕方の飛行機は利用客も多く、広々とした動線を持つ機能的な空港です。 空港の搭乗待合室でアブデュラーさんに電話をかけると、8時15分着なのでそれに合わせてコンヤ空港に迎えに来てくれるとのこと、私はまたチャーダッシュ家に泊めて貰うことになった。コンヤ空港でタラップを降りるとき、外気は恐ろしく寒く、ボタンをかけずに出てきたため、下からの風にあおられてジャケットもマフラーも脱げて飛んで行きそうになった。朝の天気予報でコンヤは雪のマークが出ていたが、日中は雪とはならず雨が降っていたらしい。それにしても寒い一日だったようだ。 チャーダッシュ家では家族みんなが大歓迎してくれた。アブデュラーさんはこれでパイドス(仕事じまい)ではなく、夜中に到着する常連のお客があるとのことで、私を家に連れ帰るついでに夕飯を食べ、また出かけて行くのだそうだ。特にシェビィ・アルースの期間中は人の出入りが激しく、アブデュラーさんは英語が話せるので、外国からやってくる常連のお客さんも多く、カッパドキアやアンタルヤ、アランヤなどにも観光用車両として小旅行にも利用されているとのことだ。 私もこのところ寝不足気味の日が続き、夕べは特に徹夜に近い状態だったので、午前2時少し前、部屋に引き取らせて貰った。こうしてコンヤの第一夜が終わり、猫達はどうしているだろうかと寝る前にちょっと思っただけで、何も考えず眠りに落ちてしまった。
2017年12月06日
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【12月5日・火曜日】 昨日まで、今年のメヴラーナ追悼式典、シェビィ・アルースに行かれるかどうか、はっきりしない状況だったのだが、確実に行かれることになり、コンヤのユジェルさんに頼んで4日の夕方、往復のチケットを買っておいて貰った。 今朝はコンヤのメヴラーナ楽団のゼネラルマネージャーである、ポストニシン様(ファフリ・オズチャクル氏)にFacebookのメッセンジャーで挨拶し、今年も開幕の日に伺えることになりましたので、初日夜のセマーの儀式によろしくお願いします、と書いた。 するとほどなく返事が来た。「喜んでお待ちしています」 6日の夜8時過ぎにコンヤ空港に着く便で私は今年も無事にメヴラーナの追悼式典に行かれることになり、7日の朝メヴラーナ廟にお参りし、その次にポストニシン様を表敬訪問した時、夜のセマーの儀式の招待席のチケットを頂けることになった。 午後1時半出発の、メフテル軍楽隊と次のセマーゼンを先頭に、コンヤの市民や観光客や近隣都市などから平和祈念のデモ行進、ことに今年は、女性にドメスティック・バイオレンス絶対反対の社会運動のグループが、華麗にデモ行進を繰り広げることだろう。 コンヤはたいそう寒くなり、本日5日と6日は雨と雪、という予報なのだそうで、無事に行進が出来るかどうか気になる。 イスタンブールに帰るのは12日の夕方。猫達はウスキュダルのアフメットさんが5泊6日で面倒を見に来てくれるので安心。私は6泊7日のかなり長い旅行になるので、戻ってきたあとが大変だと思うけど、今年の厄払いのつもりで、コンヤに行ってきます。 シェビィ・アルースのクライマックス、セマーの儀式。海の底にいるような、神秘的な雰囲気です。
2017年12月05日
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【10月20日・金曜日】 昨日、高額絨毯の返品希望の日本人青年の通訳として、私の代わりに出動してくれたまり子さんが今朝電話してきて言った。「加瀬さん、今日はどちらかにお出かけですか? もしおうちにいるなら、昨日のご報告に伺ってもいいですか?」 まり子さんからこの事案の経過を聞けば、私も領事館の担当領事さんに結果の報告が出来るし、今後またこうしたことが起きた時の参考になるので、「では何かお昼ご飯の支度をしておくので、一緒に食べながら話をしましょうよ」と答えた。 実は先週から今週にかけて、連日かほぼ1日おきくらいの頻度でまり子さんと会っており、おかずを作る食材が冷蔵庫に入りきれないほどある。来るたびに彼女が途中であれこれ、買い物をしてきてくれるのである。私はこれも以前まり子さんが市場で大きなキャベツ(ホルモン入りかも)を買い、半分を私に持ってきてくれたのがあったので、葉っぱが傷んでしまわないうちに朝から挽き肉との煮込み料理と、シュウマイのキャベツ巻きを作り、そのほかにポテトサラダ、青首大根の煮つけなど、たくさんおかずを作っておいた。 まり子さんは今日も1キロ入りのコメ袋を3つ、レモネード2本(2リットル)、その他鶏肉やらいろいろな野菜をまたリュックサックやビニール袋にいっぱい入れてやってきた。「まり子さんたら、昨日臨時収入があったからって、そんなにお金を使わなくてもいいのに!」と私は土産が嬉しくないわけではないが、母親のように彼女をたしなめた。「でもいつもご馳走になってばかりいるから材料だけでも持ってこないと気が済みません」と笑いながら彼女は席に着いた。 早朝から張り切って肉団子とキャベツの煮込み。茹でたキャベツの葉でにんにく入りの餃子風シュウマイを包み、蒸して酢醤油で食べました。 キャベツと肉団子の煮込み、ポテトサラダ、大根の煮つけ 茹でたキャベツの葉で、餃子風に作ったシュウマイを包みます。蒸して一口大に切り、酢とラー油醤油で食べてみました。うまい。 食後彼女の土産の中の白ブドウを食べながら、まり子さんの報告を聞いた。昨日私と別れた後、イタリア坂を下ってトプハーネ駅からトラムワイでシルケジ駅まで行き、青年の泊まっている宿に寄って、買った品の領収書など入用なものを持ち、当の絨毯屋に行ったそうだ。来店の目的はまり子さんが前もって店のオーナーに電話しておいたので、先方も準備して待っていたという。 ところが店に行くと途端に青年が黙りこくってしまい、店のオーナーが言うには、先週絨毯を売買した日には、たいそう友好的な雰囲気で、青年の誕生日だというのがわかり、誕生日ケーキを取り寄せ、みんなでお祝いまでしてくれたのだそうだ。青年も楽しく過ごしている様子が、絨毯屋のサロンの防犯カメラにすべて記録されており、絨毯を買ったいきさつは決して強要でも脅しでもなく、店員やオーナー達に薦められた品を、青年がごく自然に気に入って買い入れた様子がよくわかるのだそうだ。 まり子さんの見解では、店側の対応にまったく落ち度はなく、サロンで取引が交わされる様子を写したビデオの記録でも不審な点は皆無で、青年が楽しそうに店の人達と和気藹藹で過ごしているのがよく分かり、苦情のつけようがないという。 まり子さんはそれでも、後になってふと分不相応な買い物をしてしまった、とツーリストなら後悔することもありうる、とオーナーに説明し、返品に応じて貰いたい青年を代弁して、5時間近くも喋り通しで交渉したのに、肝心の当人が顔も上げず、「ええ」とか「いいえ」とかいうだけで、どうしてほしいのかを一言も言わないのだそうだ。 店側では既にいろいろな経費を支出してしまっているため、返品する、と言っても売値がそのままお返し出来るわけではない、とオーナーが丁寧に説明するのをまり子さんが通訳しても、青年ははっきりした反応を示さないのだそうだ。そのうちとうとう、夜9時を回り、店のオーナーやスタッフもまり子さんもみんな疲れ果て、オーナーが新しい提案をしたという。「お客様があの絨毯を実はお気に召していなかった、と言われるならば、既に売買契約が成立しているし、当方に大きな落ち度はないと信じていますが、もし、今日別な品がお気に召してそれに取り換えたい、と言うことでしたら、交換に応じることは出来ますよ。こんなのはいかがでしょうか」と、ヘレケのマークの入った、値段的には青年の買ったものよりさらに高級そうな品を示して代替案としたのだそうだ。 最終的には、だんまり戦術を通した青年も、やっとそれでOKということになったので、自分は労せずしてヘレケの一段高級な品が手に入ったことになる。青年は自分の宿に戻ってから、まり子さんに所定の通訳料を支払い、今朝帰国の途に就いたようだ。あとは日本の彼の家に届く郵送品は、オーナーの友達のトルコ人の住所に転送すれば、そこで返送手続きをしてくれるとのこと。至れり尽くせりで、今では絨毯屋の方もクレームへの対策を十分に備えているのであろう。 さて、明日21日か、22日の日曜日に、かねてから呼び出されていたコマーシャル・フィルムの撮影があり、もちろんその他大勢のエキストラとしてアルバイトで働くのだが、前日の金曜日の夕方だというのにまだどちらの日になるか、アジャンス(エージェンシー)からは知らせが来ていなかった。 私はこのところ長期にわたって忙しく、頭頂部の白髪が伸びてしまい、6月に1日だけ来た娘が、「お母さん、髪がすごく伸びたね。ただ伸ばしてゴムで縛っているだけじゃ冴えないでしょ、少しは手入れをしなくては。美容院でカットして貰ったら? 短ければそのあと自分で染めても楽でしょう、お母さんは長髪よりボブの方が似合うよ。私、美容院について行ってあげようか?」と言ったのだが、結局その日は娘も頼まれた買い物などで忙しくなり、それきり行かれなくなってしまっていたのだった。 今年の9月1日に撮った後ろ髪、昨年9月にはまだボブスタイルでした。 昨年8月27日に撮った写真ではまだこんな風でした。 まり子さんに「いっそ全部地毛にしてしまいたいのよね。あなたの知り合いのいい美容院ある?」と言うと、彼女は「もうかれこれ30年近くうちの近所の店に通っているのよ。加瀬さんはジハンギルあたりだと美容院の代金高いでしょ? 私の店に行ってみる?」と言う。「えっ、そういう店があるの? じゃあ連れて行ってよ」と何故かたちまち話が決まった。 それからはバタバタとまり子さんが食器を洗い、私も外出の支度をし、あたふたと猫に餌をやり、ガラタサライ高校の脇の道から工事中のイスティクラール通りを抜けて、66番というバスに乗るためにタルラバシュ大通りに出た。すると目の前を66番のバスが通過して行ってしまった。30分ほど近くのバス停で待ち、やっと来た次の66番のバスに乗ったら、軍事博物館の先あたりから大混雑、まり子さんの行きつけの店に着いたのは7時過ぎになってしまった。 オーナーのギュべンジさんが美容師としてスタートした時からのお客だそうで、まり子さんとは姉と弟のように気心知れた人なのだそうだ。広い大きな店で、ギュべンジさんのほかに雇いの美容師が3~4人いるようだ。 まず地毛にすると言っても長年染めてきた髪は、一度漂白剤で晒してもすぐに白くなるわけではないという。とにかくやってみてください、残った色によってその先を考えますと告げ、まずはギュベンジさんが私の髪を肩のあたりよりちょっと短く切り、そのあと若い美容師が漂白剤を全体に塗って、ラップでくるみ、そのあとまた第2剤を塗り、アルミホイールで包み込んで30分ほど待つことになった。 漂白剤をすっかり塗ったら頭にラップを巻いて蒸らします。 第2剤を塗ってアルミホイールで包み込み、さらに30分。 なかなか物々しい感じの頭になりました。さて、どうなるやら。 やがて脱色具合を見て、美容師が洗髪台に私を招いた。「加瀬さん、すごくいい色になってるわ、全部真っ白にするより、このオレンジ色がよく似合ってるわよ~!」とまり子さんの弾んだ声が聞こえてくる。鏡の前の席に戻ってタオルを外し、美容師がよく拭いて梳るとギュベンジさんが見に来て、このあと、全体をこの色に染めるか、どうするか、と聞いた。 トルコの洗髪はこういうスタイルで行われます。首が痛い、腰が疲れる。 洗い終わってよくタオルで拭い、あとは親方美容師のギュベンジさんが仕上げを。 ヘアダイは次回にし、今日はカットして髪形を整えることになりました。 これから染めてまた洗って、となれば仕上がりが相当遅くなってしまうので、今日のところはここまでにしてほしい、と頼んだ。ギュベンジさんが少しずつオレンジ色の髪を切りながら最後にドライヤーでふんわりと形をつけてくれたので、自分とは思えないようなモダンな感じの後頭部が合わせ鏡に映った。 少しずつ髪を取り、ギュベンジさんがカットしてゆきます。 オレンジ色のふんわりとしたボブ・スタイルが出来上がりです。 まり子さんが信頼する美容師ギュベンジさん。やってよかった! 最後に料金を聞くと、まり子さんが「加瀬さんに昨日通訳の仕事を頂いたおかげで、私はパスポートの更新に必要なお金が揃ったので、エステ代は私に持たせてね。ジハンギルみたいに高くないから大丈夫。それに明日か明後日のCMのエキストラの仕事も加瀬さんのお陰だし、私からのせめてものお礼よ」と言うのだった。 彼女も律儀な人だなあ、と思いながら私はありがたくまり子さんの好意に甘え、脱色と洗髪を受け持った美容師に10リラのチップを置き、ギュベンジさんには「Ellerinize sağlık」とお礼を言いながら、2~3週間後にまた来ます、と約束して店を出た。 まり子さんが携帯で調べてくれたところ、66番の最終バスが5分後に店の近くの停留所に到着する、とのこと。まり子さんがバスに乗り込むまで一緒に待っていてくれたが、本当にまもなく緩い坂の下の方にバスが見えたので感動してしまった。 トルコでもバスの運行がきっちり管理されるようになっていたなんて、知らなかったわ。やっぱり2年前にサムスンのバッタ物をつかまされた私が不運だった。またいつか、まともに動くスマホを手に入れるからいいわ。タキシム広場からはタクシーで大急ぎで家に戻った。 バスに乗っている間に、エージェンシーからメッセージが来て、明日の朝7時半にメジディエキョイのいつもの店の前で集合、真夏の季節の服装や帽子、靴など細かい指示があり、早速まり子さんに電話してみると、彼女にも知らせが来ていて、撮影現場では朝食、昼食、おやつなどのほか、時間が長引けば夕食も出ることも知らせた。 それにしても、今日思い切ってまり子さんに行きつけの美容院に連れて行って貰って本当に良かった。1時過ぎまでかかって小道具をそろえ、5時半に目覚ましをかけて2時過ぎに私はやっと横になったのだった。
2017年10月20日
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【10月19日・木曜日】 一体どういうわけでこうも毎日毎日、ブログ種のような出来事が私の身の回りに起きるのだろうか。そのために忙しくて、当日の出来事をブログに書き留めておくことすら出来ない私。それはなぜかというと、マイクロソフトのワードで下書きをしても、保存が出来ない設定になっているらしく、自分では直せずそのうちに、そのうちに、と思っているうちに結局3ヵ月近くもブログをアップデート出来ない日々が続いていた。 これが私にとってものすごいストレスになっているのも分かっているが、どうしようもなく日々が過ぎて行くのだった。月曜日に訪ねた例のホテルからは、もうそれきり連絡がないが、こちらは頼まれたことだけはきちんと出向いて話をしてきたわけだから、当方にはもう責任はないと考えて、それ以上用事が増えないように私から電話をかけるのはやめておいた。 さて、今朝もまた私に1通の急ぎのメールが舞い込んで来た。旅行者の日本人男性からで、困ったことが起きて在イスタンブール日本総領事館に行ったら、通訳として私を紹介されたというのだった。彼は先週イスタンブールに来て間もなく、世界遺産の街、スルタンアフメットで自称ガイドと言う男達に声をかけられ、あちこちを見せて貰った後、とある絨毯店に案内され、断り切れない状況になって高額の絨毯を買わされ、その後非常に後悔し、帰国を前に返品したいのでどうしたらいいですか、という内容だった。 通訳として働けば一定の日当をクライアントに払って貰うことが出来る。しかし、その日の夕方から私には、友人美保子さんがかつて勤めていた店のオーナーの友人で、6年くらい前に知り合った日本の大学教授の先生が、帰国の前に美保子さんと私の3人で夕食を共にする約束があった。 絨毯屋との返品交渉など、すんなり1~2時間で解決のつく話ではない。断ってしまうのは簡単だが、クライアントもかなり困っていることだし、このところ仕事のない時期にフリーランスで働く者には、こうした臨時の通訳は大事な収入源である。 そこではた、と思い当たった。この仕事はまり子さんにやって貰えば彼女の収入になるではないか。電話してみると彼女も快諾してくれたので、事情をよく知っておくために、今日午後1時半から2時までの間に、タキシム広場で旅の青年と3人で出会う手はずになった。朝のうち水フィルターの掃除機を組み立て、今日こそ掃除に取り掛かる寸前だったところに、結局その青年とのメールでのやり取りが発生したので、掃除はまた延期せざるを得なくなった。 掃除機は放置したまま、私は自分が食べる時間のなくなった朝ご飯を、おにぎり弁当にして意気消沈しているらしい旅の青年へのお土産に持ち、1時過ぎに家を出た。ところがまたもやアパルトマンを出てすぐ、わが家の北隣の骨董店のドアの前に、うちのタンブル猫とよく似た白っぽい毛色にグレーの模様が入った、チュクルジュマの野良猫「三ツ星」が倒れているのを見つけた。 どうしたのだろう、と近づいてみると私を見て彼女はかすかな声で鳴いた。「三ツ星ぃ、どうしたの?」と頭をなでながら声をかけると、三ツ星は起き上がろうとして首をもたげたが、顎のあたりに口内からの出血があり、一目でバイクか車にはねられたらしいと察することが出来た。そっとまた寝かせ、急いで家に入りセペット(キャリーボックス)を持ってきて三ツ星を抱き上げ、ボックスに入れた。ああ、もう長くはないかもしれないと感じた。 痩せこけたこの老嬢が日ごろ暮らしているこの周辺で、最期の最期に私に会いに来たような気がした。野良にしても可愛がっていた猫は、みんな最期に私に別れを告げにくるのである。せめて点滴とか痛み止めの注射を獣医さんにして貰おう、とボックスと自分のトートバッグ(いつも非常に重い)を左右に持ち、タクタキ坂に出てやっと階段を上ったが、ジハンギルの獣医に行くにしても、到底このまま歩いては行かれそうもなかった。 通りがかりのタクシーに頼んで乗せて貰うことが出来た。ほかに患者がいないので、ファトマ先生はすぐ診察台に三ツ星を載せ、あちこちを触診、熱を測るために肛門にテルモを差し込んだ時、性器からも出血しているのを見て、「もう助からないかもしれないね、この子」と先生は言った。 「せめて点滴と痛み止めの注射をしてやってください」と私は頼んだ。タキシム広場で来客が私を待っていることを告げ、三ツ星のそばにいることが出来ないので、先生に預けてクリニックを出た。近くのジハンギル・タクシーのプールで、丁度1台いた空車が客を迎えに出て行こうとしていたので、タキシム広場を通って貰い、緑色の帽子を被っている、という旅の青年と無事に出会うことが出来た。 チャイを飲もうにも、広場の前のマルマラ・ホテルのカフェ、スターバックス、甘味店などは木曜日だというのに週末のように賑わっており、話をするのに落ち着かないので、ろくに人の入っていないトゥルンジュ・パンパンに行って、同じことを二度説明させずに済むよう、私が主に四方山話をしながら、まり子さんが来るまで待つことにした。 彼女もバスが交通渋滞に巻き込まれ、2時半過ぎにやっと到着、青年に事件の模様をざっと説明して貰い、3時15分に席を立ち、スラセルビレル通りにあるタキシム郵便局の前で別れた。 今朝、娘のV子が、送ると即日に着金するWesternUnionという方法で1万円を試しに送ってみたので、後で受け取りに行ってみて、とメールで連絡があったので、最寄りの郵便局に受け取りに行ったのだった。「雹で壊れたアンテナの修理代くらいにしかならないけどね」とV子は言うが、大いに助かる。 トルコでも大多数の銀行がWesternUnionに加入しているので、いつも空いている広々とした銀行に行けばよかったのだが、うっかり何も考えずに通り道だからと立ち寄ったタキシム郵便局は狭い上に大混雑で、小一時間も待たされてそれでもやっとトルコリラで受け取ることが出来、三ツ星の病状によってはファトマ先生とお茶でもするかもしれない、とチョコレート菓子などを土産に買い、4時半ころクリニックに着いた。 ファトマ先生は私を見るなり、「ああ、あなたに電話しようと思ったんだけど、どうしても番号が見つからなくて」と言った。三ツ星は3時過ぎに絶命してしまったそうで、私には治療費275リラの借金が残されていた。残念、たった今娘から送って貰ったばかりのお金320リラが、タクシー代やお茶菓子代も含め、三ツ星と一緒に飛んで行ってしまったのである。 在りし日の三ツ星。うちのタンブルの父親マッシモの母ヨスンの姉、つまり大伯母さん。タンブルがよく似ています。2002年生まれ享年15歳。 正面を向いた三ツ星、チュクルジュマの猫達をくまなく写したドイツ人の女性カメラマンのアルバムにも彼女が出ていました。 うちのタンブル(右)は、額の模様も大伯母三ツ星にそっくり。今年1月に先立たれた恋人マヤちゃんもタンブルと似ています。 三ツ星の遺骸はクリニックから市の清掃課に連絡すれば、明日は取りに来てくれるとのこと。私は最後に三ツ星の遺骸を撫でてやり、ボックスだけ返して貰い家に戻って、猫達に大急ぎで餌の缶詰を与え、美保子さんと連絡を取りながら大学の先生と待ち合わせるウイグル料理店に向かった。 トプハーネ駅から乗るとトラムワイは混んでいたが、幸いに席を譲ってくれる人があって目的地のユスフ・パシャ駅まで座っていくことが出来た。美保子さんより一足先に店に入ることが出来、先生と先生を招待したB大学の職員さん、運転手さんが全員揃ったのは7時少し前だった。その間美保子さんとたくさん話が出来てよかった。 メンバーが揃うと2階の広いテーブルに席を移して、アルコールなしなのだが、先生との久々の再会で話が大いに盛り上がり、最後はご馳走になって、10時過ぎ、もうカンバンになった店を出た。運転手さんが先生を空港まで送ってくれるので店の前で別れ、美保子さんとも近いうちにもう一度会いましょうと約束して、ドルムシュで飛ぶようにタキシム広場まで戻ることが出来た。 なんとも慌ただしい一日だったが、三ツ星の最期に当たってチュクルジュマ友達として尽くしてやったし、まり子さんのような経験の長い、通訳と言うよりネゴシエーター的な働きが出来る人がついたので、あの青年にもいい結果が出たかもしれない、と私は安堵して夜2時、床に就いたのだった。
2017年10月19日
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【10月16日・月曜日】 仕事と言っても知り合いの紹介で、ある大きなホテルの社長さんの相談に乗ってあげてくださいと言うだけの話なのであるが、数日来まり子さんとも討論を重ね、本日は午後から私に相談を持ち掛けたホテルを訪問する約束になっていた。家を出がけにまり子さんがドアを開けた途端ミディエ猫が脱走、彼女が最上階まで階段を上り探したが見当たらず、外で元カプジュ夫婦に捕まるとひどい目に遇うかもしれないので心配だが、仕方なくそのままトプハーネ駅に急いだ。 目の前でトラムワイは逃すわ、後続車は来ないわ、15分も待った挙句やっと来た電車に乗ったら超満員、ところがガラタ橋を渡って旧市街に入った途端、トラムワイは駅に長々停車したり、スルタンアフメット、ベヤジットなどなど、旧市街の要所要所で路面電車の悲しさ、線路内に入り込んだ一般車が詰まってしまっており、前にいるトラムワイとはねぎまみたいな串刺し肉団子状態、信号停止でもないのに全然前に進めないのである。 結局約束の4時より30分も遅れて目的地に到着、私に相談してきた当のホテル社長は朝から留守とのことで、代わりに女性マネージャー氏が相手をしてくれることになった。社長の相談案件は、ホテルに日本人客をたくさん集めて活性化したい、という希望の実現のために、どんなことが出来るか教えてほしいと言うのである。 先週から何度もまり子さんと相談して、いろいろな方法やアイデアを書き連ねてミーティングに備えて行ったのだが、私が下書きしたものを、不在の社長に後刻読んで貰うために、まり子さんが大急ぎでトルコ語に直してくれたり、彼女が話をするとき私が補足したりと、マネージャー女史と3人で一時間余りに渡ってロビーのボックス席で話し合ったのだった。 ここは外見からしても堂々たる6~7階建ての四つ星ホテルで、ロビーもきれいなのだが、私が知らされていなかった重大事項が一つあった。マネージャー女史が言うには、日本食を出すレストランやすしバー、娯楽室などなどの設置に対して、ホテル内での飲酒はたとえ宿泊する部屋内でも禁止という絶対条件があるとのこと。 宗教的な見地から飲酒を認めないのだそうだ。なかなか立派なシティホテル風なのに、はは~、だから、ロビーの一角にはバー風な造りもあるのに、アルコール類が一切おいてないのか・・・やっと納得。 えええ、それならそうと相談を持ち掛けた時点で最初から言ってくれないと、こちらがいくらいろいろなアイデアを考え、それが実行された場合の手配をあちこちの業者や専門家に交渉しても、日本人がたくさん集まって楽しめる魅力的なホテルに出来るわけないじゃん。アルコール大好きの日本人をどうやって連れて来るのよ、もう。 二度も三度もまり子さんにわが家へ足を運んで貰い、この案件に関し、可能性のあると思えるたくさんの項目をあげて書き出し、二人だけではあるが、ブレーンストーミングをし、実現の難しそうな項目は消去して、今日、満を持して訪問したのに、まるきり無駄足を踏んだとは言わないが、私はイスラーム教徒向けのハラール食品についてはわかるが、酒類を一切提供しないホテルだったことにまでは思い至らなかったのである。 ここはサウジかアラビアか。トルコはカジノも禁止されているし、酒類なしにどうやって楽しい宴会を催すのよ、頼まれてから10日ばかり、旧市街にも日本人の集まる娯楽の場をほしい、という社長の頼みに、私のパソコンの周りには思いつく限りのメモや走り書きした紙でいっぱい。ああ、頭にハンマーで一撃食らったみたいなチャーレシズ(なすすべもない)状態。 5時半過ぎに暇乞いし、三球三振のバッターのように出て来ただけ無駄、帰り道は疲労感が肩にまで覆い被さっているような、元気のない足取りで延々とトラムワイ通りを歩き、小腹も空いてきたのでいっそのこと、夕飯を近くのウイグル料理屋で食べて行こうよ、と私が誘い、アクサライの大交差点で地下道を通って、広いワタン大通りの中央分離帯に出た。 今日は大雨がまた降るのではないか、と気を揉むほど黒雲が張り出していたのだが、ホテルからアクサライ大交差点までに小雨がぱらついた程度、革コートがちょっと濡れただけで大雨にならないうち空港メトロのアクサライ駅前に出た。 ワタン大通りの中央分離帯で。ワタン大通りは沿線にイスタンブール県警などがあり、空港方面に続く。 空港メトロのアクサライ駅入り口。かつてはここが空港への始発駅だった。現在はマルマライ線のイエニカプ駅まで繋がり、新市街メトロと接続できる。 駅前から今来た方面の空を見る。さっきまでぱらついていた小雨は止み、左側の空(海や空港のある方面)は真っ黒な厚い雲に覆われている。 ここまでくれば、目指すウイグル料理店までは歩いて10分ちょっとで行けるだろう。さあ、元気を出して行きましょう、と私達はトラムワイ通りには戻らず、ちかみちしようと迷路のようなソカク(裏通り)に入り、右に左にくねくね曲がってとうとうウイグル料理店に到達、何を食べるかメニューを見ているうちに、日没のエザーンもそこで聴いたのだった。 8月下旬にトルコ人の奥さんと2歳半の可愛い坊やを連れて、日本に完全帰国をしたテレビタレントの小林正貴さんの送別会をした店で、料理が美味しいし、電車通りの店のように繁盛するにつれて年に何度も値上げし、安給料で済むようしょっちゅうコックを新米に取り換え、味の安定しない店と違い、家族経営らしくいつ来ても同じ味が楽しめる。 まり子さんも以前この店に入ったことがあり、味は気に入っているという。一品料理の盛りが半端でなく多いので、どれも半分ずつ分けて3種類の料理を楽しんだ。満腹になるまで食べ、お茶をポット2杯分飲み尽くし、心行くまで食べたり喋ったりしたので、今日の「お酒は駄目よホテル」の空振り三振から来る疲労感は、もう気にならなくなった。 これが美味しいチュチュレ・スープ。1人前を半分ずついただけば十分。出来るまでかなり待たされ、写真を撮り忘れて平らげてしまったので、以前の画像です。 二番目に来た料理がマントゥ(餃子)、これも半分ずつしてモガモガ。そこにメインディッシュのウイグル・ラグメンが来たのではっと気が付きました。わあ~っ、大変、忘れてた~っ、写真、写真! 写真を撮らなくては! これがウイグル・ラグメン、麺はその日に打ったばかりの手延べの腰の強いもの。若干、太いところがあったり、細かったりもするが、そこがまた手打ちのいいとこ。ピリ辛仕立てのラム肉と鮮やかな色どりの野菜を炒めたつゆだくソースがまた美味。 しかし食べながら、なんだか苦戦しているような気がしてきた。そうそう、箸がないからだ。箸を頼むと、今度はボーイさんが忘れ、催促してやっと出てきた箸が太くて長い。でもスプーンとフォークだけでこのラグメンを食べるのは容易な技ではない。菜箸並みに大きな箸ではあったが、ようやく食べている、という心地がした。 その店のショウケースにたくさん入っていた大きな白菜を、交渉して1つ譲ってもらって8時半頃店を出た。大通りに出ると、まり子さんが通りがかりのドルムシュを止めてくれたので、私はそれでタキシム広場まで戻ることにし、白菜は重いからと彼女が持ってくれていたが、二人とも念頭から飛んでしまい、まり子さんはバス停に向かった。 幸い道路はもうスムーズに流れていたので、15分もしないうちにタキシム広場に到着、出たついでにジハンギルのスラセルビレル通りのスーパーで、野菜などの買い物をして家に戻った。ミディエ猫がアパルトマンの入り口で私を待っていたので一安心、家に入るなりまり子さんに知らせようと鞄から電話を出したら、そこに1年前に知り合った雑誌の編集者から電話が来て、「是非とも加瀬さんにお願いしたいことがありまして」というので話を聞いてみると、今はとある記録映画を手掛けていて、メヴラーナに関する事項もあるので、セマーゼンとネイゼンを紹介して貰いたいのですが」という話。 たった今、自分の鞄や買い物のビニール袋を提げて、帰り道の階段や坂をえっちらおっちら急いで降りて来たうえ、ミディエ猫と一緒に家に飛び込んだところだったので、息切れのしている私は急に言われても即座に「はいはい、ではこうしましょう」とは言えなかった。明日にしてほしいと頼んだ。すると彼は明日の午後にでも、イスティクラール通りにある私どものオフィスに出向いていただけますか、午後こちらの都合が着いたら電話しますので、という。 頼む方が私の家の近くまで来るのが普通じゃないの、と一瞬思ったが、去年雑誌に取り上げて貰ったことでもあり、私はメヴラーナに関してもいまだに門前の小僧状態なのだから、偉そうにうちの近くに来て下さい、とも言えないわ、と自分が出向くことになった。明日の午後、相手本位の時刻なのだから、ああ、いったい私はいつ掃除の続きが出来るのかしら。 そのあと、まり子さんにすぐ電話した。彼女もミディエが心配で私に電話しようとしたところだったという。今日は仕事が仕事にならなかったけれど、二人でウイグル料理を食べてゆっくり話が出来たね、ミディエも無事だったし、それが本日の収穫だったね、と話し合った。 明日会う約束のクライアント(?)の話もしたら、まり子さんが言うには、「そんな、メヴラーナ関係のことで相談が来るというだけでもすごいわよ、加瀬さんが勉強した証じゃないの!」と言ってくれたので、確かにそう思ったほうが幸せな気分になれるに違いないと納得した。そういう考え方についてはメヴラーナの教えの中にもあることだ。 まり子さんも損ばかりしている人なのだが、それでも他人をだましたり利用したりする側じゃなくてよかったね、と言い合える友達同士である。待てば海路の日和あり、そのうちひょっこり、いいことがあるかもしれない。
2017年10月16日
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【7月24日・月曜日】 私の携帯は最近、チャージ中だと着信音が聞こえないため、前の日に縁さんから電話が来ていたのを知らずにいた。朝気がついて電話してみると、26日の夜日本に行き、3ヵ月以上滞在するかもしれないので、行く前にお会い出来たら、と思ってかけてみました、というお返事。 そんなに長らく会えないと言うのは寂しいので、ぜひとも会いましょう、と言うことになり、善は急げとばかり、いっそのこと今日の午後に会いましょうと決まった。 私もそう言えば、来週末にコンヤに行くことになり、縁さんの作った納豆のストックがあればコンヤの友人への土産にしたいので分けて下さい、と頼み、もう一つ、念頭に浮かんだことを聞いてみた。「縁さん、パスタマシーンですが、その後使っていますか?」「いいえー、全然・・・加瀬さんがお使いになるのなら、今日一緒に持って行きましょうか?」 私は今後とも縁さんが使わないようであれば、借りるのではなく、譲ってほしいと頼んだ。「譲るなんて、とんでもない、もう十何年も前のものですし、加瀬さんなら生かして使って下さるので、お代はいいですよ」 パスタマシーンは、私が最初のレストランを開いた後、自分の店で既製品ではない手打ちのラーメンのほか、豚肉やニラ、白菜、餃子の皮など、ないないづくしの餃子を自分で開発し、メニューに取り入れるために、ウイグル人の友達の世話でウイグル・ラグメンの打ち方を習いに行ったあと、エミニョニュのタフタカレ厨房問屋街で、イタリア製の機械を見つけて購入、そのお陰でラーメンや餃子をトルコで創り出し、安定供給出来るようになり、自分史の中でも大事な役割を果たしてくれていた。 最初のレストランでは私の下で働いていた従業員の謀略により、繁盛しているがために立ち退きを迫られ、店を出るしかなくなった。次の店を立ち上げる準備中にウイグル人の友達の紹介で、ウイグル・ラグメンの打ち方を習いに行き、その後のレストランと自宅に1台ずつ常備し、ひもかわうどん風の平打ち麺と、細いうどん、冷麦、餃子の皮などを作って、商売上大いに役に立った。 レストラン業から撤退した後も、自宅で来客があったり、友人達が集まったときには、パスタマシーンは大いに役立ってくれたものだ。ダウン・カフェのボランティアやバザーの椿展で、麺作りを長らく担当してくれたお向かいのギュルセレンさんが、1年半ぶりに出身地のゾングルダック・エレイリから戻り、先日久々にお茶に招いてくれた。 実家のお母さんが長らく寝たきりになり、その世話で故郷から戻れなかったが、3月初めにとうとう亡くなり、1年半ぶりに帰って来たのだ。ギュルセレンさんは、私のパスタマシーンが、平打ち麺の切れが少し甘くなってしまっているので、マダムは新しいのを買って、古い方を私に貰いたい、と言うのだった。 ダウン・カフェのボランティアでは、私や手伝ってくれる日本女性達は奉仕仕事だが、ギュルセレンさんにはカフェのオーナーと話して、50リラの日当を支払って貰っていた。2014年10月のラーメン大会には、1台では手が回らず、縁さんにマシーンを借りて、早朝から麺を打ち、2台をフル稼働、昼に間に合わせたのだった。 縁さんから譲って貰ったパスタマシーン、いまだに新品同様です。これで私のものをギュルセレンさんにプレゼント出来ることになりました。 そのラーメンの日の思い出に何枚かのスナップをご披露すると、 ギュルセレンさんがもう得意の麺を切る技をご披露しています。 ラーメンのトッピングに使う花型、星型のニンジン切りを美樹さんが担当 同じくトッピングに使う青ネギのみじん切り。この泣ける役目を美由紀さんが引き受けてくれました。 ギュルセレンさんの娘、ブケットさんも手伝って、ほうれん草を茹でる前の下ごしらえ こんな風にみんなの力を借りてボランティアでレストラン時代の経験を生かすことも出来たのは、いい思い出である。ただ、ボランティアの主催者みたいな顔をしたヒトがいて、ダウン・カフェの女コックに「加瀬ハヌムがごっそり、コミッションを持って行ってしまうので、あんた達の日曜出勤の手当てが残らないのだ」と説明していたらしく、この女コックが私を怨んでいて、ボランティアに行くたび、ひどい目にあわされていた理由がやっと分かり、彼女とは和解が成立したのだが、次回の2014年11月の「きりたんぽの日」を最後に、私はダウン・カフェへの無料奉仕から手を引いたのだった。 *********************** さて、縁さんは1994年の春、私が娘の家に4ヵ月ほど滞在した時に通った、トルコ語学校で知り合った一番古い友人でもある。その頃縁さんは婚約中でその後結婚し、95年に私がイスタンブールに移住して、縁さんがその暮れに産んだ遥(はるか)ちゃんの出産を祝いに、当時のアジア側ベイレルベイのお宅に友人達と訪問したのが最初で、彼女の家にはその後、何度もお邪魔したものだった。 その遥ちゃんも今年6月、めでたく大学を卒業した。光陰矢のごとし、と実に感慨深いものがある。縁さんはまだ遥ちゃんが幼い頃、自宅で納豆を作り始め、私にも試食して見て下さい、とヨーロッパ側に来た時、幾つか置いて行ってくれた。美味しく出来ていて、私は近所の友人にも分けて味見をして貰った。 やがて縁さんは豆腐も作り始め、こちらも次第に安定供給出来るようになり、忙しい日々を送るようになった。その中で、2010年、寺田わかこさんが始めた箏の教室に入り、芙蓉の会と名乗ってレパートリーも増やしつつあることを知った。縁さんを通して知り合った裕美さんとも仲良くして貰っている。裕美さんも努力家で、こちらの料理学校の最終カリキュラムまでマスターし、料理の先生としても活躍中である。 その年2010年の夏、コンヤで行われたとある行事に、芙蓉の会からも前座としてだが、6人のメンバーに参加して貰うことになったり、ダウン・カフェの日本料理の日など、私がボランティアで頼まれるいろいろな行事に、縁さんが手を貸してくれたりして、アジア側とヨーロッパ側に住まいが離れているので、普段そうそう会えなくても、大事な時に縁さんにはよく手伝って貰ったし、私も芙蓉の会や納豆・豆腐の生産者としての縁さんを売り込む広報部長を務めてきたのだった。 本日、午後3時の約束で、縁さんがジハンギルのサヴォイ・パスターネシに来てくれることになり、私も午前中の用事を済ませて、ほぼ同時に到着、チャイとイチゴのタルトなど、甘いもの2種類を取り寄せて、仲良く半分ずつ食べながら、最近は顔を合わせてもなかなか話をする機会のなかった欲求不満を一気に解決出来るほどお喋りした。 重たい荷物なので、週に一、二度ヨーロッパ側に配達に来るときと同じように、引いて歩けるキャリーつきの小型スーツケースに入れて運んで来てくれた縁さんに、私はもとの売値と同額で買い取らせて貰うことにした。いずれまた身辺が落ち着いたら、ときどき麺類や餃子の皮を作って、友達をもてなそう、頭の中では早くもそう思いをめぐらしている自分がいる。 もちろんそのときは、縁さんも再びイスタンブールに戻って来るころには秋が過ぎて暮れになってしまうかもしれないが、久々に「おうちラーメン」を作ってお呼びしたい。 いい友達は互いに相手のことを思うものである。縁さんとの22年余のお付き合いも、彼女が私を思ってくれると同じくらい、私も彼女を思って何かをする、そういう小さな幸せを見いだせる友達のいることが嬉しい。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房)「チュクルジュマ猫会」海泡石のパイプやアクセサリーと、「宮古島月桃」の買える店 アントニーナ・アウグスタ
2017年07月24日
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【7月23日・日曜日】 昨年、小林正貴さんがトルコでレギュラー出演していた番組が、彼が夏休みで日本に行っている間に起きたクーデター騒ぎの影響で中止されてしまい、正貴さんはシェナイ夫人とも話し合って、今後のことを熟慮したうえで日本に帰国し、昨年末満2歳になったエミル・慶次君を日本で教育することを決断した。 この8月20日には一家で日本に向かうことになったので、お別れする前に、ウイグル料理でもご一緒しましょう、と先月から話が出ていたのだが、いよいよ23日でいかがでしょう、と電話を貰った。 ちょうどその日、ロンドンから来ていた由加さんとも夕方会う約束をしていたので、じゃあ、3人でウイグル料理に行きましょう、と言うことになった。 正貴さんはもし承知して頂けたら、自分の方からもう2人、お誘いしたいのですが、どうですかと言う話だったので「もちろんですよ」と答え、私もアイシェさんに声をかけて見る気になっていた。 いよいよ本日、アクサライ地区のアクヨル・ウイグル料理店で午後6時くらいにみんなが現地集合することになり、対岸のウスキュダルからはマルマライに乗ればまっすぐイエニカプ駅に来られるので、小林さんが由加さんと、丸山美保子さんと、永島育(ながしま・いく)さんという、こちらの大学院で勉強中の青年との4人で来ることになった。 私の方はアイシェさんが5分か10分遅くなると言うので、正貴さんがバス停まで迎えに行ってくれることになり、ほどなく全員が揃って、店の人も気を利かせ、家族用の小部屋で6人が水入らずで食事を出来るようにしてくれた。 Akyolウイグル料理店にて 左から:アイシェ、私、美保子、正貴、永島育、由加(敬称略) チュチュレ・スープ これが絶品 焼きうどん風なピリ辛味、とても後を引く味です。 長くて腰の強い手打ちウイグル・ラグメン、伝統的なウイグルの味です。 ウイグル料理店探求家の正貴さん、客の入りがよくなると、値上げして味を落とす、そういう店も結構あったので、彼は実にあちこち足で探していい店を見つけました。 美保子さんは以前一度正貴さんがレギュラーメンバーだったトークショウ番組に、サプライズで登場する日本のギャル、と言う企画に、ギャル役で出演出来るよう、私が押し込んでしまったことがあった。 プロダクションの配役係は「え、でも20歳から25歳くらいまでのギャルですよ」と言うので、「ミホコがいるじゃない、これからほかを探さなくても。メイク係がきれいに化粧すればばっちりよ」と隣にいた美保子さんに役を振るよう、私がごり押ししたのだった。 その結果、こんな可愛いギャルが正貴さんの相手役として、テレビに登場したのだった。 まっ黄っ黄のワンピースがビューテーホー、25歳の美保子さん 正貴さんは今まで美保子さんと会ったことがなかったので、びっくり仰天したそうです。 美保子さんがギャルを演ずる前に、私達が、親子として連ドラに端役で出た時 2013年3月27日、ダウンカフェの集いで私の誕生日を祝って貰った時その夏8月、正貴さんは、恋人のシェナイさんと結婚式を挙げたのでした。 永島さんは私も初対面で、実は6月下旬にアイシェさんが私に紹介しようとしていた日、私が疲労困憊で夕方からまた出て行くのは無理、とお断りしたいきさつがあり、その日、昼寝でもして疲労回復したいと3時過ぎにやっと横になったら、別な友達が相談して来て、生まれたてで母猫に見捨てられた子猫の面倒を見る羽目になった。 美保子さんも、永島さん、由加さん、アイシェさんとは初対面だったが、6人が結構うまく打ち解けて、そこに持って来てウイグル料理が格別に美味しかったので、すっかり和気あいあいの雰囲気となり、とてもいい送別会が出来て、みんな大満足、大満腹。 小林正貴さん、捲土重来、いつか、あなたのめざす「平成の山田寅次郎」として世の中に躍り出て下さい。ご家族が優しい人ばかりなので、そう心配はしていませんが、異国暮らしに慣れていないシェナイ夫人を大事にしてあげてくださいね。 2015年8月夫妻の結婚2周年の頃。正貴さん一家をメフテル軍楽隊のデニズ少佐に紹介しました。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房)「チュクルジュマ猫会」海泡石のパイプやアクセサリーと、「宮古島月桃」の買える店 アントニーナ・アウグスタ
2017年07月23日
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【7月23日・土曜日】 TTNETから、携帯電話にショートメッセージが来て、本日午後、サービスマンがお宅に行くので、留守にしないでください、という知らせだった。 今週もほとんど毎日の外出で、掃除機のホースはサロンの床に延びたまま、本棚の最上段から下ろした本は、テーブルの上に置きっぱなしで数日の間に猫に下に落とされるわ、表紙が爪でひっかかれるわ、惨憺たる有様、仕方なくまた元の棚に戻したものの、すぐにその上に埃がいつものように積もってしまった。 ネットが使えない間にせっせと掃除すればいいのに、と人は思うだろうが、近所でビルの建設中なので、しばしば断水したり停電したりする。環境的にも最悪で、私がこんなにうんざりしながら暮らしているのも珍しいことだ。 溜まったゴミを捨てたり、壊れた品物を直したりするうちに、先日のサービスマンが来て、サービス課と連絡を取りながら、いろいろ試してみてくれたが、画面にはいろいろ不首尾な結果が表示されて、インターネットは繋がらなかった。 20分くらい、いろいろ試してみてくれたが、サービスマンのオスマンさんは、「モデムがもう既に寿命で、どうやってもネットを修復出来ません。今日、明日のうちに新しいモデムを買って、取り付けない限り、インターネットは永久に使えませんよ、じゃあこれで!」と荷物をまとめて席を立った。 「オスマンさん、ネットは故意にTTNETによって切られてしまっているわけではないんですね? 電波がこのビルまで来ていても、モデムが壊れてしまっているので、繋ぐことが出来ない、と言うんですね」と私は念を押した。「そうです、Turk Telecomのモデムは300リラから、350リラくらいで市販されています。ほかのメーカーの物でも大丈夫ですが、とにかくモデム自体を取り替えない限り、ネットが使えるようにはなりませんよ」 サービスマンのオスマンさんはきっぱりとそう言って帰って行った。 さあ、困った、ろくにお金もないのに、インターネット代が2年間、毎月たった24リラで、たいそうお得になるから、と言う話に釣られてTTNETに加入したばかりに、飛んだ出費が続いており、その上にモデムを買い替えないと、ネットとは永久に繋がらないよと、テクニシャンに宣言されてしまった、いわばインターネット難民の私。 その夜はチャーハンを作って食べたものの、何だか味も何も感じなかった。モデムが本当に壊れているのかどうかも気になった。7時半頃、私はそうだ、あの人に相談してみよう、と思い立ち、七緒さんの夫君、イブラヒムさんに電話をして、いきさつを話してみると、彼は「加瀬さんさえよければ、今からでも見に行きますよ」と言ってくれた。 8時過ぎにはわが家に到着したイブラヒムさんは、持参した新しいモデムを出して、繋ぎ換えて見てくれた。しかし、新しいモデムでもインターネットのランプは点かなかった。 私のインターネットは、家の固定電話を媒体にしているうえ、パソコンが日本製なので、机のすぐ脇に椅子を置いてそこに変電器を入れた箱を載せ、220Vの電源を110Vにして使っているため、普通より倍もケーブルの数が多いのだった。 椅子の下側に1年以上も前にケーブルを掃除した時以来、触ったこともなかったのだが、イブラヒムさんはどのケーブルがどこと繋がっているのかを、ぐるぐる巻きのケーブルを一つ一つ確かめながら見ていたが、やがて、モデュラージャックの一つがどことも繋がっておらず、宙に浮いているのに気付いた。「加瀬さん、お宅の固定電話のコネクターはどこにありますか?」「はいはい、ここです、ここです」 パソコンを置いている横長の机の下に、サロンの北側の壁の下方の埋め込み電源から窓の下の壁際を通り、こちら側の私の足の下まで電話線が延びて来ている。 モデュラーケーブルが使われているので、マッチ箱ほどの大きさの接続機器にモデュラージャックを差し込めば、そのケーブルはモデムとも結ばれるはずである。 イブラヒムさんの手にしているもう一つのモデュラージャックの先端を、今ちょうど何も入っていない電話線の接続機器に差し込んだところ、モデムのインターネット・ランプが点った。 たちまち、インターネットが戻ってきた。「イブラヒムさん、ネットが繋がりました!」「ああ、やっぱりそうだったんですね、加瀬さん、するとあなたのモデムは壊れてなどいなかったことになります。電話線から外れていたために、ネットに繋がっていなかっただけです。もう一度繋いで、試してみましょう、果たしてどうなるか!」 イブラヒムさんの声も弾んで聞こえた。たちまち手早く私の旧型のモデムと繋ぎ替えたところ、壊れているどころじゃない、瞬時にしてランプは点くし立派に動くではないか! テレビが故障して全然映らない、と大慌てで電気屋を呼んだら、プラグを電源に差し込んでいなかっただけ、という単純ミスだった、と言う笑い話みたいな出来ごとはよく聞いたことがある。 もしかして私が掃除した時にでも、掃除機の先が当たって抜けてしまったのかもしれないが、TTNETのオスマンさんが机の下を覗き込んで調べていた形跡もないので、多分電話の接続を調べずに、モデムが壊れている、新しいモデムに付け替えないうちは、インターネットは絶対に繋がらないからね、と私に新品を買うように促したに違いない。 これは私にも落ち度があって、電話線が抜けているのではないか、と疑うこともせず、Turk Telecomのあくび姐さんに抗議に行ったとき、彼女は確かに82.25リラを払っていないために止められた、というスタンスで話をしていたのだから、素人の私は頭から信じてしまったわけである。 修理の人の基本的マニュアルではないのかな、電源が入っているかどうかを確かめるとか、電話用のモデュラージャックが繋がっているかどうか、確認するとか、素人の私と同じではないか。しかも、新品を買わせようと言う、古典的な手口なの? とにかく、私にとってはイブラヒムさんが来てくれたこと、モデムがもう使えないほど壊れてなどおらず、モデュラージャックを電話線の接続機器に差し込んだ途端、インターネットは稼働を始め、壊れてなどいなかったのでモデムを買う必要もないし大助かり、まるでウルトラマンが飛んで来てくれたようなものだ。 強きをくじき、弱きを助けるウルトラマン Google画像より 8時半頃、日没のエザーンが聞こえてきたので、イブラヒムさんがサロンの一隅でお祈りをすることになり、私はその間に台所で玄米茶や茶菓子の支度をした。ちょうどお茶受けには、先日神戸の私の小さな友達さよちゃんとママが送ってくれたお菓子やラーメンなどと一緒に、見ても食べても美味しい一口和菓子があったので封を切った。 イブラヒムさんは七緒さんと結婚前に一度彼女に会いに日本に行ったことがあるので、玄米茶や和菓子、日本食が大好きになったのだそうだ。 まあ、それだったらこの和菓子は一番ふさわしい人に味わって貰えると言うわけね、と、この頼もしいウルトラお助けマンのイブラヒムさんとあれこれ、話が弾んで楽しいひとときを過ごした。 今のところ、猛烈に忙しいが、8月にコンヤでポストニシン様の長男ミタットさんの結婚式に行くため数日留守になるが、それが済んだら、今度七緒さんも一緒に、午後から早目に来て貰って、夕方何か和風でイスラーム教徒の人にも大丈夫な材料で、とびきり美味しいものを作るからまた来てね、と約束したのだった。イブラヒムさん、本当にありがとうございました。 七緒さんが福岡出身なので、シュウマイと皿うどんはどうかなあ。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房)「チュクルジュマ猫会」海泡石のパイプやアクセサリーと、「宮古島月桃」の買える店 アントニーナ・アウグスタ
2017年07月22日
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【7月21日・金曜日】 やはりインターネットが使えないのは不自由極まりない。でもまあその間、質問や頼みごとが来ないだけでもいくらか助かるか、と思っても見るのだが、この前2週間ネットがなかった時は、いざ繋がってみたら有用無用、200通ものメールやお知らせが溜まっていて、決してネットがなければ来ない、と言うわけではない。 私のように四方八方から頼まれる用事をたくさん抱え込んでいても、読むのも自分、調べて答えを書いてあげるのも自分、つまり動くのは自分だけ、そして報酬は99パーセントなし、と言っても過言ではない。今、トルコはVikipedia(Wikipedia)も使えないし、いつぞやは半年もYoutubeやTwitterが使えなくて、私はそれきりTwitterの使い方をすっかり忘れてしまったことがある。 インターネットの月額料金は容赦なく銀行振替で持っていかれてしまうのに、実際にはその機能を使えない、と言う状態をどうしてくれるの、と言っても誰も取り合ってはくれないし、トルコ国民は普段怒りっぽい人が多いのに、そう言うところだけは諦めムードで辛抱強い。あるいは私が見たことがないだけで、Turk Telecomなどに怒鳴りこんでいく人もいるのかもしれない。 さて、今週いっぱい待ったのに昼までにまだ例のSuperonlineのA4判領収書はわが家に届かない。とにかく前日、82.25リラは払ったのだから、ネットだけは動かしてよと、またあの、例のあくび姐さんのところに午後3時頃、懲りずに出かけて行ったら、Superonlineに催促なさいよ、と言い、パソコンをカタカタ打って、メンテナンス部門に知らせたようで、Turk Telecomのオフィスを出てまたメトロに向かったらほどなく、48時間以内に地域のサービスマンが直しに行く、という携帯へのメッセージが来た。 明日の土曜日のうちに来てくれればいいのだが、と思いつつ、またイスタンブール大学の理学部と文学部のキャンパスの前に出た。昨日と同じように、日陰になっている鉄柵の外で涼みながら、まり子さんに連絡を入れている時、着信があったので、まり子さんとの話を終えた後見てみると、登録していない人からだと見え、番号だけが表示されていた。 なんとなくもしかして領収証のこと?と気になるのでかけて見たら、それはなんとユルトイチというカーゴの会社の配達員さんだった。「お宅の8号室の前まで書類を届けに行ったんですが、お留守だったんですよね、いまどこですか」と言う。それならうちのアパルトマンの入り口の右側に大工さんのショウルームがあるので、その大工さんに預けて下さい、と言ったら、「さっきあなたに電話をしたらお話し中なので、もう私達は既に移動してうちのオフィスの近くまで来ました、オフィスに預けておきますので、後ほど取りに来て下さい、夜7時まで開いています」と言うのだった。 腕時計を見るとあと少しで5時、私は今日のうちに貰いに行く、と言って電話を切り、もう小走りにグランド・バザールに向かって移動を始めた。今日は金曜日なのでグランド・バザールもまずまず人出も多く、通り抜けるのに苦労したが、とにかくマフムット・パシャ門からエミニョニュに向かう下り坂に出た。そこからはもっと混んでいたので、人とぶつからないように機敏に動く必要があった。 しかし、待て待て。また昨日の続きの刺繍用品の調査によって時間がオーバーしたら、せっかくの書類が貰えなくなる、と正しい答えが出た。私はまたグランド・バザールの方に向きを変え、トラムワイのスルタンアフメット駅に出て電車に乗った。ガラタ橋を渡り、新市街に入って、終点カバタシュの一つ手前のフンドゥックル駅で降り、もう渋滞している通りを渡り、オフィスに飛び込んだのが7時15分前、ああ、よかった、まっすぐにカーゴの会社のオフィスに来て・・・ Superonlineからの領収書を受け取り、そこからジハンギルに出る坂道がまたきつく長いスイッチバック型である。私がTurk Telecomに、インターネットの復旧を頼みに行った留守に書類が届けられた、出かけなければ家でホイッと受け取れたのに。 まあ、一つぜんまいの歯が狂ったため、飛んでもない遠回りをした上、チュクルジュマよりもっと険しい坂道を、息を切らせて前のめりに歩く羽目になったが、まあ、明日か月曜日にはTurk Telecomの本部にファックスを送り、TTNETの「払った、払っていない論争」に終止符を打ってやるぞ、310リラも払った、と言うか、勝手に普通預金口座からむしり取られたのだ! 途中のスーパーで重いもの(米2キロ、果物ジュース、洗剤、じゃがいもなど、たくさん買い、そのまま、もう2ブロック歩いてペットショップまで行き着いた時には、息切れが酷くて倒れるかと思った。今日もまた猫砂や缶詰を注文するので、配達の人に私の重い荷物も一緒にバイクで運んで貰い、チップを少し弾めば配達の人も喜んでくれるし、一石二鳥ではないか。 お昼に冷麦を食べたきりで出かけたので、帰宅したら猛烈にお腹が空いていました。 それにしても、何でこの忙しい時期にネットのことでこんなにもわずらわしい日々と、思ってもいなかったお金が次々と出て行く不運に遭遇しているのだろう。 何事もヒトに非ず、天なり。神仏が私をよくよく可愛がって、いまだに試練をいっぱい経験させてくれているのだろう。神様、私はもう十分、我慢の出来る人間になっているつもりなのですが、まだ足りないのでしょうか? 考えてみると、家にいてもじっとしていることはまずない。いつもせかせかと猫の割ったもの、汚したものの後始末その他もろもろをやり、電話をかけたり掛けられたり、日本との時差のせいで真夜中でも喋ったりしている。 本当に海・山に避暑に行ったことも何もない70年余りだったと、今日もむくんだ足をさすりながら、私は繋がらないインターネット画面を恨めしく横目で見ているところです。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房)「チュクルジュマ猫会」海泡石のパイプやアクセサリーと、「宮古島月桃」の買える店 アントニーナ・アウグスタ
2017年07月21日
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【7月20日・木曜日】 Turk Telecom(トルコ・テレコム)という、かつては半官半民だった電話業者が、アラブ諸国のどことかに身売りしてから、トルコを名乗っているが実はトルコの業者ではなくなったため、人によっては「まるきり信用出来ない会社だよ」とはっきり言う人がいるのを、5月下旬に、Turk Telecomのやっているインターネット事業、TTNETに加入してしまってから初めて知った私。 約1ヵ月に渡り、連日3回も4回もしつこく電話をかけて来る勧誘に負けた自分が悪いのだから仕方ないと諦めたものの、いざ加入手続きが始まると勧誘の時に聞いた話とは大違いで、月額24リラでネットを提供する、と言った筈なのに、いきなりネットが繋がらないうちに、82.25リラという高額の請求書が来てびっくり、しかも今までのサーバー、Superonlineからは6月4日を以って「解約手続きを完了させました」というショートメッセージが私の携帯電話に届いた。 それと同時にSuperonlineのネット接続を切られてしまったのに、TTNETの方はまだ全然繋がっておらず、サービス課に電話しても不得要領なことしか言わず、その上、追い打ちをかけるように、罰金310リラを請求するショートメッセージが私の携帯にSuperonlineから届いたのだった。 契約をキャンセルすると月額の6ヵ月分以上の罰金がかかるなんて、どっちの会社も一言も言わなかったのに、これは何だ、馬鹿にしている、と友人まり子さんに話したら「由美子さん、じゃあ、私が一緒に行って抗議してあげる」と早速、6月8日に2人でTTNETのベイオール地区本部に掛け合いに行ったのだった。 4日から2週間余り続いたネットなしの日々は、まり子さんの協力もあってどうやらサービスマンが接続に来るところまでこぎつけ、ようやく6月17日(土)、日本から娘の来る前日に繋がったのだった。 ところが、82.25リラと言う、法外な値段を払う気は私になく、これについてもまたまり子さんが同道してくれたので、これを払った上に、Superonlineの310リラも払って、その領収書を、Turk Telecomのアンカラの本部にファックスで送らない限りは、TTNETと正式に契約したことにならないので、ディスカウントのサービスなどは受けられない、と窓口の人は、勧誘時にはまるで話しに出て来なかったことを言うのだった。 その女性職員は「家の近くに公共料金等支払いポイントがあればそこで支払って、領収書を持って来なさい」と言うのでいつも行く支払いポイントに行ったら「あなたの契約番号を入力しても、Superonlineにはあなたの借金はない、と出てきます」と支払いポイントの窓口の人が言う。 時計を見るともう銀行の営業時間を過ぎてしまっているので、また次の日出直すことにして家に帰って来た。まったく、こんなことで先月は何回、軍事博物館の少し先のオスマンベイにある、Turk Telecomのベイオール地区本部まで行ったり来たりしたことか。 次の日に銀行へ行って通帳を記入して貰ってみると、6月12日に既に自動引き落としでSuperonlineが私から罰金を徴収していたことが分かった。えええ? どうして私に無断で自動引き落としするんだ、Superonlineは! そこで銀行に頼んで、その項目だけを伝票に刷り出して貰い、それを持ってまたTTNETに行くと「これじゃあないのよ」と、あくびをかみ殺しもせずに私の目の前で大きな口を開けて、喉の奥まで見せながら女性職員は「フワッ、フワッ、フワッ」と息をした後、自分のところのA4用紙のファトゥラ(請求書)を私の目の前で振って見せた。「こういうのよ、Superonlineからそれを貰ってくるのよ」 そこへまり子さんも来て「どこに言えばその請求書を貰えるんですか」 女性職員も前日来た時に、まり子さんがしぶとく食い下がるのを知っているので、またあくびをしながらメモ用紙に走り書きで、Superonlineの正式の領収書を、私の外国人キムリック(居住許可証の外人登録番号)を書き添え、Turk Telecomのアンカラの本部にファックスで送るように、とやっとちゃんとしたことを教えてくれた。 しかしこうまで堂々と、いちおうお客である私の前で何度も河馬みたいに大口を広げてあくびをするので、まり子さんはさっさと席を立ってしまったが、私は荷物や帽子を持つので一足遅れて席を立った。目の前の彼女には夜寝る前の挨拶、「イイ・ゲジェレル」と言って、内心、よくこれで会社をクビにならないものだ、と思いながらまり子さんを追って外に出た。 まだ昼の12時前である。まり子さんとメトロでタキシム駅を越え、シシハーネ駅で降りてイスティクラール通りに出、Turkcellという携帯電話会社の大規模店に行った。何年か前、Superonlineはその知名度を買われて、Turkcellと合併したのだった。 Superonlineは実店舗を持っておらず、店内の電話機から本部と通話出来るようになっていた。録音済みのテープで誘導されるままに、聞き取り上手なまり子さんがテープの案内に従って、いろいろ素早く入力して行く方法で、用事を済ませてくれた。 それが先週の金曜日(14日)、ところが今日は20日なのにまだSuperonlineからは、自宅あてに送るはずの310リラの領収書が郵送されて来ていなかった。 埒もない話をぐずぐずブログに書いても仕方ないのだが、書かないと毎日無駄足を運んでいる私の損失感が誰にも分かって貰えないので、仕方なく書いている。 さてさて、昨日までインターネットはとにかく動いていたのだが、今朝早く5時20分頃に娘から電話がかかって来て、「お母さん、そちらだと夕べ遅くか今朝早くの時間帯に、エーゲ海のボドルムとか、ダッチャの辺りで地震が起きたんだって、知ってた?」という。「ええ? さあ、私は夕べ人に頼まれた調べ物をしていて、今朝寝たのが3時頃だから、テレビを点けていなかったので知らなかったわ、すぐに起きてテレビを見て詳しいことを知らせるよ」 娘にそう答えて寝床から起き上がり、テレビを点けて見た。それは日付が変わって20日の真夜中、1時40分頃に起きた地震で、エーゲ海のリゾート、ボドルム沖のマグニチュード6.3の地震で、トルコのニュース各局は競って報道していた。 ボドルムの沖には、トルコ語ならイスタンキョイ島、ギリシャ語ではコス島と呼ばれるギリシャ領の島があり、ようやく賑わいだしたボドルムはじめコス島や周辺の夏の避暑地の人々を恐怖のどん底に陥れ、まだ余震があとあと続いているのだそうだ。 娘のEメールにそうしたことを書き送り、そのまままた6時の日本のニュースを見てから、眠さに敵わずパソコンを閉じて、寝床に逆戻りした。2時間半の睡眠じゃ、いくら私が丈夫でも無理よね。 1時間ほど寝て、洗濯物を干したり、台所の水につけてあった皿小鉢を洗ったりしてパソコンを開いてみたら、最初に自動的に出て来る設定の私のブログが「このページは表示できません」というお知らせのみで、メールもFacebookもTwitterも同じ知らせが出るのみ。モデムのインターネットの明かりが点いていないので、またまたネットが繋がっていないのだった。 午後2時過ぎに家を出て、一人でTurk Telecomのベイオール地区本部に向かった。番号札がまた昨日のあくび姐さんの窓口になった。 インターネットがまた切れてしまった、と言うと、82.25リラを払いましたか、と言う。同じ階の支払い窓口で払ってくれば、サービスマンを送ってあげますよ、17日が支払期限なのに、あなたが払ってないから罰則として止められてしまったんです、と言う。 えっ、たった3日遅れただけで、やっと繋がったインターネットをそうやすやすと止めてしまうのか、TTNETは・・・Superonlineを辞めてサーバーをTTNETに変更したことを、この時ほど身にしみて後悔したことはなかった。 24リラで出血大サービス、とでもいうような勧誘をして、加入させたくせに、出血するのは利用者の方かい!! 仕方なくなけなしの財布から手持ちの最後の100リラ札を出して、支払い窓口で払った領収書をあくび姐さんに見せると、彼女は「タマム。じゃあ、サービスマンをお宅に送るように要請しておくわ」と偉そうに言った。 もう、よっぽど「今日はあくびしないの?」と言ってやろうかと思ったが、まあ、腹にしまいこんで「ありがとう」と普通の顔でお礼を言って出てきたが、今日こそグランド・バザールからエミニョニュまでのきつい下り坂を下りて、バイラムの前に日本の友人マキコさんに頼まれた、刺繍用の「チャコ・ペーパー」を探しに行かなければ、と思った。 依頼する人は「加瀬さんなら知っているかもしれない」「知らなくても調べに行ってくれたり、知っている人を紹介してくれるだろう」と、私がまるで全知全能であるかのように信頼して頼んで来るのだから、放りだしたり忘れてしまってはいけない、どう忙しくても、自分のことは放っておいても頼んだ人への責任を果たさなくては・・・と言うのが私のポリシー、頼まれたのがラマザン・バイラムの最後の日だったので、もう4週間になろうとしている。 どこから行けば一番早くグランド・バザールに出られるかを考え、帰り道はメトロに乗って、イスタンブール大学の「理学部と文学部合同キャンパス」のそばにある、ヴェジネズレル駅に出て、グランド・バザールまで歩く(かなり距離あり)か、少し離れたトラムワイのラーレリ/ イスタンブール大学駅からふた駅乗って、グランド・バザールのヌルオスマニエ門から入れば、マフムット・パシャ門から下に下りる通りに一番手っ取り早く出られるのだった。 キャンパスの前でもう一つ用事を思い出し、日陰に座って電話を取り出した。友人のテレビタレント小林正貴さんが、昨日の午後電話して来て言った。「加瀬さん、ぼくもいよいよあと1ヵ月後には日本に旅立ちます。ロンドンの由加さんとも会う約束をしたのですが、23日の日曜日夕方、加瀬さんともご一緒出来ませんか。お別れにウイグル料理をご馳走したいと、かねがね言っていたのに、今頃すみません、よかったらご都合付けて頂けませんか」 もとより異存はなく、由加さんと私も携帯電話を受け取る都合があり、23日の夕方、どこかで会いましょう、と言っていたのでちょうどよかった。二つ返事で承知したのである。 イスタンブール大学のこのキャンパスのどこかにアイシェさんの教鞭をとる法学部もあり、23日の小林さんとのウイグル料理の会に、アイシェさんもお誘いしてはどうかと思い立ち、すぐに日陰に入って電話をかけた。 するとアイシェさんはちょうど用事も終わり、初めて明るいうちに家に帰れる状態になったらしく、私の持ちかけた話を楽しげに聞いてくれた。待ち合わせの場所はあとでまた連絡する、と言って電話を切った。 それから急ぎ足でグランド・バザールまではとうとう歩いて行ってしまった。そのあとは、グランド・バザールを斜めに突っ切るような形で、北側のマフムット・パシャ門から外に出た。夏はアラブ諸国からの観光客でにぎわうイスタンブールだが、このところ大きなテロ事件もないせいか、街の人々も繰り出してマフムット・パシャ通りもかなり混雑していた。 ようやく刺繍や編み物の資材を売る店が並ぶアラジャ・ハマム通りに入り、この道の最後に大きな問屋さんがあるので、手前にある店から聞きに入ったが、マキコさんの送ってきたリンクから刷り出した紙を見せながら聞いても、店員にもピンとこないようで、要するに見たこともないのだろう、と諦めた。 次の店では店員が「ちょっと待ってて下さい」と言ったまま、前の客があとあと、思いついては買い物を追加するのですっかり待たされ、朝早く日本からの娘の電話で目が覚めたこともあり、またTTNETのことでシシリーまで、そしてそのあとこちらへ回ってきたので疲れがどっと出てしまい、調査の続きはまた明日にして家に戻ってきたのだった。 調べ物でも、トルコにあるかないかを調べてほしい、と言うのが一番難しい質問である。どこそこと言う店にはあるらしいのだが、その店がどこにあるかを調べて下さい、などと言うのは調べるうちには何とかなる。 でも、あるかないかを聞くには電話で済ませられず、足で訪ね歩くしかない。電話は手軽だが、トルコでは電話だけの商談など絶対にあり得ない、信用出来ないことが多いからだ。 自分が今苦労に直面しているTTNETが、その一番顕著な例ではないか。まあ、ほかならぬマキコさんの頼みだし、シリアの難民女性の自立に一助となればと思えばこそ、この猛暑の中をきつい坂道を上ったり下りたりしているけど、私も自分のことや家の掃除が出来なくては、毎日気が気でないので、今度こそこうした骨身を削るような調査は、もう若さや馬力もないのだから引き受けないようにしよう。(と、十年一日に言い続けている私もすごいです) あと一軒、最後の頼みとしている、手芸専門の問屋さんを訪ねてそこで見つからなければ、まだトルコにはないのだろうと、結論を出すことにしよう。 チュクルジュマの青い空。上の階のベランダでも伸びてきた蔦の葉が風にそよいでいます。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房)「チュクルジュマ猫会」海泡石のパイプやアクセサリーと、「宮古島月桃」の買える店 アントニーナ・アウグスタ
2017年07月20日
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【7月18日・火曜日】 昨日17日の月曜日は、1997年の夏、パスポートを紛失して、当時タキシム広場の近くにあった日本総領事館の前で知り合った、千葉県習志野市の故池畑怜君の、12回目の命日だそうで、早朝奥さんのリカコさんとチャットで少し話をし、改めて彼の冥福を祈り、先週も出歩く用事が多くて、洗濯はじめ家のことがおろそかになっていたので、そうした仕事に励んだ。 夕方、アパルトマンの玄関の郵便受けに、私宛の大きめな封筒が入っているのを見つけた。それは、コンヤのセマー楽団のゲネル・ミュドゥル(団長)である、ポストニシン様、ファフリ・オズチャクル氏の長男ミタットさんの結婚式の招待状だった。8月6日(日)、ちょうど3週間後、私はコンヤに行くことになる。 そして今朝はエザーンの声より早く目覚め(4時半ちょっと前)、カーテンが閉まっているせいばかりでなく、外が非常に暗いのを感じてカーテンの隙間から覗いてみると、柿の葉っぱでよく見えないながらも、外がたいそう曇っているのが分かった。 すぐに起きて猫の砂箱を清掃し、パソコンの前に座って幾つかのメールを読んだりしているうちに、ご飯が炊けたので、夕べ煮ておいた由加さん土産の豚肉の煮物の野菜や細切れ肉をおかずに朝食を食べている時に、突然強い風が吹き出し、近いところで雷鳴が轟いた。 まずは朝食で夕べの煮豚の汁、コマ切れ肉、野菜にしみた豚肉エキスを味わいます。 急いで朝食を食べ終わったのが8時15分頃、そのとき恐ろしい勢いで雨が降り出した。各部屋の開いている窓を閉めに走り、私はデジカメを取り出して、西の寝室から伸びあがって下のチュクルジュマ通りを写した。 チュクルジュマ通りは、早くも激流となってわが家から見ると右から左の方向へ、道に置いてあるものすべてを押し流しつつ目にもとまらぬ速さで下って行く。今年はこれでもう何回目だろうか。 奔流となって下り落ちるチュクルジュマ川、もとえ、チュクルジュマ通り 大工のブラック・ウスタの家の前。ギュルセレンさんもこの上の階に住んでいます。 この、針金のような雨脚の強さ。 7階の真ん中で天井から雨漏り、このバケツが空のままで終わってほしい、神様。 下からブラック・ウスタや、元カプジュの女房の怒鳴り声が聞こえてくる。ウスタの店先に、山のように積み上げたガラクタが水の流れをせき止め、元カプジュ一家が占拠して出て行かない地下室へと怒涛のように流れ込んでいるに違いない。 今まで何度もそう言うとき、膝までの短パンに穿き替え、デッキブラシやバケツやぞうきんを手に、私がただ一人、必ず水の掻い出しを応援に行ってやったものだが、もう何があっても飛んで行って手伝ってやったり、カプジュの給料を3ヵ月分前払いしてやったり、タオルや座布団を分け与えたジャポン・テイゼはもういないからね。 しかし、私には私の心配事がある。6階の横の外壁に大きな亀裂が入っており、それは1999年8月17日のマルマラ大震災の時に出来た小さな亀裂が、私や5階の人が何度も交渉したにもかかわらず、住人のキラジュ(借家人)のお婆さんも、その家主も今は別に何でもないじゃないか、と言って、外壁の傷が小さいうちに補強で壁塗りとか、別な対策を考えようと住民会議で話を持ちかけても、「うちは別に困っていないから」とどの階の住人も一向に取り合わなかったせいで、18年間放ったらかしとなり、5階の家と4階のわが家に、雨漏りがしてひどい時があるのだった。 時と共に亀裂は広がり、6階の住民には何でもなくても、5,4、3階などに亀裂から浸み出して行く水の通り道が出来ていて、大雨の度にビルの中ほどの階が雨漏り、という考えられない状況が出現したのだった。 私も昨年、タキシム広場の近所でぼったくりバーに誘われた日本の学生さんが、1~2杯のビールを飲んだだけで2,000リラもクレジットカードで払わされた事件で、「総領事館で電話番号を教えて貰いました。通訳をお願いしたいのですが」と頼まれ、困っている人がいれば断れない性分、出かけるときにひどい降りになって、明け方まで警察にいて帰れなかったため、家に着いてやれやれと扉を開けた途端に、ソファとその周辺の床もびしょ濡れになってしまっていた。 天井にぼたぼたと雨が漏ってくる小穴が幾つも開いて列を形成していた。高いビルの真ん中の階が天井からすごい雨漏りに見舞われるなんて、何と言う不条理、しかしまあ、うち1軒で直せるわけもなく、ここは「法治国家」というより、文字通り「放置国家」だなあと、大雨の来るたび不安に駆られるようになってしまった。 一応予防のためにバケツ3つをあてがっておいたが、幸い風の向きが違うせいか、天井からの雨漏りに見舞われることはなかった。 さて、ロンドンの由加さんと同じように、7月15日にスウェーデンからイスタンブール入りしたザッフェルさんから、夕べ一度電話がかかって来て、今日の2時半頃、ジハンギルで会いましょう、と言うことになった。 ザッフェルさんは私がまだ日本食レストランをやっていた頃、つまり日本から連れて来た愛犬ビクター(シベリアン・ハスキー)を見たことのある、ジハンギルに住む日本語勉強中の、気立てのいい明るい青年だった。年齢は当時25~6歳前後だったので、今は41~2歳と言うところ。 彼らの方がいくらか早く着いて、ジハンギル交差点の前の、フィルズ・アー・ジャーミイの下に何軒か並んでいる、おやじカフェの一つで落ち合った。奥さんのチチェッキさんと、12歳の長男テオマン君と6歳の娘オフェリアちゃん。 2001年頃、彼はデンマーク在住のトルコ人一家の娘、チチェッキさんとインターネットで知り合い、互いに好意を抱き、Eメールのやり取りを続けるうちに、彼がはるばるコペンハーゲンまで会いに行き、チチェッキさんの両親にも気に入られて、結婚話に進展したのだった。 婚約が調ったとき、チチェッキさんはイスタンブールのザッフェルさんの両親に挨拶に来て、彼は私にもチチェッキさんを紹介してくれたのだった。そのときもたった30分くらいだったが、このおやじカフェの同じ店でチャイを飲みながら歓談したのだった。 ザッフェルさんがトルコで結婚式を挙げた時、私は日本の雑誌に5年半続けた連載を1冊の単行本にするため日本に滞在していたし、結婚後彼はコペンハーゲンに移り住んだので、テオマン君が生まれた時の写真など、ときどきメールのやり取りで知ってはいたが、その後デンマークと国境を接するスウェーデンにザッフェルさん一家が移住し、そちらの会社で働くようになってからでももうだいぶ経つのだそうだ。 何年か前、ザッフェルさんは私をFacebookで見つけて、友達リクエストを送ってくれたため、私達の交流も復活したのだった。きびきびした働き者らしい奥さんと、どちらも素直そうな可愛い子供達にも恵まれ、ザッフェルさんがなかなかいいお父さんぶりを発揮しているのを見るのは嬉しかった。 あんなこともあったね、こんなこともあったね、と話がはずみ、今度中学校へ進むテオマン君は、パパの影響かたいそう日本びいきで「高校生になったら、本格的に日本語学校に入れて習わせる約束が出来ているんですよ、加瀬さん」と、ザッフェルさんは嬉しそうに告げた。 今回のトルコ旅行は、ザッフェルさんの兄の娘(姪)の結婚式に出るためなのだそうで、久々に一族の顔触れがそろって素敵な結婚式となりますように。 ザッフェルさんはチュクルジュマの骨董品街を子供のころから好きだったのだそうで、帰り路はガラタサライ・ハマムのあたりに出る裏路から行こう、と、みんなでわが家の前まで送って来てくれた。 ジハンギル交差点の前、フィルズ・アー・ジャーミイのおやじカフェのチャイを飲みました。 わが家に送ってくれる途中の坂道で。ああ、楽しいひとときでした。 去年の秋、日本に行った時に、私に買っておいてくれたと言う日本酒とお茶 さようなら、ザッフェルさんとチチェッキさん、テオマン君とオフェリアちゃん。私に会いに来てくれてありがとう。 足腰の丈夫なうちに、私も「来たわよ~」とスウェーデンに行ってみたいけど、どうなりますことやら。でもまた会いましょうね。お土産をありがとうございました。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房)「チュクルジュマ猫会」海泡石のパイプやアクセサリーと、「宮古島月桃」の買える店 アントニーナ・アウグスタ
2017年07月18日
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【7月16日・日曜日】 2014年8月13日の初対面から、もうじき丸3年の付き合いとなるロンドンの由加さん、今年2度目のイスタンブール訪問はまさにトルコ中が大騒ぎしている7月15日の夜の到着となり、かつてのボスポラス大橋は去年のクーデター未遂事件の後、「7月15日・戦没者と戦傷者の橋」と名前が変えられた。 その、アジア側の橋の袂に記念碑が作られ、エルドアン大統領や諸閣僚の臨席で、249人の軍人、ポリス、市民が犠牲になったことを悼み、大規模な追悼式典が執り行われた。 前夜からこの橋は通行禁止となり、準備が行われ、あの日事件が発覚した午後8時過ぎ、大統領一家や閣僚達が取り付け道路を徒歩で行進、会場付近のE5国道は、この式典に参加するため集まってきた、民衆の振るトルコ国旗で早くから埋めつくされた。 幸い、由加さんの飛行機はアジア側のサビハ・ギョクチェン空港への着陸だったため、カドゥキョイには支障なく到着、そこから今回はウスキュダルの街中の、船着き場から徒歩でも行かれるアパートホテルに予約したので、由加さんはロンドン並みに涼しいイスタンブールに驚きながらも、私に連絡を入れてくれたのだった。 さて、本日は午後1時にウスキュダルの市営船着き場の前で待ち合わせしたので、私はタクシーでベシクタシュに行き、モトール(民営の小型連絡船)に乗って対岸ウスキュダルに渡ったのだった。 由加さんはロンドンでトルコの伝統美術、エブルの紹介をしたいと考え、去年の夏、私が紹介したエブルの美樹さんの作品を見るために彼女の家を訪問したいとのこと。美樹さんはラマザンの始まる頃故郷の大阪に行き、ワークショップや展示即売会を開いたりして、日本にまだあまり知られていないエブルを紹介するためにこの数年、大阪でもあちこち走りまわっていた。 私は微力ながら美樹さんを応援するために自分も出来るだけエブルの宣伝に努めていた。今回、由加さんがロンドンと言う、美樹さんにとって新しいマーケットを紹介してくれることになったので、由加さんを彼女の自宅に案内する約束になっていたのだった。 美樹さんはお父さんの入院・手術で、約1ヵ月トルコに戻る日を延期したため、自宅には同居している美由紀さんが留守を守っていた。美樹さんは彼女に由加さんへの応対を頼み、美由紀さんが作品集の中からこれと言う品々を10点ほど選んで披露してくれた。 美樹さんが作品を自宅で作る時は、いつも美由紀さんが手伝っているので、さすがに彼女もエブルについて詳しくなり、一つ一つの紋様について、どういう手法でやるとこうなるのか、と言うことも詳しく説明してくれた。 由加さんはロンドンから来るとき、いつもベーコンやハムなど、豚肉製品をお土産に持って来てくれていたのだが、前回3月に来た時、2キロもある生肉を持って来てくれた。 しかし美保子さんはイスラーム教に改宗しているため豚肉はご法度、美由紀さんも仕事が見つかり勤め始め、美樹さんは大阪に行くことになって、私も猛烈に忙しくてみぃチームの女子会を開くことが出来ず、結局冷凍したままなかなか調理出来なかった。 4月末だったか、5月に入ってからだったか、思い切ってトンポーロー、生姜焼き、とんかつ、カレーなどにして連日一人でとうとう食べつくした。 それらの写真を由加さんに送ったら「あら、加瀬さん、本格的じゃあないですか」と今回も同じくらいの大きさの肩の辺りと思われる部位の生肉を持って来てくれた、とのこと。 美由紀さんに半分切ってお宅に置いて行くので、美樹さんが戻ったら2人で食べてね、と言って美由紀さんに切って貰ったら、これが普通の家庭の包丁では刃が立たず、美由紀さんは苦心惨憺し、切るだけで1日分のエネルギーを使い果たしたのか、そのあとレモネードを注いで出してくれたとき、両手ともぶるぶる震えてしまっていた。ごめん、私が切ればよかったね。 美樹さんの愛猫、パシャ君が外出から戻り、呼んだらすぐに私を思い出してくれたのか、おとなしく私に頭やお腹を撫でさせてくれたので、嬉しいツーショットも美由紀さんがたくさん写してくれた。 美樹さんと美由紀さん以外には警戒心が強くて気を許さないのに、私にもすぐ近づいてかなり甘えたしぐさをしてくれたパシャ 3時頃暇乞いし、ウスキュダルの魚市場の魚レストランで遅い昼ごはんをすることになり、私は由加さんがこの1週間でたくさんの人と会うので、うちの娘のトルコ携帯を使って貰おうと持って来ていた。 魚料理がとても美味しく、スープを飲んだせいか、お腹がパンパンになって5時過ぎに店を出た。オンベシ・テンムズの行事が今日も続いており、2日間、公共機関の乗り物が無料となったので、ものすごい人数が繰り出し、ウスキュダルの船着き場で由加さんと別れた後、エミニョニュ行きの待合室に入ったた。 ところがあとからあとから乗客が押し掛け、ガラス張りの広い建物もパンクしそうなほとに膨れ上がった。船が5時30分発、というのに6時近くなっても到着せず、やっと6時に桟橋へ横づけになった船からも、夥しい客が降り、私達が待合室でまるで卵ならヒヨコになってしまうほどの蒸し暑さで押し合いへしあい、私も待合室の出口に殺到したら将棋倒しの恐れありと用心し足を踏ん張って押されるのを防いだ。 やっと出口の戸が開かれたそのときだった。急にバケツから水をブチ撒けるように驟雨が襲ってきた。私は持っていた傘を広げ、余り濡れずに済んだが、待合室でさんざん待たされ、出た途端にゲリラ豪雨でもう踏んだり蹴ったり。市営の連絡船ははちきれそうに人が乗っており、定員の2倍もいるのではと、これも怖かった。 無事にエミニョニュに着いたのは6時半になろうと言う頃で、トラムワイも超満員、トルコ国民もよく耐えているなあ、と感心してしまったが、船着き場からの疲れが家に着いたらどっと出て、それでも私の食物への執着心はたいしたもので、猫達に餌をやり、豚肉料理に取り掛かった。我ながら御苦労。 この豚肉のお陰で、数日間、買い物に行かずに済みました。由加さん、ありがとう。 まずは煮豚。幸い、八角もあり、一緒に野菜をたくさん煮こみ、なかなかいける味になりました。 煮豚の中の一番大きなブロックは脂身もたっぷりで、ことさらに美味しかったです。 一口カツ。この大きさに切り、塩こしょう、こんぶだし、醤油などで味付けし揚げました。 煮豚の小さな塊は煮豚どんぶりに。これも美味しくて食べ応えがありました。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房)「チュクルジュマ猫会」海泡石のパイプやアクセサリーと、「宮古島月桃」の買える店 アントニーナ・アウグスタ
2017年07月16日
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【7月15日・土曜日】 ちょうど1年前、2016年の7月15日夜、外国人の私達はもとより、トルコ国民ですら寝耳に水のクーデターが勃発、イスタンブールのボスポラス海峡にかかる2つの橋を、戦車や消防車や救急車などが占拠したことから始まり、アンカラではF16戦闘機が軍警察本部、警察司令本部、国会議事堂などを次々に爆撃し、アタテュルク空港には夥しい数の戦車、消防車、救急車などが集結し始め、一時空港は離着陸不能となった。 ちょうどこの日、マルマリスのさるホテルで避暑を楽しんでいた大統領の一家に、大統領の親戚筋から、暗殺部隊が向かっているという情報が入り、まるで「007」映画のクライマックスのように、爆撃される寸前にボデーガード達に守られてヘリコプターで一家は脱出し、直近の空港に待機させてあった大統領専用機で、アンカラは反乱部隊の爆撃が熾烈なので、イスタンブールに向かったのだった。 アンカラの国営放送TRT1, TRTHABERは、反乱部隊に乗っ取られ、大統領は民間局の電波に交渉、みずから、携帯電話の画面から全国民に呼びかけた。「民主主義を守り、国を守るために皆さんを広場に招集いたします。恐れることはありません! 家の近くの広場に集まり、国を守りましょう!」 すると、夜中だと言うのに国民はみんな大人も子供も家を出て、どこにそんなに大量に用意してあったのか、手に手に赤地に白く三日月と星の染め抜かれたトルコ国旗を振り振り、続々と広場に集まり始めたのだった。 真夜中になると、クーデターは制圧されたとの放送が流れ、アンカラからイスタンブールまで政府軍のF16戦闘機が何機も偵察に来て、超低空飛行をし、タキシム広場には何千、何万と人が集まって来ているらしく、戦闘機は何度も民衆を鼓舞し、恐ろしい爆音を立てて急上昇するので、さすがに私も耳をつんざくこの逆噴射音に恐れをなして、硝子戸がびりびり振動するなか、布団を被ってじっと息を殺していた。 やっと戦闘機が飛び去り、タキシム広場やガラタサライ広場からは風に乗って大歓声が流れて来る。私は満2歳を過ぎたばかりの昭和45年3がつ10日の東京大空襲の夜、祖母に抱かれて防空壕に避難し、絶え間ないサイレンの音とB29の編隊が流山の上空をも襲い飛び去る、恐怖の音を思い出してしまった。 その後、イスタンブール・アタテュルク空港で大統領、ユルドゥルム首相などが参集し、陸軍参謀総長フルシ・アカル大将も、人質にされていたのが救出され、トルコ政府軍はぐん仁、市民合わせて250名近い犠牲者を出したものの、反乱軍を僅か半日で制圧、その後も国民の半分くらいが熱に浮かされたように、ヨイヤサ、ヨイヤサと国旗を振りながら毎夜広場に集まるのが日課になり、その後、このクーデター事件は、アメリカのペンシルヴァニア州に住む、ギュレン教団の宗主フェトフッラー師の洗脳による国家転覆をはかるテロリスト集団の引き起こしたもの、と政府によって断定された。 7月21日から全国に非常事態宣言が敷かれ、50年も親しまれたボアズ・キョプルスの名は「オンベシ・テンムズ・シェヒットレル・ヴェ・ガージレリン・キョプルス」と変えられた。(ボスポラス大橋から7月15日戦没者と戦傷者達の橋に変更) 7月15日橋のアジア側のたもとに集結した人々。記念式典はそこで夜、行われた。大統領夫妻、その家族が端の下の取り付け道路から徒歩で会場に入ります。 それから1年経ち、トルコ国民は「大統領派」と「そうでない派」に、真っ二つに分断された感がある。多くの軍人や警察官が逮捕され、民間人でもどういう基準か分からないが、偵察、密告、いろいろな手段で何万人にも上る司法関係者、公務員、教員、新聞記者、作家、民衆運動家等が逮捕されたり、職場を追われたりして、その混乱はいまだに収まらない。 1年の間に物価の上昇は天井知らずとまで言われ、トルコ市民に失業者増大、若者はやる気をなくし、詐欺や横領事件が増え、テレビ界には一獲千金番組が急増している。シリアからの難民300万人近くを抱え込んでいるトルコであるが、イラク難民にも門戸を開くと大統領は胸を叩いて約束し、国内に仕事がなくて毎日うろうろしているトルコ難民にも、やがてそれなりの処遇をしてくれるといいのだが、と外国人である私ははらはらしながら傍観するしかないのである。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房)「チュクルジュマ猫会」海泡石のパイプやアクセサリーと、「宮古島月桃」の買える店 アントニーナ・アウグスタ
2017年07月15日
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【7月14日・金曜日】 メフテル軍楽隊のボルゼン(トランペット奏者)、Umit Demir ウミット・デミルさんが6月の転属命令で、マラティヤ県に配転となった。メフテル軍楽隊は陸・海・空の三軍の軍人と、シヴィル・メムルという文民職員によって構成されているので、軍人の場合人員の入れ替わりは毎年あり、その他定年退職する人もあれば、軍籍を離れてほかの仕事に就く人もいるのだから、シヴィル・メムル以外は人事異動がごく当たり前のことなのだった。 それでもやっぱりこちら、メフテル軍楽隊ファンからすれば、見なれた人、親しくした人と会えなくなると言うのは寂しいことである。ウミットさんは日本大好きの人なので、2015年6月に日本に行ってからなお一層、日本に興味を持ち、表参道のパレードで知り合った後、日本から訪ねてきたメフテル・ファンの人々を、自宅に招待して奥さんの手料理でもてなしたりしたこともある。 ウミットさんには今年1月2日、2人目の坊やが誕生、お兄ちゃんもまだ学齢に達していなかった。赤ちゃんは生まれたばかりで心臓に重い疾患が発見され、赤ちゃんの手術と2ヵ月にも渡る入院で、家と病院を往復する毎日に働き者の奥さんも疲れ果てた。それでも赤ちゃんは、夫妻やこれを知った人々の祈りも届き、お医者さん達も奇跡だと驚くほどの快復ぶりで、無事に退院することが出来た。 ウミットさんは奥さんと2人の坊やのために、東地中海最大の島、キプロス島の北キプロス・トルコ共和国への転属を願い出たのだった。あいにく、常春の島キプロスへの願いは叶わなかったが、アンズの生産高トルコ随一と言うマラティヤへ転属となった。家族に地方の街で静かな暮らしをさせたい、というのが父親としての彼の願いで、自然の豊かなマラティヤで子供達を育てることになったのだった。 彼はまだ36~7歳だが、定年が近づく頃には生まれ故郷のトラキア(トルコがギリシャやブルガリアと境を接する西部の地域)近辺の勤務に就けたら理想です、と言う。 私が1994年の7月、メフテル軍楽隊と同じ飛行機で成田に行き、12時間の長い旅路を、まだ習い始めたばかりのたどたどしいトルコ語ながらも、チェヴゲンと呼ばれるコーラス隊の皆さんの席で、入れ替わり立ち替わりほかのパートの隊員の皆さんもやってきて、日本についていろいろなことを聞くので、相手をしているうちに、トルコ語の会話にかなり慣れてきた、と言う話をしたら、そんなに昔からみんなとお知り合いだったんですか、とウミットさんが驚いた。 彼はもともと、日本が好きで、イスタンブールの和食レストランにもときどき行って、日本酒をたしなみ寿司を食べていたほどだったのが、2015年6月、エルトゥールル号遭難125周年の追悼式典への招待で、遠征の一員となって行った日本で、生魚は食べられない人ばかりの中、彼だけは千載一遇のチャンス、と日本食を喜んで食べたらしい。 串本から特急で新大阪に、そのあと新幹線で東京に移動、すみだトリフォニー・ホールで演奏、翌日は表参道でパレードのあと、浅草の観音様に赤や紺の制服のままでバスに乗り移動、そのまま自由行動を許され、浅草寺の境内や仲見世などを見物していたら、トルコを知らない人ですら、あの赤い制服で大勢の外国人がぶらぶら歩きをしているので興味を引かれ、記念撮影を頼まれたり、それに応じてFacebook友達になったり、などなどたいそう面白おかしく語ってくれた。 今日は私も朝から、いろいろな用事があって、今度サーバーとして契約を結んだTTNET(テーテーネット)と、以前のSuperonlineとの間に、いろいろな問題が発生し、まり子さんにも同行して貰ったが埒が明かず、そのあとはまり子さんの抱えている問題に私が応援に行って、3時過ぎに一旦家に戻って猫達に早めに餌を配り、5時の約束でウミットさんとタキシム広場で待ち合わせ、すぐそばのトゥルンジュ・パンパンでビールを飲みながら語り合うことにしたのだった。 メフテル軍楽隊の今年発売されたCDで、各パートと歌詞の書かれた冊子の中に、ボルゼンバシュ(トランペットのリーダー)として赤い服を着たウミットさん せっかくツー・ショット撮って貰ったのですが、私のカメラが悪かったみたいです。 これでしばらくお別れです。私が元気なうちにまた近くに転勤してね。 8時過ぎには日本から電話をして来る予定の人があったので、ウミットさんと名残惜しいが8時少し過ぎに別れ、帰宅したのだった。 その電話は結局10時過ぎ頃かかって来て、相当複雑な案件なので相手の話を聞きながら受け答えしていたが、午前2時頃、私が日中歩き回った疲れや、連日の寝不足がさらに重なり、しかも夕方から飲んだ2杯のビールの効き目もあって、話しながら携帯を2度も膝の上に取り落とし、相手が淡々と語るのが子守唄のように聞こえて居眠りが出てしまったに違いない。 とうとう2時を過ぎた。我慢出来ないほどとにかく眠い。他人様のことで毎晩のように夜中に通話するので閉口し、もう7月15日に日付も変わり、去年のクーデター未遂事件の1周年、政府は大々的に記念追悼行事を計画しているので、危険だから当日は外に出ないようにと、総領事館から注意報も届いているし、もう寝ないと自分が病気になってしまいそうで、この話はまたあとでお願いします、とついに相手に詫びて電話を切り、ベッドに横たわったのだった。 で、また5時半頃には起きるのだから、寝たとも言えない。ああ、一度でいいから一日中、ただただ、寝ていたいものだ。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房)「チュクルジュマ猫会」海泡石のパイプやアクセサリーと、「宮古島月桃」の買える店 アントニーナ・アウグスタ
2017年07月14日
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【7月13日・木曜日】 昨日12日の午後、日本からグループ・ツアーの参加者として夫君と共にイスタンブールに到着したエリコさんは、昨年2月下旬、単身イスタンブールを訪れた折、前年Facebookでエリコさんと友達となっていた私が、当時まだメフテル軍楽隊の総務課長だったメティンさんに紹介したのだった。「相次ぐテロ事件で、日本からはもうツーリストが来なくなってしまったのに、エリコさんは勇敢にもメフテル軍楽隊のライブをぜひ観賞したいと言われるので、メティンさんにお引き合わせしたかったんですよ」 メティン総務課長は、暮れの26日にさる日本女性と正式に婚約を結び、軍楽隊の中でも彼女とイキンジ・バハル(二度目の春)を迎えて結婚も間近、と言うのは誰もが知るところだった。 エリコさんもメティンさんとは初対面ながら、その日フィアンセと同じ日本人と言うことで格別に優遇され、来週もう一度イスタンブールに戻ってきたとき、また伺います、と約束したのだった。 そして3月2日、二度目のメフテル観賞の日、私はコンサートより3時間も早くエリコさんを伴い、中庭の長い通路を歩いてメティンさんの執務室に向かっていた。 すると、あと少しでメフテル軍楽隊の事務棟に到着する寸前、軍楽隊の最高司令官、ムラット中佐と、水曜ごとに行われている「シェヒットレル・アンマ・トゥレニ(戦没者追悼式典)のプロデューサー・ディレクター・司会者である、エルハン・アルトゥノク大佐が立ち話しているそばを通りかかったので、立ち止まって挨拶をしたところ、ムラット中佐が私を大佐に紹介してくれた。 この追悼式典がしばしばテレビ番組などにも取り上げられるため、私も大佐のことはよく知っていたが、大佐はもちろん私のことは知らず、二言三言挨拶を交わし、その場を離れようとしたら、中佐が「加瀬ハヌム」と私を呼びとめたので、踵を返した。 エルハン大佐も今来たばかりと見え、まだ私服だった。肩掛けカバンの中からバインダーに挟んだA4の紙束と1本の角ばったペンを取り出し、私の名前の綴りを聞いたので名刺を差し出した。すると見る見るうちに、私の名前を美しいカリグラフィー(アラビア習字、トルコではアルファベット)で書きあげ、私に手渡してくれた。多芸多才で有名な大佐からの思いがけないプレゼントだった。 「お2人とも、ご都合が良ければ、2時から始まるアンマ・トレニにご出席ください。大佐からのご招待です」とムラット中佐は言った。 メティンさんの部屋に行くと、彼は既に私達が追悼式典に招待されているとの連絡を受けているようで、腕時計を見て「おお、もう1時を回るところだ、早く食事に行きましょう」と言った。この前、エリコさんに「もしもう一度来られるなら早めにいらっしゃい、私がお昼をご馳走しますよ」と約束してくれていたのだった。 そして彼は私が持っているのが、エルハン大佐からのプレゼントだと一目でわかったらしく、スチール製の書庫から書類を保護するフィルムを出してくれた。 メティンさんは大急ぎで隣の敷地にある、ハルビエ・オルド・エヴィ(ハルビエ将校会館)に私達を伴い、びっくりしているエリコさんをせき立てるようにして、ビュッフェ・スタイルのランチ・コーナーで好きなものを取らせ、ガルソンを呼び、私達の分はテーブルに運ばせてくれた。 ご馳走になって戻ってくると2時10分前、荷物のほとんどをメティンさんの部屋に置いて、私達は彼に連れられ追悼式典会場に行った。そこには既にデニズ少佐が待っていて、私達の席を自分の隣に確保しておいてくれたので、日本人としては初めての参列者だそうで、エルハン大佐の名司会ぶりに圧倒されながら厳粛な気持ちで聞いていた。 その日、通路に立ったままさらさらと書いてプレゼントしてくれたカリグラフィー 式典の始まる直前、2人ともちょっと緊張しています。デニズ少佐と一緒です。 エルハン大佐の名司会者ぶりに圧倒され、厳粛な気持ちです。 式典の終わり近くに記念撮影タイムがあり、私共もエルハン大佐、メティン課長と一緒に。 3時15分前位になると、デニズ少佐が目顔で私達に挨拶して出て行った。メフテル・コンサートに出演するため、着替えに行ったのである。3時になろうとする頃、私達は軍事博物館の記録係のビデオカメラの前でインタビューを受け、そのあとはメティンさんに連れられて、真上に当たるコンサート会場に急いだ。 コンサート・サロンはメフテル軍楽隊の紹介映画の上映中で、薄暗い階段式の観覧席に、ロープパーティーションされた一列の間を通り、反対側の階段に出たのだった。後ろからついて来るエリコさんを振りかえりながら、「階段があるから気をつけてね」と言った途端、自分の左足が階段ではなく、一段下の段への空間を踏んでしまったので、そのままがくんと転び、もんどり打ってごろんごろんと回転しながら、舞台の手前まで落ちてしまったのだった。 エリコさんは後ろからそれを見ていて、ここに救急車が来て、でも間に合わなくて加瀬さんがお亡くなりになったらどうしよう、私のせいだわ、と考え、頭の中が真っ白になってしまったと言う。 私は周囲の人々に手を引いて起こして貰い、すぐそばの椅子に腰かけた。その瞬間、映画が終わってパッと場内の照明が点き、人々が総立ちになって私を見ている。右手を心臓の上に当てて会釈するお礼のしぐさをしながら、顔から火の出る思いを味わった。メティンさんも私が転んだところを見て、駆け付けようとしたが場内が満員で、入り口のところで身動き出来なかったのだそうだ。 総大将チョルバジュ・バシュが舞台の袖に登場し、右横のスロープ階段を、赤や緑のコスチュームを着たトゥージュ(指し物を捧げ持つ係)、バイラクタル(旗手)などが、大音響のアナウンスや、舞台の袖に待機したメフテル軍楽隊の演奏に合わせて行進を開始し、舞台に向かって下りて来た。演奏中に転げ落ちなくてよかった・・・ それが去年の3月2日のことだった。 さて、それから1年4ヵ月、エリコさんは再びイスタンブールの土を踏み、今朝早く夫君は初心者としてスルタンアフメット広場の歴史遺産を回るツアーに出た後、リピーターは夕方まで自由行動、と言うことになり、軍事博物館に駆け付けてくれたと言うわけである。 あいにく昨年6月、転属命令の出たメティンさんは定年前の最後のご奉公で、イスタンブール郊外のとある駐屯地の副司令官として赴任、その前に共和国式結婚式を挙げ、晴れて宣子さんと正式に夫婦となって、新しい任地に去って行った。 その代わり、メフテル軍楽隊大好きの私の友人國府七緒さんとも、FBで結ばれたエリコさんの願いがかなって、七緒さんも本日7月13日、軍事博物館でコンサートを観賞に来ることになり、それならいっそ、午後1時に軍事博物館の大砲の前庭で落ち合い、カフェテリアでお昼を食べながらコンサートの始まるのを待ちましょう、という約束になった。 そして、エリコさんと七緒さんが初対面を果たし、私達はトーストを焼いて貰い、チャイや冷たい水を取りよせて、七緒さんに去年、エリコさんと私が中庭の通路を歩いていたら、エルハン・アルトゥノク大佐と出会って、戦没者追悼式典にも招待されたことなど語り合っていた。 するとちょうどその時、またしても私の魔法の手が呼びよせたのか、カフェテリアの入り口からアルトゥノク大佐が入って来て、やあ、やあ、やあ、やあ、と言うことになった。 大佐は私服のニッコウキスゲ色のシャツ姿で、気さくに私達のテーブルに来て、連れの軍人さんももちろん私服で並んで同じテーブルについてくれた。 去年11月2日に、私はデニズ少佐からの招待で、七緒さんやタレントの小林正貴さん、イスタンブール大学の法科の先生、アイシェさん、さる雑誌の女性記者ディレッキさんなどを招いて、再び戦没者追悼式典に参列、アルトゥノク大佐と私も最初の出会い以来、FB友達となっていたので、時にはチャットで親しく話をすることもあった。 私がエリコさんを示して「大佐、去年の3月、こちらのエリコさんもご一緒でした」と言うと大佐は、「うんうん、覚えていますとも。そうだ、あの時は時間がなくて書けなかったけど、今日はあなたにも、七緒さんにもプレゼントしましょうね」とにこやかに言い、鞄からビニールコーティングされた紙束と、日本製だと言う特別のカリグラフィー用の筆ペンを取り出した。 それにしてもエリコさんも大佐によくよくご縁があるのか、年に一度のイスタンブール訪問で2回とも普段はアンカラの参謀本部勤務の大佐に出会い、お洒落なカリグラフィーで名前を書いて貰い、とても幸せそうに「日本に帰ったら額に入れて飾ります」とうっとりしていた。 大佐は実に多才なお人で、大学で文学の講師として授業もし、大きなイベントや、テレビ番組の構成作家でもある。詩人でもあり、詩集も2冊出版し、書物も出している。 エリコさんのカリグラフィー。赤いポイントがお洒落です。 エリコさんとツーショット、まだ書いている途中ですが、エリコさん、幸せ。 七緒さんにもさらさらと流れるようなカリグラフィーで素敵なプレゼントです。 これは3月27日私の誕生日祝いに、色違いで5枚セットで贈ってくださったもの。感謝! エリコさんと七緒さんにも同じように書いてくれたあと、エルハン大佐はそれぞれ記念にツーショットを撮り、私には「来週また戦没者追悼式典があるので都合がついたらいらしてくださいね」と言って、最後に、ソーダの壜のふたで手品(!)を何回かやって見せてくれたあと、手を振りながらにこやかに去って行った。 メフテル・コンサート、チェティンさんがメフテル・バシュを務めました。 3人揃ってメフテル・コンサート観賞の記念写真 大佐のお陰でそのあとのコンサートもとても楽しく観賞出来、エリコさんと私はタキシム広場方面に、七緒さんは用事を思い出した、と言うのでハルビエの交差点で別れ、タキシム広場では4時半から5時少し過ぎまで、家で飲む感覚のいつもの店、トゥルンジュ・パンパンでエリコさんとビールを飲みながら話がはずんだのだった。 ******************** かくてエリコさんや七緒さんから送って来てくれた写真も借りて、その素敵なカリグラフィーを見せて貰うことが出来ました。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房)「チュクルジュマ猫会」海泡石のパイプやアクセサリーと、「宮古島月桃」の買える店 アントニーナ・アウグスタ
2017年07月13日
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【7月9日・日曜日】 トルコの野党第一党であるCHP(ジェー・へー・ペー 共和国民党)の党首ケマル・クルチダルオール氏の提唱で、6月15日朝、アンカラからスタートを切ったAdalet Yürüyüşü(正義の行進)は、7月9日、25日間で432キロメートルを踏破したクルチダルオール氏を先頭に、イスタンブール市アジア側のマルテペ・ミーティング会場に数万人の長い列となって元気に到着した。 クルチダルオール氏は、69歳の年齢や疲れをつゆほどにも感じさせない足取りで、最後の数百メートルを踏みしめ、会場の入り口に姿を現した。その様子を場内の巨大スクリーンが映し出す。万雷の拍手が沸き起こった。 彼と一緒にスタート地点のアンカラから、或いは途中の数多くの県内の町や村から、感動の思いに突き動かされ行進に参加した人々も含め、民衆は大河の流れのようになって、会場に続々と到着し始めた。 イスタンブール郊外のゲブゼから夕方出発した最後の数キロを、単身歩き始めたクルチダルオール氏アンカラからの429キロでは、CHPの支持者や新たに党首の勇気に感動した人々が取り巻いていた。集会場はまだ日の高い頃からこの行進を支持する人々が三々五々集まり、日が傾く頃にはほぼ満員。 マルテペ・ミーティング会場を埋め尽くした観衆、アンカラから延々と続いた大河の流れのような行進の参加者達をこうして声援するために待っています。 いままであまり公式の場に出たことのなかった夫人も連日少しずつ夫君と共に行進に参加、ついに終着駅、マルテペ・ミーティング会場に到達。舞台から待ちわびた支持者に挨拶。 クルチダルオール党首は、夫人と共に特設会場の舞台に上がり、しばらく会場の声援にこたえた後、演壇に立って、常と変らず粛然とした態度で、この歴史的な行進がどれほど国民の正義を求める声を拡大し、これほどまでの盛り上がりを見せたかを語り、国民の分断を防ぎ、正義を守ることがいかに大切であるかを述べた。 そして、もう、わが党は25日前のCHPではなく、トルコはもう、25日前のトルコではない、と力強く宣言した。この演説はいままで遠慮がちな人、謙虚である、というクルチダルオール氏のイメージも一新し、15年の長期政権を誇るAKPに対して一歩も譲らない、国民の求めている野党第一党党首の姿を強烈にアピールしたのだった。 これに対して、政権政党のAKP(アー・ケー・ペー、エルドアン大統領の率いる公正発展党)、野党第2政党のMHP(メー・へー・ペー 愛国者行動党、デヴレット・バフチェリ党首)は、この行進に非常に強い反発を示して、大統領も首相以下の閣僚も公的な場で演説を行うごとに、CHP党首クルチダルオール氏を痛烈に批判し続けた。 野党第3政党のHDP(ヘー・デー・ペー国民民主主義党 共同党首2名が、昨年のクーデター未遂事件以降、テロを支援した容疑で収監中)は、CHPを支援し行進に加担している。 マルテペ・ミーティング会場にはすでに、立錐の余地もなくアダーレット・ユルユシュへの賛同者が押し掛けており、イスタンブール県庁が所有するこの集会場は200万人以上収容出来るキャパシティを持っているのだそうだが、ほぼ会場の敷地を埋め尽くしていた。 翌朝の各局のTVニュースでは、トルコ国内各新聞の第1面のトップ記事を紹介するコーナーがあり、そこには、各新聞のイデオロギーの相違によって、その日のアダーレット・ユルユシュの記事の扱いがまるで違っていた。もちろん、政権政党AKPに近い新聞には、行進する大行列の写真はおろか、ミーティング会場の入場者についても触れず、「どこの国の話だ?」というムードがあった。 それでなくても、イスタンブール県庁の発表がまた、CHP支持者ばかりでなく一般市民を大いに笑わせた。AKPが同じ会場を使ったミーティングを開けば、たちどころに250万人が集結、と言う記事になるのだが、イスタンブール県庁は、このアダーレット・ユルユシュには「17万5千人」が参加した、と公表しているのである。一桁以上間違っていないか? 私の願いはただ一つ、政権政党と拮抗する力を持つ野党第1党が出現し、与党の独走を許さず、互いに切磋琢磨し、必要があれば共同戦線を張り、どちらも本当の意味の「国民のための党」になってほしい、と言うことだ。 どんなに目覚ましい活躍で政権を握っても、指導者が自分の周囲に耳に快いイエスマンばかりを侍らせれば、童話の「裸の王様」同様に、その政権は必ずや弱体化してしまうし、或いは悲劇に向かってまっしぐらに自滅することすらありうるのだ。希有の敏腕政治家エルドアン大統領の政権は、強い野党があってこそ本当の底力が発揮出来ると思うからである。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房)「チュクルジュマ猫会」海泡石のパイプやアクセサリーと、「宮古島月桃」の買える店 アントニーナ・アウグスタ
2017年07月09日
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【7月8日・土曜日】 福岡県では南部に位置する朝倉市とその周辺の山間地、更に県境を挟んで大分県の日田市など、1日の降雨量が1ヵ月分の1.5倍にも達したそうで、連日豪雨が続き、それでも6年前の豪雨の経験から、ある集落では前回床下浸水した家を基準に、同じ水位まで来たらすぐに避難すると申し合わせていたと言う。 警戒水位を超えそうになったところで、一斉に声を掛け合い、部落の全員が一番高台の家に避難、広いその家に一人暮らしだった老婦人が快くみんなを迎え入れ、誰も逃げ遅れた人はなく、自衛隊のヘリコプターに救出されるまで3~4日、持ち寄った食料を分け合って暮らした、という朗報もあるが、反対に降り続いた豪雨のために、地盤の緩んだ山が一気に崩壊して土砂崩れとなり、ふもとの村を倒木と濁流が埋め尽くしてたくさんの犠牲者を出した、などなど明暗が分かれた。 イスタンブールが涼しくなった4日以降、日本の台風3号は去ったが、梅雨前線の停滞が西日本の各地に豪雨をもたらし、その上に熊本では昨年の大地震とほぼ同じ地帯で震度5の地震も起こり、被災地の人には踏んだり蹴ったり。 鉄道や鉄橋が崩れ落ち、道路に大穴が開いて分断されるなど、ライフラインが断たれて孤立状態の村や部落がたくさん出現した。そうした事情で、ボランティアで集まってくれた人の数も今年は大幅に減り、人手不足でどうにもならないらしい。世界一の長寿国、というのもめでたいことだが、やはりそれはそれで問題も増す一方、と言う現実を実感した。 どうかこれ以上、雨が襲って来ませんように、夜遅くまで日本とトルコのテレビニュースにくぎ付けになって、おろおろして涙ぐんだり、自衛隊のヘリの活躍で、散り散りに逃げていた家族が再会出来た、と聞いては涙ぐむ日々だった。 ドローンかヘリコプターからの撮影で、地上に人間達と一緒に、犬らしい動物が歩いていたり、牧場の牛達が避難を終えた、と言うようなニュースには、「よかったねえ、牛がみんな助かったんだって」などと身近にいる猫達につい、話しかけてしまったりして、あ、もう朝の起床時刻まで3時間も残っていないことに気づいて、慌ててベッドにもぐり込むのが私の毎日の日課となった。 見るも恐ろしい光景、降りやまぬ雨は1週間も続き、震度5の地震すら起きた。Google画像より拝借 こうした日本の憂いとはまた別に、こちらのトルコ、イラク、シリアでは新しい展開を見ているが、イラクの、バグダッドに次ぐ大都市だったモスルを占拠するISが壊滅寸前とのニュースは、安心材料ではあるものの、街の中心部から郊外にかけて、すべて廃墟と化したモスルの姿は、目を覆いたくなるすさまじさで、戦争の恐ろしさ、愚かさをまざまざと見せつけている。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房)「チュクルジュマ猫会」海泡石のパイプやアクセサリーと、「宮古島月桃」の買える店 アントニーナ・アウグスタ
2017年07月08日
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(7月7日・金曜日) 昨年11月に、イスタンブール乗り換えでアゼルバイジャンに行く途中、長いトランジットがあるので家に立ち寄ったV子は、自分の寝室にある洋服ダンスの奥からその昔、気に入って買った小さなジジムの敷物を見つけた。このジジムにはたくさんの動物の絵が狭い枠の中にびっしりと描かれていた。 ※ ジジム(平織りのキリムの上に、別糸で刺繍してデザインやモチーフを描いたもの) 普段、寝室に猫は立ち入り禁止にしていても、すばしこいメス猫アルスとマヤちゃんはよく、さっと隙を見て娘の寝室に跳び込み、ベッドの下に潜り込んでしまうので、私が気づかない場合もあるし、戸が完全には閉まらない洋服ダンスの中で昼寝をしていることがあって、もちろん見れば追い出すのだが、たまたまV子が口の大きく開いた布バッグの中にあったジジムを見つけた時は、何ヵ所かがかなり虫食いになってしまっていた。 彼女は「あらあら~、この可愛いジジム、台無し~」と嘆いた。私は「あとで折りを見て、お母さんがキリムの修理屋さんに持って行って直して貰ってあげるよ」と約束し、取り出しやすいように整理ダンスの棚の一つに載せておいたのだった。 アルス(白黒)と今は亡きマヤちゃん(白三毛)はわが家切ってのおてんば娘。 V子お姉さんが帰ってしまうことを感じて、荷造りの邪魔をする猫達 それからほぼ1ヵ月ほどして、昨年12月下旬にフランスから来たサエコさんが、あるプロジェクトのための会議に来たのに、直前にそれがキャンセルとなって、その通知が彼女に届いていなかったため、予定通りイスタンブールに到着して初めてキャンセルを知り、途方に暮れた様子で私にその件を知らせて来たのだった。 私達はおととしの2015年夏、とある和食レストランで隣り合った席に座ったのと、彼女と同席していた2人のうち、日本人の男性が私も知り合いだったため、互いに挨拶を交わしたことがあった。 その後、1年ほど経った2016年の秋、サエコさんからFacebookの友達リクエストを貰い、「12月に会議があるのでイスタンブールに伺います。その際、ぜひもう一度お目にかかれましたら光栄です」と書かれてあったので、「私も喜んで」と約束していたのである。 しかし、彼女のその会議が突然キャンセルとなり、彼女のトルコ人の只一人の友人は遠隔地にいて出て来られず、イスタンブールで頼れる人は私だけになってしまったのだった。 私もサエコさんが単なるツーリストではなく、商業的なプロジェクトのために来ているのに、思いがけない直前キャンセル、しかもそれをトルコ人の友人も通知するのを忘れてしまっていた、と言うトルコにありがちな事件に巻き込まれようとしているのを気の毒に思った。 中には口のうまい下心のある人間もいるので、彼女が騙されないよう、自分でもわからない何かに突き動かされて、ちょうど娘のV子と同年輩のサエコさんをナザル(邪悪の視線)から守ってあげたい、という気持ちになり、到着の翌日から彼女の帰国まで、6日間ほど付き添い行動を共にしたのだった。 そのサエコさんに、トルコのキリムのデザインには、一つ一つ織り手の女性達の思いが込められた意味があるのだそうですよ、と言うと大いに興味をそそられた様子だったので、サエコさんを紹介するつもりでArapgirの店に行き、娘のV子のジジムを持って修理も頼んで来ることにした。 いつもヨーロッパ諸国や、マラティアのキリム産地などを回り歩いて、滅多に店にいないオーナーのニハットさんがちょうど居合わせて、私がサエコさんを、ヨーロッパで何をしている人か紹介し、キリムのモチーフについて、サエコさんに教えてやって頂けませんか、というと、ニハットさんも彼女の優雅な物腰、礼儀正しさににたいそう喜び、目を輝かして「いいですとも」と頷いた。 ニハットさんは事務室の書庫から分厚い1冊の学術書のようなキリムのカタログ大全を持って来て、英語で「ようこそ私どものところにおいで下さいました。加瀬さんの大事なお友達に、私からもこれをプレゼントさせて頂きます」とサエコさんに寄贈してくれたのだった。もちろん、サエコさんもええっと驚き、その本を抱きしめて喜んだ。 アラップギルの旧店舗のころ(12.2016) 左から私、ムスタファさん(初代社長)、ニハットさん(2代目、現社長、イスタンブール・キリム問屋会長)、ブラック君(息子)サエコさんの撮影 さて、そのときに預かって貰ったジジムは、正月にマヤちゃんを死なせてしまい、大雪が降ったり、不本意な忙しさが続いたりして、私もしばらく訪ねて行かれずにいるうちに修理が出来上がっており、先日偶然にArapgir キリム問屋が移転したばかりの店の前を、それとは知らず私が通りかかったので、ニハット社長の弟、ジュマリ君に「バヤン加瀬~」と呼びとめられて、思いがけない再会となったのだった。 その日は先を急いでいたので、後日ゆっくり貰いに来る約束をして、修理代を聞いたら、ニハットさんが「たいしたことじゃないよ、加瀬ハヌム、気にしないで。それより娘さんが喜んでくれるなら、それだけで十分です」と言う。 キリム修復師のサワッシュ・ウスタはこの上ない名人で、ジジムに幾つもあった虫食い部分がどこだったのか、全然見分けのつかないくらいきれいに直っていた。縁かがりも一層強く丈夫に結び直してくれてあった。 あいにく私のデジカメ、不具合で一部がぼけてしまいましたが、きれいなジジムになりました。 サワッシュ・ウスタはキリム修復の大名人、こころから感謝しています。 ********** ありがとうございました、ニハットさん、サワッシュ・ウスタ。今度トルコに来たときこのジジムを見たら、娘がさぞかし喜ぶことと思います。そして、あの12月の出会い以来、私を「お母さん」と呼ぶ人が、もうひとり増えたのです。6日間ずっと共に過ごし、帰国の日に私との別れに泣いてしまったサエコさんです。 私もV子に初めて会いに来た1992年のトルコ旅行が、一期一会の旅かもしれないと思って、帰国の日、空港で娘とガラス越しに見つめ合って、おおいに泣いたことを思い出しました。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房)「チュクルジュマ猫会」海泡石のパイプやアクセサリーと、「宮古島月桃」の買える店 アントニーナ・アウグスタ
2017年07月07日
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【7月4日・火曜日】 昨日まで朝10時になるかならずのうちにもう30℃を超える暑い日が続き、イスタンブールの最高気温は36℃くらい、地中海沿いのアンタルヤやアダナの辺りでは44℃、45℃というニュースも聞こえて来ていたのに、今朝目が覚めたら何だか涼しい。 台所の温度計がいきなり24℃に下がっており、小雨が降っていて柿の木や隣の保育園の向こう側の敷地にある桑の木がしっとり濡れていた。 非常に涼しくて、これなら少しサロンの本棚の整頓に取り掛かれるかと思ったが、午後1時からのNHKニュースを見たら、台風3号が九州に接近していて、朝鮮半島の方からは九州北部、西日本、中部、甲信越の方まで伸びて停滞している梅雨前線の影響で、大荒れの予想になっているとのこと。 特に九州北部に相当な豪雨警報が出ているとのことで、ニュース時間を延長してだいぶ不安な日本の気象情報が流されていた。トルコに来てから、日本にいた頃よりたくさんの知り合いや友人が増えて、そちら方面にも気がかりになる人々がたくさんいるので、私は何人かの友達に見舞いのメールを書いた。 台風が通過した後、Facebookのチャットで返事をくれた人もあり、日頃はご無沙汰していても、こういうソーシャル・ネットワークのお陰で無事かどうかも知ることが出来るので、文明の発達はたいしたものだ、とつくづく感心させられる。 イスタンブールの涼しさは当分続くと言う予報で、夜寝るにもたいそう楽になった。しかしながら、隣国イラクでは、ISの拠点として長年占領されていたバグダッドに続く大きな都市モスルの奪還作戦が最高潮に達しており、夜は夜でトルコのニュースをハラハラしながら見ているので、暑くても涼しくても、私がなんとなくいつも寝不足気味なのは治らない。 最近のタキシム広場、ゲジ公園に多少は樹木がありますが、広場は工事中で花壇を作ってもなぜか、すぐ片付けられるような、箱に植えられたものです。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房)「チュクルジュマ猫会」海泡石のパイプやアクセサリーと、「宮古島月桃」の買える店 アントニーナ・アウグスタ
2017年07月04日
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【7月3日・月曜日】 先月、インターネット接続のためにわが家に応援に来てくれたまり子さんは、このところ友人の会社に書類の整理のため、週に何度か手伝いに行っていると言うので、よかったら、会社の帰りに寄りませんか、そうめんでも茹でて冷やして食べましょう、と電話をかけた。 6時くらいまでにはお家に着きます、と言うことだったので、4時から5時頃にジハンギルまで上り、電話代の支払いや乗り物券イスタンブール・カードと携帯のカウント充填、タキシム病院の建設現場裏のきつい坂を上って、デジカメのメモリーチップも買いに行ったが、あいにくその店では現在扱っていない、とのことで空振りだった。 仕方なくまた坂を下り、フルーツジュースや野菜など、汗だくになりながら買ってきて、5時過ぎに夕飯の支度に取り掛かった。まり子さんの場合はイスラーム教徒でないので、食べ物に制限はなく、そうめんと共に貰った、既製品のつゆをそのまま使える。 そのつゆの入ったボトルは朝のうちから冷蔵庫に入れて冷やし、さらにモロッコいんげんを茹でたり、いま買ってきたオクラと新しいわけぎ、そしてミョウガなども刻んで薬味を作り、おろし生姜と赤カブを大根おろし風に擂り下ろして、まり子さんの登場に備えた。 6時を回ったので、どのあたりに来ているか電話してみると、彼女は電車やバスには乗らず、かなり距離のあるところを徒歩でわが家に向かっているのだそうで、今トプハーネの坂道(ボアズケセン通り)を上り始めたので、由美子さんのお宅には5分か10分後に行かれると思います、と言う返事。 ではそろそろそうめんを茹で始めてもいいかな、と思ったが、いや、やっぱり麺が細いだけに、早く茹でるとそれだけ早くノビてしまうし、ではお湯だけかけておこうか、と麺はまだ袋から出したまま、脇の方に置いて、鍋いっぱいの水に火を入れて彼女の来るのを待った。 ところが、最初に電話をしてから1時間近く経つと言うのに、7時を過ぎても彼女が家の下まで来た様子がない。変だねえ、と思いながら再び電話をかけて見た。「由美子さ~ん、今ジハンギルの階段のところまで来たのであと5分かそこらでお宅に着くと思います、すみません、ちょっと道を間違えたらしくて・・・」 ほどなく私は懐中電灯を持ってエレベーターで下に下りた。なぜ懐中電灯かと言うと、4階の廊下の電灯がまた切れてしまっているのだ。これはラマザンの最中からもう1ヵ月近く切れたままになっているのだが、ヨネッティジに電話して、電球一つのことで頼むのも悪いし、と思っているうちに下の階の電灯も切れてしまったらしく、2日ほど真っ暗だったが、誰が付け替えたのか、3日目には下の階の廊下の電灯は復旧していた。 まり子さんが到着する前に迎えに出よう、と私が玄関の扉の前に立ったのと、彼女がアパルトマンの扉の前にたどり着いたのが同時だった。 一緒にエレベーターに乗り、4階の廊下では懐中電灯で照らし、汗びっしょりのまり子さんのために、すぐに扇風機を回した。彼女はおそらく、うちのアパルトマンのあるチュクルジュマ通りより、たぶん、ひとつ手前の道を右に曲がって、先へ先へと進んだ結果、ジハンギルの街を脇の方から通り過ぎて、なんとドイツ総領事館のところに出たそうだ。(つまり、わが家の近くから突然反対方向にぐるりと回り込み、タキシム広場を過ぎたところに出たらしい) いわば2時間余りかかって、グランド・バザールの方から、ドイツ総領事館や旧日本総領事館のある、ギュムッシュスユのイノニュ通りに出てしまったことになる。もう少し下に下ると、ベシクタシュ・フットボール・チームの本拠地、イノニュ・スタジアムやドルマバフチェ宮殿に行ってしまうところだった。 何とも気の毒な話だが、扇風機にあたりっ放しでどうやら汗が引いてきた様子、ちょうどそうめんも茹であがったので、冷蔵庫の保冷剤を全部水桶に入れて、急速に冷やした結果、涼しげな食卓が整った。 まり子さんはとにかく冷たい水以外何も飲みたくない状態、私はビールを開けて乾杯し、互いにすっかり空腹状態に陥っていたので、冷たいそうめんがまた、格別に美味しく感じられた。 そうめんは氷の中で冷やし、上にも氷を載せて、舌がひんやりするほど冷えています。「にんべん」のつゆの素は非常に美味しく、3倍希釈、盛りだくさんの薬味はミョウガ、オクラ、ワケギのみじん切りと、下ろし生姜、下ろし赤カブなどなど、かまぼこも美味。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房)「チュクルジュマ猫会」海泡石のパイプやアクセサリーと、「宮古島月桃」の買える店 アントニーナ・アウグスタ
2017年07月03日
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【7月2日・日曜日】 今年のトルコのラマザンは、最後の断食が6月24日(土)の夕食までで解禁となった。イスタンブールはトルコの西端に近いため、午後8時43分くらいにイフタル(断食明け)のエザーンが朗唱され、長い30日の苦行に耐えた人々は普段より一段と品数も多く豪華な食事をあるいは家族で、或いは近所同士で寄り集まって団欒のひとときを過ごしたことだろう。 日曜の25日はバイラム初日で娘V子とホテルに泊まり、26日(月)は2日目でV子の土産の買い出しが忙しく、その夜もう彼女は家を離れ、帰国の途に就いたので、私はギュルセレンさん親子の家に招かれて、手作りのケーキやパンでチャイのもてなしをして貰った。 火曜日27日にメフテル・コンサートに行き、そのあと美保子さんとベシクタシュで落ち合い、対岸のウスキュダルに渡って、魚料理に舌鼓を打った。嬉しいことに美保子さんにご馳走になって帰って来たら、さすがにバイラム前からのいろいろな出来事の疲れが一挙に噴出、朝のNHKニュースを見ずに7時頃起きたが、やはりすぐに掃除の続きには取りかかれなかった。 私は朝のうちに、V子の土産の中にあった「ふっくら味付けいなり」を半分の8枚分だけ、炊きたてのご飯に「すしのこ」をまぶして詰め込んだ。これを作っておいたので、マイタケやミョウガを使った吸物を余分に作って2食分、、あとは納豆を1パックまるまるご飯に混ぜて、贅沢な納豆どんぶりを食べた。あとになって、作っておいてよかった~、と思うほど電話のやりとりで1日が潰れてしまったのだった。 味付けいなりを使って手軽な食事を用意。これは2食分です。 納豆と長芋のみじん切りを混ぜ込んであります。納豆どんぶり、大好物です。 東京のミチコ先生からも、私に報告のメールが来ていて、女子高生達を25日に成田空港に出迎えて連れ帰り、26,27日は自分の出勤に合わせて朝食後一緒に家を出て、2人に家からの道筋の目印や、駅で尋ねる時の日本語会話を伝授しながら、実地に切符を自分で買わせ、行きたいと言っていた新宿や池袋への出方を教えたりしているとのことだ。 私はミチコ先生に「ご報告ありがとうございました」と言ってすぐに電話をかけた。先生の家では、3日目の今朝は、朝食が出来たので声をかけたら生徒達は「もっと寝ていたいから朝ご飯は要りません。家の鍵を私達に下さい」と言うのだそうで、スペアキーを預け、先刻先生が学校から戻ったら、2人はゆっくり朝寝をした後、どこかへ出かけているようなのでいま、晩ご飯の支度をしているところですと言う話だった。 ところがそれから少し後になって、女子高生達の父親の1人、外国人のL氏が私に電話して来た。「子供達が言うには、先生が朝早くから私達を連れ出し、家を閉めきって鍵をくれず、私達を外に締め出して自分が帰るまで戻って来るな、と言っている。それに7月1日から2週間授業をキャンセルして、旅行に出ることにしたら、間で戻って来ても泊まる部屋はない、と言われた、どうしたらいいの?」と泣き出さんばかりの声で知らせて来たのだそうだ。 私もどうしてそんなことになったのか、信じられない思いでもう一度先生に電話してみると、先生の方でも、「着いた次の日とその次の日は、地理を知らないので間違いのないように2人を連れて朝少し早いけど家を出て、実地指導をしながら新宿とか浅草とか池袋の方面への道順を教えて送り出し、今日は鍵を2人に預けて、さっき戻って来たときに、玄関の棚の上の入れものに、帰ったらいつもここに戻しておいてね、と鍵を置く場所を教えました。 2週間の旅の計画をきちんと立てていないで、行き当たりばったりにあちらこちらに行こうとしているのを、親が容認して送り出しているわけで、私はそのことにむしろびっくりしました。前々から決めてあった日本語の授業のスケジュールを、子供達が勝手に来てからキャンセルするのにも驚いたし、とにかく、人の言うことを全然聞かないお嬢さん方なのです。こちらは至れり尽くせりでやっているつもりですが・・・」と言う。 これは、彼女達が出発前に「自分達の知っている日本語で十分通じると思う」と言っていたのに、実は日本語はこんちわ、さよなら程度しか知らないうえに、とにかく日本に来てしまうまでは、加瀬ハヌムと先生が相談して作った授業のスケジュールをおとなしく受け入れて、いざ行ったら「日本語の勉強はや~らない!」と言えばいいのよと内心は考えていた節がある。 私も先生には、とにかく人の話をよく聞かない点があることを前もって知らせてはおいた。待ち合わせのケーキ屋を電話で詳しく言ったにもかかわらず、途中の全然違うケーキ屋に、名前も確かめずに入ってそこでもう、ケーキをぱくついていたことも伝えておいた。成田では到着ロビーに出た時、先生が2人の名前を書いた紙を持って待っていてくれるから、そういう人をあなた方が探しなさい、と言ったのを忘れて、さっさと空港の外に出てしまい、先生に1時間も探させたと言う。 それに、先生との会話がスムーズにいかないのを、さもさも意地悪して鍵も預けてくれない、先生の留守には家を追い出す、などと親達に泣き付いたことも考えられる。それを証拠に、父親よりあとから娘の訴えを聞いた母親が激怒して、とても精神の正常な女性とは思えないような怒鳴り声で私をこの詐欺師め、裁判所に訴えてやる、(刑務所の中に)ぶち込んでやる、と言うすごさ。 4年も前からその家の家業に関し、友達のよしみで無償で通訳をして手伝ってあげた私にすら、いきなりわめき散らしたことを思えば、子供達が先生との意思の疎通が出来ないところを、まるで意地の悪い寄宿舎の寮母にいじめられているようなシチュェーションで、単細胞の母親に話したことも十分考えられる。 そのあと、私は自分の娘よりも年若い女に怒鳴り散らされて、憤懣やるかたないというより、世の中には大学を出ていても無教養な人間がいかに増えているかを実感して、心底やるせない気持ちがした。トルコ人だけでなく、トルコに来た日本人にはもっとひどい目に遭い、何度もうんざりさせられた私だが、まあ、こんなことも神様の試練だと思えば我慢出来ないことではない。 幸い、L氏は話せば分かる人物で、トルコ語も上手だった。彼には私がコーディネーターとして、先生と私の立てたスケジュールでOKしておきながら、現地に着いた途端に授業をキャンセルするとは、先生の都合も聞かずに子供達の一存で、大変失礼なことであるし、ミチコ先生は私の見つけ出した信頼の出来る人柄の教師で、この先生や間に入っている私を悪者にするなんて、恥ずかしいのは奥さんの方ですよ、奥さんと娘さんをよく説得して下さい、と言葉を尽くして彼に説明した。 その晩は、もう1人の生徒の父親H氏に、加瀬ハヌムの方から説明してやって下さい、とL氏に頼まれたので、その人の電話番号も聞いておき、夜かけて、丁寧に挨拶してから説得に入った。 相手も初めのうちは私を腹黒い女と警戒しているような声色だったが、私も出来るだけ丁寧に説明したので、だんだん真相を分かってくれて、最後には声も穏やかに、子供達の早とちりのせいでみんなが要らぬ心配をしてしまった、あなたに迷惑をかけたくはなかったが、勘弁して下さい、もし、私達に出来るお手伝いがあれば、なんなりと言って下さい」と言ってくれるまでに打ち解けた。 私は「ではお嬢さん方にどうぞ父親として言ってあげて下さい。ミチコ先生を尊敬し、信頼すること。自分達が何をしたいか、どこに行きたいか、いつ出かけていつ帰るか、ちゃんと先生に報告し、先生の言うことをよく聞くこと、不満なところがあれば、私達はこうしたいのですが、とその場で話しあって先生の意見を聞いて行動すること、そういう風にお父さんから説得して下さい」と頼んだ。 かくて、彼女達は親が決めた「新幹線で旅行するときは、必ず日帰りで戻れるところだけ行く。先生に現地から必ず何時頃家に着く」と連絡を入れる約束になった。外国人旅行者への優遇措置として、レールパス有効期間内であれば、新幹線には乗り放題なのだそうだ。 まあ、これがきっかけで雨降って地固まると思えば、目を吊り上げで怒鳴っている女をそんなに憎たらしく思わなくて済むし、「恥を知れ、恥を!」と叫んでいる奴に限って、もっとすごい恥知らずなのは、洋の東西を問わず、明白なことである。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房)「チュクルジュマ猫会」海泡石のパイプやアクセサリーと、「宮古島月桃」の買える店 アントニーナ・アウグスタ
2017年07月02日
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【7月1日・土曜日】 2017年の前半6ヵ月は、私の目には瞬く間に過ぎてしまったかのように、もう7月が始まってしまった。7月と言えば日本では山開きだの、海開きだのという行事も各地で催され、もう、真夏ということである。 うちのサロンの温度計が朝の10時頃にはもう、33℃という目盛に達していた。窓が開け放してある台所の温度計ですら34℃もある。全くの無風状態、この暑さをトルコ語では、「kavurcu sicakligi(カヴルジュ・スジャックルウ)」という。フライパンで物を炒めているような暑さを言い、むしろ熱さと書いた方がふさわしい。 バイラムの最終日(6月27日)にウスキュダルで魚料理をご馳走してくれた美保子さんが、以前長く勤めた古巣のエミニョニュに来ているのが分かったので、よかったら家で冷麦でも茹でてお昼一緒にしませんかと誘ったら、熱中症になりそうな空の下、はるばるおつまみとジュースを土産にわが家まで来てくれた。 この家で一緒に食事をするなど、おそらくもう、1年ぶり以上になる。先日うちの娘V子が、以前のように友人達と一緒に和食パーティが出来るように、とたくさん持って来てくれた食品やラーメン類などは、日本人向けなのでイスラーム教に改宗している美保子さんには、食べてはいけないラードや酵母や酵素入り製品が多いため、冷麦のつゆは私が作り、麺は充分冷やして気分だけでも涼しげに仕上げた。 掃除の途中だったので、料理を終わってスカーフを取ったら白髪頭がばれちゃった。 美保子さんが椅子に乗って上から写してくれました。トッピングには杏とキュウリとカニカマ、薬味には長芋の千六本、ミョウガとわけぎのみじん切り、トルコで柚子胡椒ってお洒落でしょ。 丼の中の冷たい水に氷で冷やした冷麦を浮かべました。既製品のつゆにはハラーム(タブー)の食材も入っているので私が事前に作っておきました。本日、ボケないで写っていたのはたった1枚、これだけでした。 家には一応扇風機がある。10年以上前に買ったものである。私は夏でもほとんど使わないので、今は古びてきたが、それを回しながら夕方まで、美保子さんとあれこれ四方山話で盛り上がった。 古くてもさすがに扇風機、回せばこの蒸し暑さも我慢出来る。幸い猫達も毛皮を脱ぎたいほどの暑さに参っていて、あちらこちらで長く伸びているのでおとなしい。 話が怒鳴り込み女のことになると、トルコ人のことは私以上に詳しい美保子さんが断然話のイニシアティブを握る。ほ~ら、だから言ったでしょう、という顔になった。「いつも人の世話はもうやめる、もうやめると言いながら何年経ちました? 今度こそ本当にやめるときですよ。しょっちゅうこんな目に遭っているのにまだ懲りないんだから、加瀬さんたら」「懲りてないわけじゃないのよ、でもまた頼まれると嫌と言えずになんだかんだと手伝ってしまうのよ、いつの間にか」 美保子さんや幾人かの友人は「加瀬さん、駄目よ。加瀬さんは親切心でやってあげても、中には利用するだけのつもりで近づいて来る人もいるんだから、よくよく用心しないと」と、常に私に警告してくれる。 老いては子に従えの諺どおり、私も若い人からの忠告には耳を傾けよう。 6時を回った頃、美保子さんが立ち上がった。「さ~あ、うちのボリスも散歩に連れて行けと言うでしょうから、そろそろお暇しますね~」 まだ日は高いが、いくらか木々の枝がそよぐようになり、やや涼しくなってきた。台所でどんぶりや皿小鉢を手早く洗い、荷物を持って美保子さんは出て行った。 暑い中を来てくれてありがとう、美保子さん。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房)「チュクルジュマ猫会」海泡石のパイプやアクセサリーと、「宮古島月桃」の買える店 アントニーナ・アウグスタ
2017年07月01日
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【6月30日・金曜日】 トルコでは、土産物店の店先に大小様々な、デザインもいろいろ工夫された、ガラス細工の「ナザル・ボンジュウ」というお守りがたくさん売られている。 トルコに初めて旅行した人は、「なに、これ?」とびっくりするくらいたくさん店先に吊るされていたり、箱にたくさん入って1個1リラとか、2リラという安い値段で売っていたりする。もちろん、大きくて、ハンドメイドで何百リラと言う高級品もある。 これは、地中海世界に大昔から根付いた土着の信仰で、起源については諸説あるが、イスラーム教、キリスト教など特に宗派に関係なく、現在はトルコで一番普及し、ナザル・ボンジュウは魔よけのお守りとして知られている。 「ナザル」というのは、人間の怨念、嫉妬、侮辱、優越感、他人が幸福になるのを許せない感情、そういう人間のエゴイズムを象徴する「邪悪の視線」のことであり、その悪魔の視線を撥ね返すのが、正義の青い目で、これをナザル・ボンジュウという。 トルコではガラス細工のビーズなどをボンジュックと言い、トルコ語の法則で名詞が二つ続くと、あとの名詞に目的格がついて、語尾が変化するため、ボンジュウとなるが、これが「ナザル対策のビーズ玉」という意味である。 私の娘がトルコに初めての旅行をしたときに、トルコ土産として色々なものを買って来てくれたが、その中の一つにこれがあった。レース糸で編んだ紐の部分を入れると長さが30センチくらい、ボンジュックの直径がおよそ12~3センチあったかと思うが、日本の神社仏閣で売られている魔除けのお札とは全く異質のものだった。 宗教を問わず持ち主を守ってくれるとのことなので、おもちゃのようではあるが、それ以来ナザル・ボンジュウが気に入り、最近はデザインにもいろいろ工夫がなされており、土産物としての売り上げも上々らしいので喜ばしいことだと考えていた。 ナザル・ボンジュウを木の枝に沢山かけて、願懸け、それとも売り物? カッパドキアにて しかし好事魔多し、自分のブログでもさんざん書いてきたように、2015年後半から、首都アンカラやイスタンブールなどの大都市で、繰り返し繰り返し、軍人やポリスだけでなく、無辜の市民を巻き込んで何十人単位の殺戮を行うテロ集団の暗躍が顕著になり、日本人はおろか、世界中からトルコに集まっていたツーリスト・グループの足がピタリと止まってしまった。今はまさに、トルコをたくさんのナザルが取り囲んでいる時代なのだ。 実は私にも、しばらく前から不快なことがたくさん続いている。親切心のつもりで、他人には真似の出来ないほどのお世話をした相手が、私を与し易しと侮っているのか、恩知らず、と言ってやりたいくらい牙を剥いて来ることが多くなり、うちの元カプジュ夫婦なんかもその最たるものなのだが、本日またしても、巨大なナザルが私に襲いかかって来たような出来事があった。 午後のひととき、とある知り合いの女性から電話がかかって来て、普段とは違う冷ややかな声で「由美子ハヌム、ナッスルスヌス(ご機嫌いかが)?」と聞いた。私はいつものように笑顔で「イイイム。ヤ、シズ(上々ですよ。で、あなたは)?」と答えた途端、彼女は突然声を荒らげ叫んだのだった。「バナ、バク(おい、こっちを向け)!」と怒鳴り、「うちの子供らをどこへやったんだ~っ!!」」と、携帯を押しつけていた耳がびりびりするほどの金切り声で叫んだ。 なに、それ? 無知・無教養の極みであるうちの元カプジュの悪徳女房とまったく同じ調子で、この女性は私には一言も口を開く隙を与えず、数分間わめき続けた。 まあ、世の中には「このハゲ~ッ、わかってんのか~っ」などと運転中の政策秘書氏を蹴っ飛ばしたり殴ったりした、ハーバード大学出身の国会議員もいることだから、今私に怒鳴っている女性がアメリカの大学を卒業した人だとしても、驚くにはあたらない。 私もいわれなき彼女の罵詈雑言をおとなしく聞いているつもりはない。ボタンを押して電話を切り、怒り狂ったように続けさまに何度もかけて来るのでもう電話には出ず、その夫に掛けて事の顛末を彼に話した。 すると夫のいわく、「や~あ、加瀬ハヌムは20年以上もトルコに住んでいるから、トルコの女が一旦わめきだしたら誰も止められないのはご存知でしょう。私もそれで18年以上、苦労してますよ、はっはっはっ」 アメリカ留学中に同じ大学で知り合った同士で、妻はトルコ人、自分は外国人である夫は苦笑した。 彼は私に「うちの女房からまた電話が来ても、出なくて結構です。私から言い聞かせます」と約束し、私も夫のL氏とだけ通信すると約束して電話を切った。 ふと自分の携帯を見ると、何とまあ、いくらコールしても話し中なので、業を煮やしたくだんの女性、合計24通ものSMS(ショート・メール)を送りつけて来ていた。全部これ、私を罵倒する激しい、テレビ映画なら「ピーッ」とか「ブーッ」とか放送禁止用語を消す音が入りそうな言葉遣いの連続で私を罵り、「デュンヤ・パラス(地球の重さほどの大金)を取りながら、子供達に何と言う仕打ちをしたんだ、良心と言うものがあんたにはないのか、腹黒女め、これ以上娘が一つでもクレームを言ったら、弁護士を呼んでお前らを2人とも裁判に訴えてやる、人でなし~!」 冗談じゃあないよ、この3年がかりの長い長い留学計画、日本の学校や先生方とどうやら話を付けるとキャンセルとなり、今回はやっと実現にこぎつけたが、一人分250ドルお礼に貰っただけで(通訳として働くたった1日分だ)、地球の重さほどの大金、などと言われたくないぞ。 夫妻の娘とその同級生が日本語を習いに行きたい、学生の身なので、どこかにホームステイしながら1ヵ月、イスタンブールの学校で習った会話を上達させたい、という触れ込みで私に先生とホームステイ先を探してと、実は2014年から頼まれて、2015年用にいろいろ手配した後で、やっぱり費用がかかるから今回は見送ると言うことでキャンセルになってしまった。 2016年にもかなり話を進めたところで6月にイスタンブールの市内と、アタテュルク空港で連続して大きなテロがあってキャンセル、しかもおまけにクーデター未遂まで起こってしまったため、この話は白紙に戻す、ということになったのだった。 昨年10月、やはり2人でどうしても行きたい、2週間だけでもお世話してと、女子高生本人から持ちかけてきたので、2週間で受け入れてくれる学校はないし、私の友人ミチコ先生の個人授業とその家に安い費用でホームステイさせて貰うことに話をつけたところで、2月に親子喧嘩をしたそうで、もうやめた、と私がやっとまとめた仕事をまたまたキャンセルされてしまった。 いい加減にしてよね、親から頼まれ、知り合いだから単なる好意で一銭たりとも貰わずに、時差を考えて早朝から最初は都内の日本語学校のY先生や3年間トルコで教えていたミチコ先生とメールや電話でやり取りしてやっと決めたのに。 2月下旬、母親から「由美子ハヌム、申し訳ありません。急にキャンセルして済みませんでした。実は娘達が本当は日本にどうしても行きたいと言っています。娘の失礼は親の私が謝ります、娘がお詫びのメールを書くと言っていますので、由美子ハヌム、もう一度先生と話を繋げて下さい」と実に常識的なお母さんらしいお詫びの電話をかけてきたのである。 その親ごころにほだされ、日本とトルコの関係が希薄になりつつあるときに、そういう留学希望者がいることは貴重なことだ、ぜひかなえさせてやりたい、三度目の正直と思ってまた仲介する気になったのだった。 娘当人からもお詫びのメールが来て、今度は1ヵ月の予定で新規にスケジュールを組んでほしい、との頼みだった。ミチコ先生に月~金の週5日、毎日2時間ずつ、4週間で40時間のカリキュラムを新たに組んで、経費を試算して貰った。これをトルコ語に直し、双方の親達に伝え、金額にOKが出たので、私も今回こそは労多くして益少なしどころか、東京への電話代など自分の持ち出しも多いので、少しだけでもコーディネーターフィーを貰うことにした。 女子高生達には、土・日は授業がないので東京見物や、買い物、アニメ映画などが楽しめるし、週末を利用して新幹線で京都・大阪・奈良などを見物出来ることも知らせ、外国人優遇パスがあると言うことも伝えた。 こういうことをすべてトルコ語に直してこと細かく相手に伝え、彼女らの希望を先生に伝えるにはトルコ語から日本語に直す。ずっと誠意と責任感だけで動いている私の働きからすれば、250ドルなんて、デュンヤ・パラスどころではなく、スズメの涙でしかないのに、大げさによく言うよ。 受け入れる先生の方は、親達や、仲介をした私からの大事な預かり物の子供達に何かあってはいけないと、成田までの行きと帰りの送迎や、最初と2日目の朝、勤めている学校の授業があるので、朝少し早目だが、一緒に出て駅への行き方、切符の買い方、どの路線がどこへ行く、などの実地指導を兼ねて連れ出し、新宿とか上野などへの道を教えてから行かせたのだが、家にいさせたくないから外で時間を潰させた、と母親は激怒したらしい。 しかし、先生が学校で授業のある日は、女子高生達の授業は夜、と初めから取り決めてあるのだから、家から追い出した、とは言えないだろうし、それを、ペンションなら、子供達が何時に起きようが、一日中家にいて寝ていようが起きていようが、子供達の勝手じゃないか、と母親が憤激しているのだ。「自分の留守の日は家にいさせないって、どういう意味だ、うちの子が泥棒だと言うのか、金だけ取って自分の都合で追い出すのか」と、トチ狂ってかんかんに怒りにまかせて怒鳴り散らす母親は、自分の子供達が、東京で先生の家に着いた途端に、授業はキャンセルしたい、新幹線で旅行とか東京近郊に自由に出かけられるようにしたい、と身勝手なことを言い出したのを知らないのだろう。 子供達が道に迷わないように、危険な目に遭わないように、とホームステイさせているのだから、私塾とその寄宿舎に入った生徒には、先生は同時に寮母さんでもあり、門限を設けるのは当たり前ではないのか。母親が怒ることは何一つあるまい。 私も自分の貴重な時間を、こんなことを言われるために費やしているんじゃないぞ、疲労困憊の時でも遅くまでかかって双方のメールをそれぞれの言葉に訳して交換する、我が身をすり減らしてやっと女生徒達をミチコ先生に引き継いだのに、その母親からいきなり詐欺女みたいな悪口を叩かれ、ナザルが障ったどころではなく、相手の尊厳も何も考えずに怒鳴り散らして、裁判に訴えてやる、とまで口汚く罵るのだ。彼女のどこにそんな権利があるのだろう。******************* この事件は子供のいいつけ口を鵜呑みにした母親の誤解と、日本語の先生に日本語の授業を受ける、という約束でその家に泊めて貰う話が成立したのに、行った途端に授業をキャンセルするという、世間知らずというより、無鉄砲な子供達と、そんなことをするなら親が止めなくてはいけないのに、先生や仲介した私を悪玉にするなんて、子供以上に親が大間違いを犯しているのである。 ただ、そのあとの2日間、つまり7月1日と2日の日曜日、私はミチコ先生とも何度も電話で話をし、2人の女生徒のそれぞれの父親にも落ち着いて話をし、よく私の話を聞いて納得して貰い、7月1日以降の旅行に際しても、お父さん達から説得されて必ず日帰りで先生の家に帰ることに決まったそうだ。 最初に広島に行き、広島と言うから原爆ドームにでも行ったのか、と思ったら、瀬戸内海の因島に行ったらしい。そのあとは京都に2回出かけ、日帰りなので、そうそうあちこち観光も出来ないため、帰宅すると次の日は疲労回復に昼まで寝て、午後から映画を見に行ったり商店街に出かけて一日旅行を休み、次の日また京都に行ったりしたらしい。 レールパスが14日まで有効なので、あと3回くらいどこかに出かけるつもりになっていて、先生にも、出先から今どこそこです、これから帰ります、と電話を入れるようになったと言う。先生もやはり12時過ぎになっても寝ずに帰るまで待っていたと言う。(7月8日・ミチコ先生の談) さて、好意や親切心だけで何かを手伝ってくれた相手を軽んじて、次第に見下すようになって攻撃する人、この頃はたくさんいます。 私はまた格別、クズ鉄がいっぱいひっついて来る強力マグネットのように、そういうメンドクサイ人をたくさん集めてしまっているような気がします。 親切すぎても駄目なのよ、加瀬さん、といつも周囲の若い友人に言われて、分かっているのに頼まれると断れない性格なのです。ナザルはもしかするとすぐそばにいるかもしれません。注意が必要です。 私は1週間経ってもあの母親にまだ腹立たしい気がする、というのが本音です。事情も訊こうとせず、あれだけ怒鳴って罵り倒して、あとで自分の誤解だったと分かったとき、恥ずかしくないんでしょうか。つけまつげの長いのつけて、眼をぱちぱちさせて謝ったって知らないからね、もう。 私はいくら怒鳴られたって基本的には平気です。身に覚えのないことで怖がる理由はありませんもの。ねえ、タマオさん? 猫の手でも借りたいときに、いつもそばにいてくれるタマオさん、お兄さんだねえ。台所の掃除をする前に写真を撮ったため、戸棚が滅茶苦茶ですみません。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房)「チュクルジュマ猫会」海泡石のパイプやアクセサリーと、「宮古島月桃」の買える店 アントニーナ・アウグスタ
2017年06月30日
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【6月27日・火曜日】 今年もトルコ旅行に来て、友人とあちこち回った後、日本に帰る前のたった1泊2日、V子が風のように家に来て風のように去って行ったが、その慌ただしいバイラムの2日間が終わり、いよいよ今日がバイラム最後の日である。 だいたい私のバイラムは、普段出来ない、というか、やれない、あるいはやらない掃除をして、それも中途半端に出来上がらないまま、またどうしようもないテンポの日常生活に戻る、というのがほとんどだった。 3日続きで晴天だし、バイラムにはメフテル・コンサートに行きたい、と前夜から考えていたので、まずはいつものように早く起きて、息子の贈り物の新しいパソコンを開いた。娘に教わった手順で、なんとかgmailのページを開いた。息子にこのパソコンから礼状を送るつもりで操作を忘れないうちに試してみたかったのだ。 gmailは画面の右端にメールを書き込む窓が10センチ四方くらいに開き、そこにあて名と本文を書き込んで行くのだが、ようやくメールのアカウントに到達出来て、ああ、よかった、これで息子に礼状を書ける、と思っているうちにこの窓がくるくる大きさが変わり、一、二度あれっ、字が大きくなったな、と思ったら、今度はだんだん小さくなってしまい、最後は窓が切手くらいの大きさに縮み、今書いたものなど全然読めなくなった。 やっと「送信」だと思われる、これまた極小の小さな青い点をクリックしたが、画面はそれで消えてしまったため、果たして日本に届いたのかどうかわからない。仕方なく新パソコンはいったん閉じ、現在のNEC製品の使いなれたパソコンをまた取り出した。 いつも通りの手順でネットを始めて見ると、Facebookのメッセンジャー欄に、5月初旬に婚約者エフェ君と共に、私を訪問してくれたマキコさんからの依頼が入っていた。彼女が支援しているNPO法人の一つが、トルコが受け入れたシリア難民の婦人達で組織している、とある手芸グループ。 彼女達は手製小物を作って販売し、この利益で避難民への生活支援を続けている。この指導者が日本女性なのだそうだ。彼女の活動に深く心を打たれたマキコさんは、トルコに住むようになったら、自分も率先してその活動に身を投じる覚悟でいる。 そして、彼女が私に情報を知らせてほしい、と頼んでいるのは、刺繍を簡便な方法で仕上げるための必須アイテムで、チャコぺーパーという日本製の小さな品であるが、これがイスタンブールの手芸店などで購入出来るかどうか、ということを私に調べて教えてほしい、とのこと。 私は、本日は真っ先にエミニョニュの一角にあるタフタカレの街を歩き、自分の必要な旧型の携帯電話のチャージ・ケーブルや、家事と猫のために使うビニール袋を問屋から買いたい用事もあるので、そのあと、手工芸品の問屋が軒並み並んでいるアラジャハマム通りという専門店街に行ってみるつもりで11時少し前に家を出た。 ところが、さすがにバイラムなのでどこもかしこも休み、まずはエジプシャン・バザールの大門がしっかりと閉まっており、その脇の通りは買い物客で賑わっていたが、エミニョニュの奥のタフタカレ、アラジャハマム通りも、幾つかのおもちゃ屋、菓子屋などは開いていたが、問屋街はどこもシャッターを下ろし、森閑としていた。 普段は日曜日も営業しているエジプシャン・バザールも3日間お休みです。 タフタカレの通りは食料品関連の店があるのでかなり開いていたが・・・ あっちの通りも・・・シャッター商店街 こっちの通りも・・・みんなみんなシャッター商店街 エミニョニュでは、エジプシャン・バザール前から地下道で、金角湾のほとりに出ます。 これではバイラムが明けてから出直してくるしかないと思ったが、私は幸い1軒の電気製品の店で、チャージ・ケーブルだけは手に入れて、11時過ぎにエミニョニュに着いてからずっと、1時過ぎまで歩き通しでさすがに疲れてもいたので、次なる軍事博物館へのルートに移動した。 ガラタ橋のそばの、サバサンド船の隣にあるバスターミナルに行った。そこから乗れば、軍事博物館の前を通るバスがいくらでもあるのだった。さすがにそのあたりはバイラムで繰り出した人々で賑わっていた。 ターミナルの脇にズィンダン・ハンという、オスマン朝時代からの商館があり、かつてはその入り口階のロクム・バクラヴァ、その他種々の土産物店に美保子さんが働いていたので、出先からの帰りによく寄ったものだった。 懐かしくなって、彼女はどうしているのかな、と電話をかけて見たが応答はなかった。そのあとバスに乗り、出発までの間にメフテル軍楽隊のキョスゼン(大太鼓奏者)、シェラフェッティンさんに電話してみると、昨日と今日は出演なので、今ちょうどアジア側から送迎バスで軍事博物館に向かっているのだそうだ。 昨日のうちに電話で話したのだが、バイラム初日のおとといの日曜日はコンサートも休みで、普段は休館日の月・火の2日間にバイラム・コンサートを行い、明日水曜日は、毎年行っているボスナ・ヘルセク(ボスニア・ヘルツェゴビナ)に演奏旅行に行くのだそうだ。 シェラフェッティンさんは実力ナンバーワンの堂々たるウスタ・キョスゼン(花形大太鼓奏者)であるが、2015年、2016年と不運にも、自分を始め父親、母親、奥さんと代わる代わる病魔に襲われ、入院、手術、通院、一人が治れば次は別な家族が、というように2年に渡って病院と縁が切れず、外国への演奏旅行に全く行かれなかった。 この度のボスニア行きは、2年振り以上の久々の国外遠征である。きっと今日は張り切っていいパフォーマンスを見せてくれるに違いない。エミニョニュのカメラ屋が開いていたら、デジカメのメモリーチップを買うつもりでいたのに、そこも休みだったので、以前の画像を消して使わないと写真がもう何枚も撮れない状態だった。 2時少し前に軍事博物館に到着、電話をしてみるとシェラフェッティンさんはもう博物館に着いていて、いつもお茶をする軍事博物館のカフェテリアまで来てくれると言う。そこにちょうど美保子さんから電話がかかって来た。「さっきはメトロに乗っていたので聞こえませんでした、済みません。私は3時くらいにベシクタシュ(ヨーロッパ側の港)で買い物をするので、それが済めばあとはフリーだけど、加瀬さんはどこにいるの?」「今ね、ちょうど軍事博物館に来たところなの。これからコンサートを見て、4時少し前に終わるからそのあと私もフリーよ。じゃあ、4時半くらいまでに軍事博物館のそばのドルムシュ乗り場からベシクタシュの船着き場に行くからそこで会わない?」 たちまちにしてデートすることになった。まもなくカフェテリアにシェラフェッティンさんが来て、奥の休憩室でアイスティーとケーキをご馳走になり、彼が舞台に出るために着替えに行くまで30分ほど、歓談することが出来た。 シェラフェッティンさんとお喋りしながらケーキを食べアイスティーを飲む。 私がシェラフェッティンさんの舞台を見るのは、3月29日に誕生日より2日遅れで、友人の由加さんと香織さんと共にメフテル・コンサートに行った時以来、ほぼ3ヵ月ぶりである。私はシェラフェッティンさんの「オルド・マルシュ(軍隊行進曲)」別名ジェッディン・デデンの演奏の時の、右手の撥の空中大回転を撮影したいと思っていた。 しかし、メモリーチップの残りポーズ数がもういくらもないので、舞台が始まる前に2分半ほどのオルド・マルシュを動画で撮影出来るようにしておかなくてはならなかった。2時半になったので、シェラフェッティンさんと別れのあいさつを交わし、彼が着替えのために一足先にカフェテリアを出た後、私は15分ほどかけて懸命に千何百枚と収まっている写真を見直し始めた。 実はこのところ、いつもこんな調子でなかなか新しいチップが買えずにいたので、昨年11月初旬以来連日撮り続けてきた写真の、大多数は何度も見て残してきたものなので、どれを消そうか、消すまいか、と決断までに何秒も考えたりしてしまい、続きはコンサート・サロンに移動してからにしようと私もカフェを出て本館に入場した。 切符売り場の職員さん達にお久しぶりですね、と言われながら会場にせっせと急いだ。廊下を飛ぶように歩いて行ったら、今日は中庭に旗持ちの兵隊さん達が大勢出ていたので、これはきっとバイラムなので58人くらいのフルメンバーで、中庭からの入場行進付きだというのが分かった。 コンサート会場の観覧席にはまだほとんど入場者がおらず、私はシェラフェッティンさんの右手のパフォーマンスがよく写せるように、舞台に向かって右側の前から2列目の右端に座り、汗をぬぐってからまたデジカメを取り出して、もう消してもいいか、と思われる写真を消し始めた。 3時、場内が暗くなり、メフテル軍楽隊を紹介する12分の映画が始まった。3時13分には場内にパッとライトが点いて、正面の壁がするすると左に動き出し、庭の向こうで軍楽隊が整列しているのが見えた。 私はかなりの写真を消したので、シェラフェッティンさんの動画も撮れる、と思っていたが、入場行進の写真も2~3枚入れておこうと望遠で行進曲に乗って動き出したメフテル軍楽隊にカメラを向けた。 ジャンジャジャジャジャン、と勇ましくメフテル軍楽隊がコンサート会場に入場します。 シェラフェッティンさんは花形大太鼓奏者、でも全曲打ちっぱなしなので重労働です。 チェヴゲンレル(コーラス隊)と、今日のチョルバジュ・バシュはハサン・フュセインさん 今日のメフテル・バシュのチェティンさん(デニズ少佐の副官) ところが、何たることか、画面に乾電池がもう残り少ないとの警告表示が出てしまったのだった。なんとか、最後に近い頃演奏されるオルド・マルシュまで持たせようと、途中では余り写さないように心がけたのに、いよいよ次はオルド・マルシュが来るな、と、モードを動画にして、本日のメフテル・バシュ、チェティン曹長の声に注意していたのに、いざ、シェラフェッティンさんにズームを合わせたら、画面中央に真っ赤な、空っぽの乾電池のアイコンが出て来て、シャッターを押した途端、シューッと画面が消えてしまった。 うっそ~~~ !! シェラフェッティンさんは、いつも以上に張り切ってオルド・マルシュの要所要所で右手を高く上げ、大きく旋回させて見せてくれたが、カメラがしぼんでしまったので、なにも写せなかったのよね。 涙、涙) 4時15分前にコンサートは終わり、私はがっかりしながらも美保子さんと会えるので気を取り直し、ハルビエのバス停のそばにあるドルムシュ乗り場に向かった。いくらも待たないうちに満席となり、ドルムシュ(満員になった)は出発した。美保子さんに電話を入れ、4時15分か20分頃にはベシクタシュの船着き場に行けそうなので、よかったら一緒に船でウスキュダルに渡って、魚でも食べて早目の夕飯にしようよ、と告げた。 美保子さんと会うのも、1月下旬に遅い新年会をエブルの美樹さんの家で開いた時以来である。市営の連絡船より小型の民営の連絡船、モトールでウスキュダルに渡った。いま彼女はウスキュダルに住んでおり、エブルの美樹さんの家も、美樹さんの家に同居している美由紀さんもみなウスキュダル住まいである。 ウスキュダルの波止場周辺はバイラム最後の日なので港も街中も人出が多く混雑していた。時刻が早いせいもあり、魚屋さんの経営するレストランはまだ空いていて、ゆっくりと魚スープから始まり、タキシム広場周辺の魚レストランからするとずっとリーズナブルなお値段で、しかも味は誠に美味しいので楽しくあれこれ食べた。 折角の美保子さんとの晩餐、しばらく休ませたので私のドジカメ(カメラが悪いのではなく、ドジは私だけど)、少しは写せるかな、と試しに美保子さんに向けて見たら、1枚だけ写せたが、それにも真っ赤な空っぽの乾電池が出て、カメラはうんともすんとも言わなくなった。 昼過ぎから余りにも以前の写真を再生しては消しながら、延々とバッテリーを使ってしまったので、肝心の時に空き容量は増えても、バッテリーが無くなり、写真が撮れなかったのである。でも、美保子さんの写真はきれいに撮れた。私と料理の写真はすべて美保子さんが写してくれたものである。 カメラを休ませたら、ちょっとだけバッテリーに力が戻り、美保子さんをパチリ! 私のカメラは再び危篤状態、美保子さんのスマホで写して貰いました。 チョルバ(スープ)がとても美味しい店です。 サルダリア(イワシの一種)の揚げものと、サーモンのウズガラ(網焼き) なかなかの豪華版、さすがバイラム最後の日の晩餐です。それに今夜は美保子さんにすべてご馳走になってしまいました。バイラム、バンザイ、美保子さん、どうもありがとう! madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房)「チュクルジュマ猫会」海泡石のパイプやアクセサリーと、「宮古島月桃」の買える店 アントニーナ・アウグスタ
2017年06月27日
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【6月26日・月曜日】 8時頃から2人で交替に風呂に入り、洗髪もしてからホテルの屋上にある朝食サロンで、気持ちよく風の吹き抜けるテラスの日陰に席を取り、ゆっくりと朝食を取った。 「お母さん、髪の毛中途半端な長さで鬱陶しそうだから、美容院に行ってカットして来ない? 去年みたいなボブカットがお母さんには一番似合っていると思うけど。染めるにも洗うにも簡単でいいし・・・」「そうだね。でもバイラムだから、商店ならともかくサービス業は休みかもしれないよ」 11時頃、レセプションに「12時のチェックアウトまでには戻ります」と声をかけて2人でジハンギルの街に出た。思った通り、ジハンギルには美容院がたくさんあるが、どこもお休み。私はせっかくこのあたりに来たのだから、昔馴染みの肉屋さんやジハンギル・タクシーのヤズハーネ(事務所)に寄ってみようよ」と勧めた。 泊まったホテルの屋上で、爽やかな風の中の朝食。娘が着ていたブラウスを置いて行ってくれました。 1990年のイラク・クウェートの湾岸戦争が終わった頃からV子が住み始めたジハンギルには、まだ日本人の若い女の子など余りいなかったので、珍しがられ、V子にはたくさんの知り合いがいた。丘のてっぺんにあるタキシム広場からは、放射状に幾つもの通りが下り坂を構成しており、チュクルジュマは、イスティクラール通りからも、スラセルビレル通りからも擂り鉢の中に下りるように、坂の勾配が半端ではない。 だからこそ、海に面した断崖の上にあるイスタンブールの街の景色が絶景と言われる所以なのだが、人口1400万と言われるイスタンブールは、夏場は人口が半減すると言われるくらい閑散としている。 肉屋のシェヴケットおじさんも、ジハンギル・タクシーのアリ・カルタルおじさんも、昔馴染みの運転手さん達も、V子、V子と満面に笑みをたたえて迎え入れてくれた。肉屋さんは職場のトルコ人同僚のために、キョフテ(肉団子)の香辛料を5つほど買ったら、お金はいいよ、いいよと言い、ジハンギル・タクシーの詰め所では、淹れたての美味しいチャイやバクラヴァを振る舞ってくれた。 やっぱり、昔馴染みの人達っていいよね、とV子は言った。1988年7月、ファーティヒ・スルタン・メフメット大橋の開通式で、彼女が初めて訪れた29年前のトルコは、街のたたずまいこそ今よりずっと貧しい雰囲気だったが、その分、人々は今のように隙あらば、というような顔つきはしていなかったし、誰もが相手思いだったような気がする、と改めて言うのだった。私も同感だ。 もと私達が住んでいたジハンギルのアカルス通りでは、数メートルごとに知り合いと出会った。ホテルに戻って荷物をまとめ、チェックアウトするV子と私は二手に分かれ、私はスーパーに立ち寄って野菜と洗剤などを調達、家に戻って水フィルター掃除機の中を洗ったり、奥の寝室にV子の荷づくりに必要な段ボールなどを準備しておいた。 ほどなくホテルから荷物を積んでタクシーで戻ってきた娘と2人で、買い置きしてあったビールを出して、煎餅をつまみに乾杯し、1時間ばかりゆっくりした後、V子は最後の買い物にジハンギルへの坂を上って行った。 土産に頼まれたチーズやバターなどの乳製品を最後のぎりぎりの時刻に買いに行ったので、私はその間に夕飯の支度をした。11月に来た時に、私の炊飯器がいい加減古くなっているので、新しいものを買って来てくれたのだが、私がまだ古い方に暇を出すのをもったいながって使っていなかったために、急遽家を出る前に自分でセットして、あきた小町を1合仕掛けておいてくれた。 T子さんの土産のイワシのゴマ煮、V子の土産の横浜シュウマイを温め、インスタントスープなどで手軽に夕食を作り、V子がまた4本入りセットのビールを買ってきたのでそれを開け、前夜の屋上テラスの豪華レストランもいいが、やっぱり家で食べるのが一番落ち着く、と晩餐でビールも進み、楽しく語り合った。 娘との最後の晩餐。T子さんとV子の土産からおかずを並べ、ビールをたくさん飲みました。 夜10時に家を出るまで、新しいパソコンを立ち上げ、初期設定がやった通りに機能するかどうか確かめて貰った。最後にもう一度シャワーを浴びて娘は荷づくりの終わった小型スーツケース2個と段ボール1箱を入り口の手前に並べると、そこにはすぐに3匹の猫が丸まってちゃっかりと乗り、V子が出て行くのを分かっている様子だった。 次第に別れの時刻は迫ってきた。ブラウスを取り替え、麦わら帽子と脱いだブラウスを私に置いて行った。10時半に私がジハンギル・タクシーを頼み、猫達の頭を順に撫でてV子は廊下に出た。私もすぐそれに続き、アパルトマンの前に出るとほどなくタクシーが到着、娘は年に一度の夏季休暇に、いつも通り、風のように来て風のように去って行った。 ちょうど同じ時に、向かいのギュルセレンさんの家からも、市内の別な地区に住んでいる次男のアーディルさんとアゼルバイジャンから来た嫁さんが出て来て、坂を下り始めた。タクシーを見送ってアパルトマンの扉の内側に入ると、ギュルセレンさんが私に何か言っているので、「家に行ってから電話するわね」とジェスチャーで見せて、私はエレベーターに乗った。 片付けた食器類を猫に落とされないようシンクの中に全部入れて、ギュルセレンさんに電話してみると、ギュルセレンさんは私にお茶に来ないかと誘ってくれたのだった。「マダム、よかったら家へ来ませんか。今日、息子夫婦が来ていたので、お嬢さんと一緒にお招きしたいと思っていたけど、V子さんはもう帰る時刻だったのね」 私は即座に呼ばれて行く気になって「まあ、何もお土産に出来るものがないんだけど、手ぶらでいいかしら?」と言った。 5分後には着のみ着のままでギュルセレンさんの家のダイニングキッチンで、山のように彼女の焼いたケーキの並んだテーブルに私も座っていた。猫にボロボロにされて、膝の突き抜けた七分丈の白いパンタロン姿である。「こんな恰好のままで失礼」と私が言うと、「あら、マダム、いいじゃない。今の若い人はみんな擦り切れたGパンを穿くのが流行よ、すごくモダンで若い人を負かしてるわ」とギュルセレンさんが答えたので、娘のブケットさんと3人で大笑いした。 今日は下の階のブラック・ウスタ夫婦が出かけていていないのだそうで、ギュルセレンさんとブケットさん、バイラムの挨拶に母親と姉に会いに来たアーディルさん夫婦にとっても平和なひとときが過ごせたらしい。 ブケットさんが冷蔵庫からきれいなフルーツケーキを取り出した。6月24日が彼女の誕生日だったのだそうだが、バイラムになるので弟のアーディルさんが、26日にケーキを持って行くから、バイラムも兼ねて一緒にお祝いしようと、今日の午後、嫁さんと訪ねて来てくれたのだそうだ。 その頃、V子が買い物に行くときに、「お母さん、何か食べたいものがあったら買って来るよ、何が欲しい?」と言ったので、じゃあ、ショートケーキか、ドンドゥルマ(アイスクリーム)をデザートに頼むよ」と言ったのだが、余りにたくさん買い物をして来たので、ケーキもアイスクリームもケロリと忘れてしまったそうな。 夕方食べそこなったものを、今ここでご馳走になれるとは! 時刻は12時をまわろうとしている。最後にもう1杯チャイを注いで貰って、それを飲み終わったところで、暇乞いをした。 いい具合にまだブラック・ウスタ夫婦は帰って来ていないようだ。ギュルセレンさんが私の明日のおやつに、とたくさん手作りのパンやケーキを包み、ブケットさんが明日のお楽しみに、ともう一切れフルーツケーキを持たせてくれたので、けっこうな荷物になり、ブケットさんが先に立ってそれらを持ち、階段を懐中電灯で照らして玄関で待っていてくれた。ウスタが母親と姉への嫌がらせに、もう何年も前に2階の階段の電源を壊してしまったのである。 私が靴を履いているとV子の日本の携帯から電話が入り、無事に搭乗口の待合室に入ったので、心配しないように、と言う。ギュルセレンさんのところでご馳走になったことを言うと、午後買い物に行く時にギュルセレンさんの家の玄関前で出会い、抱き合って久々の再会の挨拶を交わしたのだそうだ。 時計を見ると12時半、1時間後くらいに飛行機は離陸するのだろう。ギュルセレンさんは郷里で看病していたお母さんが3月半ばに亡くなり、後始末をした後、3月末にはイスタンブールに戻って来て、また向かいで暮らすことになったので、V子も少し安心したようだ。 私のバイラム2日目はこのように、前日に続いて慌ただしく終わった。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房)「チュクルジュマ猫会」海泡石のパイプやアクセサリーと、「宮古島月桃」の買える店 アントニーナ・アウグスタ
2017年06月26日
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【6月25日・日曜日】 先週18日(日)の朝イスタンブールに到着したばかりで、3つの段ボール箱のうち1つが紛失、というハプニングはあったものの、一旦、野菜や生ものなど賞味期限の早く来るものを冷蔵庫に収めるために、V子はT子さんと一緒に家にやってきた。その間に幸い紛失した荷物が見つかったとの知らせもあり、朝9時過ぎには2人が次のフライトのため再び空港に行くので、ジハンギル・タクシーを呼んだ。 私も一緒に乗って行き、消えた荷物の中のV子の着替え以外は台所用品と乾き物ばかり入っていたのでこれを預かり、タクシー代の往復分をV子が払っておいてくれたので、空港の外の空き地で待ってくれていた昔馴染みの運転手、アリ・シャーヒンカヤさんと共に家に戻ってきた。 もう5~6年前から、空港への海岸通りでは、大規模な湾岸工事が施行されていたが、昨年暮れの、ボスポラス海峡にかかる第三の橋「ヤウス・スルタン・セリム大橋」とほぼ同じ頃に開通した、アヴラスィヤ(ユーラシア)・トンネルは、通行料はやや高いと言われているが(乗用車・タクシーで18,5リラ程度)、第一、第二大橋の渋滞で橋を渡りきるまでに2時間もかかることを考えると、急ぎの人にはたいそう便利になった。 イエニカプ・フェリーボート乗り場も周辺がすっかり片付き、工事期間中のトタン板に張り巡らされた迷路のような道を思うと、海の眺めも戻ってきてすっきりしているし、トルコもやっぱり開発途上国ではなく、先進国と肩を並べようとしているのを感じるが、実は観光事業の落ち込みで、経済はどんどん下降線をたどっており、バイラムと言っても昔のように国民を小躍りさせるような希望は見当たらない、というのが本音である。 25日はバイラムの初日だが、V子達はその日の午後、イスタンブールに戻ってくる。それまでの間に、ほぼ1週間の余裕があるので、サロンと寝室の掃除を予定していたが、月曜日から急に目も開いていない、産み落とされたばかりの子猫2匹の世話を引き受けてしまい、自分の仕事の予定に大きな誤算が生じてしまった。 放っておいたら死んでしまう、と思い、いや、生まれたばかりに母猫の初乳を付けて貰えなかった猫は、どう手を尽くしてやっても所詮死ぬときは死んでしまうのだ、ということに思い至らず、自分が世話してやればなんとかなる、と思うことすら尊大、不遜の極みかもしれない。神様がこの猫に定めた運命が変えられるわけでもないのに。 結局、タローが可愛かった分、悲しみは深く、疲労困憊状態もまったく癒えないうちにもう、娘達はジョージアの名所を見て回り、22日にはまた空路トルコに戻って地中海沿いのカシュに泊まり、翌朝定期船で沖合のメイス島へ日帰りツアーで、ギリシャ旅行も楽しめたと言う。 その夜はアンタルヤに一泊、25日昼時の国内線で2人はイスタンブールに戻った。V子の場合、職場のトルコ人友達にいつも段ボール一杯のシミット(浮輪型のゴマパン)や、エリッキという青いスモモ、ペイニール(チーズ)、トルコ料理用のバハラット(香辛料)、ビールのおつまみになるクルミ、レヴレビィーやピーナッツなどの豆類、ヒマワリの種などを山のように買って帰るので、ジハンギルのスーパーでT子さんと買い物をし、夜は見晴らしのいいレストランに行き3人で別れの晩餐を、という予定だそうだ。 6時から2時間半ほど、イスティクラール通りのイスタンブル360という、絶景レストランにV子が予約を入れて、私とは現地集合ということにし、スーパーで買った土産物のビニール袋を両手に4つも提げて一度家に置きに来た彼女は、T子さんを迎えに一足先に家を出た。 私はイスティクラール通りの後ろ側に当たる、トゥルナジュバシュ・ソカウ(ソカク=ジャッデより細い裏通り、わき道)から、ガラタサライ広場に出た。するとさすがにバイラムで、市民がたくさんイスティクラール通りに繰り出していたが、わき道から車がイスティクラール通りを通り抜けられないようにしてあり、脇道の角に警察官が大勢警備のために立ち番をしており、荷物をたくさん持っている人などには身体検査をしていた。 V子達は、タキシム広場のそばにあるホテルからすぐわきの道を通りぬけようとしたら、物々しい警察官の群れがいるので驚いたらしい。もちろん、2013年の5月に発生したゲジ公園騒動を想わせる装甲車「TOMA」も要所要所に配備されているので、私などはすっかり慣れっこになっているのかもしれないが、やはり、これほど夥しい警官の数を普段見たこともない日本からの客は、トルコをよく知るV子ですら、不気味なものを感じてしまったようである。 ガラタサライ広場のすぐそばにあるムスル・アパルトマンの屋上。レストランの右隣りがイタリアのサン・アントワン教会。鐘楼の向こうに金角湾の入り口が見えます。 少しズームして見てみると、世界遺産イスタンブール歴史地区のトプカプ宮殿、アヤ・イリーニ、アヤソフィア博物館、そしてブルーモスクなどが見えます。 景色が素晴らしいのは頷けるが、たまたまそそっかしいのか、新米なのか、ガルソンがあまり店内でのサービスに関する教育や訓練を受けていないな、と思うことばかり。 そのレストランのシェフの料理姿勢の傾向だとすれば仕方ないが、日本食の素材を生かした作り方とは正反対で、大きな牛のピルゾラ(スペアリブ)肉を固まりごとオーブンで焼き、濃いソースで味はいいのだが、肉はもう、これ以上柔らかくならないのかな。 ビールはどんな種類があるか、ガルソンに聞くと、たちどころに6~7種類をあげた。エフェスはないと言うので、トゥボルグを所望すると、カールなんとかしかないとのこと。じゃあ、なんでそれしかない、と最初から言わないのだ、しかもとてもぬる~いのが出た。 パンと薄焼きのゴマパンが出ました。これはまあ、そこそこでした。 春巻き。ちょっと揚がり過ぎで、皮がばりんばりん。上あごに突き刺さりそう。 キプロスの焼くチーズとトマトのカナッペ。まあ、これは軽くていいですが・・・ ナスのカルヌ・ヤルーク。これはまずまず美味しく出来ていました。 スペアリブのロースト、私が歳をとったせい? この肉が固くて食べるのが大変でした。 石鯛の身の中に、ナッツやチーズや色々混ぜて、葡萄の葉で巻いたムニエル!!! もう一つのメインディッシュは石鯛とその他もろもろを豆や野菜を混ぜて葡萄の葉でくるんだ蒸し焼き風で、何やら味の基礎的コンセプトがよく分からない。娘に私の分の大半を引き受けて貰ったが、やっぱり彼女にも不味かったらしく残してしまった。 8時半を過ぎたのでお開きにしたが、イスティクラール通りやタキシム広場をそのまま歩くことに、2人とも不安を感じると言うので、途中から横道に入り、イスティクラール通り寄り、やや低い地点を通り、スラセルビレル通りに出て、タキシム広場を目指して坂を上って行った。 わき道から車は通行止め、大人数や大荷物の人は身体検査されています。 T子さんのスーツケース2個はあいにく1つの方のベルトが壊れてしまっていたとのことなので、V子がロープを買いに出て行った。10時半にジハンギル・タクシーの車を呼んであり、ロープでしっかり縛ったキャリアーと、もともとベルト不要のやや小型のキャリアーを持ったT子さんと、私達も抱き合って別れを告げ、手を振って別れた。 猫のいないところでゆっくりお喋りでもしよう、と言っていたのに、娘の方もハードスケジュールだったせいか、クィーンサイズのベッドに転がって、ジョージアやギリシャ旅行の写真を見せてくれていたが、たいして話もしないうちにV子自身が早くも沈没してしまった。 ところがあとから寝た私の方が熟睡してしまったようで、時々目が覚めると、閉めた筈の部屋のカーテンが開いているのに気付いた。でもそのときは娘が寝ているのでまた私も寝てしまうのだが、真夜中の1時2時に、タキシム広場でデモ行進や歌声集会みたいなものが始まり、私は白河夜船でV子が目覚め、ホテルからは目と鼻の先なので不安に感じ、ミニバーのビールを飲みながらバルコニーに顔を出して、タキシム広場の様子を伺っていたのだそうである。 つづく madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房)「チュクルジュマ猫会」海泡石のパイプやアクセサリーと、「宮古島月桃」の買える店 アントニーナ・アウグスタ
2017年06月25日
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【6月25日・日曜日】 昨日は最後の断食の日、8時43分くらいにイスタンブールが断食明けの時刻となるので、ずっと断食を守ってきた敬虔なイスラーム教徒にとっては嬉しい夜である。 今年は最後の頃にちょうど夏至(6月21日)があったので、イフタルの時刻も8時47分くらいまで遅くなったものだが、また少しずつ戻ったようだ。 私は娘のV子と友人T子さんからのお土産を整理しないうちに、子猫のタローとシマちゃんを預かってしまったし、そのほか用事が山のようにあって、とうとう、明日の午後一番でもうイスタンブールに戻ってくると言うときまで、これらを分別して片付けることが出来なかった。 それに、うちの猫達は、盛大な抜け毛の季節を迎えている。ようやくサロンに掃除機をかけたものの、次の朝もうテーブルの下に毛玉が飛んでいる始末。 それでもやっと、二つの冷蔵庫の中に手当たり次第入れてあった生ものや野菜を、賞味期限ぎりぎりの物を手前にして、野菜なども順番に収めた。また米やうどん、そうめんとインスタントラーメン等の干麺など、更に缶詰、乾き物の類は箱や段ボールに別々に納め、開かずの間になっている寝室を掃除したらそちらに収納するつもりである。 昨日の夕方娘が電話をかけてきた。23日にジョージアから戻り、アンタルヤ県のカシュに泊まり、今朝からメイス島というギリシャ領の島に定期船で日帰りの旅をし、これからバスで5時間のアンタルヤ市に向かうのだそうだ。 「お母さん、明日は午後家に一度荷物を置きに戻るけど、T子さんと私達一緒に夕食を街で食べて、彼女はそのまま日本に帰るの。その部屋は一晩予約してあるので、明日の晩はお母さんと私が泊まって、何もしないでごろごろ寝転がってお喋りでもしようよ。だから、無理して明日の朝までにうちの大掃除なんかしなくていいよ」 「分かった~っ、助かる!」 すごいや、ラッキー。 うちの娘は近年特に掃除が不得手になった母親を見て、「まったくも~う」と思っているかもしれないが、決して口には出さない。家にいても絶えず猫の世話と、メールやFacebookのメッセンジャーから頼みこまれるもろもろの相談事などがあるたび、私が放ったらかしにしないで、いちいち返事を書いて対処しているのを知っているため、怠けていて掃除が出来ないわけでないことを理解し、文句を言わずにいてくれるのである。 それで夕べは「今日は早目に寝ます」などとFacebookに書き込んで、珍しく9時台に横になった。 いや~、よく寝た。5時間くらいぐっすり寝たようで、夢も見なかった。今朝は3時台に目が覚めて、この1週間、どうにも返事の書けなかった人への返信を書いたり、今朝の1時50分発の飛行機で日本に向かった例の女子高生2人に、以前エスコートをお願いした日本の友人にも便りを書いて再度お願いした。 そして食事は思い切り手を抜いて、夕べはぺヤング・インスタント焼きそば、今朝はまた赤いきつねなどで手軽に済ませ、台所から表通りに吹き抜けるそよ風と、チュクルジュマ通りの少しだけ見える真っ青な空を見て、さすがバイラム!と嬉しくなった。 バイラム晴れ、あるいはバイラム日和という言葉がトルコにはあるのだが、まさにそのバイラム晴れだった。 チュクルジュマの狭い空でも真っ青です。今年はわが家の上の階でも蔦が繁茂中。 家中で一番猫にやられてふんづぐんづ(滅茶苦茶)だったソファの周囲もやっと回復生活支援物資は「お母さん、バイラムだから久々にお友達を呼んで和食女子会やれば」と、かなり多めに持って来てくれたようです。無芸大食の母を持つ子供は苦労する さきほど、朝、人々を起こしに来るダヴルジュ(太鼓叩き屋)が、寄付金集めに大挙してやってきました。通りで雷のような音を立てているので驚いた家の猫達 このアパルトマンでも上の階も下の階も、バイラムだから昨日の朝からもう家にはいなかった。夜中まで遠慮なく掃除の出来る絶好のシチュエーションなのだが、今夜はホテル泊というので、えい、もうチマチマ身を粉にして掃除をするのはやめた! 娘公認で怠けてしまおう、と思いながら、それでもなお掃除機を手にしたり、ぞうきんを絞ったり、その途中で猫の砂を掬ったり、けっこう、怠けられずにいる私。 いよいよオンタイムのブログがアップ出来る、と思っていたら、娘から電話があり、いまタクシーで市内に向かっている、ホテルに荷物を預けて、2人で日本への土産品を買いに出るので、4時頃自分だけ家に戻ります、という。 わあっ、もっと時間に余裕が出来た、じゃあ、寝室もあと少しは片付けられそう。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房)「チュクルジュマ猫会」海泡石のパイプやアクセサリーと、「宮古島月桃」の買える店 アントニーナ・アウグスタ
2017年06月25日
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【6月23日・金曜日】 動物の命は時には生まれ落ちてすぐに、「この子は生きられない」と母親が判断した場合は、目も開かないうちにすぐにその母親により、殺処分されたり(母親が食べてしまう)、置き去りにされたりして命を落とす。その、自然の掟に背いて、母猫が見捨てた子猫を、私ごときが育てよう、としたことは不遜な振る舞いなのかもしれない。 20日の夜、生後24時間足らずのタローの妹シマちゃんも預かり、21日は午後から夕方6時くらいまで家を留守にしたが、家に戻って来た時、どちらもまだ元気に見えた。 水で薄め、温めた牛乳を3時間おきに脱脂綿に含ませ、子猫達を養っていたが、預かったとき、体温がひどく低下していたシマちゃんは下痢を発症して一気に弱り、電気あんかと吸水パッドで暖かな寝床に、タオルをかけてタローと並べて寝かせていたが、22日の明け方、私がうとうとした間にタオルの中から這い出してしまい、タローが余りに鳴くので目を覚ましたら、すでにシマちゃんはプラスチック桶の隅っこで、儚くなってしまっていた。 それに比べてタローのほうはずっと元気だからきっと成長出来るかも、と思ったのも束の間、互いに襟巻のように巻きついて眠っていた妹を失ってショックだったのか、ずっと寂しげに鳴き続けて、私も胸が痛んだ。しかし、おとといスーパーで粉ミルクを買おうとしたら人間の赤ちゃん専用なので、一番小さい箱でも1ヵ月分、もちろん値段もすごく張る。 私は仕方なく、オーガニックの牛乳を買い直して与えたが、タローもシマちゃんと同じように下痢が始まり、重湯を炊いて飲ませたらどうか、ということに思い至らなかったために弱って、相次いで死なれたしまったのだった。 22日の深夜、一度タローが危篤状態に陥った。私が瀕死の子猫を手のひらに包み、唇を寄せて絶え間なく、温かい息を胸やお腹に吹きかけ、身体を温めようとさすり続けたので、その時は元気な鳴き声を取り戻した。しかし今朝の明け方4時から10時頃まで実に6時間近く、ベッドの縁に腰掛けて、タローを温め続けたが、次第に弱ってきたタローは、もう呼びかけてもあまり返事をしなくなり、ときどきあくびするように口を開けた。 たった4日であの世に去って行こうとしているタロー、私は明け方から、タローをまた懐に入れて抱いていたので、肌着がひどいことになってしまったが、タローの方はこれほどの下痢なら、きっと腹痛がひどいのではないか、と可哀想でならなかった。胸とお腹をさすってやると、口を開けてミ~というので、いじらしくて私も必死に「タローや、ほら、元気を出しな」と励まし続けた。 母猫が見捨てた猫を、育て上げられるわけはない、とよく分かっていても、元気者だったタローを見たら、なんとかしてやりたい、とつい養育を引きうけてしまった。死ぬのが分かっているのに、子猫を貰って来て毎日寝不足でぼんやりしながら、3時間おきの授乳もちゃんとやってきた。 この4日間、うちの7匹の猫達も、お母さんが奥の寝室で何か秘密のことをやっている、やっぱり猫関係らしい、と分かってくれたのか、実におとなしかったのが不思議である。 シマちゃんを亡くしたあとでも、タローは元気だったのですが・・・ たっぷりミルクを飲んだ後(22日)。もう2~3日で目が開くと楽しみにしていました。 流れ星になる1時間くらい前。呼ぶとかすかに返事をしてその都度口を開きました。 タロー、シマちゃん、ちゃんと育ててあげられなくてごめんね。何でも頼まれると引き受けてしまうのがお母さんの悪いくせだね。だけど、可愛らしい思い出をたくさん残してくれてありがとう。 天国で幸せに暮らしなよ。さようなら。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房)「チュクルジュマ猫会」海泡石のパイプやアクセサリーと、「宮古島月桃」の買える店 アントニーナ・アウグスタ
2017年06月23日
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【6月21日・水曜日】 20日の晩、母猫マミーは産後の疲れはいくらか回復した様子で、店の床にのんびりと香箱座りしていたが、最後に生まれたシマちゃんも、最初に産んだタローのことも寄せつけようとせず、子猫達を近づけると鼻にしわを寄せてカッと口を開いて牙を見せた。添い寝などさせられない、噛み殺されてしまうかもしれない。母猫は自分が授乳する前に、他者の手が触れた子猫を、噛み殺して食べてしまうこともある、と言われている。 10時過ぎに2匹とも胸に入れて連れ帰ったあと、ミルクを薄めて新たに沸かし、たっぷり飲ませて、その次は朝4時過ぎ。シマちゃんは私が訪ねた時、既に体温が相当低くなってしまっており、ずっと胸に入れていたのだが、絶対蘇生させられる、とも言い切れなかった。 温かな猫の寝床に兄妹は寄り添って眠り、タオルでこんもりとトンネルのように作ってやると、そこに2匹とも頭を突っ込んで、ご機嫌よく寄り添って寝ていたが、朝8時過ぎにまた新しいミルクを拵え飲ませた。 可愛い兄妹。向こう側がタロー、シマちゃんもまだ元気に見えました。 その後風呂に入り髪を洗い、洗濯物を久々に台所の窓の外のロープに干した。今日はまり子さんと会い、お昼を食べながら二つ三つ話題があるので、相談することになっているし、私はその前に先週修理を頼んだトートバッグを受け取りにグランド・バザールに近いベヤズィット駅のそばにある、バッグ・袋ものの専門店が入居しているジェンティルメン・ハン(商館)に行くことにしていた。 家を出るとき、5月初旬に雅紀子さんが訪ねて来てくれた時、青空に騙されて肌がけ布団などを干したまま出かけたら、4時前後に一天にわかにかき曇りものすごい雷雨にやられて、帰宅後洗い直しの憂き目に遭った時のことが頭に浮かんだ。 急いで家に戻り洗濯物を全部室内ハンガーに移し、約束の時間に遅れないようジハンギル・タクシーを頼んだ。ボアズケセン通りに出たら、何台も車が立ち往生しており、みんなラマザンで朝2時頃にサフルと言う断食前の朝食を済ませてから、もう10時間も何も口にしていないので、イライラしてやたらにクラクションを鳴らすのだった。 こんな狭い道で駐車2列。1車線しか開いていない、ボアズケセン通りの中ほどでトラックが向きを変えようと10分以上も道を塞いでしまったのでみんなイライラ もとよりちょっとごつい感じではありますが、修理代100リラ、それに、今日のラマザン・ピデは私からと10リラを置いたらウスタがご機嫌でした。 狭い通りの片側1車線は2列になって駐車場化しており、狭い道に工事用の大型車が平気で進入、向きを変えようと前後の車を遮ってしまっているのだった。そこで15分くらい損をして、ガラタ橋を渡ってすぐのエミニョニュで下ろして貰い、トラムワイに乗り換えた。 まり子さんに電話して、チェンベルリタシュ駅のホームで待ち合わせとなった。私のバッグはもとのものより頑丈そうに直っていた。そこからグランド・バザールのメインストリートを抜け、スルタンアフメットの旧友達の店、ヨリュックに寄ってまり子さんを紹介、歩き疲れたのでしばらく休ませて貰い、冷たい飲み物をご馳走になった。 そのあと、近くのメデューサ・レストランに入り、前菜セットと店の自慢料理メデューサ・ケバブを頼んで、非常に美味しい料理が出たので、仲良く半分ずつ食べ、割り勘で払って2軒ほど知り合いの店により、5時過ぎにタクシーで家に向かった。 前菜盛り合わせ。とても美味しいものばかり。うん、これを選んで正解! ダナーと七面鳥のステーキ、お店のスペシャルだとのこと。いいお味でした。 家に置いてきたチビ猫どものミルクの時間が過ぎている。まり子さんは買い物をしてから帰ると言って、エミニョニュで降りた。帰宅すると同時に7匹の猫達が腹ペコでドアの前に集まっていたので、大急ぎでサーモンの缶詰を7等分してやり、チビ猫には新しくミルクを作った。 兄と妹が寄り添っていたとはいえ、シマちゃんの体はやや小さく、やはり体温が低く感じられた。私は授乳後またシマちゃんを懐に入れ、坂を上ってジハンギルに向かった。 今度の日曜日の早朝1時50分、日本に旅立つ女子高生2人が、シシリーのHIS社に外国人旅行者を優遇するレールパスを買いにきたが、道に迷ったと私に場所を訊いてきた。まだ訪問先にいたので、私は彼女達に、帰りにタキシム広場に出て、ジハンギルの交差点まで来てくれれば、旅行者用の日本地図(裏面は観光地の大都市の市街地図になっているものを2人にプレゼント出来るので、出発前に会いましょう、と言っておいたのだった。 汗だくで坂とそれに続く階段を上って行き、ジハンギル交差点の右角にあるエルヴァン・パスターネシで出会いましょう、と約束したので、エルヴァンを覗いてみると、彼女達らしい人はいなかった。「もしもし、どこのパスターネにいるの?」「はい、歩いていたら左側にパスターネがあったのでもう座っています」「なんていうパスターネ?」「え~と、サヴォイです」「そこ、交差点じゃないでしょ。あと100メートルくらい下まで降りるんだけど」「えーっ、ここじゃないんですか」「エルヴァン・パスターネシって言ったはずだけど・・・まあいいわ、私がそこまで上がって行くから。少し待っててね」「は~い」 女子高生達は小腹が空いていたのか、ケーキを食べていた。2階に上がり、広いテーブルのある席に着き、まずは2013年1月に、沖縄の宮古島で拾い集めた真っ白なサンゴのかけらから、形のいいものを選んで2人にほぼ同じ大きさのものをプレゼントし、かなり大きな日本全図と、裏面には大都市の市街図が、外人向けにローマ字表記されているものを手渡した。去年かおととしの、娘が日本に観光に来るトルコ人の友達にあげて、と持参してきたものだ。 ネットで詳しく見ることは出来ても、広げて全体を一目で見ることの出来る昔ながらの地図は方角も一目瞭然で、旅行者必携であり、2人は大いに喜んだ。 外国人旅行者用のお買い得新幹線切符の買えるレール・パス。後ろは2人に1枚ずつあげた日本地図。役に立ててください。 2週間物のレールパスも手に入れ、7月1日から14日までの2週間でどんな風に回る予定なのか、聞いてみた。 東京から京都、奈良、大阪、姫路、広島、そして島根県から隠岐の島諸島をめぐり、白石・蔵王に行くのだそうだ。あと、2人とも富士山を近くから見て、氷の洞窟や青木ヶ原に行きたいと言うのだった。 「えええ? 青木ヶ原? あそこは止めておいた方がいいわ。あそこは昔から自殺したい人が集まるところで、死んだ人の恨みのこもったミステリーゾーンと言われているし、知らず知らず引き寄せられて二度と外に出られなくなるんだってよ。白骨死体がごろごろしているって聞いたことがあるけど。それに富士山の山麓とか氷の洞窟なんて、冬山の登山くらいの重装備で行かなくてはならないの、知ってる?」 青木ヶ原。日本の観光に行く初心者の言葉とも思えない。隠岐の島諸島にフェリーで渡る、というのもすごい。それとも私の認識が古いだけで、今はルンルン気分で行かれる所になったのかいな・・・ ほぼ30日間の日本滞在での、レールパス以外の交通費や、外食費、お小遣いなど含めて、予算は10万円という。私は最初、単に日本語習得のための留学だと言うので、ミチコ先生に頼んで先生宅に下宿、カリキュラムとして48時間分の個人授業を2人で受ける、という前提で、コーディネートしたのだが、全然こちらが考えた風にはならなかった。 土壇場で授業をキャンセル、戻ってくるお金も旅行代に計上しているらしく、私1人がじりじりしていただけらしいので、今後はこういう話は引き受けたくないなあ、と思った。 店を出るとき、彼女らのケーキ代もまとめて払い、近くのスーパーで蜂蜜やクノールのトルコスープの素を5種類ほど買い、私からの先生への土産として彼女達に託した。 家に戻って、今朝早く書いていたブログの続きを書いてアップデートし、胸で温めたシマちゃんとタローにスーパーで買ってきた混ぜ物のない牛乳で作った新しいミルクを拵え、2匹に飲ませて寝かせ、10時過ぎから少しだけでも本棚の拭き掃除をしようとしたら、あらら、さっきまで出ていた水道が止まってしまっている。 え~っ、イスタンブールの水道局にはいつもおちょくられている。私は拭き掃除は諦め、ミチコ先生宛にメールを書き始めた。午前1時、NHKの朝の放送が終わったので、NHKworldにチャンネルを変えたら、なんと偶然にも青木ヶ原のリポート。 ミチコ先生へのメールの最後にも青木ヶ原のことを書いて送信した。 4時くらいにタローの鳴き声で目が覚めた。お腹をすかしたのかな、と起き上がって見ると、タオルの下に並んで寝ていたはずのシマちゃんが、寝床の端にあおむけに伸びており、ハッとして抱き上げてみるとまだ硬直はしていないものの、すでにこと切れていた。予想しなかったわけではないが、やはりがっかりして涙がこぼれた。 なきがらをきれいに拭き清めてから紙タオルですっかり巻き、マヤちゃんの時のように撫子の花を1本添えて、きれいに包み込んだ。 タローにミルクをもう一度飲ませ、タオルの中に寝かせた。可哀想なシマちゃん。私は小さななきがらを猫のベッドのそばに置き、自分ももう一度横になって目を閉じた。何だか疲れがどっと出て、朝のニュースは見なくてもいいや、という気になっていた。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房)「チュクルジュマ猫会」海泡石のパイプやアクセサリーと、「宮古島月桃」の買える店 アントニーナ・アウグスタ
2017年06月21日
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【6月20日・火曜日】 本日こそ、張り切って掃除の続きをする筈が、夕べ預かってきた子猫タローに3時間おきに水割りした牛乳を一度温め、冷ましてから脱脂綿に含ませて吸わせる、という喫緊の「お仕事」が発生したため、夜10時に吸わせ、午前1時、午前4時という具合に、寝不足が加算されて目など真っ赤になってしまった。 朝の6時からのNHKニュースはしっかり見たが、そのあとの箱根登山鉄道の紫陽花電車のレポートを見た後、7時に新しく作ったミルクを吸わせたあと、もう欲も得もなくなり、本棚を拭き掃除し、本を整理して並べ替える作業を予定していたが、結局何も出来ず10時頃まで寝てしまった。 昨日、猫が出産した”ファッションと土産物ショップ「EDO」”にいるとき、留学希望のE嬢から携帯にショート・メッセージが入り、日本でのレール・パスは、ネットで買おうと思って調べたら、発行から5日後に住所に届くので、その頃自分達はもうミチコ先生の家に着いているだろうから、先生のアドレスと電話番号を教えて下さい、という。 私はすぐ電話して、彼女にこんこんと言い聞かせた。もうこのことで何度も私はあなたにメールを書き、日曜日にかけた電話でも言ったでしょう、イスタンブールのHISという旅行会社なら、その場でパスを発行してくれる、日本に持って行くのはこちらで日本のお札を都合してくれる両替店と交渉済みなので、替えたい金額が確定すればすぐ私が電話して、100万円くらいまでなら2日のうちに揃えてくれると約束してあるのに、あなた、私からのメール、全然読んでいなかったのね、と注意を促した。 E嬢はまだそのことを両親に伝えていないので、今晩話をします、明日の火曜日、HISと両替店に行って頼みたいので、もし一緒に行って貰えるなら、明日の午前中に連絡します、と彼女は私に約束したのだが、結局昼を過ぎても何も言ってこないし、こちらから2度ほど電話をしてもついに電話口に出て来なかった。 水曜日になってからではもう遅いのだ。いやいや、いつも最良の方法を指南しているのに、全然うんともすんとも反応がないのだから、私の留学コーディネーターとしての役目はもう終わった、あとは放っておこうと思っても、ついつい、そのことが頭を離れないのである。 しかし私はもう6時前に家の猫達に缶詰を食べさせ、幾つかかかってきた電話に対処し、電話が鳴るたび、もしかしてE嬢ではないか、と期待しながら画面を見ると全部違う人からだった。7時過ぎにタローを懐に入れて街に出た。ヤーシンさんには会えなかったが、2匹目のチビ猫の様子を見に行きますよ、と電話で話し、断食を実行しているヤーシンさんが、イフタルまで家に間に合いますように、と念じて電話を切った。 クラブ歌手のアフメットさんが一人ぽつねんと店番をしていたが、私を見ると喜んで暗い部屋に入れておいた子猫をかごに入れて連れてきた。母猫のマミーも店の中にいたが、子猫を近づけるとクンクン臭いを嗅ぎ、そのうちにカッと口を開いて噛みつきそうになった。 危ない、危ない、この様子では、タローと妹を母親のそばに寝かせたら怒って噛み殺してしまわないとも限らない。私は懐に入れてきたタローと比べて、妹猫の体が冷え切っているのが分かったので、妹猫も懐に入れて温めた。こんな新生児は体温が低下しただけでも容易に死んでしまう。 私がドンドゥルマ(トルコのアイスクリーム)を土産に持って来たので、アフメットさんが近くからラマザン・ピデを買って来てチーズをたくさん入れてサンドイッチにしてくれたので、2人で食べているところにオーナーのメテさんが友人のおじ様達と現れた。 タイと台湾と日本で2ヵ月余り滞在しあちこちに旅行したのだそうだ。アフメットさんがオーナーの分もサンドイッチを作ると、それを食べながらメテさんは二つ三つアフメットさんにやるべき用事を書き残し、友人達と出て行った。アフメットさんは妹猫にも日本名でいいから名前を付けて、と私に頼んだので、縞々猫なのでシマちゃんがいいと言うと、シマ、シマ、うん、いいねと喜んだ。 私は結局10時を回ったころ、2匹とも懐に入れて夜の街をやや足早に歩きながら帰宅した。家の前まで来ると、大工のブラック・ウスタがまだ店の前の商品を片付けずに表で立っていた。 「加瀬ハヌム、ちょっとその猫を見てごらんなさい」と私を呼びとめた。子猫が2匹いて、母猫がそばにいた。ウスタのショウルームの向かって右隣りに木造2階建ての元骨董店があるが、この数年、売家の広告を出していて、それをいいことにブラック・ウスタがその店の前を占領して、山のようなガラクタを置いたままにしている。 その廃材の下にいる子猫の1匹は、うちのタンブルか1月に亡くなったマヤちゃんのように白っぽく、少し黒い模様があった。生後2~3ヵ月の子供達で元気はいいが、腰から下がどうしたのか両脚とも外向きに広がってしまっており、真っ黒な兄弟猫がぴょんぴょんと飛びかかると、負けずに遊んでいるのだが、私は胸が詰まってしまった。 ブラック・ウスタはしきりにその子猫について、昨日、この空き家の廂から落ちてこうなったんだ、早く獣医に見せてやらないとこのまんまで、いざりになってしまう、と私の同情心を掻き立てようとしていた。もちろん、見たからに可哀想である。だが、昨日廂から落ちてこんな風に足が折れたのなら、兄弟猫と遊んではいられないはず。 私は胸の中に2匹の生まれたての子猫を抱えていることは、おくびにも出さず、ウスタに言った。「ウスタ、私にはもう、いくら可哀想だと思っても、獣医に連れて行ってやるお金も力もないのよ」と言い、それ以上かかわらないようにその白っぽい猫のことは見ないようにして、心の中で目をつぶり家の中に入った。「はいはい、おチビちゃん達、お家に帰って来たよ~、すぐに温かいミルクを作ってあげるからねえ、ちょっとの間、猫ベッドに寝ていてね」 タローはこんな風にミルクを飲んでいます。妹のシマちゃんにもこうして与えます。 子猫たちはママがいなければ子猫同士でしっかりと抱き合ったりしている。 ああ、あ~あ、全然懲りていない私。でもいいよね、子猫の命が助かって、2匹が揃って生きながらえてくれれば、この寝不足と足腰の疲れが報われる。母親マミーは、うちのシェビィとアルスの母、ニケのように最初は育児放棄しても、二度目はとてもよく面倒を見るようになるかもしれない。 しかし、二度目は、ではなく、お店の周囲の人が5リラ、10リラずつでも出しあって不幸な親子を作らないように、避妊手術を受けさせてやることが先決だと思う。 madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房)「チュクルジュマ猫会」海泡石のパイプやアクセサリーと、「宮古島月桃」の買える店 アントニーナ・アウグスタ
2017年06月20日
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