全854件 (854件中 1-50件目)
今までレーナマリアのブログで仲良くさせていただいて本当にありがとうございました。実は、写真とフリーページがいっぱいになって困っていました。どちらも、古いものを消しながら続けていたのですが、段々限界になってきました。それで、新しいブログを立ち上げることにしました。こちらも楽天のブログなので今と変わらず続けて行きたいと思っています。新しいブログは古代のロマンをたずねてpart.2です。名前はレーナマリアでも、マリアでもどちらでも大丈夫です。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。m(_ _"m)ペコリ
2009.07.12
コメント(10)
お世話になっている夏菜さんが時々使っておられる『日本の神様カード』以前から欲しいなと思っていたのですが、ついに我慢できなくて伊勢神宮へ行く少し前に買ってしまいました。さっそく、その時にカードを三枚引いたのですが、『布刀玉命』と『天照大御神』と『大国主命』のでした。『布刀玉命』は天照大神をどのように岩戸から出すかを占った“占いと祭祀を司る神様”です。迷いの時は終わり、今が選択の時なのだそうです。『天照大御神』は太陽の化身で日本神道の最高神です。天の岩戸から出て、今こそ未知なるものへチャレンジするべきなのだそうです。『大国主命』は国津神の総元締めで、少彦名神と国づくりをしたヒーローです。縁を結び和と豊穣をもたらしてくれるのだそうです。3枚ともなんて素敵なカードでしょう。伊勢神宮へ行く直前に引くにはとてもうれしい神様たちです。伊勢神宮では天照大神様が待っていて迎えてくれているかのようで、とても心が穏やかになりました。伊勢神宮での宿泊時には、一緒に行った友達もカードをひきたいと言ったので、引いてもらいました。何だか今の彼女にぴったりのカードが出たので、本当に不思議でした。また時々、カードをひきたくなったらそっと引いてみたいと思います。とても綺麗カードで、神様もとてもお優しい姿をしておられます。神様を身近に感じることが出来ますし、知らない神様にも親しみを感じることが出来ます。私の『ニコニコグッズ』になりました。それから、以前淡路島の南の勾玉の形をした“沼島”というところへ行ったのですが、そこで勾玉を売っていた方と親しくなり、以前買った勾玉のネックレスを私好みに少しだけ作り変えてくれることになりました。アベンチュリンとグリーンメノウとニュージェードです。アベンチュリンは『仕事運、繁栄の石』グリーンメノウは『魔除けのお守り』ニュージェードは『智恵と安らぎの石』です。私がこだわったのは、ネックレスに勾玉を5つ入れて欲しかったのです。そして、お揃いでブレスまで作ってくださいました。写真ではあまり綺麗に映っていませんが、実物はもっと綺麗で可愛いのですよ。とっても気に入りました。最近はグリーンの服も多いので、結構つけやすいのです。何だか良いことだらけです。神様、本当にありがとうございます。
2009.07.03
コメント(10)
羽曳野の古市へ行く用事があったので、駅の近くの白鳥神社へ参拝しました。御祭神は日本武尊、素戔鳴命、稲田姫命です。明治時代に近隣の高屋神社を合祀し、その祭神である饒速日命、広国押武金日命(安閑天皇)を合せ祀っています。日本武尊がクマソを征伐した後、東夷征伐を命じられ、その帰りに伊勢国能褒野で病に倒れた時、尊の魂が白鳥になって、飛び立ったといわれています。白鳥神社があるこの地は、白鳥が羽を曳いたことから、羽曳野と呼ばれています。駅のすぐ側にあり、鳥居が二か所あり通り抜けが出来るのですが、とても静かな神社です。秋祭りの時、地車が出てとても賑やかなのだそうです。このあと、私の住んでいる隣町の神社へも行きました。錦織神社と書きますが、地元では、錦織を「にしこり」「にしこおり」「にしごり」というふうに訛って呼んでいます。御祭神は 建速素戔嗚命、品陀別命、菅原道真です。本殿は正平18年(1363年)の建築なのだそうです。入母屋造三間社、正面千鳥破風、軒唐破風付き、檜皮葺きです。正面の向拝には丸みを帯びた唐破風を造り、屋根の斜面正面につけられた三角形の千鳥破風が唐破風の上に位置しています。こうした屋根形式は室町時代の神社建築としては珍しく、貴重なものとされているのだそうです。 この建築様式は江戸時代に建築された神社に多く採用され、「錦織造り」と呼ばれ、日光東照宮にも影響を与えたといわれています。両摂社は小規模な流造二間社で、天神社には文明12年(1480年)の棟札があり、春日社も同じ頃の建築と推定されるのだそうです。本殿、両摂社とも国の重要文化財に指定されているそうです。私の印象としては、カラフルで明るい感じがしました。家の近くにも小さい神社でも、地元の人に愛されその上、深い歴史のある神社もあるのだなあと思いました。日本でも屈指の有名な神社はもちろん大好きですが、このような歩く道で見つけた小さな神社もそれなりに良いものだななんて、思ったりもしたのでした
2009.06.30
コメント(2)
今回の最後に行ったのは、月読宮でした。おかげ横丁で、お買い物をして、食べ歩きをして満足して神宮会館へ帰ってきました。さて、バスに乗って月読宮へ行こうとバスの時刻表を見るとなんとバスが来るのはあと1分後。うわ~、大変、急がなければ。何とか大急ぎで走ってセーフ。何とタイミングのいいこと。なんせ、バスは一時間に2本。今回は近鉄2dayの『伊勢・まわりゃんせ』(5000円・特急券付)を買って、乗車券と特急券は有効に使っているのですが、まさかバスまでちゃんと使えるなんてラッキーです。バス停に着きました。月讀宮は外宮(豊受大神宮)から約3.8km、内宮から約1.8kmの五十鈴川中流域の中村町にある内宮別宮です。【ご祭神】月讀宮:月讀尊(つきよみのみこと) 月讀荒御魂宮:月讀尊荒御魂(つきよみのみことのあらみたま) 伊佐奈岐宮:伊弉諾尊(いざなぎのみこと) 伊佐奈弥宮:伊弉冉尊(いざなみのみこと) 鳥居をくぐると神聖な空気に包まれています。別宮4社の社殿はほぼ同じで、祭神が男神か女神かに関係なく内宮に準じ、内削ぎの千木と、6本で偶数の鰹木を持つ萱葺の神明造で南面しています。遷宮のための古殿地は通常は東西に隣接しますが、月讀宮は南北であり隣接していないのです。月讀宮の社殿はほかの3社より若干大きく、鳥居も大きいのです。清々しい空気に包まれています。今回は、最後の最後までお天気に恵まれ素晴らしい参拝になりました。御参りを済ませ、バス停まで戻って時刻表を見るとなんとびっくり、あと1分で、バスが来ます。なんてついているのでしょうか。やはり、月読さんは、ツキを与えてくれたのでしょうか。神様ありがとうございます。感謝の気持ちでいっぱいの参拝でした。
2009.06.29
コメント(6)
宿泊の強み、朝一番で外宮・内宮の正式参拝です。今回は正式参拝なので、スーツを着て厳かな雰囲気です。外宮でも中へ入っての正式参拝だったのですが、写真を撮ることはできませんでした。内宮では、正式参拝が終わって解散をしてから少し自由時間があったので、その時に大急ぎですが写真を撮ることが出来ました。以下はその時の写真です。内宮の橋が取り壊されて、今新たに作りかえられています。11月には新しい橋が出来上がるのだそうです。このような状態を見ることが出来るのは、次は20年後です。一緒に来た友達と、次回はお互いお婆さんになっているけどまた一緒に来たいねなんて、笑いながら話をしました。そして、私達は、隣に作られた仮橋を渡ったのでした。橋を作るのも神事です。宮大工さんが金づちで叩いています。『トントントントン トントントントン トントントントン…。』4人で2人づつ『トントン』と『トントン』つまり、4回『トントントントン』と軽快なリズムが続きます。まるで、精巧な楽器で音楽を奏でているかのようです。木をたたき、圧縮させて組み込みます。そうすると、気が元に戻る力で膨張し、木と木の隙間がなくなるのだそうです。釘やセメダインなどを使わない、凄い技です。日本の建築技術の高さが表れているのですね。内宮での正式参拝です。いつもは、このおさい銭箱の所から参拝するのですが、今回はその横でお祓いをしてもらい、中に入っての参拝です。写真を撮ることが出来ませんでしたが、石で囲いをしたところが15個くらい続いています。そこは、神主さんたちが膝をついてお祈りするところなのだそうです。大昔、拝殿も本殿もなかったころの名残なのだそうです。正式参拝の跡、神楽殿で神楽と巫女舞を見ることが出来ました。今回は昨日と違って200人くらいで見ました。昨日4人で見た時は巫女さんは2人でしたが、今回は巫女さんが6人くらいいました。凄く素敵でしたよ。さて、ここで一旦解散です。昼食までは、自由行動。遅刻しないように、でもちょっとだけ行きたかったところを回ることにしました。↓は神楽殿の近くにあったパワースポットです。友達は手をかざすと“気”を感じると言っていました。私が今回、どうしても行きたかった荒祭宮。祭神は天照坐皇大御神荒御魂(あまてらしますすめおおみかみのあらみたまです))、天照大神の荒魂なのだそうです。それから、風日祈宮へ行ってからおかげ横丁を通って、神宮会館で昼食です。またまた、御馳走。とっても美味しくて、お腹いっぱいになっちゃいました。ここで解散です。私達は少し休憩してから、おかげ横丁でお買い物をしました。私は、真珠のペンダントを、勾玉を買いました。それから、きゅうりの丸かじりをしながら、赤福と鮫の塩漬けを買いました。お買い物をして、満足満足。ところで、話は戻りますが外宮では、買いたいものがありました。pleさんに教えて頂いた勾玉のお守りです。ここでしか売っていないお守りだそうです。娘へのお土産です。もうひとつは、以前頂いた鈴の形のお守りです。これは内宮で売っています。これも、内宮でしか売っていないみたいです。伊勢神宮のお守りはパワーがありそうです。さて、最後に以前から行きたかった月読宮へ向かったのでした。
2009.06.28
コメント(6)
神宮会館で夕食を食べてから、宿泊の部屋でちょっと休憩したのち、夜の10時からは風日祈宮で、由貴夕大御饌(ユキノユウベノオホミケサイ)の儀に参加することになっています。神様は夜の10時と夜中の2時に活動されるのだそうです。もちろん、写真を撮ることは出来ません。↓は翌日撮った風日祈宮です。風日祈宮は内宮にあり、橋を渡って行きます。写真はお昼間ですが、実際は夜だったので足もとが真っ暗です。神宮会館の方が足元を懐中電機で照らしてくれます。神事なので写真を撮ることが出来ませんでしたが、古寺名刹巡拝の旅にそっくりの写真がありました。祝詞は神様にだけ聞こえるように囁くような小さな声で捧げられます。そして、伊勢神宮独特の御祈りの仕方なのです。細かく説明を受けました。私達の近くに神様が降りてこられているのだそうです。神々しい雰囲気、凛とした空気に包まれています。このような素晴らしい経験をすることが出来、本当に幸せです。感謝の気持ちでいっぱいになりました。『由貴夕大御饌の儀』を終え、宿泊所に戻ります。温泉に入り、眠りに着きました。さて、翌日は内宮・外宮の正式参拝と神楽を見る予定です。この続きは次回です。|☆。・:*:・゚'★,。・:*:・'。・:*:・゚'★,。・:*:・゚'☆|☆。・:*:・゚'★,。・:*:・'。・:*:・゚'★,。・:*:・゚'☆お知らせです。今日の午後10時からNHKでETVテレビで『仏教伝来』があります。前回に引き続き、面白そうですよ。良かったら、見て下さいね。(*^_^*)
2009.06.27
コメント(6)
伊勢神宮の神恩感謝祭に行ってきました。今回は一般の参拝と違って、正式参拝が出来るということで伊勢神宮の崇敬会に入っている凛ちゃんに連れて行ってもらったのです。メンバーは凛ちゃんと凛ちゃんの彼と私と私の友達の4人です。正式な回り方を教えて頂けるということで、まず最初に体を清める禊をするために二見浦へ行きました。私達の世代の関西の小学校では、修学旅行に二見浦へ来ることが多かったと思います。私も、そうでした。その時以来の二見浦、とても懐かしい思いでいっぱいになりました。二見浦といえば、有名なのが大注連縄で知られる夫婦岩です。これは、沖合700メートルの海中に鎮まる興玉神社の御神体である興玉神石の鳥居なのだそうです。男岩と女岩を結ぶ大注連縄は「結界の縄」と称され、常世神(とこよのかみ)が太平洋の彼方から寄りつく聖なる場所と言われているのだそうです。蛙ちゃんも迎えてくれています。海岸を歩いて行くと、二見興玉神社があります。ご祭神である猿田彦大神は、古くから善導の神として信仰されています。凛ちゃんが言うには、伊勢神宮をお参りするにはまず道案内のここの猿田彦さんにご挨拶をするのが正式なのだそうです。この日は、茅の輪が前にありました。ぐるぐると八の字を描くように、真ん中から入って左に出て、一度正面から入りなおして、今度は右に出て、それから最後にもう一度真ん中から入って猿田彦神社で御参りをしまいした。茅の輪は時々、pleさんのブログで見たことがあったのですが、私がくぐれたのは今回が初めてでした。以前から、茅の輪くぐりがしたいと思っていたので、とてもうれしかったです。身も心も綺麗になったでしょうか、フフフ…。そして、最後に八大龍王さんを参拝。やはり、海に近いので海の神様が守っていくれているのですね。さて、このあとが大変です。この日は予定が満載なのです。外宮へ急がなくてはいけません。外宮に着きました。まずは参拝です。感謝の気持ちを伝えて、これからも見守って頂けるようにお祈りしました。そして、そのあと楽しみにしていた神楽殿での巫女舞を見るために、申し込みをしました。雅楽と巫女舞を4人のために見せて下さいました。本当に素晴らしかったです。凛ちゃんは神様が降りて来たのを感じたそうです。私はちょっと、どうしてもお願いしたかったことがあったので祝詞の時にお願いを入れてもらいました。本当に素晴らしかったのですが、写真を撮ることはできませんでした。ただ、終わってふと見るとプロの人が撮った写真が飾られていたので私はその写真を撮ることにしました。↓この写真で雰囲気だけを味わっていただければ嬉しいです。このあと、神宮会館で神職さんの素晴らしいお話を伺ってから夕食でした。みんなで200人くらいでした。神社の関係の方や、政財界の方々も多かったのだそうです。でも、私達4人は美味しい御馳走に満面の笑顔を隠すことが出来ません。メチャメチャ美味しかったです。特に、写真の一番手前にある茶色いクロスしている食べ物「鮫」はすごくおいしかったです。鮫は古名を「鰐」といい古事記や神話にも登場します。昔は朝廷への貢納物として、皇室また伊勢の斎王様にも、御膳に進められた御料だったのだそうです。本当に美味しかったです。このあと、お部屋に戻り夜の10時から由貴夕大御饌です。この続きは次回にさせて頂きます。
2009.06.26
コメント(4)
お久しぶりです、皆様お元気ですか。私はしばらくの間、体調が良くなくPCに向かうことが出来ませんでしたが、やっと落ち着き、なんとか御無沙汰をお詫びしたく思っています。まだ、あまり調子が良くないのでちょっと変な文章になってしまうかもしれませんが、お許し下さい。実は私事ではありますが、娘の就職で内々定をもらうことが出来ました。御存じのとおり今年は百年に一度の就職氷河期と言われていますが、娘も大変苦戦しておりました。ところが、運良く第一希望の業種に決まることが出来たのも神様のおかげではないかと娘と毎日、心から感謝しています。私は、全く神経質でもなく娘のことも全然心配していないなんて思っていたのですが、何故か娘の就職が決まったとたん、疲れがどーっと出たかのように、何もすることが出来なくなってしまったのです。大好きな神社仏閣も、石切りさんへ行ったのを最後に全然行くことが出来ませんでした。とにかく、仕事を休まずに行くのが精いっぱいで、家事もかなり手を抜ききっていました。ところがうまくしたもので、そんな私に娘は本当に優しくてびっくりしてしまいました。肩こりが辛かったのですが、毎日一時間くらいマッサージをしてくれたのです。仕事から帰ってくると、洗濯物が畳んであって、洗濯機に入れてあった衣類はちゃんと干されていました。夕飯も作ってくれて、後片付けも本当に上手にしてくれるようになったのです。そんな毎日が続き、ようやく私も元気になってきました。そして、明日は以前から楽しみにしていた伊勢神宮へ行ってきます。明日は神恩感謝祭です。神宮会館に宿泊の予定です。初日は神楽の奉納を見たり、皇大神宮別宮の瀧原宮で行われる月次祭、由貴大御饌の儀を奉拝します。二日目は内宮を正式参拝の予定です。大変楽しみです。帰ってきたら報告しますね。では、行ってまいります。
2009.06.23
コメント(8)
石切劔箭神社は“デンボ(出来物)の神さん”で親しまれています。出来物といってもいろいろあって、最近では癌が治るようにと訪れる方も多いと聞きました。日曜日ともなるとお百度参りの人が絶えないのだそうです。参道には大道占いや漢方薬の店が並び独特のにぎわいを見せてくれています。占いのお店は本当に多くて、陣内智紀さんや麒麟の田村さんがここで見てもらった時の写真や、読売テレビや毎日放送がここを紹介しましたなとという看板もたくさんありました。私も今から二十ウン年前、間接的にちょっとだけお世話になったことがあります。実は私と夫が知り合ったのはお見合いだったのですが、夫のお母様が二人のことを占ってもらったのだそうです。すると、見事に相性がよくてなんと三十三組に一組の良き組み合わせだと言われたのだそうです。それで、お義母さんが私のことをとっても気に入ってくださって、大変応援してくれたのです。そういえば私と夫は、結構相性が良くて、結婚して以来、ほとんど喧嘩をしたことはないのですが占いは当たっていたのかも知れません。結婚前にお義母さまから伺ったお話は結婚の決め手の一つになったりしたのでした。私は今回、生まれて初めて石切神社へ行ったのですが、子供が20歳を超えた今、天国のお義母さんの気持も少しだけ分かったような気がしました。そして、「おばあちゃん、当時はこうやってこの辺りを歩いたのね、ありがとう。」なんて思ったりしました。これでおしまいです。ところで、梅雨はもうそこまで来ています。今の間に、出かけておかなければなんて思ったりしています。|☆。・:*:・゚'★,。・:*:・'。・:*:・゚'★,。・:*:・゚'☆|☆。・:*:・゚'★,。・:*:・'。・:*:・゚'★,。・:*:・゚'☆石切劔箭神社に伝わる神話です。【鳥見の里と饒速日尊の天降り 】はるか昔、河内と大和の一帯は鳥見(登美)の里と呼ばれ、穏やかな自然と、海や山の幸に恵まれた豊かな土地でした。 この地方を治めていた豪族、鳥見一族は、稲作や製鉄の技術はないものの、狩や漁がうまく、生活用具や住居づくりに 優れていました。また、長身の恵まれた体格は戦闘に秀で、「長髄の者」と恐れられていました。さて、神々の住む高天原では、天照大神が、孫の饒速日尊に大和の建国を命じ、『十種の瑞宝』を授けていました。『十種の瑞宝』は、人々を治め、身や心の病を癒す霊力をそなえた瑞宝です。 饒速日尊は『フツノミタマの劔』を持ち、日の御子の証である『天羽羽矢』も携えて天磐船に乗り、船団を組んで高天原から 船出しました。船団が豊前(大分県)の宇佐につくと、尊は息子の天香山命に『フツノミタマの劔』を授け、船団の半分をあずけます。 そして自らは、瀬戸内海を通って大和に向かいました。こうして饒速日尊の乗る天磐船は、鳥見の里を見渡す 哮ヶ峰(生駒山)に着きました。 八尾からこの生駒の辺りは、当時は物部氏の勢力範囲でした。ここ、石切り神社にも物部氏に関する神話が今でも息づいているのかと思うと感慨深いものがありました。
2009.06.07
コメント(6)
往馬大社から歩いてほど近いところに、竹林寺があります。行基ゆかりの寺です。本堂の東、細長い道を進むと松林の中に行基の墓があり、そのわきには石地蔵が安置されています。行基は奈良時代の高僧ですが、墓所が明確なのは珍しいのだそうです。竹林寺の近くに、円福寺があります。生駒谷を見おそる高台にある古刹です。鎌倉時代の和様建築として知られています。このあたりは、四季の花が咲きのどかなムードです。まさに古き良き時代の奈良がそのまま残っているような趣があります。さて、このあと最終目的地である石切劔神社を目指しました。
2009.06.06
コメント(0)
生駒の山を歩いて降り、生駒駅から信貴電に乗って一分という駅で降りました。一分には以前から行きたかった往馬大社(いこまたいしゃ)があるからです。生駒大社は創建年代は定かでないですが、もっとも古い記述は『総国風土記』の雄略天皇三年(458年)ということです。奈良県内の大神神社や石上神社と同様に神奈備(生駒山)を御神体として祀られた日本有数の古社です。古代より朝廷の崇敬厚き神社であり、「延喜式」では官幣大社に列せられていました。一分駅から歩いて5分くらいのところに往馬大社がありました。なかなか素敵な神社です。【ご祭神】伊古麻津彦命 (いこまつひこのみこと)(産土の大神) 伊古麻津姫命 (いこまつひめのみこと)(産土の大神) 気長足比賣尊(神功皇后) (おきながたらしひめのみこと) 足仲津比古尊(仲哀天皇) (たらしなかつひこのみこと) 誉田別尊(応神天皇) (ほんだわけのみこと) 葛城高額姫命 (かつらきのたかぬかひめのみこと)(神宮皇后の母君) 息長宿禰王 (おきながすくねのおおきみ)(神宮皇后の父君) 神功皇后にまつわる方々がたくさんいらっしゃいます。往馬大社は古くから火の神として尊ばれ、歴代天皇の大嘗祭に用いられる火きり木(うわみず櫻)はこの往馬大社より献上したものなのだそうです。昭和天皇の大嘗祭にも、また平成二年に執り行われた平成の大嘗祭の「斉田點定の儀」にも往馬大社の火きり木が使用されたのだそうです。例年十月に執り行われる往馬大社の例祭は、壮大な火祭りとして古くから龍田の風神祭、広瀬の水神祭と共に深い信仰を集めた古式豊かな伝統行事(無形文化財)なのだそうです。龍田大社が風の神様、廣瀬神社が水の神様、そしてここ往馬神社が火の神様なのですね。三つとも行けて良かったです。さて、このあと行基ゆかりの竹林寺(行基のお墓があります)と奈良では珍しい鎌倉時代の古刹・円福寺へと歩き、一分に戻って電車に乗り石切劔神社へ行ったのでした。
2009.06.05
コメント(0)
今日は降水確率が60%でした。迷った結果、思い切って出かけることにしました。ラッキーなことに、全く雨に降られることがなく、無事全コース回れたので本当によかったです。今日の目的は宝山寺(生駒聖天さん)、往馬神社、竹林寺、円福寺、石切劔神社です。まずは、宝山寺からです。鳥居までの参道はみごとです。宝山寺の御本尊は不動明王です。目を凝らしてよ~くみるとお不動さんが見えてきました。ここのお不動さんは美しいお顔をしていました。後ろに見える岩屋は般若窟です。弥勒菩薩が御本尊です。般若窟は役行者がここに般若経を納めたとの伝えによる。空海もここで修行したとの伝承もあります。古代からの聖地で山麓の生駒神社のご神体です。聖天堂は、拝殿と本殿(聖天宮)に分かれていて、聖天宮に秘仏として大歓喜天尊像がまつられています。大聖歓喜双身天王で、象頭人身の双身像の2つの姿の形像だそうです。大変は秘仏で今までに一度も公開されたことはないのです。この歓喜天を守っていくということは並みたいていのことではないのだそうです。ここの僧侶になるには相当の覚悟がいるのだそうです。修行も大変です。毎日午前2時からお経を読み、お勤めをされているのだそうです。それだけに大変御利益のある素晴らしい歓喜天なのだそうです。合掌をしても神社のように拍手を打っても良いのだそうです。鳥居がありますが、真言律宗なのだそうです。神仏習合の名残でしょうか。宝山寺は以前から来たかったのですが、想像していたよりも素晴らしいところです。今日は来ることが出来て良かったと思いました。このあと、生駒山頂まで歩いて上りました。実は私は高校生の頃、この生駒山頂遊園地でアルバイトをしていました。入場券を売ったり、券をちぎったりしていました。その頃は、ディズニーランドもまだなく、遊園地は子供の楽園でした。大変人気があり、活気があったものです。今回行って驚いたのは、ずいぶん変わっていたことだけでなく、平日は休園日になっていたことです。土日と、夏休み、冬休み、春休みだけの開園なのだそうです。そういえば、あやめ池遊園地も、狭山遊園地も、ドリームランドもなくなってしまいましたね。ここ、生駒遊園が細々でも続けているのがちょっと痛々しいながら嬉しく思いました。じつは、この生駒の山は神武天皇が九州から東征してきて大和入りしようと思ったところが、長脛彦により阻まれたところです。兄は深手を負いチヌの海(大阪湾)で傷を洗い、和歌山の窯山神社で亡くなりました。そして、その後紀伊半島をまわり、吉野を通って大和入りします。この生駒の山さえ超えられれば、そんな苦労をしなくても良かったのに…。そんな思いを抱きつつ私と先輩は、生駒の山を歩いて下りて行きました。
2009.06.04
コメント(4)
今日は難波に娘と買い物に行きました。その途中、ちょっと以前から行きたかった難波八阪神社へ立ち寄りました。何故行きたかったかというと、pleさんの難波八阪神社のブログで以前見て、ものすごく大きな獅子を自分の目で見てみたかったからなのです。難波駅から府立体育館の横を通りって行くと、東急インの裏辺りになります。あっ、鳥居が見えてきました。鳥居の向こうに見えました。鳥居でご挨拶をして、進みます。うわ~、大きい、本当に大きい。高さ12メートル、奥ゆき7メートル、鉄骨・鉄筋コンクリート殿内一部木造。外装は銅粉吹き付け付合成樹脂仕上げ。内部神殿のご祭神は素盞嗚尊。獅子の二十四の歯、目の周りには真鍮製。目はライト、鼻はスピーカーになっています。ガオ~って声が聞こえそうです。鼻の穴はスピーカーになっています。この鼻の穴のスピーカはガオ~って音がするのかと思っていたのですが、実はそうではないようです。舞台でお正月に雅楽・居合道など、また夏祭りには、獅子舞・民謡等各種芸のが奉納されるときに音楽が流れるのだそうです。大きな口で勝利を呼び、邪気を飲み勝運(商運)を招くと、学業向上、就職、入試あるいは、会社発展を祈願するために、全国各地からの参拝が絶えないのだそうです。ご祭神 素盞嗚尊、奇稲田姫命、八柱御子命などです。ところで、獅子狛犬の先祖は、オリエントに生息していたライオンといわれています。ア・ウンの表情の獅子狛犬ですが、陰陽思想ではア・ウンのアは陽でウンは陰、アは男、ウンは女とされることが多いようです。西洋に移入された獅子は鷲と合体して、その姿かたちを変えました。エジプトではスフィンクス、イギリスでは王家の紋章、シンガポールではマーライオンとなり国家統一のその象徴としての役割を果たしていると思われます。この神社はガイドブックにも載ってなかったり、あまり有名ではないのかもしれませんが、こてこての大阪人にはちょっとした人気の神社です。私も、かなりディープな大阪好きなので、サービス精神に富んだこの神社はとても好きです。
2009.06.01
コメント(5)
今日の午後10時からNHK教育で『ETV特集』をします。日本と朝鮮半島2千年“任那日本府”の謎古代史最大の謎に迫る太王四神記の真実鉄を求めたヤマト政権、海を越えた軍事支援?韓国で続々と発見された前方後円墳の秘密天皇と百済との関係最新の発掘が古代史を書き換える|☆。・:*:・゚'★,。・:*:・'。・:*:・゚'★,。・:*:・゚'☆。・:*:・゚'★,。・:*:・'。・:*:・゚'★,。・:*:・゚'☆今夜は8時から『天地人』を見て、一時間休憩して『ETV特集』を見ようと思っています。古代史に興味のある方にはお勧めです。
2009.05.31
コメント(7)
今日は、先日行けなかった吉野神宮と宮滝に行ってきました。鳥居が見えてきました、とても荘厳な雰囲気です。ご祭神は後醍醐天皇だそうです。後村上天皇の勅命で刻まれ吉水神社に祀られていた後醍醐天皇の尊像が、五百五十年を経て吉野神宮の本殿に遷座され、創祀されました。神宮一円の大地は丈六平と称し、流造の本殿、入母屋造りの拝殿、切妻造りの神門などが美しく調和しています。「玉骨はたとひ南山の苔に埋まるとも、魂魄は常に北闕の天を 望まんとふ」と都に思いを寄せた後醍醐天皇の心を偲び、京都に向かって北向きに作られています。吉野神宮を出て、宮滝に向かいました。宮滝は持統が大変愛したところです。11年の統治の間に31度も通ったと言われています万葉集に天皇御製歌とされている歌があります。み吉野の 耳我の嶺に 時なくぞ 雪は降りける 間無くぞ 雨は降りける その雪の 時なきがごと その雨の 間なきがごと 隈もおちず 思ひつつぞ来し その山道を (万葉集 巻1-25)この歌は、実際にはいつ誰が詠んだものかは確証がないのだそうですが、天武天皇(大海人皇子)が壬申の乱の序曲となる宮滝行における峠越えの心境を詠んだものだとされています。宮滝に来たかったもう一つの理由は、このエメラルドグリーンの川を見たかったからです。お天気は良くなかったのですが、とても綺麗なエメラルドグリーンを見ることが出来たので本当にうれしかったです。宮滝には滝はありません。宮滝の滝は「たぎつ」の意味です。柴橋の中ほどから下流を向くと、今も変わらぬ「たぎつ瀬」の様子をみていただけます。ちなみに、宮滝の由来は「激つ宮処」だといわれています。 象の小川の水が吉野川に流れ落ちるところを夢のわだといいます。 夢のわだは『万葉集』にもよく詠まれ、その美しさは多くの万葉人の憧れでした。今日は、神社友達の一人である素敵な方とご一緒させて頂くことが出来ました。吉野は日本人の心のふるさとです。始めて行った時から懐かしい気持ちにさせてくれました。持統天皇が愛した意味が分かるような気がします。とても楽しい一日でした。感謝の気持ちでいっぱいです。
2009.05.28
コメント(6)
恩智神社へ夫と娘と一緒に行ってきました。実は娘にちょっと良いことがあったので、お礼を兼ねての参拝でした。恩智神社の主祭神は、大御食津彦命(おおみけつひこ)、大御食津姫命です。当初は天児屋根命を祀っていましたが、後になって枚岡神社に遷座し、現在の祭神を祀ることにりました。雄略天皇の時代(470年頃)、藤原氏により祖神の天児屋根命を香取神宮から勧請して創建されました。天児屋根命はその後、枚岡神社を経て春日大社に祀られるようになったことから、恩智神も「元春日」と呼ばれています。大御食津彦命は天児屋根命の五世代の孫、大御食津姫命は伊勢神宮外宮に祀られる豊受姫大神の別名です。神様のお使であります神兎・神龍が拝殿前左右に並んでいます。恩智神社の神様のお使いである御霊の籠ったなで「兎・龍」です。参拝された折に、卯辰をなると無病息災と昇運、開運が叶うと言われています。 天児屋根命が祀られています。閼伽井戸 (清明水)です。弘法大師に縁ある閼伽井戸(清明水)は古くより天候を予知する清水として知られ、雨の降る前になると赤茶の濁水が流れ出るという不思議な井戸です。 ここ恩智神社はかなり山の手にあります。大変見晴らしの良いところです、近くには恩地城跡もあります。以前から来たいと思っていたのですが、今回来ることが出来て良かったです。娘と神社へ来るのは初詣以来です。娘もここが結構気に入ったようでした。また、一緒に神社へ行こうねと約束をして、恩智神社を後にしました。
2009.05.24
コメント(4)
岡宮天皇陵:真弓岡陵(まゆみのおかのみささぎ)岡宮天皇などという名前は皇統譜にはありません。追尊天皇なので、一般にはあまり聞きなれない名前かもしれないが、実は、天武天皇と持統天皇の間に生まれた皇子「草壁皇子」のことなのです。偉大な父とその母である鵜野皇女(持統天皇)のプレッシャーからでしょうか、それとも生まれつき体が弱かったのでしょうか、ついに天皇として即位することはなく、享年28歳という若さで逝去しました。持統3年(689)に没し、のち天平宝字2年(758)に岡宮御宇天皇(おかのみやにあめのしたしろしめししすらみこと)と諡号されました。現在宮内庁は、草壁皇子の古墳としてここを指定していますが、学者の間では、岡本天皇陵から300メートル離れた束明神古墳(つかみょうじんこふん)が草壁皇子であろうという説が有力です。以前、束明神古墳の東側、田んぼの中で掘っ立て柱が出土しました。墓守の役所跡の可能性もあるとのことです。草壁皇子を祀ってきた村人が天皇陵指定による立ち退きを恐れて石室上板を隠し、鉄の棒による探査を免れたも、その後の発掘でこの事実が検証されたのだそうです。村人は草壁皇子が石川の女郎(大名児)に贈った歌「大名児彼方野辺に刈る草の束の間も吾忘れめや」にちなみ、束明神(塚明神とすれば隠した事実が知れる)として祀ったとのこと。当時を偲ぶ「束明神」「嘉永四年」の銘が残る灯籠が、現在塚に立っています。信仰深い地元の方々の知恵だったのかも知れませんね。これまでの2回の調査の結果、墳丘は、対角線の長さ30mの八角形。埋葬施設は、横口式石槨は50cm四方、厚さ30cmの石材を積み上げた家形の石槨で、石室の規模も長さ3.1m、幅2m、高さ2.5mと大きなものであったそうです。。御陵の隣には「素盞鳴命(スサノヲノミコト)神社」がありました。村人は役人から守り、鎮守の森として今でも大切にしているのだそうです。このあと、マルコ山古墳へ行きました。被葬者は誰かは分かっていません。盗掘にあって副葬品は少ないが、金銅製の太刀装具の一部があったのだそうです。人骨は30歳代の男性と鑑定されました。高松塚古墳とほぼ、前後した7世紀末ころから8世紀初頭に築造された古墳です。実はこの日は降水確率100%だったのですが、朝起きた時には雨が降っていなかったので思いきって決行しました。最初の計画ではこのあと檜隈神社と於美阿志神社へ行くはずだったのですが、雨が結構本気で降ってきたので、ここまでとすることにしました。なかなか行くことのできない飛鳥の南西部でした。以前から一度行ってみたいと思っていたところだったので、大変満足の一日でした。
2009.05.18
コメント(4)
「まうら悲しも越智・真弓の丘」ということで、越智岡の斉明天皇陵を目指します。斉明天皇というのは中大兄皇子(天智天皇)と大海人皇子(天武天皇)間人皇女(孝徳天皇の皇后)のお母さんです。ここの住所は高取町大字車木といいます。この車木というのは、斉明天皇の車が来た→車木となったそうです。そしてここには、孫にあたる建皇子(父は天智天皇、母は蘇我山田石川麻呂娘越智娘)も一緒に眠っています。そして、もう一人斉明天皇の娘、間人皇女も一緒に眠っています。間人皇女は斉明天皇の弟孝徳天皇に嫁ぎましたが実は兄の中大兄皇子(天智天皇)と恋人だったとも言われています。当時の結婚は政略結婚が多い上に、皇女ともあれば親族以外の男性に会う機会も少なかったのかも知れませんね。何だか悲しい気持ちにになります。紅葉の花って御存じですか。紅葉は葉っぱを楽しむものと思っていたので、知らなかったのですが、花はちょっと変わった形をしていますね。でも、色は紅葉が紅葉した時の色と同じですね。斉明天皇の御陵と同じ岡の少し下のところに大田皇女の御陵がありました。大田皇女は天武天皇に嫁ぎ大津皇子と大伯皇女を生みましたが、体が弱く若いうちに亡くなってしまします。大津皇子は大変聡明で見目麗しく人望があったために、持統天皇より無実の罪で殺されてしまいます。それを悲しむ大伯皇女…。本当にこの辺りは悲しいお話で胸が痛くなります。美しく優しい方だったのではないでしょうか。大海人皇子はたいそう愛おしがられたとのことでした。ところで、道を歩いている途中に『玉藻』を見つけました。柿本人麻呂、泊瀬部皇女と忍坂部皇子とに献つる歌にこのような歌があります。飛ぶ鳥の 飛鳥の川の 上つ瀬に 生ふる玉藻は 下つ瀬に 流れ触らばふ 玉藻なす か寄りかく寄り なびかひし 夫の命の たたなづく 柔肌(ニギハダ)すらを 剣太刀 身に副へ寝なば ぬばたまの 夜床も荒るらむ そこ故に 慰めかねて けだしくも逢ふと思いて 玉垂の 越の大野の 朝露に 玉裳はひづち夕霧に 衣は濡れて 草枕 旅寝かもする 逢わぬ君ゆえ場所はこの越智の岡辺りではないでしょうか。玉藻がゆらゆら揺れて絡まるさまを、夫婦の添い寝に例えているのですね。泊瀬部皇女は天武天皇の皇女で、母は宍人臣大麻呂の娘です。同母兄弟は忍壁皇子・磯城皇子・同母の妹は託基皇女。夫は川島皇子。川島皇子は大津皇子と友でありながら、大津皇子の謀反を訴えなければならない立場でもありました。真実ではないと知りながらも大きな力に抵抗することが出来ずに仕方なかったのかも知れませんね大津皇子もきっと分かっていたに違いありません。そう思いたいですね。泊瀬部皇女も辛い立場であったのでしょうね。越智の丘は本当に悲しいお話がいっぱいで歩きながらも涙がこぼれそうになるのでした。「まうら悲しも越智・真弓の丘」です。このあと、真弓陵・岡宮天皇陵、束明神古墳、マルコ山へと続きます。
2009.05.17
コメント(4)
先日家族で買い物とランチを食べに、岸和田カンカンへ行った時に敷地内に鳥居を見つけてしまいました。いつもの癖で鳥居を見ると通り過ぎることができません。ちょっと入ってみることにしまいした。“浪切神社”というのだそうです。だんじりの安全祈願をするところなのだそうです。岸和田のだんじりは有名ですが、危険なことでもまた有名ですよね。「どうか神様、事故がありませんように。」と祈る気持ちは痛いほど分かりますね。この辺りはすぐ近くが海です。浪切神社って良い名前ですね。このあと“夢厨房”でパスタのランチを食べました。焼きたてのパン食べ放題は本当に美味しかったです。
2009.05.14
コメント(6)
建水分神社へ行ってきました。ご祭神は天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)天水分神(あめのみくまりのかみ) 国水分け神(くにのみくまりのかみ) 罔象女神(みつはのめのかみ)瀬織津媛神(せおりつひめのかみ) です。 創建は第10代崇神天皇5年(西暦前92)で、同天皇が天下饑疫にみまれ、人民が農事を怠った時、諸国に池溝を穿ち農事を勧められ、この時勅して金剛葛城の山麓に水神として奉祀せられたのだそうです。「建水分(たけみくまり)」の「建(たけ)」は「猛々しい」という意味の美称であり、「水分(みくまり)」は用水を公平に分配する事で、「水配り(みずくばり)」から「みくばり」、そして「みくまり」へと転訛したのだそうです。用水を公平に分配するというのは、この辺りが川の分岐点になっていからではないでしょうか。鳥居の前の狛犬さんがすごく大きいので驚きました。鳥居をくぐって階段を上ると拝殿がありました。この神社は、私が大阪から奈良へ抜ける水越峠を通るときにいつも横目で見ながら通り過ぎていた神社でした。以前から一度来たかったのですが、今回夫と一緒に来ることが出来て本当によかったです。今年のGW前後(4月の下旬から5月上旬)の約1か月弱で、夫と二人で色々なところを回りました。八尾の勝軍寺、弓削神社2社。和歌山の根来寺、日前宮、玉津島神社、塩竃神社、竃山神社。大阪市内の一心寺、安居神社、森ノ宮神社、豊国神社、坐摩神社。宇陀の室生寺、龍穴神社、大野寺、佛隆寺。葛城の葛木坐火雷神社、鴨都波神社、九品寺、船宿寺、吉祥草寺。生駒の長弓寺。郡山の売太神社、矢田坐久志玉比古神社、郡山城跡。吉野の丹生上神社・上社・中社。そして、ここ建水分神社。今回は随分私の我儘に付き合ってもらいました。以前から行きたかったところばかりです。本当に夫に感謝の春でした。
2009.05.13
コメント(4)
安居神社は一心寺の向かえにある小さな神社です。実はこの前の道は何度も通っているのに、こんなところに神社があるなんてちっとも知らなかったのです。鳥居をくぐり細い道をず~っと入って行くと拝殿がありました。ここは、真田幸村終焉の地なのだそうです。このあと、やはりいつもの方面へ…。そうです、新世界です。新装開店なのだそうです。花魁さん綺麗でしょ、男の人なので凄く背が高いのですよ。はい、お楽しみの串かつです。やっぱり「八重勝」が一番おいしい。ということで、今日は神社の紹介というか串カツの紹介になってしまいしたね。
2009.05.12
コメント(4)
生駒から富雄川を北に登っていたったところに、長弓寺というお寺があります。長弓寺は、聖武天皇の勅願により行基が白檀の十一面観音を作り、牛頭天王、八王子の宮を立てて天皇の弓で本尊頂上の仏面を彫刻して創建したと伝えられています。真弓山長弓寺という山号、寺号には悲しい物語があります。富雄の豪族であった真弓長弓(たけゆみ)が子の長麻呂を連れて聖武天皇の鳥狩り従い、親子でこれを追っていましたが、はからずも親子相うちになり、長麻呂の矢に当たり命を落としたのだそうです。聖武天皇がその悲運な最後を嘆き、行基菩薩に命じてその冥福を祈るためこのお寺を建立したという伝説が残っています。寺の近くには長弓の墓と伝えられる真弓塚があります。↓が真弓塚かどうかは分からないのでうが、近くにそれらしきものがなくて…。どなたか教えて頂かないでしょうか。長弓寺の境内東側にある伊弉諾(いざなぎ)神社は、明治の神仏分離以前は牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)と呼ばれ、寺伝では聖武天皇が長弓寺の鎮守として建てさせたものなのだそうです。生駒から結構北にあるのですが、こんなに大きいお寺があるとは知りませんでした。最近奈良に、興味を持ち始めたのですが、奈良は本当に深いと思いました。本当はさらに北にある高山八幡宮にも行きたかったのですが、この日はさすがに時間切れ、夫はそろそろ疲れているようでした。生駒から龍田川沿いに家に向かいましたが途中、往馬神社や行基の墓など行きたいところはいっぱいありましたが、横眼で見て我慢して通り過ぎました。また、機会を作ってこの辺りは来てみたいものです。良いところですよ。
2009.05.11
コメント(6)
矢田坐久志玉比古神社(やたにいますくしたまひこじんじゃ)ご祭神は櫛玉饒速日尊(くしたまにぎはやのみこと)と御炊屋姫命(みかしきひめのみこと)です。郡山城からそんなに遠くないのですが、見つけにくい場所でした。やっと見つかった時はかなり嬉しかったです。『大和志』に矢落大明神と称すとあります。矢落とは、饒速日尊の天降りの時、天磐船から三本の矢を射てその落ちたところに宮居したとの伝によったものといいます。矢田の地名はこれによるのだそうです。天磐船の故事から、大空の守護神と崇められ、楼門には木製のプロペラが奉納されてします。見えるでしょうか、近づくと本当にプロペラです。これを自分の目で見たかったのです。空の神様なのだそうです。春日造の本殿と末社の八幡神社社殿は重要文化財だそうです。特殊神事の綱掛祭りは1月8日に、筒粥占祭は2月1日に行われるのだそうです。饒速日尊ということは、子孫は物部氏ですね。物部氏も神仏戦争から勢いは薄れて行きますが、昔は大きな勢力を持っていたことがわかりますよね。今は、石上神社くらいしか思い浮かびませんでしたが、こうやって見つけることが出来た時はやったという感じでした。郡山は奈良の中では観光地としてあまりメジャーではありませんが、奈良好きにはとても気になる場所です。
2009.05.10
コメント(8)
郡山城跡へ行ってきました。郡山城は筒井順慶の築城に始まる大和でもっとも大規模な城郭で、近世期には、豊臣家、水野家、松平家、本多家、柳澤家の居城となりました。天守閣跡へ行くためには柳沢神社の鳥居をくぐって入って行きます。城郭は筒井順慶の時代に始まりました。織田信長の後ろ盾で大和国を平定した順慶は父祖伝来の筒井城を出て、土豪の郡山衆らが拠ったこの地に近世的な縄張りで城を築き入城しました。筒井氏は伊賀国へ転封したのち、豊臣秀吉の弟・豊臣秀長が入城し大和・紀伊・和泉三ヶ国・百万国の太守にふさわしくと、紀伊国根来地の大門を過去ばせて縄文西楯かなり強引な石材集めで城郭の拡充を進めました。順慶は多聞山城の石材を、秀長は平城京羅城門跡の礎石と伝えるものをはじめ、石仏・石塔などまで集めさせました。野面積みの天守閣台には地蔵仏がうつ伏せに積み込まれていて「逆さ地蔵」と呼ばれ祀られています。いくら石材が欲しいとはいえ、お地蔵さんまで天守閣台にしてしまうなんてなんとむごいことでしょう。胸が痛くなってしまいました。
2009.05.09
コメント(6)
郡山へ行ってきました。まずはじめに行ったのは売太神社です。売太神社の御祭神は 稗田阿礼命、猿田彦命、天鈿女命 です。 【稗田阿礼命】この地は古代豪族である稗田猿女君の邸のあったところと伝えられます。『日本書紀』巻第一に猿女君は遠祖天鈿女命とあり、天武天皇の舎人稗田阿礼はその一族です。稗田阿礼は記憶力に優れ、天武天皇の命で帝紀・旧辞を暗誦したことで名高く、のちに太安麻侶がこれを書き写したのが『古事記』です。今日、阿礼さまの広大無辺のご霊徳を偲び学問の神・知恵の神として篤く信仰されています。【猿太彦神】天鈿女命の彦神であって、土地・方位の神としてすべての物事の初め即ち、新築・移築・旅立ち・結婚等に災難や悪魔を祓ってよい方に導き給うご霊験あらたかな神さまです。【天鈿女命】猿女君稗田氏の太祖で、「天岩戸隠れの神事」にたらいを伏せて舞を舞われた女神で、オタフク又はオカメの愛嬌あり福の神、芸能の始祖として、親しみ信仰されています。 阿礼祭というのがあり、売太神社で毎年8月16日に行われています。昭和5年8月16日当時の奈良県立図書館長仲川明らが提唱し、全国童話連盟の人たちによって始められました。当日は「稗田舞」が奉納され、続いて前庭において「阿礼さま踊り」が「阿礼さま音頭」が催されます。稗田阿礼さんは、本当に実在の人物か疑われた時期もありました。もしかしたら、女性ではないかと言っている人もいるようですが、どうも男性のようです。本当に頭の良い方だったのでしょうね。少しでもあやかれるように心をこめて参拝したのでした。
2009.05.08
コメント(0)
吉祥草寺は山号が茅原山、金剛寿院吉祥草寺と称する古刹です。この地は修験道の開祖役行者神変大菩薩の出生地とされ、当時は役行者(小角)の創建と云え、境内の一角には産湯の井戸がのこされています。西に聳える葛城山系は、若き日の小角の修行の場であり、その主峰葛城山(現在の金剛山)は、小角が鬼神を使って金峯山(大峯山)との間に石橋を架けさせようとした所です。吉祥草寺は修験道発祥の地です。また、1月14日の「茅原のトンド」は大和最大のもので、県の無形民俗文化財に指定されています。葛城は本当に神社やお寺が多いです。私は葛城に来たのは5回目ですがなかなか全部の神社やお寺に行ききれるものではありません。今回は行くことは出来ませんでしたが、天孫降臨の雰囲気をもつ「高天彦神社」や、雄略天皇とゆかりの深い「一言主神社」や京都の上賀茂神社をはじめ全国に分布している多数の鴨社の源でもある「高鴨神社」など、とても素晴らしい神社もたくさんあります。葛城に興味をお持ちの方は是非一度いらしてみてはいかがでしょうか。奈良は、奈良市と飛鳥が有名ですが宇陀や葛城も素晴らしいところがいっぱいありますよ。本当の奈良を見たいと思われる方は葛城はお勧めです。
2009.05.07
コメント(6)
鴨都波神社は「かもつばじんじゃ」と読みます。鴨都波神社が御鎮座されたのは、飛鳥時代よりもさらに古い第10代崇神天皇の時代であり、奈良県桜井市に御鎮座されている「大神神社」の別宮とも称されています。ご祭神は、「積羽八重事代主命」(つわやえことしろぬしのみこと)と申され、大神神社におまつりされている「大国主命」(おおくにぬしのみこと)の子どもにあたる神様です。葛城の地には、「鴨族」と呼ばれる古代豪族が弥生時代の中頃から大きな勢力を持っていました。当初は、「高鴨神社」付近を本拠としていましたが、水稲農耕に適した本社付近に本拠を移し、大規模な集落を形成するようになりました。そのことは、本社一帯が「鴨都波遺跡」として数多くの遺跡発掘によって明らかになっています。ご祭神の「積羽八重事代主命」は古事記に「鴨都味波八重事代主神」と記されており、「代主」は田の神の古語で「鴨都味波」は鴨の水端、つまり鴨の水辺の意味で、「八重事」はしばしばの折り目という形容詞でつまり「鴨の水辺で折り目ごとに祀られる田の神様」というご神名なのだそうです。事代主を奉斎してこの地を領地とちていた鴨王の娘が、神武、綏靖、安寧の三代の天皇の皇后となった由縁から、祭神は皇室の守護神とされ、宮中八神の一つとして崇拝されてきたのだそうです。藤棚も綺麗です。今までもこの辺りに来たことがあるのですが、車などで通るとうっかり通り過ぎてしまいそうなところなのですが、意外にも皇室の守護神のため由緒のある素晴らしい神社のようです。やはり、葛城の辺りからしばらく目が離せそうもないです。
2009.05.06
コメント(9)
今日は、吉野の丹生川上神社・上社と中社へ行ってきました。去年、天河神社へ行ったときに丹生川上神社・下社へは行ったのですが、上社と中社はまだ行ったことがありませんでした。丹生川上神社は、上社・中社・下社の三社で二十二社の一社として数えられているのでどうしても三つとも行っておきたかったのです。まずはじめに行ったのは上社の方です。「この里は丹生の川上ほど近し祈らば晴れよ五月雨の空」と後醍醐天皇が歌に詠んだ由緒ある神社です。675年、天武天皇の神宣によって創建されたと伝えられ、歴代天皇の崇敬あつく、雨の神を祀っています。丹生川上神社上社は以前はこの場所ではなかったのですが、ダムを造ることになり、以前の神社は川の下に沈んでしまっているのだそうです。11年くらい前に、ここに新社殿が建てられ、遷座したのだそうです。今は山の上にあり、とても景色が綺麗です。次は、中社の方へ行きました。御祭神「罔象女神(みづはのめのかみ)」です。水一切を司る神様で水利の神として、又は雨の神として信仰され、五穀の豊穣に特に旱続きには降雨を、長雨の時には止雨を祈るなど、事あるごとに心からなる朝野の信仰を捧げ、水神のご加護を祈ってきました。小牟漏岳境内地にツルマンリョウ、テンダイウヤク、ツクバネなど多種の植物が自生しているころで有名です。 落ち着いた素晴らしい神社です。清めのお水を井戸から汲んで手を清め、水で口をゆすぎました。ちょっと飲んだのですが、おいしいお水でした。神社の前の水は透明でとても美しいのです。近くを散歩しました。北から三尾川、南から木津川、東から日裏川の合流点の辺りに滝がありました。二つの水が合流しているせいか滝の形がXに交わっています。本当に綺麗で、いつまでも離れがたい思いでいっぱいになりました。もとは対岸の本宮山(旧地に摂社丹生神社が鎮座)に祈雨神として祀られていたと言います。 今日はとても素晴らしい神社を二つ参拝することが出来てとてもうれしかったです。丹生川上神社・上社は新しくて綺麗でしたが、私としては中社の方がより一層好きだなと思いました。偶然見つけた滝も、とってもお気にいりです。熊野大社へ行くには、上社を通っても行くことができそうです。いつか、熊野大社へも行きたいねと夫と話しながら家路へと急いだのでした。
2009.05.05
コメント(8)
九品寺に着いた途端に、夫が「あ~、ここええな。」といいました。あまり神社仏閣に興味のない夫にしては珍しいことです。季節も良かったからか、新緑に椿や芍薬が良い色どりに咲いているのがより一層お寺を綺麗に見せているのかもしれませんが、それだけでなくここのお寺の方のお気持ちのようなものが伝わってきます。とても落ち着くお寺です。門を入りました。九品寺は、行基が創建しました。本尊の木造阿弥陀如来像は重要文化財です。静かで、優しい雰囲気が伝わってきます。左手には池のある美しい庭があります。右手にはお地蔵さんがたくさんいます。写真には撮りませんでしたが、墓地には千体石仏があります。綺麗なお庭には西国三十三ヵ所のお地蔵さんがいらっしゃいます。一体一体、手を合わせて行きました。今日も素敵なお寺を参拝することが出来て本当によかった。夫と二人で、良かったねと良いながら歩いていました
2009.05.04
コメント(0)
吹神社は正式には葛城坐火雷神社といいます。創建は神代とも神武天皇の代とも伝えられています。大嘗祭で用いられる波々迦木(ははかのき)は古来より笛吹神社から献上されていました。天香山命の子孫、笛吹連が代々この地に住み祖先神に奉仕し、この地を笛吹きとたたえたのだそうです。現在は、火雷の神様であることから火を扱う職業や消防関係の崇敬が熱く、また天香山命の神徳からフルート尺八等の上達を願う人の崇敬も篤く、全国から奉納演奏に訪れているのだそうです。もしここで、ほぎさんの笛を聴くことが出来たら最高だろうななんて思いながら歩いていました。神社に、笛って似合うのですよね。本殿の傍らには笛吹連の祖の古墳や神山一帯には八十基程の古墳が分布しているのだそうです。葛城は、雄略天皇(ワカタケル)の本拠地でもあります。葛城王朝があったのかどうかは分かりませんが、このあたりは神社仏閣が本当に多く、驚くほどです。今回実は、御所という地名に魅かれてこの辺りに来たのですが、御所と葛城がこんなに近いとは思いませんでした。実際にこの辺りを歩いてみると、ますます興味深い思いでいっぱいになりました。もっともっと調べてみたいです。
2009.05.03
コメント(4)
ゴールデンウィークに入り、久しぶりに葛城の方へ行ってきました。まずはじめに、花のお寺船宿寺です。船宿寺を訪れた行基が夢で老人の神託を聞き、東の山中にある大きな舟形の岩の上に薬師如来を祀ったことに始まるといいます。お寺にあるヒラドツツジが有名です。お寺の門の前にたくさん咲いていました。門を入ると“シャクヤク”が出迎えてくれました。つつじも、いろいろな種類があります。大きくて私の背よりずーっと高いのです。本堂の前の真っ白の“おおでまり”が豪華です。石楠花もいっぱい咲いています。花のお寺と言われるだけあります。夢の中のようです。青空のもとたくさんの花に囲まれて夢の世界のようです。心が洗われた気がします。船宿寺の一番いい季節に来ることが出来たようです。ピッタリの季節にピッタリのタイミングで来ることが出来たことに感謝の気持ちでいっぱいになりました。
2009.05.02
コメント(0)
森ノ宮駅のすぐ横に森ノ宮神社があります。正式には鵲森宮(かささぎもりのみや)といいます。pleさんのブログで見てから一度行きたいと思っていたのです。鵲森宮は聖徳太子のお造りになった神社で、三十一代用明天皇(欽明帝第四皇子、橘豊日命)並びに穴穂部間人皇后を祭る日本唯一の神社です。また、元の四天王寺とも言われています。すぐ近くに、大阪城があるので久しぶりに行ってみました。約20年ぶりです。随分変わったと思うのですが、大阪城は塗り替えたのですね。桜は残念ながら終わっていましたが、つつじが綺麗に咲いていました。大阪城の入口の前には豊国神社がありました。今まで子供のころから何度も来たことがあるのに、ちっとも気がつきませんでした。豊国神社に入ってみました。豊臣秀吉の像がありました。ここが有名な豊国神社だとわかり良かったです。豊国神社は大きな神社でした。このあと雨が降りそうになったので、大急ぎで帰路に就いたのでした。
2009.05.01
コメント(6)
坐摩神社ってご存知ですか?正式な読み方は「いかすりじんじゃ」ですが、、一般には「ざまじんじゃ」と呼ばれることの方が多いのだそうです。場所は大坂の本町駅の近くにあります。私は近くを何度も通っているのに全く知らなかったのですが、ここは摂津国の一宮なのです。ちなみに畿内の一宮は↓の通りです。【山城国】賀茂別雷神社 京都市北区 賀茂御祖神社 京都市左京区 (2社で1社)【摂津国】住吉大社 大阪市住吉区 坐摩神社 大阪市中央区 【大和国】 大神神社 奈良県桜井市 【和泉国】 大鳥大社 大阪府堺市 【河内国】枚岡神社 大阪府東大阪市 片埜神社 大阪府枚方市 できれば、全部行きたいなと思っていたのですがまだ行ったことがないのは摂津の坐摩神社と河内の片埜神社の2社でした。今回近くまで行ったので坐摩神社へ行くことにしました。入口では大小3つの鳥居が横に組み合わさった珍しい「三鳥居」です。坐摩神社の始まりは、神功皇后が三韓征伐より帰還したとき、淀川河口の地に坐摩神を祀ったことだといわれています。祭神の五柱を総称して、「坐摩神」と称しているのだそうです。生井神(いくゐのかみ)…井水の神(生命力のある井戸水の神) 福井神(さくゐのかみ)…井水の神(幸福と繁栄の井戸水の神) 綱長井神(つながゐのかみ)…井水の神(「釣瓶を吊す綱の長く」ともいわれ、深く清らかな井戸水の神) 波比祇神(はひきのかみ)…竃神(屋敷神。庭の神) 阿須波神(はすはのかみ)…竃神(足場・足下の神。足の神であり旅の神) 祭神の五柱の神は、『古語拾遺』等によると神武天皇が高皇産霊神・天照大神の神勅を受けて宮中に祀ったのが起源とされています。境内にちょっとユニークな獅子がいました。拝殿の横の道を入ると、陶器神社がありました。これも陶器で出来ています。地下鉄の本町駅のすく近くです。こんな大都会の真ん中にも、素晴らしい神社があるのですね。陶器神社と同様に繊維神社もあり、両者ともこの周辺の陶器問屋、繊維問屋の守護神となっているのだそうです。私達が参拝している間にも数人の方が代わる代わる参拝されていました。地元の方に愛され大切にされているのですね。綺麗で、落ち着いた感じの神社です。本町にお越しの際はちょっと寄ってみられてはいかがでしょうか。
2009.04.30
コメント(4)
島の中にはおのころ島、八幡宮、神宮寺、弁天堂などがあります。船を下りて一番最初に行ったところが島の方が天神さんを呼んでいるところです。天御中主が祭られているのだそうです。島の中にはたくさんの井戸があります。この井戸は八角形をしています。昔は貴人が使う井戸は八角形だとか六角形だとかだったのだそうです。そして、井戸は今でも島の方の生活の一部として使われているのだそうです。この時も、一人の年配の女性の方が水を汲んでおられました。井戸の中を覗いてみると、きれいな水がこんこんと湧いているのでした。次に行ったのが沼島八幡宮です。豊漁の神様が祀られており、海上の安全と豊漁を祈るだんじり祭りがおこなわれるのだそうです。裏山の林は手付かずで残っており樹齢約200年のスヂジイやタブノキが生えているのだそうです。大自然が大昔のまま残っているという感じでした。拝殿の天井辺りに羅針盤が付けられています。海の安全を祈るためのものなのだそうです。神社の羅針盤はここと伊勢神宮だけなのだそうですが、伊勢神宮は大切にしまわれているので実際に目で見ることが出来るのは沼島八幡宮だけなのだそうです。八幡宮はちょっと高台にあるので海が見えて見晴らしが最高です。まさに、海の神様がおられそうな気がしてきます。八幡宮のすぐ横に神宮寺があります。中に入って休憩させて頂きました。綺麗なお庭でいしたよ。神宮寺を出て少し海の方へ行くと、弁財天さまがいらっしゃりました。弁財天様は海の守り神ですよね。海の近くで船に乗る方々を見守ってくれているかのようでした。今回は日帰りの旅ということで、朝の5時に家を出たのですが夕飯に間に合うように帰りたかったのでばたばたの旅でした。淡路島に来たのだから、本当はイザナギ神宮、オノコロジマ神社、絵島、ゆづるは神社へも行きたかったのですが、残念ながらあきらめなければなりませんでした。今回はツアーということでお土産に、『御井の清水』を頂きました。『御井の清水』は「古事記」で天皇の御料水として運ばれた“淡道島の寒泉”であると記されている名水なのです。大事に飲んでみようとおもっています。それから、沼島は勾玉の形ということで船に乗るところで勾玉を売っていました。私は以前から緑色の勾玉が欲しいなと思っていたので、思わず買ってしまいました。アベンチュリンと、水晶です。アベンチュリンは癒し・安定・平和を与え、ストレスを緩和してくれると言われている石です。新しい機会を増やし、視野を広げて発展をもたらすとも言われています。さて、またまた良いことがありそうです。勾玉のネックレスを首に付けた帰りました。今回は、先輩と一緒だったのですが先輩も私に影響されたと言って水色の勾玉を買って首に付けていました。そして、ご主人様に勾玉のストラップも買っておられました。やはり、沼島の勾玉はパワーがありそうです。私は最近、色々なところへ行くことが出来て本当に幸せです。この幸せに感謝して、いつまでもこの幸せが続きますようにまたまたお願いしてしまったのでした。
2009.04.29
コメント(4)
昨日、淡路島の南にある沼島というところへ行ってきました。古事記によると次のような物語があります。人間が生まれるはるか昔、神々は天上の世界、高天原住んでおられました。下界を見て、「この漂っている国を整えて、しっかりと造り固めよ」という天つ神の命令を受け、男神伊邪那岐尊と女神伊邪那美尊の二神は、天野浮橋に立ち、天つ神から授かった天の沼矛を指し降ろして、青海原を「こをこをろ」とかき混ぜました。矛を引き上げると矛先から、滴り落ちる潮が固まり島となりました。《おのずから凝り固まったのでオノコロ島という》二神は、この島へ天降りて夫婦の契りを結び、天の御柱と八尋殿(やひろどの)を建て住みました。そして、淡路島を筆頭に、四国、九州、壱岐、対島、佐渡、本州という順に八つの島(大八島国)を生み、それからさらに他の島々を産んだとされています。そのオノコロ島がこの淡路島の最南端の沼島(ぬしま)だと言われています。沼島の名前の由来は、『ぬ』という文字には玉という意味があり、島の形が勾玉の形をしている所から「ぬしま」と呼ばれたのだそうです。下の写真の手前が沼島で、奥が淡路島です。沼島の周りを舟に乗って一周することにしました。小さな船だったので、かなり揺れましたが頑張って船に捕まっていました。(実は、今日職場で服を着替える時に足に“青あざ”を見つけてしまいました。思い返すと船が揺れて転んで足を打ったのでした。そんなことにも気付かずに一生懸命見ていたと思うと我ながら恥ずかしくなってしました。でも、それくらい素晴らしい島なのです。)まずはじめに行ったところが、鞘型褶曲(さやがたしゅうきょく)です。これは、1億年前の地球の「シワ」が残る珍しい岩石なのです。引き潮の時にしか姿を現さないのですが、この岩は沼島以外ではカナダとフランスの2か所にあるだけで、昔の地殻内部の動きが分かる世界でも貴重な資料となっているのだそうです。私は、案内をしてくださった方に、「何故、1億年前って分かるのですか?」と聞くと、「学者がそう言ってるから間違いないと思うで。」とのことでした。なるほど、現代の科学の力で1億年前の地球のシワだと言うのだから間違いないのでしょう。やはり、日本でもっとも古い地層なのですから、なるほどここが国生みだと言うのもうなずけますね。もう少し近づいてみます。真ん中のあたり見えますでしょうか。このあと、『上立岩』へ行きました。上立岩はイザナギとイザナミが出会った天の御柱であるとも龍宮の華表(城郭の門)であるとも伝えられています。この平な岩の上で、イザナギとイザナミは国生みをなさったとも言われています。岩と岩の間に入れそうなところがありました。ここは、『黄泉の入口』とも言われています。イザナミを追いかけて黄泉へ行き、黄泉から帰ってきたイザナギはここから出てきたのだそうです。古代のロマンが伝説となり息づいている、ここ沼島は美しい自然に囲まれた素晴らしい島です。私達はこのあと船から降りて島の中を散策しました。残念ながらおのころ神社へは行くことができませんでしたが、天満宮、八幡宮、神宮寺、弁財天などに行くことが出来ました。それは次回ということにさせていただきます。
2009.04.28
コメント(4)
一年ぶりの近江神社です。大近神宮駅から降りて歩いて10分くらいです。御祭神・天智天皇は、大化改新を断行され古代国家の基礎を確立、近江大津宮に遷都されこの都に御即位されました。とても綺麗な神社です。拝殿では、天智天皇をしのびながら参拝をしました。ご祭神の第38代天智天皇は、今から360年余り昔、大化の改新を成し遂げられ、古代国家の根本を確立されました。境内は、当時の都「近江大津宮」の古跡です。「天智」とは天のように広く限りない智恵の意味なのだそうです。御在世中に漏刻(水時計)を造られ国民に“時”を知らすことをはじめられました。また、日本最初の学校を造られたり、初めて石油が発見されたことでも知られているのだそうです。世界的にも国家という概念が出来つつある時期でもあったのかも知れません。海外の脅威を感じつつ中央集権を目指したのはまさに、天智天皇が最初の方だったのかも知れませんね。私は子供のころ天智天皇といえば、百人一首で一番初めの人という意識しかありませんでした。でも、意外とその感覚は正しいのかも知れませんね。文字もその頃、大陸から入ってきています。新しい文明の始まりの時のリーダーだったと言えるのかもしれませんね。さて、このあともう一度電車に乗って石山寺を目指したのでした。
2009.04.28
コメント(0)
三井寺から駅に戻る途中ちょっと気になった神社がありました。三尾神社です。ご祭神は伊弉諾尊です。門をはいるとすぐ、拝殿がありました。三井寺も明治のはじめ、神仏分離令に基づいて、出雲や伊勢に系列する社はすべて分離させられました。三尾(みお)神社はそのうちのひとつなのだそうです。伊弉諾尊が長等山の地主神として降臨したのが縁起の始まりとされ、神はいつも赤、白、黒三本の腰帯を垂らしていたのが三つの尾を曳くように見えたところから「三尾」と名づけられたのだそうです。腰帯は、それぞれ赤尾神、白尾神、黒尾神となり、本神である赤尾神が最初に三井寺山中琴緒谷(ことおだに)に出現。それが、卯年の卯月卯日、卯の刻に、卯の方角から現れたため、当社の使いとして、瑞祥の神獣である兎が選ばれたと伝えられています。御神紋も「真向き(まむき)の兎」です。全国でも兎にゆかりを持つ宮は珍しく、卯年の今年は大勢のお参りが見られるのだそうです。とりわけ、初詣でには、連日、何台もの観光バスからあふれる人たちでとても賑わうらしいです。卯年生まれの守護神で縁結び、安産に霊験あらたかな社だそうです。 うちの娘がうさぎ年なので、お願いをしておきました。さて、次は近江神社です。
2009.04.27
コメント(0)
一年ぶりに三井寺へ行ってきました。前回行った時は、金堂の横にある閼伽井屋の存在に気付かずに帰って来てとても残念な思いをした。三井寺の名前の由来になったともいう、閼伽井屋が今回の一番の目的地でした。まずは三井寺駅から歩いて10分、仁王門に着きました。重要文化財なのだそうです、立派ですね。まっすぐ進むと金堂です。御本尊の弥勒菩薩は天智天皇が信仰されていた霊像なのだそうです。そして、その金堂の左手に回るとありました。閼伽井屋です。天智、天武、持統の三天皇が産湯に用いられたという泉が湧いています。ぼこぼこぼこと音がしています。時々、キューンと鳥の鳴くような音がします。まるで生き物のようです。水道のない昔の人にとってこのような井戸がどれだけ大切にされたかと思うと、ちょっと、感動です。しばらくその場に立ちすくんで井戸のぼこぼこに聞き入っていました。閼伽井屋の上には左甚五郎の龍がありました。昔この龍が夜な夜な琵琶湖に出て、困った甚五郎が自ら龍の目玉に五寸釘を打ち込み、静めたと伝えられています。今も、この龍は閼伽井屋の正面で三井寺を見守っているのだそうです。弁慶の引き摺り鐘です。昔、俵藤太秀郷が三井寺に寄進したのですが、その後延暦寺との争いで弁慶が奪って比叡山へ引き摺りあげて撞いてみると“イノー・イノー”(関西弁で帰りたい)と響いたので、弁慶は「そんなに三井寺へ帰りたいか!」と起こって鐘を谷底へ投げ捨ててしまったのだそうです。その時の物と思われる傷痕や破目が残っているのだそうです。さて、目的の閼伽井屋も見れたし、ちゃんと参拝も出来たし次は近江神社です。でも、その前にちょっと気になった神社があったのでそちらの方へも足を延ばしてみました。
2009.04.26
コメント(4)
今回の和歌山市での最終目的地の窯山神社です。時間があれば東照宮や、天満宮、雑賀崎の辺りの番所の鼻にも行きたかったのですが、段々日が落ちてきてここが限界のようです。竃山神社は娘が5歳で、息子が3歳の時の七五三で来たことがあります。あの頃子供たちは可愛かったな~、などと思いだしてしまいました。御祭神は彦五瀬命です(五瀬命イツセノミコトとも言われます)。彦五瀬命とは、神武天皇のお兄さんなのです。五瀬命はウガヤフキアエズと、海神の娘であるタマヨリビメの長男として生まれました。弟に次男:稲飯命・三男:御毛沼命・四男:若御毛沼命(磐余彦尊)がいます。末っ子の磐余彦尊が後に初代天皇である神武天皇となります。五瀬命は弟たちとともに東征に従軍しましたが、浪速国の白肩津(あるいは生駒の山)での長髄彦との交戦中に長髄彦の矢に射られて瀕死の傷をうけます。五瀬命の「我々は日の神の御子だから、日に向かって(東に向かって)戦うのは良くない。廻り込んで日を背にして(西に向かって)戦おう」という助言によって一行は南へ廻り込んみましたが、紀国の男之水門に着いた所で、射られたときの傷が悪化しました。五瀬命は「賊に傷つけられて死ぬとは」と雄叫びしたので、その地を男之水門(雄水門)といいます。古事記によれば紀国男之水門で、日本書紀によれば紀国竈山で亡くなり、竈山に陵が築かれたと言われています。ところで、神武天皇は四兄弟でした。【長男・五瀬命】神武天皇と一緒に東征したものの、長髄彦から傷を負いここ和歌山の窯山神社の辺りで亡くなります。【次男・稲飯命】神武東征に従いますが、熊野に進んで行くときに暴風に遭い、「我が先祖は天神、母は海神であるのに、どうして我を陸に苦しめ、また海に苦しめるのか」と行って、剣を抜いて海に入り、鋤持(サヒモチ)の神になったのだそうです。【三男の御毛沼命】一緒に東征したものの、九州の高千穂の辺りで鬼が暴れて思うようにしているとの知らせを受けて、九州へ帰り鬼をやっつけてその地を治めたとのことでした。【四男・神武天皇】東征を果たし、今の天皇の祖となりました。その神武天皇の兄弟を祀っている神社をpleさんの安仁神社で紹介してくださっています。兄達を祀ってあるので安仁神社(あにじんじゃ)とは面白いですよね。
2009.04.25
コメント(2)
塩竃神社の御祭神は製塩法を伝えた鹽槌翁尊で、もともとはすぐ北に鎮座する玉津島神社の祓い所す。御神体の塩槌翁尊は、輿の窟と呼ばれる窟に鎮座する、海の幸、安産の神様として親しまれてきた神社です。私も息子を妊娠した時に腹帯をここで頂きました。祠は、海風により自然に出来た洞窟です。祠の中には小さな拝殿が造られています。元は輿ノ窟(こしのいわや)と呼ばれていたのだそうです。塩竃神社のちょうど目の前にあるのが不老橋(ふろうばし)です。この橋は、片男波松原にあった紀州東照宮御旅所の移築に際して、第10代紀州藩主徳川治寶の命によって架けられたのだそうです。私達が和歌山市に住んでいたのは、今から20年くらい前から7年間です。当時の和歌浦はこんなにきれいに整備はされていませんでした。当時はバブルの少し前です。和歌山市のリゾート開発が始まろうとしていた時のことです。テレビを見ていたら、突然この不老橋をクレーン車が壊そうとしているのです。そういえば、少し前に不老橋を壊すと新聞に出ていました。私は、新聞を読んでなんてことを…、と嘆いていたのを覚えています。そしてついにその当日、クレーン車は不老橋にガーンと横殴りの一発を入れたのです。うわ~、酷い。そう思った瞬間、クレーン車は動きを止めました。そして、その後工事は一旦中止になったのです。一体、何事が起ったのかはいまだに定かではありません。しばらくして、不老橋の前を通ると橋の一部崩れたところがけが真新しいコンクリートで白く光っていました。私は悲しくなって、胸が重くなったものです。それから、そのことはずーっと忘れていたのですが今回この不老橋を見ると何とも、驚いたことにあの時の白く光っていたコンクリートは無くなっています。どうしたのでしょうか。誰かが、壊れたところを組み合わせたのでしょうか。それとも、同じような素材を探してきて修復しなおしたのでしょうか。20年の歳月が、あの全く素材の違うぺったりしたコンクリートを同じ素材の石に変化させたとは到底思えないのですが…。いずれにしても、今はあの思いつきのようなクレーン車での破壊のあとは全く残っていません。私と夫はなんだかキツネにつままれたような不思議な感覚にとらわれているのです。でもまあ、元に戻って良かったということなのでしょうね。そのあと、和歌浦の片男波へ向かいました。それから、和歌浦はとても綺麗になっていました。片男波は以前よりもいっそう整備され、観光客にも地元の人にも愛される美しい海なっていました。このあと、竃山神社へ向かったのでした。
2009.04.24
コメント(8)
玉津島神社には、雅日女尊(わかひるめのみこと)、息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと=神功皇后)、衣通姫尊(そとおりひめのみこと)が奉られています。御三人様ともお美しく大変魅力的な方です。神社好きの女性でしたら、この玉津島神社はお好みのではないでしょうか。私も、『美人』というキーワードにはついつい反応してしまします。(笑)稚日女尊さまは伊奘諾・伊奘冉二尊の御子であり、天照大御神の妹神に当たられ、後世またの御名を丹生都比売神と申し上げます。息長足姫命さまは神功皇后(仲哀天皇の皇后で、応神天皇の母)のことです。皇后が海外に郡をおすすめになられた時、玉津島の神(稚日女尊)が非常な霊威をあらわせられました。玉津島の神を尊崇せられが皇后は、御自身も合祀されることとなりました。衣通姫は第十九代允恭天皇の妃で容姿端麗でまばゆいばかりの肌の細やかさからその肌の美しさは衣を通しても光り輝くためその名で呼ばれていました。また、大変聡明な方だとも言われています。允恭天皇は慈悲深い天皇だったが、壮年になって病に冒され半身不随となり天皇の位を辞退しようとしたところ、衣通姫は半島から薬師を招き天皇の御病気を治されたというお話が小説になっていたりもします。小野小町が参拝の時に上掛けをかけたと言う「小野小町袖掛けの塀」です。ここにも美女が登場です。しかも、美しいだけでなく和歌で有名な彼女です、そうとう聡明な方だったのでしょうね。美しく、聡明な三柱の神様を祀る神社らしく何とも言えない気品を感じる社です。三柱の神様にあやかって美しくなれるようにといつもとはちょっと違うお願いをしてみたくなるほどです。これは、以前和歌山市吹上辺りにあった根上松です。凄いですね。和歌の神として知られる衣通姫尊が御神体であることから、山部赤人や松尾芭蕉などが詠んだ和歌や俳句を刻んだ歌碑が建てられ、三十六歌仙の絵馬が飾られています.ここからほど近い紀三井寺では、『孝行者の紀伊国屋文左衛門が母を背負い、この坂を登って参拝に行く途中、草履の鼻緒が切れてしまった。そこへ、ここ玉津島神社の宮司の娘かよが通りかかり、鼻緒をすげ替えた。これが縁でふたりは結ばれ、宮司が出資したみかん船で文左衛門は大儲けした。』という話があります。私は和歌山市に住んでいた時はここから本当に近かったので、子供を連れて何度も来たことがあります。そのころは、神社に興味を持っていたわけではなかったのですがなぜかこの神社だけは好きでした。思い出深い神社です。海のそばにあり、とても気持ちがいいというのも理由の一つです。そして、この神社のすぐ隣に「塩竃神社」があります。そちらの方へも行ってみました。
2009.04.23
コメント(3)
紀伊の国一宮日前宮です。祭神 日前大神(ひのくまのおおかみ)相殿 思兼命(おもいかねのみこと) 石凝姥命(いしこりどめのみこと) 祭神 國懸大神(くにかかすのおおかみ)相殿 玉祖命(たまおやのみこと) 明立天御影命(あけたつあめのみかげのみこと) 鈿女命(うづめのみこと)和歌山市の町中からほど近いところにこんなに素敵なところがあったなんて。私は、7年も和歌山市に住んでいたのに、ここに来たのは先月が初めてでした。入口辺りには来たことがあります。娘のお宮参りで来たので、写真にはちゃんと写っています。でも、拝殿までは来なかったようです。始めてくる日前宮の拝殿は厳かで、凛とした空気に包まれています。いつまでも離れがたい気持ちでいっぱいです。そろそろ帰ろうかと離れても、また戻ってしまったり…。それを何度か繰り返してしまいました。でも、いつまでもいるわけにはいきません。後ろ髪を引かれつつ、次は玉津島神社へ向かったのでした。
2009.04.22
コメント(0)
室生寺から駅の方へ下って行く途中に、大野寺があります。門の前の駐車場に車を止めて、中に入りました。大野寺は役行者が開いたのだそうです。空海が室生寺を再興する時、この地を西の大門と定め一宇を建て、弥勒菩薩を安置、「慈尊院弥勒寺」と称したのだそうです。ここは、桜の名所で枝垂れ桜が綺麗なはずなのですが、今回は残念ながら少し遅かったようです。散りかけていました。大野寺対岸の岩壁に彫られているのは高さ14メートル、左手を上げ、右方向に歩み出すような姿です。刻み込まれた衣紋も美しく、磨崖仏としては最大なのだそうです。 桜は残念だったのですが、庭園は色々なお花が咲いてとても綺麗です。桜の綺麗な時にもう一度来てみたいです。この日の目的はこれで最後です。ところで、今日本中不況の嵐でたいへんですね。みんなが幸せでいられますように、そんな思いを込めての今回の参拝でした。お天気もよく、気持ちのいい一日をありがとうございました。感謝の気持ちで、大野寺を後にしたのでした。
2009.04.21
コメント(6)
室生寺から10分くらい歩いたところに龍穴神社があります。なんて、書くとよく知っているように見えますがそうでもないのです。随分前からpleさんのブログでいつかは一度行ってみたいと思っていたのですが、今回急遽決まったのでちゃんと準備しておかなかったのでちゃんとつけるかドキドキでした。龍穴神社は室生寺よりも古く、室生寺は龍穴神社の神宮寺ともいわれ龍王寺と呼ばれていた時期もあったようです。 うっそうたる巨杉に囲まれて昼でも暗い神社です。御祭神となっているのは「タカオカノカミ」で、イザナギの命が、火の神を切った時に出てきた神様です。近くの龍穴に棲むとされてきた。そのため古代から雨乞いに霊験あらたかなのだそうです。また地元の伝説では、奈良の猿沢池に住んでいた龍が池に女性が身を投げたので、住まれなくなってこっちに飛んできたとなどという話もあるみたいです。連理の杉です。杉も夫婦仲良しなのですね。ただし、裏へ回ればちょっとしたことがあるのですが…。興味のある方はppleさんの室生・龍穴神社のブログを見てみて下さい。確かにそうでしたフフフ…。杉も人間も同じなのかも。さて、次はこの神社の近くにある天岩戸に行きたいのですがどうも近くに見当たらないのです。室生寺とここの間くらいのところにあった地図で見ると、本当にすぐ近くのようです。神社の横の道を登ってみたのですが、行きどまりです。そういえば、神社の前に道があります。夫はきっとこっちだと言うのです。なんか違う気がするのですが、とりあえず行ってみました。すると、そこに私達よりも少し年配の御夫婦がおられてどうも道を探しているようなのです。私達 「あの、道をお探しですか?」御夫妻 「ええ、天の岩戸へ行こうと思ってさっきから30分くらい探し回っているのですが、分からなくて諦めようかどうしようか迷っているのです。」そういえば、pleさんから教えていただいていたものがあることを思い出しました。え~っと、字が小さくてちょっと読みにくいのですが落ち着いてちゃんと読んでみると、どうも神社の前の道を上流に登って行くようです。私達 「あ~、どうもこちらではないみたいですよ、上流の方に行ってみましょうか。」御夫妻 「そうですか、それは助かりました。行ってみましょう。」ということで、私たち二人はその、年配のご夫婦と歩き始めました。歩きながら、色々お話をさせていただきました。御夫婦 「どちらから来れれたのですか?」私達 「大阪です。」御夫婦 「私達と同じですね。」私達 「天岩戸は楽しみですね。」御夫婦 「枚方の方にも天の岩戸があって、間をくぐれるのですよ。」あ~、それ先日のpleさんの磐船神社のブログで書いてあったあの天の岩戸のことではないですか。私 「そこ知ってます、でもまだ行ったことがないのです。」やっぱり、あそこは有名なのですね。また、行きたいところが増えてしまいました。などと話しながら歩いていると、向こうから若いカップルが歩いてこられました。すると、御主人様が道を聞いておられました。御主人様 「天の岩戸へ行かれたのですか、ここから遠いですか?」若いカップル 「もう少し行かれたら看板があるのでそこを、左に曲がれば行けますよ。そこから、少し山を登るのとありますよ。」 そうなんだ、もう少しで着くのですね。私達は若いカップルにお礼を言って分かれました。女性の方の胸に付けていたブルーの勾玉が綺麗で印象的でした。しばらく歩くと、看板がありそこを右に曲がり山を登って行きました。夫は歩くのが苦手なので、そろそろ疲れてきているみたいです。 御主人様 「疲れてきたみたいですね。」夫 「はい、ちょっと。ところで、バスで来られたのですか?」御主人様 「駅から歩いて来たのですが、間違って近道を通ってしまったので、2キロ程、損をしたので、もう少しどこかを歩こうと思っていたのでよ。」え~、すごい。私も夫も驚いてしまいました。駅からここまでって、結構な距離があるのですよ。でも良く見ると、結構この辺りは駅から歩いている人のかもしれません。なんだかんだ話しながら歩いて山道を登っていると、ついにありました。天の岩戸です。鳥居がありました。天の岩戸の中に入れるようです。さっそく私は入ってみました。確かに、その雰囲気があります。夫 「さあ、天の岩戸があったから、もう引き返そうか?」私 「そうやね、でももしかしたら龍の滝が近くにあるかもしれへんからちょっとだけ歩いてみようよ。」ちょっとだけ、ちょっとだけ…と言いながら進んで行きました。見えました。小さな鳥居があります。確か、ここを下れば龍の形の滝があるはず。凄い、神聖な雰囲気です。ちょっと高千穂峡の雰囲気に似ています。ありました。写真ではちょっと見えにくいかも知れませんが、山の上の方から水が流れてきてまっすぐではなくて龍が空に登って行くかのように斜めに流れています。目の前には龍が隠れていたのではと思われるような穴があります。これが龍穴なのでしょうか。手を合わせてしばらく佇んでいました。私は大満足。夫はちょっと疲れ気味ですが、ほっとした様子。さっきの御夫婦はもう少しゆっくり見ていたいようだったので、ここで別れて私達は、室生寺の方へ戻りました。そういえば、まだお昼をしていなかったので小さな茶屋のようなところでお昼を頂きました。しばらくすると、さっきの御夫婦が通られました。御夫婦 「あ~、早かったですね、休憩ですか。私達はこれから歩いて駅に向かいます。」私達 「そうですか、ではまたどこかでお会いするかも知れませんね。さようなら。」そう言って別れて、私達は食事を終え車に乗って室生寺から下って行きました。私達は、御夫妻とどの辺りですれ違うかを楽しみにしていたのです。そろそろ追いつくかなな…どと考えながら。いくら速く歩くと言っても、もうそろそろいるんじゃないの。などと言いながら。ところが、ついに山を降り切った辺りまで行っても、ついにすれ違うことはなかったのでした。ふ~ん、もしかしたら、あの御夫婦は龍穴神社の『連理の杉』が人間の姿になって表れたのかもなんて思ったりしたり。そういえば、最初のカップルも怪しい…。あの辺りで男女の二人連れを見たら、もしかしたら『連理の杉』が人間に姿を変えているのかもしれませんよ。なんて、ことはないですよね。(笑)さて、このあとは最後の目的地、大野寺です。
2009.04.20
コメント(12)
またまた、思いつきの旅です。昨日、行ってきました。もちろん相手は夫です。いつものように、朝起きて朝食を食べてからお天気を見て、「今日はどこへ行こうか~。」と、夫。よっしゃ、これでどこかへ行ける。そういえば、私が、「佛隆寺の桜が終わったので、室生寺の石楠花はどうですか?」と聞いたら、「石楠花は良いの、佛隆寺の桜にこだわっているのだから、来年ね。」と、ちょっぴり冷たい返事だったし。「じゃあ、室生寺と龍穴神社と大野寺へ行きたい。」と私が言うと、夫は。「良いよ、じゃあ出かけよう。」「えっ、今すぐ?」「うん、さあ行こう。」ということでいつもの如く、決まればあっという間に家を出ることになるのです。そうそう、夫の気が変わらないうちにというのも重要な要素。ということで、なんの用意もないまま、とりあえず家を飛び出したのでした。そういえば、住所くらい持って行くべきだったと思いながら。簡単な近鉄のパンフレットが車に積んであったはず…。行き先をナビで設定して出発です。着きました、室生寺です。桜は終わっていましたが、人は多いですね。もう、石楠花が咲いています。綺麗ですね。う~ん、良いにおいです。これが室生寺の五重塔です。確か、私は小学生の時に遠足で来て以来です。あの時は、室生口から歩いたな~。本当に遠く感じてへとへとになったことを思い出しました。五重塔は、平成10年の9月の台風7号で被害を受け、その後新しく建て直したのですよね。ここの金堂の仏像は、凄いです。釈迦如来立像 、十一面観音像 、地蔵菩薩立像 、帝釈天・薬師・文殊 、十二神像 、釈迦如来坐像 、如意輪観音菩薩・弥勒菩薩像 …。教科書で見た記憶がありますが、こうやあって目の当たりにすると圧巻です。さて、このあと私と夫はこの日一番の目的地である龍穴神社へ向かったのでした。
2009.04.19
コメント(10)
4月5日のことです。朝起きて、夫が「どこか行きたいところない?」なんて言ってくれたので、じゃあ桜の季節だし根来寺でもということで、出かけたのでした。夫は本当は家の近所のつもりで来たのかも知れませんが、「お天気も良いし、じゃあ出かけようと」いつもの通りアバウトな二人です。私も先輩や友達とどこかへ行く時は、電車なので結構緻密に計画を立てたりもします。電車の時刻はちゃんとネットで検索して、行き先を予習しておいたりしていっぱいプリントアウトしたものやら、地図やら、パンフレットやらを持ち歩くのです。でも、夫と行く時は車ですし、とにかくいつも思いつきの行き当たりばったりです。根来寺も、行くと言ったものの本当に着けるかどうか分かりませんでした。なんせ、もうその信号を曲がれば根来寺という辺りから、以上に車が混み始めたのです。夫は言いました。「やっぱり止めて、和歌山へ行こうか」と。え~、根来地が目の前なんですよ。もう歩いても行けそうな距離なんですよ。でも、確かに駐車場に入るのに30分以上はかかりそう。夫は人ごみが好きでないし、何と言っても渋滞が大嫌い。でも、私はここまで来たらどうしても行きたい。結局、渋滞のど真ん中に突進ということになってしまいました。当然、夫はイライラし始めます。………。ところが、良く見れば根来寺からかなり距離はありますが、何か公園の駐車場らしきものがあるではありませんか。夫は歩くのは大丈夫。ということで、蟻のような動きで進みながら無事、公園の駐車場に止めることが出来たのでした。そして、10分くらい歩いたでしょうか無事、根来地に着いたのでした。確かに桜は凄く多いです。でも、それ以上に人も多い…。多宝塔がありました。秀吉の根来寺焼き討ちの際に延焼を免れた多宝塔(根本大塔)には、この時の火縄銃の弾痕が今でもはっきり残っていて、「この寺が普通の寺ではなかったんだ。」とつくづく思い知らされたのだそうです。根来寺、根来衆といえば、やはり戦国時代に活躍したのですね。奥の院へ行く途中の水道です。良く見ると牛の頭です。(かなり、リアルですよね。)今年は丑年だからでようか。なんか、去年はミッキーマウスだったらしいのです。確かに、ミッキーはネズミですよね。根来寺は人が多いな~、と思っていたら意外にそうでもないところを見つけました。不動堂です。身代わり不動さんです。(興教大師が暴徒に襲われた時、身代りになられた不動明王なのだそうです。)中へはいると、文殊菩薩、反対側には七福神さまたちがいらっしゃいます。それが、どの仏像も素晴らしいのです。特に七福神様たちは本当に、良い感じなのです。落ち着くわ~。私はここが一番好きです。とにかく、良い表しにくいのですが、ほっとすると言うか、なんとも柔らかい空気に包まれているのです。あ~、来て良かった。このあと、出店でおでんと焼き鳥を食べてご機嫌で、次の目的地の和歌山市へ向かったのでした。
2009.04.18
コメント(4)
先月行った二泊三日の宮崎・高千穂の旅、訪問先がたくさんあって1~12までになってしまいましたが、今回で最終回です。よかったら、最後までお付き合い下さい。くしふる神社から5分くらい歩いた神代川の脇に天真名井があります。高千穂峡にある真名井の滝はここの水が地下水を通って流れおちているのだそうです。天孫降臨の際に天から種を移した地であると伝えられており御神水として崇められています。天真名井の脇の神代川を渡ったところに夜泣き石があります。昔から災いがある時は石が夜泣きして知らせたという伝説の石です。夜泣きの激しい赤ちゃんが触ると夜泣きが治ると言われています。とりあえず、私も触ってみました。あんまり意味はありませんが…。普通の石のようでした。さて、今回の旅の一番最後を飾るのが荒立神社です。天孫降臨の案内役であった、猿田彦の命とアマノウズメが結婚したと伝えられる地にあり、その名は荒木を使い急いで宮居を建てたことに由来するのだそうです。ご祭神の猿田彦命は交通安全や教育の神様。アマノウズメは芸能の神様として崇められています。最近では芸能人や、音楽家の人もたくさん参拝に来るのだそうです。三泊四日の宮崎・高千穂の旅もこの回で完結です。天気予報では本来毎日雨ということで、心配されたのですがなんとか乗り切ることが出来ました。目的地を離れたとたんに雨ということも何度もありましたが…。完全に雨だったのは、最後の一日だけというとてもラッキーな旅でした。思い返せば、一日目 えびの高原池めぐり二日目 高千穂の峰・天の逆鋒、霧島神社三日目 高千穂峡・真名井の滝、天の岩戸神社・天の安河原、高千穂神社の夜神楽四日目 くしふる神社、天真名井、荒立神社と、かなり強硬日程でした。鹿児島空港から宮崎へそして、熊本空港から帰って来たのでした。自分で計画した行きたいところだけ行くという我儘旅行でした。本当は韓国岳にも登りたかったし、もっと行きたいところもあったのですが決められた日数の中では、最大限に行けたしとても充実していたとの思いでいっぱいです。やはり、神様に守られていると実感しました。一言でいえば、“楽しかった”。またいつか、機会があれば行ってみたいです。もし、興味のある方には是非お勧めですよ。ここまで読んで下さった方、本当にありがとうございました。夢の中の宮崎・高千穂はここまでですが、また実生活に戻っていつものように関西の神社仏閣巡りの続きです。楽天で、写真の所蔵枚数がそろそろいっぱいになりそうです。今は、昔の写真を消しながら書き進めていますが、少しづつアメブロの方に移るしかないのかなと迷っています。いずれにしても、これかも、どうぞよろしくお願いいたします。m(_ _"m)ペコリ
2009.04.17
コメント(6)
高千穂の旅も途中になってしまっていました。あと、2回で完結です。もう少しだけお付き合いください。その日は、ついに雨が降ってしまい、傘をさしての参拝でした。本当はお天気の方がいいのですが、宮崎では次の機会にというわけにいかず、取り合えす、雨を気にせずに出発したのでした。猿田彦さんが道案内をしてくださっています。古事記に迩迩芸命(ニニギノミコト)が降り立った所を「筑紫(九州)の日向の高千穂のくじふる峰」と記され、その場所と考えられている「くしふる峰」の中腹にある神社です。天照大御神の孫、迩迩芸命(ニニギノミコト)が地上へ降り立った(降臨)の地(下段注参照)として伝えられています。祭神は迩迩芸命(ニニギノミコト)、天児屋根命(アメノコヤネノミコト)、経津主命(フツヌシノミコト)、天細女命(アメノウズメノミコト)等鳥居をくぐると本殿です。ニニギノ尊さまのことを思いながら参拝しました。このあと、小高い丘を200メートルくらい山手へ登ると高天原遙拝所があります。天孫降臨後、神々がこの丘に立って、高天原を遙拝(遠くから拝むこと)した場所といわれています。周囲は人影も少なく、森に包まれ、遊歩道を歩いているとマイナスイオンを浴びとてもリラックスできます。神武天皇の兄弟神の生誕地と伝えられる「四皇子峰」や高天原の水の種を移したとされる「天の真名井」等が近くにあります。写真には雨粒が写りこんでしまいました。このあと、真名井の滝の水源「天真名井」へと足を伸ばしましたのでした。
2009.04.16
コメント(2)
日本三大お不動さんは一つ滝谷不動へ行ってきました。私は不動明王が好きで、時々ここへ来たくなります。本当はリンちゃんに教えてもらった真言を言って参拝したのですが何と言っても不動明王さまの真言は長いのです。(きょうはリンちゃんと一緒に来たのではないのです。真言をネットで出して持ってきました。)ノウマク サラバタタギャテイビャク サラバボッケイビャク サラバタタラタ センダマカロシャダ ケン ギャキギャキ サラバビキンナンウン タラタ カンマンリンちゃんは暗記しているのですが、私はメモを見てもうまく言えません。何と言ってもどこで切るのかさえよく分からないのです。一生懸命読むのですが、舌を噛みそうです。日本語の意味に直すと(全方位の一切如来に礼したてまつる。一切時一切処に残害破障したまえ。最悪大忿怒尊よ。カン。一切障難を滅尽に滅尽したまえ。フーン。残害破障したまえ。ハーン。マーン。)ということらしいのですが、これもまた難しい。最後のカンマンのは「カン」が不動心、「マン」は、柔軟心を表しているらしいのですが、今日はそれだけを覚えることにしましょう。【たまたま博士によると、いきなり火界呪 唱えなくともいいのだそうです。詳しくはたまたま博士のコメントをみてください。やっぱりネットをそのまま使うのは問題がありそうです。(^_^;)。リンちゃんにちゃんと聞いておけばよかった…。】ここでいるとまるで山の中にいるようで、別世界のようです。(実は車で10分も走ると、街中に出るのですが…。)西国三十三ヵ所巡りが出来るところがあります。西国三十三ヵ所の仏像のミニュチュアがあり、それぞれのお寺の土を床の下に埋め込んであります。最近はいくつかのお寺へ行ったので、思い出しながら参拝しました。滝谷不動は、本当に滝があるのです。ここで、水に打たれて滝行をすることが出来るのです。ちょっと、水を触ってみたら凄い勢いの水力です。とても、一瞬でも耐えら得そうにないのですが…。写真の右の方にお不動さんがいらっしゃるのがみえるのでしょうか。不動明王は動物に例えると龍なのだそうです。だから、お水に関係しているのかしら。このあと、身代わりドジョウを川へ帰してあげました。ちゃんと、家族のもとへ帰ったかしら。滝谷不動ははもう何度も来ていますが、桜が咲いていたのは初めてです。この桜は、遅咲きの八重桜でしょうか。いつ来ても気持の良いところです。また来たいなと思いながら、滝谷不動を後にしました。
2009.04.15
コメント(2)
本当は今日は宇太水分神社、、佛隆寺、室生寺、龍穴神社などと歩くつもりだったのですが、雨で中止になってしまいました。少々の雨では滅多に中止にはしないのですが、今日ばかりは降水確率100%。これでは山道は危ないということで駅まで行ったのですが泣く泣く帰ってきました。実は昨日、新しいパンプスを履いていたせいでしょうか、夜中に足がつって痛くて困っていました。朝起きて、湿布を貼って足を引きずりながら駅まで出かけたのすが、中止と決まって実は半分ホットしたのでした。室生寺はシャクナゲの季節でも紅葉の季節でもきっと綺麗なのでしょうけど、佛隆寺の桜は今年は今日が最後、とても残念です。ところで、私はこれでも遊びの合間に仕事をしているのではないのです。ちゃんと、仕事の合間に遊びを入れているのです。(本当です。)ということで、日程は急には変えられないので、決めると大体頑張って行くことになるのです。何も足が痛くても行かなくてもいいんじゃないのという声もあるかもしれませんが、私なんぞまだまだ甘いのです。pleさんは先日、足が悪くてまだ病院に通っているのに、足を引きずって、高野山でなんと2万歩も歩かれたのです。見習わなくてはいけません。目標とするpleさんに近づくために今日は、足を引きずってでも歩こうと思ったのですが、今回は最寄りの駅までという残念な結果になってしまいました。でも、また晴れれば頑張ります。鍛えなければいけません。実は私はこれでも、結構体が弱くてしょっちゅう病院へ通っていました。ところが、神社仏閣を参拝するようになって不思議と体が楽になってきたのです。本当の意味でも元気をもらっています。ありがたいことです。ということで、今日は先日枚岡神社へ行ったこと木のことを書くことにしました。ここもpleさんのブログを見て、以前から行きたった神社だったのです。私は神社仏閣へは、平日は先輩と行くことが多いです。土日は大体、夫と行くというパターンです。ところが、先輩は忙しい人なので私にばかり付き合ってはいられないのです。ということで、私も必然的に先輩以外の友達と出かけることになってしまいます。先輩以外といえば、主に二人います。一人は、有名どころが好きなトキちゃんです。最近では又兵衛桜へ行きました。京都では大原三千院や、貴船の川床料理や紅葉電車に乗ったりしました。もう一人はリンちゃんです。私のブログを何度も読んでいただいている方は、もうお気付きかも知れませんが、リンちゃんはちょっと霊感というか何か感じる力をもった女の子なのです。私よりも8歳くらい若いのですが、お寺や仏教のことをよく知っていて私に教えてくれます。朝のお勤めも欠かさずされているので、真言は全部知っているので、いつも二人で仏様の前に立つとそっと教えてくれます。どちらかといえば、私は神社好きで、リンちゃんはお寺好きということになります。それで、二人で行く時はお寺と神社を取り混ぜて参拝することになります。と、ここまで書いて枚岡神社のことに話は戻るのですがこの神社へはリンちゃんと行ったのでした。この日は、清荒神、売布神社、中山寺というコースだったのすが朝早く出たもので、お昼くらいに三つとも全部参拝が済んでしまったのです。それで、3dayチケットもあることだしと急遽、枚岡神社へ出かけることにしました。リンちゃんは、お寺好きということで枚岡神社のことは知りませんでした。ところが、枚岡駅にを降りて、鳥居に近づいた時のことです。リンちゃんは「何か感じる!」と叫んだのです。霊気があるのでしょうか。手をかざして、「この辺りは感じる。」などと霊気の結界を探しているのです。日が当たっていても、冷たく感じるところもあれば当たっていなくても普通に温かいところもあります。やはり、鳥居のちょっと外側あたりが、その境界のようです。私はといえば、あまりそういったことを感じる方ではないのですが、なぜかリンちゃんといるときだけ、ちょっとだけ分かるような気がします。境内を歩いて行くと注連縄のようなものが見えました。左右に、狛犬さんがいるはずです。良く見ると、ここの狛犬さんは鹿で出来ています。左の鹿は子供を抱っこしています。春日大社も鹿だったような気がします。(間違っていたらごめんなさい、誰か詳しい方教えて頂けないでしょうか)春日大社はここ枚岡神社から分霊されたのです。ですから、枚岡神社は元春日というらしいのです。(詳しくいうと、春日大社はの第一殿は、茨城県の鹿島神宮から迎えられた武甕槌命(タケミカヅチのミコト)、第二殿は、千葉県の香取神宮から迎えられた経津主命(フツヌシのミコト)、第三殿は天児屋根命(アメノコヤネのミコト)と第四殿の比売神(ヒメガミ)が大阪府枚岡(ひらおか)神社から迎えて祀られているのだそうです。) 拝殿です。神聖な空気に包まれています。リンちゃんは、なぜか突然とても眠たくて目が開けていられないくらいだと言うのです。心地よく、不思議なくらいの突然の眠気のようです。やはり、何か感じているかも知れません。しばらく、椅子に座って色々なことを話していました。知らない間に、すごく時間がたっていたみたいです。枚岡神社は、pleさんも何か感じたようなことを書いておられました。大阪一のパワースポットだとも。確かに、リンちゃんを見ていて本当だと思いました。しばらくいる間に、霊気にも慣れてきました。鳥居から一番近いおうちは1メートルくらい霊気に包まれているとリンちゃんは言っていました。いいですね、家にいながらいつも素晴らしい“気”の中にいるなんて。私は高校生の頃いつもこの沿線で通っていたので前を通っていたのに、こんなに素晴らしい神社があるなんてちっとも知りませんでした。でも、あんまりみんなに知らせて大勢の人が押し掛けるようになるのも困るし…。また、来たいと思いました。本当にこんな都会の真ん中にあるのに、不思議で特別な神社でした。(余談です)ちょっと恥ずかしいのですが、実は今日は私の誕生日です。先輩もあと1週間くらいで誕生日なので、合同誕生日会をするはずだったのです。雨で本当に残念です。日程を変更して誕生会をしなくては。年齢は聞かないでくださいね、かなりお目出度いので。(笑)このくらいの年になると、1年1年が大切です。毎日の健康に感謝しています。そして、いつも拙い私のブログを読んでくださっている温かい皆様に心より感謝申し上げます。m(_ _"m)ペコリ
2009.04.14
コメント(8)
全854件 (854件中 1-50件目)