



朝倉義景館跡の西側正門に建っている「唐門」は、観光パンフレットなどにも多く掲載されており、朝倉遺跡のシンボルにもなっているようです。しかしこの門は、朝倉氏滅亡後、義景の菩提を弔うために建てられた松雲院(しょううんいん)の山門です。豊臣秀吉が義景の菩提を弔うため寄進したと伝えられており、門の表には朝倉家の三ッ木瓜(みつもっこ)の紋が、その裏には豊臣家の五三の桐(ごさんのきり)の紋がそれぞれ刻まれています。現在、同館跡の東南隅には、松雲院建立の頃に造られたと考えられている義景公墓所があります。
ところで秀吉の唐門寄進説については、建築の歴史や門の風化具合などからそれを疑問視する向きもあるようです。建築の歴史でみると江戸時代半ばよりちょっと前のものといわれ、柱の風化具合をみても豊臣秀吉の時代に遡るものではないという。しかし一方では、江戸時代中頃に立て替えられたとみる向きもあり、そうだとすると、秀吉寄進の唐門が江戸時代に立て替えられたとの見方もできるようです。とはいえ、唐門に関する文献が出てきていないので定かなことは分からないといわれています。
ちなみに、朝倉時代の西側正門には、足利義昭も出入りした立派な御成門(おなりもん)が建っていたと考えられており、それは特別の場合しか開けない不開の門(あかずのもん)だったようです。
朝倉氏は但馬国(兵庫県)第一の名門武士
朝倉氏は但馬国(兵庫県)第一の名門武士だったようです。もともと日下部氏を本姓とし、但馬国朝来(あさこ)郡から養父(やぶ)郡にかけて勢力を広げていましたが、平安末期に但馬国朝倉庄に移ってから朝倉氏を名乗るようになったといわれています。南北朝時代には、朝倉広景が足利一門の有力武将、斯波氏に従って越前に入国し、新田義貞などと戦い、そののち黒丸(小黒丸)城主に。これが越前朝倉氏の起こり(1333年)です。それから6代約130年間、朝倉氏はこの黒丸城(小黒丸城)を居城にしていたと伝えられています( 9月4日の日記参照
)。
越前支配者となった朝倉孝景が、本拠地を黒丸城(福井市)から一乗谷に
朝倉氏が一乗谷で町造りを本格的に始めたのは文明3年(1471)といわれています。その頃、主家の斯波氏に代わり実質的な越前支配者となった朝倉孝景が、本拠地を黒丸城(福井市黒丸)から一乗谷に移して町作りを本格化させたようです。それから100余年間5代にわたって朝倉氏の居城として、また越前の政治、経済、文化の中心として栄えました。その規模は人口が1万人を超し、北国の小京都といわれるほどに繁盛した城下町だったといわれています。しかし天正元年(1573)、天下統一の戦いの中で織田信長に敗れ、戦国大名朝倉氏は滅びました。織田軍によって火がつけられた一乗谷は三日三晩燃え続け、灰燼に帰しました。
400年もの間、朝倉氏1世紀の歴史がそっくり埋もれて残されていた
義景館跡
しかし幸いなことに、その後の政治の中心が一乗谷から北の庄(足羽川右岸=足羽川北側)に移ったことから、400年もの間、朝倉氏1世紀の歴史がそっくり埋もれて残されていました。一乗谷城下町跡は昭和46年(1971)国の特別史跡に指定され、史跡公園として発掘・整備が今も進められています。平成17年(2005)からは、「平地」の発掘調査に加え、義景館跡の背後に築かれていた「山城」の本格発掘調査にも着手したようです。「山城」の調査は全国的にも珍しいといわれ、学術的な成果が期待されているそうです。
義景館跡の謎、トイレ
朝倉遺跡の義景館跡は、建物配置や間取りが分かるほど良い状態で礎石群が残っており、戦国時代の貴重な遺跡として関係者の注目を集めています。とはいえ、日常生活に欠かせないトイレの遺構がまだ確認されていません。義景館跡の謎とされています。当時の貴族は「清箱」(しのはこ)に用をたすのが常識だったともいわれていることから、清箱という、今でいうオマルを使っていたとみるむきもありますが、一方では「当時の義景館にもトイレはあった」との見方も根強く、今後の確認調査に期待を寄せる声もあります。 もっとも、それらしいものは発掘されているようです。同館跡常御殿の東北隅で発掘された石積をトイレと考えるむきもあります。また同館跡内ではないのですが、義景の母の屋敷と伝えられる「中の御殿跡」でも、トイレとみられる石積が発掘されているようです。それも、尿が雨水と一緒に館の外へ流れ出る、水洗便所を想定させるようなものらしい。ただ、これらの石積については、ゴミ溜説など石積がトイレと言い切れない事例も若干あるため、トイレと断定するには至っていないようです。
ところで、義景館跡ではトイレの遺構が確認されていないものの、城下町全体でみると、それらしい石積が数百基確認されているといわれ、トイレはかなり普及していたと考えられています。それらの石積が戦国時代のトイレと確認される決め手となったのは、城下町内で発見された「金隠し」です。「金隠し」とは和式トイレの前部に必ずついているあれで、昭和55年(1980)、武家屋敷や小さな町屋などの建物跡が残る奥間野地区の一角で発見されました。
このように見ていくと、「当時の義景館にもトイレがあった」と考える関係者の思いが理解できます。城下町全体でトイレがかなり普及していたと考えられていることからも、当時の義景館にもトイレがあった考えるほうが的を得ているようにもみえます。例えトイレが存在していたとしても、既に破壊されていることも考えられますが、同館跡遺構の保存状態がよいことから、当時のトイレが残されている可能性も高いわけで、今後の確認調査に期待を寄せたいものです。
防御を目的に櫓と一帯に築かれた「下城戸」「上城戸」
東西の山が最も迫まった所、幅約80mの谷に下城戸、そこから約1.7km上流に上城戸をそれぞれ構築し、城下町の中心となる城戸ノ内を構成しています。両城戸は、近世城郭の外郭主要門に相当し、城主の館など城下町中枢部の防御を目的に櫓と一体に築かれています。 特に下城戸は、出入り口の両側に、重さ10tを超す巨石が積み上げれられており、そこに立つと、戦国時代の気風が伝わってくるような思いがします。

城下町南端の出入り口「上城戸」
上城戸は、城主館より南側の谷が最も狭まった所にあり、土塁は長さ約105m、幅約15~20m、高さ約5mで、東側山麓から一乗谷に達する規模で構築されています。土塁の外側には幅12m、深さ3mの濠が存在します。一乗谷に面した西側には、巨石を組んだ石垣があり、ここが出入り口(城戸口)と考えられています。また、この濠を掘削した時の廃土は、土塁構築に再利用していたともいわれています。

「下城戸」=土塁外側(北側)には濠があり、外側から町の中が見通せないように矩折(かねおれ)状に造られています(左)。
下城戸出入り口は巨石に圧倒されます
(右
)
一方、下城戸は構造に大きな特色があります。「矩折」(かねおれ)状といって、外側から町の中が見通せないように造られています。土塁と濠に沿って西側へ向かうとまもなく山麓につきあたり、そこで南側(左折)へ曲がると、城戸口(出入り口)が見えますが、ここではさらに直角に東側に曲がって出入りする構造になっています。また、城戸口両側には、重さ10tを超す巨石が積み上げれられており、そこに立つと、戦国時代の気風が伝わってくるような思いも。城戸の内側は、広場ような空間になっています。下城戸土塁の基底部幅は12~19m、高さ約4m、現存長は、道路により一部が削り取られているため38mです。土塁の外側には幅約10m、深さ3mの濠があり、この濠は、一乗谷川と直接つなっがっていると考えられています。