第百四段
【本文】
むかし、ことなることなくて、尼になれる人あり。かたちをやつしたれど、ものやゆかしかりけむ、賀茂の祭見にいでたりけるを、男、歌よみてやる。
世をうみの あまとし人を 見るからに めくはせよとも 頼まるるかな
これは、斎宮のもの見たまひける車に、かく聞こえたりければ、見さして帰り給ひにけりとなむ。
【注】
〇ことなること=異常。特別なこと。
〇尼=比丘尼。出家して仏門に入った女性。
〇かたち=容姿。
〇やつす=出家して姿を変える。
〇ゆかし=見たい。
〇賀茂の祭=陰暦四月の第二の酉の日に行われた京都賀茂神社の例祭。
〇世をうみの あまとし人を 見るからに めくはせよとも 頼まるるかな
〇見る=海松布(濃緑色で浅い海の岩に生える食用の海藻)を言い掛ける。
〇斎宮=天皇の即位ごとに選定され、天皇の名代として伊勢神宮に奉仕した未婚の皇女・女王。崇神天皇のころに設置され、後醍醐天皇の時代に廃止された。
〇車=中古では牛車をさして単に「車」ということが多い。牛に引かせた乗用の車。ふつうは四人乗りで後部から乗り、牛をはずして前から降りた。平安時代、貴人の乗用に盛んに用いられ、身分や男女の別に応じて多くの種類があった。
〇見さして=見るのを途中でやめて。
【訳】
むかし、これといった特別な出来事もないのに、尼になってしまった人がいた。髪をおろして出家したけれども、出し物が見たかったのであろうか、賀茂の祭を見に出かけていったところ、ある男が、歌を作って送った。
この世を無常でつらいと思って出家しアマになられたのだなあと、あなたのことを見るにつけても、こちらを向いて私に目で合図してほしいと自然と期待してしまうなあ。海のアマさんかと思って見たので、ミルメという海藻を食わせてくれとあてにしてしまうなあ。
これは、伊勢の斎宮が見物なさっていた牛車に、こんなふうに申しあげたところ、祭を途中で見るのをやめて、お帰りになしまったということだ。