第百二段
【本文】
むかし、男ありけり。歌はよまざりけれど、世の中を思ひ知りたりけり。あてなる女の、尼になりて、世の中を思ひうむじて、京にもあらず、はるかなる山里に住みけり。もと親族なりければ、よみてやりける。
そむくとて 雲には乗らぬ ものなれど 世の憂きことぞ よそになるてふ
となむ言ひやりける。
斎宮の宮なり。
【注】
〇世の中=この世。現世。『万葉集』七九三番「世の中は空しきものと知る時し、いよよますますかなしかりけり」。
〇思ひ知る=理解する。ただし、たとえば『徒然草』一四二段に「子を持ちてこそ親の志は思ひ知るなれ」とあるように、頭で考えてわかるのではなく、経験してわかる、実感するという意であろう。
〇あてなり=身分が高い。『例解古語辞典』に「身分の高い人物なら、人品や振る舞いなどが優雅だとは限らないが、概してそのようにとらえる傾向が強い。下賤の出で優雅な人物として描かれることは、ないといってよい。
〇思ひうむず=いやになる。
〇京にもあらず=人間関係の煩わしい平安京にはいない。『伊勢物語』九段「京にはあらじ、あづまのかたに住むべき国求めにとて、行きけり」。
〇山里=ふつうなら人の住まないような山奥の村里。
〇親族=親類、縁者。ふつう「しんぞく」の「ん」を表記しない形と言われるが、あるいはシゾクと発音されたのかもしれぬ。すなわち「本意」をホイ、「管絃」をカゲンとよむ類。
〇そむく=世を捨てる。出家する。
〇斎宮=伊勢神宮に仕える未婚の女性。「斎院」と同じく、天皇の即位のたびに、天皇や皇族の息女の中から選ばれる。
【訳】
むかし、男がいた。歌は上手に作らなかったが、この世のことは、さまざまな人生経験を通してよく理解していた。身分ある女性が、出家して尼になって、現世のことがいやになって、人間関係の煩わしい京のみやこに住むのをやめ、都からはるか遠く隔たった、普通なら人の住まないような山奥の村里に住んでいた。もともと、この男の親類だったので、歌を作って送った。
俗世間を捨てて雲に乗ってどこかへ立ち去るわけでもないけれども、出家なさると現世のいやなことが疎遠になるということですね。
と言ってやった。
この女性は伊勢神宮に仕える斎宮である。