第百段
【本文】
むかし、男、後涼殿のはさまを渡りければ、あるやむごとなき人の御局より、忘れ草を、「しのぶ草とや言ふ」とて、いださせたまへりければ、たまはりて、
忘れ草 生ふる野辺とは 見るらめど こはしのぶなり のちも頼まむ
【注】
〇後涼殿=清涼殿の西、 陰 明門 の東にあり、中央に 馬 道 、南北に 納 殿 がある。女御などの局にあてられた。
〇はさま=平安時代までは第二音節は清音。
〇渡る=通り過ぎる。
〇やむごとなし=きわめて尊い。高貴だ。
〇御局=宮殿で、それぞれ別にしきって隔ててある上級女官の部屋。
〇忘れ草=ユリ科の多年草、カンゾウの異名。夏に赤黄色の花をつける。ヤブカンゾウ。庭に植えたり身につけたりすると愛する人を忘れられるという俗信があった。『万葉集』三〇六二番「忘れ草垣もしみみに植えたれど醜の醜草なほ恋ひにけり」。
〇しのぶ草=忘れ草の異名。『大和物語』一六二段「同じ草をしのぶ草、忘れ草と言へば」。
〇たまはる=いただく。頂戴する。
〇野辺=野原。
〇頼む=期待する。
【訳】
むかし、ある男が、後涼殿と蔵人所の間を通りすぎようとしたところ、ある高貴な人の御部屋から、忘れ草を、「これを忍草と呼ぶか」と言って、侍女を通して差し出しなさったので、いただいて、
あなたは私があなたをすっかり忘れている忘れ草の生えている野原のようにご覧になっているのでしょうが、これは忍草でございます。この草の名のように私はあなたに対する恋心を包み隠しているのです。あなたが私の恋にいつか応えてくださることを期待しましょう。
と歌を詠んだ。