第八十六段
【本文】
むかし、いと若き男、若き女をあひ言へりけり。おのおの親ありければ、つつみて言ひさしてやみにけり。年ごろ経て、女のもとに、なほ心ざし果たさむとや思ひけむ、男、歌をよみてやれりけり。
今までに 忘れぬ人は 世にもあらじ おのがさまざま 年の経ぬれば
とて、やみにけり。男も女も、あひ離れぬ宮仕へになむいでにける。
【注】
〇あひ言ふ=互いに憎からず思う。『伊勢物語』四十二段「むかし、男、色好みと知る知る、女をあひ言へりけり」。
〇つつむ=隠す。
〇言ひさす=話を途中でやめる。
〇やみにけり=それっきりになってしまった。
〇年ごろ経=長年過ごす。『伊勢物語』二十三段「さて、年ごろ経るほどに、女、親なく頼りなくなるままに」。
〇なほ=やはり。
〇心ざし=相手に寄せる愛情。
〇世にもあらじ=けっしているまい。「世に」は、下に打消しの表現を伴って「少しも。決して」の意。『万葉集』三〇八四番「世にも忘れじ妹が姿は」。
〇おのがさまざま=ひとそれぞれに。
【訳】
むかし、非常に若い男が、若き女と互いに相手を憎からず思っていた。それぞれ親がいたので、二人の関係を隠して告白するのを中断してそのままになってしまった。それから何年も経って、女の所に、やはり本来の愛情を貫こうと思ったのだろうか。男が、次のような歌を作って送った。
今までに私のことを忘れていない人は決していないだろう。お互いおれぞれ別々の生き方をして長年経過してしまったのだから。