伊賀へいらっしゃい

伊賀へいらっしゃい

2015年11月14日
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藤堂藩三代目藩主の高久公の御陵です。藤堂家代々の墓所は江戸、寛永寺寒松院と伊賀、
上行寺にありますが高久は、江戸で元禄16年(1703年)4月29日に亡くなったが遺言で伊賀の
長田山に埋葬された。
長田山は、上野城から西に約2.5km、標高207mの低山で頂上から北東に位置し180mの高さに
御陵はあります。

何故この山に埋葬されたのでしょう、いよいろな説がありますが私なりに考えてみました。
まず高久の祖母で二代藩主、高次の母(藤堂高虎妻)が夫高虎が亡くなり出家して松寿院と号していた墓が
隣りの長田、常住寺の同じように山の中腹にあります。

祖母も江戸で慶安元年(1648年)亡くなったあと、遺言により伊賀国長田山常住寺に供養塔が
十三回忌の万治3年(1660)高次によって建てられた。
理由は天台宗に改宗して松寿院と号していたので日蓮宗の伊賀、上行寺には、建てられな
かったのだと思われます。常住寺は天台宗門の寺院です。

そこから考えて、高久も天台宗を信仰していて。自分が10歳の時に亡くなった祖母の近くで
城を見はらせるこの山に埋葬を希望したのではないでしょうか。
勿論、伊賀を愛していたのが一番大きな理由でしょうが。

藤堂家は代々、日蓮宗でしたが、徳川家康が病気見舞いに来た高虎に
「死後も話したいが宗派が違うので無理であろうな」
と言ったのですぐに天台宗の僧である天海僧正に頼み改宗したのが藤堂家と天台宗との関係の始まりです。

家康が没したのは元和2年(1616年)で高虎が没したのは寛永7年(1630年)ですその年妻が出家して


藤堂家の家風は公儀第一であり、高虎・高次ともそのことを何度も繰り返して述べていす。
高久も公儀第一の考えをもち、幕府の要職者への接近を心がけました。

高久の嫁は、幕府の実権を握っていた大老、酒井忠清の娘でした (これも公儀随一の実力者との間に縁戚関係を築く手段でした。) が将軍が家綱か
ら綱吉になった時、忠清が失脚し高久自身の身も危うくなります。
酒井忠清は失脚すると程なく没したましが、その死に疑いを抱く綱吉が

わけですが、その時酒井邸につめていた高久が応対して死骸を見せずに
追い返しました。(忠清が切腹していたならお家お取り潰し、藤堂家にも累が及びます)
酒井家ではこれを恩義とし、藤堂家よりも遅れて門松を飾ることにしたといいます。

その後、柳沢吉保(駒込村染井の下屋敷が隣同士)にとりなしてもらいやっと徳川綱吉
の御勝手詰(将軍の御成前に御成先の屋敷の勝手に控えてお迎えする)を
勤めていたりしたので将軍家への忠節を示すためにも天台宗のお寺の隣
りの山にと遺言したのでしょうか。徳川綱吉は柳沢吉保家に五十八回に
わたって訪問したといわれている
(一説には吉保の妻と不倫関係にあった)ので御勝手詰としても通常より
目をかけられたのでしょう。

そして藤堂高久は死した後も幕府を恐れ江戸の力の一番及ばない伊賀
の地にそれも徳川家と同じ天台宗のお寺に埋葬を願ったのだと思われ
ます。





その常住寺

松寿院の供養塔は、ここから100mほど山を登った所にあります。





常住寺のえんま堂の本尊厨子





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Last updated  2025年03月27日 11時58分24秒
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