伊賀へいらっしゃい

伊賀へいらっしゃい

2020年04月28日
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類


芭蕉が寿貞の死を知らされて、お盆にこの愛染院で詠んだ句

芭蕉の一生で女性が登場するのは一人だけで、出家して寿貞と名乗った人で本名も分からない謎の多い人です。
そもそも芭蕉との関係は正式な妻ではなく、寿貞の芭蕉妾説は、風律の『こばなし』のなかで他なら
ぬ門人の野坡が語った話として、「寿貞は翁の若き時の妾にてとく尼になりしなり 」
と芭蕉の妾とありますが現代では愛人と言うべきでしょうか。

伊賀の出身で江戸で出会ったのか伊賀から追いかけて行ったのかも記録がありません。伊賀出身なの
は江戸で亡くなった後、現在の伊賀市寺町の念仏寺に葬られたので間違いないでしょう。

 元禄7年6月2日、江戸深川の芭蕉庵にて寿貞尼死去。享年42歳?

芭蕉が去った後の芭蕉庵に越してきたかたずねる手紙があり病状を気にしている文章が残っている。
芭蕉が去った後からでないと庵に病気の寿貞は越せなかったという関係でした。
現代の感覚では理解に苦しみます。




遺髪が納められている芭蕉故郷塚その手前右に「数ならぬ身」の小さな句碑があります。

伊賀上野の念仏時の過去帳には、元禄7年6月2日の條に中尾源左衛門が施主になって「松誉寿貞」と
いう人の葬儀がとり行われたという記述があるという。言うまでもなく、この人こそ寿貞尼ですが、
「6月2日」と死亡日と同じなのは後世に書かれたものでしょう。





寿貞のお墓がある念仏寺
過去帳に
「享保三戌四月廿六日 歓誉光安浄喜 寿貞尼舎弟」「享保三戌四月廿九日 享誉利貞信尼 寿貞尼姉也」

表わし方は寿貞はあまりにも有名な芭蕉の妻であったといふ事が、これ等二人の姉弟には歓びであり、誇りでもあったということで過去帳へ直接記入したのでしょう。
後世の人には数ならぬ身ではなかったのです。

次郎兵衛という寿貞の子という説もある人のことは次回。






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2020年04月29日 13時08分07秒
コメント(0) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: