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驚くべき訃報が飛び込んできた。世界的トップモデル、女優、ダンスパフォーマーなどとして活躍した、地上最高の美女であり我が女神でもある山口小夜子さんが14日に逝去していたことが、けさ明らかとなった。あまりの衝撃で言葉も出ない。身内の死以外でこれほどの衝撃を受けたのは、1980年12月のジョン・レノンの死以来という気がする。この場を借りまして、心からご冥福をお祈り申し上げます。年齢は非公開のため享年もはっきりしないが、リアルタイムで見てきた40代終盤の僕から見て、少しお姉さんであったことは確かである。・・・というか、女神に年齢はない。知りたくもない。最近ですら、眩暈めまいを覚えるほど美しかった。初めて彼女を見たのは、1973年、「資生堂ベネフィーク」のコマーシャル・フィルム(CF)だったと記憶している。この世のものとも思われないあまりの優美さに、思春期真っ只中の田舎の中学生は、たちまち“寝ても覚めても”状態に陥り、爾来(じらい)30有余年、変わらぬ隠れ崇拝(?)を捧げてきた。その神秘的な雰囲気を生かして映画でも活躍したが、その気になって見ているとテレビにもけっこうチョコチョコ出ていて、彼女が出演したテレビ番組は、能(あた)う限りこの目で見、エアチェック(録画)してきた。トーク番組などに姿を見せると、けっこうお喋りな地金が垣間見えて、真面目で優しい人柄とともに、永遠の少女のようなイノセントな素顔がたまらなく素敵で、心身ともに、骨の髄までチャーミングな人だと印象づけられた。日テレ「おしゃれ」などでは、久米宏と楠田枝里子に「カツ丼なんて食べるんですか?」などとツッコマれて、「食べますよ~、けっこう好きですよ~」とかムキになって答えていたのが可愛かった。・・・まあ、トップモデルさんだって、たまにはカツ丼ぐらい食べるよね。お風呂が好きで、毎日5回ぐらい入るとか聞いて、あ~、こりゃ一緒に暮らすのはちと困難かな~と断念したりした彼女の身体と、その身に纏まとった全てのものは、日本文化の粋すいである。文句なしに、無条件に世界に誇りうるものであった。努力もしただろうけれども、これはもう99%運命さだめである。美しく生まれちゃった女性は、もうしょうがないんだよね~。永遠を身に纏っちゃってるから。本人は孤独だったかも知れないし、そうでなかったかも知れないし、そんなことは外からは計り知れない。ともかく、空前絶後の日本女性であった。日本モデルの先駆者、山口小夜子さん急死 【日刊スポーツ】 黒髪のボブカット、切れ長の目の東洋的な魅力で、世界的なトップモデルとして活躍した山口小夜子(やまぐち・さよこ)さんが14日、急性肺炎のため死去した。葬儀・告別式は親族で済ませた。後日、お別れの会を開く予定。先月公開された出演映画の初日舞台あいさつには元気な様子で出席しており、所属事務所も急な訃報(ふほう)に驚きを隠せなかった。持病などは特になかったという。 欧米ファッション界で活躍する日本人女性モデルの先駆けだった。横浜市出身で杉野学園ドレスメーカー女学院を卒業後、71年にプロモデルとしてデビュー。70年代にパリ・コレクションやニューヨーク・コレクションに参加した。高田賢三氏や山本寛斎氏のショーにも登場し、77年には米誌ニューズウィークの「世界の6人のトップモデル」に選ばれた。 俳優活動にも力を入れていた。印象的な雰囲気もあって、故黒木和雄監督や、鈴木清順監督などベテラン監督の目を引いた。最後の出演映画「馬頭琴夜想曲」では、幻想世界で馬頭琴を弾く妖艶(ようえん)な美女を演じ、主役に近い役割を担った。同作の木村威夫監督は「とても熱心で研究心あふれる人でした。モデル出身なので、違う表現をしたいということもあったと思います。踊るように表現するのが印象的でした。また仕事ができたらいいと思っていただけに残念です」と話した。山口さんとは1週間ほど前に仕事で会ったばかりで、体調が悪い様子はなかったという。 映画以外にも寺山修司氏演出の演劇「中国の不思議な役人」やCMなどにも出演、コンテンポラリーダンスは欧米20都市で公演した。また、ファッションクリエーターとして「SAYOKO YAMAGUCHI」ブランドを立ち上げ、6月にはジュエリーブランドの発表を行うなど、精力的に活動していた。[ 2007年8月21日9時55分 ] 世界魅せた東洋の美の山口小夜子さん死去 【夕刊フジ】 14日、急性肺炎で亡くなった世界的トップモデルの山口小夜子さん(享年57)。70年代にはパリコレやニューヨーク・コレクションで、おかっぱ頭に切れ長の目の東洋美をアピール。当時“遊び仲間”だった歌手、美川憲一(61)が思い出を明かした。また、若い世代に山口さんのカッコイイ女優姿を印象づけた鬼才・鈴木清順監督(84)が、悲しみにくれた。 山口さんは、2001年10月に公開された映画「ピストルオペラ」で、女優の江角マキコ(40)とダブル主演を果たしていた。 山口さんは、江角さん演じる殺し屋に指令を出すエージェントを演じ、持ち前のミステリアスな雰囲気をただよわせながら、派手なアクションもあるサスペンスに挑戦。 メガホンをとった鈴木清順監督は、20日午後、訃報に接すると、「たいへんショックなので、コメントは少し後にしてほしい」としばらく時間をおいたあと、取材に応じ、こう振り絞った。 「身のこなしが軽やかで、気さくで気取らない人でした。えらいきれいな人だったなぁ…」 山口さんの演技について、映画評論家の小張アキコ氏はこう話す。 「堂々とした貫禄の中に美しさがあった。山口さんの猫目に黒髪のアジアンビューティーの原型とも言われる存在感が周囲の美しさも引き出した。鈴木監督特有の大正レトロの美しさにも見事にマッチした表現でした」 当時の映画スタッフのひとりは、「さすがパリコレなど本場で、ウオーキングモデルを経験しただけのことはある。見た目だけキレイな最近のグラビアモデル出身と違って、身のこなし、動きがカメラの中でも生き生きとしていた」と振り返った。 その鈴木監督が俳優・鈴木清順として山口さんと共演した映画が、最近まで公開されていた。美術監督の巨匠・木村威夫(89)が、ルルドの奇蹟の泉や長崎の原爆をモチーフに極彩色の幻想世界を描いた映画「馬頭琴夜想曲」。 山口さんは、7月21日には都内の劇場で舞台あいさつも務めていたため、突然の死にスタッフのだれもが驚いていたという。[ 2007年8月21日17時2分 ] 遊び仲間だった美川憲一が語る――山口小夜子さん死去 【夕刊フジ】今の若い人は知らないと思うけど、山口小夜子さんといえばあんた、日本のスーパーモデルの先駆け。すっごい人だったのよ。 もう30年以上も前になるけど、仲良くさせていただいていたファッションデザイナーの高田賢三さんが、パリで初めてブティック(現・ケンゾー)をオープンされたというので訪ねたら、紹介されたのよ、彼女のこと。ショーのときとは違って薄化粧だったけど、まぁ~、なんともいえない美貌でさ。見つめられて一瞬、ゾクッとしたのを覚えているわ。 お店でさんざんファッション談議に花を咲かせたあと、じゃ、ディスコにでも繰り出そうってことになって、3人でワーワーいいながら踊りまくったわ。それがまたカッコイイのよ彼女は。街を歩いていてもパリジェンヌの視線クギづけだもの。 そのあとクラブに移動して静かに飲みなおしたんだけど、当時の彼女はお酒も結構いけるくちだったわね。 以来、日本のパーティーなんかで会うと、「お久しぶりねぇ」なんて声かけあって…。あそこまで世界的なトップモデルに登りつめるとはねぇ。 最近はあまり噂を耳にすることはなかったけれど、ついこの間、ロスで夏休みを過ごしているときに、ファッション関係のお友達と彼女のことを話していたのよ。「彼女は時代の先駆者、私たちの憧れだった」って。 そしたらお亡くなりになっていたって…。虫の知らせだったのかしらねぇ…。 心からご冥福をお祈り致します。[ 2007年8月21日17時1分 ] 世界的モデルとして活躍した山口小夜子さんが死去【サンケイスポーツ】 パリ・コレクションなどで世界的なトップモデルとして活躍したファッションモデルの山口小夜子(やまぐち・さよこ)さんが14日に急性肺炎のため死去していたことが20日、分かった。57歳だった。横浜市出身。葬儀・告別式は親族で済ませた。後日お別れの会を開く予定。 関係者によると、17日夜、1人で暮らす東京都港区内の山口さんの自宅を訪ねた知人が部屋で倒れているのを発見。救急車で運ばれたが、病院で死亡が確認された。すでに14日に死亡していたとみられる。 杉野学園ドレスメーカー女学院卒。昭和46年にプロモデルとしてデビューし、パリ・コレクションやニューヨーク・コレクションに参加した。高田賢三氏や山本寛斎氏のショーに登場し、おかっぱ頭、切れ長の瞳の東洋的な魅力で注目を集めた。米ニューズウィーク誌の「世界の6人のトップモデル」に選ばれ、欧米ファッション界で活躍する日本人女性モデルの先駆けとなった。 女優活動にも力を入れ、寺山修司氏演出の演劇「中国の不思議な役人」、鈴木清順監督の映画「ピストルオペラ」などに出演。CMやコンテンポラリーダンス、衣装デザインでも活躍した。 神秘のベールに包まれた印象が強いが、一昨年9月、産経新聞「私の失敗」のコーナーに登場。パリでの初舞台前に失神したことや欧州を電車で移動中、うっかり非常用レバーを倒して特急を止めてしまったことなど、意外に“おちゃめ”な素顔を明かしていた。[ 2007年8月21日7時5分 ] 平凡パンチ1978年2月6日号(楽天ブログ「ともるー's ブログ」より無断転載)ともるーさん、すみません。・・・お、お慈悲を。
August 21, 2007
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正岡子規(まさおか・しき)ベースボールの歌 久方のアメリカ人びとのはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも国人くにびとととつ国人と打ちきそふベースボールを見ればゆゝしも *若人わかひとのすなる遊びはさはにあれどベースボールに如しくものはあらじ九つの人九つの場をしめてベースボールの始まらんとす九つの人九つのあらそひにベースボールの今日も暮れけり打ち揚ぐるボールは高く雲に入りて又落ち来きたる人の手の中になかなかに打ち揚げたるはあやふかり草行く球のとゞまらなくに打ちはづす球キャッチャーの手に在りてベースを人の行きがてにする今やかの三つのベースに人満ちてそゞろに胸のうちさわぐかな明治31年(1898)、新聞『日本』に発表。歌集『竹の里歌』(明治37年・1904)所収註この歌発表の時点でまだ「野球」という訳語は確立していなかったが、なんと正岡子規自身が、幼名の「升(のぼる)」をもじって、「野球(のぼーる)」という筆名を名のっていた。久方の:「天(あめ)」「雨」などに掛かる枕詞(まくらことば)。とつ国人:外国人。ゆゝし(ゆゆし)も:不穏な殺気がみなぎって、ぞくぞくするなあ。「も」は詠嘆。* 「近時、第一高等学校と在横浜米人との間に仕合(マツチ)ありしより以来、ベースボールといふ語は端なく世人の耳に入りたり」と別の随筆にある。さはに:たくさん。打ち揚ぐるボールは高く雲に入りて:揚げ雲雀(あげひばり、ヒバリの雄の求愛行動)に擬(なぞら)えているのだろう。なかなかに打ち揚げたるは~:中途半端に打ち上げた球は結局どうなってしまうのか危ういなあ、草原の中を留まらずに転がってゆくけれども。グラウンダー(ゴロ)。打ちはづす球キャッチャーの手に在りて:ファウル球がキャッチャーの手にあって。ベースを人の行きがてにする:「ホームベースにランナーを行き難くする」の意味の上古語(万葉集)的表現。三つのベースに人満ちて:満塁のチャンスもしくはピンチで。そゞろに(そぞろに):気もそぞろに。そわそわ、わくわくと。
March 4, 2013
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夏目三久アナ、有吉の子供を妊娠“熱愛” 結婚は未定10歳差、「怒り新党」 共演がきっかけ「あさチャン」 来春降板予定【日刊スポーツ、独占スクープ】
August 24, 2016
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よみ人知らずきのふこそ早苗とりしか いつのまに稲葉そよぎて秋風の吹く古今和歌集 172ついきのう早苗を取って植えたのだったが稲葉をそよがせて秋風が吹いているのはいつからだろう。註「こそ・・・しか」は強調の係り結び。「しか」は過去の助動詞「き」の已然形(すでに終った動作を示す活用形)で、疑問形ではない。逆に下(しも)の句は「か」や「や」が省略されているが、「いつ」があるので疑問の意味。 田ウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン *画像クリックで拡大。
September 7, 2014
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若山牧水(わかやま・ぼくすい)児等こら病めば昼はえ喰はず 小夜さよ更けてひそかには喰ふこの梨の実をこほろぎのしとどに鳴ける真夜中に 喰ふ梨の実のつゆは垂りつつ歌集『くろ土』(大正10年・1921)子供たちが病やまいで臥せっている手前昼は食べられず清らかな夜が更けてからはひそかに食う。この梨の実を。秋の虫がはなはだしく鳴いている真夜中に食う梨の実のつゆは垂れつつあって。註こほろぎ:今でいうコオロギ類だけではなく、広く鳴く虫全般を指した古来の意味で用いていると見て間違いないだろう。しとどに:はなはだしく。したたかに。ひどく。やや被害的な感情を含意する。ここでは、秋の虫が「うるさいぐらいに」鳴いていて、その合唱と夜陰にまぎれて、といった意味合いか。垂り(つつ):現代語の動詞「垂れる」ではもちろんなく、中近世以降の「垂る」(下二段活用)でもなく、鎌倉時代頃までの、とりわけ(おそらく作者の意識としては)万葉時代(奈良時代)の上古語としての「垂る」(四段活用)の連用形なので、この形になる。一種の古拙(アルカイック)な素朴さと格調を醸し出している。私の印象では、牧水はこういった文法的な技巧に凝るのが好きで、かつ得意だったと思う。言葉に対して、今でいうマニアックな気質があったのだろう。詩歌人としては、なかなか幸福な資質である。
September 19, 2021
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柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)しきしまの倭やまとの国は言霊ことだまの佐たすくる国ぞ 真幸まさきくありこそ万葉集 3254敷島の大和の国は言霊の助ける国だなあまことに幸いなことに。註「真幸くありこそ」を倒置法と解し、このように訳してみた。しきしまの:「大和、倭」に掛かる枕詞。言霊:原文「事霊」。古代日本語(やまとことば)では「事(こと)」と「言(こと)」は同一語。「ことば(言葉)」の語源は「言端」とされる。なお、よく知られた「言霊の幸さきはふ国」という表現は、山上憶良の長歌(万葉集894)「神代かみよより 言ひ伝つて来らく そらみつ 大和の国は 皇神すめかみの 厳いつくしき国 言霊の 幸はふ国と 語り継ぎ 言ひ継がひけり・・・」に出てくる。原文:志貴嶋 倭國者 事霊之 所佐國叙 真福在与具
May 18, 2010
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昨夜は、NHK大河ドラマ「篤姫」最終回マイナス1回目に当たる第49回「明治前夜の再会」。ストーリーなどの詳しい解説は、楽天ブロガー仲間・のの雪さんのブログ「ふわゆら生活」に譲りま~す天璋院(篤姫)と小松帯刀(尚五郎)の今生の別れのシーンに、滂沱の涙を禁じえなかった。若き男女の名優が渾身の芝居を見せて、大河ドラマ史上に永遠に銘記される名場面となったことは疑いない。「亡き夫、家定に相談いたします。」「あっはっは、ずるいなあ(笑)」の軽いジャブを経て、「人はいなくなるのではなく、また会う時の楽しみのために、ひと時、離ればなれになるだけのことです。」「・・・そうですね。」に至るやりとりを、息を詰めて見た。そして泣いた。見事だった。もし、このブログの読者で見ていない方は、今週土曜日午後1:05からの再放送を見逃さない方がいいんじゃないかと思う。宮崎あおいが上手いことはかねがね分かっていたが、普通の中年男にとっては今回初めて知った若手俳優・瑛太が、ここまでやるとは思わなかった。もっとも、天下のNHKたるものが、看板番組の大河でそうそうミスキャストをするはずがないとも思っていたけどね~。こんなヒョロっとした、よく言えば飄々としたセンシティヴな感じの青年に、天下の大河ドラマの準主役が務まるのかな~?と危惧していたが、全くの杞憂だった。そういう個性が、激動の時代に真摯に向き合い、苦悩し尽くした果てに病を得て夭折した悲劇の貴公子にまさにドンピシャリはまって、毎回泣かされた。先週の「(江戸)無血開城」が歴史ドラマとしてのクライマックスだったとすれば、今回は人間(青春)ドラマとしてのクライマックスだった。最高、至高。田淵久美子の完全無欠な脚本は、幕末・明治維新の全体像をも立体的に浮かび上がらせて、しかも血の通った人間像を構築して、毎回完膚なきまでに僕ら視聴者を魅了した。西郷隆盛(吉之助)の覚悟というか、「君が笑ってくれるなら僕は悪にでもなる」(中島みゆき「空と君の間」)的な真情も、かつてないほど描ききったのではないか。これは書いていいかどうか、かなりの躊躇を覚えるが、腹にあることは書いてしまおう。歴史マニアの間では、この時期の西郷隆盛が“鬼”になっていたという説は、かねてから有力である。あのお方も、その人も、この人も、西郷と大久保、さらに後ろ盾の岩倉具視公らが手を回して殺害した可能性が強い。もっと言えば、邪魔者を消した、「削除(デリート)した」のであろう。確乎たる証拠はないが、状況証拠は限りなく真っ黒に近い。手法は、毒殺だったり、襲撃だったり、さまざまである。当時、砒素は防腐剤として簡単に入手可能だった。そうして、歴史の歯車を大きく回転させた。維新回天の偉業である。そういう事情が、十分にほのめかされて、明治維新のきれいごとでは済まなかった過程がはっきりと読み取れる構成になっていた。一時は、天璋院をも滅ぼす覚悟があったという説もある。そして、維新の偉業を成就したのち、西郷どんその人も、それらの罪を一身に背負って、西南戦争終焉の地、熊本・田原坂(たばるざか)の血の涙を経て鹿児島・城山の露と消えた。心理学的に見てみると、大奥の存在こそが倒幕の原動力であり、そこに同じ薩摩出身の姫君・天璋院がいたことが、西郷らをして最後の一線を越えることを踏みとどまらせたといえる。歴史の奇蹟であり、天の配剤であった。いや、これこそが島津斉彬公の深慮に基づく配剤だったか。大奥とは、事実上の(家康を神とする神授の)絶対王権に近い一人の王(将軍)のためのハーレムにほかならない。血筋がいいだけの一人の凡庸な男が、1000人ものいつでも召しだせる女を抱えるという、世界史上でも希に見る、うらやましすぎる奇形的なシステムであった。比肩できるものといえば、おそらく、清朝までの北京・紫禁城と、ご存知イスタンブールのモスクぐらいのものであろう。確かに、近代国家にはありえない、あってはならないものだと感じるのは、僕だけではあるまい。精神分析学でいうリビドー(エロスの力)の典型的な発動である。それが激しいジェラシー(嫉妬)を呼び起こし、殺意・破壊衝動を励起したと考えられる。そういった心理が、はっきりと読み取れる見事な脚本だったと、言葉を操る者の端くれの端くれとして、僕は満腔から讃えたいと思う。
December 8, 2008
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炭坑節月が出た出た 月が出た ヨイヨイ三池炭坑の上に出たあんまり煙突が高いのでさぞやお月さん 煙たかろサノヨイヨイ一山 二山 三山越え奥に咲いたる 八重つばきなんぼ色よく咲いたとてサマチャンが通わにゃ 徒あだの花あなたがその気で いうのなら思い切ります 別れますもとの娘の十八に返してくれたら 別れます晴れて添う日が来るまでは心一つ 身は二つ離れ離れの切なさに夢でサマチャンと 語りたい香春岳かわらだけから 見下ろせば伊田の竪坑たてこうが 真正面十二時下がりの サマチャンがゲージにもたれて 思案顔格子窓から 月がさすサマチャンの寝顔の 愛らしさ外した枕をすけさしょか思案なかばに 明けの鐘お札を枕に寝るよりも月が差し込む あばら家で主ぬしの腕かいなにほんのりとわたしゃ抱かれて 眠りたいたて杭ぐい 千尺二千尺下くだりゃ サマチャンのツルの音ままになるなら あの側で私も掘りたや 黒ダイヤ伯爵夫人となるよりも月の差し込むあばら家で主さんお庭で藁仕事わたしゃお側で 針仕事巻いた巻いた三十五函そこで選炭婦が苦労する棹取りゃ桟橋で花踊りウロウロするのは お役人ダイヤモンドがほしいなら一度来て見れ この鉱山へ男盛りのサマチャンが粋で掘り出す 黒ダイヤわたしのサマチャンとロを押す ヨイヨイわたしゃ選炭場でボタを選える見上げて見下ろす顔と顔にっこり笑うて 知らぬ顔サノヨイヨイ作詞者不詳 福岡県民謡
September 21, 2021
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岡本かの子桜ばないのち一ぱいに咲くからに生命いのちをかけてわが眺めたり狂人のわれが見にける十年まへの真赤きさくら真黒きさくらおのづからなる生命のいろに花さけりわが咲く色をわれは知らぬに美しき亡命客のさみえるに薄茶たてつつ外とは春の雨あはれあはれ寒けき世かな寒き世になど生みけむと吾子あこ見つつおもふ歌集『浴身』(大正14年・1925)* 吾子あこ:岡本太郎。
April 4, 2024
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紀野恵(きの・めぐみ)晩冬の東海道は薄明りして海に添ひをらむ かへらな第一歌集『さやと戦げる玉の緒の』(昭和59年・1984)冬の終わりの東海道はほのかに薄明かりして海に寄り添っているのだろう。帰ろう。註作者の代表作で、現代短歌の傑作。作者は四国・徳島県出身。溢るる教養により難解晦渋な歌が多い(そこが魅力でもある)作者にしては、割と分かりやすい一首といえよう。かへらな:「新古典派」とまで称えられた作者の歌風から見て、現代の関西弁の「帰らな(あかん)」ではないだろう。「な」は「~しよう」。活用語(この場合は動詞「帰る」)の未然形に接続して話者の意志を示す奈良時代の上古語終助詞。万葉集などに頻繁に見られる。おそらく、当時の口語だったのだろう。平安時代以降は、ほぼ同じ意味の「む」に取って代わられた。これは、古典文学(古文)・文法マニアは面白がり評価するところだが、一般読者から見ればどうでもいいことかも知れないね 東海道 富士山付近 / 薩埵峠(静岡県清水市)付近ウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン *画像クリックで拡大
February 26, 2025
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20世紀世界最高の詩人の一人だったジュゼッペ・ウンガレッティのウンガレッティ全詩集(河島英昭訳)は、楽天ブックスでは絶版らしい。興味のある方は、最寄の図書館へどうぞ。なお厳密に言うと、ここに掲げた現代語訳は、その河島英昭氏の無断引用なので、ほどほどにしとかないとヤバいかも知んない(イタリア語が分かれば自分で訳すんだけど、さすがにキビシ~かな~)。それにしても、どの詩もすばらしくて甲乙つけがたい。圧倒的に清澄で透明感のある言葉の宇宙が構築されている。美しい夜どこの歌声が湧き起こって今夜は織りなすのか水晶のこだまする心で空のイリュミネーションを?どこの祭りが涌き出たのか婚礼の心から?そのとき以来心親しく生み出されてくる宇宙の一瞬一瞬が久しくぼくは暗闇の水たまりだった空間に現れるたびにぼくは噛みついた乳房にすがりつく赤児のようにいまは心もなごんだぼくは宇宙に酔い痴れている海へ出てぼくはそよ風の柩に入った(河島英昭訳)註:この詩の最後の4行は、その後の改訂で、詩人自らの手によって独立の四行詩(ソネット)「宇宙」として分離された。LA NOTTE BELLAQuale canto s'è levato stanotteche intessedi cristallina eco del cuorele stelleQuale festa sorgivadi cuore a nozzeSono statouno stagno di buioOra mordocome un bambino la mammellalo spazioOra sono ubriacod'universoDevetachi, il 24 agosto 1916
February 25, 2007
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河合曽良(かわい・そら)かさねとは八重撫子やへなでしこの名成なるべし奥の細道「かさね(重ね、襲)」とは、八重咲きの撫子の花びらにちなんで名づけられたのだろう。・・・そんな優しい名前の、大和撫子の女の子。註元禄2年(1689)旧暦4月の初め(新暦5月頃)、奥の細道の旅の途上、下野の国(栃木県)那須(なす)黒羽(くろばね)で、馬を貸してくれた親切な農夫の可憐な女の子の名前を「かさね」と聞いて詠んだ一句。何気ないが、味わい深い佳品。・・・ところで、なんかよく知らないが、最近この河合曽良が、イケメン風のギャグ・キャラクターとして、サブカルチャー系、アキバ萌え萌えコスプレ系、やおい妄想ハアハア系(?)の文脈(コンテクスト)で大人気になっているらしい。超意外というかオイオイな展開ではあるが、面白いといえば面白い現象だ。→例えばこちらとか。はんにゃ金田で実写版はどうだろ?あるいは、妻夫木聡クンの、大河明けの初仕事にとかど~かな?・・・ダメかな曽芭師弟愛(笑)ギャグマンガ日和 Tシャツ芭蕉と曽良「S&M」
October 2, 2009
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山部赤人(やまべのあかひと)わが屋戸やとに韓藍からあゐ植ゑ生おひし枯れぬれど 懲こりずてまたも蒔かむとぞ思ふ万葉集 384わが家の庭に鶏頭を植えて育ったのは枯れてしまったけれどこれに懲りずにまた種を蒔こうと思うのだ。註「万葉集は、奈良時代の『サラダ記念日』だ」という見方もあると、万葉研究の泰斗で歌人の佐佐木幸綱氏が短歌総合誌で語っていた記憶があり面白い説だと思ったが、さしずめこの歌などはまさにそんな感じで、当時のライト・ヴァース(軽い口語体)という気がする。われわれの先人たちは、普段おおよそこんな言葉で喋っていたのだろう。韓藍(からあゐ):鶏頭(ケイトウ、ヒユ科)。東アジア大陸から来た藍の意味。「あゐ(あい)」は今では濃い青のことだけをいうが、上古では広く印象的な美しい色を表わしたという説が有力。「くれなゐ(紅)」、「あじさゐ(紫陽花)」などの造語成分でもある。生おひし枯れぬれど:連体形の準体言(見なし体言)用法。古文には頻出する。「育ったもの(草花)は枯れてしまったけれど」の「もの(草花)」が省略されている。「吾が屋戸に韓藍蘓(そ)へ生ほし枯れぬれど~」と訓(よ)む説もある。大意は同じ。原文(万葉仮名)「吾屋戸尓 韓藍蘓生之 雖干 不懲而亦毛 将蒔登曽念」
November 2, 2022
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永井陽子(ながい・ようこ)ぽこぽこと真昼の木魚終日をやはらかなからたちの棘へ降る雨ここはアヴィニョンの橋にあらねど♩♩♩曇り日のした百合もて通る曇天にかつこかつこと鳴る羯鼓かつこたれにか逢はむたれにか逢はむ篠懸が纏ふすずかけいろの翳くぐりぬけチェロその他を運ぶ月の光を気管支に溜めねむりゐるただやはらかな楽器のやうに丈たかき斥候ものみのやうな貌かほをして fフォルテが杉に凭れてゐるぞ歌集『ふしぎな楽器』(昭和61年・1986)
November 16, 2024
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飯田龍太(いいだ・りゅうた)新米といふよろこびのかすかなり第一句集「百戸の谿」(昭和29年・1954)註「新米、今年米」の季語を用いた句の中でも、特に名句の誉れが高い。この句を詠んだ当時、実際に農作業に携わっていたという作者にとって、その年の新米を得た喜びというのは、もろ手を上げて大はしゃぎするものではなくて、かすかにほのかにゆっくりと、しかししっかりじわじわ~っと訪れる喜びなのだろう。・・・深い。こういうのに接すると、俳句というものは凄いもんだなあと、改めてまざまざと痛感させられる。この、ボソっと呟くように素っ気ない、わずか十七音の短い形式の中に、実に豊かで微妙で陰翳に富んだ感情が溢れていて、ひたすら感嘆するほかはない。・・・僕なんかには到底できません(笑)■ 飯田龍太の俳句 ―― 第一句集『百戸の谿』より 太田かほり(この句の詳細な解説を含む。)
October 18, 2010
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柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)ま草刈る荒野あれのにはあれど 黄葉もみぢばの過ぎにし君が形見とぞ来こし万葉集 47草を刈るしかない辺鄙な荒れ野の阿騎野ではありますが黄葉の散るごとく去っていったあなたの形見の地として私は今やって来たのです。註阿騎野(あきの):現・奈良県宇陀市大宇陀付近。* 阿騎野・人麻呂公園黄葉もみぢばの過ぎにし:黄葉・落葉を人の死の比喩とした普遍的表現。君:早世した 草壁皇子(くさかべのみこ)。形見:故人を偲ぶよすがとなる物、場所など。現代語の「形見」より広義。来こし:直訳すれば「来た」という意味だが、文法的にはけっこう難しい。ほかにあまり類例がない要注意の言い回しといえる。後世に発達した「連体(形)止め」ではない。(現代語「来る」の語源である)古語動詞「来(く)」(「こ・き・く・くる・くれ・こ(こよ)」のカ行変格活用)の未然形「こ」に、過去の助動詞「き」の連体形「し」が接続したもの。この「し」は、形としては連体形だが、意味としてはいわば終止形のように捉えてよい。同じことを言うのに、平安期以降は「来ぬ」が主流となったか。なぜこうなったかと考えると、そもそも助動詞「き」の語源が動詞「来」の連用形「き」である(助動詞「き」の連体形「し」などはサ行変格活用の動詞「す」から)とする説が有力なので、音韻の重複を避けたためとも思われる(くまんパパ説)。確かに、「来(き)き」や「来(こ)き」では、いかにも語呂が悪いと思われる。なお「来こし」の活用形の用例は「こし(連体形)、こしか(已然形)」「きし(連体形)、きしか(已然形)」の4例しかない。前2者の方が古い形。この用法は万葉集に頻出する。歌人が依拠すべきものとして万葉集をきわめて重視した正岡子規をはじめ、アララギ派の近代歌人たちもあえて愛用した。・・・私も使いたい
November 15, 2011
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式子内親王(しきし・ないしんのう)さむしろの夜半よはの衣手ころもでさえさえて 初雪白し岡の辺べの松新古今和歌集 662筵(むしろ)に寝ていた夜半の衣の袖が冷え切って外を見れば冴え冴えと初雪が白い丘のほとりの松。註さむしろ(さ筵):閨(ねや)の粗末な敷物。「寒し」と掛けている。さえさえて:冷え切って。冴えに冴えて。* 式子内親王は後白河院(天皇/法皇)の第三皇女。
December 8, 2011
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落合直文(おちあい・なおぶみ)しもやけの小さき手してみかんむく わが子しのばゆ風の寒きに萩之家歌集(明治39年・1906)註しのばゆ:偲ばれてならない。「ゆ」は自発を示す奈良時代の助動詞で、平安時代には滅びた。「あらゆる」「いわゆる」などに痕跡的に残る。したがって、この言い回しは擬古的である。ことさら(意図的)にではなく、おのずと(自然に)そうなる意味。
January 30, 2011
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俵万智(たわら・まち)むっちゃ夢中とことん得意 どこまでも努力できればプロフェッショナル『プロフェッショナル 仕事の流儀』NHK27日放送
February 28, 2023
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よみ人知らず秋の野に人まつ虫のこゑすなり われかと行きていざとぶらはむ古今和歌集 202秋の野に人を待つ虫の声がするという。その人とは私のことかとさあ行ってたずねてみよう。註「人待つ」と「松虫」が掛けてある。とぶらふ:訪れる。尋ねる。問う。現代語「弔う」の語源だが、ニュアンスは異なる。古今集の「よみ人知らず」は、当時の民謡のようなものが多いとされるが、素朴で戯笑的な内容から見て、その典型例であろう。 秋 ペテルスブルグ Petersbergウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン *画像クリックで拡大。
September 14, 2014
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平家物語・冒頭祇園精舎ぎをんしやうじやの鐘の声、諸行無常の響ひびきあり。 沙羅双樹さらさうじゆの花の色、盛者じやうしや必衰の理ことわりをあらはす。 おごれる人も久しからず、 ただ春の夜の夢のごとし。 たけき者も終つひには滅びぬ、偏ひとへに風の前の塵に同じ。註名もない琵琶法師たちの創作と口伝(くでん)による伝承を経て鎌倉時代に成立。それを記録したこの文書は、現代文に通じる「和漢混淆文」の最初の達成ともいわれ、平安期までのやまとことばによる物語文学に比べ、現代人にはきわめて読みやすい。明治時代の文学における「言文一致体」の成立に、当時の落語の話芸が決定的な役割を果たしたといわれる事実と軌を一にするともいえよう。沙羅双樹:娑羅(しゃら)双樹。ヒガンバナ。マンジュシャゲ。* 原文に句読点はない。宇多田ヒカルが「traveling」の歌詞で一部文言を引用している。
September 13, 2014
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割と緊急を要する事柄なので、結論から簡明に書く。(なお芸能人につき、慣例により文中敬称略・呼び捨て。)起こった事実(現象)よりも、非常に気になるのが、山崎まさよしの今の精神状態である。きわめて心配される。おそらく「鬱」(抑鬱状態、あるいは軽度の鬱病)であることは、ほとんど間違いないと見ていいだろう。直ちに心療内科または精神科の受診と、一定期間の休養を勧めたい。人生は長い、焦るべからず。周囲の家族やスタッフは、とりあえず首に縄付けてでも病院に引っ張っていくべきだろう。最近ではいい薬(内服薬)もあり、早期の緩解が期待できると耳にする。フルオキセチン(プロザック)などはよく知られている。「鬱は心の風邪」といわれたこともあるが、風邪も極度にこじらせれば死に至ることもある。また、「鬱」というとかなり深刻な病気の先入観もあって、臨床の現場では「適応障害」とか「自律神経失調症」といった診断名でお茶を濁すことも多いように仄聞する。おそらく、脳科学的には、ストレスや加齢その他の原因でセロトニン、ドーパミン、オキシトシンなどの神経伝達物質(脳内ホルモン)のバランスが崩れている状態なのだと思うが、この辺はしろうとの悲しさで、正確なことは言えない。近年の研究によれば、とりわけ「幸福感ホルモン」セロトニンの、何らかの原因による分泌の減衰が最も大きく関与しているといわれる。私はしろうとだが、思春期からこういった分野に興味を持ち、メンタルヘルス・精神医学の中級ぐらいまでの書籍を読み漁ってきた。今こそ、くろうとの精神医学者・臨床医師・心理カウンセラーなどの出番であり、その発言が欲しいところだが、むしろプロだからこそ、診察もしないで軽々な発言は出来ないということもあるだろうか。残念な状況と思う。しろうとでも、すぐにピンとくることだ。報道によれば、歌うことが楽しくない、むしろ苦痛だ、歌いたくないという状態に陥っているようだ。山崎の近影(最近の写真)の表情が、この分野の教科書に載せたほうがいいぐらい憂愁に満ちていることも、一目瞭然であろう。典型的で、分かりやすいといえるほどの鬱の症状だと思う。躁鬱病は、主として内因的に(はっきりとした大きな外的原因がなくて)「躁」(はしゃいでいる精神状態)と「鬱」(沈んでいる状態)を繰りかえす病気である。私自身、病的というほどではないが、自分の精神状態(気分)にサインカーブ状の「躁鬱」=「循環性」=「双極性」の傾向(波)があることを、若い頃からはっきりと自覚している。これを書いている今現在は、やや「軽躁状態」(思考や直感・言動が発揚している、ただし、言い間違いや言い過ぎ・失言などのケアレスミスも多い状態)である。世界が割とバラ色に見えていて、モノを書いていても何となくノッていて楽しい。私は、特に山崎の大ファンというわけではないが、非常にクリエイティヴな仕事をしてきた実績と実力は十分に知っている。その作風(特に歌詞)は、「循環性気質」に特有といわれるマイルドな優しさ・繊細さや、現実的・妥協的・明朗温和な人間味(共感性)にあふれている。この性格傾向を持った世界文学の代表者は、文豪ゲーテである。これと対比される性格である「粘着性気質」の場合、いわゆるマッチョでストレート、ストイックで悲壮・戦闘的であり、芸術家であれば、その作風は荘重・深刻・深淵性、時には神秘性すら帯びる。循環性のライトな持ち味の産物とは対蹠的である。この性格の代表者は、文豪ドストエフスキーである。亡き谷村新司も、かなり典型的な粘着性だったと思う。「なんだかんだ言っても つまりは単純に君のこと好きなのさ」「我は行く 蒼白き頬のままで 我は行く さらば昴よ」どちらも、きわめて秀逸な代表作の歌詞のエピローグ(結語)だが、作者の性格傾向により、こういったテクスチャー(風合い)の差が出る。また、粘着性性格に比べ、循環性性格は(精神的な)スタートダッシュは利くが、疲れやすい、粘り強くないことも知られている。短距離の一発勝負には強いが、持久力はないのである。物事に対し、飽きやすいともいえる。・・・全く、私自身の性格を記述しているかのようである。芸能界のことはよく知らないが、そろそろ仕事を選んでセーブして、マイペースでのんびりやっていきたい本人と、稼げるうちに馬車馬のように働かせたい事務所サイドの間に強い軋轢があるだろうことは容易に想像できる。コロナ禍を経た業界の事情もあるのだろう。これは「働き方改革」にもつながる問題だろう。こういったメンタルヘルス(心の健康)に関する知見・概念・用語は、最近ではけっこう常識になっていると思っていたが、知らない人もまだまだ多いのかもしれない。この観点からの記事や言及が見当たらないのが残念である。・・・市川猿之助の悲劇も起こったばかりである。われわれは人の心の問題にもう少し敏感であるべきと、切に思う。■ 物議の山崎まさよしライブ「聞いていられる話ではなかった」トークばかりの異様・・・客明かす「一番悲しかった」発言【J-CASTニュース 24日】
October 24, 2023
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凡河内躬恒(おおしこうしのみつね)かれはてむ後のちをば知らで 夏草の深くも人の思ほゆるかな古今和歌集 686枯れ果ててしまうのちのことは知るよしもなく夏草の生い茂るように深く深くもあの人への思いが募るばかりだなあ。註「かれ」は、「枯る」と「離(か)る」(離れる)を掛けている。 ススキ 箱根仙石原ウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン
August 24, 2014
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柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)珠衣たまぎぬのさゐさゐしづみ 家の妹いもにもの言はず来て思ひかねつも万葉集 503美しい絹の衣がさやさやとしな垂れるように心が沈み家の妻に言葉をかけずに旅に出て来てしまって思いに堪えかねたのだよ。註調べ(言葉の音楽性)の美しい歌といわれる。文意は比較的平明で分かりやすいが、背景事情の解説が要るだろうか。ちなみに、1300年前の詩歌の意味が、そのまま読んで(なんとなくでも)だいたい分かるのは、日本語の驚くべき歴史的一貫性・自己同一性(アイデンティティ)であり、全世界の言語を見渡しても極めて稀な特性といえるだろう。万葉集原文には特に詞書き・説明は付いていないので、推測を交えて勝手に解釈するが、まず、うらやましくも、当時は妻問い婚、招婿婚(しょうせいこん)、すなわち婿入り婚、もっと平たく言えば「通い婚・夜這い婚」だったので、一夜限りの恋も多かった。若い男女がなすべきことをなした翌朝(の別れ)のことを「後朝(きぬぎぬ、衣々)」と言い、日本古典文学・和歌の重要状況・情緒である。夜這いの習俗が近代まで庶民に残っていたことは、割と知られている。「朝帰り」という言葉は、ご存じの通りである。思いをかけた女性の家に玉梓(たまずさ、和歌の恋文)を贈るなりして行くも行かぬも、いわば男の勝手であり、継続して訪れていれば社会的にも「夫婦」と見なされ、そのまま住み着いてしまう場合も少なくなかったようだが、家屋敷・土地財産は女性(女系)が相続するのが当時の制度だった。男系相続になったのは、はるか後世の武士の世になってからである。これを、お気楽でうらやましいと見るか、男はつらいよと見るかは、主観の問題であろう。また、「お見限り」で、女のもとに通わなくなれば夫婦は離婚したと見なされ、当事者のあきらめも早かったようである。こうした習俗は、後世まで花柳界・水商売の世界に残った。もちろん、時には男と女のドロドロした感情がもつれ合うこともあったと思われるが。・・・お~コワ。こういった状況が前提にあるので、現在とはかなり背景が異なる。また、同様に万葉集に説明はないが、おそらくこの「旅」は、たぶん政治的な任地への「赴任」のことだと思われる。柿本人麻呂は、和歌の方では隔絶した天才で、後世「歌神」とまで称えられることになるが、官位(政治的地位)は低く、おそらく天皇に随行した舎人(とねり、しいて今で言うなら、「宮内庁職員」みたいな感じ?)であり、その文才を見込まれて、折々宮廷歌人みたいな働きをしていたものと、一般的には見られている。ただし、これについては、いろいろと異論反論も多く、特に梅原猛氏の「水底の歌 柿本人麿論」は政治的陰謀に巻き込まれた悲劇の貴公子像を呈出して騒然となったが、定説とは言えない。ともあれ、おそらく命令とあればどこへでも行かなければならないのが、昔も今も宮仕えのつらさであり、あるいはどこか田舎の政庁(役所)に、何年か飛ばされたのかも知れない。当時(奈良時代)は、まだもちろん「京都(平安京)」はなく、都は今の奈良県辺りをうろうろ移動していたわけだが、どこに行かされるにしても、花の都を除けば、日本全国本当に草深いど田舎で、「都落ち」「左遷」の感じは免れなかったろうと思われる。そうした哀愁もこの一首から伺えると言っては、ちょっと穿ちすぎかも知れないが。思ひかね:古語動詞「かぬ」は「堪えかねる」の意味。形容詞「かなし(悲し・哀し)」と同語幹とする説もある。・・・坂本熊麻呂(さかのもとのくままろ)の解説でした
April 12, 2025
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小野小町思ひつつぬればや人の見えつらむ夢と知りせばさめざらましを古今和歌集 552 恋歌二 思いながら寝たので、あの人が見えたのかしら。夢と知っていたなら覚めなければよかったのに。(拙訳)註大伴家持「夢(いめ)の逢ひは苦しかりけりおどろきてかきさぐれども手にも触れなば(夢の契りはつらい、目覚めて手探りしても何も触れないのだから)」(万葉集741)松岡映丘「うたたね」うたた寝に恋しき人を見てしより夢てふものは頼みそめてき古今和歌集 553 恋歌二 うたた寝に恋しい人を見てからは、夢ってものを頼りにしはじめたのよ。(拙訳)註うたた寝の夢幻境は誰しも好きだろうが、特に古来、文人・詩人たちに愛されてきた。大詩人ステファヌ・マラルメの傑作「半獣神の午後(牧神の午後)」も、真夏の森の木陰で半獣神ファウヌス(パン)がうたた寝をして美しい妖精(ニンフ)たちの幻影を見るという詩である。それにしても、現象としては似てるが、「居眠り」と言ったのでは、まるっきり風情がないざんすね。なお、うたた寝の「うたた」は「現(うつつ)」と同語源とする意見もある(国語学者・大槻文彦)。藤原隆信「うたたねの夢や現(うつつ)にかよふらむ覚めてもおなじ時雨をぞ聞く(うたた寝の夢は現実と往還するのだろうか、目覚めても夢の中で聞いていたのと同じ時雨の音を聞いている)」(千載和歌集407)いとせめて恋しき時はむばたまの夜の衣をかへしてぞ着る古今和歌集 554 恋歌二とっても恋しくてたまらない時は、夜の衣を裏返しにして着る。 註当時、寝巻き(またはその袖)を裏返して寝ると、恋しい人を夢に見るという伝承があった。また、恋するもの同士がそうすると、お互いを夢に見るとされていた。民俗学者で歌人だった折口信夫(しのぶ)は、この歌を「呪術的」と評している。万葉集2812「吾妹子に恋ひてすべなみ白妙の袖かへししは夢に見えきや(君に恋しているのに逢うすべがないので、白い寝巻きを裏返したのが夢に見えたかい?)」同2813「わが背子が袖かへす夜の夢ならしまことも君に逢へりしがごと(ダーリンが袖を裏返した夜の夢らしい、ホントにあなたに逢えたみたいね)」世評にたがわず、才女・小野小町の和歌は天才的といって差し支えないだろう。キュートであり、そこはかとなく妖艶・エロティックでもあるが、和歌という短詩形式のせいもあって、決して重くならず、軽やかな洒脱さをまとっている。それにしても、天下の美女(・・・なのかどうか、会ったことがないのでよく知らないが)小野小町を夜も眠れないほど恋焦がれさせた色男は、どこのどいつだ?やはり、噂どおり在原業平あたりか?・・・それとも谷原章介か?!
February 27, 2007
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天智天皇(てんちてんのう/てんじてんのう)わたつみの豊旗雲とよはたぐもに入日いりひさし 今宵こよひの月夜つくよさやけかりこそ万葉集 15大海原に浮かぶ豊かに旗のごとくたなびく雲に入日が射し今宵の月夜が亮さやかならんことを。註古代の純真素朴な雄渾さと、悠揚迫らぬ帝王の風格を漲みなぎらせた名歌。豊旗雲とよはたぐも:神秘的に豊かな美しさのある、旗・吹き流しのようにたなびく雲。層積雲。わたつみ:海の霊。転じて、海・海原の意味。さやけし(さやか):くっきりとして、清澄なこと。「爽やか」は別語。さやけかりこそ:原文の訓読は諸説紛々である。【原文】(万葉仮名)渡津海乃 豊旗雲尓 伊理比紗之 今夜乃月夜 清明己曽「さやけかりこそ」は、歌人・佐佐木幸綱早大教授(短歌結社「心の花」主宰)などの読みで、現在ほぼ定説といえる。その祖父、佐佐木信綱氏(「心の花」創始者)は「あきらけくこそ」と訓じた。また、「きよらけくこそ」の読みもあり、捨て難い。「まさやかにこそ」の読みにはやや無理も感じるが、魅力がある。こそ:この終助詞「こそ」の文法的解釈には諸説あり、厳密にいえばなかなか難しい。「広辞苑」によれば、誂(あつら)え(指示命令)の意味を持つ上古語動詞「こす」の古い命令形であるという(さらにその語源は、上代の動詞「来(こ)」+「す」だという)。「聞こし(召す)」なども類似の語構成と見られる。「こそあれ」「こそあらめ」(「~であれ」)の省略であるとする、平安時代以降の古典文法では常套といえる解釈もあったが、「広辞苑」や三省堂、ベネッセなどの古語辞典では、軒並み否定されているようだ。しかし、いずれにしても命令に近い願望、祈祷を意味する「~であれ」「~であらんことを」のような意味になることに変わりはない。のちに発達した「こそ・・・けれ」などの係り結びは、もともと倒置法が起源であるとする説がある(国語学者・大野晋氏ら)が、この歌の結びの「こそ」は、それ以前の文法的形態を示していると思われ、詠まれた年代の古さを示している。* この歌にインスパイアされたという中村岳陵の日本画「豊幡雲」(昭和11年・1936)を写した綴れ織りは、宮中晩餐会などでおなじみの皇居・豊明殿の壁面の装飾として知られる。 層積雲 Lenticular cloudウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン *画像クリックで拡大。
September 9, 2014
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生方たつゑ(うぶかた・たつえ)忘却に頼らむなげきも杳はるかにて雪ふれば浄きものに溺るる歌集「雪の音譜」(昭和28年・1953)忘却を頼みにしようとした嘆きも今は杳として定かでなく雪が降ればきよらかなものに耽溺している。
February 22, 2012
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作者未詳影草かげくさの生おひたる屋外やどの夕陰に 鳴く蟋蟀こほろぎは聞けど飽かぬかも万葉集 2159影草の生えている庭先の夕陰に鳴くコオロギの声はいくら聞いても聞き飽きないなあ。註作者未詳:初の勅撰和歌集である古今和歌集以降では、「よみ人知らず」(古今集撰者・紀貫之らの造語か)と言うようになったが、万葉集では一般にこう呼ぶ。蟋蟀こほろぎ:中世以前には、あらゆる鳴く昆虫の総称だった。今でいうコオロギは、古語では「きりぎりす」と言った。今のキリギリスは古語では鳴き声から「機織(はたをり)虫」。江戸時代前期の松尾芭蕉の名句「あはれやな甲の下のきりぎりす」(おくのほそ道)も、コオロギのこと。 鳥居清広 浮世絵(作品名不詳) 江戸時代ウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン *画像クリックで拡大。
September 19, 2016
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永井荷風(ながい・かふう)震災今の世のわかい人々われにな問ひそ今の世とまた来る時代の藝術を。われは明治の兒こならずや。その文化歴史となりて葬はうむられし時わが青春の夢もまた消えにけり團菊だんぎくはしをれて櫻痴あうちは散りにき。一葉いちえふ落ちて紅葉こうえふは枯れ緑雨の聲こゑも亦また絶えたりき。圓朝えんてうも去れり紫蝶してふも去れり。わが感激の泉とくに枯れたり。われは明治の兒なりけり。或年あるとし大地俄にはかにゆらめき火は都を燬やきぬ。柳村りうそん先生既になく鴎外漁史おうぐわいぎよしも亦姿をかくしぬ。江戸文化の名残烟けむりとなりぬ。明治の文化また灰となりぬ。今の世のわかき人々我にな語りそ今の世とまた来こむ時代の藝術を。くもりし眼鏡をふくとてもわれ今何をか見得みうるべき。われは明治の兒ならずや。去りし明治の兒ならずや。詩集「偏奇館吟草」(昭和18年・1943)註(われに)な問ひそ:(私に)問うなかれ。訊(き)くな。「な語りそ」は、「語るな、言うな」。とくに(枯れたり):疾(と)くに。とうに。とっくに。「特に」ではない。われは明治の兒ならずや:私は明治の児ではないのか(反語的強調表現)。明治という時代の子なのだ。(・・・このくだり、ちょっと山下達郎「アトムの子」の歌詞を連想した。)大正・昭和前期の文豪・荷風が、和歌的・擬古的な文体でその真情を吐露した、近代詩の名篇。大正12年9月に発生した関東大震災を、江戸期から脈々と受け継がれて明治期に大輪の花を咲かせた歌舞伎や落語や戯作(げさく)などの庶民文化や、荷風自身もその一翼を担った新時代の文学・芸術などの「喪失」として捉えた視点が鮮烈である。喪失感は、いつの世も詩歌の大きな源泉の一つである。もちろん、そこに「失恋」も含まれることは言うまでもない。現代のJ-POPの歌詞などを見ても何ら変わりはない。・・・そういえばこの詩の詠みぶりは、荷風が育まれ魅惑されてやまなかった明治の文化への失恋の歌といってもいいぐらいにも思える。こういった、ある意味文弱な内容の詩集を、あの戦争中に出していたらしい。公然たる検閲のあった時代、すでに広く知られた「老大家」だったから黙認されたのだろうが、本当に凄い「非国民」である。僕は健全な保守主義に則りたいと願っており、明治以降のわが国のいち早い近代化は世界に誇るべきものだったと総括するが、昭和の大戦に到る10数年間ほどは、やはり日本人は少し正気を失っていたと思っている。昭和天皇陛下の宸襟(しんきん)を悩ませたもうたことは、当時の軍部・政治家、そして付和雷同の新聞(今でいうマスメディア)の万死に価する大罪だったと言わざるを得ないだろう。谷崎潤一郎も、戦時中ずっとあの繊細優美にして軟弱な「細雪」をシコシコ書いていたらしい。私にとっても、小説の中で五指に入るほど好きな作品である。当時の苛烈な時局柄、伝統的な美意識への屋内退避という限界はあるが、時代そのものが充血していた中ではやむを得なかったろう。その反骨精神は、これもまた紛れもなく一つの日本男児・益荒男(ますらお)の決意と行動であると、特に強弁しなくても優に言い得ると思う。改めて尊敬してしまう。
April 4, 2011
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島木赤彦(しまき・あかひこ)高槻たかつきのこずゑにありて 頬白ほほじろのさへづる春となりにけるかも歌集「大虚集」(大正13年・1924)註高槻たかつき:高い槻の木。槻は欅(けやき)の古称。
March 20, 2012
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ザ・ドリフターズドリフのズンドコ節氷川きよしきよしのズンドコ節with 仲本工事海軍小唄(ズンドコ節)NTTドコモ光「ズンドコモ節」
April 8, 2016
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釈迢空(しゃく・ちょうくう、1887-1953)山ぐちの桜昏(く)れつゝほの白き道の空には鳴く鳥も棲(ゐ)ず註民俗学者、国文学者、神道学者の折口信夫(おりくち・しのぶ)と同一人物。一言でいうと、江戸時代の賀茂真淵や本居宣長などの「国学者」の衣鉢を継いだ全人的な学者であった。
March 26, 2007
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明治天皇睦仁陛下 御製(おおみうた、ぎょせい)あさみどり澄みわたりたる大空の広きをおのが心ともがな明治37年(1904)初冬新緑のように生き生きとした青が澄みわたった大空の広大無辺を自分の心と出来たらなあ。註欧米以外で初めてこの国に偉大な近代化を齎した英邁なる君主にふさわしい、まことにおおどかで気宇壮大な名歌。『明治天皇御集』の時系列の配列から見ると、初冬(年の瀬)の作品と見られる。もがな:詠嘆を込めた強い願望を示す終助詞。「・・・であったらなあ」「・・・と出来たらなあ」。願望を表わす上古語終助詞「もが」に、詠嘆の終助詞「な」が付いたもの。上代では「もがも」の形で、万葉集に見られる。この語尾の「も」も詠嘆の終助詞。
January 17, 2009
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菅原道真(すがわらのみちざね)このたびは幣ぬさもとりあへず手向山たむけやま 紅葉もみぢの錦にしき 神のまにまに古今和歌集 420 / 小倉百人一首 24この度の旅はあわただしくて幣ぬさも手に取れずに参りました。幣を手向けるべきこの手向山の一面の紅葉の錦を奉納いたしますのでどうか神意のままに(ご笑納下さい)。註忙しくて奉納の用意が出来なかったので、代わりにこの山の美しい紅葉全部をまとめて神様に捧げます、という洒落た趣向の一首。この堂々たる言い草に、神様も笑って許すのではないか。・・・「この広い野原いっぱい咲く花を ひとつ残らずあなたにあげる 赤いリボンの花束にして」(作詞:小薗江圭子、作曲・唄:森山良子)みたいだなと、ちょっと思う(この)たび:「度」と「旅」を掛けている。幣ぬさ:神に捧げる供え物。また、祓(はらえ)の料とするもの。旅の折などには布または紙の細かに切ったものを持参し、道祖神(土地の神々)に奉り、旅の無事と神の加護を祈った。古くは麻木綿(あさゆう)などを用い、のちには絹や紙を用いて現在に至る。幣帛(へいはく)。御幣(ごへい)。玉串(たまぐし)。みてぐら。にぎて。秋の祭礼などにおける「初穂(はつほ)」(その年の初めての米などの収穫)や「真榊(まさかき)」の奉納もこの類い。この風習は現代にも残るが、「玉串料」「初穂料」などとして金銭で納めることが多い。とりあへず:手に取れず。準備・用意ができず。現代でも使う「とるものもとりあえず」という言い回しに原義が残る。手向山たむけやま:手向山八幡宮。奈良市雑司町にある神社。「(幣ぬさを)手向たむける」と掛けている。まにまに:随意に。意の儘に。現代語「ままに」の語源。 紅葉 / 御幣ウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン *画像クリックで拡大。
November 11, 2021
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よみ人知らず芹せり 薺なづな 御形ごぎやう 繁縷はこべら 仏の座 菘すずな 清白すずしろ これぞ七種ななくさ註南北朝時代の1360年代に、学者・歌人の四辻義成によって著された『河海抄』という源氏物語の注釈書・随筆が初出とされる。秋の七種の方は古代の万葉集に見え、歌人・山上憶良というれっきとした作者がいるが、こちらは当時の俗謡か。四辻義成その人の作との説もあるが、不詳。いずれにしても、野趣溢れ人口に膾炙した、なかなかの秀歌と言えよう。芹せり:セリ科。薺なづな:アブラナ科。通称ぺんぺん草。生長すると花茎の塔(とう、あららぎ)が立ち、三味線の撥(ばち)のような果実を付ける。晩冬から早春の若葉(ロゼット)を食べる。御形ごぎやう:「おぎょう」ともいう。母子草(ハハコグサ)。キク科。繁縷はこべら:ハコベ。ナデシコ科。仏の座:コオニタビラコ(小鬼田平子)。キク科。現在の和名でいうホトケノザとは別種。菘すずな:蕪(かぶら、かぶ)。アブラナ科。語源は、丸い形を鈴に見立てたか。ちなみに、「おちんちん」の語源も、睾丸をちんちん鳴る鈴に見立てたものである。清白すずしろ:大根(アブラナ科)の美称。「蘿蔔」とも書く。
January 6, 2023
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吉川宏志(よしかわ・ひろし)花水木の道があれより長くても短くても愛を告げられなかった第一歌集『青蝉』(平成7年・1995)註この歌を詠んだ当時、ハナミズキという花はまだ一般的にそれほど知られていなかったと、作者自身が回顧している。シンガー&ソングライター・一青窈の代表曲「ハナミズキ」(平成16年・2004)でこの花はすっかり有名になり、遡(さかのぼ)って逆照射された感もある清冽な青春の秀歌。
April 24, 2012
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藤原定家(ふじわらのさだいえ、ていか)かきやりしその黒髪のすぢごとに うち臥ふすほどは面影ぞ立つ新古今和歌集 1389かきわけたその黒髪の一筋一筋に至るまで独り寝ている時には面影が浮かぶのだ。〔解説〕 長谷川櫂黒髪をかきやるとは、撫でる、指でなぞる、掻きあげて顔をのぞき、掻き分けて肌に触れる。どれもこれも恋人たちのなまめかしい仕草である。ひとり淋しく寝ていると、あの夜の黒髪の一筋一筋が目に浮かぶ。月光に照らされるように。 【読売新聞 22日付朝刊『四季』】 註淋しく切ない、ちょうど今頃の時季の冬の匂いがする名歌。* 和泉式部「黒髪のみだれもしらずうちふせばまづかきやりし人ぞ恋しき」(後拾遺和歌集 755)の本歌取り。
January 24, 2014
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