夢ナラジャPAネットさん、ありがとうございます(^^)

すごくお詳しいですね。
なるほど、櫟・楢は、青々とした生命力や美しさの比喩として用いられたんでしょうね。
万葉時代の、素朴で生き生きとした感覚が偲ばれますね。
(2025.08.17 03:19:46)

うたのおけいこ 短歌の領分

うたのおけいこ 短歌の領分

2013.05.06
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カテゴリ: 万葉恋々
 万葉集に、古代の若者の大らかな恋心を伝える「 下野 しもつけ 安蘇 あそ の河原」の 東歌 あずまうた があり、幸福感にあふれたファンタスティックな秀歌として当ブログサイトでも何度かご紹介してきた。
 この「河」はこれまで、有名な大河川・渡良瀬川の一支流である「秋山川」という無名な小河川のこととするのが通説になっており、かなり権威のあるとされる書籍にもそのように記されているので、私もかすかな違和感と懐疑を覚えつつも通説に従ってきた。

 ・・・が、このほど少々調べてみたところ、歴史的な解釈や書誌学的な学説の変遷から見て、この通説の根拠は薄弱であって、むしろこの「河」は「渡良瀬川そのもの」とする説があることを知り、こちらの方がむしろ妥当ではないかと感じるに至った。

 橋というものがなかった当時、渡し舟や徒歩(や水泳?)で難渋して渡った川を、恋慕の一念で河原の石さえ踏まずに空を飛んできたという幻想的な内容から見ても、よく知られた大きな河の方がふさわしいと感じられる。あるいは、七夕での天の川に掛かるカササギの橋の伝説が念頭にあったか。

 権威のあるとされる有名な日本史の通史の書籍などにもけっこう誤謬があったりすることは、私にも覚えがある。
 ただ、私はむろん国文学者ではないので、この説の当否の判定をする任までは堪え得ないが、地元を愛する一栃木県民としても常識的にこの方が腑に落ちる。もしそういうことであれば喜びに堪えないところである。



東歌 あづまうた 下野 しもつけ の国の歌


下野 しもつけ 安蘇 あそ の河原よ石踏まず空ゆと来ぬよ
が心



万葉集 3425

下野の安蘇の河原から
石も踏まずに空を飛んでやってきたよ。
君の気持ちを言ってくれ。

註:
東歌 あづまうた :いわゆる「租庸調」(古代の物納の税)などとともに、各地の国府を通じて大和朝廷に送られ蒐集されたと考えられる和歌。素朴な味わいに満ちており、万葉集のいわば「野の花」である。当時の各地方の人口に膾炙した、いわば民謡のようなものが多いとされる。

下野 しもつけ (の国):ほぼ現在の栃木県(当地)全域に当たる。 野州 やしゅう 。当地の地方紙(県域紙)は「下野新聞」。

(下野)ぬ:格助詞「の」の東国訛りか。「野」の意味とする説もあるようだ。

安蘇の河原:通説では、現・栃木県安蘇郡葛生町、田沼町、佐野市を流れる秋山川(渡良瀬川の支流)の河原のこととされてきたが、上記の通り大きな疑問がある。

「よ」は「ゆ(~より、~から、~を通って)」に同じ。現代語「より」。

:上古の第二人称代名詞。「あ(吾、我)」と対応。「汝(なんぢ←なむち)」などに痕跡。

る:告げる。告白する。告知、宣言する。現代語「名のる」(「名乗る」は誤り)や、人名「宣子(のりこ)」などの造語成分として残る。「則、法(のり)→詔(みことのり)」などは、この中核的な原義から派生したのだろう。


* 「君と出会った奇跡がこの胸にあふれてる/きっと今は自由に空も飛べるはず」草野正宗『空も飛べるはず』(スピッツ)
・・・1300年の時を超えて、同じような着想だと思った


味岡宏佳 1.jpg



味岡宏佳ちゃん手書きハート
・・・画像には、特に意味はありません


○ 16世紀(江戸期の大改修以前)の関東の河川
Tone_riverine_system_16century.jpg


200px-PD-icon_svg.jpg creative commons.jpg   パブリック・ドメイン





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最終更新日  2016.04.08 16:18:53
コメント(51) | コメントを書く


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Re:新説? 万葉集「下野ぬ安蘇の河原」は「渡良瀬川」か(05/06)  
山田民雄 さん
[室の八島保存会]のホームページを読まれた由、「秋山川説」がどういう代物であるかお分かりになった事と思います。

なお、
[下野風土記](1688年編著)
「阿蘇川原並美加保乃関 : 今案云三毳カ、足利ヨリ佐野エ入道ニ有リ。」ですって、えっ!?

栃木県の学者さんは、この三毳の地について誰も調べていないようです。

このコメントはお読みになりましたら消去願います。 (2013.05.07 07:52:19)

『室の八島』 面白いです  
くまんパパ  さん
山田民雄さん、ウェブサイト『歌枕 室の八島の歴史の旅』は非常に興味深いです。

『下野風土記』の記述「阿蘇川原並美加保乃関 : 今案云三毳カ、足利ヨリ佐野エ入道ニ有リ」を読み下しますと、「阿蘇の川原、並びに美加保乃関 : 今案(かんが)ふるに、云はく三毳か、足利より佐野へ入(い)る道に有り」でしょうか。・・・なるほど、よく分かります。

これに比して、幕末の『下野国誌』という書物が、きわめて独断的かついい加減な内容で、大変問題の多い本だということがよく分かりました。

・・・「二荒山」と「補陀洛山」、「栃木」と「十(とお)の千木(ちぎ)」などは、今なおかなり公式な観光パンフレットなどにまことしやかに書かれていますが、かねてから私も怪しげだなと思っていました。それらが、この江戸の「トンデモ本」に始まるものだったとは初耳でした。

ご教示まことにありがとうございました。
(2013.05.07 10:46:22)

Re:『室の八島』 面白いです(05/06)  
山田民雄 さん
くまんパパさん が、『下野風土記』の三毳に関する記述に対して「なるほど、よく分かります。」とおっしゃられているということは、足利と佐野の間に在った(今でも在る?)三毳について、何か心当たりがあるということでしょうか?
でしたら是非教えていただきたいのですが。

[下野国誌]が問題なのは、歌枕に関してだけです。歌枕については[下野国誌]の著者・河野守弘はかなり自信が有るようです。河野守弘って、幕末の歌人じゃないでしょうか?

河野守弘が[下野国誌]を纏め上げた努力は認めますが、
頭の程度は[下野風土記]の著者の方がずっと上ですね。

くまんパパさん が、もし「あその河原」の川が渡良瀬川であるなら「喜びに堪えないところである。」とおっしゃっているということは、くまんパパさん は足利の方ですね。
足利市民なら「あその河原」の川が佐野の秋山川であるなんてことは許容できないでしょう。

なお山田民雄は栃木市出身です。

もし足利在住でしたら[下野風土記]の三毳の地を調べていただけないかと期待したいのですが。
手掛かりは、
[室の八島保存会]のホームページの「みかもの山」の項にあります。

(2013.05.08 06:38:51)

全く詳しくありません 恐縮です^^;   
くまんパパ  さん
山田民雄さん、私は生まれも育ちも宇都宮です。県南地区の街並みの風情も好きですが、たまにドライブがてら観光にいく程度です。(・・・若い頃はオートバイに乗っていましたので、割と頻繁に行っていました。)
足利・佐野・岩舟・栃木などの各市町に対して、特にどれかの贔屓ということはなく、全く中立です。

「あその河原」の川が渡良瀬川ならうれしいというのは、名前も実物も美しいこの川に抱く栃木県民としての素朴な感情でありまして、ほとんど知られていない秋山川という川などよりはいいかなという程度です。まして、特にどの地域だから嬉しいとか許容できないといったことはありません。

県内の古代「東山道」のルートに、ある程度の興味はありますが、県南地域については全く詳しくありません。
「三鴨の駅家(うまや)」につきましても、現在の三毳山麓の(現・岩舟町)下津原付近にあったという通説に異を唱える材料は持っておりません。
http://www.iwafune-kankou.com/ennin.html

・・・「よく分かります」と書いたのは、単に書いてある文意が了解できるという意味でしたが、その内容については、「足利ヨリ佐野エ入道ニ有リ」というのは、雑駁で不正確でしょうかね。
確かに、これだと「足利と佐野の間にあった」ように読めますね。粗忽ながら、気が付きませんでした。

東山道については、現在進行形で発掘調査が盛んに行われており、何か出てくるたびに地元紙「下野新聞」の紙面をにぎわせております。現・栃木市の国府跡以北のルートは、おおむね解明されてきているようです。
(2013.05.11 16:31:32)

Re:全く詳しくありません 恐縮です^^;(05/06)  
山田民雄 さん
すいません。迷惑かけちゃって。

[下野風土記}にある「足利と佐野との間の三毳の地」について、「くまんパパさん」に期待出来ないとなると どうするかな?

「かつて足利と佐野との間に三毳という土地が在った」とわかると、
今の三毳山の名前はどうなるんだろう?
「三毳山麓窯跡群」の名前はどうなるんだろう? (2013.05.11 19:01:29)

Re:新説? 万葉集「下野ぬ安蘇の河原」は「渡良瀬川」か(05/06)  
オカズ さん
昔は足利の渡良瀬川も佐野の秋山川も現在とは違うルートを流れてたみたいです。
ネットで検索したら出て来ましたよ。 (2013.05.12 04:15:51)

大変勉強になりました  
くまんパパ  さん
山田民雄さん
>すいません。迷惑かけちゃって。

いえいえ、全然迷惑ではありませんよ。私もかねてからけっこう興味がある話題ですし。
大変勉強になりました。

もし何か新発見の事実でも出てきましたら、また書き込みます(^^)
(2013.05.12 17:09:03)

流路・地形の変遷は要注意ですね  
くまんパパ  さん
オカズさん、コメントありがとうございます。
そうですね。「大御所マター」として、徳川家康じきじきの肝煎りにより、「実行本部長」の伊奈忠次によって関東の大河川に大規模工事が行われました。
鬼怒川・利根川などとともに、渡良瀬川・江戸川に「瀬替え」(河川付け替え)の工事が行われ、流路が大幅に変わったことは存じております。秋山川もそうでしたか?

これらは灌漑・治水とともに、鉄道以前の船による大量物流に大いに役に立ったと思われます。

甲斐(山梨)の「信玄堤」の大工事なども有名ですが、徳川幕府は、滅んだ武田家の人材(遺臣・浪人たち)と広範な行政ノウハウを接収しましたので、そのこともある程度関係があるかも知れませんね。

また、現在の渡良瀬川周辺は、比較的近年まで氾濫がしょっちゅう起こる低湿地で、「船田」姓などが多い土地でした。
(・・・もと宇都宮在住で、現在佐野に住む船田という幼なじみの竹馬・刎頚の友がおりますが、やはりご先祖はそちらの方面だそうです。)

したがいまして、この辺の地域では、江戸時代以前にも洪水などで川の流路や周辺の地形が大幅に変わることがあったことも十分考えられ、この種の議論で注意を要するところですね。
(2013.05.12 17:41:26)

Re:流路・地形の変遷は要注意ですね(05/06)  
山田民雄 さん
[下野国誌]に「安蘇川原 : 佐野天明駅の西を流るる川なり」とありますが、現在の秋山川は[下野国誌]当時、何と呼ばれてたんだろうと、インターネットで調べ回った結果、秋山川の付け替えのことを知りました。

「越名河岸」の案内板の地図と国土地理院の地図とで旧秋山川の曲りくねり方がピッタリ一致したので、「越名河岸」がどこにあったかがすぐわかりました。 (2013.05.17 15:39:39)

探究心に頭が下がります  
くまんパパ  さん
山田民雄さん、引き続きありがとうございます。
探究心に頭が下がります。

越名馬門河岸と旧・秋山川については、おっしゃる通りのようですね。私は全く初耳でしたが、勉強になりました。

さて、「三毳」が足利と佐野の間にあったと仮定しますと、(現・足利市の)富田という地区がありますが、例えばこの辺りかも知れないなと思います(・・・全く根拠はありませんが)。

グーグルマップなどでご覧いただきますと、南北を山に挟まれた地形になっておりまして、関所などが置かれても不思議ではないように思います。

ここには日光例幣使街道(県道67号線)が通っていますが、もしかすると、この付近ではこれが古代東山道のなごりかも知れません。
ここに筑波山神社というものもあり、山そのものがご神体になっているような地形で、歴史の古さを思わせます。
西側の近所には栗田美術館というのがありまして、何度か行ったことがあります。

・・・ご参考にもならないと思いますが^^;

(2013.05.18 18:35:40)

Re:探究心に頭が下がります(05/06)  
山田民雄 さん
富田という地区(・・・全く根拠はありませんが)
→とんでもありません。的を射た解析です。

富田村:1889年に駒場村、迫間村、奥戸村、西場村、稲岡村、多田木村、寺岡村(インターネットの国土地理院の地図参照)が合併して足利郡富田村が誕生しましたが、1959年に足利市に吸収されて消滅した村です。豊かな田んぼという意味で富田村と名づけられました。

[富田村郷土誌](1911年編纂)がありますが、まだ読めておりません。

なんでこんな所の村村がひとつにまとまったかが謎です。地形的にひとつにまとまれるような場所じゃないんです。
それで旧富田村辺りが[下野風土記]の1700年頃三毳と呼ばれていたんじゃないかなと考えました。
でも、そんな広い場所なら[下野国誌]の1850年頃までに名前が消えるということはないだろうと考えました。


日光例幣使街道(県道67号線)・・・東山道
→例幣使街道は江戸時代の足利の町(渡良瀬川の北側)を通らずに、川の南側の八木節で有名な八木宿を通っています。おそらくこれが足利の町が出来る前の古代の街道・東山道じゃなかったかと考えています。

それで[下野風土記]の「足利ヨリ佐野エ入道」は幣使街道と違って渡良瀬川を跨がない、現在の県道67号線沿いの道ではないかと考えています。

でもそんな所に道があったかどうか私は知りません。
それで、誰かに教えてもらいたいんですが、誰にどう質問したらいいのかわからずに今悩んでるところです。


(2013.05.21 18:40:32)

Re[1]:新説? 万葉集「下野ぬ安蘇の河原」は「渡良瀬川」か(05/06)  
山田民雄 さん
全くその通りです。この辺りはインターネットがすごく役に立ちます。

ところで、明治時代の足利の人は、万葉集にある「あそのかわら」の川を、足利の町並に沿って流れている渡良瀬川とは考えていなかったようです。

おかしいなと思ったんですが、考えてみたら、足利は「あそ」郡ではなく足利郡なんですね。よその郡の河原の歌なんて興味がないんです。
(2013.05.21 21:41:43)

「安蘇の河原」は、現・足利市梁田付近?  
くまんパパ  さん
山田民雄さん、なるほど、十分あり得ることと思います。

古代の東山道が、足利を素通りする(後世の)日光例幣使街道(県道128号線)だったと仮定して、三鴨の宿が現在の富田地区付近とすれば、それが「足利ヨリ佐野エ入(ル)道」にあるという記述と符号しますね。

もしそうだとすると、「あその河原」とは、まさにこの日光例幣使街道(=旧・東山道?)が渡良瀬川を渡る、現・足利市の梁田あたりのことかと想像を逞しゅうするのも、あながち不自然ではないかも知れません。

なお、日光例幣使街道は、現在県道128号線と一部8号線となっているようで、「川崎橋」という橋が渡良瀬川に架かり北岸の川崎町に連絡しているようですね。
さらに、富田地区の東に隣接する寺岡町という交差点で県道67号線に合流していますね。
ただ千年以上経っていますから、その間に細かいルートの変遷はあったかもしれません。

例えば、当地・宇都宮市内には旧「奥州街道」が通っていますが、時代とともにかなりのルートの変更がありました。
ちなみに、私は旧「奥州街道」沿いの家に生まれ育ち、今も近所に住んでおります。今では正月の初市(ダルマ市)の賑わいに往時を偲ぶ程度です(^^)

・・・こういったことに詳しい人となると、やはり地元の郷土史家の先生(高校の歴史の教師とか)でしょうかね。
足利・佐野の図書館辺りに行けば、研究書があるかもしれませんが、私にもちょっと見当が付きません。
(2013.05.22 13:24:44)

Re:「安蘇の河原」は、現・足利市梁田付近?(05/06)  
山田民雄 さん
「安蘇の河原」は、現・足利市梁田付近?
→当否はいざ知らず、お見事な解析です。

1)[下野風土記](編著者未詳、1688年編著)の著者は「安蘇の河原」の川を渡良瀬川と考えていた可能性が高いです。
2)新千載
石フマヌ 阿素ノ河原に行暮テ 美加保乃関ニ今日ヤトマラン
の「関ニ・・・トマラン」は意味がおかしいので、[下野風土記]の著者は「関」は「駅=宿場」の間違いだろうとかんがえたのでしょう。
まさに梁田宿は[下野風土記]当時の例幣使街道の宿場です。
3)[下野風土記]には、「三毳山」と「足利より佐野へ入る道にある三毳」とは関係無さそうに書いてあるので、「足利より佐野へ入る道にある三毳」には山が無かった可能性があります。

ということで、「足利より佐野へ入る道」が例幣使街道なら、「足利より佐野へ入る道にある三毳」は足利市梁田付近にあった可能性が高いです。


足利・佐野の図書館辺りに行けば、研究書があるかもしれません。
→どんな回答が来るかわかりませんが、2013.05.23、栃木県立足利図書館にメールで「江戸時代に現在の県道67号線に相当する道があったのか否か」質問をぶつけてみました。 (2013.05.23 09:04:54)

Re[1]:「安蘇の河原」は、現・足利市梁田付近?(05/06)  
山田民雄 さん
早速、質問した当日(2013.05.23)の御前11時に栃木県立足利図書館から回答が届きました。

しかし、彼らは[下野風土記]などという史料の存在を全く知らないんです。「下野風土記の三毳」とこちらが書いても「下野国誌の三毳山」としか見えないんです。

それで、栃木県立足利図書館の回答は「三毳山や古代の街道・東山道についてはこういう史料があります」という内容でした。 (2013.05.23 16:44:38)

Re[2]:「安蘇の河原」は、現・足利市梁田付近?(05/06)  
山田民雄 さん
ところで栃木県立足利図書館が紹介する資料の中に
・『校訂増補 下野国誌』 下野新聞社
 P35「都賀郡」 P89「三毳山駅」
と有りました。

そう言えば、うっかりして[下野国誌]を調べていなかったなと思い出し、[下野国誌]を調べて見ました。
インターネットウェブサイト 国立国会図書館「近代デジタルライブラリー」で[下野国誌]の全頁が読めます。

[下野国誌]の安蘇郡の地図に
「天明ヨリ足利へ三リ」、その隣の行に「・例幣使道 川寄ヘ二リ」
とあり、例幣使街道の他に佐野から足利へ行く道の有ったことがわかります。

また「足利郡・梁田郡」の地図を見ると、その道と例幣使街道とが寺岡村かその手前(足利より)で合流している事が描かれています。

つまり「下野国誌」(1850年)当時、今の県道67号線に相当する街道の有ったことがわかります。

どうも[下野風土記](1700年頃)の言う「足利より佐野へ入る道」とは、例幣使街道でなく、この県道67号線に相当する街道と考えたほうがよさそうです。 (2013.05.23 16:56:50)

あとは考古学的な証拠でしょうか  
くまんパパ  さん
山田民雄さん、そうですね、おっしゃる通り、私も「足利より佐野へ入る道」が、ほぼ現在の県道67号線に相当する道であると思います。
足利氏が台頭する以前にも、ここにそれなりの道があったとしてもおかしくありません。が、史料的な裏づけは難しいかも知れませんね。

その道に美加保乃関(=三鴨の駅家?)があったという記述を信じれば、現・富田地区付近にあったと見るのは不自然ではありませんね。

傍目八目(おかめはちもく)な言い方でいささか恐縮ですが、山田さんは関連する史料はすでに渉猟され尽くされたようですので、現時点では文献的なアプローチは完了したのではないですか?

やはり最終的には考古学的な証拠(当時の関所や駅家、東山道の遺構など)の発掘・発見を俟つしかないのかも知れません。

前にもちょっと触れましたが、当地・宇都宮周辺では、東山道に関してこうした発掘調査がさかんに行われており、おおよそのルートは解明されてきているようです。

なお、「関ニ・・・トマラン」についてですが、関所は役所と山城を兼ねたようなもので、それなりの設備があり、権力者・文化人・僧侶などの通過の際には一晩歓待して宿泊させ、都のみやげ話を聞くなどのことはあったように思います。
(2013.05.26 16:53:51)

Re:あとは考古学的な証拠でしょうか(05/06)  
山田民雄 さん
うわっ、「あとは考古学的な証拠でしょうか 」を読んだら、くまんパパさんってすごいんですね。学者なんですね。
私は歴史は好きですが、覚えんの苦手です。
和歌なんて興味がありません。
どちらも全くの門外漢のド素人です。

私が興味があるのは、「真実は何か?」、ただそれだけです。例えば、
[拾遺集](1005年)平 兼盛(?-991年)の歌
「みちのくの-安達の原の-黒塚に-おにこもれりと-聞くはまことか」
の「おにこもれり」は通説では「鬼籠れり」ということになってますが、
[大和物語]と、[拾遺集]のこの歌の詞書、を読んだら、「おにこもれり」が「鬼籠れり」では有り得ないんです。それで、「さて『おにこもれり』とは何ぞや」にのめりこみます。つまり山田民雄は偏執狂です。

「山田さんは関連する史料はすでに渉猟され尽くされたようですので、現時点では文献的なアプローチは完了したのではないですか?」
→すいません。とんでもありません。史料の調査は今始めたところです。調べるには当時の村を管轄していた藩の史料を調べる必要有りと思ってんですが、そんなの私のようなド素人のすることじゃないでしょ。
それで栃木県立図書館と栃木県立足利図書館をそそのかしたんですが、彼らは乗ってきません。
[下野風土記]の「今案云三毳カ、足利ヨリ佐野エ入道ニ有リ。」が証明されると、現在の三毳山や三毳神社などの名前がみんな根拠を失うんでおもしろいんですけどね。

調査が進展しましたら、報告させていただきます。
現在は、調べたがヒントなし、ばっかりです。 (2013.05.27 21:15:38)

Re[1]:あとは考古学的な証拠でしょうか(05/06)  
山田民雄 さん
この調査の目的からちょっとずれるんですが、とんでもない史料が見つかりました。

[許我志](原 念斎 著、1808年、古河藩領の地誌)
○三毳山
 三毳(カモ)山ハ野州都賀郡大田和村ニアツテ、土民大田和山と呼ノトヤハリ一トツヅキナレド、自ラ別ナルヨシ。・・・(以下万葉仮名にルビ)シモツケノミカモノヤマノコナラノスマクハシコロハタカケカモタム」

これを読むと、1810年頃「シモツケノ-ミカモノヤマノ-コナラノス-マクハシコロハ-タカケカモタム」の歌の「ミカモノヤマ」とは漢字で「三毳山」と書くと周知されてたんですね。

[延喜式](927年成立)巻二十八 兵部省には
「下野 駅馬   足利、三鴨・・・」とあって、この「三鴨」は[許我志]が言う「三毳山」付近にあったろうと推定できるんですが、「ミカモノヤマ」は、その「三鴨」の名前と関係なく「三毳山」と書くと知られてたんですね。

さらに[古河志](小出重固 著、1830年、古河藩領の地誌)には
「一.許我志曰、三毳(ミカモ)山ハ大田和村ニ在テ土民大田和山と云フ」とあります。

史料作成順は[下野風土記][許我志][古河志][下野国誌]ですが、これを知ると、順番は[下野風土記][下野国誌][許我志][古河志]にしか見えないんです。

こういうのはどういうふうに解析したら宜しいのでしょうか?是非お教え下さい。



(2013.05.31 23:38:53)

Re[2]:あとは考古学的な証拠でしょうか(05/06)  
山田民雄 さん
なお[下野風土記](1688年編著)と[下野国誌](1850年刊)との文は次のとおりです。

[下野風土記]
「三毳山  :  [歌枕名寄] ニハ下野ノ名所ニ入
万葉十四
下野ノ三カモノ山ノコナラノス マクハシコロハ タカケカモタン」

[下野国誌]
「三毳山(ミカモヤマ) 駅
都賀郡にあり。[兵部式]に三鴨駅とあるも此所なり。[和名抄]にもあり。山頂まで七・八町許の登りなり、東北面は下津原村と云、西面は西浦村、南面は太田和村とて三ケ村入会の地なり。・・・」

(2013.06.01 00:04:42)

Re:新説? 万葉集「下野ぬ安蘇の河原」は「渡良瀬川」か(05/06)  
千鳥饅頭 さん
原文が美可母なので

鴨 :鳥の鴨、〜かも
毳 :〜かも
可母 :か、も、 〜かも

美鴨と詠まれてないので、古我方面から見る三鴨山を詠んでないと考えられ
可母と同じ意味の万葉集に使われている毳の字を当てたんでしょうか? (2013.06.01 21:37:19)

Re[2]:あとは考古学的な証拠でしょうか(05/06)  
山田民雄 さん
すいません。変なこと書いちゃって。

「これ(許我志)を読むと、1810年頃「シモツケノ-ミカモノヤマノ-コナラノス-マクハシコロハ-タカケカモタム」の歌の「ミカモノヤマ」とは漢字で「三毳山」と書くと周知されてたんですね。」

この判断は誤りで、[許我志]の著者だけか、[許我志]の著者に土地の事を色々教えてくれた古河藩の老人だけが、[下野風土記]を読んで「三毳山」だと言ってるだけのようです。それなら納得できます。
(2013.06.03 09:35:50)

「三鴨」「三毳」の固有名詞の用字について  
くまんパパ  さん
山田民雄さん、非常に専門的で精緻な論点になっているようですので、私にはこれ以上の知識はなく、何かを明確に申し上げるのは困難です。
山田さんに分からないことを私が分かるはずもありません。

ただ、「三鴨」や「三毳」の表記・用字の問題について私なりの感想を言いますと、歴史的な地名や苗字などの固有名詞の表記は割とゆるいものであって、けっこう恣意的に変えられてきたのが事実と思います。

理由はさまざまでしょうが、あまり良くない意味の文字を吉祥の意味の当て字に変えることが最も多かったように思います。
また、当時の知識階級であった貴族・僧侶・武家などの一種の文人趣味(スノビズム)によると思われるものも少なくありません。今も東京に残る地名「新堀(にいぼり)」→「日暮里」などはその典型です。

千鳥饅頭さん、ありがとうございます。いただいたコメントによりますと、万葉集の漢字(真名)原文(万葉仮名)に「毳」の字を「かも」と読ませている用例があるようですので、「三鴨」→「三毳」も、この類いではないかと思いますが、どうでしょうか?

その他にも、こうした実例は枚挙にいとまがなく、わが国の国号「倭国」→「和国」→「大和国」を筆頭に、「火の国」→「肥の国」(佐賀県・熊本県など)、「黍の国」→「吉備の国」(岡山県)、「木の国」→「紀伊国」、「淡湖(あわうみ)」→「近江(おうみ)」など、かなりの旧国名が吉字による当て字の書き換えです。

まだまだ多数の実例がありますが、そんなわけで「三鴨」「三毳」の用字についてだけいえば、それほど重大な問題ではなく、単純に「三鴨」=「三毳」と考えていいのではないかと思うのですが、いかがでしょうか?
(2013.06.07 18:39:33)

Re:「三鴨」「三毳」の固有名詞の用字について(05/06)  
山田民雄 さん
私が回答するのは変なんですが、「三鴨」か?「三毳」か?、は名前の問題じゃないんです。
今の三毳山は万葉集に「みかものやま」と詠まれた山なんだろうか?の問題なんです。
三毳山? なぜ三鴨山じゃないの? 三毳山の名にどんな根拠があるの?

千鳥饅頭さんのコメントはこの疑問に沿ったコメントと受けとめました。 (2013.06.09 20:37:34)

ご自分のブログを開設してみてはいかがでしょうか   
くまんパパ  さん
山田民雄さん、問題意識は分かるんですけれども、おっしゃる論点につきましては、残念ながら私には皆目分からないとしか言いようがありません。

私は、もちろん和歌・短歌については興味を持っていますが、万葉集専従の研究者・学者ではありません。現代短歌の実作者の一人として、古典は参考として勉強している程度です。
くだんの疑問点につきましては、どうかご自分で研究なさってください。

ところで、この楽天やその他のブログサービス(無料)で、ご自分のブログサイトを開設してみてはいかがでしょうか。

操作は難しくありませんし、すぐ習熟できると思います。こういった学問的・歴史的な問題については、ブログという形式は向いていると思います。

インターネットの威力はものすごいと、私も日々実感しております。広く意見を募ってみれば、示唆に富む、思わぬ有益なコメント・意見があるかも知れません。
(2013.06.10 14:36:30)

Re:新説? 万葉集「下野ぬ安蘇の河原」は「渡良瀬川」か(05/06)  
飛んでイスタンブール さん
・・飛んで飛んで飛んで飛んで飛んで〜♪回って回って回って回る~♪
時は昭和時代
旅客機が飛び始めた大阪の新名所、伊丹空港の千里川の土手川原で見た光景が目に焼き付いて忘れられず
遥か遠くの関係ない地域の万葉歌で妄想解釈しちゃったという飛んでも解釈。
(2025.07.25 19:43:32)

飛んで回っちゃったんですか?  
くまんパパ  さん
飛んでイスタンブールさん、ご訪問とコメントありがとうございます(^^)

大阪・伊丹の川の土手で、飛んで回っちゃったんですか?
やはり恋愛ですか?

よろしければもう少し具体的に、何を妄想したのか教えてくださいよ。
(2025.07.26 03:57:00)

Re:新説? 万葉集「下野ぬ安蘇の河原」は「渡良瀬川」か(05/06)  
ばってん原川 さん
万葉歌の飛んだ空想解釈より

武蔵野 荒川から石を踏まずに
空を飛ぶ想いで やって来たよ
お前 どう思う(汝が心のれ)

あなた いつからホームレスになったのよ~
(2025.08.02 18:15:34)

ドローンにぶら下がってきましたかね  
くまんパパ  さん
ばってん原川さん、ご訪問とコメントありがとうございます(^^)

・・・ドローンにぶら下がってきましたかね。
(2025.08.03 03:34:30)

Re:新説? 万葉集「下野ぬ安蘇の河原」は「渡良瀬川」か(05/06)  
石踏まずの隅田川 さん
下つ毛野 安蘇の河原よ
石踏まず❗❗❗←(これいくつ必要デスカ)?
 汝が心のれ(笑)
(2025.08.08 18:25:45)

ありがとうございます  
くまんパパ  さん
石踏まずの隅田川さん、ご訪問&コメントありがとうございます。

今後もよろしくお願いいたします。
(2025.08.08 20:48:55)

Re:新説? 万葉集「下野ぬ安蘇の河原」は「渡良瀬川」か(05/06)  
夢ナラジャPAネット さん


阿蘇川原並美加保乃関

櫟(なら)を詠んだ歌
万葉集には1首だけ、櫟柴(ならしば)と詠まれています。櫟柴(ならしば)は、楢(なら)の雑木をいいます。

1353: み狩りする雁羽の小野の櫟柴のなれはまさらず恋こそまされ

5. 結論
「小楢」が万葉集に詠まれた確率はほぼゼロであり、万葉集においては、楢の木の一般的な美しさや象徴性が強調されることが多いため、具体的な種別(小楢など)について言及されることは少ないです。
(2025.08.16 18:32:58)

万葉時代の素朴で生き生きとした感覚  
くまんパパ  さん

Re:新説? 万葉集「下野ぬ安蘇の河原」は「渡良瀬川」か(05/06)  
空ゆTOKIOかける少女 さん
新 伊香保、新 安蘇、新 伊奈良、新 許奈良の須、新 許我 なら

・奥日光 中禅寺湖畔
・八丁出島

・谷中湖畔💙谷中の洲
・谷中の関
・谷中の河原
※現在は恋人の聖地
きぃっと今は〜気球で空も飛べるはず〜 (2025.08.24 19:10:21)

今なら気球でひとっ飛び  
くまんパパ  さん
空ゆTOKIOかける少女さん、ありがとうございます。

今なら気球でひとっ飛びでしょうかね。 (2025.08.25 06:35:49)

Re:新説? 万葉集「下野ぬ安蘇の河原」は「渡良瀬川」か(05/06)  
裸足の時代❣裸足の季節 さん
AIによると
🧠仮に詩的な文脈でも

「石踏まず」を「川の上流」と読ませるような比喩は、日本語文学においてもほとんど前例がなく、それを当然のように主張するならば、**何らかの恣意的な解釈か、読者を煙に巻こうとする“知ったかぶり”**である可能性が高いです。

特に:

> 「下毛野渡良瀬川よ石踏まず」
⇒ 「石踏まず」は上流のこと!



などと言い切る解釈は、日本語話者の自然な理解からかけ離れており、仮にそう主張するならよほど明確な出典や詩的慣例が必要になります (2025.08.30 18:55:12)

おっしゃる通りでしょうね  
くまんパパ  さん
裸足の時代❣裸足の季節さん、ありがとうございます。

なるほど、そんな解釈をしている人もいるんでしょうか。
それは、この歌の全体の文意から見ても無理だと思いますね。

少なくとも私はそんな解釈はしておりません。 (2025.08.31 00:44:00)

Re:新説? 万葉集「下野ぬ安蘇の河原」は「渡良瀬川」か(05/06)  
ジャパーマンネット さん
結論から言うと:

> **「大昔」でも、整備されていない自然の河原を2km以上連続して歩ける場所は、日本でも“ほとんどなかった”**と考えられます。

理由は地形・気候・人の移動手段の観点からはっきりしています。

日本の地形は「河原歩き」に向いていない

日本の川は「急流」で、「短くて曲がりやすく」「狭い谷に挟まれて」流れているのが基本。

つまり、昔も今も変わらず:

河原=狭い・石がごろごろ・歩きにくい

すぐに崖・崩れ・分流・湿地になる

2kmも連続で「歩けるほどの安定した河原」は、そもそも形成されにくい。

洪水・氾濫の頻発

古代の日本では今以上に治水がされておらず、川は頻繁に氾濫していました。

その結果、河原は 流れが変わる・泥に埋まる・新しい中州ができる などして、

「常に一定のルートで歩ける」という前提が成立しにくい。

実際、人は「川沿い」ではなく「尾根」や「台地の縁」を通っていた

古代〜中世の「官道」「古道」は、基本的に川を避けて作られました。

例:東山道・中山道・熊野古道などは、

川の谷を避けて尾根や稜線をたどる

川を渡る必要がある場合は、橋や浅瀬を選んだ

これは、「河原歩き」がいかに困難で非現実的だったかの証拠です。

じゃあ、どこかにはあったのか?

もし例外的に「大昔から長く歩ける河原」があったとすれば、以下のような条件が揃った場所です:

条件 備考

川幅が広くて勾配が緩い 北海道・東北の一部の盆地など
山間でも安定した河床がある 例:十津川や熊野川の一部
人がほとんど手を加えていない 山奥・未開の地など

が、それでも**“歩ける距離”としては数百メートル~1km程度が限度**だったでしょう。

歴史的裏付けはある?

あります。

古代律令制の「駅路」や「官道」の遺構をたどっても、河原を長距離使っている例はまず出てきません。

たとえば奈良時代の東山道でも、渡河点(川を渡る場所)は指定されていますが、その前後で河原をずっと歩いていたという記録はない。

「万葉集」や「風土記」にも「河原を長距離旅した」描写は皆無。

結論(再)

> 大昔であっても、日本に「2km以上歩き通せる自然のままの河原」は、極めて稀だった。

現代より多少自然が残っていたとはいえ、日本の地形・気候・洪水事情・人の動線すべてを考えると、そんな河原はほぼ存在しなかったと考えるのが自然です。 (2025.09.05 18:39:45)

面白いご指摘  
くまんパパ  さん
ジャパーマンネットさん、ありがとうございます。

なるほど、面白いご指摘と思います。
確かにそうなんでしょうね。
降りて行って、ある程度歩けるような河原が、そもそもほとんど存在しなかったのでしょうね。

珍しいので、歌になって残っているのかも知れませんね。 (2025.09.06 03:30:12)

Re:新説? 万葉集「上野ぬ安蘇の河原」は「渡良瀬川」か(05/06)  
いきなり宮ダレ‼️ さん
下野トンチン歌の妄想飛んでも解釈より

安蘇の河原から石を踏まずに
空を飛んで やって来たんだ(実にくだらない・福山ふうに)
お前 どう思う(汝が心のれ)
 いきなりステーキ‼️(笑) 

アンタ誰?

ココどこやねん? (2025.09.07 08:01:24)

福山雅治なら似合いそう  
くまんパパ  さん
いきなり宮ダレ‼️さん、ユニークな解釈ありがとうございます。

なるほど、天下の二枚目・福山雅治なら似合いそうなセリフですね。

ところで、宮ダレ(当地の有名チェーン店「ステーキ宮」のたれ、市販もしている)は本当に美味しいですね。
宇都宮・栃木の誇りです(^^) (2025.09.09 02:41:07)

Re:新説? 万葉集「下野ぬ安蘇の河原」は「渡良瀬川」か(05/06)  
私待つわ いつまでも待つわ さん
AIの見解
✅ 石の川原を裸足で歩ける距離 —— 概算で答えると:

> おおよそ数メートル〜数十メートルが限界の人が多いです。
ただし、慣れていない現代人の場合、5〜10メートルでも相当な痛みを感じるでしょう。

---

■ 条件によって大きく変わります

石の種類・大きさ・角度

丸くて小さい石(砂利寄り) → 比較的歩きやすい

尖っていてゴツゴツした石 → かなり痛い、傷の危険も

熱された石(夏場の川原など) → やけどの危険が高い


足の皮膚の強さ(鍛え具合)

昔の農村の子供たちや山の民など、裸足に慣れている人 → 数百メートル以上歩けることも

現代の都会育ち・靴生活の人 → 数歩で「ギブアップ」も珍しくない


体重・バランス感覚

重い体重を支えながら石の上を歩くと、足の裏にかかる圧力が増して痛みも強くなる。

---

■ 実験的なデータ・証言(例)

**小学校の「はだし教育」**をしている地域では、

子どもたちが100m以上の距離を裸足で走る訓練もある。

ただし、それは 土や芝生であって、「石の川原」ではない。


登山経験者の話では、

靴を失った状態で川原を移動するのは「地獄のように痛い」とされ、

数十メートル進むのに10分以上かかることも。

---

✅ 結論:あくまで目安として

タイプ 裸足で歩ける距離(石の川原)

現代人(非裸足生活) 5〜15メートル
少し慣れた人(アウトドア好きなど) 20〜50メートル
裸足に慣れた人(訓練者・過去の農村の子供など) 100メートル以上も可能 (2025.09.12 18:32:55)

なるほどです  
くまんパパ  さん
私待つわ いつまでも待つわさん、ありがとうございます。

なるほどです。 (2025.09.13 04:13:15)

Re:新説? 万葉集「下野ぬ安蘇の河原」は「渡良瀬川」か(05/06)  
・・・『羽田にコンタクトしますか?』 さん
AIさ見解
✅ 結論:

「安蘇の河原の歌」六首は、内容・語彙・構文の点で、現代語とのギャップが小さく、古典の中では珍しく、現代人でもストレートに意味が取れるものだと言えます。
したがって、解釈よりもそのまま味わうことに価値があるタイプの歌です。 (2025.09.19 19:05:45)

ストレートに味わえますよね  
くまんパパ  さん
『羽田にコンタクトしますか?』さん、ありがとうございます。

本当にそうですね。ストレートに意味が取れて味わえますよね。
(2025.09.20 04:25:12)

Re:新説? 万葉集「下野ぬ安蘇の河原」は「渡良瀬川」か(05/06)  
小ナラNOート🎶 さん
AIの見解

1「まぐはし」が人物に使われるようになる時期と経路

結論を先に
万葉集:景物限定
平安前期:まだ人物にはほぼ使われない
中世(鎌倉-室町):人物評価へ転用が始まる
近世以降:容貌語として定着
これは連続した意味拡張。

1-1 万葉段階(8世紀)
用法:
山・島・国・景

評価軸:
配置
見渡したときの完成度

特徴:
「眺める主体」が固定されていない
感情が介入しない

完全に景観美の語。

1-2 平安前期(9-10世紀)
この段階が重要。
和歌語彙が
自然 → 人物 へ比喩転用され始めるが、
「まぐはし」は
うるはし
きよら
ほどには使われない。

理由:
造形評価が強すぎて
人の情緒・関係性を詠みにくい

まだ人物語では居場所がない。

1-3 中世(鎌倉-室町)
ここで転機。
「具はし」系の語が
「整っている」
「不足がない」
として人格・容貌評価に拡張。

この時点の意味は、
景色のように全体として破綻がなく、
見るに堪える、という評価。

人物を鑑賞対象として見る視点が成立して初めて可能。

1-4 近世-近代
漢語「端正」「整美」と意味領域が重なり、
古語として
まぐはし=目鼻立ちが整う
と再定義される。

ここで完全に容貌語として再定着。

2 辞書がどう段階整理しているか(根拠)

2-1 古語辞典の基本構造
主要な古語辞典は意味を時代順に並べている。

典型的な並びは、
目立って美しい(山・島・国など)
整って美しい(物・建物)
容貌が整って美しい(人)

1が最初、3が最後。
つまり辞書自身が、
人物用法は後発であり、
万葉的本義ではないことを示している。

2-2 用例注記の違い
景物用例:
万葉集

人物用例:
中世歌学書
近世随筆

出典層が明確に分離している。

2-3 辞書が「可愛い」を当てない理由
どの主要辞書でも
「まぐはし」に
可愛い
愛らしい
は基本義に置かれない。

理由は、
語の評価軸が
感情ではなく配置・完成度にあるため。

3 全体まとめ
「まぐはし」は万葉では景観美専用語。
中世以降、景色を見る目で人を評価する発想が生まれ、人物へ転用。
辞書も景物 → 物 → 人の順で意味を整理している。
(2026.01.03 22:08:20)

ユニークな視点のご指摘ありがとうございます  
くまんパパ  さん
小ナラNOート🎶さん、いつもユニークな視点のご指摘ありがとうございます。 (2026.01.06 15:38:57)

Re:新説? 万葉集「下野ぬ安蘇の河原」は「渡良瀬川」か(05/06)  
安蘇山つづら さん
AIさん見解
安蘇山
→(禿山時代)
 三鴨山(南東)
 犬伏せ山(北西)
 高岡山(東側)
→ 三毳山
この並び、
時間 × 方角 × 利用者
が全部噛み合ってるのが強い。
なぜこの形が「正解っぽい」のか
🔹 安蘇山
行政地名由来の最古層
方角依存しない「総称」
🔹 禿山時代の三分化
森林が失われたことで
形が見える → 名前が分かれる。
南東:三鴨山
音地名+三峰景観
比較的古層・歌や語りに乗る
北西:犬伏せ山
禿げた稜線の比喩
生活者の実感そのもの
東側:高岡山
平地からの高度認識
境界・実務向き
👉 同時代・同一山体・複数呼称
 ぜんぶ自然。
🔹 三毳山
禿山時代を経験し終えた後にしか出てこない名前
「毳(毛)」という再生メタファー
方角差を消した近代の統合名

三毳山:禿山時代を経た後の“再統合名”(近代層)
- 「毳(け)」=毛の再生というメタファーが秀逸
- 森林回復後の“新しい見え方”を反映
- 方角差を消して、近代的な統合名として機能
- 観光・行政・交通の文脈で使いやすい
同じ山でも「誰が・どこから見るか」で名が分かれる必然性
3. 「禿山時代」という条件
森林があったら→ 全体が一つの塊に見える
禿げたら→ 稜線・凹凸が際立つ → 命名の動機が生まれる
👉 「三毳(毛)」は、禿げた後に草木が戻ってきた状態を経験した世代の名前

(2026.02.07 19:36:33)

示唆に富むご意見と思いました  
くまんパパ  さん
安蘇山つづらさん、ありがとうございます。

なるほど、たいへん示唆に富むご意見と思いました。
(2026.02.08 13:24:02)

Re:新説? 万葉集「下野ぬ安蘇の河原」は「渡良瀬川」か(05/06)  
手熊区魔夜混 さん
マハリクマハリタ ソラユト キヌヨ

アブラカタブラ タガケカ モタム (2026.02.28 22:02:17)

呪文の言葉  
くまんパパ  さん
手熊区魔夜混さん、ありがとうございます。

それぞれ呪文の言葉ですね。ちょっと面白いです。
(2026.03.14 13:17:52)

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