ミーコワールド

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八章



その後、昇はしばらくうつろだった。 
直美は2~3日して「お手紙、読んだの」と尋ねたが昇は返事をしなかった。 
茂子の父は若い茂子にどんな手紙を書いたのだろうか。
直美は気になっていた。 
話しても良い事なら昇は話してくれるだろう、と自分に言い聞かせた。 
一方、昇は由美と直美の話、そして自分の記憶の奇妙な一致に戸惑っていた。 
こんな事って本当にあるのだろうか。 
世の中で一番非科学的な事が自分の身に起こっているのは何なのか、何故なのか、あるいは直美の両親が言うように
人間の意識の外に人間の力の及ばない力が存在するのか。 
存在するとすれば、それは何なのか。 
直美の両親の言う神であり、仏というものなのか。 
昇は50年の人生が足元から覆される思いであった。
よりにもよって科学的なもの以外信じなかった自分が一番非科学的な事態に直面しているとは何という事か。 
あるいはそんな自分に神や仏が思い知らせたのではあるまいか、と思う日も出て来た。 

新学期を迎える頃、昇は茂子の父の手紙を読んだ。 
茂子の父の手紙は茂子の幸せを思う思いで溢れていた。 
それは茂子と結婚を前提の交際を請いに行って断られた直後の手紙であった。 
「茂子、お前と向き合って話せばいい事だが感情に流されてしまいそうで手紙にした。 
こんな改まった手紙を書くのは初めてで最後になると思う」という書き出しで始まっていた。 

「茂子、人を愛するという事は大切な事だ。人を愛せない人は自分も大切にできない。
人から愛された事のない人は他人も愛せない。犯罪を犯した人の多くは愛されずに育ってきて、人の愛し方を
知らないばかりに犯罪を犯した人が大方だ。その事を思うと茂子が田中君をあのように愛する事ができるのはとても
素晴らしい事だ。お父さんは嬉しい。しかし、自分達の愛の為に誰かが苦しんだり、悲しんだりして本当の幸せに巡り遭えるかな。
お父さんは違うと思う。田中君がいけないと言っているのではない。今のままではいけないと言っているのだよ。
その事をこれから書くつもりだ。

お父さんは昭和の初めに生まれた。 4人兄弟の一番上だ。 
お父さんの母親は妹を生んですぐ亡くなった。困ったおじいいちゃんは周りの勧めで一人の子持ちの人を後妻に迎えた。 
お父さんと東京の清子おばさんの間の松子おばさんがその子だ。あの人だけが血の繋がっていない兄弟だ。 
しかし、何かの縁で兄弟になったのだから、他人も身内もない。助け合って生きていくしかない社会だった。
そして弟が生まれて4人兄弟になった。その頃から戦争になり、役場に勤めていたおじいちゃんは赤紙を配達するようになった。
戦争が進むにつれて帰って来ない人が増えてきておじいちゃんは心を痛めていた。
誰もが食べる事、食べさせる事に必死だった。 
それでもお父さんの家はおじいちゃんの給料のお陰でしのぐ事ができた。 
戦局が悪くなりお父さんも軍需工場へ行った。 
その工場も爆撃を受けて命からがら逃げて戻ったんだよ。 
多くさんの前途ある青年が犠牲になった。 若い女性も犠牲になった。 
そして終戦を迎えた。誰もが生きていくので精一杯だった。

お父さん達もその日の糧を求めた。 
泥棒やかっぱらい以外なら川の中のブリキも拾って集めた事もある。 
しかしお父さんは泥棒やかっぱらいをする人を非難する事ができなかった。 
その人はそうしなければ死が待っているだけだったから。 
おじいちゃんは自分の配った赤紙で多くの人が戦死した事で自分を責めた。 
それを誰も慰める事も叱咤激励する事もできなかった。 
お父さん達、上の3人は必死でその日の生活の為に仕事を探したよ。 
そんなある日、おじいちゃんの元同僚の上田のおじさんが警察官募集の話を持ってきてくれた。
これで給料が貰えたら妹や弟に食べさせてやれる。
ただそれだけを思って受験した。上田のおじさんの保証人で採用になった。 
忠実に仕事をして解雇されないようにいつも緊張していた。 
頭の中にはいつもふさぎ込んで話さないおじいちゃんの事と面倒を見ているおばあちゃんの事、兄弟の事しかなかった。 
少しでも栄養のあるものを食べさせてやりたかった。 
妹二人は近くの繊維工場へ勤めが決まった。 
弟を大学に入れる事を楽しみに3人で働いた。

そんなお父さん達が羨ましいのか、心ない人は義理の妹をいじめていると噂した。 
松子は外へ行くと必要以上にニコニコして仲の良い所を見せようとした。 
すると今度はお父さんと松子が血のつながりがない事を良いことに何かあるように言う人が出てきた。
上田のおじさんは松子に縁談を持ってきた。順番だからと言って。 
松子は喜んで田原さんの所へ嫁に行くと言った。 
その後、朝鮮戦争が始まって日本は景気を回復し出した。 
おじいちゃんもその頃には大分よくなって運送屋の手伝いをするようになっていた。 
弟も大学に入り、順調だった。 
その頃、清子は進駐軍でタイピストをしていてそこで知り合った通訳の人と結婚をした。
日系二世のあのおじさんも辛い思いをしている。 
みんな二人の結婚を祝福した。 
祝福するのと同時に兄弟の堅い約束をした。 
お父さんもその頃結婚をしたいと思う人がいた。
清子と松子の元同僚で栄子さんという人だ。

茂子はお母さんの友達だと思っているかもしれないがそうじゃないのだよ。 
毎年おいもを多さん送ってくるから茂子も名前だけは知っているだろう。 
栄子さんは4人兄弟の一番上でお父さんが戦死して妹と弟の面倒を見ていた。 
お母さんは体を壊して臥せがちだった。 女工の稼ぎなんて知れたものだった。
それでもがんばっている栄子さんをお父さんは好きだった。

そんなある日、栄子さんが家に来た。 
今日でお別れだと言っておいものふかしたのを一杯持って来た。 
二人で奈良公園へ行って浮き御堂の所でおいもを食べながら栄子さんは田舎の農家へ嫁に行く事になった、と言った。 
弟や妹達にお米や野菜を送ってくれるというから嫁に行くと言った。
まだ会った事はないけれど相手の人や家族から手紙を貰ったと言った。 
とても良い人達のようだから、と言った。 
お父さんは栄子さんの家族まで養える状態ではなかったので、良かったね、と言った。 
栄子さんはありがとう、と言って初めて涙を流した。 
晴れ晴れとした顔だった。

そして私が大切にされている証拠に毎年私の作ったおいもを送るわ、と言った。 
二人っきりで話したのはそれが最初で最後だよ。 
その後、しばらくしてお父さんは上田のおじさんの世話で電話局に勤めていたお母さんと結婚をした。
秋だった。
その年はいつもの倍の量のおいもが送られて来た。 
茂子のお母さんは驚いたよ。お母さん宛に送られてきたのだから。 
おばあちゃんは笑い転げていたよ。 
これからは私宛でなく、政子さん宛に来るのねって。 
今でも送られてくるのは今でも大切にして貰っていますという事なんだよ。 
こんな思いやりもあるのだよ。

人と人が結ばれる事で周りも幸せになり人の輪が広がる、人と人の出会いはそんなものでなくてはならないと思う。 
さて、田中君の事だが、田中君が悪いと言っているのではない。 
警察がアカを極度に取り締まってきたのは朝鮮戦争の頃に一部の過激な人達が火炎瓶事件や過激な行動に
走ったからであり、社会の秩序を乱したからに他ならない。 
何もしない人に今の警察は何もしない。 まして個人的には何もしない。 
しかし、自分の主義主張の為に親子の絆を切らせたり、親や兄弟、親戚の絆を切らなければならないような事態に
するのが本当の正義かどうかお父さんは判断に迷っている。 
松子おばさんの所も警察関係だ。お父さんもそうだ。 
まして由美もまだこれから結婚をする。どんな人と縁があるかわからない。 
その時、茂子の事でご縁がなくなれば折角の仲の良い姉妹が仲たがいする事になってもつまらない。

お父さん達が世間の冷たい目をものともせずに頑張ってこれたのは絆を断つ人間関係でなく、
絆を結ぶ関係を選んだからだと思う。 
田中君がいけないと言っているのではない。 
お父さんがアカを取り締まらなくてはならないのは、過去の歴史的な不幸の結果であり
田中君と茂子が今苦しまなければならないのは、それも田中君の責任ではなく、それも過去の歴史的な不幸な出来事の上に
存在していると思う。 
だからと言ってそれは誰の責任かと言うと政府だけの責任でもなく、誰に問うてみても答は出てこないと思う。
戦争が全てを狂わせたのだから。 
かと言って戦争に負けていなかったらと言ってみた所でどうにもならない事なんだ。

世の中にはどうしようもない不可抗力というものがあるのだよ、茂子。 わかるね。 
お前は賢い娘だ。人を愛する事ができるすばらしい娘に育ってくれた。  
ありがとう。 
でももう少し深く考えてみて欲しい。 
みんなこれからも無事に仲良く生きていける方法を。 
そして茂子が田中君と結婚をしても周りみんなが幸せになれる方法を。 
人を踏みつけるような事はいけないよ。茂子、わかるね」
手紙はそこで終っていた。

昇は今迄自分の見ていた他人の知らない部分を初めて知ったような気持ちだった。 
不可抗力とみんなが幸せになる方法、そして人を踏みつけてはいけないと言う茂子の父親の言葉。
昇は正義とは若さだけに任せてはいけないのだと改めて思った。 
そして直美を紹介してくれた県会議員の言葉も思い出していた。 
地球のマグマが計り知れない地の底で燃えたぎっているような正義。 
この二人は同じ事を言っているように思えた。 
真理を追求すれば同じような結論に達するという事であろうか。 
昇はそれからは今迄とは違う落ち着きを見せ始めた。 
今迄のようなどこか暗い影のある落ち着きでなく、暗いトンネルを抜けたような清々しさが漂うようになった。

[終章へ]

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