芸術をこよなく愛した父と、「エリザベスアーデン(香水で有名な化粧品メーカー)」の初代モデルだった美しい母との間に生まれたミッシェルは、二歳半からピアノに向かい、十代の半ばには、すでにプロのスタジオミュージシャンとしての仕事をこなしていた。 ところで、彼が「淑女の装い道」を極めることになったきっかけだが、当時、楽屋で一緒になった女性ボーカルグループ・スリーキャッツ(59年、『黄色いサクランボ』が大ヒット)の面々がつけていた長いつけまつげに魅せられたのがそもそもの由縁とか。 彼女たちの化粧を真似てステージに立ってみると、なぜかハイテンションでピアノが弾けた。自らの気分が高揚したせいなのか、観客が化粧映えのする顔に盛り上がってくれたせいなのか、以来、その得も言われぬ体感が、今日に至るまで、彼に、「エンターティナーであるということは、こういうことだ」と思わせ続けている。 その頃のステージ衣装は、黒や白、銀をベースにした、モノトーンやメタリック調のものばかりだった。色物は似合わないと決めつけていたが、化粧をするようになってからは、「色とデザイン」の世界が広がった。 その後、三輪明宏さんとのジョイントや、「本場のソウルミュージックに浸かりたい」と渡米(78年)した経験が加味され、彼の「化粧とおしゃれ」は、さらにブラッシュアップされていく。 ロサンジェルスで、作曲、ライブ、TV出演などと活躍した後、拠点をニューヨークに移し(86年)、“Le Recital Pour Piano De Michel”(ミッシェルのピアノリサイタル)などで注目を浴びた。 また、オナシスファミリー(ギリシャの海運財閥)と専属契約をしたり、“Best Piano Player In The Town”を受賞したりという輝かしいキャリアは、彼が”淑女の装い”をする“天性のピアニスト”あることを不動のものにした。