三河の住人の庵

三河の住人の庵

西尾市 「土豪屋敷土塁跡」


樹木や竹に覆われていた「土豪屋敷土塁跡」が整備されているのに気が付いた。

以前の様子はこんなだった。

  • 旧土豪屋敷.JPG



それが 今ではこのような状況になっている。

  • 西浅井土豪屋敷跡2.JPG


  • 西浅井土豪屋敷跡3.JPG


  • 西浅井土豪屋敷跡4.JPG



『「土豪屋敷跡土塁」 西尾市指定 史跡  

延長280m 高さ7m 敷幅約12.5m 馬踏幅約4.2m

 西浅井の丘陵には東西二つの城があり、西の古城を「清康御弟松平十郎三郎康孝」の居城と伝える。
この城は西浅井町字「古城」の辺りと推定され、道を隔てた南に堀と土塁に囲まれた土豪屋敷がある。この二か所はおそらく詰城と日常住まう居館であったと思われる。
屋敷跡に住む黒柳家の由来書によれば、黒柳右京亮政家の居館と伝え、松平康孝が来たため屋敷を明け渡して屋敷前に一時住んだという。
 現在、黒柳家二屋敷を囲繞する土塁には樹木や竹が密生し、土塁の外、北側に幅約10mの濠の一部が残存している。また、東側丘陵中腹の浅井西城推定地には所縁の八幡宮が祀られる。
平成二十一年三月   西尾市教育委員会 』

現地案内書にある 清康御弟松平十郎三郎康孝とは 松平6代信忠3男康孝のことである。

松平6代信忠には3人の子があった。
嫡男清康は大永6年(1526)安祥から岡崎に居城を移し三河の統一を成し遂げた。しかし天文4年(1535)尾張守山城攻撃の陣中で家臣に切られて没した。(森山崩れ)
次男信孝。3男が康孝である。

次男信孝は合歓木を領し 康孝は三木と浅井の地を領した。

信孝と康孝は兄清康の三河統一への戦を助けて戦った。
兄亡き後 岡崎城を出ていた継嗣広忠の帰還には次兄信孝と共に功あった。
しかし 天文11年病を得て没してしまった。
康孝の死後 その子廉定が早世したため所領は兄信孝に併呑されてしまった。

康孝の墓は 土豪屋敷の北西200mほどの源空院にある。
源空院は康孝開基の寺で 枝垂桜の名所である。

  • 源空院しだれ桜.jpg


花の時期には大勢の客で賑わうが 墓に詣でる人はほとんどいない。

松平十郎三郎康孝 天文11年(1542)3月18日病死 法名 宝珠院礼翁善忠


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  • 旧清康墓(1).JPG

  • (平成20年撮影)

    • 康孝墓(1).JPG

    (最近 整備された)


    2012.04.11作成



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