旅の途次~ちょっといい景に逢っていきませんか?~

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○馬籠


 ~木曽路徒歩紀行・第7回 馬籠~

1997年5月2日

~前回の末尾で書き忘れたことがありましたので、新茶屋に戻って話を進めます~

 新茶屋のバス停を通りすぎ、だらだらと続く登り坂をひたすら歩くこと数分。ふと見晴らしのよい広場に出た。歩き疲れた足に心地好い砂利を踏み締めながら後ろを振り返ると、今まで歩いてきたとおぼしき町並みが一望の下に見渡せる。これだけ見晴らしのよい場所なら、俳句のひとつもひねってみたくもなるのだろうか、正岡子規の句碑が建っている。上京の際にこの場所で詠んだそうな。そして眼下はるかかなたには赤いアーチの道路橋が見える。あれは確か、落合宿に向かう途中見はるかした、中央自動車道にかかる鉄橋ではないか? だとすれば、自分は相当の距離を歩いてきたということか。達成感というより非現実的な距離感覚と言った方が正しい。自分だけ立ち止まったままで地球の自転に取り残されたというべきか、なんとも不思議な気分だ。

 道はこの辺りからやっと平坦になり、諏訪神社を過ぎたあたりからやや下りとなる。しばらく行くと左手に『馬籠城跡』と書かれた立札があり、若干の説明がされていた。近所の壁の『立ち小便禁止』の札のような風情で立つこの立札に、そんなご大層な代物の説明が書いてあるのはいささか驚きだったが、それによると木曽義昌が島崎将監重通に守らせたとある。天正12(1584)年、徳川方の武将に攻められ、将監は妻籠城に逃れたという。この将監が島崎藤村のご先祖様で、後に野に下り、馬籠宿を開いたそうである。なるほど、藤村の生家が代々馬籠本陣を務めていた理由がこれでよくわかる。

 一旦下った道が、その先すぐに急な登り坂となっているのが見える。アップダウンの道が続くと体力的にかなりキツイ。うんざりしながら見上げると、白い壁に黒い屋根の集落が見え隠れしている。独案内の地図を照らし合わせて見た。間違いない、馬籠である。

**/【馬籠】
**/信濃国 筑摩郡
**/宿内人別:717人(男360人、女357人)
**/宿内惣家数:69件(本陣1、脇本陣1、旅籠18)
**/駄賃・賃銭:荷物一駄・乗掛荷人共80文、
**/      軽尻馬1疋52文、人足1人41文
**/※『今昔中山道独案内』に記載の資料
**/ 【『中山道宿村大概帳』(天保14《1843》年頃)】を転載。

 ちょっと意外な話だが、馬籠宿は落合宿とさほど数値が変わらない。家数だけでいえば落合の方が若干多いことに気付く。ただ、在住人数は倍ほども違うので、規模の点でいえばやはりそれなりに大きいというところなのだろうか。いずれにしても中津川(宿内人別928人、惣家数228軒内旅籠29)とは比べるべくもなく小規模なのだ。

 馬籠は町内全てが坂道で形成されている。完全に観光地化されてしまった感が強く、古えの町並みというより、倉敷やハウステンボスといった、どこかしら意図的に造られたアミューズメントスポットのような印象さえ受ける。一度そんな先入観を持ってしまったが最期、なんでもかんでもわざとらしく見えてしまうのは私だけではあるまい。宿の入口に「中山道馬籠宿」の石碑が堂々と建っているのはともかくとして、その両わきに巨大なレストハウスと土産物屋が、まさに『どぉ~ん!』と建っている。そこから升形までの家々がほぼすべて土産物屋で、そこに建つ水車小屋まで嘘臭く見えてしまう。小屋の中では石臼がそば粉を挽いていた。

 ところで、この馬籠について独案内の一文を拝借すると、
 『……〔木曽海道宿付〕【宝永(1704~1710)以前、不詳】は「名古屋領,宿あしし」、〔壬戌紀行〕【享和2(1803)年】も「駅舎のさまひなびたり。飯もりてうる家(※)に、御仕度所、といへる札を出せり。又、うり銭あり、など書きつけたり」と、あまりパッとしない宿だった(中略)馬籠が、以外に多くの人に知られているのは、なんといっても島崎藤村によるところが大きいといえよう……』とある。なるほど、必要以上に綺麗なのは、そうせざるをえない理由があったというところか。

 閑話休題、とにかく腹が減った。時間が中途半端だが食い物屋を物色するとしよう。五平餅が食べたい。比較的古ぼけた、町の食堂のような店を一軒見つけて暖簾をくぐる。薄暗い店内と連子格子の窓、むき出しのコンクリートの床に木のテーブル。これくらいの方が気分が出ていいではないか。やっとその地方らしい食事にありつける。注文した五平餅は400。「餅」とはいっても杵でついた餅とは違い、ゴルフボール大のご飯の塊(おにぎりみたいなもの)が3つ、割り箸に刺してあり、それを炭火にかけ、クルミ味噌のタレをハケで塗りながら焦げ目が出来るまで焼く。地域や店によってタレの味が違うし、餅の形が小判形になることもある。これが一皿に2本。まぁ安いだろう。私はこれが大の好物で、空腹も手伝って大層美味しくいただくことができた。ただ、空腹のあまりがっついて、舌を少々やけどしてしまった。

 次の宿へと歩を進めるとしよう。宿の喧噪に体を預けながら坂道をゆっくりと上っていく。家々の門前には小さい掘割があり、澄んだ水が流れている。所々に囲いがあり、その中を鯉が泳いでいたりする。優雅なものだ。とはいえ、やはりどことなく出来過ぎの感が否めない。途中、馬籠郵便局がある付近がひときわ賑やかなのに気付いた。左手に立派な板塀と大きな冠木門をもつ家があった。どうやらそこは入場料を払って見学するところらしい。門柱を見て理解した。ここが馬籠本陣、つまり島崎藤村の生家なのだ。門内には記念館がある。館内には記念堂が併設されており、藤村自筆の原稿や初版本などが展示されている。

 さすがに馬籠は「夜明け前」の舞台にふさわしく、物語に登場する家や人は名前こそ違え実在していたようである。小説を片手に往事を偲ぶという旅の方法もありそうだが、私の場合は何より歩くのが目的なので、傍らにあるのは独案内という名の地図である。とはいえこの本、ある程度の雑学知識として物語の内容や建物の確認作業を同時進行でやってくれているので大いに参考になる。あまり考えなしにただ歩くのももったいないので、せめて町並みと宿の雰囲気をじっくり味わうとしよう。

 藤村記念館を過ぎると宿ももう終わりに近づく。左手に脇本陣跡があるかと思うともう外れだ。車道が道を寸断するように横たわり、その向こうに高札場が現存しているのが見えた。これから峠越えである。

 【第8回へ続く】
 【第6回へ戻る】

【雑学】
飯もりてうる家……「飯もり(いいもり。めしもり、とも読む)」とは飯盛宿、すなわち売春宿のこと。ここで注意したいのは、宿内人別の内の女性の人数である。男性に比べて女性の人数が圧倒的に多い宿は、それだけ飯盛り宿が繁盛、つまり宿自体が賑やかだったということになるわけだ。この宿の場合、男女の比率がほぼ同数であるから、それらもたいして繁盛せず、宿全体の規模も小さくあまりよくない宿場だったのであろうと推測できる。ところが、例えば信濃の追分宿の場合、宿内総人口は馬籠とたいして変わらず712人だが、うち女性が449人もいる。ここは長野善光寺へ向かう北国街道との分岐駅である関係から、宿場がたいそう繁盛し、同時に飯盛宿が大いに栄えたのである。有名な追分節にも「浅間山から追分見れば 飯盛り女郎がうろうろと」の一節があるほどで、その様子をうかがい知ることができる。時代は変われど盛り場の方程式は変わらないのである。



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