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倒れこんだハルメッヒは僕の腕に抱きかかえられたまま力を振り絞って話を始めた。「お、お、おら、たくさんの人の笑い声を聞くのがす、す、好きだったから」ハルメッヒは震えながら言った。「あのお金さえあれば、みんなおらと楽しく笑ってくれた」ハルメッヒはそう言うと僕の目をじっと見つめ、決心したような口調でゆっくりと僕に言った。「あんたは、おらの友達か?」「うん」僕は言った。「よかった。それこそおらが一番欲しかったものだ」そう言うと彼は初めてニコリと笑い、「もう思い残す事はない」と言った。そしてその瞬間、ハルメッヒの体は砂の様に一気に崩れ去っていったのだ。それは瞬きほどの速さで完了し、僕に理解の時間さえも与えてはくれなかった。こうして最後のスペレッツェもこの世から消えてしまった。僕は何度も彼の名前を大声で呼び続けた。でも、僕の枯れた声はもう2度と彼に届く事はない。しばらくして低く立ち込めていた黒雲から大粒の雨が一気に糸を引きながら落ちてきた。激しい雨に頬を打たれながらも僕はその場を動けずにいた。**********************今回は本館の連載企画「モル辞苑」と同じ内容です。
2006年03月04日
彼女は待ち合わせの中華料理屋に30分ほど遅れて入ってきた。そしてスーツ姿の僕の格好を見て驚いたように言った。「ねぇ、どうしたのその格好?」「色々あってね」僕は言う。「あなたのスーツ姿って初めて見た気がするわ」「そうだね。結婚式や葬式以外ではこんな窮屈な格好はしたくないしね」僕は苦笑いをしながら言う。「ところで何があったの?良かったら教えてくれない?」「たいした話じゃないんだ」「でも気になるわ」そういうと彼女は店員を呼び手際よくオーダーを済ませ話を聞く体勢に入った。「多分よくある話だとおもうんだけど」仕方なく僕はスーツの理由をかいつまんで話すことにした。「君の来る1時間前――つまり約束の時間の30分前―― 僕はこの席でまずビールを飲んだ。 いつもの様に文庫本を読みながらね。 30分位してトイレに行きたくなって僕は席を立った。 そして用を足して洗面所で手を洗っていたら スーツ姿の男が勢い良く駆け込んできたんだ。 彼は息を切らしていてどこか追い詰められた感じがした。 きっと、本当に追い詰められていたんだと思う。 彼は僕に気付くとこう言ったんだ。 『すまないけど君の着てる服と僕の服をそっくり交換してくれないか? 詳しい理由を説明している時間は無いんだ。 僕は今追われていて、変装してこの場を切り抜けたい。 見たところ君と僕の背格好は丁度同じくらいだ。 分かってくれ、やつらに捕まったらおしまいなんだ』 僕はしばらく考えた。 その間彼はソワソワしながらトイレの中を歩き回っていた。 僕の格好と言ったらいつものパーカーにジーンズ。 どちらも1週間は洗ってない。 それに対して彼の服はどう見てもブランド物だったから 別にいいかなって思ったんだ。 で、取引成立。 彼は『ありがとう、恩に着るよ』と言って厨房を抜け 裏口から急いで出て行った・・・というわけさ」彼女は僕のスーツをあらためて眺めて「それでこれがその時のスーツなのね」と言った。「そう。不思議なくらい僕にフィットしてる」そしてしばらく考え込んだ後僕に言った。「そうね。確かによくある話ね」**********************今回は本館の連載企画「モル辞苑」と同じ内容です。
2006年02月16日
『ユガワラ』僕は門番に告げた。その途端僕の周りの2m四方に檻が現れ僕はその中に閉じ込められてしまった。気がつくと天井がゆっくりと降りてくるのが分かる。僕はどこかで間違えてしまったのだ。新聞広告の求人欄がきっかけで僕はこの仕事を始めることになった。書類やらディスクやらを約束の場所に運ぶ仕事だ。中身が何であるのか僕には全く興味が無かった。しかも、大体の場合において相手は主婦だったり、コンビニの店員だったりといった普通の人だった。そういう人たちに封筒を渡すだけで1日に1万が手に入った。しかし、それを50件くらいこなすと次はちょっとランクアップされた相手の仕事がもらえる。――もちろん、本人の希望があればだが――マンションのオーナーだとか学校の校長といった位の人々を相手にする。大体それで1回5万円くらいになる。そして次は・・・という様にランクアップされていくのだ。僕は現在1回500万円クラスの仕事を請け負っている。僕らの仲間内ではSクラスと言われている階級だ。このSクラスには今までの仕事の成功率もさることながらもう1つ重要な条件がある。それは「印象に残らないような人物」という要素が何よりも大切なのだ。つまり、誰よりも業績をあげていながら誰からも気が付かれないくらいの圧倒的な匿名性が必要なのだ。つまり、僕にはそれがあった。人の印象に残らないという点では僕はちょっとしたものだ。毎日通ってる行きつけの居酒屋でも顔を覚えてもらえないし、同じ女の子に何回も振られてしまったり、「少々お待ち下さい」と言われたまま、閉店まで待たされたり。そんな僕でも1つくらい向いた仕事はあるのだ。おかげで僕は今の会社でただひとりのSクラスの階級を手に入れる事ができたのだ。人生とは様々なところで上手く回っているのだ。天井はゆっくりゆっくりと僕に向かって降りてくる。「ちょっと、上の人に取り次いでくれないかな、『ユラワラ』」僕は門番らしい人物に言う。「そのためにはあ、あ、合言葉が必要なんだよ」どもりながら門番の男が言う。出掛けに合言葉を聞いてきたのだがつい忘れてしまったのだ。覚えているのは『ゆ』から始まる言葉で『ユガワラ』に似ているという事だけだ。大切な合言葉を忘れてしまう程、僕はすっかり慢心していたのだ。さっきより天井が迫って来てるのがはっきりと分かる。「あ、あ、合言葉をメモしなかったのかい」門番は僕に聞く。「『ユアラワ』合言葉を『ユサラガ』メモして 『ユタワマ』大事な『ユカタラ』書類と 『ユヘラダ』セットに『ユカザワ』するのかい? 『ユカダラ』僕らの『ユバラマ』業界では 『ユサラナ』それは『ユタララ』タブーと 『ユララワ』されている『ユゲラマ』」僕は会話の中になるべく多くの言葉を挟む。こうした時間も無駄には出来ないのだ。だいいち、合言葉という言葉をいちいちどもるような門番だ、本当に合言葉を覚えてるかも怪しい。僕は心に決めた。迷ってる時間は無い。「やっぱり、合言葉は『ユガワラ』だ。 あの神奈川県の湯河原だよ。 僕は神奈川県については一家言あるんだ。 僕が湯河原の事を間違って覚えるはずがない」「でも、あ、あ、合言葉は違う」「違くない」僕は激しい口調で告げる。そして今度はゆっくりと話し始める。「いいかい、JR東海道線を東京から約100kmの場所にあり、 神奈川県の西南端に位置し、相模湾を東に望み、 三方を箱根外輪山や伊豆・熱海の山々に囲まれ、一年を通じ温暖で、 風光明媚な環境にある湯河原の事を僕が間違えるとでも?」「いや、そうは言ってないけど」僕は間髪入れずに湯河原の概要に関して話し始める。「いいかい?湯河原町は、古くは万葉の時代から温泉地として、 人々に知られていた土地だ。 君もそれくらいは知ってるよね? それでも現在の湯河原町の成立にはそれなりの紆余曲折があった。 まず江戸時代には、現在の福浦地区を除く 宮上村・宮下村・門川村・城堀村・鍛冶屋村・吉浜村・ を土肥6ケ村とした所から始まる。 そして明治17年に、この6ケ村が連合して吉浜村に戸長役場を置き、 吉浜村外5ケ村とし、明治22年4月町村制が施行され、 宮上村・宮下村・門川村・城堀村の4ケ村を併せて 土肥村、吉浜村・鍛冶屋村を併せて吉浜村と称した。 その後大正15年7月1日、土肥村はようやく湯河原町となり、 昭和15年4月1日、吉浜村は吉浜町となった。 更に昭和21年8月1日、福浦村は、真鶴町外2ケ村組合から分離し、 その第一歩を踏み出した。 湯河原は観光地、吉浜は農業地、 福浦は漁業地として一般の知るところとなったが、 昭和28年9月1日に公布された町村合併促進法に基づき、 2年後の昭和30年4月1日に湯河原町・吉浜町・福浦村の 2町1村が合併し、現在の湯河原町が誕生した。 ・・・他の誰が湯河原についてここまで言えると思う?」僕はここまでいうと天井を見上げる。あと10cmで僕の頭の高さになる。「気持ちは分かるけど、あ、あ、合言葉じゃない」「でも『ゆ』で始まるんだろう?」「うん。『ゆ』ではじまる。 本当はルールで言っちゃいけないんだ。 でも、あまりに熱心だから特別に教えるけど・・・」門番は気の毒そうに僕に告げる。熱心なのは当たり前だ。ぺしゃんこになるのは誰だってゴメンだ。「でも、その合言葉は『ユガワラ』に似ている」「うん」「似ているという事は『ユガワラ』では無いんだね」「残念だけど」僕はため息をつく、天井が僕の頭に触れる。「なぁ、ヒントをくれないかな」僕は言う。「あ、あ、合言葉のヒントなんて聞いたこと無いよ」「でも、僕の懐にはとても大切な書類が入ってる。 君が融通を利かせれば助かる情報だ。 分かるよね?君の手違いによってこの情報は損なわれる事になる。 今度は僕の次に君がここでぺしゃんこになる順番だ。 それとも君はぺしゃんこになりたいのかい?」「ぺしゃんこにはなりたくない」「そうだろう。僕だってそうだ。 きっとここの依頼主は損なわれた情報の腹いせに君を半分生かしたまま 小型の肉食獣のいる部屋に君を置き去りにする。 君はそこでその小型の肉食獣にゆっくりと食いちぎられてゆく。 いいかい、半分生きたままだ。 君の残り半分の生はお腹を空かせた小型の肉食獣によって 奪われ、失われていくんだ。 そしてその小型の肉食獣は最後に君のその頭に穴を開け 脳みそをペロペロといつまでも飽きもせずに美味そうに舐め続けるんだ」門番の顔色は見る見るうちに変わって行く。僕はもう、ひざをついている。時間はほとんど残っていない。「僕の持っている情報は本物だ。残念だけど中は教えられない。 でも、無限にある言葉の中で『ユガワラ』に辿り着いたんだ。 これだけでも相当信頼度が高いと思っていい。 それとも、脳みそをペロペロされたいかい? 小型の肉食獣がその粗い舌先で 君の脳みそを舐めあげるところを想像してごらん」門番はまっしろな顔色になって小刻みに震える。「嫌ならば、今すぐ機械を止めるんだ。僕なら君を助けてあげられる」すでに僕は床に伏せている。もうだめだと思った瞬間に機械がうなりをあげて逆回転し始めた。僕は助かった。そして、門番も小型の肉食獣に食べられずに済んだ。良かった。僕は服についた埃を払い、門番にお礼をいうと通路の先にあるドアの鍵をもらう。「この先で合言葉が必要になると困るから正解を知っておきたいんだけど」僕は彼に聞く。彼はまだ震えている。僕の命がかかっていたとはいえ、ちょっと可哀想な事をした気になった。彼は何も言わずに機械のモニターを指差した。そこには「ユリゲラー」と入力されていた。・・・あぁ、微妙に似ている・・・。 **********************今回は本館の連載企画「モル辞苑」と同じ内容です。
2006年01月29日
僕と彼女は市民楽団で知り合った。どこにでも良くある吹奏楽の市民楽団だ。僕の担当はコルネットというトランペットに良く似た楽器で彼女はホルンを担当していた。出会ったのはもう10年以上前の事でその頃すでに彼女は結婚していて僕は高校を卒業したばかりだった。新入りの僕に色々世話を焼いてくれたのが彼女で最初は特に親しい訳ではなかった。演奏会用の楽譜を買いに行った彼女とばったりと出会ったのをきっかけに僕らは急速に親しくなった。そしてそれ以来、頻繁にお互いで行き来するようになった。彼女の夫にとって僕はきっと奇妙な存在だったろうと思うがその頃の僕にはそういう事を気にかける能力が欠けていた。それはきっと他にいくつも気にすべきことがあったからなんだと思う。もちろんどれも取るに足らない事ばかりだった様な気がするが今となってはよく思い出せない。「嫉妬」「好意」「疑惑」といった様々な手続きをしないで済む非常に限られた幸運な時代に出会えた事だけは確かだ。いつしか僕達3人はよく出来た家族の様に過ごす事になった。彼らからは2人きりでいたいという願望があまり感じられなかった。結局、少し年上の一組の夫婦との楽しい日々を過ごす事になった。そしてその関係は僕が大学を卒業して仕事を始めてからもしばらく続いた。音楽事務所に所属する事も、学生でいる事もそんなに大差は無い事なのだ。もちろん時間的にという事において。その関係が変化をしたのは夫婦に子供が生まれてからの事だ。彼女とは徐々に会う機会も無くなり今度は彼女に代わって彼女の夫と親しく行き来するようになった。気づけば僕らは年齢を飛び越えた親友になっていた。世間的にはこちらの方が何倍も良い事だと思う。ある日の日曜日いつもの様に彼がビールを持って僕の部屋にやってきた。1本目のビールを飲み干した後、彼はおもむろに僕に切り出した。「僕は今やきもちを焼いているんだよ」僕は冷蔵庫から2本目のビールを取り出すと彼に「誰にですか」聞いた。「誰だと思う」彼はビールを受け取ると1口飲んで僕に言う。「さぁ・・・僕の知ってる人?」「うん。君のよく知ってる人だよ」僕は彼との共通の知り合いを頭に思い浮かべてみる。元々、そんなに知り合いがいないのですぐに候補が尽きてしまう。僕は考え込む。「こんな出来損ないのクイズみたいなまねはやめよう」彼は沈黙を切り裂くように言い出す。そしてこう付け加える。「いいかい。笑わないで聞いてくれるかい?」僕はうなづく。「僕がやきもちを焼いているのは息子に対してなんだよ」別にそんなに驚きはしなかった。きっと愛する妻を独り占めされているような気になったのだろう。僕はそう口にした。しかし彼の理由は違った。「僕がやきもちを焼いているのは君の言う様な 妻との関係じゃないんだ。そっちの方がどれだけ普通なのかと思う」「でも、あなたは息子にやきもちを焼いている」僕は聞き返す。「正確に言えば彼の可能性に対してだよ」「可能性?」僕は聞き返す。「そう、可能性だ。彼はこの先色々出来事に出会って色々な事を経験する。 僕の出来なかった事を全てやる可能性があるんだ」「そうでしょうね」「そういう事を考えていくとなんだか何も出来なかった自分が悔しくなるんだよ。 そしてだんだん情けなくなってくる。気持ちが沈んでしまうんだ」「そんなものなんですか」「君には子どもがいないから分からないだろうけど」「子どもどころか僕は結婚すらしていないですけどね」彼は優しく笑う。「ところで君はこういう気持ちに対してどう思う?」「正直よく分かりませんね」「そうだろうね」僕は冷蔵庫から枝豆を取り出しテーブルの上に置く。それから僕らはただ黙ってビールを飲み干す。ステレオからはディクシー・チックスのラヴ・ソングが流れている。「なぁ、うちの息子はこれからどんな女の子に出会うんだろう?」「多分、奥さんみたいな人じゃないですか」僕は何故かすぐにそう答えた。「そうかなぁ・・・それならちょっとホッとするけど」「ホッとしますか?」「そうだね。ちょっとホッとするな」彼は宙を見あげて天井の一点を見つめる。そしてもう1度「うん。そうだな」と言い、残りのビールを飲み干した。僕はその続きを待っていたけれど、結局その話はそこで終わった。そして彼は何も無かったかの様に違う話を始めた。そこにはさっきまでの雰囲気の欠片はどこにも見当たらない。彼の息子へのやきもちは、きっと僕が思うほど特別な意味のある話でなかったのかも知れない。家庭というシュール・レアリスティックな存在の中で自然に彼の中に芽生えた等身大の感情。それは簡単に僕に理解できるものではないのだ。そう考えると僕はなんだか急にひとりぼっちになった様な気になった。彼は軽く伸びをすると「なぁ、ちょっと表に出ないか」と僕に言った。「うん」僕は言う。確かに表の空気を吸いたい気分だった。 **********************今回は本館の連載企画「モル辞苑」と同じ内容です。
2006年01月14日
もうどれくらい僕らは森を彷徨っているのだろう。村人が言うとおり僕らは決して物見小屋が視界から消えるまで森に足を踏み入れるべきではなかったのだ。喉はカラカラに渇いて鼓動は高鳴る。でも僕は平常をよそおい続けなければならなかった。僕の恐怖はすぐに幼い妹と弟に伝播するからだ。「ねぇお家に帰りたいよ」弟は言う。「馬鹿ね。もうすぐ帰れるんだから」妹は気丈に振舞う。僕は「そうだね」と言って下草を分けながら先に進む。でもいくら歩いても僕らは帰る手がかりさえ見つける事は出来なかった。時々草むらから物音が聞こえる。ここは木々の支配する世界なのだ。彼等は時々僕らに警告をする。そして次の瞬間には何も無かったかのように振舞ったりもする。森の木々達は自らの作り出した闇でいつでも僕らを飲み込むことが出来るのだ。だから木々が僕らを見逃してる間に早くここを立ち去らなければならない。彼らの気が変わらないうちに。そして最悪な事にとうとう日が暮れてしまった。彼らの気が変わるなんて事を期待するのはもうすでに無理な事だ。モンゴメリーの気配に最初に気づいたのは弟の方だった。「兄ちゃん。あのカタカタって音は何?」僕は耳を澄ませてみる。確かに遠くで、はたおり機の様な音が聞こえる。僕は空を見上げる。空には満月が輝いている。「まずい!モンゴメリーだ!」僕は心の中で叫ぶ。そして僕は動揺する。僕の動揺はすぐさま幼い妹と弟に伝播する。「怖いよ」幼い妹と弟は僕にしがみつく。「大丈夫。今は幸運な事に12月だ。モンゴメリーの時期には少し早い」僕は幼い妹と弟を諭すように告げる。「それより大きな穴を探すんだ」僕は辺りを見渡す。「私、スコップを持ってるわ」妹は僕に言う。彼女は幼いながらも僕の必要としている物を常に持ち歩いているのだ。今ならまだ十分に間にあう。僕らは急いで穴を掘りそこに隠れた。しばらくしてモンゴメリーが近付いてくる気配を感じた。何度も気を失いそうになりながらも僕は幼い妹と弟を抱きしめながらじっと動かずにいた。野生のモンゴメリーに出会って生きて帰れる保証なんてどこにも無いからだ。「大丈夫。このままここで朝を待てば僕らは助かる」僕は根拠のない慰めを言いながら2人を勇気付ける。夜空には無数のモンゴメリーの触手がうごめいている。あぁ、夜はまだ始まったばかりなのだ。**********************今回は本館の連載企画「モル辞苑」と同じ内容です。
2005年12月07日
やぁ、こんにちは。僕が君にこうして手紙を書くのはいつ以来の事だろう。もしかしたら初めてのことかもしれないし僕が忘れているだけで遠い昔に書いた事があるのかも知れない。でも、それはどちらでも良い事なんだ。僕は今こうして手紙を書いて運がよければ君がこの文章に目を通す。アズ・タイム・ゴーズ・バイ。ただそれだけ。他には何も語られるべき事実なんて無い。さて僕は訳があってシドニーのミンガス通りという場所に来ている。シドニーは分かるよね?そう、オーストラリアのシドニーだ。幸運な事に街の中心部に行けば日本にある物は全てあるし日本に無い物はそれ以上に揃っている。まぁ、簡単に言えばそんなところだ。ミンガス通りの名前の由来はあの偉大なアーティストチャールズ・ミンガスに由来しているのかも知れないしそうじゃないかも知れない。実際調べれば何か分かるかも知れないけど僕はそうしていない。君だってわざわざ阿佐ケ谷の由来を調べたりしないだろう?僕だってそうだ。だからここがコルトレーン通りでもロリンズ通りでも僕はマイルス・デイヴィスを聴く。ミンガス通りでマイルスを聴くなんてちょっとしたものだと思わないか?まるで毎日がブルー・ムードみたいな感じにさえ思えてくる。これがモンク通りならバグズ・グルーヴだ。それももちろん悪くない。でも残念な事にここはモンク通りではなくミンガス通りだ。そうするとやっぱりブルー・ムードの方が合う。手紙でこんな事を書くのも妙かも知れないけど実はこの文章のところからBGMがブルー・ムードに変わった。君も知ってる通り僕はそういう人間なんだ。良ければ君もブルー・ムードを聴きながら読んでくれないか?そうすれば僕らは形而上学的なミンガス通りを共有できる。判断はもちろん君に任せるよ。そうそう、ミンガス通りについて少し。僕はシドニーの通りを全て知ってる訳ではないけどそれでもきっとミンガス通りはシドニーの中で最も何も無い通りだと思う。何しろここにはストリート・ナンバーさえ存在しないんだ。奇妙に思えるだろうけど本当なんだ。ミンガス通りにはストリート・ナンバーは存在しない。それが分かっただけでも君はシドニーについて少なくともひとつの知識を得た訳だ。それが何かの役に立つか君は疑問に思うかも知れない。でも考えてもみてほしい。ほとんどの知識は役に立たない物なんだ。君が疑問に思って、僕も疑問に思う。それで良いじゃないか。タイム・アンド・タイド。本題に入ろう。僕は深刻な問題に直面していた。そう、少し前まで。ところが、この手紙を書いているうちに解決してしまったんだ。それは全く初歩的なミスだった。最初からやり直してもさほど全体にあたえる影響は無視できるくらい。物事なんて往々にしてそんなものだ。新たな視点が当たり前の結論を生む。僕はそんな簡単なことを見落としていたんだ。でも同時に新しい別の問題が浮上した。分かるよね。そう、この手紙だ。正直、僕はこの手紙を君に出そうかどうか悩んでいた。本題の抜けた手紙に何の意味があるのかそもそもこれは手紙といえるのか?色々考えた挙句、僕はこの手紙を出す決心をした。その結果として君の手元に届けられたのがこの手紙だ。でも、出来れば返事は書かないでほしい。自分で手紙を出しておいて身勝手だとは思うけど君の知っている通り、僕はそういう性格なんだ。これで締めようと思うと逆に色々と書きたいことが出てくるから不思議だ。でも、今日はこれくらいにしておきたいと思う。また会える日を楽しみにしてるよ。それでは。 **********************今回は本館の連載企画「モル辞苑」と同じ内容です。
2005年10月04日
僕がこの企画をやると決めた翌日、ひょんな事から魔法使いの小人と知り合いになった。彼にモル辞苑の話をすると「もし、本当に困った時が来たらこのランプを擦るといいよ。 きっと、君の力になれると思うから」と言って、ふた付きのカレーポットのようなランプを僕に手渡した。僕は今回、ついにそのランプの力を借りようと思う。そう、僕はネタが尽きたのだ。とうとう、ネタが尽きてしまったのだ。僕はデスクに向かいさっそくランプを取り出した。ふと、時計を見る。23:19。まだ締め切りにはなんとか間に合いそうだ。僕はゆっくりと深呼吸をすると左手でランプを支え逆側の即部を右手でゆっくりとこすり始めた。すると、ランプの口からかすかな霧の様な白い気体がゆっくりと立ち上ってきた。僕はランプを更に擦る。擦る強さによって白い気体の量は変化する事を知る。いよいよ期待が高まってくる。僕は更に必死にランプを擦ってみることにする。すると、誰かがドアをノックして、部屋に入ってきた。そう、それはいつかの小人だった。「やぁ。そろそろだと思ってたよ」彼は自信に満ちた目で僕を見た。「で、さっそく僕がネタを考えれば良いんだね」「うん」「言っておくけど、僕はあらすじを考える。 それに君がタイトルを付けて物語に変えるんだ。いいね?」「もちろん」僕はうなずく。小人は腕を組み宙を見上げしばらく考え込んだ後「よし!」と甲高い声を上げてあらすじを語りだした。「君が大事な枝豆を茹でている時に来客が来て、 その枝豆を台無しにしてしまうという話はどうだい?」「僕が一番最初に書いた話だよ」がっかりして僕は言う。慌てて彼はもう1度考える。そして「よし!」の掛け声の後にこう言った。「願いを叶えるカモシカの事を彼女に・・・」「書いたよ」「それじゃ恋人との出会いをレタス畑に例えて・・・」「それも書いた」「ネタを探しにタクシー・・・」「書いたって・・・」小人は途方にくれてしまう。僕は小人に今まで書いた話を全て読んでもらう事にした。そう「アジアン・モンゴメリー」から「ホタル」までの31篇の物語をだ。これならダブる事はない。全てを読み終わるとまたしばらく考え込み、「よし!」の声のあと、小人は自信を持って言う。「近未来のSFファンタジーは?」「どんな?」「舞台はとある銀河系。世の中は宇宙戦争の真っ只中。 話は敵である帝国軍に追われる同盟軍のお姫様が とある賢者に助けを求める所から始まる」今度はどうやらマトモそうだ。「それいいね。続きを聞かせてよ」僕は期待を込めて言う。「彼はとある青年に目をつける。そして仲間をつのり姫を救出するんだ」「うんうん」僕はあらすじを書きとめる。「ところがビックリ、敵を統率していたのは青年の父、 更には救出した姫は青年の実の姉だった!」・・・あれ・・・?「ちょ、ちょっと待って、その話にはロボットが出てくる」「うん。SFだからね」「1つは筒型でもう1つが人型?」「そうだよ」「レーザーの様に光る剣が武器って事ない?」「よく分かったね!その通りだよ!」彼はニコニコして僕を見る。「やれやれ・・・スターウォーズだよ。しかもかなり昔の・・・」僕が落胆すると部屋に重たい空気が流れる。「えっと・・・じゃ、野口英世の伝記なんてどう?」小人が言う。「それはすでにあらすじとは言わない」僕は疲れて口にする。「それじゃ、桃から生まれた・・・」「・・・桃太郎」「願いを叶える7つの・・・」「・・・ドラゴンボール」更に深い沈黙の後、小人は真っ赤な顔で怒り出し叫び声を上げながら辺りにあるものを構わず破壊し始めた。そして、僕の事を鋭い目で睨みつけ、こう言い放った。「そんなに言うなら、自分で考えれば良いだろうがよ、このバカタレがっ!」あぁ・・・それじゃ逆ギレだ・・・。 **********************今回は本館の連載企画「モル辞苑」と同じ内容です。
2005年09月21日
白い壁がある。僕の案内で1人の人物が部屋の中央にあるパイプ椅子に腰掛ける。僕はストップ・ウォッチを押す。パイプ椅子に腰掛けた人物は白い壁をじっと見つめる。時間が来る。僕は「お疲れ様でした」と言ってその人物を隣の部屋に誘導する。それでおしまい。しばらく待って逆側のドアに移動して外にいる次の人に声をかける「次の方、お入り下さい」そして机の上にあるリストにチェックをして椅子に座るように告げる。僕はまたストップ・ウォッチを押す。同じ事の繰り返し。1993年の夏の日の出来事だ。僕がこの事を思い出したのはほんの些細な偶然の出会いからだった。いつだって些細な事の集積がひとつの結論を導き出す。それが、名も無いちっぽけな記憶だったとしても例外などではない。そして、その記憶もまた些細な事の集積の一部となってゆく。 *「その中の一人に私がいたのよ」友人の結婚式でたまたま隣り合わせになった女の子が僕に言った。どういう話の成り行きでそんな話に行き着いたのかはっきり思い出せない。でも、僕たちは10年前のその日、同じ場所にいた。「まさか」僕は言う。「本当、まさかね」彼女は笑う。僕らは些細な物事を順序良くこなしていった。そして10年前の記憶に辿り着いた。ひとつ欠けてしまってもここに辿り着く事は出来ない。それほどデリケートな工程を経て今、目の前にいる女の子と10年前の女の子が僕の記憶の中でひとつになる。そう、全ての知覚とはすでに記憶なのだ。僕は今という最新版の過去に生きている。そう考えると僕の気持ちは少し落ち着きを取り戻す。 *10年前の僕はその白い壁を見つめている。最初は真っ白な壁にゆっくりと、非常にゆっくりと影が浮かびあがる。いや、本当は何も写っていないのかもしれない。それくらいささやかな影だ。でも、僕にはその影がジョン・F・ケネディの様に見えた。「ねぇその時、壁にジョン・F・ケネディみたいな影が映ってなかった?」僕は彼女に訊いてみる。「覚えてないわ」「うっすらだけど、確かにジョン・F・ケネディみたいだったんだよ」「ケネディの顔が良く思い出せないの」彼女は笑った。「じゃ、とにかく男の人の顔」「10年も前の事よ」「うん。でも本当に覚えてないかな」「ごめんなさい、本当に覚えてないの」僕はジョン・F・ケネディのことはあきらめる事にした。 *彼女は新婦の友人で名前は涼子と言った。涼子は以前、僕が好きだった女性にそっくりだった。容姿はもちろん、声や話し方から服装から何から何まで。僕は誰にでもすぐに親近感を覚えるわけではない。でも涼子に対してはそういう訳ですぐに親近感を覚えることが出来た。僕らはその後、店を変えて飲みなおすことにした。適当に通りを歩いて適当に目に付いたバーを選んだ。重い扉を押し中に入る。こじんまりとした店内をざっと見渡す。数人の客がゆっくりと時間を過ごしていた。店内にはビル・エヴァンスのワルツ・フォー・デビィが流れている。そこにいる誰もが居心地のよさを感じているようだった。「ここ良いかな?」僕はカウンターを指差す。「もちろん」若いバーテンダーは微笑みながら答える。若いバーテンダーはスマートで顔立ちの整った青年という印象。そしてどこと無く女性的な美しさを持っている。シャツから覗く透き通るような白く細い手首がその印象に拍車をかける。僕らはカウンターに並んで座った。バーテンダーに注文を告げる。僕はビールで涼子がモスコミュール。どちらとも無く僕らは話を始めた。僕らは初対面とは思えないほど不思議なくらいうまく話が合った。まるで古くからの知り合いの様な感覚さえ覚えた。お互いの考えてる事は同じとまでは言えなかったが涼子の言葉は僕の中にしっかりと刻み込まれた。僕は彼女の話し方に好感と信頼を抱く事ができた。その日は僕が今まで経験したどの1日よりも短い1日だった。同時に僕の人生の中で特別な意味を持つ1日ともなった。 *僕が涼子の死を知ったのはその数日後だった。 *僕は涼子の死を警察の事情聴取で知った。刑事の話によると彼女が自殺したのは僕らが会った日の翌日だった。その日、彼女は朝からどこにも出かけていなかったようなので最後に彼女に会った人物が僕だったのだ。刑事は僕に「彼女に何か変わったところは?」と訊いた。「さぁ、分かりません」僕は答えた。そしてその夜、彼女を抱いたかを訊かれた。僕は「いいえ」と答えた。刑事は間を置いた後、「いいですか、正直に」と再び念を押す。彼には彼の思い描いた状況があり、僕がその状況に沿った答えを口にするのを期待していた。少なくとも僕にはそう思えた。その瞬間から僕はこの事情徴収がどうでも良くなってしまった。このやりとり自体がまるで意味の無いセレモニーの様に思えたのだ。その後、僕は全ての質問に一言で答え続けた。「そうですね」「分かりません」「あるいは」「時として」そんな具合に僕は質問をクリアしていく。彼にとって僕はとても不真面目に写ったのかも知れない。でも、それは仕方が無い事だと思った。ある意味ではきっとそれは正しい判断だからだ。一通りの質問の後、彼は調書を読み上げる。全くひどい文章だった。僕が代わりに書こうとも思ったがやめた。そんな事はきっとするべきではないからだ。僕はその調書の最後に住所と名前を書いて拇印を押す。彼は「何か思い出したらここに電話するように」と電話番号と担当である彼の名前の書かれたメモを僕に差し出す。僕はそれを二つ折りにしてポケットにしまった。そして町に出た。得体の知れない喪失感が僕を包み込む。もちろんこの喪失感には特別な意味など無い。でも僕は誰とでも良いから話をしたい気分になった。携帯を取り出し、何人かに当たってみる。でも、誰1人として電話に出るものはいない。僕は途方にくれる。再び得体の知れない喪失感が僕を包み込む。僕はふと「アンナ・カレーニナ」の1節を思い出す。「幸福はどれも似たようなものだが 不幸はいずれもそれぞれに不幸なものである」 *しばらく歩き回った後、僕は1軒のバーの前で足を止める。ここは彼女と最初に来たあのバーだ。中に入る。店内に客は1人もいない。店内にはキャノンボール・アダレイの「サムシング・エルス」が流れている。僕は以前座った席に座り、ビールを注文する。「今日はお1人なんですか?」バーテンダーがビールを僕の目の前に置く。「色々とあってね」僕は答える。彼は軽くうなずくと僕の前に灰皿を置く。「ありがとう」僕はビールを流し込む。 *しばらくして1人の女性客が入ってきた。彼女は慣れた雰囲気でカウンターの逆はじに腰掛けた。そして柔らかい口調でバーテンダーに話しかけている。何を話しているか僕には全く聞き取れない。もちろん、聞き取る気も無い。僕は気にせず文庫本に目を通す。バーテンダーは僕の灰皿を交換しながら言った。「僕の郷里には蛍がたくさんいたんですよ」バーテンダーは確かにそう言った。もちろん、僕に向かって言った訳ではない。話の流れはよく分からなかったがその一言だけが僕の耳に飛び込んできたのだ。彼には郷里があって、そこにはホタルがたくさんいた。それ以上のこともそれ以下の事も僕には分からない。でも、僕はその一言がどうしても気になってしまう。ホタルの話から何故か僕は涼子の事をリアルに思い出す。それはきっと単なる偶然かも知れないし一種の同時存在的正当性なのかも知れない。ホタルの淡い光が命のはかなさと重なったのかも知れないしあの、10年前のぼんやりと浮かんだ光の中の影がオーヴァー・ラップしたのかも知れない。いや、そんな事は今となってはどちらでも良い。彼の郷里にはホタルがいて、僕は涼子の事を思い出した。ただそれだけの事だ。 * * *あれから2年経った今、僕はようやく涼子の事を冷静に振り返れるようになった。それでも涼子の事をこうして文章にした事が正しい事だったのかは正直よく分からない。あの日からホタルという言葉を耳にする度決まって僕は想像上のバーテンダーの郷里と涼子の事を思い出す。彼女とホタルの間には何の関係もないのにも関わらずだ。現実は時として奇妙な手触りだけを人の心に残してゆく。きっと、僕はそれを書き残したかった。そしてこの文章が生きて行くかぎり何度も何度も繰り返されてゆくこの得体の知れない奇妙な感情への手がかりになれば良いと思っている。そう、何かの手がかりになれば良いと。**********************今回は本館の連載企画「モル辞苑」と同じ内容です。
2005年09月14日
僕は物語に煮詰まると決まって日比谷線に乗る。不思議と日比谷線は僕のイマジネーションをかき立てる。きっと走行速度や深度が僕の脳に何かしらの刺激を与えるのだろう。もちろん、本当のところはよく分からない。何故日比谷線だけなのか時々疑問に思う。その気になれば僕は霞ヶ関で丸の内線に乗り変えたり日比谷で三田線にも千代田線にも乗り換えられるのだ。日比谷線を入口にして僕は東京のどこにでも移動できる。でも僕はそうしない。実を言うと一時期、半蔵門線や南北線に乗ってみた事もあった。なんというか、出来るだけ日比谷線の影響の届かない路線が良いと思ったのだ。結果はやはり駄目だった。やはり僕にはどういうわけか日比谷線がしっくりと来る。僕は今日も日比谷線に乗る。恵比寿を抜け築地を過ぎ秋葉原を通って上野から北千住に。40分ちょっとの地下の移動は僕のイマジネーションをかき立ててくれるのだ。 **********************今回は本館の連載企画「モル辞苑」と同じ内容です。
2005年08月03日
作詩/作曲/モルB昔々ペリーは助けた亀に連れられて横浜港へ来てみれば絵にもかけない美しさペリーとハリスは仲良しさ二人並んですまし顔今日は楽しい楽しい開港記念日今日は楽しい楽しい開港記念日
2005年06月02日
ぬい-ぐるみ 【縫い包み】 (1)中に物を入れ、包み込むように周囲を縫ったもの。特に、綿などを中に詰め、 動物や人形をかたどった玩具をいう。 「― の熊」(2)芝居などで、俳優が動物などの役をするときに着る特殊な衣装。(3)普通の人を超える力や知識、技術を持ち、それらを用いて一般社会にとって 有益とされる行為、いわゆる英雄的行為を行う人物の着るコスチューム。 「君はこれからこの ― を着て正義の超人として働く事になる」 -----------------------------------「君はこれからこのぬいぐるみを着て正義の超人として働く事になる」トレンチコートを着た謎の男が僕にそう告げる。「戦うのは好きじゃない」僕は言う。「何も常に戦う必要は無いんだ。相手は必ずしも怪獣とは限らない」「でも、相手は『悪』なんだろう」「もちろん。でも、正確に言うとそれは対岸にあるものというべきものだ」「メタファーとしての悪」「そうだ。君はなかなか飲み込みが良い」そう言うと彼は僕に緑色で等身大のぬいぐるみを僕に差し出す。「色にはそれぞれ役割がある。赤はリーダーで黄色はカレー好きとかだ」「そして僕は役割は緑だと?」「そうだ、君はまさしく緑の役割だ」彼は僕にぬいぐるみを手渡そうとするが僕はもちろん応じない。別に緑の役割に不満という訳ではない。そもそも正義の超人に納得していないのだ。「いかにもピッタリという訳ではないが、君のサイズだ」「いや・・・僕はまだ・・・」と僕の言葉をさえぎるように彼は続ける。「心配はご無用。ちゃんとジッパーが付いている」彼は再びぬいぐるみを僕に差し出す。ジッパーの有無を問題にしている訳ではない。僕がどうして正義の超人として働かなくてはならないのかそこのところがいまひとつ不明瞭なのだ。それに、万が一これを受け取ってしまったら絶対に後戻りが出来ない気がするのだ。実際、僕の予感は悪い時に限って大体当たる。「それは僕である必要があるのかな」僕は訊く。彼は深くうなずくとぬいぐるみを脇に抱えたまま話し始めた。「多少の起伏があるにせよ、君はおおむね平穏で平凡な 人生の草原を歩いて来た。そうだね?」僕はうなずく。彼はトレンチコートからタバコを取り出すと片手で器用に火をつけ「これはもちろん比喩だが」と念を押し話を続ける。「その平穏で平凡な人生の草原の中のたった1点、 君は運命の隕石の落下する例外的な場所にたまたま居合わせた」僕は黙って続きを聞く。「君以外の無数の人間が君の周りにいたとすれば その中の誰かに運命の隕石が当たるのではと君は考える」僕はうなずく。「でも、それは違う。周りに何人居ようとも、 運命の隕石が君を捉える確率は変わらない。 なぜなら君は運命の隕石の落下する 例外的な場所にたまたま居合わせたからだ」「それはおかしい」僕は思う。それじゃ、最初から僕以外の人は選ばれない事になる。彼のアナロジーは少なくとも僕の現実を説明をした事にならない。僕の思考を中断させるように彼は言う。「そしてぬいぐるみにはちゃんとジッパーが付いている」だから、ジッパーは関係ないんだ。僕はひどく混乱する。そしてジッパーの事が気になって仕方なくなる。いや、落ち着け。この問題は誰が選ばれるかとは全く独立して僕が僕であることは決定している所に問題があるのだ。この世に資格のある人間が何人いようとも結果は何一つ変わらない。決まってしまった事だけを取り出せば運命の隕石が捉える人物は僕でしかありえなくなる。結果を基準に物を考えれば全ては必然だ。僕は用心深くロジックを探る。そして、組み立てをじっくりと吟味してゆっくりと口を開く。「運命の隕石が捉える人物が1人しかいないのならば この状況は確かに説明が出来るかも知れない。 まずは、そこをゆっくりと話し合いたい。 ジッパーは抜きにして」彼は2本目のタバコに火を点けるとニッコリと笑い「じゃ、ジッパーは抜きで良いんだね」と言う。「ジッパーが抜きで良いとは言っていない」僕は慌てて口にする。「先程から君はジッパーの必要性を感じていない様に見えるのだが」「いや、ジッパーは付いていないと困る」僕はひどく動揺する。「やれやれ、これじゃラチが明かないな。 ジッパーは関係ないんじゃなかったのかい」「そうは言ってない!」僕は興奮して彼に言い放つ。すでに僕の頭の中はジッパーのことでいっぱいになっていた。「じゃ、確認するよ。ジッパー付きでいいんだね」彼は僕にぬいぐるみを差し出す。そして僕は「もちろん」とそれを奪い取るように受け取った。少しの沈黙の後僕は深く落ち込んでしまう。どこかで僕は間違ってしまった事に気がついた・・・。そしてその瞬間から僕は正義の超人(緑)として働く事になったのだ。 **********************今回は本館の連載企画「モル辞苑」と同じ内容です。
2005年05月18日
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