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新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を時々書いている「新宿彷徨」です。四谷三丁目交差点にそびえる四谷消防署。その消防署に併設されているのが、この消防博物館(→→→こちら)。正式には東京消防庁消防防災資料センターというそうです。東京の安全と安心を進める消防がまるごとわかる広報・教育施設として1992(平成4)年12月3日に開館しています。江戸時代からの現代に至るまでの、消防の歴史が学べるほか、貴重な資料の展示や、参加型の展示コーナー、消防ヘリや、消防車の乗車体験も行われており、子供連れでも楽しめるみたいです。しかもうれしいことに、なんと入場は無料!ということで中に入ってみました。こちらは地下1階に展示されているクラッシック・カーのコレクション。ではなく、消防自動車の変遷を紹介しています。これは、大正13年に輸入された「アーレンスフォックス消防ポンプ自動車」。エンジン前方にポンプ装備していました。写真左の消防車も大正13年に輸入された「スタッツ消防ポンプ自動車」。赤く塗ってなければ、クラッシック・カーとして乗ってみたいですね。左は「マキシム消防ポンプ自動車」こちらのメルセデスベンツのシャシにカールメッツ社の梯子を載せた「ベンツ・メッツ梯子自動車」です。昔は消防士さんはベンツに乗って出動していたんだ。後ろ向きなっているのは、「いすゞ・メッツ梯子自動車」です。また、建物の5階には、1988年まで東京消防庁航空隊で現役として使用されていた消防ヘリコプター「かもめ」が展示されています。操縦席に座る体験ができますよ。人気ブログランキング新宿彷徨(その8) 消防博物館
2024年06月14日
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新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を時々書いている「新宿彷徨」です。新宿区四谷三栄町にあるちょっと個性的な建物。新宿歴史博物館(→→→こちら)です。その名のとおり、新宿区の旧石器時代から昭和時代初期までにおける展示が行われています。撮影可能な展示物も多く、館内で撮影したものを紹介します。こちらは、江戸時代の甲州道中で、江戸から最初の宿場、江戸への最後の宿場だった頃の内藤新宿の様子を再現した模型です。蔵造り建築と呼ばれる商家の建物です。2 階の窓は観音開扉、また壁面の半球型の盛り上がった物は飾りなんでしょうかね。こちらは商家の室内です。よく時代劇でも見かける光景ですね。こちらは昭和初期の路面電車です。塗装の色は違ったけど、このタイプはMoMo太郎が子供の頃(1960年代)まで走っていたような気がします。これもなんか懐かしい感じの住宅ですね。「文化住宅」(→→→こちら)と呼ばれる様式の家屋だそうです。このような小さな和風住宅に洋風の応接間をつけた形式が文化住宅ですが、MoMo太郎が少年時代に住んでいた大阪では、文化住宅といえば、瓦葺きの木造モルタル2階建ての集合住宅のことを文化住宅と呼んでいたことを思い出しました。人気ブログランキング新宿彷徨(その7) 新宿歴史博物館
2024年06月13日
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新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を時々書いている「新宿彷徨」です。靖国通りの合羽坂下交差点から新宿通りの津の守坂入口交差点に向かう坂道です。この道は「津の守坂通り」という名称ですが、この坂の名称の由来は。江戸時代、隣地(荒木町周辺)に尾張徳川家の分家である美濃高須藩主・松平義行(摂津守)の上屋敷があったことに由来するそうです。摂津守の「津守」からの名称ですかね。この坂道を登って、三栄通りに歩いていくと、四谷税務署の隣に小さな公園がありました。三栄公園という公園です。銘板によると、この三栄公園の地は、明治8年東京市四谷区の公立として最初に建てられた四谷小学校のあったところで、その後、東京市が公園造成のうえ、昭和18年6月1日に開園した。とありました。太平洋戦争を戦っていた昭和18年に開園したというは、まだその時点では公園を楽しむ気持ちがあったのでしょうか。ちなみに開園した昭和18年6月1日には東京都制が公布されています。人気ブログランキング新宿彷徨(その6) 三栄公園
2024年06月12日
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新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を時々書いている「新宿彷徨」です。JR四ツ谷駅近くにある外濠公園へ続く坂道を下っていくと、土木学会(→→→こちら)の建物があります。建設会社で橋梁の設計を担当していた木村拓哉さんもこの学会の会員だったんでしょうね。国家の独立、平和と安全を守る防衛省の建物です。住所は東京都新宿区市谷本村町5-1ということだそうで、新宿区に国防の要があったんですね。帝国データバンク(→→→こちら)の東京支社です。企業を専門対象とする日本国内最大手の信用調査会社の支社もあったんですね。ちなみに本社は港区南青山だそうです。人気ブログランキング新宿彷徨(その5) 新宿区に本拠地があります
2024年06月11日
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新宿西口にあるビル群です。モード学園コクーンタワー(→→→こちら)って目立ちますね。そして、今新宿駅西口は小田急百貨店本店や新宿ミロードなどを解体して大規模な再開発工事が進められています。かって小田急百貨店の入口があったあたりですが、目隠しの防護壁があり、どこから小田急や京王電鉄の駅に入っていいのかわかりませんでした。少し離れて全景を撮影してみると大型のタワークレーンが設置されていて、聞くところによると高さ260メートルの高層ビルを建築するそうです(→→→こちら)。西口から少し離れて青梅街道に架かる新都心歩道橋に上がってみました。西側には西口の高層ビル群が広がり、東画を見てみると、新宿大ガードとその奥には歌舞伎町のビル群が見えます。昭和の頃から見えるこつらの景色もまた変わっていくんでしょうか。新宿彷徨のシリーズここでいったん休みますが、まだまだ新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録がありますので、これからも折に触れて書いていく予定にしています。人気ブログランキング新宿彷徨(その4) 変わりゆく新宿西口
2024年05月02日
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折角来たので、花園神社に参拝します。まず、こちらの手水舎で、手と口を浄めましょう。手を蛇口に近づけると自動で水が出てきますよ。昭和40年に鉄筋コンクリート造りで再建された拝殿。花園神社の他に雷電神社と大鳥神社の扁額もあります。倉稲魂命(花園神社)・日本武尊(大鳥神社)・受持神(雷電神社)の3柱の神を祀っているのですね。大鳥神社でもあるため、11月の酉の日には酉の市も開催されているそうです。合祀された雷電稲荷神社の石碑が残されていました。こちらは、奉納された赤い鳥居が並ぶ、境内社です。昭和3年(1928年)に創祀された威徳稲荷神社で、女性の参拝者に人気の高い神社です。人気ブログランキング新宿彷徨(その3) 花園神社に参拝
2024年05月01日
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新宿区新宿5丁目にある花園神社(→→→こちら)です。新宿の総鎮守として、江戸時代に内藤新宿が開かれて以来、新宿の守り神として奉られている神社です。この場所は尾張藩下屋敷の庭の一部で、たくさんの花が咲き乱れていたそうです。この美しい花園の跡に移転したので「花園稲荷神社」と呼ばれたのが社名の由来とされているそうです。この神社の中にある境内社のひとつが「芸能浅間神社」(→→→こちら)です。神社の名前からしてでしょうか、芸能人の奉納者の名前が多く並んでいるそうです。といってもコメディアンの「なべおさみさん」とその息子の「なべやかん」さんくらいしかわからなかったですけど。こちらは、MoMo太郎でも多少知っている芸能人の名前もありました。アングラ演劇の「唐十郎」さんや女性のシンガーソングライター「西島三重子」さん、そして漫才トリオのかしまし娘の末っ子である「正司花江」さんの名前も見えました。安永9年(1780年)と文化8年(1811年)には、大火で焼失した社殿を再建するため境内に劇場を設けて、見世物や演劇、踊りなどを興行したそうです。そのようなことから花園神社と芸能の縁は深まっていったそうです。そのことから、ここに芸能浅間神社があるんでしょうか。芸能だけではなく、MoMo太郎が敬愛してやまない二宮金次郎像もありました。新宿区立四谷第五小学校が廃校になるに伴い現在地に移設されたものだそうです。浅間神社なので、御祭神は木花之佐久夜毘売(コノハナノサクヤヒメ)が祀られています。そしてここにも、宇多田ヒカルの母親としても知られる藤圭子の歌碑が建立されています。この歌碑も、西向天神社の歌碑と同様に、平成11年(1999年)に石坂まさをの作詞家生活30周年にあたって、建立されたものです。裏面には発起人として石坂みき、榎本襄、海老名香葉子、大下英治、なかにし礼、星野哲郎、船村徹、山上路夫等18人の氏名と協賛会社、協賛者が記載されています。思えば、2013年に藤圭子さんが亡くなったのも西新宿というそうですから、藤圭子さんは、何かと新宿に縁があるのか、新宿という街に似合う方だったのか、そんな気がしますね。この歌を売った頃は19歳の可憐な風貌でありながら、ドスの効いたハスキーボイスと凄みのある歌いまわしは宇多田ヒカルよりもすごいですよね。人気ブログランキング新宿彷徨(その2) 圭子の夢は花園神社で咲く
2024年04月30日
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新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を時々書いていくことにします。ここは新宿区新宿6丁目にある西向天神社(→→→こちら)です。東都七天神(→→→こちら)のひとつという天神社になります。1228年(安貞2年)に栂尾明恵上人が創建したと伝えられ、大宰府に向かって、社殿が西を向いているため西向天神と呼ばれています。かつては大久保天満宮とも呼ばれていて、古くから東大久保村の鎮守でした。棗天神との俗称もあり、これは寛永年間(1630年代)に、将軍家の鷹狩りの祭に、当社が荒廃していたのを、金の棗の茶入れを下賜して、それをもって再興を促したという伝承によるものだそうです。この境内の一角に藤圭子のデビュー曲「新宿の女」の歌碑がありました。藤圭子(→→→こちら)といえば、宇多田ヒカルの母親としても知られていますが、「演歌の星を背負った宿命の少女!!」というキャッチフレーズの人気演歌歌手だったんですよね。そして、この歌碑は平成11年(1999年)に石坂まさをの作詞家生活30周年にあたって、建立されたものです。なぜここに歌碑が建立されたかというと、この西向天神社は、デビュー時に「新宿の女」発売キャンペーンの出陣式を行った場所であったそうです。歌碑の裏面には「昭和44年(1969)9月25日『新宿の女』でこの西向天神社より2人の若者が旅立って行き、石坂まさをと藤圭子の名は時代を刻み伝説として語られるようになった。心生舎」と刻まれています。【つづく】人気ブログランキング
2024年04月29日
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