全7662件 (7662件中 1-50件目)

台所町から東は九段エリアになるので、ここから飯田橋駅の方へ向かって戻りました。そして、またも「北辰社牧場跡」の石碑を発見。北辰社牧場については、石碑の側面に説明書きが記されていました。榎本武揚は明治の始め、北辰社牧場をここに開きました。幕臣榎本は文久二年(一八六二)オランダに留学を命じられ、当時のヨーロッパ事情や法律、化学などを広く習得しました。幕府が瓦解すると榎本は指揮下の海軍をひきいて函館までも転戦しましたが、黒田清隆や山田顕義らの率いる官軍の軍門に下り、捕われの身となります。しかし、彼の新知識を惜しまれて許され、新政府では幾多の要職を歴任しました。一方、旧幕臣子弟の為の育英黌農業科や北辰社牧場などを作りました。最盛期には乳牛が四,五十頭もいて新しい飲物、牛乳を提供していました。ここに乳牛を飼育していた牧場があったとは、今の飯田橋からは考えられないですね。さらに「徽章業発祥の地」という石碑がありました。徽章業発祥の地の説明は以下のとおり、この奥、大神宮通り向かって左側に明治十八年(一八八五)、鈴木梅吉により日本帝国徽章商会が創られました。これは民間の徽章業のはじめで、特に明治末期、大正の初期においては日本で唯一の徽章の製作工場として大変栄えました。現在の徽章業の方々の大多数はこの商会の流れを汲み、徽章業は飯田町の日本徽章商会から生まれたといわれています。そして、現在もこのあたりは徽章業に従事する人が沢山います。説明文の中にある大神宮通りとは、この石碑の手前にあった、東京大神宮のことですね。東京大神宮には後でお参りすることにします。ちなみに、「徽章(きしょう)」という言葉は余り使われていないようで、現代は徽章という文字は用いず「記章」として記載されますが、実は「徽章」と「記章」とでは意味が異なるようです。「徽章」は、身分や職業、資格、所属などを表すバッチのことを言います。バッチは、帽子や衣服に付けて使用するものです。一方、「記章」とは本来、記念に与えられるしるしのことを指すそうです。ただ、徽章の「徽」が常用漢字にないことから、「徽章」の意味も含めて「記章」と表記されるそうです(→→→こちら)。(開学の町飯田橋を歩く)【つづく】人気ブログランキング開校の町、飯田橋を歩く(その7) 北辰牧場跡と徽章業発祥の地
Jul 27, 2026
コメント(4)

目白通り沿いにあった「歴史のプロムナード」という石碑。今まで見てきた、石碑はこの歴史のプロムナードの石碑だったんですね。こちらの石碑には、飯田橋の歴史が紹介されていました。昔々、縄文時代の頃、このあたりは波の打ち寄せる入江でした。その後、海は後退して、葦の生い茂る広い湿地となりました。徳川家康が江戸に来て大規模な築の城工事が行われ、このあたりは湿地から旗本屋敷にかわりました。九段坂、中坂を中心とした元飯田町は、町人の町として 賑わいましたが、明治になって旗本屋敷の後は住む人もなくなり、一時は大変さびれました。しかし、次第に賑わいを取り戻し、現在のようなビル街に変わりました。この飯田橋散歩路に標柱を建て、この町の移りかわりを示します。目白通りをさらに東に歩いて行くと、「台所町跡」という石碑がありました。台所町って、どういう意味かは、標柱に書かれていました。江戸のはじめから元禄の頃まで、飯田町紙流通センターの所に江戸城の台所衆の組屋敷がありました。そして台所頭をはじめとして、台所衆、台所者と呼ばれる役人が住んでいました。武鑑にお台所頭、四百石、たい所町、鈴木喜左衛門と記されています。その後大名や、旗本の屋敷に移り変わりましたが、なお付近は台所町の名が残りました。町名は、飯田橋一丁目ですが、このあたりの人は、昔の町名の台所町って呼んでいるんでしょうね。(開学の町飯田橋を歩く)【つづく】人気ブログランキング開校の町、飯田橋を歩く(その6) 歴史のプロムナード
Jul 26, 2026
コメント(24)

神田川の派川(分流)である日本橋川(→→→こちら)です。かつて武蔵国荏原郡・豊島郡境界の平川(現在の神田川上中流)は日比谷入江に注いでいたものを、徳川家康が東向きへ河道を移設し隅田川へ合流させ、現在の日本橋川になったそうです。家康の作ったその流路も、現在では上空を首都高速道路に覆われています。日本橋川をわたる人道橋「あいあい橋」です。あいあい橋の由来が対岸の三崎町側のたもとに掲げられていました。あいあい橋の飯田橋側には、「東京大学理学部化学科誕生の碑」がありました。次のような説明が記載されていました。1861年万延二・文久元年東京大学理学部化学科誕生の地1861年、徳川幕府はば蕃書調所に化学部門である精錬方(学科)を設置。その後1877年、東京大学は精錬方を理学部化学科として取り込み、法・医・文・理の四学部構成で発足した。東京大学まで、飯田橋にルーツを持っていたとは知りませんでした。(開学の町飯田橋を歩く)【つづく】人気ブログランキング開校の町、飯田橋を歩く(その5) 東京大学理学部化学科誕生の地
Jul 25, 2026
コメント(20)

区政会館前にまだまだ開学の碑が建てられていました。ここってよっほど教育にテクした場所だったんでしょうね。まず「日本大学開校の地」です。碑文には、以下のように記されていました。日本大学開校の地明治二十二年(一八八九), ここ皇典講究所内に維新の志士, 吉田松陰門下, 時の司法大臣である 山田顕義 により 日本法律学校が創立されました。これは, 日本大学の前身にあたります。明治二十八年(一八九五)に 三崎町に移りました。そして、「東京府立第四中学校発祥の地」です。こちらの碑文には、東京府立第四中学校発祥の地明治三十四年(一九〇一), 東京府立第四中学校が, この地にあった 皇典講究所で開校しました。 同所は 明治十五年(一八八二)に国学を研究する目的で設けられたもので, 明治二十一年(一八八八)に 同じ地内に開設された補充中学校が, 共立中学校, 東京府城北尋常中学校 と名を変えて 府立第四中学校となったものです。その後, 府立四中は 明治三十七年(一九〇四)に 市ヶ谷加賀町に移転し, 戦後は 新宿区戸山町に移り 東京都立戸山高等学校となっています。と記されていました。さらに、「國學院大學開校の地」です。こちらの碑文は、國学院大學開校の地明治十五年(一八八二), この地, 旧飯田町五丁目に 国学を研究する皇典講究所が設けら れました。明治二十三年(一八九〇), 皇典講究所を母体として, 所長山田顕義によって 國學院が開校しました。現在の國學院大學です。大正十二年(一九二三), 渋谷に移りました。と記されていました。(開学の町飯田橋を歩く)【つづく】人気ブログランキング開校の町、飯田橋を歩く(その4) 日本大学、東京府立第4中学校、國學院大學
Jul 24, 2026
コメント(30)

皇典講究所発祥記念碑の横には、もう一つ記念碑がありました。日本医科大学付属第一病院記念碑です。碑文には次のように記されていました。七十三年の歴史日本医科大学付属第一病院は、大正13年(1924)に千代田区飯田橋の地に、日本医学専門学校飯田橋医院として開院し、昭和6年(1931)に当時の建築の粋を集め、近世スパニッシュ装飾を施して建てられた。日本医科大学の付属の病院として、日本の医学教育及び医療の発展に大きく貢献してきた、平成9年(1997)9月30日閉院した。(開学の町飯田橋を歩く)【つづく】人気ブログランキング開校の町、飯田橋を歩く(その3) 日本医科大学付属第一病院記念碑
Jul 23, 2026
コメント(20)

目白通りを東南方向、九段坂下に向かって歩いていくと大きなビルが目につきました。この21階建ての高層ビルは、東京区政会館(→→→こちら)です。公益財団法人特別区協議会の事務所だそうですが、特別区相互の連絡調整を図るための場として各種団体も入居しています。また、東京都立大学飯田橋キャンパスもあるそうです。こちらにあったのが、皇典講究所(→→→こちら)。皇典講究所(こうてんこうきゅうじょ)というのは、明治時代に国家神道が成立した宗教政策で、大衆へ向けて皇道の教化活動を行う機関として開講された学校だそうです。碑文には以下のように記されていました。発祥記念碑明治十五年 有栖川宮熾仁親王を総裁としてこの地に皇典講究所創設 同所を母体に 山田顕義所長のもと明治二十二年 日本法律学校(現 日本大学)明治二十三年 国学院(現 国学院大学)を開設す(開学の町飯田橋を歩く)【つづく】人気ブログランキング開校の町、飯田橋を歩く(その2) 皇典講究所発祥記念碑
Jul 22, 2026
コメント(27)

関東地方も梅雨が明けて、連日猛暑日が続くようですね。これからは熱中症が心配。気象災害は台風や洪水だけでなく、猛暑も気象災害と言ってもいいのではないかと思いますね。さて、そんな猛暑の夏が恥っていない7月の初旬、飯田橋駅にやってきました。区制会館の前に、飯田橋の地名の由来が紹介された案内板がありました。これによると、天正18年(1590年)、開府前の江戸で農村地帯だった現在の飯田橋周辺を徳川家康に案内したのが、土地の長老であった飯田喜兵衛なる人物であった。家康はその功を称え、一帯を「飯田町」と命名しました。そして、明治14年(1881年)、交通の便のため、新たに外濠を跨ぐ橋が架けられ、飯田町に接する橋であることから「飯田橋」と命名され、昭和3年(1928年)に飯田橋駅ができたことから、飯田町という町名の存在が薄れて、飯田橋と呼ばれるようになったそうです。飯田橋から目白通りを九段坂方面にでたところに、「東京農業大学開校の地」と刻まれた石碑がありました。側面には、その由来が刻まれていました。明治24年(1891)、 東京農大の原点「育英黌農業科」が、当地で産声を上げました。生みの親は、逓信、農商務、文部、外務の大臣などを歴任した榎本武揚でした。明治26年(1893)、現在の中央線である 甲武鉄道の新設工事, また農場用地取得のため 大塚窪町に移転しました。(開学の町飯田橋を歩く)【つづく】人気ブログランキング開校の町、飯田橋を歩く(その1) 東京農業大学開校の地
Jul 21, 2026
コメント(18)

立ち食い蕎麦のチェーン店「ゆで太郎」のミニのり弁セットを頂きました。海老天はサービスクーポン券利用で無料でしたが。このセット普通は税込み800円ですが、金曜日の得ランチメニューだったので、700円で食べることが出来ました。ゆで太郎のこの得ランチ、日曜日から土曜日まで日替わりであるので、出来るだけ利用したいですね。人気ブログランキングへ孤独のグルメ ゆで太郎でお得にランチ
Jul 20, 2026
コメント(24)

こちらが千葉駅東口です。平成23年(2011年)頃から建て替え工事が進められてきて、平成28年(2016年)に新しい「千葉駅」として開業したので、全体的に新しい感じです。こちらは、千葉都市モノレール千葉駅への入り口です。東口から千葉公園口へ抜けるこの駅前地下道には、大賀ハスの壁画が使われていました。千葉市は、やっぱり大賀ハス推しの町なんですね。帰りは、千葉駅に隣接する京成千葉駅から、京成電鉄で帰りました。(千葉市内を巡るコース)【了】人気ブログランキング千葉市を巡る(その15) 千葉駅です
Jul 19, 2026
コメント(19)

中央公園から千葉駅方面に向かいます。頭上にあるのは千葉都市モノレールの軌道です。ふっと思ったのは、懸垂式のモノレールが駅の間途で故障で止まった時、どうするんでしょうかね?羽田空港モノレールのように跨座式ならモノレールの軌道に降りて歩いて駅まで行けそうですが、千葉モノレールの場合は救助に消防のハシゴ車が来て降りるのでしょうか?千葉駅前大通りを歩いて行くと千葉駅に向かえますが、ちょっと寄り道して、栄町(さかえちょう)に行ってみました。千葉都市モノレールの栄町駅です。千葉市栄町(→→→こちら)には、こんな感じのお店が並んでいる町です。(千葉市内を巡るコース)【つづく】人気ブログランキング千葉市を巡る(その14) 栄町
Jul 18, 2026
コメント(24)

飲食店や商業施設が囲む市街地の中にある中央公園です。公園内にある銅像は、ヘレン・ケラー氏(→→→こちら)です。ヘレン・ケラー氏は生後19か月時に病気が原因で視力と聴力を失ったにもかかわらず、ハーバード大学に進み学位をを取得し、生涯を障害を持つ人々や女性参政権、労働者の権利、世界平和のため運動にささげた方です。財団法人千葉県アイバンク協会がアイバンク運動のさらなる発展を期して建立した銅像です。特にヘレン・ケラー氏が千葉県と深い関わりがあるというものではないようです。また、戦災復興記念碑(→→→こちら)というものもありました。終戦後、政府の「戦災復興計画基本方針」に基づき、千葉市では復興計画を立案し、昭和55年(1980年)に完了したそうです。碑文には戦後復興までの歴史が刻まれています。こちらには、歌碑がありました。歌碑の裏側には、この歌碑がライオンズクラブ25周年記念として建立されたことが記されていました。「千葉の野の 児手柏の ほほまれど あやに愛しみ 置きて高来ぬ」の歌は、奈良時代の防人であった大田部 足人(おおたべ の たりひと)が、天平勝宝7歳(755年)2月、防人として筑紫に派遣された際に詠んだ歌で万葉集に収録されているそうです。意味は、「千葉の野の児手柏(このてかしわ)の若葉のように、まだ初々しくて可愛いいあの子を置いてはるばるやってきた。」というそうです。公園の中心には「AD ASTRA(天体へ)」(→→→こちら)というモニュメントがありました。(千葉市内を巡るコース)【つづく】人気ブログランキング千葉市を巡る(その13) 中央公園
Jul 17, 2026
コメント(18)

県庁の近くに明治天皇行在所舊蹟(あんざいしょきゅうせき)という石碑がありました。明治天皇って色んな所に出かけられたんですね。千葉県教育会館(→→→こちら)がありました。千葉県内の教育関係者が集まって研修会などを行う所のようです。こういう施設があるというのは県庁所在地ならではないでしょうか。教育関係の研修会だけではなく、技術講習会などにも利用できるようです。さらに歩いて行くと、千葉県酒造会館という施設もありました。千葉県は全国でも有数の酒蔵を誇るそうです(→→→こちら)。こういう施設も県庁所在地だからあるんでしょうね。2階にあるショップでは千葉県内各地の地酒が販売されているそうです。この大きな建物は、Qiball(きぼーる)(→→→こちら)です。「希望のボール」の意味から名付けられた施設で、Q の丸い字形がプラネタリウムをシンボル化しているそうで、頭文字のQは、9つの機能で市民のくらしに役立つQ=球になるそうです。市民の暮らしに役立つ施設とは、(1)子ども交流館(2)子育て支援館(3)科学館(4)中央保健福祉センター(5)中央区役所(6)プラネタリウム(7)アトリウム(8)ショップ&レストラン(9)千葉市のシンボルのことだそうです。こちらがQiballのロゴマークです。1階のホールには、こんな感じでした。(千葉市内を巡るコース)【つづく】人気ブログランキング千葉市を巡る(その12) 県庁所在地にありがちな施設
Jul 16, 2026
コメント(20)

千葉県庁本庁舎です。20階建ての高層建築です。なかなか県庁なんて訪れることはないと思いますが、20階はレストランそして19階が展望回廊となっていて、一般の人でも出入りすることができます。こちらが19階の展望回廊となっています。ここからは千葉市内が一望できます。先ほど訪れた猪鼻城とそこに隣接する千葉県文化会館の眺めです。千葉港とその先の京葉工業地帯です。猪鼻城と亥鼻公園、そして遥か先には成田の方まで見渡せました。西側の東京方面の眺めです。ビルの右側に見えるのは千葉ポートタワー(→→→こちら)です。さらに千葉港です。壁には、千葉県の各地を紹介する写真が展示されています。古い写真もあり、千葉県の歴史も知ることができます。こちらは、千葉の特産品をデザインしたレリーフがありました。また、千葉県に所縁の人たちの肖像も飾られていました。こちら日蓮聖人です。日蓮は鎌倉時代の仏教の僧侶で、鎌倉仏教のひとつである日蓮宗(法華宗)の宗祖ですが、現在の千葉県鴨川市の漁村で誕生したそうです。左側は日本地図を作った伊能忠敬、現在の千葉県山武郡九十九里町小関の生まれで、香取市佐原にある酒造家の伊能家に婿入りし、名主として活躍したのち隠居し江戸で測量や天文学を学び、自ら歩いて日本地図の作成に取り組んだそうです。右側は大原幽学。江戸時代後期の農学者、農民指導者。下総国香取郡長部村(現:旭市長部)を拠点に活動した人物です。左は明治期に活躍した歌人、小説家の伊藤左千夫。小説「野菊の墓」などが知られていますが、現在の千葉県山武市殿台の出身です。右は五千円札の肖像で御馴染みの津田梅子です。女子英学塾(現:津田塾大学)の創設者であり、日本における女子教育の先駆者。父である仙が、下総佐倉藩上士の三男として生まれて津田家(御家人)に婿入りした人物であることから、千葉県に所縁のある人物とされているのでしょう。ちなみに梅子は江戸で生まれ育っています。(千葉市内を巡るコース)【つづく】人気ブログランキング千葉市を巡る(その11) 千葉県庁展望回廊
Jul 15, 2026
コメント(20)

郷土博物館から亥鼻公園を出て、千葉県庁の方へ向かいました。こちらの建物は千葉県立中央図書館です。そして、千葉県庁前にある羽衣公園(→→→こちら)に到着しました。公園の前にあった銅像。MoMo太郎の職場の理事に似ているので撮影しました。銘板には「初代民選千葉県知事 従四位勲三等 川口為之助先生之像」(→→→こちら)とありました。羽衣公園の由来となった羽衣の松(→→→こちら)です。千葉県の人口500万人突破の記念事業の一環で昭和60年3月に復元された松だそうです。松の前にあったは羽衣の松についての由来です。以下この説明板の引用です。羽衣の松(由来)「むかし、千葉の亥鼻(いのはな)城下に、千葉(せんよう)の花の咲きほこる池田の池という美しい池があり、その周辺は蓮の花盛りのころには、多くの見物人でにぎわっていた。いつのころからか静まりかえった夜半になると、ここに天女が舞いおり、かたわらの松の枝に羽衣を掛け、蓮の花の美しさに見入っていたという、この天女のうわさは、時の城主 平常将(たいらのつねまさ)の知るところとなり、常将は美しい天女を是非自分の妻にしたいと思い、家来に松にかけられている羽衣を隠すように命じた。羽衣を失った天女は天にかえることができず、常将の妻となり、やがて立派な男の子を生んだという。このはなしは、京の天皇のお耳にも達し、天皇の命により参内した常将がそれまでの事情をありのままに申し上げたところ、天皇は深く感銘され、これは前代未聞のことであるので、其方の地を千葉の蓮の花にあやかってこれから千葉と名乗れと仰せられた。常将はこの時から千葉氏を称したという、(「妙見実録千葉記」等の記録による)この羽衣公園は、このような伝説を秘め、県民の憩いの場として親しまれて来た。伝説中の池田の池は、この付近にあったといわれ、天女が、羽衣を掛けたという松は、この度、長い間、濃い緑を失わず、人々は千葉県の一つとして大切に愛護して来た。このたび、千葉県の人口500万人突破の、記念事業の一環としてここに羽衣の松を復元し、末長く後世に伝えることにした。」昭和60年3月 千葉県この松が、千葉の由来につながっているのですね。(千葉市内を巡るコース)【つづく】人気ブログランキング千葉市を巡る(その10) 羽衣公園
Jul 14, 2026
コメント(22)

千葉市立郷土博物館の4階は、原始と古代が紹介されています。縄文時代の出土品が展示されています。知らなかったのですが、千葉県は縄文時代の遺跡の密度が高いんだそうですね。こちらは弥生時代の出土品。こちらは古墳時代から平安時代にかけての出土品になるそうです。3階の展示になると中世になります。中世になると鎧や弓矢、馬の鞍など武士に関する展示が多くなりますね。鎌倉幕府の成立に関わった千葉氏に関する展示もありますよ。そして、戦国時代といえば、この火縄銃。2階は近世、近現代の展示です。千葉の海で使われていた実寸大の船の模型です。こちらは現代の都市となっていく千葉市の展示です。こちらのパネルは、近現代の千葉の歴史を説明するもので、画面をタッチすれば、みたいものが画面に表示されます。千葉市の歴史、しっかり学べました。(千葉市内を巡るコース)【つづく】人気ブログランキング千葉市を巡る(その9) 猪鼻城は千葉市立郷土博物館Part2
Jul 13, 2026
コメント(21)

猪鼻城(→→→こちら)なかなか立派なお城です。通称は「千葉城」。千葉にも大名がいてこのような立派なお城があったのですね・・・。というのは、真っ赤なウソ。近世に千葉城は存在しません。また、千葉氏3代当主の千葉常胤の居城だったわけでもありません。そうですよね、千葉常胤は平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将ですから。しかし亥鼻公園は猪鼻城跡になることは確からしいのですから、戦国時代にはここに猪鼻城と呼ばれるようなお城はあったようです。というとこの立派な天守のお城らしい建物は何かというと、「千葉市立郷土博物館」(→→→こちら)で、昭和42年に完成した観光施設を博物館にしたものだそうです。ちなみに千葉市立郷土博物館の使命(ミッション)は、歴史系博物館としての正当性を十分に確保したうえで、地域資源としての観光的な側面を併せ持ち、本市の過去を検証し未来へ繋げる都市アイデンティティ(千葉市らしさ)溢れる施設を目指します。とのことです。しかし、まあ歴史の正当性・・・ですかね?そして、見学は無料。流石は政令指定都市の千葉市です。ということで中に入ってみました。一階の展示物は、学校給食の歴史なのでしょうか。こちらは戦後間もない頃の学校給食。アルミのお椀に入った白いものは「脱脂粉乳」ですね。それでもカロリーとか、ビタミンとか栄養面はちゃんと配慮されていますね。こちらは、MoMo太郎が子供の頃の給食。ソフト麺とそれにかけて食べるカレー。学校給食のお陰でカレー好きになりました。こちらが、平成以降の学校給食。食器もきれいな模様がある陶器でしょうか。この給食ならカルシウムやカリウムとのミネラルに加えて、ガンバリウムも入っていて午後の授業も頑張れそう。こんな給食が食べられるなら、もう一度、小学校に通ってみたいです。順路としては、一気に5階までエレベーターで上がって、下に降りていくそうです。ということで天守から千葉の町を見下ろします。博物館のある亥鼻公園の北側からの眺めです。こちらは東側。左側にある大きな建物は多分、千葉大学医学部付属病院です。南側です。白い変わった屋根の建物は、千葉県文化会館です。南西の方角は、千葉港。煙突も沢山見えて、千葉市は工業地帯にある町ですね。西側の形式です。真ん中の高い建物は千葉県庁です。景色の紹介をしている案内板によれば、この方角に富士山が見えるそうですが、曇り空で見えませんでした。景色を観た後は、4階から展示物を見学します。(千葉市内を巡るコース)【つづく】人気ブログランキング千葉市を巡る(その8) 猪鼻城は千葉市立郷土博物館Part1
Jul 12, 2026
コメント(24)

亥鼻公園(いのはなこうえん)(→→→こちら)と猪鼻城(→→→こちら)がある亥鼻の丘に登って行きます。かって、城郭があった地らしく、この階段を登った丘になっています。階段を登り切って丘の上に出ると、天守閣のある立派なお城が、これが猪鼻城なんでしょうか?丘の突端の構造が猪の鼻に似ている、あるいは亥の方角(北北西)を向いていることから、亥鼻の名があるそうです。そして、亥鼻公園には石碑や銅像がありました。こちらにある石碑は、「千葉県殉難警察官之碑」です。こちらの石碑には、おそらく公務中に命を落とした警察職員の方々の名前なのでしょう。この中には成田空港に関連した三里塚闘争(→→→こちら)で亡くなられた3名の警察官の名前もあるのでしょうか?このような新左翼によるテロ行為がなければ、成田空港はもっと使いやすく便利になっていたかも知れませんね。仮に今日の日本の経済の停滞の一因に成田空港の整備が遅れたことがあるのなら、中核派をはじめとする新左翼の罪は重いと思います。こちらには二基の石碑が。こちらは原爆犠牲者慰霊塔です。1979(S54)建立、千葉県在住及び所縁の被爆者で亡くなった方を名簿登録(合祀)し奉納しているそうです。 「忘れない千葉空襲 平和祈念碑」です。721人の犠牲者の、番号・氏名を刻印されています。下段には、千葉市空襲の概要が記されていました。千葉市では、1945年5月8日、6月10日並びに7月7日に米軍による空襲があったそうで、約900人の市民の命が失われたそうです。そのうち氏名が判明された方々の名前が刻まれているそうです。わざわざ沖縄の辺野古まで行かなくっても、こういう石碑を訪れて由来を調べるだけでも十分に平和学習になるのではないでしょうか。こちらにあったのは、千葉開府850年記念碑です。大治元年(1126年)に、桓武天皇のひ孫である高望王の子の平良文の子孫、千葉常重が現在の亥鼻付近に本拠を移したことにより、千葉の町の繁栄が始まったとされています(→→→こちら)。ということで、今年千葉開府900年にあたるわけですね。「知ろう、愛そう、つくろう郷土千葉 千葉市長 荒木和成」という碑文が刻まれていました。確かに、郷土のことを知り愛することは大切なことですね。猪鼻城の前にあった騎馬武者の銅像。「飛躍」と題された千葉常胤の銅像です。市制80周年と政令都市移行10年記念して平成13年(2001年)に建立されたものです。千葉常胤は千葉常重の子で、治承4年(1180年)、石橋山の戦い(神奈川県小田原市)に敗れて安房に逃れて来た源頼朝のもとにいち早く参陣して、源平合戦や奥州合戦などにも参加し、鎌倉幕府の創設に大きく貢献しました。この功績によって千葉氏は上総国と下総国を中心に、東北から九州まで全国に20数カ所といわれた多数の所領を獲得し、幕府の中でも屈指の有力御家人に成長しまたそうです。(千葉市内を巡るコース)【つづく】人気ブログランキング千葉市を巡る(その7) 亥鼻公園
Jul 11, 2026
コメント(24)

都川を渡って、亥鼻城(千葉城)跡へ向かう所に、「お茶の水」という湧水井戸跡がありました。「千葉氏ゆかりの地 お茶の水」という千葉市教育委員会が建てた案内板がありました(→→→こちら)。この井戸にまつわる二つの伝承があるそうです。ひとつは、源頼朝が千葉城に立ち寄った際に、千葉常胤がこの井戸から水を汲んでお茶を進めたら、殊の外賞味されたのでこの名があるとする説。もう一つは、徳川家康が東金方面へ鷹狩りに向かう途中で千葉に泊まり、ここの水でたてたお茶を飲んだというものです。いずれにしても、征夷大将軍に因んだ井戸なんですね。とはいえ、今では井戸も枯れてしまっているようです。こちらにも記念碑が建てられていて、この記念碑には、治承4年(1180年)に鎌倉へ向かう途中の源頼朝が、千葉常胤がこの水でたてたお茶を差し上げたという説を示しています。しかし、よく考えてみれば、その時代にお茶を飲むという習慣が世間一般にも広がっていたのかどうか、ちょっと疑問ですね(→→→こちら)。お茶の水の背後にあったお堂です。これもなにか謂れがありそうなので撮影しておきました。(千葉市内を巡るコース)【つづく】人気ブログランキング千葉市を巡る(その6) 千葉にもお茶の水
Jul 10, 2026
コメント(24)

千葉神社から、さらに国道126号を南に向かって歩いくと、窓のない大きな建築物がありました。ここが千葉市美術館(→→→こちら)です。美術館らしくイタリアの歴史的な建造物を思わせる入り口がありました。この美術館は、千葉空襲で焼け残った昭和2年(1927年)に建てられたネオ・ルネサンス様式の旧川崎銀行千葉支店という歴史的建造物を覆うように「さや堂」方式を用いて建てられたものだそうです。ということで、美術館への入り口はこちらのようです。この美術館の開館時間前にここ着いたので、絵画や美術品に人並みに興味があれば、開館時間まで待って見学したのでしょうが、まあ、先を急ぎました。さらに南に歩いて、都川に架かる大和橋を渡りました。(千葉市内を巡るコース)【つづく】人気ブログランキング千葉市を巡る(その5) 千葉市美術館
Jul 9, 2026
コメント(18)

東千葉駅から国道126号を南に向かって歩いて行くと、千葉神社(→→→こちら)が見えてきました。千葉神社前の交差点にあったこちらのお店は、豆大福本舗「木村屋」(→→→こちら)です。昭和7年から続く、昔ながらの豆大福で有名な地元の名店だそうです。この千葉神社は、千葉氏(→→→こちら)の守護神である北辰妙見尊星王(妙見菩薩)を本尊とする寺院(千葉妙見宮)として建立され、、明治2年(1869年)に千葉神社へと改称して以来、全国でも有数の北極星・北斗七星信仰、さらに仏教の妙見信仰とを習合する神社となっています。というわけで、神社の前にある通町公園には、こちらの千葉 常胤(ちば つねたね)(→→→こちら)の胸像が設置されていました。千葉常胤は、桓武平氏良文流千葉氏の一族で、千葉氏第3代当主だった人物です。源頼朝の挙兵に協力し鎌倉幕府の御家人として重要な地位を占めるに至った武将です。そのような千葉氏の歴史がこの案内板に示されていました。こちらの鳥居の近くにあったのが、昭和天皇即位の御大礼の記念として昭和4年(1929年)に建立された左右一対の獅子児鍛錬像です。獅子が我が子を千尋の谷に突き落として鍛錬したと伝わる故実を題材とした唐獅子像です。こちらが神門ではなく、楼門型の分霊社「尊星殿」です。これは神社建築では余り例のない楼門と社殿の複合建築物となっています。千葉神社開創1000年奉祝事業として平成10年(1998年)に竣工したものです。分霊社「尊星殿」を通って境内に入ると正面に社殿が見えてきます。平成2年(1990年:開創990年)の「平成の大造営」に竣工したこの社殿は、重層社殿と呼ばれる形式で、拝殿が上下に二つある日本で唯一の様式だそうです。歴史のある神社にしては、新しい建築物だと思われるかもしれませんが、昭和20年(1945年)7月7日の七夕空襲によって千葉の街は戦火に見舞われ、千葉神社も現存する手水舎を残して灰燼に帰してしまいました。そこで崇敬者や氏子の皆さんの努力で、昭和29年(1954年)に木造の本殿が再建されました。新しい社殿の建立にあたり、その旧本殿が移築されたのが、こちらの千葉天神です。千葉県内最大の天神様のお社であり、受験合格祈願だけではなく、妙見様の御神力も同時にいただけるとされボケ封じを願う老年世代も多数お参りされているそうです。千葉天神の前にあるのが、こちらの泉です。石碑に彫られた「空験赫灼」の意味は不明ですが、赫灼(かくしゃく)というのは「光り輝いて明るいさま」のことですから、MoMo太郎的に解釈すれば、むなしさを経験することは光り輝くような未来を見えてきますということでしょうか。そして、こちら泉は「妙見延寿の井(みょうけんえんじゅのい)」といわれ、本殿での参拝後にこのお水を一口いただくと、福を増し、寿命を延ばすご利益があると伝えられているそうです。生水は身体によくないかもと思いながら、一口頂きました。さらに、こちらの石は亀石というそうです。妙見菩薩の神使とされる玄武(→→→こちら)は亀蛇合体像の形であることから、この亀石を撫でると福運があるということで、思う存分なでさせて頂きました。(千葉市内を巡るコース)【つづく】人気ブログランキング千葉市を巡る(その4) 千葉神社
Jul 8, 2026
コメント(20)

千葉都市モノレールの車両です。高架といいながら、意外と低いなと感じました。千葉公園から総武線の下を抜けて、千葉市民会館の方へ出ると、石碑がありました。「ここに千葉駅ありき 千葉鉄道管理局長 浅井武」と刻まれた石碑です。1963年(昭和38年)に国鉄千葉駅が現在の地に移転するまで、この市民会館周辺に千葉駅がありました。千葉駅の移転は、千葉市の 戦災復興計画 の軸をなすものでした。駅が移転するまで、東京方面から内房・外房に向かう列車は、それまで千葉駅でスイッチバックをしていましたが、この移転により解消することになりました。移転前の様子は1952年(昭和27年)の国土地理院の地形図(→→→こちら)で確認することができます。地図の右下の隅っこに千葉駅があります。そして、移転以前の旧千葉駅構内の銚子側に国鉄の駅として1965年(昭和40年)12月20日にこちらの東千葉駅が新設されました。(千葉市内を巡るコース)【つづく】人気ブログランキング千葉市を巡る(その3) 旧千葉駅跡地
Jul 7, 2026
コメント(24)

千葉公園(→→→こちら)の入り口に到着です。千葉公園は、千葉のセントラルパークとも呼ばれる約16haの総合公園です。同公園内には千葉公園野球場、千葉競輪場、プール、千葉公園体育館などの運動施設や綿打池(わたうちいけ)があります。江戸時代、千葉公園の辺りは、佐倉藩(堀田藩)領(千葉寺、寒川村)と旗本であった中山勘解由の領地(作草部村)との共同作業地になっていました。当時はヨシなどが生えた沼地湿地のようなところであったと言われています。明治41年(1908年)、大日本帝国陸軍は、この地に鉄道連隊を設けました。その後、大正7年10月(1918年)、津田沼に鉄道第二連隊ができるとともに名称が鉄道第一連隊と変わりました。鉄道第一連隊の兵士たちは、この辺一帯の演習作業場で、鉄道の保守、新設、修理をはじめ、敵地での鉄道の破壊訓練を行っていたそうです。戦後、その鉄道第一連隊跡地に千葉公園が整備されたそうです。そのような経緯を説明する色褪せた案内板がありました。こちらが綿打池です。朝が早かったせいか、営業してはいませんでしたが、貸しボートも楽しめます。こちらの小高い丘は鉄道第一連隊時代の遺構になる「荒木山」です。この丘では、連隊ラッパ手の訓練が行われ、「喇叭山(らっぱやま)」と呼ばれ親しまれていましたが、殉職した荒木大尉を悼む鉄道第一連隊の兵たちにより銅像が建立されたため、以後「荒木山」と呼ばれるようになったそうです。ちなみにその銅像は戦時中の物資欠乏により撤去されています。千葉公園の傍には、千葉都市モノレール(→→→こちら)が走っています。千葉のモノレールって懸垂式(→→→こちら)だったんですね。そして、こちらが大賀ハスの繁殖しているハス池です。平日で台風も接近しているような日ですが、多くの人が訪れていました。大賀蓮記念碑(→→→こちら)です。多くのハスが咲いています。向こうに見える建物は「蓮華亭(れんげてい)」で、公園内の無料休憩場所としても利用されている大賀ハスの展示資料館です。大賀ハスは、平成5年(1993年)に、千葉市が政令指定都市になったことなどを記念し「市の花」に制定されています。このハスの花は開花してからまだ間もないようです。ハスの花の真ん中に水がたまったのが面白かったです。こちらは、開花して日が経ってかなり開いていますね。ハス池から綿打池の方向を撮影してみました。このあたりが、バランスよく花が開いている状態ではないでしょうか。公園内では、アジサイも咲いていました。(千葉市内を巡るコース)【つづく】人気ブログランキング千葉市を巡る(その2) 千葉公園の大賀ハス
Jul 6, 2026
コメント(22)

2026年6月20日(土)~28日(日)に千葉市にある千葉公園で「大賀ハスまつり」が開催されました。それに合わせて開催されているJR東日本が開催されている「駅からハイキング~大賀ハスと千葉市内の歴史を巡るハイキング」に参加してきまた。その報告です。スタートの千葉駅に到着しました。JR千葉駅は2016年11月20日に現在の駅舎となり、10周年を迎えたそうです。ということで広々として明るい構内になっています。千葉駅はJR東日本・千葉都市モノレールの駅です。総武線快速、中央総武線各駅停車、成田線、総武本線、外房線、内房線、千葉都市モノレール1号線、千葉都市モノレール2号線が乗り入ている一大ジャンクションおよびターミナル駅です。地上ホームはJR各路線の列車が発着し、高架になっているのは、千葉都市モノレールです。駅構内には、大賀(おおが)ハスが鉢に入れられて飾られていました。こちらのハスの花はまだ蕾の状態でした。大賀ハス(→→→こちら)とは、昭和26年(1951年)、千葉県千葉市検見川(現・千葉市花見川区朝日ケ丘町)にある東京大学検見川厚生農場(現・東京大学検見川総合運動場)の落合遺跡で、大賀一郎博士たち発掘された、今から2000年以上前の古代のハスの実から発芽・開花したハス(古代ハス)のことです。この大賀ハスが、千葉公園に分根されて植えられています。千葉駅から千葉公園に向かいます。まつりを盛り上げるためでしょうか、途中の住宅街にも幟が建てられていました。(千葉市内を巡るコース)【つづく】人気ブログランキング千葉市を巡る(その1) 大賀ハスを見に行く
Jul 5, 2026
コメント(16)

新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を書いている「新宿彷徨」です。こちらの学校は、新宿区立牛込第三中学校です。78周年を迎える歴史ある中学校ですが、その敷地の角にあったのは、「東京都立(府立)第四中学校の跡」という石碑が建てられていました。東京都立(府立)第四中学校というのは、現在の都立戸山高等学校(→→→こちら)の前身にあたる学校だそうです。碑文にはこのように記されていました。都立四中は明治二十一年九月私立補充中学校として麹町区飯田町に開校した後、共立中学校、東京府城北尋常中学校と改称、同三十四年四月東京府立第四中学校となる。同三十七年一月には牛込区市ヶ谷加賀町の此の地に木造二階建ての校舎が建ち、以来明治・大正・昭和前期にわたる深井鑑一郎 校長の薫陶の下で、礼を基底とした人間教育と学問の基礎の確立を通して、世に「天下の四中」の名を得るに至った。 時が移り第二次大戦の末期、昭和二十年三月十日および四月十三日の大空襲により明治以来の校舎、講堂その他建物一切は灰燼に帰し、さらには敗戦後、学制改革もあって、昭和二十二年、二十三年における旧制中学五年生の卒業を最後に、都立第四中学校は六十年にわたるその歴史の幕を下した。併し不易流行の校風は、都立戸山高等学校に受け継がれ現在に至っている。最後の卒業生となった昭和十七年入学者一同、四中終焉五十周年を記念して此の碑を建てる平成十年三月昭和十七年入学者一同またこの近くにあったのが、納戸町公園です。この公園は、初めて西洋の貴族と結婚した日本女性であるクーデンホーフ光子(→→→こちら)が、明治29年(1896年)に渡欧するまで住んでいたところです。人気ブログランキング新宿彷徨(その102) 東京都立(府立)第四中学校の跡
Jul 4, 2026
コメント(20)

新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を書いている「新宿彷徨」です。こちらは令和3年(2021年)に開館した「市谷の杜 本と活字館」(→→→こちら)です。大正10年(1926年)に建てられた大日本印刷(秀英舎)市谷工場の営業所棟を再利用しているので、このような外観なんですね。もちろん、施設の運営は大日本印刷となっています。かつての印刷工場の光景を一部再現していて。文字の原図から活字の「母型」を彫り、鋳造し、活字を拾って版を組み、印刷・製本するまでの一連の設備や作業を見ることができます。こんなに沢山の活字があったんですね。入場無料ながら、かなり見応えのある展示がありました。人気ブログランキング新宿彷徨(その101) 市谷の杜 本と活字館
Jul 3, 2026
コメント(22)

新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を書いている「新宿彷徨」です。新宿区内をブラブラと散歩しながら、新宿区を紹介しているこのシリーズも気がつけば100回目になりました。新宿の町も掘り起こせば色々とあるものですね。さてこちらの建物が、JICA市ヶ谷ビルです。JICAというのは「独立行政法人国際協力機構」(→→→こちら)という政府開発援助(ODA)の実施機関の一つであり、開発途上地域等の経済及び社会の発展に寄与し、国際協力の促進に資することを目的とするという美名の下で、日本国民の血税を開発途上国にばら撒いている組織です。ちなみにここでは、JICAの国内最大規模の研修実施機関として、日本国内のさまざまな関係機関の皆さまの協力を得て、開発途上国・地域の行政関係者をはじめとする開発途上国・地域の将来 を担う人々に多くの研修を実施しているそうです。そして、もうひとつの目玉が、「JICA地球ひろば」(→→→こちら)という施設で、開発途上国の暮らしの現状や、地球が抱える課題、国際協力の実情などを、見て・聞いて・触って体験できる展示を開催しています。このような世界の民族衣装などがその内容です。また、2階にはJ’s Cafeというレストランがあって開発途上国のメニューを提供しているそうです。ディナーはありませんがランチタイムのみの営業です。入場は無料なので、海外、特に開発途上国に関心がある方は一度は訪れてみてはどうでしょうか。人気ブログランキング新宿彷徨(その100) 「JICA地球ひろば」
Jul 2, 2026
コメント(27)

今年の夏になって、初めて冷し中華を食べに日高屋へ行きました。冷し中華だげたと、やっぱり夏は乗り切れないと思い、餃子も頼みました。日高屋では、冷やし中華と呼ばす「黒酢しょうゆ冷し麺」と呼んでいます。餃子とセットで960円(税込み)。夏になると、なんとなく冷し中華に手が出てしまいますね。人気ブログランキングへ孤独のグルメ 今年初めての冷やし中華
Jul 1, 2026
コメント(24)

このお笑いコンビの左側の人、林田洋平というそうです。このお笑いコンビの左側の人、じろうっていうそうです。NHKの朝ドラにも出演していましたね。このお笑いコンビの左側の人、堂前 透っていうそうです。このお笑いコンビの右側の人、水川 かたまりっていう人です。この4人、なんか似ているので、コンビで出ていないと区別がつかないです。人気ブログランキング相方がいないと区別がつかない
Jun 30, 2026
コメント(31)

ビートルズが1966年6月29日に初来日し、日本武道館で3日間・計5回の公演を行ってから60年です。そこで、この「ミスタームーンライト」(→→→こちら)をお届けします。ビートルズの「ミスター・ムーンライト」は、1964年12月4日にイギリスで発売された『ビートルズ・フォー・セール』と、1964年12月15日にアメリカで発売された『Beatles '65』に収録されています。アメリカの全国チャートでは最高位68位を記録ということで、それほどヒットしたわけでもなく、音楽批評家の間でも、高く評価はされていなかったようです。しかし、どうして、この曲かと言うと、当時、日本テレビが放送した「ザ・ビートルズ日本公演」という番組の冒頭で、羽田空港に到着した4人の乗った自動車が夜明け前の高速道路を疾走するのを映し出しつつ、突然この曲が流れたので、日本人の多くが知っている曲というわけです。そんなわけで、「ミスタームーンライト~1966 ザ・ビートルズ武道館公演 みんなで見た夢~」という映画まで製作されているわけです。「ミスタームーンライト」という曲は、1962年にアトランタのグループ「ドクター・フィールグッド&ジ・インターンズ(Dr. Feelgood and the Interns)」がリリースした曲です。そして、インターンズのギタリストであり作曲家のロイ・リー・ジョンソンが歌ったこの曲は、アメリカのOkeh Recordsから発売され小ヒットした「Dr. Feelgood」のB面としてリリースされています。そしてビルボードで66位、キャッシュボックスで74位を記録しています。ところで、「ドクター・フィールグッド&ジ・インターンズ」はウィリー・ペリーマンがピアノ・レッドまたはドクター・フィールグッドとしてグループを率いていました。 このウィリー・ペリーマン(→→→こちら)、白人のように見えますが。アルビノ(人間の先天的な状態であり、皮膚、髪、目に部分的または完全に色素が欠如している状態)のアフリカ系アメリカ人です。アルビノは光恐怖症、眼振、弱視など、さまざまな視覚障害と関連しているそうで、このウィリー・ペリーマンも視力が悪かったそうですが、彼は独学でピアノを習得し、バレルハウス・ブルーススタイル(騒がしいバーや酒場に適した大音量の打楽器的なブルースピアノ)を演奏していていたそうです。黒人音楽のR&Bを音楽的なルーツとするビートルズですから、デビュー前のライブでもこの曲をカバーしてレパートリーとしていたようです。このようにデビュー直後にドイツ・ハンブルグにあるスタークラブで非公式に家庭用テープレコーダーで録音された音源でも、ミスタームーンライトを演奏していることが確認できます。ということで、ザ・ビートルズの原点回帰といえる、「ミスタームーンライト」の歌詞とその和訳をやってみました。Mr. MoonlightYou came to me one summer nightAnd from your beam, you made my dreamAnd from the whirl, you sent my girlAnd from above, you sent us loveMr. Moonlight君はある夏の夜、僕のもとにやってきた君の光で、僕の夢を作り上げ渦の中から、僕の彼女を送ってくれたそして天から、僕たちに愛を届けてくれたAnd now she is mineI think you're fine'Cause we love youMr. Moonlightそして今、彼女は僕のもの君は素晴らしいと思うよだって僕たちは君を愛してるMr. MoonlightMr. Moonlight, come again pleaseHere I am on my kneesBegging if you pleaseMr. Moonlight、もう一度来てください僕はここでひざまずいているどうかお願いだからOn the night you don't come my wayI pray and pray more each day'Cause we love youMr. Moonlight君が僕のもとに来ない夜は僕は毎日、さらに祈り続けるだって僕たちは君を愛してるからMr. MoonlightMr. Moonlight, come again pleaseHere I am on my kneesBegging if you pleaseMr. Moonlight、もう一度来てください僕はここでひざまずいているどうかお願いだからAnd the night you don't come my wayOh, I pray and pray more each day'Cause we love youMr. MoonlightMr. MoonlightMr. MoonlightMr. Moonlight君が僕のもとに来ない夜にはああ、僕は毎日さらに祈り続けるだって僕たちは君を愛してるからMr. MoonlightMr. MoonlightMr. MoonlightMr. Moonlight人気ブログランキングビートルズ来日60周年にあたって、ミスタームーンライトを聴く
Jun 29, 2026
コメント(26)

すき家でランチしました。いただいたのは「さば定食」(600円税込み)です。さばの骨が取ってあり、食べやすかったです。最近は、牛丼の店でもこういう魚のメニューがあるんですね。人気ブログランキングへ孤独のグルメ すき家の定食
Jun 28, 2026
コメント(30)

息栖神社の参拝の折り、前々から気になっていた所を回ってみました。それがこちらの神社です。茨城県には、養蚕発祥の地との伝説が残る場所が、神栖市、つくば市、日立市の3か所にあります。このうちの一つである神栖市の蚕霊(さんれい)神社へ参拝に来ました。こちらの神栖市教育委員会が設置している蚕霊神社の由来を簡単にまとめると、紀元前3世紀ごろ、天竺(インド)の国王・霖夷(りんい)には、世にもまれなほど美しい娘・金色姫がいた。母が亡くなった後、継母は金色姫の美しさに嫉妬し、姫をあの手この手で亡き者にしようとした。ついには桑で造った丸木舟に押し込め海に流したところ、舟は常陸国豊浦浜に漂着。土地の漁師、権大夫とその妻に救われる。薄幸の運命に心を痛めた夫婦は、姫を看病するも病気で亡くなってしまう。死後、小虫となり変わった姫に、夫婦が桑の葉を与えていると、やがて美しい糸を吐きながら繭を作った。その繭から繰りとった絹糸で織り上げられたものが、見事な常陸絹織となり、名声を得て各地に広まり、新しい産業として人々の暮らしを豊かにしたのです。。このような養蚕の発展に感謝敬慕の念から、この神社が造営されたました。ということです。こちらが、その社殿です。社殿には、明治41年にこの神社造営に奉納した人たちの名前が記されていました。そして、もう一か所。常陸利根川のほとりにある「サーキットの狼ミュージアム」(→→→こちら)です。こここは、かって1970年代にスーパーカーブーム(→→→こちら)を巻き起こした漫画「サーキットの狼」の作者である池沢早人師(池沢さとし)によって開設された資料館になります。スーパーカーといっても、Z世代の人にはわからないでしょうが、高出力・高性能で、特徴的なデザインのスポーツカーというのが、基本的な定義でしょうか。代表的なスーパーカーといえば、フェラーリの288GTO、F40やF50。ランボルギーニ・カウンタック、ポルシェ 911ターボ、959、911 GT1、カレラGTなとがあります。ちなみに、MoMo太郎が若い頃乗っていた、カローラレビンAE86型(→→→こちら)は、速くていい車でしたが、誰もスーパーカーとは呼んでくれませんでした。(息栖神社)【了】人気ブログランキング息栖神社(その5) 息栖神社周辺を巡る
Jun 27, 2026
コメント(36)

息栖ゆかりの歌碑というものがありました。鎌倉時代、藤原為氏によって編集された「新和歌集」の中には、息栖周辺を詠んだ歌が収められているそうです。その歌が、「海原や沖つ潮合に立浪の鎮めがたきには心なりけり 理然法師(息栖神宮寺僧)」だそうです。また、その他にも三首の和歌が新和歌集には収録されているそうです。こちらが、その一首の「鹿島潟 沖洲の森の ほととぎす 船をとめてぞ 初音ききつる 藤原時朝」です。その他にも「われのみと 待ちつる暮を 郭公(ほととぎす) またたか為に 鳴てすくらん 諦如法師」という歌碑と、「里とをき 山のすそのの ほとときす たか為になく 初音成らむ 稱佛法師」の歌碑もありました。社殿の脇にある、真っ直ぐ天に向かって伸びている大木が、御神木で、別名は「息栖の夫婦杉」、樹齢は推定千年とのことです。そして、ようやく社殿にたどり着いて、参拝できました。もともとの社殿は享保8年(1723年)に建て替えられたものの、昭和35年(1960年)に焼失し、その後昭和38年(1963年)に再建されたものです。ところで、息栖(いきす)という名称ですが、古代の関東平野東部に太平洋から湾入した内海であつた香取海に浮かぶ沖洲に祀られた神であったことから、「おきす」から「いきす」に変化したといわれています(→→→こちら)。(息栖神社)【つづく】人気ブログランキング息栖神社(その4) ようやく息栖神社に参拝歌碑
Jun 26, 2026
コメント(26)

息栖神社の境内では、力石と芭蕉の句碑が柵に囲まれて置かれていました。力石とは、昔の若者たちが力比べに使った石で、ただの石ではなく、地域の祭りや暮らしと結びついたものです。説明板によると、祭礼の際に若者たちが競い合い、力を誇り合ったものとのこと。こちらの石碑には、「この里は 気吹戸主の 風寒し」と刻まれているそうです。句碑の解説がありました。松尾芭蕉がこの地を訪れたのは貞享4年(1687年)のことで、この句碑は地元の俳人らによって建てらたものであるがその時期は不明のとのこと。句の意味は、「いざなぎの尊が黄泉の国から戻った時に、筑紫日向の橘の小門で身体を洗い、罪や汚れをすっかりそそぐ落とし浄め流した。そり流れの中から生まれたのが気吹戸主(息栖神社の祭神)で、清浄化・生々発展・蘇生回復の神である。」ということだそうです。こちらに祀られているのが「さざれ石」(→→→こちら)。君が代にも歌われている「さざれ石」ですが、小石が集まって大きな岩となったといわれていますが、学術的には「石灰質角礫岩」と呼ばれる堆積岩の一種です。石灰岩の小さな角礫(角張った岩片)が雨水に溶けた石灰成分によって徐々に固結し、数万年から数百万年の時間をかけて一つの大きな岩の塊になったものです。この木には、よく見ると花の蕾のようなものがありました。この木は「招霊(オガタマ)の木」(→→→こちら)です。この木は一円玉に刻印されている木と言われています。また天の岩屋に隠れてしまった天照大神を外へ誘い出すために、天岩戸の前で踊った天鈿女命が手にしていた木なのだそうです。(息栖神社)【つづく】人気ブログランキング息栖神社(その3) 松尾芭蕉句碑や招霊(オガタマ)の木など
Jun 25, 2026
コメント(22)

白い鳥居は二の鳥居になります。そして右側にある社号碑には「東国三社息栖神社」の文字が刻まれています。「東国三社」とは、鹿島神宮、香取神宮、そしてここ息栖神社。鹿島神宮や香取神宮に比べると少し控えめな印象があるかもしれませんが、由緒ある神社で、近年ではパワースポットとしての人気も高いそうです。こちらには、神栖市教育委員会が設置した息栖神社の紹介です。これによると、古くは、日川(にっかわ。現:神栖市日川)に創建されたという。その後、大同2年(807年)4月13日、藤原内麻呂によって現在地に移転したと伝えられているそうです。また、名称について「日本三代実録」では「於岐都説神」と記されていそうです。この鮮やかな朱塗りの神門を抜けて、社殿のある中心部に入っていきました。こちらには、神社が設置した息栖神社の由緒についての説明板がありました。息栖神社は岐神(くなどのかみ)を主神とし、天鳥船・住吉三神を相殿の神として祀られており、古くから国史にも見え(三代実録に書かれているある於岐都説神社)が今の息栖神社です。鹿島・香取両神宮と共に東国三社の一社として上下の信仰の篤い神社です。岐神(くなどの神)は厄除招福・交通守護の御霊格の高い神で、鹿島・香取の大神と共にその先頭に立たれ国土の経営にあたられた。天鳥船神(あめのとりふねの神)は航海・航空の守護の御霊格が高く古事記に(天鳥船を建御雷神に副えて遣わす云々)とあり、鹿島の大神の御先導を務められた神であります。住吉三神は海上守護・漁業守護の御霊格が高い三柱の神様である。このように五柱の神々を祭られているので古くは息栖五所明神とも称された。神門から社殿までは木々に囲まれた参道がまっすぐ続いていました。(息栖神社)【つづく】人気ブログランキング息栖神社(その2) 東国三社
Jun 24, 2026
コメント(30)

鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)、香取神宮(千葉県香取市)とともに「東国三社(とうごくさんじゃ)」と1つである息栖神社(茨城県神栖市)にお参りしました。息栖神社・鹿島神宮・香取神宮の東国三社のすべてにお参りをすると、お伊勢参りに行ったのと同じご利益があるといわれています。また、江戸時代には、お伊勢参りを済ませた人が、「下三宮参り」として東国三社詣が大人気でした。息栖神社は常陸利根川沿いにあって、水運で鹿島神宮、香取神宮と巡ることでができます。ひんなわけで、江戸時代の人たちは、現在の印西市にある木下(「きおろし」と読むそうです)から遊覧船に乗って東国三社巡りをしていたそうです。こちらは息栖神社船溜まり前にある堤防から常陸利根川を撮影したものです。息栖神社の船溜まりの先にあるのが、息栖神社の一の鳥居です。鹿島神宮の「南の一之鳥居」としての重責を担っているといわれています。ちなみに、東は神栖市の明石浜鳥居、太平洋に面し、神が上陸したとされる場所だそうです。西は鹿嶋市にある大船津鳥居、北浦に浮かぶ水上鳥居になります。かつての江戸からの鹿島神宮への参拝玄関口になります。北は鹿嶋市の戸隠神社鳥居、浜街道の分岐点で「神戸」の地名の由来となる門だそうです。こちらの神栖市教育委員会の建てた「息栖神社と河岸」という案内板には、息栖神社の玄関口となった河岸の歴史についての説明が記されていました。その一の鳥居の両側にある「忍潮井」と呼ばれる2つの井戸があります。こちらが利根川に向かって右側にある男甕(おがめ)です。利根川に向かって左側にある女甕(めがめ)になります。この石碑の説明によると、忍潮井は、三重県の明星井(あけぼのい)、京都伏見の直井と並び日本三霊水の一つに数えられいまるそうです。常陸利根川の下流には水門ができて、霞ケ浦は淡水湖となっていますが、かっては周囲が汽水(海水が混じる水)であった時代から、こんこんと真水が湧き出し続けていたという不思議な場所だったのです。こちらの石碑には、風の音の遠き御代より 詣で人水際に仰ぐ 畏きや息栖の宮の大鳥居 大いなる鹿島開発の歩みの中に 地を穿つ柱太知り 秋宝に笠木高知り 今ぞ築き建つ 昭和四十七年十月と刻まれていました。鹿島開発(→→→こちら)とは、鹿島臨海工業地帯造成計画のことで、巨大な人工掘込式港湾、鉄鋼、石油化学、電力等などの総合臨海工業地帯を建設し茨城県東南部の中核拠点づくりを目指した国家プロジェクトのことです。この一の鳥居からの参道を歩いて息栖神社へ向かいました。(息栖神社)【つづく】人気ブログランキング息栖神社(その1) 忍潮井(おしおい)
Jun 23, 2026
コメント(18)

父の日に家族からエプロンをプレゼントされたMoMo太郎です。これからはエプロンをして家事に励んでみようかと思う次第です。【長い髪の女の人】ドア近くの端っこの座席に座っていると、顔の横になにか触れるものがあり、確かめてみると、ドアとシートの間に立った女性の長い髪が当たっているのでしか。このムシムシ、ジメジメした季節、なんとなく不快な感じになるものですね。昔は「ワンレン」と言って、こういう長い髪が流行していましたが、なんとなく迷惑なので、できれば通勤電車に乗るときは、ロングヘアでもまとめて垂れない様にして欲しいものだと思いました。【ガクチカ】lリクルート関係の車内の広告で、「4つの質問に答えるだげ、ガクチカの下書きができる」というコピーの広告がありました。「ガクチカ?」意味がわからなかったので、「ワンレン」を知らなかかったZ世代の職場の若い人に聞いてみたら、、ガクチカとは学生時代に力を入れていたことの意味で、採用面接の時などに聞かれるんだそうです。しかし、学生時代に野球に力を入れていて神宮球場で開催される全日本大学野球選手権に出場しましたとか、マラソンに力を入れていて箱根駅伝を走りました。とかということならカッコイイし、就職にも有利かもしれませんが、そんなことを語れる学生なんて一握りだと思ったのですが、「ワンレン」知らないZ世代のZ君の説明では、クラブ活動の資金集めに学園祭でたこ焼きを売りましたみたいなことでもいいそうです。しかし、たこ焼き売っただけならガクチカでもないだろうと思いますけどね、やっぱりガクチカにふさわしいのなら、美味しいたこ焼きを作るために服部栄養専門学校に通いましたくらいの努力をした痕跡は見せて欲しいですね。【ピアスしている女子高生】電車の中で隣に立ったセーラー服の女子高生をふと見ると、耳にピアスが。今の高校ではピアスしてもいいのでしょうかね。しかし、勉強が本分の高校生がそんなに色気づいていいのかと、昭和生まれのV世代おじさんとしては思う次第でした。こういう娘さんが、小学校の低学年くらいまでは「パパがいい」と言っていて、その後、小学校高学年から中学校くらいになると「パパはいい」になって。それからは「パパ」という言葉を忘れたフリをして、気がつけば、苗字も変わって見ず知らずの男性を「パパ」と呼ぶようになるんでしょうね。そして、その結果、父の日にエプロンをプレゼントしてくれようなるんでしょうか。人気ブログランキング通勤沿線 気になるあの人(その14)
Jun 22, 2026
コメント(24)

新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を書いている「新宿彷徨」です。曙(あけぼの)橋にやって来ました。曙橋というのは昭和32年(1957年)に建設された、靖国通りの上を跨ぐ外苑東通りの橋の名前です。靖国通り沿いにあるこのビルにちょっと変わった団体が入居していました。「公益財団法人日本人事試験研究センター」(→→→こちら)です。市町村、道府県・指定都市、警察官の採用試験問題を作成・提供する公益法人なんだそうです。こんな団体があるんですね。都営新宿線の曙橋駅近くにある商店街です。そういえば、かっての人気テレビドラマ、MoMo太郎も我が家の事を思い浮かべながら見ていた「渡る世間は鬼ばかり」(→→→こちら)では、泉ピン子さんの嫁ぎ先の中華料理店「幸楽」はこの曙橋商店街にある設定になっていました。亡くなられた橋田寿賀子さんの跡を継いで、MoMo太郎が「渡る世間は鬼ばかり」の続編の脚本を書いてもいいかなと思っています。我が家では「渡る世間は鬼ばかり」的なエピソードはかなりありますからね。この商店街の北側には「東京女子医大病院」があり、また、近くには「国立国際医療センター」や「慶応大学病院」もあるので、医療面でも安心できますね。商店街の途中にこんな道標がありまた。左フジテレビ、右地下鉄あけぼの橋驛とあります。こちらの坂道を登ると、お台場に移転する前のフジテレビがあったんですね。人気ブログランキング新宿彷徨(その99) 曙橋界隈
Jun 21, 2026
コメント(24)

新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を書いている「新宿彷徨」です。こちらの建物は、新宿区立花園小学校(→→→こちら)。調べてみると四谷第五小学校と四谷第七小学校が平成7年(1995年)に統合してできた小学校だそうです。新宿区内、かっては沢山あった小学校も子供の数が減って、統廃合されているのですね。四谷四丁目の交差点にある四谷大木戸碑です。江戸五街道の一つ甲州街道の最初の宿場町の内藤新宿へ続く木戸の北東側の跡です。新宿御苑のある南西側には立派な石碑や説明文が有るのですが、こちらは交差点の角のスペースが小さな庭の様になっていて、ちょっと散歩の休憩に立ち寄るのにはいいかもしれません。ちなみに四谷大木戸というのは、甲州街道を通って江戸に出入りする通行人や荷物を取り締まるための関所だったところです。つまり江戸時代の江戸府内はここまでだったということですね。こちらにあるのは、かって新宿区立四谷第四小学校だったところです。平成19年(2007年)に旧四谷第一小学校、四谷第三小学校、四谷第四小学校が統合して四谷小学校になりました。廃校となったこれら三校ともそれぞれ100年以上の歴史を誇った学校だったそうです。そして、この跡地は「四谷ひろば」(→→→こちら)として、地域住民中心のボランティアなどにより自主管理自主運営される「地域ひろば」と「東京おもちゃ美術館」「CCAAアートプラザ」の協働で運営される施設として利用されています。「東京おもちゃ美術館」(→→→こちら)とは、世界各地のおもちゃを展示するほか、世界の遊びを紹介する施設だそうです。校舎の建物のこちら側のエリアが、東京おもちゃ美術館になります。ちなみに、入場料は、おとな(中学性以上)がオンラインチケットで1,100円になります、また、こども(6ヶ月~小学生)はオンラインチケットで800円、6ヶ月未満だと無料。ということで、ちょっと気軽には遊びに来れないかな。人気ブログランキング新宿彷徨(その98) 廃校となった新宿区の小学校を利活用
Jun 20, 2026
コメント(30)

新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を書いている「新宿彷徨」です。東京都新宿区新宿二丁目にある太宗寺(→→→こちら)にやって来ました。太宗寺は、江戸時代初期の寛永年間(1624~1644年)に内藤新宿の開発を進めた内藤家によって建立されたお寺です。入るとすぐに眼に入るのが、この大きなお地蔵様。銅造地蔵菩薩坐像。東京都指定有形文化財になるそうです。銅造地蔵菩薩坐像は江戸六地蔵(→→→こちら)のひとつだそうです。江戸六地蔵は、宝永から享保年間にかけて江戸の出入口6箇所に造立された銅造地蔵菩薩坐像です。東海道の出入口にあるる品川の品川寺、奥州街道の出入口にある浅草の東禅寺、甲州街道の出入口に当たるのがこの新宿の太宗寺、中山道は巣鴨の真性寺、水戸街道は江東区白河の霊厳寺、そして千葉街道は江東区富岡にあった永代寺。しかし、永代寺は明治元年(1868年)の神仏分離令による廃仏毀釈により廃寺になり取り壊されて、代仏が上野の浄名院に祀られているそうです。その他にも境内には色んな堂宇がありました。こちらは、新宿区指定有形民俗文化財である都内最大の閻魔像が祀られている閻魔殿です。新宿区指定有形文化財の三日月不動が安置されている三日月不動堂。こちらの現代的なデザインの建物は本堂です。山号は霞関山というのですね。こちらは、塩かけ地蔵体の悪い部分に塩をかけて祈ると病気が治るといわれているので、沢山の人がお参りして全身塩まみれでした。その他もこのお寺には、文化財が多くあるようでした。人気ブログランキング新宿彷徨(その97) 文化財の多い太宗寺
Jun 19, 2026
コメント(28)

ザ・ビートルズ(The Beatles)が1966年6月30日から7月2日にかけて、東京・日本武道館で来日公演を行ってから今年は60周年だそうです。そして、ザ・ビートルズのメンバーの中で今でも現役で活躍されているポールマッカトニー(Paul McCartney)の誕生日が今日です。ということで、ウィングス時代の1974年に発表した、ジュニアーズ・ファーム(Junior's Farm)を聞いてみました。イギリス人って、農場にバカンスに行くものなんでしょうかね。イギリスの農業経営はEUの「共通農業政策(CAP)」に基づく補助金、特に「直接支払い(BPS: Basic Payment Scheme)」によって支えられてきていたそうですが、「ブレグジット(EU離脱)」に伴い、単に作物を生産するだけでは補助金は出ず、環境貢献活動を行って初めて対価が支払われるような政策になっているそうです(→→→こちら)になります。Ah, you should have seen me with the poker manI had a honey and I bet a grandJust in the nick of time I looked at his handI was talking to an EskimoSaid he was hoping for a fall of snowWhen up popped a sea lion ready to goLet's go, let's go, let's go, let's goDown to Junior's farm where I want to lay lowThe low life, high life, oh, let's goTake me down to Junior's farmTake me down, JimmyAh, at the Houses of ParliamentEverybody's talking 'bout the PresidentWe all chip in for a bag of cementOllie Hardy should have had more senseHe bought a gee-gee and he jumped the fenceAll for the sake of a couple of penceLet's go, let's go, let's go, let's goDown to Junior's farm where I want to lay lowThe low life, high life, oh, let's goTake me down to Junior's farmLet's go, let's goDown to Junior's farm where I want to lay lowThe low life, high life, oh, let's goTake me down to Junior's farmEverybody tag alongI took my bag into a grocer's storeThe price is higher than the time beforeOld man asked me why is it moreI said, you should have seen me with the poker manI had a honey and I bet a grandJust in the nick of time I looked at his handLet's go, let's go, let's go, let's goDown to Junior's farm where I want to lay low(Down to Junior's Farm)The low life, high life, oh, let's goTake me down to Junior's farm(Down to Junior's Farm)Let's go, let's goDown to Junior's farm where I want to lay lowThe low life, high life, oh, let's goTake me down to Junior's farm(Down to Junior's Farm)Everybody tag along(Down to tag along)Take me down to Junior's farmTake me backTake me backI wanna go backYeah, yeah, yeahポーカーマンと一緒にいる僕のことを見た方がよかった。僕は可愛い子ちゃんがいたし大きく賭けたよ。丁度彼の手をたところでね。エスキモーと話したよ彼は雪が降るのが楽しくて飛び跳ねるって言った。アシカへも顔を出して踊るのさ。僕が隠れていたいジュニアーズ・ファームへさあ行こう下層の暮らしでも、上流の暮らしでも、さあ行こうジュニアーズ・ファームへジミー、連れて行ってくれ国会でみんなが大統領について話し合っている。僕たちはセメント袋を買うために寄付したよ。オーリー・ハーディはもっと分別を持つべきだった、彼はお馬さんを購入したけどフェンスを飛び越えちゃった。わずかな小銭にしかならなかった。僕が隠れていたいジュニアーズ・ファームへさあ行こう下層の暮らしでも、上流の暮らしでも、さあ行こうジュニアーズ・ファームへ連れて行ってくれ僕が隠れていたいジュニアーズ・ファームへさあ行こう下層の暮らしでも、上流の暮らしでも、さあ行こうジュニアーズ・ファームへ連れて行ってくれ、みんな付き合ってくれよ食料品店へカゴを持って行った値段は前より高くなっていたじいさんが、なぜ高くなるんだと僕に尋ねた、僕は言った、ポーカーマンと一緒にいるのを見ていたかい僕は可愛い子ちゃんがいたし大きくを賭けた。丁度彼の手を見てね。僕が隠れていたいジュニアーズ・ファームへさあ行こう(ジュニアーズ・ファームへ)下層の暮らしでも、上流の暮らしでも、さあ行こうジュニアーズ・ファームへ連れて行ってくれ、(ジュニアーズ・ファームへ)僕が隠れていたいジュニアーズ・ファームへさあ行こう下層の暮らしでも、上流の暮らしでも、さあ行こうジュニアーズ・ファームへ連れて行ってくれ、(ジュニアーズ・ファームへ)みんな付き合ってくれよ(付き合ってくれよ)ジュニアーズ・ファームへ連れて行ってくれ、連れ戻してくれ連れ戻してくれ帰りたいんだイエー、イエー、イエー人気ブログランキングポール・マッカトニーの誕生日
Jun 18, 2026
コメント(16)

次のシリーズを考え中ですが、なかなか筆が進まないので、中休みで、最近食べた「孤独のグルメ」を紹介します。すき家の朝食メニューの納豆まぜのっけ定食(400円税込み)です。朝から、納豆、半熟温泉卵とオクラ、とネバネバしたものを食べると、なんとなく精力がついてような気持ちになって、今日も頑張るぞ!という気持ちになれそうな朝の定食です。たまごかけ醤油というのもついていましたが、普通の醤油とどう違うのでしょうかね。人気ブログランキングへ孤独のグルメ すき家の朝食
Jun 17, 2026
コメント(24)

光源寺から本郷通りに出た向丘二丁目交差点にあった町中華。今、町中華が人気なんでしょうね。行列ができていました。本郷通りから動坂に向かう道との駒本小学校交差点の近くにあった、駒本(こまもと)小学校同窓会で建てた開学五十周年記念碑かありました。建立した年が平成6年(2004年)とあったので、昭和29年(1954年)に駒本小学校(→→→こちら)として発足したんでしょうね。さらに動坂に向かって少し歩くと、高林寺(こうりんじ)と書かれた標識がありました。金峰山高林寺(→→→こちら)は、元々は江戸神田に位置していたのですが、慶長9年(1604年)に御茶ノ水に移転し、さらに明暦3年(1657年)に起きた明暦の大火の後に現在地に移転したお寺です。御茶ノ水時代に、境内に湧き出ていた湧水の水を徳川将軍家に献上したことがきっかけで、その地が「御茶ノ水」と呼ばれるようになったそうです。墓地内には、幕末期の蘭学者緒方洪庵の墓や明治・大正期の歌人岡麓の墓があるのですね。高林寺の方へ向かって歩いて行くと、駒本小学校の校門がありました。その隣あったのが、高林寺です。訪れた日には、檀家の皆さんの行事があったようなので、参拝は遠慮しました。本駒込界隈、歩いてみると意外と面白いものがありましたね。またこの辺り探検してみたいです。(本駒込散歩コース)【了】人気ブログランキング本駒込を楽しむ(その13) 高林寺と駒本小学校
Jun 16, 2026
コメント(28)

銭湯らしからぬクラッシックな建物の「ふくの湯」(→→→こちら)です。風呂場は2階にあるのも、ちょっと変わっていますが、観光ガイドでも紹介されている人気の銭湯のようです。以前、このブログを見ていて下さる人から、矢印と人の形がある道路標示について、見たことがないというコメントを頂いたのですが、自転車ピクトグラム と矢羽根が得かがれたこの表示は普通自転車が走るために通常の車道にガイドとして描かれる法定外表示になります。そして、駒込大観音で知られる浄土宗のお寺、光源寺(→→→こちら)にやって来ました。山門の脇にあるこの樹木。よく見れば、梅の実が生ってました。この案内板によると、蓬莱梅と呼ばれる梅の木で榛名山の麓から委嘱されてきた梅の木だそうです。境内には「西国八番 大和長谷写十一面観世音」と刻まれた石柱がありました。十一面観音とは、頭の上と正面、合わせて11のお顔を持つ観音様のことですが、江戸時代前期の豪商丸屋吉兵衛は、大和国(現・奈良県)の長谷寺に参詣した時にあった。木造十一面観音立像を拝し、「このような尊像を江戸にも勧請したい」という思いから、元禄10年(1697年)に奈良の長谷寺の写しとして木彫金箔の観音像を建立したそうです。しかし、この初代の観音像は、太平洋戦争中の昭和20年(1945年)5月24日夜の空襲で焼失してしまい、平成5年(1993年)にこの観音堂と共に観音像がさいけされました。それがにこの駒込大観音像です。総高約6メートル、ひのきの寄木木造に金箔を貼った十一面観音立像という立派な観音像です。また境内には大きな石塔がありました。側面には「庚申待百万遍講中」という文字が刻まれていました。この石塔は、文京区指定有形民俗文化財の「庚申待百万遍講中庚申塔」(→→→こちら)というものだそうです。(本駒込散歩コース)【つづく】人気ブログランキング本駒込を楽しむ(その12) 光源寺の駒込大観音
Jun 15, 2026
コメント(24)

駒込病院の敷地の中に説明板が建てられていました。東京都指定史跡「動坂遺跡」(→→→こちら)という東京都教育委員会が建てた説明板です。昭和49年、都立駒込病院の外溝工事中に貝塚が発見され、発掘調査の結果、縄文中期の住居跡と土器が出土しています。特におもりが多く出土しこのあたりでの漁労が行われていことが推測できます。また江戸時代には8代将軍・徳川吉宗が復活した鷹狩の鷹匠の屋敷があった場所です。今では、この動坂貝塚記念碑が立つのみです。この碑の下には住居跡と貝塚がそのまま保存されているそうです。しかし、縄文時代から東京に人が住んでいると思うとちょっと不思議な気がしました。(本駒込散歩コース)【つづく】人気ブログランキング本駒込を楽しむ(その11) 動坂遺跡
Jun 14, 2026
コメント(33)

駒込天祖神社の裏にあるのが、こちらの東京都立駒込病院(→→→こちら)です。そして、駒込病院に隣接したこじんまりとした公園がありました。銘板の文字は読みにくかったのですが、文京区の「駒込公園」です。豊島区にも駒込公園があるのでちょっ紛らわしいかも。遊具も沢山あるようで、近所の子供たちには有り難い公園のようでした。この先にある動坂(→→→こちら)と呼ばれている坂道を下るとJR田端駅に行けますが、駒込病院の方へ向かって本郷通りを目指します。大きな駒込病院の建物が見えました。地方独立行政法人東京都立病院機構が運営する東京都立駒込病院です。この駒込病院は「がん」と「感染症」を中心とした高度専門医療を提供する病院として知られているそうです。そんなわけで、都道府県がん診療連携拠点病院(→→→こちら)に指定されているのですね。また、理科の実験で一度は手にしたことがあるかもしれない駒込ピペットを開発したことでも知られています(→→→こちら)大きな14階建てのビルが威容を誇っていますね。近傍の駅から歩くと時間がかかるので、バスで通院できるように構内にバス停が作られているのですね。(本駒込散歩コース)【つづく】人気ブログランキング本駒込を楽しむ(その10) 東京都立駒込病院
Jun 13, 2026
コメント(20)

駒込天祖神社の境内を出てすぐの場所にある地蔵堂です。江戸時代に創建された縁結びや子育てのご利益がある縁結び子育て地蔵尊だそうです。こちらには三体の石仏が祭られていました。真ん中ににあるこちらの石仏は、縁結び子育て地蔵です。こちらの「縁結び子育て地蔵尊御縁起」によれば、地蔵尊は江戸時代正徳二年五月(西暦1712年)の創建とありました。また霊験あらたかとして参詣する者が多く、新縄にて尊像をしばり奉り、満願成就の日、その縄をほどく風習があったそうです。右側に安置されているのは、如意輪観音像です。こちらの「如意輪観世音菩薩御縁起」によると、創建は寛文十一年十月(西暦1671年)の創建とありました。そして昭和48年地蔵堂再建にあたり天祖神社境内より堂内に安置されたとありました。一番左にあるのは水子地蔵尊、昭和50年(1975年)に建てられたものだそうです。(本駒込散歩コース)【つづく】人気ブログランキング本駒込を楽しむ(その9) 縁結び子育地蔵尊
Jun 12, 2026
コメント(30)

本駒込の住宅地の中にあった鬱蒼とした林。ここが駒込名主屋敷(→→→こちら)だそうです。大阪夏の陣後豊臣方の残党としてここに亡命し、当時傳通院領であった駒込の開拓を許され名主を務めた高木家の屋敷だそうです。現在も居住中なので、見学は外観のみになるそうです。こちらにも大きな神社がありました。こちらの神社が駒込天祖神社(→→→こちら)です。ちなみにこの駒込天祖神社が駒込富士神社を兼務していて、駒込富士神社の授与品や朱印は天祖神社の方で行っているそうです。こちらの文京区教育委員会の建てた案内板がありました。江戸時代、駒込の氏神として、神明さまと呼ばれ、里人に親しまれてきた、社伝によれば、文治5年(1189)源頼朝が、奥州藤原泰衡追討の途中この地に立ち寄り、夢のお告げで松の枝に大麻(伊勢神宮のおふだ)かかっているのを見つけた。頼朝は征討のよい前触れと喜び、この地に神明(天照大神)を祭ったのが、この神社の起源といわれる。社殿は神明造り。大麻のかかっていたいた大木は神木として崇められ、さしわたし4尺(1,2m)もある大木と伝えられる(『江戸砂子』から)その後、宮守りもなく神木の根元に小さな祠を残すだけとなったが、1650年頃、堀丹後守利直によって再興された。神木は、その後枯れたという。社殿の裏に、都立駒込病院あたりにあった「鷹匠組」の寄進名が刻まれた石碑がいまも残る。境内にあった亀石。亀の姿に似ていないこともないですね。イチョウの並木か続く長い参道。秋にはイチョウの紅葉が楽しみですね。こちらには、神社が掲げた御由緒がありました。そして、社殿です。コンリート造りなのは、太平洋戦争の空襲で焼けて、さいけんしたからなんでしょうか。ご祭神は、天照大御神であります。そういえば、6月の最終日曜日には、天祖神社の夏越の大祓式があります。正月から半年の間に知らず知らずのうちに、心身についた穢を形代に託してお祓いし、茅の輪をくぐり、無病息災をお祈りするしたいものです。(本駒込散歩コース)【つづく】人気ブログランキング本駒込を楽しむ(その8) 駒込天祖神社
Jun 11, 2026
コメント(22)

こちらの駒込富士神社の境内は広々としてました。境内にはこのような高い樹木がありました。こちらは文京区保護樹木の「かや」だそうです。参拝する前には、やっばりこの手水舎で身を清めないと。しかし、柄杓に穴が開いていて、水がちゃんと汲めませんでした。こちらの富士塚の上に社殿があります。駒込富士山という名称がありました。そして、ここが富士浅間神社ということですね。この石段を登た上に鳥居がありました。結構、勾配が急です。富士塚の上にある社殿は、コンクリート造りでした。(本駒込散歩コース)【つづく】人気ブログランキング本駒込を楽しむ(その7) 駒込富士神社Part2
Jun 10, 2026
コメント(26)

本郷通り沿いにあった蕎麦屋さん。なんとなく古くからありそうな雰囲気がありました。そして、訪れたのは駒込富士神社(→→→こちら)です。鳥居の上の扁額には「富士社」とありました。天正元年(1573年)に本郷に築かれた冨士大権現(神仏習合時代の名称)が、加賀藩上屋敷の敷地となったため、寛永5年(1628年)頃、日光御成道沿いの現社地に遷座したのがこの駒込富士神社です。この駒込の富士塚は江戸時代の初期に築かれ、江戸の富士講のなかでも有名な富士塚として信仰されていたようで、文京区駒込からかなり離れた墨田区本所菊川町にあった会社からの寄進された席柱がありました。ちなみに2021年に、こちらの神社の始まりとなる文京区本郷七丁目にある「富士浅間神社」へMoMo太郎は参拝していました(→→→こちら)。こちらが、本郷にある富士浅間神社です。この小さな公園の奥に社殿がありました。この小さな社殿が、富士浅間神社。「冨士淺間大神」と刻まれた石碑もありました。この神社にも文京区教育委員会の建てた案内板がありました。案内板には、このように記されていました。かつてこの地は明治5年(1872)から昭和40年(1965)まで「本富士町(もとふじちょう)という町名であった。加賀藩本郷邸の跡地にたつ東京大学本郷キャンパスにおいて、その名残を今にとどめる赤門を入って右手に、かつて「椿山」と呼ばれる小丘があった。江戸時代、「椿山」は「富士山」「富士塚」などと呼ばれ、富士浅間神社が祀られていた。駒込富士神社(本駒込5-7-20)は、この本郷の富士浅間神社から勧請したという伝承を有し、そのことが「本富士町」という町名の由来ともなった。明治4年、本郷の富士山やその一帯は国に接収され、祀られていた富士浅間神社は旧加賀藩邸の南西一角に屋敷を構えた前田家の敷地内に移転した。前田家が昭和3年に駒場へ移転したのちは、地元の町会である本富士会(現在の本富士町会の前身)の管理下に移された。地域住民に守られるこの小さな社は、かつて本郷に「富士山」があったことを物語る唯一の場所である。文京区教育委員会平成29年3月では、明日のブログで駒込富士神社に参拝した報告を。(本駒込散歩コース)【つづく】人気ブログランキング本駒込を楽しむ(その6) 駒込富士神社
Jun 9, 2026
コメント(18)

本駒込にある吉祥寺の紹介Part2です。こちらには板碑が並んで建っていました。この板碑の並んだ奥にあったのは、経蔵でした。文京区指定有形文化財になっている建物です。第二次世界大戦で境内のほぼすべてが焼失したなか、山門と合わせて残った貴重な建物になります。江戸時代、こちらのお寺は曹洞宗の僧侶の為の学校「旃檀林(せんだんりん)」でした。その時に図書収蔵庫として使われていたのがこの経蔵です。こちらの墓碑は、二宮尊徳の墓碑になります。二宮尊徳を祀る神社は、生地の小田原(報徳二宮神社)、終焉の地・今市(報徳二宮神社)、仕法の地・栃木県真岡市(桜町二宮神社)とあります。またお墓としては、二宮尊徳の墓は栃木県日光市今市の報徳二宮神社内(→→→こちら)と、神奈川県小田原市栢山の善栄寺(→→→こちら)にあります。では、なぜここにもお墓があるのかというと、二宮尊徳の子・尊行は、今市の如来寺に仮内葬し、善栄寺には二宮尊徳の歯と遺髪を納めたものの、遺骨そのものは曾孫(ひまご)の二宮徳の代になるまで納骨せずに手元にとどめたのだとか。そして二宮徳は、吉祥寺を菩提寺と定めて、大正12年、東洋拓殖会社から南洋方面視察の旅に出発することになり、遺骨を吉祥寺に預けて出発。途中、二宮徳が船内で病死したため、吉祥寺に保管されたままになっていたのを、昭和14年当時の本郷区長らが中心となって遺骨を埋葬したのが、この二宮尊徳の墓になるんだとか。二宮尊徳と言えば、この薪を背負って本を読むこの姿。そして、ここでは木陰で涼みながら読書していました。本堂の前は、こんなに広々としています。こちらが吉祥寺の本堂。お参りさせていただきました。寺号額には「諏訪山」という山号が書かれていました。参拝を終えて元の北方向へ行こうとすると鐘堂と経蔵が見えました。こちらが、文京区指定有形文化財の経蔵です。境内にあった薄紫の花が咲いているこの樹木。こちらが「センダン」の木(→→→こちら)。ちなみに「栴檀は双葉より芳(かんば)し」ということわざがありますが、この場合はセンダンではなくビャクダン(白檀)をいうことらしいです(→→→こちら)。(本駒込散歩コース)【つづく】人気ブログランキング本駒込を楽しむ(その5) 吉祥寺Part2
Jun 8, 2026
コメント(28)
全7662件 (7662件中 1-50件目)


