診療所の窓口から 2011年2月


2011年2月 某NPO法人機関紙連載エッセイ

――診療所の窓口から――     

それにしても、と、薬名を打ちこみ終えて、久恵は思う。
こころの中に、ずっと、どす黒い感情が渦巻いているのだ。
なかなかそれをぬぐうことができない。
原因は夫だ。
昨夜、新年会で遅くなるということだった。
冷え切った体をあたためてほしかったので、風呂をわかしておいた。
大病をした直後、ということもあって、心配になって途中で、携帯に電話をした。
ところが、家の中で呼び出し音が鳴りはじめたではないか。
忘れていったのだ。
しかも、帰宅したのは、夜半過ぎ。酔いすぎていて、入浴どころの状態ではなかった。
いい大人なのだから、分別ある飲み方をしてほしい。
待っている者のために、連絡の1本くらい入れてくれてもいいのではないか、と、強烈な怒りにかられた。
久しぶりに、激しい感情の揺れがあったせいか、今日になっても、穏やかな心持ちになれない。

そのようなことを考えていると、患者さんの声が耳に入ってきた。
「冬場。肌がカサカサになって、粉をふいたようになります。かゆくて、かゆくて。困っています」、と、初老の男性。
「これは、乾燥肌です。入浴をしたときに、清潔にしようとして、ゴシゴシ、こすりすぎないでくださいね。悪化することがあります。湯あがりには、シンプルな成分の保湿剤を塗りましょうね」と、医師。
「はい。わかりました。でも、先生。私には、その心配はないです。この数年、湯船に入っていないですから」。
男性はうつむいたまま、ぼそぼそと、小さな声で続ける。
「それには理由があるのです。実は、私には娘が三人いるのですが。もう、大きくなりまして。私のことを、“汚れる”“きたない”“バイ菌”と言い、何かと邪険にするのです。父親が湯につかるのを、特に嫌がります。ですから、毎日、シャワーだけの生活を送っているのです」。
この話を聞いた久恵の胸は、憐憫の情で痛みだした。
同時に、こころの中のもやが、晴れていくのを感じていた。


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