明治の町家   姫路の春霜堂  

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細井平州 儒学者 1728-1801 124ht



平州は、享保13年、尾張国知多郡平島村に農家に生まれました。幼年から学問に励み、名古屋、京都で遊学の後、17歳で中西淡淵に師事。18歳のとき長崎へ行き3年間にわたって中国語を学びました。          
師の勧めにより24歳で江戸へ出て、私塾「嬰鳴館」を開き、多くの人材を育てると共に中国の古い書物を研究し、学者として知られます。                 

実学を重んじ、経世済民を目的とした教えは、全国各地の大名から一般庶民まで幅広い層の心をとらえ、各地の藩の賓師として迎えられました。        

明和元年、平州が37歳のとき米沢藩の藩主となる当時14歳の上杉鷹山の師として迎えられ、平州は全力を注いで教育にあたりました。17歳で藩主になった鷹山は、平州の教えを実行して、人づくりを通して農業や産業を振興し、窮乏を極めていた藩財政を一代で立て直し、名君とうたわれました。平州と鷹山の終生かわらぬ師弟の交わりは、現在も語り継がれています。                  
安永9年尾張藩主徳川宗睦の侍講となり、また、尾張藩校の初代督学となって 藩学の振興につとめました。さらに藩内各地で廻村講話を開き庶民教育にも務めました。                                       

享和元年、江戸で亡くなり、墓は浅草の天嶽院にあります。                                
平州の教えは、幕末の吉田松陰、西郷隆盛らにも大きな影響を与えたと言われ、内村鑑三は、代表的日本人の一人として上杉鷹山を取り上げるとともに、その師、細井平州を当代最大の学者として紹介しています。

平州には次のような言葉が残されています。

「平生躬行正しと申す内にも生まれつき窮屈片気なる人は人の師には致し難し。人の子を教育するは菊好きの菊を作る様にはすまじく、百姓の菜大根をつくる様にすべきこと。百姓の菜大根を作るには一本一株も大切にし、上出来も、へぼも、よきも、わるきも、食用にたてること。知愚、才不才、それぞれ畢竟よき人にさえできれば宜し。」

いつも正しく実行する人でも、偏屈な人は人間を教育する師にさせるべきではない。菊作りの人は、とかく自分の好みに合うように丹精して特殊な花を咲かせ、自分の気に入らんものは全部捨ててしまう。すなわち名人や特別な者を教育する方法で、菜っ葉大根を作る者はこれに反してどんなものでも良い。大小不揃いそんなことはどうでもよい。一本一本を大切にし、うまく作って食えさえすればよい。これが大衆的な意味では真の教育であるんだと平州は説いている。

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