明治の町家   姫路の春霜堂  

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皇女和宮 悲劇の皇女 1846-1878 3914ht



6歳の時に、有栖川宮熾仁親王との間に婚約が整いました。しかし、和宮15歳の時、幕府から朝廷に対して、「将軍家茂へ和宮の降嫁を請う」、と言う執拗な申し出があり、これには、孝明天皇も難色を示しましたのですが、結局は抗しきれず、承諾するに至りました。

実は和宮同様、将軍家茂にも婚約者が居たのです。勿論、これも白紙に戻されました。

1861年、お輿入れの長い長い行列(50km)は、中仙道を江戸へ下って行きました。
東海道ではなく中仙道にしたのは、この縁組の反対派が、和宮奪回を企んでいると言う噂もあり、より危険性の少ない中仙道にしたのです。

空前絶後の行列で、総費用は今のお金にして150億円。ともかく、家茂も和宮も病弱だったらしいですが、同い年の二人には夫婦愛が芽生え仲睦まじく、とりわけ、家茂は宮を理解し大事にしたようです。

当時の情勢が情勢ですから、将軍とて江戸城に安穏として居られる分けもなく、江戸から京大阪へと何度も往復されました。初めて義兄たる天皇に拝謁するべく京へ赴いたのは、新婚間もない17歳の時で江戸から海路を取りました。

この時期に将軍と天皇が会うという重責は大変で、将軍の上洛は200年以上も無かったほどでした。
それが再び、三たびと重なって、その疲れか家茂は大阪城で急死してしまったのです、享年21歳。 
和宮と暮らしたのは実質で2年くらい、子供には恵まれませんでした。

以後、和宮は静寛院と称する事となります。そして、その後すぐに、兄の孝明天皇も急死します。36歳、天然痘と言われていますが、将軍と同じく、心身の疲労に耐えられなかったのだろうと思います。

こうして、16歳の明治天皇が即位します。ここで和宮が降嫁した意味は無くなってしまいます。

その悲しみも癒えぬままに、1868年正月3日、官軍と幕府軍の雌雄を決したとも言える「鳥羽伏見の戦い」、が勃発します。幕府軍は数の上では遥かに上回っていましたが、完敗でした。 こうして、官軍の錦の御旗は益々輝く事になります。

ともかく、この前後和宮が輿入れした時には、武家と公家の奥女中たちの間で、しょっちゅう揉め事があったようです。 

1868年10月、明治天皇は江戸城に入り皇居となさいました。そして江戸も東京と改められました。
静寛院は翌年、京都に帰っていますが、数年後には又、東京に来ています。そして病を得て箱根で療養中に亡くなったとされています。32歳でした。ご遺体は遺言の通り、芝増上寺の家茂の側に葬られました。


春霜堂には、その皇女和宮輿入れの行列が中仙道を行く様子が描かれた当時の版画が残されています。

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