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昨日、担当番組の番組収録がありました。内容は、マジック(手品)を2~3ネタ見た後、出演者が誰でも出来る簡単マジックを習うという、ありがちな企画ものでした。できるだけ、出演者の素のリアクションを撮りたいと、この企画に踏み切ったのですが、この収録で、テンションが上がったのは、出演者よりむしろスタッフの方でした。その理由は、マジックというのは、撮影の仕方によってネタが完全にばれてしまう可能性が大きいので、リハーサルの時にスタッフだけには全て種明かしをしてくれるという楽しさがあったからです。種明かしを見せてもらうと、「なんだそんなことか・・」ということばかり、スタッフは収録を前にして大いに盛り上がったのです。種明かしを知った上で、マジックをみると、マジックうまい下手は、ネタ、テクニックより、人の心理をどう操るかがポイントになっているということがわかりました。右手にネタが隠されているときは、あえて、左手で怪しい動きをしそちらに注意を向けたり、ポケットからネタを出すときは必ず、トークで笑いをとって気をそらせたりと、マジシャンは人の目をごまかすことに全精力をつぎ込んでいるのです。例えば、財布を開けた週間、大きな音がする仕掛けをしておいて、観客がびっくりしたときにポケットからモノを出して、あたかもそれが財布から出てきたようにみせたり、人を客席から呼び出し、お客さんの紹介をし、観客の目がその人に向いているときに、自分の手にネタを仕込んだりと見事に注意はそらされてしまいます。この収録で、マジックを通じて人の注意力というものの面白さを改めて感じることが出来ました。人は、大きな出来事、注目点があると、そこに集中してしまうために、他の場所を見逃してしまうという習性があるようです。誰かが大きな失敗をしたとき、人の注目はその人に集まり、実はその影で起こった数多くのミスは見逃している場合も良くあります。交通事故や、火事が起こった現場で財布のスリにあっても、家に帰るまで気付かなかったりもします。こう考えると、大きな、出来事、人が必ず注目することが起こったときこそ、その周りには必ず、落とし穴があるということが言え、それと同時に、人がが見ていないものを発見できるチャンスであるとも言えるのです。私は、この心理学のエンターテイメント、マジックを演じるスタッフの立場を体験することによって、面白い目線を学べた様な気がします。肝心なところは人が見逃すようなところに存在することが多くあり、そこを見るためには、場合によっては天邪鬼となり、人が見ない場所に焦点を当てることも必要なのではないかと思えるようになったのです。人間関係で悩むとき、社会の中でおかしいなと感じたとき、実は人が注目したくなるポイントとは全く違う所にその種明かしは存在するのかも知れません。
Feb 9, 2003
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昨日、自分の担当とは別の番組の若手スタッフと飲みに行きましたまたま、仕事が終わった時間が同じ頃だったので、誘い合わせたわけでもなく「一杯行こうか」ののりで安い居酒屋へと向かったのです。そのスタッフの担当番組ディレクターはその日は出張でいなかったと言うこともあり、少し早い目に終われたとの事でした。飲み始めると、当然のように、そのスタッフの上司に当たるディレクターの話題になりました。いい人だけど、真面目すぎるので、仕事時間が普通の番組の倍はかかると言う話や、細かいことに神経質すぎるので、下のものとしてはストレスがたまるというような、悪口といえば悪口、愚痴といえば愚痴と言うような内容になってきたのです。同じ立場の私が聞くととても複雑でした。いいかげんな性格の自分としては、「真面目すぎるのはこの業界には合わないで」と言う言葉がのどまで出かかったのですが、自分が同じように若手の前で別のディレクターから批判されることを考えると、これはやってはいけない行為だという気持ちが生まれ、あわてて口をふさぎましたした。私のほかは全員、若手のメンバーだったため、悪口を言うどころか逆に、真面目を絵に書いたような、自分とは正反対の、神経質で細かい人間を、肯定しなければいけない立場にたたされたのです。色々と冷静に、自分のことを考えずに、そのディレクターを見てみると、私から比べるとかなり、ひたむきに仕事に取り組んでいることは確かです。そして、よく考えてみると、私が馬鹿を言いながら酔っ払っている間も、仕事を続けている彼を、否定することは、私のいいかげんさを言い訳する、大人げのない行為に他ならないことだと思えてきたのです。私自身は、細かいことよりも、世間一般に真面目と呼ばれる人がもっていない、臨機応変な対応能力と、瞬発力を持っているという自信とプライドの元に仕事をしています。それを、誤字、脱字、精算の計算間違いで、全てを評価されることは非常に心外なことです。同じように、正確さやこまやかさ、ひたむきな仕事に対する姿勢を自分のプライドにしている人間を、マイナス面である、融通の効かない点や、仕事の時間の長さ、要領の悪さをとって、評価をするのは全くのナンセンスなことなのです。いいかげんな人間は、真面目な人間を頭から否定し、逆に真面目な人間はいいかげんな人間を否定するという傾向はどの社会にもあることだと思います。おそらくその人を肯定すると、自分そのものが否定されるような気がして不安になるというのが一番の理由です。愚痴を言う若手スタッフを前にして、いつもは口の減らない私が、今回ばかりは少し考え込んでしまいしました。人の個性を肯定することが、自分の否定になってしまう・・・・自分の個性を否定してまで、彼を褒める必要があるんだろうか・・広い視野で考えると、色んな個性があるからこそ組織は成り立ちそれぞれのポジションが決まると言えるのですが、なかなか自分の個性に対するプライドが邪魔をして、考えは狭くなってしまうものです。本当なら自分に必要なパートナーは自分にないものを持った人であるのに関わらず、自分にないものを持っている人の短所を取り上げ否定したくなっていた自分自身が、つくづく嫌になってきました。それと同時に、自分にない個性を素晴らしいと思う感情がどれだけ難しく、そして大切なことなのかに初めて気付いたのです。口では、あいつは素晴らしいといえても、本心から、真面目が一番几帳面が一番と思えるかどうかと言えばそれは疑問です。日ごろから、若手に偉そうに人間関係について語っている自分がまだまだ子供で、未熟な精神を持っているかを痛切に感じさせられました。一呼吸を置き、私は若手スタッフにこう言いました。「真面目、几帳面な先輩も大変やけど、だからこそ、救われたこともあるはずやで・・・僕と仕事していたらそれはそれで、いろんな大変なことがあるはずや、とにかく完璧な人間はおらんし、その人と仕事せなあかんねやったら、いい面を見ていったらいいんちゃう?色んな人と仕事してたら、僕らの立場になったとき、幅が出来るんやと思うで」なんの解決にも、アドバイスにもなっていないありきたりの言葉、そこにはもやもやと、自分のふがいなさを感じながら焼酎のお湯割りの3杯目を注文する私がいました。
Feb 8, 2003
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今朝、社内の風景の中に、プロデューサー同士が小さな声で、会社の体制について話し合っている姿がありました。テレビ局の出資会社である我が社は、人事異動の度に役員が変り、毎回、社内の体制もころころと変るのです。普通の上司が来れば問題はないのですが、本社で出世争いから外れたような人が役員になると、世間への仕返しのような無理な締め付け体制をとる場合があるのです。今回の、改革がそういったものだそうです。サラリーマン社会に入ったからにはそういう覚悟がないわけではありませんし、リストラが当たり前の世の中で、上司を選べるような環境があるはずはないと私自身はそう思っていました。しかし、どうやら事態はそうとう深刻な様子でした。プロデューサーが話していた内容は、テレビの制作に適さない環境に社内がどんどん変っていくだろうということだったのです。ディレクターのほとんどは、社内の体制より、自分の周りを一番に考えます。良い作品を作りたいだけの、職人が多いのです。おそらく、みんなで会社に対して組合を作るとか、体制への文句を言うというようなことに関しては、どの業界よりもまとまりのない集団であると思います。そのやり取りを聞いていて、私は、ふとある大工さんを取材したときのことを思い出しました。大工歴40年の棟梁は見習い大工にこういって聞かせていたのです「仕事をするときに一番に考えなければいけないのは足場だよ、いくらまっすぐに釘を打ち込んでも、足場がいがんでいたら、釘はまっすぐには立たんから・・・」私はこの話を聞いて帰ったときは、「やはり机の周りはきちんと整理しておかないと仕事ははかどらないんだな」と単純にそう感じ、机の整理をしたことを覚えています。しかし今、その話を思い返すと、単に棟梁はその話を整理整頓のために言っていたのではないような気がしてきたのです。足場とは自分の身を置く環境のことなんだ・・・・なんでそのときにそんなことに気がつかなかったのかと自分が恥ずかしくなりました。何をするのも、その行動を起こす環境をしっかりと作ってからはじめないと、自分のやりたいことが出来ないと、そう言いたかったに違いないのです。勉強をするにも、仕事をはじめるにも、子供を教育するにも、全て足場を作ることが大切です。良い足場の上に良い建物が立つと言うことと同じで、良い環境の元に人は育ち、人はいい仕事が出来るということを改めて考えさせらました。ついつい人は、今自分がおかれている環境の改善は後回しにし、行動についてを優先させてしまうものです。「しかたないから」「こういうものだから」と文句をいいながら良い行動がとれずにいることがあるものです。たとえ環境が少ししか変らずとも、その努力はしなくてはいけないなと、プロデューサー同士の社内の環境についての会話を聞きながらそう感じさせられたのです。会社の体制を変えるという事、組合を作って、規則を変えるという事は難しいことかも知れません。しかし、その体制の中で、いい仕事ができるようなしっかりとした足場を作れるよう、同僚たちとコミュニケーションをとることは、大切なことだと、そう考えさせられました。自分も会社の一員、サラリーマンなんだと言うことを改めて、実感させられた、どんな会社にもありがちな、何気ない朝の出来事でした。
Feb 5, 2003
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今年新入社員として入る、学生が今、研修でわが社に来ているのですが、早速、若手の社員は歓迎の新入生の「いじり」をはじめています。誰に似てるだの、服装がどうだの、喋り方がどうだのと、いろいろな部分を攻めて、笑いのネタにしています。「いじり」とはお笑い用語で、ボケてもいない人やまた、その人のが狙っている笑いとは全く違う部分で笑いを取ると言う方法です。これは一見、「ツッコミ」に見えるかも知れませんが、信頼感の中で生まれるボケ、ツッコミとは、全く違い、どちらかと言うと限りなくいじめに近い、笑いのとり方なのです。芸人は、お客さんをいじるというテクニックを良く使います。キャラクターの面白い人物を客席からピックアップし、その人をけなすことによって周りを笑わすのです。「お客さん、松阪慶子に似てますね・・あっ間違えたよく見たら、松阪牛やった・・・」人がけなされているのを見て笑うという、人本来がもつ残酷な心を刺激して笑いを取る、かなり危険を伴うテクニックですが、笑いのテクニックとしては、ボケ、ツッコミよりも確かなものなのです。いじりはアメリカのコメディショーで必ず一度はこの手法が使われるほどベーシックなものです。この笑いを理解できない人も多く、いじめだと、嫌悪感を持つ人も多いと思いますが、これは世界共通のれっきとしたお笑い芸なのです。よく自虐的な笑いを自分でとる人もいます。そういう人に言わせると、自分がいじられるポイントをわざわざ作って、みんなの犠牲となって周りに笑いをもたらすと言う行為も実際これをやってみると、かなりの快感があるそうなのです。芯の取れるタレントであるつるべさんは、笑っていいともではいじられ役を買って出ています。いじられ方もうまくこなす、つるべさんからは、どんな笑いでも受けて立つという器の大きさが感じられます。いじるという芸の基本は、いじられる人は常に同じ人であってはいけないということと、いじってはいけないタイプの人を見極めるということす。これを熟知していないと笑いは成立しません。逆にいじられる立場から考えると、いじられ方の上手な人は、人から愛されやすくなるという事を知らなくてはいけません。いじると言う行為をいじめられたと感じて、機嫌をわるくする人は、笑いのない本当のいじめを受けやすい人間であったりする場合がよくあるのです。うまくいじられる、一見プライドを捨てたかのような犠牲の心が、人に不快感を与えるはずはありません。いじる人間の思いやり、いじられる人間の器の大きさ、この二つのハーモニーが心地よい空気を生み出すのだと思います。私は思います。年下からうまくいじられるような上司になりたいと・・・・おそらくそれは、ボケてツッコまれるということよりも、もっと難しいことだと思います。ナメめられずにイジらせる、このテクニックこそが、究極のお笑い芸なのかもしれません・・・
Feb 4, 2003
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今朝、若手のディレクターが周りのみんなから非難を浴びている場面に遭遇しました。理由を聞いてみるとそれは、「オチのない話をした」と言うことでした。地方出身の彼はいつもそういう攻められかたをすると逆切れして、「そこが関西人の嫌なところだ、別に笑わそうとしていったんじゃない」と言います。しかし、関西人がよく言う「オチのない話」とは、笑わすための話が面白くないとか、落語のようにうまく洒落が効いていなかったというものとは少しニュアンスが違うものだと思います。「オチのない話」とは全国共通で言うところの「つまらない話」なのです。例えば、交通事故を目の前で見た時の状況の話や、本当においしい料理店を見つけてそれを報告しているとき、周りの人はオチをを求めたりはしません。しかし、日常の何気ない風景を淡々と語られた時には、それが話の最中であっても、「オチは?」と問い掛けたくなるものです。私はこう考えます。お客さんに料理を振舞う際、新鮮な、おいしい素材、珍しい食材が手に入ったときは、全く調理せずそのまま出したとしても、お客さんは満足します。しかし、スーパーで買ってきたありきたりの食材を、お皿に盛り付けただけでテーブルに出されたら、お客さんはなんと思うでしょうか、新鮮素材や珍しい食材を必死になって探し出し、そのまま手を加えずに出すと言うもてなしが報道であるなら、スーパーで買った何気ない食材を使ってアイデア料理を作り出すというもてなし法は、バラエティーの分野になると思います。そうそう毎日、楽しい、変ったことは目の前には起こりません。そんな日常の中、人の興味を惹く話(オチのある話)をするためには、多かれ少なかれ、バラエティー的な演出が必要だと言うことになるのです。バラエティーのVTRの組み立ては、まずネタを切ると言う作業から入ります。普通の素材でも切り口によっては面白いと感じれる場所が必ずどこかに存在するからです。切り口が決まったらそこをまず出口に設定します。これが俗に言う「オチ」と言われる部分になるのです。その出口にどうやってたどり着くかを考えながら、その内容を決定します。ここではその内容が出口に向かっていると言うことが大切なポイントとなります。全てが決まれば、あとは興味を一番惹くような入り口を設定、話の構成が決まった段階で、VTRを作り始めるのです。よく話しにオチがないと言われる人の会話は、素材が切れていないことが多いと思います。例えば電車内でおじさんが女子高生に説教をしていたシーンに遭遇したとします。これをそのまま話すと、普通の話しですが。その内容の中に、実は自分の娘に対するいつもはいえない不満を関係のない女子高生にぶつけていたとか、いい話だったけど最終的には口説いているような口調になっていたとか、真剣に説教するおじさんの鼻からは一本長い鼻毛が出ていて女子高生はそこばかり見ていたというような切り口があれば、話はそこに向かって進めていけるのですネタを見つけてそれを人に喋るときは、当然そのネタに面白さを感じたからこそ話題にするものです。その面白い部分は何かという切り口をまず確認してから喋ると言うことが、「オチのない話」をしないための大切な部分なのかもしれません。こう言いながらも、私自身、オチのない話をしていることはあります。切り口、出口が決まらないまま話をはじめ、話をしながら出口を探すのですが、結局見つからないまま終わってしまったりもするのです。そんな反省も踏まえながら、「オチのない話」をする人に対しては、出来るだけ頭ごなしに攻めず、ツッコミや合の手でできるだけフォローできるようにと心がけています。
Feb 3, 2003
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昨日、あるADに「編集をしてみたいか?」と言う質問をしたところ目を輝かせて「えっ、いいんですか」という返事が帰ってきました。やはりADにとって、雑用ではない仕事をさせてもらうことは、かなりうれしいことなんだなということに改めて気付き、たまには、こういうチャンスもないと精神的に辛いだろうと、思い切って自分の管理の元で、彼に編集を任せてみました。1時間ごとに、画のつなぎを確認するという、指導を行いながらの作業となったのでやはり、普通の数倍時間はかかり、気がつくと3分の1も終わっていないのに時間は夜の11時になってしまいました。普通なら全てが終わっていてもおかしくない時間なのですが、ここは自分が言い出したことだと、朝まで付き合う心がまえをしていたのです。ところが12時を過ぎた頃、なんとそのADは、体調が良くないので帰らせて欲しいと言い出したのです。私は自分の耳を疑いました・・本当に体調は良くなかったとは思いますが、そんなにいとも簡単に、チャンスを無駄にする考えは自分にはなかったからです。ひとり残され、後の編集を深夜続けながら色んなことを考えました「ここで腹を立てるほうがおかしいのか、しかってあげた方が良かったのか・・・本当はそんなにやる気はなかったのに、私の一声を断リきれなかったのか・・・・彼にとっては迷惑な話だったんではないか・・・」もう後輩の指導なんかするもんかという思いが頭に浮かんだときそれを打ち消すかのように高校時代のある出来事が思い出されました。高校のボクシング部だった私は10人ほどの部員と道具を買いに街に出ていました。そのときOBの先輩にばったりと出会ったのです。あいさつをすると先輩の第一声は「飯は食ったか?」でした・・「まだです。」というと先輩は、「じゃあ中華でも食べといで」と言って財布を開き、ありったけの千円札を私に握らしたのです。その先輩は、社会人になって一年目、、その上、妻子もち、お金に余裕があったはずはありません。おそらく、その先輩は、財布の中身を全部出したのだと思います。「すいません」という私たちに、「僕も学生のときには、先輩によくおごってもらってん、礼はいらんから君らがOBになったら、後輩に同じことしたってや」そういいながら先輩はその場を去りました。多分、その先輩も、その上の先輩におごってもらったとき同じ言葉をかけられたのだと思います。テレビ業界に入って、今、人に教えれるほどの立場でいられるのは、先輩ディレクターの方々の指導があったからこそなんだ、その高校時代の思い出が、私の気持ちを変えました。後輩を指導して、その後輩から礼を言ってもらおうとか感謝してもらおうと思ってはダメなんだと、気がついたのです。今、後輩に指導することは、昔、先輩にしてもらった事への恩返しなんだという体育会系の頃に学んだ精神がよみがえりました。お陰で、明日になって、彼が会社に出てきたら、なんのためらいもなく「また体調のいい日に頑張って朝までやろうな」と言ってやれる気持ちになれました。みんな未熟な時期に、色んな人に歯がゆい気持ちをさせているんだ、ここで怒るときっと彼は次の世代に同じ怒り方をする。避けることのできない事実として、近い将来、私は現役ディレクターを引退します。そのとき少しでも多く、自分の遺伝子をテレビ業界に残せるよう、後輩への指導も面倒くさがらずにしなければいけないとつくづく感じさえられました。
Feb 2, 2003
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私たちの仕事場では、常に、感性のトレーニングの為の、ボケ合戦が行われます。仕事中でも、急にネタふりがあり、それに対して普通の返しをすると、怒られる事さえあるのです。大抵、ボケるのは若手の仕事で、ベテランがツッコミに回ります。若手のいいボケに対して 年上のディレクターがいいツッコミをすることでそこに信頼感が生まれるのです。ツッコミは簡単そうに見えてかなりのテクニックがいる作業です。プロの料理店で味を盗み、家庭料理に生かすように、タレントのツッコミを学ぶことで、日常の会話を活性化することが出来れば、人間関係をより円滑にし、毎日を豊かに生きるきっかけになるのです。テレビでやっているボケツッコミのレシピを自分流にアレンジすることで、毎日の人との会話は大きく変ります。ツッコミには次のようなパターンがあります。怒り系のツッコミ。「なんでやねん」「いいかげんにしろ」「おかしいやろ」などで一番オーソドックスなものです。人に失礼なことを言った時や、天然系のボケに使うと効果的です。このときボケの人間は、なぜツッコまれているかわからないように装うのがいいとされています。ダウンタウンの浜田や吉本新喜劇の石田靖が得意とするツッコミです。頭を張ったり、どついたりというアクションと組み合わせることも出来ます。言い聞かせ系のツッコミ。これはナインティナインの矢部がよく使う手法です。「ちょっとまってください」「違うでしょ良く考えて下さい」「しっかりしてください」「ちゃんとしましょうよ」というようにボケた人間に対して反省を促すように、低いテンションでツッコむという形です。ここでは敬語で突っ込むということがポイントになります。調子に乗った人や、スベった感の強いボケには効果があります。明石家さんまが村上しょうじや間寛平に対してよく使う事があります。例え系ツッコミ。「お前はサルか!」「ボケ老人やないねんから」「お前は安モンのホストか」というようにそのボケの状況に応じて、他のモノに例えるというツッコミです。これはツッコむ側のボキャブラリーの多さが必要となるので、かなりの高等テクニックであるともいえますしぐさの面白さや、行動、服装のおかしさをツッコむ時に使います吉本では、中川家の礼二や和泉修、大御所ではタモリが比較的よく使います。のりツッコミ。素人で面白いという人はこの方法を良く使います。「そうそう」とある程度ボケを肯定した後、強い目の怒り系ツッコミを返すことで笑いを誘うという方法です。ここでのポイントは、乗っているときとツッコミの時のギャップが大きければ大きいほど笑いは大きくなります。自分に対して否定的なことを言われたときや、小道具がある場合によく使います。キレ系ツッコミ。怒り系の応用系ですが、自分がいじめられたような状況に追いやられたときや、強く否定されたとき、「できるか!」や「ふざけんな」、「笑い事ちゃうわ」「しゃれならんわ」と完全に喧嘩ごしになるツッコミかたです。上島竜平、極楽トンボの加藤などはこのツッコみ方の面白さを突き詰めたタレントと言えるでしょう。状況説明型ツッコミ。状況があまりにも普通でなかったとき、短い単語で感嘆する突っ込み方です。これは人に対してではなくその人が招いた状況に対してできるだけ早くみたままを言葉にすることがポイントです。例としては「でかっ」「長っ」「キツっ」などがあげられます。スカシ系ツッコミ。これは、通常のツッコミと異なり、タイミングをしくじると、空気をこわすことにもなりかねない、最後の手段的なテクニックです。あまりに場違いなボケや、的をはずしたボケに対して無視したり、「やってしもた、知らんで」と言って置き去りにする方法です。明石家さんまはこの方法をうまく使っているタレントです。また、トミーズ雅が相方の健に対してよくこの方法を使います。チャチャ入れ系ツッコミ。これもかなりタイミングの難しいツッコミの一つですが、人が話をしている最中に、あげあしを取った形で、話に割って入る、テクニックです。「何回もおんなじこと言わんでええねん」「いらんこと言わんでええねん」など、長い話に、聞いている人が飽きてきたときを見計らって、あげあしを取ります。場合によっては、「その話、長くなる?」と言って話を止めさせてしまうこともあります。ロンドンブーツ1号2号のあつしがこのタイミングの取り方を熟知したタレントと言えます。関西人は昔から、無意識のうちにこれらのツッコミを使い分けています。これらのテクニックを体で覚えているのです。一つの話術、学問として、これを身につけることは、人間関係の幅を大きくすることになると思います。理屈でいくら理解しても、実践がないと勘は鈍ります。上に挙げたものも組み合わせと、応用の仕方で、全く違う面白さを生むことがあります。私自身も、よくツッコミを間違え、面白いボケを何度もつぶしてしまいます。たかがツッコミですが、日々それを意識することで、人に対しての思いやりや、愛を学ぶことも出来るのです。人を面白く引き立てる、周りを面白く演出すると言う話術は、私にとって人生の大きな課題であると自覚し、日々勉強していきたいと思っています。
Feb 1, 2003
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今日の会議の中で、こんな反省点が指摘されました。「なぞりスーパーが少なかったね」なぞりスーパーとはタレントが喋った言葉と同じ事を文字にして同時にスーパーとして画面に入れるという演出です。私がADの頃は、スーパーは白黒反転した文字を別カメラで撮り、合成するという手法で出されていたので、予算的にも手間的にもそういう演出は不可能だったのです。しかし、今はコンピューターによる打ち込みでいとも簡単に画面に出せるようになったので、それが当たり前のように行われるようになりました。以前は、スーパーは画面を汚すもの、見る人の気をそらすものと言われ、必要以上のスーパーを出すということはやってはいけないものとされていましたが今は違います。その原因には「視聴者の進化」ということが大きな要素としてあげられます。昭和の時代、テレビというものは目で見て、それがあたかも目の前で行われていることのように感じることで、その内容を理解し、情報として頭の中に取り入れるモノだったのに比べて、今の時代の視聴者は、テレビというものが情報を取り込む一つの機械であり、目で見ている現実の情景とは全く別モノであると認識できるようになってきたのです。昔のように、できるだけ目で見ているモノに近づけた映像演出より今は、テレビという箱に映し出される情報画面を作る演出の方が必要なのです。今の番組は、なぞりスーパーに限らず、今、何をやっているのかを画面隅に表示するサイドスパーが出しっぱなしになることも当たり前のようになっていますし、番組によっては、状況を説明したスーパーやタレントの心理状態を示すスーパーも盛んに出されるようになっています。これは一見、視聴者が一生懸命見なくても、番組を理解できるようにするための演出と思えますが、逆にいうと、一定時間内に読まなくてはいけない情報は何十倍にも増えているということなのです。画を見て、音を聞き、その上、字も読む、それを短時間の間に頭の中に入れることで、実際の情景よりもインパクトのあるものとして記憶に残せるようにと、視聴者が進化した結果、こういう演出が必要とされてきたのかも知れません。情報化社会の中、視聴者は無意識にどんどん進化しています。消費者も同じです、当然それに応じて、全ての供給者も進化が必要となるのです。昔の考え方を正しいものとして残す努力と、進化していく向上心、時代を超えて生きていくためにはこのバランスを取っていかなければ、置き去りにされます。頭では、理解しながらも、いつも気持ちはついていきません。どうしても、昔、自分が学んだものを正しいと言い張りたくなるものです。オヤジと呼ばれないよう、古い考え方に固執しないよう、日々勉強だと自分にいつも言い聞かせています。
Jan 31, 2003
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昨日放送された、担当番組の視聴率は2・2、深夜番組とはいえ褒められない数字です。単純に計算すると、関西エリアだけで22万人の人が番組を見たということになるのですが、最低でも3はないと番組的には成功とはいえません。低視聴率に落ち込んだときはいつも、視聴者がどんな気持ちで番組を見ているのかを想像します。きっと楽しみにしてくれている人もいるんだと思い、番組を終わらせないためにと気持ちを引き締めるのです。視聴率表を見るたびに私はいつも思います。人と人は、実際に会って、知り合ったり、友達になったり、時には恋愛関係になったり、一生忘れることの出来ないくらいに深い関わりになる以外に、さまざまなネットワークを通じて関わりあっているんだと・・・・何の気なしに手にした雑誌にも作者がいて、人に何かを伝えようとしている。そして偶然にもそれを手にした私は、その雑誌を通じて見たこともない作者と関わりあっている。そう考えると、自分の周りに数多くの人の影が見えてくるのです。昼に買ったコンビニのおにぎり、ここにも味の開発をした人や、実際に機械を操作した人、運んだ人、店頭に並べた人がいます。タバコにも、ライターにも、パソコンでもそうです。生きていればそれだけで、何万人、何十万人の人と実は関わりあっているのです。今朝、電車内で前の席に座った人も、一度も喋ったことはないけれど、もしかすると何らかの形で関わりあっているかも知れません。街で自分の担当番組の話題をしている女子高生を見かけると、つい、声をかけてしまいそうになります。当然、変なおじさんと思われるので、実際に声をかけることはありませんが、何かうれしい気持ちになるものです。取材でパンストを開発している、男性にインタビューしたことがありましたが、その人は、自分の開発したパンストをはいている女性の足を見るとついその女性が他人ではないような気がしてしまうと言っていました。こう考えると、全ての人に親近感を感じます。身近などんなモノにもすべて人が関わっている。労働の喜びは、モノを通じて人と触れ合うことで、自分が孤独ではないということを確認できる喜びなのかもしれません。よりいい作物を心を込めて作っている農業の人たちも、私たちの仕事も、同じ事なんだと感じることで、視聴率というものをもう少し違う目線から見ていこうと、あまり良くなかった担当番組の視聴率表を見ながら、そう考えていました。
Jan 30, 2003
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ADという仕事を一般的にイメージすると誰もが、厳しく、ディレクターからのいじめから耐えなくてはいけない、無理難題を押し付けられる仕事と思うはずです。しかし今のADの仕事は、時間拘束の長さではおそらく他の仕事と比べてもきついものだと思いますが、それ以外では割合、精神的な苦痛も少なくなり、楽になってきていると思います。こういう話をするとオヤジの説教とけむたがられるとは思いますが私たちがADの時代は、かなり理不尽ないじめが当たり前のように行われていましたし、失敗に対しては手をあげられることも少なくありませんでした。今のADとは待遇が明らかに違います。時代も違いますし、そのやり方が正解だとは、全く思わないのですが、その辛い思い、痛い思いなしに今の自分があるかどうかと考えるとそれは疑問なのです。人は、辛い思い、痛い思いを知ると、その経験から、次はそうはならないでおこうという自己防衛本能が働き、そういう状態を回避する能力が自然と身についたり、痛い思いをした精神は痛みに耐えるように強くなるのではないかと思うのです失敗も、反省して、もう一度考え直したから、なくなっていったのではなく、体が覚えていったと言う方が正しいような気がします。こういう書き方をすると、体罰を推進しているように感じられるかもしれませんが、そうではありません。ただ、風邪を引くと免疫がつき同じウイルスには侵されなかったり、骨折した部分は折れにくくなったりするように、精神的な痛みは、能力をつけるためには、必要不可欠なものなのかもしれないと思うのです。筋力トレーニングの基本は、負荷をかけ筋肉に傷をつけその後に、たんぱく質をたっぷりと取ることで筋肉を育てることといいます。負荷がかかることによって骨や腱が痛まないように、その力に耐えうる能力が備わるのです。こういうことから考えると、上司から部下へのの嫌がらせは、決して肯定できるものではありませんが、それを受ける側からいうと、結果的に成長を促すための大切な負荷であるとも言えるのです。ストレスは万病の元といわれますが、適度のストレスがないと、精神は鍛えられません。私がADの頃に受けた、教育的ハラスメントは昔の体育会系がやっていたうさぎ跳びのように、必要以上の負荷であったとは思います。もちろん、これから育つ若い世代に、そういった、理不尽なストレスを与えるつもりはありませんが、ストレスにつぶれそうになっているADにはそれが成長に必要なモノだという観念は伝えていかなければいけないとは思っています。
Jan 29, 2003
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先日、自分のペースでしか仕事をしないADに先輩ディレクターが説教をしているところを隣の席にたっていた私は、その内容を何気なく聞いてしまいました。面白いことに、そのディレクターの話の中には、仕事の具体例は一切出てこず、全てがサッカーの話に置き換えたものでした。自分ひとりでゴール前までボールを持っていけると思っても、あえてパスを出さなくてはいけないこともある。パスを出して他の選手にゴールをさせることの出来る選手の方が本場のヨーロッパでは評価されている・・・・・人は、直接的に話を聞くよりその話を何か別のモノにに置き換えられたときの方がスムーズに心に入るのではないかと、その話を聞いて思いました。確かに結婚式のスピーチでも、普通に教訓を言うより、何かに置き換えているモノの方が、いいスピーチという評価を受けています。人生をマラソンに例えたり、恋愛を競馬などのギャンブルに例える人もいます。また、男性が女性を口説くときに「エッチしよう」という人は少なく、ほとんどが遠まわしに、間接的にその気持ちを表現しています。どうして人は、モノに例えた表現に対して受け入れやすくなるのでしょう。おそらく人は、意識しない中にも、この世の中に起こる全ての現象の中に一つの法則を求めいるのだと思います。そして、何か壁にぶつかったときその法則にしたがって行動を取ればうまくいくと信じたいのではないでしょうか。一つの出来事も一つの法則に従えば、色々な成功例と同じ結果を生み出す。その法則がどういうものかは具体的にわからないながらも、違う事柄に共通点があるという事は、そこに何らかの法則が存在すると信じることができるのだと思います。どんなジャンルでもその道の成功者の話には説得力があるものです。ジャンルは違っても、そこに自分の世界との共通点を探し出し、感覚的に法則の存在を肯定し、自分の生き方のヒントと思えるのです。実際に法則というものが存在するかどうかはわかりません。しかし、人の生き方は、大自然の摂理、スポーツの勝敗、料理の方法などさまざまな事柄と共通点をもつということは否定できません。ごくありふれた日常の中にも、人生を生きるためのヒントになることは必ず隠れているのです。春の来ない冬はない、やまない雨はない、出口のないトンネルはない、だからといって人生で辛いことも長くは続かないといえるかどうかはわかりませんが、そういう例え話がそう思い込ませてくれるなら、おそらくその例えのように、辛いことも消え去るはずです。人生の生き方は人それぞれ、これが正解と言い切れるものなんて一つもありません。それだけに人は、さまざまな例え話のなかに法則があると信じて、自分なりの道を切り開いていくのだと思います。
Jan 28, 2003
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今は亡き、桂枝雀さんは番組のインタビューでこんな言葉を残されています。「笑いは緊張と緩和だ」昨日、久しぶりに、タレント追い込み系のバラエティーを撮影しました。タイトルは、「NGが出たら一からやり直し時代劇」4分ほどの殺陣をつけた時代劇を1時間ほどの練習で本番に挑み、一人がどこかで失敗すると、全員が、一からやり直し、完璧に最後までいくまで、収録は続けると言う内容のものです。普通に、時代劇をやると、プロはいとも簡単に最後までやってしまうので、そこはバラエティー、芝居の中に、クリアーポイントを数箇所作り、ちょっとやそっとではクリアーできないような台本を作りました。難しい四字熟語がほとんどの長セリフがあったり、早口言葉があったり、縦笛で一曲奏でるというシーンがあったり、剣玉を成功させるというくだりを作ったりとわざと間違えさせるようにという演出を凝らしたのです。最初のうちは、失敗するごとに笑いが起こっていたのですが、それが5回10回と続くと笑いはなくなってきます。20回目の失敗に至っては、何ともいえない気まずいムードになり、とてもバラエティーの現場とは思えないほどの嫌な緊張感に包まれたのです。失敗した人間が悪者となり、限りなくいじめに近い現象が起こるのです。もうその部分は簡単にして撮り直そうとかその部分はカットしてしまおうなどと、ディレクターとしては何度も言いたくなるのですが、そこが追い込み系バラエティー演出をする上での重要なポイント、我慢のしどころなのです。不思議なもので50回目の失敗になると、全員が、その人間を攻めるということが、何の解決手段にもならないということに気付き始めるます。そしてその嫌な緊張感が、失敗をより生みやすくなると感じ始めたとき、新しい形の笑いが生まれ始めるのです。緊張が最大限になったときそこで起こる笑いはそこでしか生まれない独特のモノになります。そして笑いが新しい空気を送り込み、成功を生むのです。結局そのロケはその日中には終わりませんでした。しかし、スタッフもタレントも、疲れはしたもののその後にはみんなが声をそろえて「面白かった」と言いながら帰路についたのです。「緊張と緩和」このタイミングが生み出す笑いは、どんなテクニックを駆使した笑いよりも、心に残る、質の高いもののように思えます。おそらく、この収録現場の面白さは、番組にして、画面を通してしまうと、半分も伝えきれないものだと思います。しかし、番組作りの士気を高める上で、やって損は無い企画なのです。人間はある一定以上のストレスが加わると、自己防衛本能から、笑いに必要なホルモンが脳に分泌されると言います。常日頃からの笑いに比べ、体全体が笑いを必要としているという条件下の中での笑いは、脱水症状の中での水分のように、一瞬にして、体内に吸収され、全身へと行き渡るものなのです。お葬式のなかで、ふとした笑いのポイントがあると、涙が出るほど笑ってしまったり、格式ばった式典に出席したとき、偉い人の堅い話の中で、ちょっとした間違いを見つけただけで、笑いをこらえるのが必死になったという経験は、少なからず誰もが持っているはずです。長くお笑いを研究し続けた桂枝雀さんの「緊張と緩和」という笑いに対する考え方からも、笑いが精神への最大の栄養素であるということが伺えます。せっぱつまったシーン、真剣な場でこそ、笑いは必要であり、ストレスがかかっている場面でこそ、体と心は、笑いを求めているということを、改めて認識させられました。「スランプのときこそスマイルを」というのは、マラソンランナー増田明美さんの座右の銘です。昨日の仕事は、ついついストレスがかかったときに笑いを忘れ、しかめっ面になってしまう自分に、もう一度、笑いの大切さを考えさてくれた貴重なものとなったのです。
Jan 27, 2003
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昨日、ここに書いてもおそらく誰も信じてくれないような、身の毛もよだつ恐ろしい体験をしました。朝から打ち合わせをしにある場所に行き、そこの担当者と名刺交換をしました。その人の名は中村さん。別にそこまでは何のこともない仕事の風景なのですが、その後、会社に戻ると、ある人から、構成作家の方を紹介されました。名刺交換をするとなんとその人も中村さん、まあここまでは良くある偶然なのですが、そのあと、喫茶店にお茶を飲みに行き、何気なく自分にコーヒーを持ってきてくれた人の胸の名札を見ると、その人も中村さん、「なんだ、今日は中村さんに会う機会が多いな」と、そこまでは気にもとめてなかったんですが、会社に帰ると、電話の前にメモがありました、「中村さんから電話あり」その人は今日会った、どの中村さんでもなく、久しぶりにかかってきたプロダクションのマネージャー、中村さんからのものでした。だんだん恐くなってきました、これは中村さんのたたりじゃないかと・・・・そして仕事も終わり、飲みに言って、バーでその話をバーテンに話していました、「まさか、君の名前、中村やないやろね」と冗談を言っていると、カウンター席の隣で、一人でのみに来ている女性が、私の話を聞いて笑っていました、「ね、不思議でしょ」と話し掛けると、黙ったままその女性は、僕に、カバンからレンタルビデオ店の会員証を取り出し、見せたのです。もうわかると思いますが、その名前も、ナカムラだったのです、幸いかどうかその人は仲村という、今までの人とは漢字が少し違ったのですが、それにしても、こんな偶然が本当にあるモンなんだと、背筋が寒くなりました、家に帰る途中も、いつもは気にしていなかった中村という表札が目に付きました、本当に、今まで生きてきて初めてというくらいの不思議な体験だったのです。今日、こんな体験を、何かテレビ番組で取り上げれないかと、資料室で本をあさっていると、実際そういう体験は、シンクロ二シティといって、いろいろなところで事例が挙げられているそうです。今までに、日記で書いていた、運のよさや、奇跡とは違って、生活にはなんら問題のないことの中にも、偶然の一致というものは存在するんだと、一人で、くだらないことに感動していました。しかし、冷静になった今、その現象を分析してみると、それが実は、そんなに偶然ではないんではないかとも思えてきました。たまたま、二人続けて、中村さんに出会ったというよくある偶然を体験した瞬間から、私自身が必要以上に、中村さんを意識したことによって、いつもは何気なく見逃している、中村さんを認識しただけではないかとも思えてきたのです。普通は、コーヒーを運んでくる人の、名札を読むことも少ないでしょうし、バーでも、その話を大きな声でしたからこそ、隣の仲村さんが声をかけてくれたのだと思います。そう考えると、いつも、感性アンテナを張って生きていると偉そうなことを言っている自分も、まだまだ何気なく生きているんだなと思いました。きっと、世の中、自分の身の回りには、色んなことが起きているのに、まだまだ気付いていないことが多いんだなと改めて感じたのです。昨日の体験は、いい経験になりました。もっと、敏感に生きていたら、面白いことは身の回りにたくさんあるんだという、そんな気にさせてくれたのです。そう考えると、すこしまた、毎日が楽しくなってきました、一時は、気持ち悪く思っていた、中村さんに今は、心から感謝しています。
Jan 25, 2003
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昨日、若手のADとテレビ制作という仕事について話し合いました。それぞれの立場から、色んな意見が出たのですが、最終的に意見の一致したポイントは、バラエティー制作という仕事の根本的な意識の持ち方という点でした。バラエティー番組を作るという大きな作業の中で、我々ディレクターというセクションは雰囲気作りということが一番重要とされる仕事であり、技術スタッフ、出演者を立て、やる気にさせ、現場を楽しく盛り上げて初めて、自分の演出論を理解してもらえ、指示することができるのだという意識が大切だということ、この意識の持ち方に関しては誰も異論を唱えるものはいなかったのです。我々バラエティー番組を作るものの中では、人を乗せる技術のうまい人が、評価の高い、仕事の出来る人であることは基本であるともいえるのです。おそらく企業の管理職も、最終的に業績を残す部下を育てることの出来る人は、部下の乗せ方のうまい人ではないかと思います。私はその話をしながらその中に、人の生き方のヒントがあるんではないかと考えていました、人は自分の体や脳を働かすに当たって、精神という司令塔が指示を出していているのではないか、体調が優れなかったり、脳がうまく働かないという現象は、実は、司令塔である精神がうまく指示を出せてなくて体が働く雰囲気になってないのではないかと思えてきたのです。うまく自分の体や脳を動かすために、いい雰囲気作りをし、やる気を起こさせるという感覚で毎日を生きれば、もっと自分自身は元気に動くのではないかと、突拍子もない考えが頭に浮かんだのです。確かに自分自身は自分の思いどうりに動いてくれないときがよくあります。精神が安定していないときは、朝起きるとき、かなり体も重たくなりますし、頭も冴えません。逆にやる気が満々のときは、目覚まし時計の鳴る前にシャキッと目がさめ体も軽かったりするものです。そういった経験からも、自分自身は、体や脳、精神を含めた一つの集合体であり、その司令塔は精神であると思えるのです。番組がうまくスムーズに進行されるときは、司令塔と実際に動くスタッフの関係がうまくいき、みんながやる気を出しているのと同じように、自分の才能がうまく発揮できているときは、精神が体の各部にいい指令をうまく出せているときなのです。時に体がストを起こし、病気という事態になるときもあれば、司令塔そのものが機能しなくなって、体、脳もうまく動かなくなる、精神の病と呼ばれる状態になってしまうときもあります。いい雰囲気で自分自身をうまく励ましながら、体や脳に、やる気を起こさせる司令塔とスタッフのいい関係をもって生きていくことが、心身ともに健康であるということだと改めて感じました。何気ないスタッフ間の会話からこんな考え方がなぜ浮かんだのかはわかりません。いつもはあまり深く考える方ではないのですが、ここ最近、体調が優れなかったことが、自分というものについて深く考えるきっかけになったのかもしれません
Jan 24, 2003
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テレビ番組を演出するディレクターたちの間で、陰口を言うときこんなセリフを口にすることがあります。「あいつは自分の演出もロクに出来ていないのにテレビの演出ができるわけないよな」演出の基本は自分をどう見せるかということだという考え方は、演出を手掛けるものなら誰でもがわかっていることです。会議に出たときやロケバスの中、会社で人と会っているときに、目立つこともなく、面白くもなく、パッとしないというだけで演出力を判断されることも少なくありません。私はいつもこう考えて毎日を過ごします、自分と人が会うということはそれが、能動的にしろ、必要に応じてのものにしろ、その人が僕にチャンネルを合わせてくれたということで、いつもチャンネルを変えるリモコンを持ちながら見てくれているのだと・・・私自身も、人に出会ったとき、この人は、興味深いのか、面白いのか、ためになるのか、そう思いながら、観察している様な気がします、あまり目立たなくても、もっと見続けていたい人、派手でかなりよく喋る人でも、すぐにチャンネルを変えたくなる人、そういう評価を知らず知らずのうちにしながら、お気に入りのチャンネルを決めているのだと思います。視聴率を取るだけが、いい番組ではないというのと同じで、たくさんの人から興味を持ってもらえることだけが人の価値ではありませんが、自分を演出することによって、人の興味をひきつけることが出来れば、さまざまなチャンスがそこについてくるような気がするのです。テレビの演出はターゲットを意識してどういう層に支持を得たいかということで、演出方法は変ってきます、それと同じで、自分の演出方法によって、自分の周りに集まる、人たちの層も決まってきます。老若男女に人気のある番組もあれば、若い子だけしか見ない番組もあるように。人も、ファッションや言葉の使い方、身のこなしによって、周りに集まる人間の層はばらばらになったり、偏ったりするものなのです。自分というチャンネルを担当し、自分というタレントを使って、自分の身の回りの人たちに、自分という番組を見てもらっている。そう考えると、毎日はなかなか面白いものになってきます。視聴率はとれないけど、マニアの視聴者にはなくてはならない番組もあれば、主婦層から毎日楽しみにされている番組もあります。人は、少しずつマイナーチェンジしたり、ある日突然企画変更したりしながら、さまざまな視聴者にメッセージを贈り続けていくものなのです。凝った演出をせず、ありのままをドキュメントのように見せる番組もあれば、作りこんだドラマもあります。どんな見せ方でも、視聴者の心をつかむときはつかみ、チャンネルを回されるときは回されるのです。チャンネルを回されず、より多くの視聴者をキープするためには、小手先のテクニックでは長持ちはしません、いずれかならずボロがでます。本当にいい番組には、必ず一貫したコンセプトがあり、何を見せたいかがわかりやすく表現されています。昔からテレビ番組作りの基本は、視聴者の気持ちになって、何が求められているのかを知ることだといわれています。もしかすると自分を演出、表現する上でも、一番大切なことは、そういったところにあるのかもしれませんこんなことを毎日考えているにもかかわらず、いつも自分というチャンネルの演出には失敗しています。自分の見せたいものと人が求めているものが全く違ったりする場合がよくあるのです。少しずつ見せ方を変えながら、いずれ、「あのチャンネル、あの番組はなぜか見てしまう」とより多くの人に言われるような自分になっていきたいと思う今日このごろです。
Jan 23, 2003
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関西のテレビ番組が東京の番組と作り方として大きく違う部分の一つにリハーサルが少ないということがよく言われます。芸人さんが多い関西の番組では、段通りよりも、テンションを第一に考える方が面白いものが作れるという発想からリハーサルも少なく、打ち合わせも短かめにする場合が多くなるのです。よくタレントは、スイッチを入れるという表現をします。気持ちを切り替えるために、きっかけを作りテンションを上げ集中力を高める瞬間を作るということです。タレントはスイッチを切り替えることで、自分のキャラクターになりきることができるのです。芸人に限らず人はそれぞれさまざまなスイッチを持っています。そのスイッチの形や場所はそれぞれですが、このスイッチの切り替えの上手な人は生活をより楽しいモノにすることができますし、人からは魅力的に見られます。感受性を強くするときと、ぼんやりとリラックスするときのスイッチ、家庭的にほのぼのするときと、所帯臭さを出さず一人の男性、女性として異性と接するときを切り替えるスイッチ、仕事で熱くなって脳を理論的に働かせるときと、馬鹿になって遊ぶときのスイッチ、これは、昔から学校でよく習った「けじめ」という言葉のようにも聞こえます。しかしここでいうスイッチと「けじめ」は全く違う意味合いをもつものなのです。「けじめ」とは自分の意識のなかでやらなくてはいけないことを誘惑に負けずにコントロールするということで、強い意志を持つための教訓であるのに対し、スイッチの切り替えは、やるべきこと、今やるべきではないこととは無関係に、自分の多面性を使い分け、その全てを確立した人格として人に認められるためのテクニックであると思うのです。二重人格や多重人格というのは、その性格に一貫性がなく当然、人とのコミュニケーションは取れにくくなりますが、場面場面に応じて、そのときに一番適応した自分の一面に切り替えるということは、自分の生きる幅をより大きくできるものなのです。最近、若い人たちはよく仕事モード、、遊びモード、恋愛モードといった言葉を使い、無意識に、スイッチの切り替えをしています。今の風潮では、多面性がなく、全て同じテンションの人は魅力のない人ともとられがちです。自分のスイッチの入れ方、これは、一歩間違えると、とんちんかんな人間にも思われかねない微妙なテクニックでもあるだけに、年をとればとるだけ、うまくなりたいとつくづく思います。今は、この日記を書きながら、一番スイッチの切り替えの難しい、家庭モードにどういうタイミングで切り替えようかときっかけを探っているところです。
Jan 22, 2003
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テレビ番組の収録中、生放送中にスタッフが不必要に画面に映りこむことを業界用語で「ミキる」といいます。生放送ではそういうスタッフがミキっている姿を番組内で見かけることはそう少なくありません。先日とある番組でADが画面に映りこんでる姿をテレビで見て、わが社のADがうれしそうにその失敗を指摘している場面に遭遇しました。確かにその場面を普通に見た限りではADの不注意でミキってしまったようにしか見えませんが、私にはそのシーンでの失敗が、褒めてあげたいものだということがわかりました。おそらくその失敗の前後のシーンから推測すると、テレビに出ることが初めてで緊張している素人さんを画面ギリギリのところで最後までフォローし続けた結果、カメラから逃げ切れなかったものだったのだと思います。テレビは初出演で不安いっぱいの素人さんをほったらかしにし、そのひとが失敗し、恥をかかすことより、自分が映って、恥をかき、その上、怒られるという危険を選んだということなのです。その判断は、私個人としては、失敗というよりはむしろ、素晴らしい仕事だと思えました。基本的に人は、評価を受けるために、仕事をしたり、何か行動を取ったりするものです。よってできるだけ評価を落とす危険性のある行動はとりたくないものです。そんな中で、番組という一つの「公」のために「私」を捨てることの出来る人間は、本当は最高の評価を得るべきだと思うのです。自分のために生きることが、最終的にみんなのためになるということも一つの考え方ですし、今の風潮でもあると思います。自分を犠牲にして「公」のために何かをするというと、戦時中の日本で見られた軍国を想像し、危ない思想だと考える人もいるかもしれませんが、今、この考え方を評価するということも、私の個人的な意見としては大切なのではないかと思います。自分がミキる事を恐れて、安全な位置から指示を出すADは今は怒られることは少ないかもしれませんが、必ず、いつか自分に部下が出来たときに、信頼感を得ることが出来ない自分に悩むことになるはずです。ADに限らず、自分の安全を最優先させる人より、自分が怒られたり、評価を落とす危険に身をさらしながらも、チームメイトの動きやすいような仕事をする人間は、必ず最後にはいい評価が得れるはずなのです。仮にそれを評価する人間が居なかったとしても、その生き方は自分への誇りとなり、オーラとなって残るものだと思います。その失敗を笑っていたADたちに、説教するつもりもありませんしその自己犠牲の考え方を、強要するつもりもありません、ただ、彼らがもし、自分を犠牲にすることによって失敗をおかしたとき、そのときは、頭ごなしに怒らず、逆に褒めてあげれるような目を持っていられるような自分でありたいと、そう思いました。
Jan 21, 2003
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私たちディレクター仲間の間ではよく「神様が降りてきた」という表現を使うときがあります。ピンチのときに偶然がその危機を救ってくれたときに我々はその言葉をつかいます。ほかの業界のことはわかりませんが、テレビ業界に関しては、不思議と、そういう偶然に出会うことが多いように思えます。ロケに行く前に、ネタが面白くなくて悩んでいると、ロケ中、急に大きな犬が出てきて、タレントを舐め回し、大爆笑のVTRに仕上がったり、風景が寂しく、いい映像が取れない場所での撮影で、がっかりしていると、急に夕立ちがあり、その後に美しい虹がかかったり、草野球を取材したときに、5年に一度あるかないかのサヨナラ満塁ホームランが出たりと、数えればキリがありません。神様が降りてくるのは、ロケだけではありません。スタジオの収録で、微妙なタイミングが必要なとき、リハーサルで何度やってもうまくいかなくて、半ばあきらめながら生放送の本番に挑んだとき、本番だけはぴったっとタイミングが合ったりもしました。正直、本当に神様がいて仕事をうまく運んでくれているとは誰も思ってはいません。しかしそういう不思議な偶然があるということは経験上、認めざるをえないことなのです。私自身はこう思います、人の潜在意識は、自分が思っているよりもずっと、大きな力を持っているんではないかと、そしてその力は、意識しないところで、偶然を引き出すような現場のムードを察知してその場所に足を向けたり、そういう方向にもっていくような行動をとらせているのではないかと・・・・・動物には予知能力があるというのは生物学でも立証されています。人間は、進化と共に、その予知能力を意識出来なくなり、うまくコントロールできなくなっただけなのだと思います。しかし間違いなく、個人差はあるにしても、人にはそれぞれみな、少し先の未来を予測する能力はあるのだと思います。予知能力が働く部分は、目や、耳ではないため、五感を頼りに生きている人間にとっては、意識はしにくいものだと思いますが、あとから考えると、物事がうまくいくような行動を自分自身が無意識にとっていたということは多かれ少なかれ誰もが経験していることではないでしょうか、神様を信じて、奇跡を起こしたという体験談をよく聞くことがあります。私は無宗教ですが、奇跡という言葉を頭ごなしには否定できません。神様を信じるという行動が、自分の奥に潜む能力を引き出すきっかけになり、無意識に普通ではありえない状況をひき起こすことになれば、人はそれを奇跡と呼ぶのではないかと思うのです。自分の中には、まだ自分の知らない無限の可能性があると、うれしい偶然に出会うたびに感じます。成功とは、その能力をどれだけ引き出したかという結果なのかも知れません。きっとできる、何とかなる、といいながらうまくいかないときもあります、しかし五回に一度、十回に一度でも、自分の潜在能力を引き出し、うれしい偶然を作り出すことが出来れば、見通しは明るくなります。自分を信じれば、可能性はゼロではないことを知れるだけでも、自分の人生の辞書から、絶望という二文字は消え去るからです。どんなピンチのときにも自分を信じれる心、この心をもてるように意識をもって生きていきたいものです。
Jan 19, 2003
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今年4月入社予定の新入社員が2人、研修にやってきました。彼らに「君たちの夢は?」と問い掛けたところ、2人の答えは「ドキュメンタリーをやりたい」というもでした。たしかにジャーナリズムをもって自分の言いたい主張を本を書き綴るように映像化するドキュメンタリーは、これからこの業界に入る人間にとっては魅力的なものだと思います。しかし残念ながらバラエティー、情報番組専門のわが社に入社して、報道ドキュメンタリーを手掛けることの出来る可能性は限りなくゼロに近いものなのです。視聴者的に考えると、情報バラエティーも、報道番組も同じテレビ番組であり、テレビを作ると言う作業に一見変りはないように思えるのですが、実際作る側の立場からいうと、それらの違いは、ハンドボールとバスケットボール、サッカーとラグビーほどの違いがあるのです。あえてここで彼らにその話をしなくとも、1年もこの仕事を続ければその違いの大きさは実感できるものだと思います。だからといって彼らがジャーナリズムをもって自分の伝えたいことを映像化するという夢が果たせないのかといえばそうではありません。手法や見せ方が違うだけで、人に感動を与えることはバラエティーでも情報番組でもそれは可能なことだからです。夢の最終目的は職業や仕事の種類ではないと言うことに気付いたときに人は大きく成長することが出来ます。何かに夢中で取り組み、自分の職を身につけたとき初めて、その夢の向こうにある限りない目標が見えてきます。こうなりたい、こういう仕事をしたいという夢を抱いているときひとは、こうなって何をしたいのか、こういう仕事をしてどうしたいのかということは二の次になっている場合が多いと思います。若い頃はそれに気付かず、その職業につけないということは夢がかなわなかったと思ってしまいがちになります。自分のなりたい職業につける人、やりたい仕事ができるひとはほんの一握りです。職業が夢という考えからいうと、夢をかなえる人は数パーセントかもしれませんが、夢の向こうにある限りない目標をかなえている人は数多くいるのです。例えば私の場合、若い頃の夢は、芸人になることでした、その夢をかなわないと思ったとき、かなり落ち込んだものです。しかし今の職について、この仕事で食べていけるとわかったとき、その芸人という夢の向こうにあった目標が見えてきたのです。私が芸人になって得たかったものは、お金や人気者になる快感より、人を感動させたいということだったのです。これは料理人でもデザイナーでも、庭師、教師、カメラマン、さまざまな職業の人に共通する目標だと思います。何か夢を持ったとき具体的な仕事内容としてそれがかなわなかったとしても今、自分が出会った目の前にある仕事を自分のモノにすれば、違う交通手段を使って、夢の向こうにある最終的な目標には必ずたどり着けるはずなのです。ADとして同期で仕事を始め、挫折し、業界をやめていった昔の仕事仲間と連絡を取り合うことがあります。そういう人たちの今は、はっきりと二つのタイプに分かれます。次の仕事に打ち込んだ人間は、旅行会社の企画部に入ったり、料理人になったりしてその職業のなかで私と同じように、人に感動を与えるという快感を知ったと言います。逆に、夢がかなわなかったとずっとやめたことを悔やんでいる人間は、今だに仕事が面白くないと愚痴ばかりこぼしています。新入社員にはとにかく今、いつかはドキュメンタリーが撮れると信じさせるようにしようと思っています。そういう気持ちで一つの職業としてバラエティーディレクターとして確立すれば、きっと仕事の形態にとらわれずに本当に自分が求めていたことが何かと言うことに気付き、その目標は果たせると思えるからです。今、夢を超え手に入れた無限の目標は、私の中ではこれからも継続していきます。新入社員のすがすがしい緊張感を肌で感じながら、明日への決意をまた新たにすることが出来ました。
Jan 18, 2003
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昨日、編集をしながら、番組のクッションについて考えていました クッションとは時間を短くも長くもできる部分を番組の最後に作ることで、最終的な時間調整ができるようにしておくテクニックのことです。番組の最後に、いままでの振り返り映像がスローで重ねられ、ナレーションで語りあげるというシーンを良く見かけますが、そこには、番組に余韻を残すと言う演出だけではなく、クッションという大きな効果があるのです。生放送では番組の最後に、ファックス紹介で時間をつかうというコーナーが多く見られますが、これにもファックスの枚数を加減することで時間を調整する、クッション的な役割があるのです。クッションを作ることによって、番組進行中、編集中は時間をあまり気にしないで伸び伸びと面白いところを伸ばしたり面白くないところを早い目に切り上げたりすることが出来ます。クッションは番組を面白く楽しくするためになくてはならない部分なのです。編集中に考えていたことは、自分の生活の中にももっとクッションを作ったほうが、いい仕事ができるんじゃないかなと言うことでした。感情にも、時間の使い方においてもクッションがあるということは自分自信に余裕ができ、人に対して、思いやりをもって生きれるはずなのです。どうしても与えられた時間や与えられたチャンスに対しては目いっぱいに使いたくなるため、何事においてもフルに動いたくなってしまうものです。その結果、形にはめなくてはいけない場面に遭遇すると、窮屈な気持ちになってしまうのかもしれません。窮屈が嫌だからといって、全体に余裕をもちすぎると時間や気持ちは余ってしまいます。全体を緩くするのではなくクッションを作ると言う考え方は、無意識にやってそうで、実は行われていないことが多いとのではないかと思います。オーバーにならないようにするためついつい手を抜くと言うことになってしまいがちだからです。スポーツでは怪我防止のために使われるクッションは心の怪我防止のためにも必要なものなんですね。
Jan 17, 2003
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昨日今年最初のスタジオ収録が行われました。いつもとは少し違った内容で、スタジオ内でゲームを展開すると言う、かなり動きのある収録になりました。ADにとってはかなり難しい仕事になったようで、スタジオは段取りの悪さが目立ち、怒鳴られてばかりの一日となったようでした。日頃からパネラー席に座れば座りぱなしのVTR主体の番組を担当しているADにとって、一つのことをしながら次の準備をすると言うことは一輪車に乗りながらジャグリングをすることと同じようなモノだったのかもしれません。番組収録の進行は、進行されている今と言う瞬間を見ながら動いているのでは、スムーズに現場は進行されません。少し先を見ながら次の仕事をこなすことが、進行ADの能力として必要条件となるのです。かといってずっと先のことを先に済ませようとすると痛い目に合います。現場の空気によってどんどんと内容は変化していくからです。少し先の動きつつある現場を見ながら仕事をすることができるようになれば、ややこしい内容の現場もなんなくこなせるようになるのです。動いている現場を見る視力はどんな事にも大切です。時間の中で生きている人間が時間を効率よく使うためには、時間の流れの中で動いている物事の少し先の状態を見る動体視力が必要になるのです。料理店の取材をするといつもそのお店のシェフが持つ動体視力のよさに感心させられます。一度に5種類以上のメニューを同時進行で調理しそれぞれ時間のかかり方の違う料理を最後には同じ時間に仕上げると言う難しい作業をいとも簡単にやってのけるからです。慣れと言う言葉では片付けられないかなり鍛えられた能力だと思います。ひとはみな心に目を持っています。美しいものをいいアングルで心に送り込む、動かないものを見る目と、時間流れの中で動いているものを見続ける動体視力です。これはどちらも意識することでかなり鍛えられます。ボクサーが動体視力を鍛えると相手のパンチが見えるようになりよけることができるようになったり、野球選手が速い球を打てるようになるのと同じで、心の動体視力を鍛えると、現場対応能力が身につきます。会話をするときも、話の少し先の動きを見ることが出来ればツッコミもうまく入れることが出来ます。時代と自分の身の回りの動きを見る目も大切ですチャンスの瞬間をジャストミートするため、繰り出される困難のパンチをかいくぐるため、この動体視力を鍛えるということは自分の夢をより近いものにしてくれるはずです。最近は身の回りのスピードはより速さを増し、ついていけないものが多くなってきました。動きのある仕事をこなすための動体視力と共に、時代を見る目も養っていかなければ、これから来るチャンスを捕らえることは出来ない。そう考えながら心の目をこすり、毎日を見続けているのですが。チャンスという剛速球に対してはここ最近、空振り三振が続いていると言うのが悔しい限りです。
Jan 13, 2003
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今日は比較的温かく、朝も気持ちよく布団から出ることが出来ました、いつもこれくらい温かければいいのにと、温度計を見ると12度、温かいといっても冬なんだと気付きました。この温度がもし9月中旬だったら寒くて外に出るのは嫌になっていたことでしょう。昨日の制作部会で部長が開口一番言ったことは、今年4月からテレビ局の予算が大幅削減され、会社はまた一段と厳しい状況になるという発表でした。社内にはどんよりとした雰囲気が漂い、誰もが不機嫌な顔になりながらデスクに着きました。私も隣に座っているディレクターに愚痴をこぼそうとしたところ、思いもしなかった言葉が彼の口から出たのです。「こんなことで落ち込めるだけ状況は良くなったんですよね」最初は耳を疑いました。景気が落ち込みそのあおりがテレビ業界にまで及んできたと言うのに何が状況が良くなったのか、理解に苦しんだからです。彼は少し笑みを浮かべながらこう言いました。「ADやり始めた頃は、この世界でご飯を食べれるかどうかで毎日が不安でしたもんね」確かに彼の言うことは正しいと思いました。アルバイトからこの世界に入った私にとって、今、この世界でボーナスが減るとか、番組がなくなるといったことに不安を抱いてること自体、その日暮しで、いつクビになるかわからない状態の時から比べれば、いい状況になっているのです。ゼロから出発した人間にとって、ゼロでない限り、その状況は、悪くはないはずなのです。しかし9や10を一度経験してしまっただけに5や6の状態が苦しい、寒いと感じてしまうのです。ゼロでもともと、ゼロから10を経験できたんだから、これからまた5から15までを経験できるかも知れないのです。しかし人は、ついつい、10から5に落ちたことに目を向けてしまい、今度は5からゼロになるんじゃないかと不安になってしまうものなのです。一番いいときからの温度差を計ると寒いけど、一番寒かったときから比べるとまだまだ温かい。彼の発想は、かなり私を楽にさせてくれました。みんな、どんな成功者も、過去にここで間違っていたら全くのゼロだったという人生の分かれ道に立たされた事はあるはずです。しかしそこをうまく生きてきたおかげで今があるのです。最悪でもゼロ。また振り出しに戻るだけです。一度ここまできた自分、もう一度出来ないはずはないのです。不況はみんな同じ条件、自分だけが不況なわけではありませんむしろ周りのみんながネガティブになっているだけ、今、ポジティブになることはチャンスなのかも知れないのです。機嫌が良くなったので、そのあと、そのディレクターと飲みに行きました。居酒屋には数多くのサラリーマン。みんな少しでも温かい生活をしようとしてるんだ。みんな同じ条件。不思議と勇気がわいてきました。居酒屋の隅にあるテレビにはジョージアのCMが流れていました。ダウンタウンの浜田が会社をやめて新しい会社を立ち上げたと言う設定。最後に流れるテレロップは・・・「明日があるさ」 みんな寒さをこらえて笑顔で生きていると、なんでもないことに感動したなんでもない日常の出来事でした。
Jan 11, 2003
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今日は年末に収録したある有名グラビアアイドルの旅番組の編集に一日を費やしました。CMや雑誌テレビで大活躍のアイドル「Y」と仕事をすると言うことで、撮影の日は少し緊張しながら打ち合わせに入ったのですが、会ってみてその素朴さに感動に近いものを感じたのです。今まで会った有名人はほとんどの人がやはり普通じゃない、オーラがあると感じたのですが、彼女に関しては普通の可愛い女の子と言うイメージしかわかなかったのです。そして「この子はどこかで昔、会ったことがある」そんな気持ちにさせてくれたのです。撮影が進むにつれ、私は先程感じた「この子はどこかで昔、会ったことがある」という気持ちが、実は気持ちだけでなく、本当に会っていたことを思い出しました。そうこのアイドルは3年前、ある大阪ローカルのテレビ番組のオーディションで私が面接し、最後の選考で普通すぎると言うことを理由に落選させた女性にほかならなかったのです。カメラを通して見て、彼女の魅力を理解することはそう難しいことではありませんでした。どんな風景にも、どんな服装にも、どんな料理と組み合わせても彼女は前にも出すぎず、かといってかすむこともない、嫌味が全くないのです。個性派がそろう芸能界の中ではこういったキャラクターが逆に異質に見えるから不思議なものです。人より上を、人とは違ったことを常に求め、それを個性とする人たちが多い中、前に出過ぎない、癖のないキャラククターはなんともいえない味として心にすっと入ってくるのです。今、アイドルで流行の「癒し系」と言うのがこういったジャンルなのかもしれません。一時期、茶髪が流行った頃、個性を出すために髪を染める若者が増え、気がついてみるとほとんどの若者が茶髪になり、逆に何もしない黒髪の方が個性的に見えたという現象もありました。中学生の頃から人と違うことをすることが自分を人にアピールすることだと頑なに信じていた私にとって、このキャラクターの魅力というものは衝撃的でした。時代が生んだ、「普通と言う個性」おそらく彼女がここまで有名になったコツは自分のキャラクターに決して無理をしなかったと言うことなのだと思います。そう思って、電車に乗ると、素敵な人はたくさんいます。気持ちにすっと入ってくるような女性、今までは被写体としては考えられなかったような普通の人も、輝いていることに気付いたのです。今回は編集を進めるにあたって、あえて普通の演出にこだわってみました。薄味の持つおいしさ、ホテルのロビーでかかっているようなイージーリスニングのような音楽のここちよさ、この番組、このアイドルとさせてもらった仕事は、人に愛される条件はもっともっと深いところにあるんだなあと改めて感じさせられた意味のある出会いとして心に残るものとなりました。
Jan 10, 2003
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昨日、ディレクターなりたての若手が、私の担当番組のVTRを初めて作りました。ちょっとしたコーナーで凝れば凝れるけれど、別に普通に作っても成立はするといったVTRなので行く前に、たいしたアドバイスしなかったと言うこともあったのですが、出来上がりをチェックしてみるとごく普通の作りになっている上、完成度ももうひとつと言う出来具合だったのです。「どうですか?」と聞く彼に一言こう言いました「なんでこんなに普通なん?若いのになぜもっとチャレンジしなかったん?」彼はうつむきながらこう答えたのです「躊躇してしまいました」その時に私はこの「躊躇」と言う言葉の恐さを改めて感じました。普通に作ればもっと完成度が高いものが作れたにもかかわらず、おそらく彼は、何度も凝った、チャレンジしたものを作ろうと思ったはずです、しかし失敗するのではないかと言うことで躊躇したため平均以下のものしか作れなかったのです。最初からチャレンジする気がなければ、きちんと普通の作品が作れる能力があるにもかかわらずチャレンジしようかどうかという躊躇をしたため自分の能力を出し切れないまま終わってしまったのです昔、動物病院を取材したときの獣医の話を思い出しましたよく猫が交通事故に合うのは、道を横切る際、車が来ると躊躇して道の真ん中で止まってしまう習性があるからだそうです。犬は比較的一度道を横切ると決めたら車が来たとしてもとにかく向こう側にたどり着こうとするので結果的にはよほどタイミングがぴったりじゃない限り事故に合わないそうなのです。何事においても一番いいのはやろうと決めたことはとりあえず失敗を恐れずにやってみて成功すること、二番目はやろうと決めても危険を回避してやらずに安全策を取ること、三番目はやってみて失敗すること、最悪なのは「躊躇」することなのです。やって失敗してもそれは経験になります。その若手ディレクターはかなり後悔していたようです。「石橋をたたきながら渡る」という一番危険な行動、躊躇」ということをしてしまったと言うことに気付いたからです。しかしこれもまた一つの経験であり、「躊躇の危険性」を知っただけでも意味のあることだったと思います。悩むということも大切なことですがいったん決めたら、それをやるかやらないかの二つしか行動はないということをもう一度改めて自分に言い聞かせました。また一つ後輩から生き方のヒントをもらえた出来事でした。
Jan 8, 2003
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次回収録の番組の企画が決まりました。タイトルは「UNー1グランプリ」内容は巷で縁起がいいとされているトルマリンの石や四つ葉のクローバー、茶柱、等のアイテムの中で一番ご利益のあるものを決定しようと言うものです。それぞれのアイテムを身につけたタレントがくじ引きや黒ひげ危機一髪などのゲームをトーナメントで行い優勝者を決めると言うばかげた企画なのですが、この企画会議は意外にも盛り上がりました。会議に参加した人も自分でさまざまな縁起を担いでいるようで、思い入れがそれぞれにあったのが盛り上がった理由でした。基本的に運は自分でつかむものと言うことは誰もが意識はしているものの、何かに頼りたいという気持ちも否定は出来ないようなのです。運は誰にも公平に与えられ、一見不幸に見える人でも最終的にはプラスマイナスがゼロになるという考え方をする人もいるようですが私自身の考え方として、どう見ても、運のいい人と悪い人は必ずいるような気はするのです。歳を重ね、経験を積めば積むほどこの考えは確かなものになって来ています。だからといって運のいい人たちが特定の縁起かつぎをしていたかと言えばそうではないと思います。だとすればなぜ、同じ染色体の数を持った同じ人間の中にそういう差が出てくるのでしょう。私の数少ない経験からいうと、運をつかむ人に共通していることは、ここ一番で運をつかむというコツを心得ていることだと思います。1度何かラッキーなことにめぐり合ったとき、その状況下の空気、自分の状態を無意識の中で記憶していて、ここ一番のときにその状態に自分を持っていける能力があると言うことなのです。何か現象がおきるとき全てそこには目には見えない何かが感じられます。しかし目に見たもの、耳で聞いたもの以外の肌で感じる空気を記憶すると言うことはそういう意識を持っていないとそうそう出来ることではありません。この雰囲気、空気の存在は誰もが認識していることです。「嫌な予感」「勝てそうな気がする」そんな言葉を無意識に人は発しています。そういった現象が起きる前の空気と自分の精神状態を肌に記憶させる事が出来れば、運をうまく操れるに違いないのです。うまくいったときのアイテム、ラッキーを導いたときに身につけていたもの、とった行動といった目に見えるものを記憶していることによってそのときと同じ雰囲気を作ろうという考え方が「縁起かつぎ」です。私は基本的には無宗教ですが、もし神様が存在するとするなら、それは自分自身の中に存在すると思っています。人間の潜在能力は、五感で感じるものを信じすぎた結果、潜在したままになっているような気がします。おそらく運のいい人のほとんどは意識しないままその自分の中に潜む能力の引き出し方を心得ているのです。縁起ものを信じることが自分の能力を引き出すきっかけになるのだとしたら、そのアイテムはなんであろうと意味のあるものです。会話の中で「空気を読め」と言うことがよくありますが、こういう視点から見るとこの言葉は、人生を大きく左右するほどの大切なことだと改めて思います。最近この意識を持つようになってから、だいたいラッキーを呼ぶ空気は読めるようになってきました、その空気を確かに肌で記憶できるようになったのです。しかし、それを思い出すのがその事が起こってからと言うのがまだまだ修行が足りないところです。「やっぱりそんな気がしてたわ」そんなことを言いながら平凡な毎日を過ごしています。
Jan 7, 2003
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今年最初の仕事は、今年の春の特別番組の企画書作成とレギュラー番組の新コーナーの発案です。昨年からの持越しのVTR編集は残っていますが、これはほとんど作業的なことなので難しくはないのですが、やはり企画の発想は感性がモノを言うものなので、7日間のブランクが重くのしかかります。一度リセットしてしまった想像力の神経はなかなか元には戻らないものなのです。しかし不思議なもので、ここ数年、リセットしていなかった感性を振り出しに戻すことで、昔、この業界に入った頃にいろいろな人から教えてもらったことが、どんどんよみがえってくるものなのです。12年前生まれて初めて企画会議に参加した日、その会議終わりで、ある構成作家の人からこんな話をしてもらったことをふと思い出しました。「発想が浮かばないときは、その逆を考えるんや、面白いものを発想したいとき、まずは面白くないことを考えると、不思議やけどそのあとに面白いものが見えてくるものや、女の子に受ける企画を考えるときは、その前に、女の子が嫌がる企画から頭に浮かべて、それと全く逆と言う発想で、女の子に受ける企画を考える。これは不思議やけど、これからそう思ってやってみ」確かにそのときは、意味がわからなかったのですが、ある程度、経験を踏んだ今では、その発想法が理にかなっていることがわかります。ベクトルを同じ方向にだけ向けているとその力はそんなに強いものにはなりません。弓矢の矢を遠くに飛ばすためには、逆の方向にまず力を加え、反発を利用しなければいけないのです。わかりやすく言えば、高く飛ぶためには一度低い位置までしゃがみこまなければいけないという発想になります。ものの考え方にもこの法則は応用できると言うことを、その構成作家は教えてくれたのだと思います。発想に関してのみ言えば、考え方は同じベクトルにだけ向けると、脳の使う場所が限られるので、発想を転換させると言う要素も含まれているとは思います。しかし、この弓矢の法則は力学的なものですが全てのことに応用できるというのも確かだと思います。タバコをやめようと思ったとき、逆に今までの3倍の量を吸って、わざと気持ち悪くなって、やめた人もいますし、好きになった女性にアタックし続けて報われなかった男性が、逆に背中を向けた瞬間に逆に女性から追いかけられたという例もあります。前に進むことも肝心ですが、後ろに下がることも大切だと言うことです。反動を利用する。後ろに下がる、当たり前のこんな発想さえも忘れてしまうほど自分は思い上がっていたんだと、反省させられました。今、こんな企画は上司が嫌いだろうな、嫌われるだろうなというものを一生懸命考えています。
Jan 6, 2003
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この1週間、クリエイティブな感性は全く使わず何もしないことを考えて過ごしました。おなかがすいたら何かを食べ、眠たくなったら寝て、テレビが観たければテレビをつけ、退屈になったら表に出て、寒くなったらコタツに入る、ぐうたらを絵に書いたような7日間でしたが、今回はあえてそういう時間を作ってみました。感性は筋肉と同じで使わなければ衰えます。私自身、今までは、衰えるのが恐くて常に感性を使い続けていました。しかし、ここ最近、色々な人に出会い、影響を受けながら、自分の感性が、偏っているのではないかと言う不安にかられたのです。スポーツ選手も同じ競技を続けると、偏った筋肉のつき方をするといいます。他の競技をたまにしても、鍛えていない弱い筋肉を強い筋肉が補うため、きちんとしたプログラムに応じた筋トレをしないと弱い筋肉はずっと弱いままだと言います。昨年の年末、ふと、考えたのです。自分の感性に自信を持つがゆえに全く使っていない感覚、神経に気付いていなかったのではないかと・・・・久しぶりの長期の休暇が取れたのをきっかけに、一度リセットしてみるのも悪くはないのではないかとそう考えたのです。確かに何も考えずに、7日も過ごすと、正直、企画も思い浮かびにくいし、同僚のボケにも適切なツッコミが即座に返せなくなっています。面白いものと言えば2~30秒の間に思いついたものが今日の自分には何も思い浮かびません。でもここからが新しい感性を鍛えるチャンスだと思っています。テレビ業界人という観念も、クリエイティブ職だというプライドも一度リセットして、バランスの取れた感性と、偏らない思いつきの出来る、走、攻、守そろった選手になれるように今年は得意分野以外のことにもチャレンジしていこうと思っています。長所を伸ばすことは大切なことですが、同じ部分ばかり鍛えていた自分は昨年で卒業しようと思っています。使ったことのない感性で、新しい自分を創っていきたいと心に言い聞かせている今年初めての日記でした。
Jan 5, 2003
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わが社の担当する番組の中に、来年で8年目を迎える長寿番組があります。パターンも決まっていてやっている側としては、新鮮さはなくなり仕事としては単調になっていくものなのですが、そこには始まって一ヶ月二ヶ月の番組には出せない味と言うものが出てくるものです。長く続けることによってなくなってしまうものとは逆に長く続けないと出ないものも必ずあります。マンネリによる安心感がその良さだと言う人もいますが、私はもっと違うところにその魅力を感じます。年を増すごとにそのものの周りを取り巻く空気、雰囲気が熟成され、新しいものにはない香立つものが生まれるような気がするのです。ビンテージの渋さに通ずるような魅力、さまざまな人の手が加わった長寿番組にはそういった魅力を感じます。大きく番組編成が変る9月、3月が来るごとに番組スタッフ、タレントは、番組存続の緊張感を持たされます。どんな番組も視聴率に一喜一憂し、その結果を受けて、マイナーチェンジをしたり、企画変更で編成部にやる気をアピールしたりと番組を続けるために見えない苦労をしているものです。そんな汗が、長寿番組の臭いを作っているのかもしれません。ワインも熟成すると香は良くなります。ボジョレーヌーボのような早だしを好む人は、本当のワインのよさを知らない人だと言います。本当のよさを知るということは熟成の香を楽しめる人なのです。私は全てのことにおいてこの熟成された香を楽しめる人間になりたいと、常に考えています。すべてのものには旬と言うものがあり、それを過ぎるとそのものは終わりだと考えがちになりますが、必ずしもそうではありません、むしろそういう考えはあさはかだと言う人もいます。人は熟成と言う技を長年の経験から生み出しました。この技法は、食べ物、飲み物に限らず、すべてのものの味わい方として応用できると思うのです。40才を過ぎて美しい女優、60才を過ぎてかっこいい俳優、50代の漫才師、ロックバンド、味の出し方を間違っていないこの表現者たちを観て楽しめるという人は、熟成の香を理解できる通な人たちです。熟成させて独特の香と味を出す。ただ時間をおけばいいと言うわけではありません。いい環境で、温度、湿度、を一定に保ち、腐らないように、干からびてしまわないように大切に育てる。番組も、芸も、音楽も、そして人間の生き方そのものもこの技法が大切なことだと、年をとるにしたがって感じるようになってきました。古くなれば、熟成されたものと、ほったらかしで旬をただ過ぎたものとでは雲泥の差が出ます。自分自身、熟成に必要な環境を研究する毎日が来年も続いていくんだと今日改めてそう思いました。
Dec 28, 2002
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今日、今年最後の番組企画会議が行われました。来年収録する番組の内容のアイデアを出し、形に出来るように話し合う場です。通常、この会議は大きく4つの段階を踏みながら進められます。ネタだし、膨らまし、選択、叩きという流れの中で、アイデアは洗練され番組の企画として確立されていくものなのです。ネタだしは、「こんなことできないか」「こうすれば面白いのでは」という考えを、書き上げ、発案者が発表、面白おかしく語ります、そこでそれを聞いている、会議メンバーは、職種、ポジションにかかわらずその話を広げていくのです。「○○と言えばこの間こんな商品をお店で見ました」とか「それをこんなおっさんがやれば面白くなるんとちゃう?」など基本的にこの段階では、否定せず、出来るだけ肯定的に話を盛り上げていきます。この段階で否定することは暗黙の中でしてはいけないことなのです。このやり取りで、いくつかのネタをベースに会話を繰り広げ、話が広がったものをいくつかチョイスします。そうして選ばれたアイデアに対して、今度はそれを具体化するための否定論に入るのです。「これはお金がかかりすぎる」や「今からの期間では間に合わない」「面白いけどリスクが高すぎる」などの心配事項を思いつくままに言い合います。これが「叩き」という作業です。ここで間違えてはいけないのが、ここでの否定はあくまでもその否定事項を解決するために出すもので、そのネタをつぶすものであってはいけないのです。「お金がかからないようにするにはどうしたらいいか」「期間を短く仕上げるにはどんな方法があるか」「リスクを少なくするためにはどこをどう変えればいいか」をこの「叩き」のなかで話し合った結果、具体的なものとして企画が完成するか、どうしても実現不可能かが最終的に決定されるのです。その完成した企画に担当者を決め、作ると言う作業に取り掛かリます。毎週何かを放送しないといけないレギュラー番組の会議は、アイデアを肯定しながら小さなものを膨らませ、大きくし、否定事項を消去していく方法で、ネタを育てて行かなければすぐにネタ切れになってしまうものなのです。このような会議を続けていると、この第二段階の、「膨らまし」と最終段階の「叩き」が全ての事に関して非常に大切なものだと気付きます。第一印象で「面白くない」と否定してしまうと、最終的に面白くなることを闇に葬ってしまうことになりかねません。何事も膨らます努力があってこそ、いいものが生まれるのです。否定も、それをなくしてしまうものではなく、心配事項を取り除くためのものでなくてはいけません。そうそう最初から「これはいける」と言うものには出会えません。企画、アイデアに関して言えば、最初は「どうかなあ」と思っても、それを膨らませて素晴らしいモノになった場面は何度も見てきました。第一印象は大切ですが、私はどんな出会いに対しても、肯定的膨らましを試みることにしています。日常、世の中はそんなに面白いものではありません、しかし、この膨らましによって、毎日が少しだけでも楽しく過ごせたら、儲けモンかなとそんなことも考えます。
Dec 27, 2002
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新年一回目に放送する番組の編集が終わりました。内容は外国人のための日本のお正月のお正月講座、各国の人に挨拶から書初め、凧揚げなどを体験してもらって、その本当の意味を教えると言ったものでです。演出で苦労したことは、笑いのポイントが人種差別につながると放送できなくなるので、その部分でナーバスにならなければいけないと言うことでした。何が人種差別につながるのかと言うことを改めて考えると、この問題が極めて微妙な問題であるように思えてきました。皮膚の色や、目の色、髪の毛の色の違いを笑いにすると、人種差別的な意味合いが強くなるのですが、深く考えているうちに、実際、人種と言う分け方はそういうものだけではないのではないかと思えてきたのです。そのとき、生き方、考え方、価値観の違いと言う部分での人種の違いも大きな問題だと言う考えがふと頭に浮かんだのです。日本人同士でも、この人とは人種が違うと思える人に出会ったことは一度や二度ではありません。だからと言ってその人が嫌いかと言えばそうではないのですが、生き方考え方、仕事の仕方、恋愛観、どこまで話しても接点のない人はいます。仮にそういう違いを人種の違いと考えると、組織の中では絶対数の多い人種が、少数人種を明らかに差別していることがあります。仕事の価値観を多数派の意見に統一し、考え方の違う人間は、組織には合わないと言う理由で、阻害される場面を見ることはそう少なくないことなのです。一番、わかりやすい人種差別は、男女差別です、はっきりと体の構造からして違う人種同士が、組織の中で生き方の価値観をめぐって争うことがあります。色々な違いで人種と言うものがあります。自分と違うもの、少数派のものを理解する気持ちがなければ、争い、差別はなくなることはありません。理想は、どんな人種同士も、人間と言うくくりのなかで理解しあい、弱者に対して、少数派に対して多数派が少しでも思いやりを持てればいいことなのですが、なかなか自分と違う意識の人間を理解することは難しいことです。自分を肯定するために自分と違うものを否定する。そういう悲しい気持ちを少なからず人は持っているものなのです。差別は人の弱さの現れです。世の中から差別偏見はなくならないかも知れませんが、せめて自分だけでもそういう「自分と違う人種に対して理解し、否定しない人間」になりたいと改めて思いました。そのためには、人を否定しなくても自分に自信をもって肯定できる強さを身につけなければいけないなと思います。来年の目標は、「強い自分」です。強いからこそ人に優しく出来る、自分とは違う考え、生き方を理解できるに違いないのです。今年の自分になかった余裕の強さを来年こそは身につけたいと自分自身に期待をしています。
Dec 26, 2002
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テレビ番組を作っていく中で、まず大切なことは、人が感動したり笑えたり、泣けたりできるイメージを作ると言うことですが、実際そのイメージがそのまま映像と言う形で表現できることはそう多くはありません。現場で拾うものを後の編集で面白いモノとして作り上げることの方が、実際は多いかもしれません。ディレクターの仕事の中で必要とされるテクニックの一つに、後付けというものがあります。プロデューサーや編成部が出来上がりを見て、なぜここのこの演出はこうなっているのかと聞かれた時、とりあえずとか感覚でとかたまたまという答えでは、何もイメージ出来ていなかったと判断される場合があるので、その時ばったりで作り上げたものにも意味があるように説明するという、言い訳にも似たテクニックのことです。全ての演出に理屈があろうはずがありません。しかし全ての演出、構成、ナレーションの言葉、映像のつなぎ方の1カットに至るまで全てのものの意味を説明できなくては、考えて作ったものとはみなされない時があるのです。人のどんな行動も実は振り返ってみてから、ここがこうだったからという後付けをしていることは多くあります。失敗には言い訳をし、成功に関してはあたかも計算ずくのような理屈をつける。意識はしていないにしてもこの行動はとっているはずです。いいイメージを描いて大きな夢に向かって目標をやり遂げると言う考え方も間違いなく大切な意識です。しかし自分がとった行動、自分の過去を後付けでいいモノに作り上げるというテクニックもあって悪いものではないと思うのです。今、感じるものを今、一番正しいと思うように行動する、そのときの自分の精神状態もそのままにあるがままに生きる、そうすれば、目標を持って何かをするより、気がつくと大きなことを達成しているかも知れないという考え方です。達成した後はなんとでも自分なりの理屈はつけれますが、最初から自分のやり方を理屈付けすると、その理屈では解決できない状況に追いやられたとき、パニックになることもあると思うのです。目の前にあることに最善を尽くす、そしていい結果を作り、なぜそれがいい結果を生んだのかを後付けする。いい結果を生むために色んな理屈の前に優柔不断になるよりはずっと効率的な生き方ではないかと思えるのです。なるようになる、気楽にいこう、あるがままに生きる、出来そうでできない生き方です。
Dec 25, 2002
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今日をもって、うちの会社の名物男、ミスター紙一重が退社します彼は、1分以内のタイトルや、人物紹介を撮らせたら、右に出るものはいなかったのですが、1分をこえるVTRは誰が見ても理解に苦しむものを作る、まさに紙一重男でした。出社する時間は、午後5時頃、退社は朝の10時、昼間にロケに出た日は夜は必ず応接室のソファーで寝ている、坊主で金髪、いつもテレビ画面を見ながら独り言をいっている危ない男。他のディレクターからはいつもクビを傾げられる非常識を絵に描いたような存在でしたが、個人的にはいなくなると少し寂しい気もします。いつも冗談ぽく彼を「天才」と呼んでいたのですが、もしかすると本当に、その環境さえあれば彼は、人の作れない作品を残す男なのかもしれないと、いつも密かに考えていたのです。一緒に仕事しているときは、かなり苦労をしたのは事実ですが、今になって考えると、人からの評判を全く気にしない彼の生き方は、ある意味尊敬に値すると思えるのです。私も、一般的に見るとおそらく非常識、変わり者に属する存在であるとは思いますが、彼から比べると、まじめ人間なのです。社会の常識は枠にはめることが前提です、枠にはめないと組織は成り立ちません、しかし、社会の枠は同時に人の個性を殺します。個性を育てることが教育といいながら、個性は、社会生活の中ではないほうがやりやすく統制が取れやすくなるものなのです。個性は時として人に迷惑をかけますし、チームワークを乱します。本当に人が出来ない仕事を出来る人は、人とのコミュニケーションは取れないかもしれません。個性を活かすということの難しさは彼との仕事でつくづく感じました。感性を重視する業界に12年いて思うことは、本当の意味での「天才」はいないのではないかということです。「天才」と言われている人間も実は凡人の中で一番個性を発揮できた人、人に認められることをどこかで意識していたからこそ、周りから「天才」と呼ばれるのではないかと思います。自分の個性を活かすために、組織に認められる努力をする。個性を壊されないようにするための、才能も、才能のうちなんですね
Dec 24, 2002
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年末になると、いつも思い出すシーンがあります。それは、私がこの世界で仕事をしている理由とも言える年末に行われる二つのイベントです。21歳の12月、私は、その当時の彼女と、松任谷由美のコンサートにきていました、場所はフェスティバルホール、大歓声、総立ちの中で盛り上がるライブ、「恋人はサンタクロース」「ブリザード」などがアンコールで唄われ、感動の中に幕は下りました、「良かったね」という彼女の声、しかしそこには何故か納得できていない自分がいたのです。「僕は・・・・こっちじゃないような気がする・・・」急に、訳のわからないことを言い出した私を不思議そうに見つめながら彼女は聞き返しました。「何のこと?」私は訳のわからない言葉を続けました「僕はこっち(客席)じゃない・・・きっと向こう側(舞台側)にいないとあかんような気がする・・・きっと向こう側にいるべきやわ・・・」変なこと言い出した私に彼女は首をかしげながら、その日は帰途についたのです。その後その彼女とは別れ、4年の月日が流れました・・・・25歳の12月、私はまたフェスティバルホールにいました。日本有線放送大賞授賞式の舞台袖でフロアーディレクターという仕事をしていたのです。私が本番で任された仕事の中で、一番の大役は、左手で浜村淳さんにタイトルコールの合図をし、次のタイミングで、オーケストラの指揮者に合図を送る、その音楽が終わるタイミングで、KANが「愛を勝つ」を唄いだすという、最初のきっかけを作る、大切なものでした、緊張の中、そのときは来ました・・無線で舞台監督から指示がありました。「舞台上手袖のフロアーディレクターさん、自分のタイミングで 合図をお願いします」少し、震えながらも、大きく息を吸い込んで、浜村さんの目を見ながら左手を差し伸べました。「第○○回日本有線放送大賞!」浜村さんの大きな声が響きました続いて、オーケストラの指揮者を見ると指揮者も私のほうを見ていました、ゆっくりうなずきながら右手を差し伸べると、おなかの底から響くオーケストラのファンファーレが会場中を包み込みました。一瞬、静寂があり次の瞬間、ピアノの音が高らかに鳴り出したのです・・・KANの「愛は勝つ」です。どんちょうが上がり割れんばかりの拍手・・・・・舞台袖からもその観客の大きな波ののようなパワーは感じることが出来ました、その時、全身に鳥肌が立つような感じたことのない感動を体中で受け止めながら、こう思いました「僕はこっち(舞台側)にいる」仕事にいき詰まったとき、この瞬間をいつも思い出します。その後も、燃えるような充実感を数多く味あうことがありましたタレントや歌手の舞台上の感動には及ばないかも知れませんが、出会うはずのないような人たちと会えて、普通では体験できないことを体験できて、自分のイメージを形にして100万人の視聴者に見てもらうことが出来る・・・・・本当に自分は幸せ者だと、全ての自分の周りの人と神様に感謝しなくてはいけないと、最近つくづく思います。私は、たまたまこういう仕事をしていますが、どんな仕事をしている人にもそれぞれ充実感をかみ締めるときはあると思います。感動で涙するときはあると思います。生きていれば当然挫折もあれば、何もかもが嫌になるとき、自分の歩いてきた道に疑問をもつことがあるかもしれませんしかし、過去には必ず、その道を選んだ自分がいることは否定できません、その自分に感謝した出来事もたくさんあったはずです。自分の選んだ道を信じることのできる、数多くの出来事は財産、これを誇りに生きていくということが、次の自分を作っていく方法、そう考えて、ブルーな日の自分を励ましながら毎日を過ごしています。
Dec 23, 2002
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先日、私の担当している番組に出演しているタレントのコンサートに楽屋見舞いを兼ねて行ってきました。驚いたのは、寒い中楽屋口からそのタレントたちが出てくるのを一目見ようと待つファンたちの行列の長さでした。昔、その心理について取材をしたことがあったのですが、これは人間が本来もつ動物的な本能だそうです。異性に対しての興味は大きく3つに分かれるといいます。一つは異性としての自分の価値を認めてくれる人がいないと不安になるため自分に興味を持ってくれる人を好きになる場合、もう一つは自分にとってその人が結婚相手やパートナー、経済的に必要という事を潜在的に感じて好きになる場合、そして3つめは、ファン心理に見られるような、自分にない運動能力、容姿、才能の遺伝子を自分の子孫に残したいという動物的な感情だそうです。一つめ、二つめの恋愛感情は、自分にとってそれがマイナスであると感じればその感情も薄くなっていくものですが、最後に述べた、動物的本能から来る感情は、損得を抜きにして理屈なしに惹かれるものなので、これを抑えることは難しいそうです。この恋愛感情は普通の恋愛(男女のパートナー、結婚を前提とした恋愛)とは全く脳の使う場所、感じる場所が違うらしいので、結婚したから、彼、彼女が出来たからといってなくなる気持ちではないといいます。この感情を職場などで身近な人に感じてしまったときに、不倫ということになるのです。また一つ目の自分の存在価値を確かめるための恋愛感情も、結婚生活が長くなりお互いを異性として見なくなったとき、他の自分を異性として見てくれる人に対して感じてしまうこともない話ではありません。手の届かないところにその三つ目の本能的恋愛感情を持つことは、そういうトラブルを防ぐためにも必要なものだという人もいます。自分にない才能を、子孫のための遺伝子として取り込みたいという本能がそのまま結婚という形にもっていければそれにこしたことはありませんが、当然特殊な才能を持った人は他からもそういう感情を持たれることが多いので、独占してしまうことは難しく、また仮に結婚したとしても、自分にとって必要とする人にはなり得ない場合が多いのです。恋愛感情、異性を想いときめく気持ちは、いくつになっても、自分がどんな状況にあっても消えることはありません。社会生活を外れずに生きながら、動物的本能も満たせる器用な恋愛を楽しんでいる人もたくさんいます。またそういった気持ちをタレントやスポーツ選手のファンという形で偶像化し、解消している人もいます。どんな形にしても、異性を好きになる気持ちは素敵なものです。恋の切ない思いは、どんな状況下の中でも、気持ちを豊かにします。憧れのタレント、スポーツ選手、歌手、漫才師、会社の上司、同僚、習い事の先生、結ばれなくとも、届かなくとも、それが遠い世界の人であろうと、キュンとなる恋心は持ち続けていたいですね。どんな形にしても、それがたとえ過去の人でも、姿を見たこともない人であったとしても・・・・感動するラブソングを聞いたとき、寄り添うイメージを作れる人がいれば少しだけあたたかい冬を感じることができるものですよね
Dec 22, 2002
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昨日、お笑い好きのテレビ関係者が集まって飲み会を開きました。そこで話題に上ったことは「シュールな笑い」についてでした「シュール」とは直訳すると「不条理」という言葉になります。「こうあるはずのものがこうならない」ということに関しての笑いといえばわかりやすくなるのかもしれません。実際、笑いの基本はそういったところにあるのですが、人がそれを不条理と感じる前に現場で処理してしまうことが最近の笑いとして定着し面白いというものになってきているのです。例えばニュース番組の中でまじめに、「今日、大阪市の中村さん宅で次男の徹君がおねしょをしました、二年生にもなってなぜ彼がそういう失態をしたのか、大阪府警は2万人の捜査員を動員して事件の解明に全力をあげています」というものが流れたとします。普通のお笑いならそこで「おねしょって」とか「なんで、二万人もいるねん」等のツッコミを入れ、笑うポイントを説明することで、笑いを誘いますが、「シュール」という観点では、突っ込みは全くいれず、その後もニュースで何事もなかったのように解説員やキャスターが「本当に恐ろしい事件です」といったように不条理を貫くのです。こういったコントやドラマ芝居は最近ではあまりテレビで取り上げなくなりました。この笑いのポイントは見る人が自分で笑いどころを見つけ出し、自分なりのツッコミを入れながら楽しむというところにあります。そういった面倒なことはタレントに任せて自分は笑うだけという傾向になってきたというのがその要因です。常に与えられて当たり前の感覚では、白紙の手紙が自分の手に届いたとき人はきっと相手の間違いだと思うと思います。しかし不条理を面白いと思う感性を意識していれば、この白紙はあぶり出し?それともこれに何かを書いて返せということ?などという自分なりの解釈が出来ると思います。「こうあるべきものがこうなっていない」ということは人にとっては不安材料です。しかしそのときこそ自分の感性が試せるチャンスでもあるといえるのです。なにか「こうあるべきものがこうならなかったとき」自分なりの発想の転換をしてみるのも面白いかも知れません。昨日の飲み会ではこんなやり取りが繰り広げられました笑いを時には真剣に討論してみるのも楽しいものだなと感じた飲み会でした。
Dec 21, 2002
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私の今所属する会社の中で、大きく価値観の分かれることがあります。これはもしかすると接点はないのではないかと思うほどのテーマにです。仕事は本来厳しくて辛いもの、その辛いことを経験するからこそ目的を果たした時の喜びは大きいという派と、仕事は本来楽しいもの楽しくするために何をするべきかを考える派の二つです。どちらも決して間違ってはいないものなのですが、このやり方の違いはよくトラブルを生むことになります。仕事は辛いもの派の人は仕事中は冗談を言うことすら嫌な顔をする人がいます。そんなしかめっ面を見て仕事は楽しい派は、面白いものを作る人間がそんな顔でいい発想が浮かぶわけはないと批判するようになるのです。仕事中に冗談を言って和ませることで全体の流れを潤滑にしようとする者はふざけているわけではないのですが、真剣派にとっては腹が立って仕方がないようなのです。私は、仕事を効率よくするということは笑いながら楽しくすることだと思う派です。真剣派の人からは批判を受けることもよくあります。どちらも間違っていないのにトラブルは起こってしまうものなのです。しかし、価値観の違うもの同士でも仕事はしなければいけないときはあります。自分のポリシーは人と楽しく仕事をするということと考えると、トラブルを起こす事はもってのほか、トラブルを避けるためにはシーンとした雰囲気、難しい顔して後輩を怒鳴る現場を作らないと言うことになるのです。矛盾です・・・・・こんな場面に遭遇すると、いつも楽しむということについて考えさせられます。おそらく真剣派の人に笑顔の現場を説得しても接点はありません。緊張感のなかで笑いは必要ない。笑わすのはタレントの仕事。スタッフはミスをしないために張り詰めているべきだという人にとって、緊張しないで気楽に行こうという考えはあってはならないものだからです。かなり悩んだ時期もありましたが 今は真剣派の人と仕事をするときこう考えます。どんな雰囲気の現場でも対応できるだけのオーラを身につけるように努力しようと・・・冗談を言わなくても、笑顔がなくても、自分がいるだけでほっとできるだけの自分になりさえすれば文句は言われることはない・・・・・どこにたどり着いても頂上はないんですね。自分が正しいと思ってきたこともどこまできても正解にはたどり着いていない。まだまだ未熟なんだと最近つくづく思っています
Dec 20, 2002
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久しぶりに担当番組で「泣かし」というものを取り扱いました。ゆっくりとしたテンポに持ってゆき音楽と表情と生の声を生かし人が感動できるような演出をかけていくというものです。そこで大切になってくるのが「泣きシロ」というシーンです。テレビ番組はテンポを大切にし次々と面白い場面をつないでいくのが基本ですが、それとは反対に、「泣きシロ」「考えシロ」「笑いシロ」という沈黙に近いほったらかしの数秒のシーンをあえて作ることも必要なのです。今回の「泣きシロ」では音楽と人の顔だけの映像を15秒ほどおきました つまり涙を流すようなシーンの後に、ナレーターが喋ったり、人が喋っていたり、スーパーが出ているとうるさいと思うようになるので、余韻を楽しむ時間を与えようということなのです、「笑いシロ」では、面白いシーンがあったとき、次の展開に進む前に何の演出もしない数秒をおくことで笑いから立ち直る間を作ってあげるのです。「考えシロ」も同じような意味合いです。人の全ての喜怒哀楽の後には全てこの余韻を楽しむ「シロ」が必要です。泣いている人にはついつい言葉をかけて上げたくなるものですが、その時は必ず、少しの間をおいて喋りかけてあげなければ、ある意味、ありがた迷惑にもなりかねません、また、爆笑のあとにはついついもっと笑わせようとつぎの事を言ってしまいますが、必ず笑いからの立ち直りの間は待たなければいけないのです。黙るということが人の感動をより深いモノにする。これは人間関係においても大切なことだと、よく思います。1分も黙っていられない性格の自分としてはよくこのことに関しての失敗をしてしまうことがあります。沈黙は恐いと思うかも知れませんが、なにもしていないということも喜怒哀楽にとっては大切なことなのです。音楽をする人にとっては当たり前のことでもあるかも知れませんが、この余韻を楽しめる人とそうでない人の人生の楽しみ方はかなり違ってくると思います。せわしない師走だからこそ、余裕のない現代社会だからこそ、この喜怒哀楽をより楽しむ、余韻の間を持っていきたいものですね。
Dec 19, 2002
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昨日から今日にかけてクリスマスに放送する、サンタ関係のバラエティーを編集していました。クリスマスの演出が好きな私は毎年こういった番組にはどうしても力が入ってしまいます。いつもそうなのですが力を入れれば入れるほど力余って、編集では使えないことまで現場で演出し収録してしまいます。今回もそうでした、VTRでは10分に仕上げなければいけないのに、収録した内容の多さは20分ほどのモノを作るに値するほどのモノになってしまいました。業界用語でいうところのターハイという状態です。協力してくれた人に申し訳なくてなかなかカットするが出来ませんかなり効率の悪い、プロとしてはあまり褒められない事です。丸一日使って放送されるのは、たったの10分、いつもこんなときは自分を慰めます。「氷山の一角」表に出ている部分はほんの少しだけれど、その部分しかなければ氷山は浮くことはないし、頭を海面に出すことはないのです。大切なのは目に見えない部分。なんでもそうだと思います。犯罪も新聞に載っているような事は、ほんの氷山の一角、恐いのは目に見えていない犯罪とそれを助長している社会背景です。人間だってそうです、認められていること周りからからこうだろうと判断されていることもほんの見えている部分のみです。人間には多面性があり、たまたま今の状況に応じた部分が表面に出ているだけに過ぎないのです。おそらく見えていない部分の方が世の中には多いのでしょう。時にはこう考えてしまうときもあります。自分自身の意識でさえ実は自分で認識できている部分は氷山の一角で、自分の可能性も実は見えていない部分の方が大半を占めているのではないか・・・・見えていないものは見ようと思っても無理な話なのですが、見えているものを見るとき、それが全てではないと意識するだけでも、ものの考え方には広がりが出来るんじゃないかと、そんなことも考えます。今回私が編集した25日に放送される番組はたったの10分ですが、その底辺にはさまざまな人のいろんな思いがあります。こんな日常の仕事の中にもこれだけの目に見えていない大きな氷山があるのだから、おそらく世の中には見えていないものは莫大にあるんだなとつくづく思います。海面に沈んだ部分を意識できる感性をもっともっと養っていきたいといきたいと、今日改めてそう思いました。
Dec 18, 2002
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今日、報道部でドキュメンタリーを作ったディレクターと話をする機会がありました。彼が最近作った作品は、不況の中、就職戦争に立ち向かう高校生を取り上げたものということなので、取材で一番苦労したことは何?という質問をしてみました。すると面白い答えが返ってきたのです。今の高校生たちのひたむきな姿、真剣な表情を一番伝えたいにもかかわらず、彼らはそういう姿を人に見せることを恥だと思う傾向があるそうなのです。親がリストラにあい、大学に行きたくても、行けないという厳しい状況下にありながらも、のんびりと構えていることがかっこいいと思っているのです。必死になることはかっこ悪い、努力している姿はイケてない、そんな意識があるので思うようなシーンが撮れなかったとそのディレクターは嘆いていました。私自身もあまり必死さを前に出すことは好きではありませんでした。難しいところです、今は、イチロー、中田英寿といったストイックに感情を前に出さないタイプがヒーローとして崇められる時代なのです。間違いなくこのヒーローたちは努力家ではあるに違いないのですが、あまり努力を語るタイプではないので、若者はそう受け取るのでしょうか・・・・努力を人に見せないということはひとつの美学として間違ってはいないとは思いますが、人から見るとすごく損なやり方であることは確かです。評価が結果のみだからです。むしろ並以上の結果を出さないと、怠け者扱いされます。努力をアピールするタイプ,努力、必死さを見せないタイプ、かっこいいのは確かに後者です。自分も間違いなく若い頃は、必死にならないことを自分のポリシーにしていたところはありました。今も努力をアピールすることは一切ありません、しかし年をとった今と昔の自分が違うところは、かっこ悪い、なりふりかまわないというかっこよさがあるということを知ったということです。「ありのままの自分を見てくれ」という生き方を少しわかりかけてきたことが少し大人になったところかもしれません。努力を隠す必要もないし、見てもらおうとする必要もない、必死さを隠すこともないし、アピールすることもない。演出しない自己演出、これがこれからの自分のテーマかなと、今日ふとそんなことを感じました。
Dec 17, 2002
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我々テレビディレクターの仕事のなかに企画と言われる分野があります。自分のやりたいことを紙に書き起こし、人に伝え、納得してもらうという仕事です。さまざまな作業の中で、この仕事ほど効率の悪いものはありません 演出や進行といった作業はやればやるだけやったことは残るのですが、この企画というものに関しては20考えて、モノになるものが1つあればいいほうです、採用されなかったものに関しては何の評価にも値しません。しかしだからこそこの企画という仕事は面白いともいえるのです。効率がよくない仕事だけにこの仕事を最優先させると、他の実務的な仕事は出来なくなります、そのためこの作業は就業時間外にすることがほとんどです。毎日、電車に乗っているとき、道を歩いているとき、お酒を飲んでいるとき、「こんなこといいな、出来たらいいな」と常に考えるのです。そんなことをメモに残し、就業時間内に企画書として書き上げます。大切なことは20のうち1つしか採用されないからといって最初からあきらめめてしまうと全く実現するものはないということです。どれだけ数多くのイメージを持てるか、これが企画力があるかないかという評価につながります。自分の経験から言うと、イメージが色の濃いものであればあるほど実現できる可能性は高くなります。このイメージと実現の関係は番組だけではないと最近思えるようになりました。実現するのがたとえ20にひとつ100にひとつだったとしても自分が「こうなったらいいな」と思うことはよりリアルに色濃くイメージするべきなのです。先日ジョンレノンの命日にオノ・ヨ-コさんのこんなコメントをテレビで放送していました「一日一度でいいから胸の躍る素敵なことをイメージしましょう、これを今日から実行してください、間違いなく3ヵ月後、あなたの周りは良くなります。1人がそうすることでは1人ずつしか変っていきませんが10人がこれを実行すれば、それは10倍以上の力となります。出来るだけたくさんの人が幸せになれるようにみんなでこの運動をしてみませんか?この言葉を聞いた人は出来るだけたくさんの人にこのイメージ運動を薦めて、自分も実行してみてください、このイメージをする人がどんどん増えていけば、世界を変える事だって難しいことではないのです」まずは自分の周りから、自分の夢から、仕事に限らず「こんなこと出来たらいいな」ということを一日一度はイメージする、宗教的かもしれませんが、私はこのイメージパワーの信者です。いままでもこのイメージパワーでいくつもの企画、いくつもの夢がかなってきました。実は今日も、自分の「こうなったらいいな」という20のうちのひとつの企画が実現したんです。
Dec 16, 2002
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若手の芸人は先輩より先に舞台に立つとき必ず「お先に勉強させてもらいます」という言葉をかけてから舞台に上ります。先日、あるタレントの楽屋にお邪魔したとき彼は何気なく「いい舞台に出させてもらっています」と言っていました。これを聞いて先に書いた芸人の挨拶を思い出したのです。普通の言葉なのですが、その「させてもらっている」と言う言葉は私の胸に残りました。自分はこの謙虚な気持ちを忘れてはいないだろうかそんなことを考えさせられた言葉だったからです。仕事をしているとき、自分は世の中のために仕事をしている、そんな意識が自分の中で励みになっていたことは確かな事です。しかし実際はどうでしょう、好きな仕事をさせてもらって給料までもらっている、現場を任せてもらって、番組と言うものを作らせてもらっている、人に自分の作った作品を見てもらっている。そうに違いないのです。何人ものスタッフの中で指示する立場を与えてもらって指示を出させてもらっているのです。卑屈になる必要はないですが、こういう気持ちを持っていないと、人はつい立場がよくなると、やってあげてるという傲慢な気持ちになってしまうものです。自分もその1人だったに違いありません。そう考えてみると、全てのことに自分が傲慢だったことに気付きました、タクシーに乗るとき、長距離になると運転手に対して乗ってあげてると言う気持ちに知らず知らずのうちになっていたかも知れませんし、友達が出したお店に食事をしに行くときも行ってあげてるという気持ちがどこかにあったような気がします。今一度、全ての自分の行動をそういう目で見直してみなければ、必ずこの先、大きな壁に当たるような気がしてきました。今の立場で仕事が出来るのも決して自分の頑張りだけではありません、多くの人に支えられて今の仕事が出来ているのです。1人でも自分を支えてくれた人がいるなら自分のおかれている立場はもう自分のものだけではないような気もします。1人でも応援してくれる人がいると自分がはたそうとする夢も自分だけのものではないのかもしれません。子供にクリスマスプレゼントをあげるということで、逆に幸せな気分になる、プレゼントをもらっているのはむしろ大人の方だということが書かれた日記を他のページで見させてもらいました、そのことにつながります。いまこれからすることは全て「させてもらっている」とこう考えて生きてみようと思います。
Dec 15, 2002
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昨日、知り合いのタレントが出演しているお芝居を見に行きました。天才演出家野田秀樹作の舞台で、かなり演劇としてはグレードの高いものだと聞いていたので、自分自身のいい刺激になればと楽しみにしていたのですが、いざ始まってみると、そのレベルの高さに意味を理解することができず、あっけにとられてしまったのです。テンポの速さセリフと動きが持つおもしろさ 舞台演出のテクニックなどは楽しめたのですが、その芝居が伝えようとしているもの、長台詞のなかに含まれる風刺やメッセージ、確かに間違いなく意味を持っていると言うことは感じるのですが、それらを結局最後まで理解することは出来なかったのです。なさけないものです。おそらく舞台好きの観客の半分ほどはそのメッセージを理解していたと思われるのですが、感性がどうのこうのといつも偉そうに言っている自分はその意味を解ることは出来なかったのです。こういった観る感性と言うものは、我々のような仕事をしているからといって優れているとはいえません。むしろ映画や演劇、ドラマなどを数多く見てその度に自分なりの解釈を意識しているお客さんの方がずっとその才能は持っています。人にモノを表現する仕事は時間が不規則なため、人が表現したものを見る機会と言うのはどうしても減ってしまいます。また、自分はお客さんではないと言うへんなプロ意識が素直にモノを観ると言う意識を邪魔することもあるのです。終演後、楽屋でその舞台に出演していたタレントに、今回の舞台の意味と、登場する人物、小道具が比喩していたものの説明を聞き、素直に感心していたのですが、なぜ舞台を観ながらそれに気付かなかったのかということに悔しさも感じました。自分は、人にモノを表現するプロだなんて大きな口をたたきながら、お客さんとしては素人もいいところで、それを今まで、疑問にも思っていなかったなんて自分は本当にめでたい奴だと反省させられました。人生を楽しむ上で、何事に対してもいいお客さんになる感性、才能と言うものは大切なことです。一流の料理人はお客さんとしてレストランに行ってもきっと料理の味わい方、楽しみ方を知っているはずです。話し上手な人は聞き上手であると同じように、自分ももっと上を目指すなら、たとえレベルの高い芝居であっても、理解し楽しめるだけの観る才能を磨かなければいけないなあとつくづく感じました。人を感じさせるテクニックとノウハウを勉強するだけでは不十分、感じさせられる才能を知ることも大切なことだと素直にそう思いました。これからは人が表現しているモノも表現する側の立場からではなくあくまでお客さんとしていいものを吸収することを意識して観ていきたいと思えるようになったのです。また勉強しなければいけないことが増えました。一生勉強ですね
Dec 14, 2002
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今年引いた風邪は、例年になく長引いて2ヶ月以上も咳や鼻水が止まらずあげくのはてには中耳炎にまでなってしまい、そのためいつも行っていた筋トレを長期にわたって休むことになってしまいました。久しぶりに、腕立てふせからはじめてみると、なさけないことに2ヶ月前は50回3セットを軽くこなしていたものが30回も続けられなくなっているのです。毎日続けることの大切さ、時間を空けることの恐さをつくづく感じさせられました。昔、ディレクターの先輩にこういうことを言われたことがあります。「技術的なものはしばらく時間をおいても、自転車と同じで一度覚えたものは、また再開すればすぐにカンは戻るものだけど、面白いものを面白いと思う感性、瞬時の判断力、新しいものを生み出す企画力は、筋力と同じやで、一度なくしてしまうとまた一からやり直しや、たとえ仕事が単調になっても常にそういう感覚は鍛えとかないとあかんで」体力の衰えでその言葉が頭に浮かびました。仕事は年を増すごとに要領は得てくるものなので、多少手を抜いても平均的なものは作れるようになります。しかし恐いもので基礎的な創造力は逆に年をとるたびに衰えていくのです。全く基礎体力と同じです。逆に外から受ける感動に対しては敏感になり、涙もろくなったりはするのですが、人に感動を与えると言うパワーのいる作業に関しては若い人よりも常に鍛えるということが必要になってくるのです。自分なりに考えてみると、衰える理由ははっきりとわかります。人は技術を身につければつけるほど気がつかないうちに手を抜いてしまっているんだと思います。そこが基礎的な創造力を衰えさせる原因なのです。だからこそ仕事以外の時間を使ってでも鍛えなければいけなくなってしまうのです。小手先の技術で処理してしまうものはすべてにおいて魅力に欠けるものだと思います。体力も創造力も維持するためには常に筋肉痛を感じていなければ不安にならなければいけないのです。そう思いながらも、なかなか痛みを共なうことは避けて通ってしまいます。とりあえず落ちてしまった体力は一から鍛えなおさなければいけません。このほうが毎日少しずつ維持することより大変です。あとから必死で取り戻すより、今日も一日、何かを創り出すイメージをひとつ考えないといけないなあと思いながら、またぼーっとした時間を過ごしたことを反省しています。理屈が行動よりも先にたつということ自体、若くないという証拠なのですが・・・・・
Dec 13, 2002
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今日、あるセミプロの芸人さんと打ち合わせをしました 漫才やコント、手品などとは違った全く新しい手法で人にモノを表現する芸人さんです、一言で言うと、ストーリー性を持たない紙芝居のようなものを音楽と一緒に見せていくと言う芸なのですが、打ち合わせをしていくうちにどんどんその芸に興味を惹かれていく自分がわかりました 自分が今まで表現しようとしていたものとあまりにもかけ離れていたというのが興味を惹かれた一番の原因でした。我々テレビ番組を作るものにとって、構成、いわゆるストーリの組み立てと言うのはまず最初に必要なものであって、企画を立てるのと並行してまずそのストーリーの入り口と出口を考えて行きます。誰が、どこで何をどうする、それがあってはじめてそれをどう見せるかの演出と言う作業が行われるのです。しかしその芸人さんの伝え方にはストーリーというものは基本的には存在せず、言葉の面白さ、絵と言葉のバランス、テンポ、そういったものだけで人にモノを表現すると言うのです演出は理屈じゃないといつも言いながら、かなり理屈っぽい自分に気付かされました。ボケとツッコミ、話の組み立て方とオチ、こんなものはなくても人は笑わす事ができる、じっくりと聞かせるしっかりとしたストーリーなんてなくても人を感動させることができる、業界にいるからこそそんな当たり前のことをすっかり忘れてしまっていたのです。例えば恋愛を語るとするなら「君の声が聞きたくて、いつも切なくなる僕がいる。何百文字を使ったラブレターなんかなくても、より今の気持ちを言い表す4文字がある・・・あ・い・た・い」といかにも簡単に気持ちを語ったような文よりも、「好き好き好きだ~い好き!」という文章になってない単語の集合の方が気持ちが伝わるといえば、確かにそういう気もしてくるものです。場合によっては、よく構成されたオチのしっかりとした小噺よりも「プー」という一言の方がずっと面白いことだってあります。自分自身、人にモノを伝えるときスマートに伝えようとしすぎ飾りすぎてしまうことがよくあります。知らず知らずのうちに理屈じゃない面白さ、感動、涙を否定していた自分がいたのかもしれません。ストーリーのないものの面白さ、文章の構成にこだわらない表現、12年もこの業界にいるのにまた新しい発見がありました。やっぱり日々勉強なんだなあとつくづく思った1日でした・・・・
Dec 12, 2002
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毎年、このシーズンになるとクリスマス、お正月特番が重なり、我々の業界はどのセクションも忙しくなります この時期に一番パニックになるのが、各番組の雑用からディレクターの気持ちのケアまでしなくてはいけないADのセクションです。忙しくなるまではわからなかった各ADの特性、パーソナリティーがうかがえるのがこの忙しい時期でもあります。若いADは忙しくなると自分の苦手な分野で必ずといっていいほどミスをおかしてしまいます。整理の下手な人はモノをなくしますし、人とのコミュニケーションの下手な人は対人関係でトラブります。時間にルーズな人間は遅刻をしたり、不注意な人間はけがをしてしまうこともあります しかし不思議なもので2年目、3年目になってくるとそのミスは確実に減ります。かといって自分の不得意分野が克服されているのかと言えばそうではない場合が多いのです。 じっくりと後輩を観察していると面白いことに気がつくのです。人は苦手な分野で何度も失敗しているうちにその苦手分野をカバーするための別の才能が身についてくるようなのです。前もって準備をしっかりと出来ない人は失敗を重ねるごとに、現場で瞬時に対応できる瞬発力が身につきます。逆に瞬時の判断を必要とするときにパニックになる人はその場を数多く踏むと、事前に用意周到にできる能力を身につけていくものです。人は自分のマイナス要因を自分でわかったとき他のプラス要因でカバーしようとする本能的な能力があるものなのです。自分の価値判断、自分の経験でしかモノのいえない上司はマイナス要因を治るまで攻め続けますが実際問題、ミスを減らすにはマイナスをカバーできるだけの他の才能をのばしてあげる方が確実にいい方法なのです。サッカー選手でも背の低い選手はいつのまにかすばしっこさを身につけますし、ボクシングでパワーのない選手はスピードが身につきます。人はマイナス面があると言うことは必ずプラスの面があります。マイナスがミスを起こす原因であるならそれ以上プラスの面を鍛えることが大切なのです。何をやってもダメと言う人は、マイナス面をカバーするプラス面に気がついていないかそれを育てる環境がないかのどちらかです。これは後輩に限らずいつも自分にも言い聞かせています。マイナスはあって当然。それが原因でうまくいかないときはマイナス面を反省しつつそれ以上に自分の得意分野をもっと伸ばそうと・・・うまくいかないときこそ「自分らしさ」を見直すときなんだと・・・
Dec 11, 2002
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今日、パソコンをいじっていると何故かうまく立ち上がらず、新しい資料を取り込もうと思ってもかなり動きが鈍くなっていました。パソコン音痴の私は、新種のウィルスかもと思い、大騒ぎをしていたのですが、そこにデスクの女の子がやってきて私のパソコンを少し触ってこういったのです「色んなもの置いとき過ぎです、いらなくなった情報は削除していってください」そう言われて見てみると確かに私はかなり昔にやった番組の台本や企画書を大事そうに残していたのです。それを見て彼女はにこっとしてその言葉の後にこう続けました。「人間だってそうでしょ、過去の経験や思い出をいつまでも大事にするのはいいことかもしれませんが、どこかで割り切らないと動きは悪くなるでしょ 新しい情報を入れたければ古い情報は削除して下さい 昔のことばかり自慢している人はオヤジって言われますよ」またまた若い女性の言葉に反省させられてしまいました。確かに色んな情報に常に敏感になって新しいものを取り入れ、若い感性でいなくてはいけない仕事をしているつもりなのに、過去の経験を自分の武器に若い世代と勝負していたことに今まで気付いていなかったのです。年をとるごとに「私の時代はこうだった」「昔はこうではなかった」とつい今の時代には通用しない事を大事に自分の経験として持ってしまっていたのです。経験や思い出の中にもいらないものはたくさんあって、あえてそれら失うことによって動きがよくなり、新しいものを取り込みやすくなるということを改めて知らされたのです。全てのことにこれはいえます。何かを失うときかなり寂しい思いをしますが、失うことも大切なことなのです。失うと言うことは新しいものを得る準備をすること 若い感性を持ち続けるための条件であるとも思えてきました。その女の子が去った後、パソコン内の古い情報を整理しながら、捨てていいものダメなものの選択もこれもまた難しいものだなあとつくづく感じていました。あえて失うって年をとればとるほど辛いことですよね・・・・
Dec 10, 2002
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女は付き合う男で変るというのはよく誰もがいう言葉ですがこれは逆の立場でも全く同じ事が言えるものです「男も付き合う女で変る」自分を含め、ディレクターという仕事をしている人間をたくさん見てきましたが いい仕事をしているときには必ずそのときにその裏側で精神面を支えている異性がいるものです これはタレントやスポーツ選手にも言えることですが異性からの応援なしでテンションを上げたり下げたりすることはかなり難しいことだと思います。私自身、今までの作品を振り返ってみると、すべてそのときにしていた自分の恋愛の色合いがよく出ていると思います。言い換えるとテレビのVTRの中にそれぞれその時々にその作品を支えてくれた女性の功績が残されているともいえるのです。感性でモノを作る職業の人間は基本的に感受性は豊かです、感受性の強い人間は当然、恋愛に関しても敏感に反応し、その相手の影響を受けやすいものなのです。ダヴィンチやモーツァルトのような芸術家に至っては全ての作品にその時々の女性の影がしっかりと残されていると言います。恋愛は芸のこやしとよく言いますが、感性が恋愛によって左右されると言うことは経験上、確かにいえることだと思います。あまり大きな声で言うと、公共の電波を使って仕事をしている人間として失格だと言われるかもしれませんが、どうしても仕事のテンションが上がらないときなどはひとつの番組をひとりの女性に見て欲しいだけのために作ることもあったくらいです。「いつもは50万人、100万人の視聴者に見て欲しくて番組を作っているけど・・・今回のこの番組だけは君のために作らせてくれないか・・・」この言葉を恋する女性に言っただけで、がぜんやる気が沸いてきたことを思い出します。ある女性を幸せにするために、頑張ってお金儲けをする。家族のために一生懸命働くということは男性なら誰もが思っていることだとは思いますが、その重圧は左脳にはたらき 枠にはめた発想につながる場合が多いと聞いたことがあります。それとは逆に胸のときめきは右脳を活性化させ創造性を高める作用があるようです。いい恋愛をしている人は、別に恋愛を語らずとも、いい文章が書けるのはその作用です。恋愛の形は人それぞれ、誰が干渉できるものではないと思いますがいい作品のためにはいい恋愛をした方がいいということはいえることだと思います。何故かこの理論に関しては後輩たちはいつも賛同してくれます若いディレクターにとっては常に恋をすると言う、軽い人間と思われがちな行為に大義名分がつくというかなり都合のいい理論だからだと思います。私はいつもこの話の最後にはひと言付け加えます 「誰とでもエッチするって事は、決していい恋愛ではないで」と・・・
Dec 9, 2002
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先日、風邪をこじらして検査のため病院にいきました、待合室にいるとき1年前のある看護婦さんの言葉を思い出しました胃潰瘍で父親が入院したという知らせを受け、私は仕事の都合をつけ、見舞いに行ったのです 幸い父親はたいしたこともなく安静にしていれば2~3日で退院できると言うことでした安心して病室を出ようとしたとき年配の看護婦さんに呼び止められました「○○さんの息子さんですよね」最初は父親の病状について話があるのかと思ったのですがその後に続いた言葉は「テレビのお仕事をされているんですよね」という言葉、どうやら父はその看護婦さんに私の仕事の内容を自慢げに話していたようなのです。何を言われるのかとその看護婦さんの前に立ち止まるとその人は笑顔でこう話し出したのです「テレビに携わる人が気付いておられるかどうかわかりませんが 病院の患者さんたちにとってテレビはすごく大切なんですよ。ほとんどの時間テレビを見ている人もいるくらいです。本当に苦しい人はテレビはつけませんが、病状が安定している人はテレビを楽しみにしています。手術を不安な気持ちで待っている人や、不治の病と戦っている人はニュースやドラマよりけっこうお笑いの番組を好んで見ているようなんです。見舞いの人がきても笑わない患者さんが、テレビを見て笑っているのを見ると 救われた気持ちになるときもあるんです。笑いはいい薬になるんですよ・・・・テレビを作るとき少しでもこういう人たちも見ているんだという意識をもってもらえたらうれしいなあと思うんです」ショックでした・・・そんな意識なんてそれまで一度ももったことはなかったからです、視聴者の年齢層や職業などはこの時間なら多分こんな人が見ているだろうという計算はしていましたが、病院で病気と戦っている人がテレビを楽しみにしているという発想自体がなかったのです。そう思って考えると、今までターゲットと考え頭に浮かべていた視聴者はすべて多数派であり、少数派の人たちのことは頭に浮かべていなかったように思えました テレビを見る人の中には当然、外へ出れないほど精神的にまいっている人や、リストラで仕事を失って家にいる人もいます そういった人たちこそ本当は笑いを求めているのかもしれないという新しい職業意識がその看護婦さんの言葉から生まれました かといって番組を少数派の人たちにあわせて作ると言うことは無理があります、しかしその意識があるのとないのとではまったく作るものが変ってくるような気がしたのです。その時看護婦さんから頂いた言葉はこんな時代、不景気で自殺者が年間3万人を超えるという今だからこそ 「笑い」を追及しいいものを生み出すと言う仕事に誇りを持とうという考え方にさせてくれたひと言でした
Dec 8, 2002
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今、ちょうど収録、編集を行っている番組は、クリスマスに向けたものが多くなります、この時期は4月のエイプリールフールよりも大々的に我々を含めた大人は嘘をつくことになりますそう、サンタクロースの存在です 特にテレビでは逆に嘘を放送しないと(サンタクロースはいると)大変なことになってしまうのです 昨年サザエさんのクリスマスに向けての放送で、マスオさんがタラちゃんのためにデパートでプレゼントを買いサンタクロースになるというシーンがあり苦情が殺到、業界内で大きな問題になりました サンタになるとかサンタはいないと思わすものはこの時期絶対に子供の起きている時間帯では流せないのです夢を守るための嘘、これは嘘は嘘でもなくてはならない嘘です。私の幼少期には母親は「うちは仏教だからサンタは来ません」と夢のない嘘をついていました テレビでは嘘をついたと週刊誌にたたかれることもよくあることです。しかし大切なのは嘘をつく「やらせ」をする目的なんだと思います 番組と言う大人向けのおとぎ話のなかで人を楽しませるためのものならそれはサンタに近いものですし、興味を惹きたいだけのためにとか視聴率稼ぎのための嘘はたたかれても当然ですついて喜ばれる嘘を追い求めていくということも大切なこと、じゃあついて言い嘘はどんな嘘なのだろう?、この時期になるといつもそのことについて考えさせられます。
Dec 7, 2002
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番組の評価は単純には視聴率と言うものが一番に考えられることが多いですが、それだけではありません、よく出来た作りやメッセージ性の高いものは業界内でいい評価を得ることが出来ます。よく出来たものというのは、構成がしっかりしていて、起承転結がよく表現できていて、映像表現が綺麗であったり、見せたいものがしっかりとわかるつくりのものを言いますそんな評価の中に「色気がある」と言う表現を使うことがあります私自身はこの色気のある番組と言うものが大好きです色気といってもセックス描写のあるものや女性のセクシーな映像を言うのとは少し違います味のある役者が酒を飲みながら生き方を語っているものや、野球選手が勝負を語るトーク番組、熟年の綺麗な女性作家が恋を語っているもの、ギャンブラーが自分の大負けした賭け事の話をしているものなど、人間の臭いのするものを「色気がある」という表現することがあるのです。普通のタレントではなく、特別な経験をもつゲストが出ている番組にも色気を感じます普通は面白いという感想が一番なのですが、見終わった後に「へえ~かっこいいなあ」と思えるのが色気なのかもしれません人間でも、セックスそのもののフェロモンではなくかっこいいと思わせる人はたくさんいます。生き方がセクシーな人たちです。自分のポリシーがあって、深みがあるそんな人たちには純粋に「かっこいいなあ」と思えます面白い人になりたいと常にそう思い続けて今まで生きてきましたが最近の自分の夢は「色気のある生き方をしたい」と言うものに変ってきました。今となっては、夢は具体的な職業や地位、お金ではなくなってきました かなり抽象的ではありますがこの色気をもつことにあこがれるようになってきたのですそのためにはおそらく、ここ一番の人生の選択、人に対しての立ち振る舞い、お金の使い方にこだわっていかなければいけないんだと思います。キザではなく、かっこつけるのではなく、内面からかもし出すかっこよさ、そして何より自分流の生き方を貫いている人、そんな人を目指すためにはまず、目先のもめごとや腹立たしいことでじたばたしていてはダメなんだなあと思いつつ、じたばたじているまだまだ色気のない私がいます。
Dec 6, 2002
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