土門にとって去年のゴールデンウィークは、なぜか胸騒ぎのする一週間であった。
連休直前の成田空港は海外への脱出者でごった返していた。土門は海外にはあまり
縁がなく、八年前の米国西海岸旅行が唯一の国外脱出であった。
当時の成田空港と比べるとフィリピンやタイといった東南アジア系の人たちがやた
らと目立つようになっていた。ジャパ行きさんたちのお里帰りの一団が、独特なイ
ントネーションの日本語を駆使し、口角泡を飛ばしながら喋りまくっている。彼女
たちのフトコロは日本円で充分潤ったのだろうか。日本の生活で嫌な思いはしなか
っただろうか。日本の印象をどのように同胞に語るのだろうか。他人事ながら余計
な心配が込み上げて来る。成田国際空港にはそんなセンチメンタルな思いをさせて
くれる独特のムードがある。
華やかな雰囲気を醸し出す国際線ロビーの雑踏の中に、何かを決心したように毅然
とした麗子の姿があった。それにしても日本人にない優雅さがあり、このような国
際的な舞台では妙に映えて美しかった。
風間麗子。中国の上海生まれの三十一歳。十一年前に来日、東京は浅草の日本料理
店で働いていた。その後間もなく店の板前と結婚して所帯を構えた経緯から一応国際結婚である。
土門雄二は東京生まれ。現在三十五歳。大学卒業後製薬会社に就職、病院や薬局回
りの営業部員である。二十四歳で恋愛結婚。子供は八歳の男子が一人いる。
「しばらく日本で働いて一時故郷へ帰ったら、追いかけて来て強引に結婚を迫った
の。その熱意に負けて結婚を決めてしまった」
中国で撮った当時の写真を見せながら土門に話したことがあった。
「妹も日本で働いていたし、憧れの日本で暮らせると思うと、つい結婚を承諾しち
ゃった」
二十歳で来日し翌年には結婚という早業は、国境を越えた大恋愛の結果とも見える
が、夫の強引な求愛と日本で暮らせるという打算から、愛情の希薄な結婚という形
になってしまった。
「前から思っていた理想の男性像とは違った」
嫌なことを思い出してしまったように不満顔を見せる麗子であった。
「今はそう感じるんだろうけれど、当時はきっと君も彼を愛していたんだと思う」
土門はいつも麗子をたしなめた。
上海便の出発時間が一時間と迫っていた。すでに搭乗手続きを済ませていた麗子は
空港内の喫茶室に土門を誘った。
「送ってくれてありがとう。十日で帰って来るから待っていてね」
「本当に十日で帰って来るのか。二週間と言っておきながら二ヶ月も帰って来なか
ったことがあるからな」
空港内に搭乗案内の放送が流れた。土門は柄にもなく映画やテレビで見る、あの感
動的な男女の別れを再現したいと思った。しかし悲しいかな小心で照れ屋の土門に
はとてもそんな勇気はなかった。
「早く帰って来いよ。待っている」
これだけ言うのが精一杯であった。
喫茶室を出た麗子は一瞬笑顔を見せたが、次の瞬間、土門に背を向け足早に階段を
降りて行ってしまった。その後ろ姿に『もう少し俺のすてきな別離の言葉を聞いて
行けよ』と呼びかけたい土門であった。
土門の心の片隅に『これで最後なのか』という思いが去来した。もちろん好きな人
を失いたくない未練心もあったが、反面『これで平穏な生活が戻って来る』という
心地よい開放感もあった。今の土門には麗子と知り合う前の生活に戻ることが重要
な課題であった。『平穏な生活に戻りたい』心が理性を通じてゆっくりとしかも確
実に芽生えていた。
成田空港を後にして東関東高速道路をひた走る土門は、空虚さと安堵感が交錯した
複雑な心境であった。
成田での別離から、土門は新たな生きがいを模索しながら、家族たちとの平穏な生
活をエンジョイしている。土門を取り巻く家族の愛は何の変哲もなく平凡であるが、今も昔も変わりなく親愛的である。
土門と麗子が愛の出来事を遠い過去のものとして心の奥底にしまい込むには、少な
くともそれを体験した歳月と同じ時間を要するだろう。