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未来。年齢的に「未来」と呼べるほどの歳月がどれだけあるかはわからないけれど。自分の「在りたい」「望ましい」姿を具体的に描いた時に、目標(到達点)と、そのための課題・条件等を具体的に創出することができる。いまさら大きな「在りたい」を想うことはないけれど、小さいなりに、日々の状況に合わせながら、行き着きたいところの道筋も変化していく。夕飯の後、ついウトウト・ダラダラと時を過ごしてしまいがちだが、まずは机の前に座る。一日30分、いや15分でもいいから、明日、もう少し先の明日を想い、歩を進めていくようにしなくちゃ、です。一日を過ごすこと。自分や自分の大切な人の「なにか」を創るために、生産と消費を重ねていけるといいな。
2022.08.18
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たとえば、「毋望之禍(むぼうのわざわい)」「禍福倚伏」(かふくいふく)」「塞翁失馬(さいおうしつば)」とか。もちろん、分からないので調べたんですが。毎日、「何でもない一日は、特別な一日」「やわらかく、ていねい、速やかに、穏やかに」と思いながら暮らしていても、時に、ふいに、↓な時間が降りかかってきたりする。降りかかる、のではなく、不注意・不用意からの出来事ではあるのですが。いやいや、いろいろありますね、毎日、周囲(誰かや自宅環境外)に向けて身を動かしたり、発信したりするだけで。生きて、外に向かって歩を進めようとする限り、この繰り返しなんでしょうな。がんばりまっしょい。
2022.08.17
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外は雨。なにかの拍子に、棚の整理を始めてしまった。出てくるなぁ、以前に整理したつもりで、なんとなく突っ込んでおく…かたちになってしまった、古い物と古い物の数々。かといって、みんながみんなただ「古い」だけではなく、古い物や情報の整理は、いまの新しい物や、いまの考え方、感じ方との組み合わせによる「編集作業」でもある。と思う。しばらくいじらなくなった場所で、固まってしまった、古いモノ・コト × 古いモノ・コト。古いモノ・コト × 新しいモノ・コト。で、時には、自分の中での「ワクっ」な期待感を得られることもあったりして。「古く、凝り固まってしまった場所」を意識的にいじることって、案外たいせつかもしれない。なんだけど、日常的には、なんかの勢いがないと動かないんだなぁ。
2022.08.13
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LINEなどのSNSの普及による、旧知の声による再会。故郷の学生時代の友人たちや、ずっと以前に勤めていた会社の先輩など。お互いに歳を重ねて交わす話の内容も、昔と変わらずのおばかプラス、カラダと気持ちの話、家族の話、それぞれがそれぞれのタイミングで出合った、出合ってしまった、起きてしまった、あれこれ凸凹の人生のおハナシ。みんな、ハードル乗り越えるというか、ぶった押しながらも、なんとか前へと歩を進めての、お互いの年齢在り、という感じだ。そんななかで、時に、相手が胸を開いて発する声には、ずしんと重いたいものもある。自身や家族の大きな病、生命に直に関わる話。しかたがないことではあるが、この類の話題に接する機会が多くなったということだ。デジタルツールの普及は、他者の直面する問題を通して、自分にも、もしかしたら明日にでも起きるかもしれないということを考える時間を確実に増やしもしている。これまでにも少し、よく考えて、でも考え過ぎないで、お尻を決めて動かないとまずいから、それなりに速やかに動く。動いてみる。動きながら、「あ、軌道修正しなくちゃ」は、現在進行形でやってきてはいる。今後、良いことよりは、そうでないことに向き合っていく時間が増えていくのかも、いくのだろうと思っている。まだ、カラダもココロも、相応に自由に動くうちに、「考える」「考えたら動く」機会を増やすことは悪いことではないだろう。周囲からも、こちらからも、歳をとり、年齢なりの発受信を交わすIngすることで、生きて在る時間を、少しでもより良い方に自ら導いていけたら。年齢を重ねた、お互いのSNSでの声のやりとりには、そんな効能もあるのだろう。「なんでもない一日は、特別な一日」できるなら、一日をやわらかく、ていねいに、穏やかにいたいものだ。
2022.08.11
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空を見ている。歩きながら、よく空を見ている。この空は、故郷につながっている。空を見ては、想う。夏の空と秋の空。違うけれど、どちらも好き。夏の空に、なにかを想い、空きの空にも、なにかを感じている。雲の本がどこかにあったな。探し出して、眺めてみようかな。
2022.08.07
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雨の誰もいないグランドが好き。「静寂」…静かで、寂しい。その佇まいが好き。今は黙って 静けさを愛せばよい♪「流れる」(吉田拓郎)懐かしい歌が胸をよぎる。
2022.07.28
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人は、人と関わりながら、生活を営んでいる。望む、望まないに関わらず、人は他者との関わりのなかで生きている。これまで若い、若くないをこえて、周囲の人たちに対して、頑な人を見てきた。物事に対する異論や感覚、感情の相違。人は一人一人違うのが当たり前だから、「そんな考えや感じ方もあるんだな」で多くのことはいけると思うのだが、そうでもないらしい。自分が正しい、にひたすら、こだわっているわけではないのだろうが、ドアをピシャっと閉めてしまう。「いつでも自分たちのドアを半開きにしておく」ある雑誌でコミュニティビジネスを運営する人が言っていたこと。自分たちがどんなことをしているか、を機会あるごとに言動で発信しながら、もし関心があるのなら、いつでもどうぞ。「出入り自由」の姿勢をみせていく。人は、人と。人と、人とが。この辺はどんな時代でも変わらないのだろうから、できるだけ楽しく、大らかに暮らしていく感じ方や術(すべ)を身につけていたいなと。
2022.07.23
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明日(今日)の地域活動の集まりが中止になった。ツキイチの拠点としているケアプラザで陽性者が複数出たとのことで、取り止めになった。ほんとうなら、初めての夜の部(飲み会)を行う予定だったものを、社会状況から昼の活動に戻して行う予定だったのだけれど、それも×。しゃぁないですね。ようやく蝉が鳴き出した。人間もタイヘンよねぇ、と言っているのかどうか?
2022.07.23
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京都・大阪・甲府・新庄・郡山8月上・中旬に滞在したことのある町。ギラッ、ジト~、ベタ~、ジワ~、グタ~強く照りつける陽ざしに、風が澱んでいた。日中の時間は、いっとき、止まったかのよう。暑い町には、おそばやお酒や地の物など、おいしい食べ物もあった。かき氷を口に含むと、涼味がツ~ンと頭に抜けた。浴衣姿の女性たちが楽しげな顔を浮かべながら路地の向こうへ消えた。
2022.07.21
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14年前のその辺風景撮りから。大阪のどこか。なんか、場所的に、っぽい。いまでも、あるのだろうか?コウモリだけが知っている♪
2022.07.19
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ごく、たま~には、いいかもね。富士山盛りを頼んだことは、過去に2回。いずれも、最後は意地で食べ切った。最近は頼んだことはないけれど、何度か大盛りを頼んだ時に「量が減ったなぁ」と感じた。それからして、富士山盛りも減っているのだろう。直近の話ではなく、ここ数年前からのこと。いろんなところで、ニッポン、勢いをなくしているような。
2022.07.18
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なんつって・・・なんのイベントだったんだろう?「ばかばかしいことを、大まじめに」が、いいな。
2022.07.17
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一切の葉を落とし、凛とした構えで空に伸びる。緑濃く葉を湛え、午後の風、緑陰を縫い、歩む足元へ。2~3月から、数か月で見事に姿を変える木々の姿。再生、循環。毎日毎日の少しずつの変化。歩速のなかで、季節の移り変わりを感じながら、日増しの年齢に抗うことなく、受け入れつつ、無年齢でいこう。の凡庸ながら、穏やかな時間。
2022.07.16
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森に降る雨と、海・川・湖。春・夏・秋・冬と周る季節。朝から昼、夜へ、そしてまた、朝を迎える。血液は体内を、エンジンオイルや経済もめぐる。そして、気持ちも押したり引いたり、アップ&ダウンしたり。ナカナカ、ナカナカ、むむむの時代環境ではありますが、「循環」均等じゃなくても、正確じゃなくても、いびつであっても、良きも、良きよりちょっとばっか強い悪きも、軽い追い風も、思った以上の向かい風も、周り、周していきまっしょい。
2022.07.14
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故郷の少年時代の夏に、庭で咲き誇っていた、ひまわり。背が高く、陽光を浴びながら、風に揺れていた。ひまわりは、時間を逆回転させ、あの時代、あの頃のあの場所を思い出させてくれる。「ひまわり」山田晃士 https://youtu.be/FM3uLkBEQDM前川 清https://youtu.be/QqPzeSEQtoU長渕剛https://youtu.be/WBF9VFt9zLU映画・ひまわりhttps://youtu.be/ElQzsTo2qoc
2022.07.14
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コトバンク「一日」あんなに沢山あったのに。気がついたら、ぐんと減っている。毎日、一つ。あるいは、少量だけ使うもの。たとえば、1DAYタイプのコンタクト、シャンプー、飲み薬、化粧品の類など。ちょっとずつ減り、ある日、その減りに、日の流れや重なりを感じてしまう。繰り返し、繰り返しながら、一日が始まり、終わる。なんでもない、ふつうの一日を、「ありがたい」と思うようになったのは、いつからのことだろう。
2022.07.12
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「集まる」遊んだり食べたりして集まるのは、知人ではなく、必要なときに助け合う、友人だという意識が育っている。「食べる」「食べることで、社会がしている努力は、「仲間」と食べるか、「健康」に食べるか、その何れかのようだ。36年前に、あるマーケティング・プランナーが本の中で言っていたこと。今でも、本質的な部分は通じるように思う。10年前から、学生時代の友人と夜会(関係ないけど、以前は中島みゆきさんのこの動画がみられたけど、やっぱり、サッパリ削除されちゃったようで)をしている。といっても、一か月~2か月に一度、夜に食事をして話をしているだけ。「逢って、顔をみて、話す」「生存確認💦)のため(笑)お互いの仕事の話や、車・バイクの話や、生きてきた現在進行形での凸凹話やら。お互い、自分の凸凹タイヘン事は自分でがんばって、逢うときゃ、無年齢にガハハワハハだの、ヒソヒソだの。いつしかもう一人巻き込んで、今では、ゆる~り約月イチ3人夜会。先だっては、ええ年モンが盛り上がって、店出た後の駐車場で2時間話。巻き込んだその一人が言っていたのだが、以前にキモチの病が発症したこともあったのだが、先月、話してから、この一か月がカラダが調子いいんだと。ええじゃないか。どんなに世の中が発達しても、人は人と。人と人とが。人は、人から刺激を受ける。元気をもらう。のではないかな。歳を増すごとに、旧関係のつながりを絶ち、絞ってきた。古い関係を絶つ分、地域の新しいつながりをつくり、高齢者(自分より💦)の家の草取りをしたりして、夏場の大汗をかいて楽しんでいる。(結果のすぐみえることって、タノシー♪)凡庸で、小さな生活者の愉しみは、小さく絞った、「人」に添って周っている。
2022.07.11
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たとえば草取りやウエットぺーパーでの床掃除、入浴後の天井・壁・床の水切りワイパーがけなど。「すぐに結果がみえる」ことが好き。気持ちがいいから。スッキリ感を味わえるから。それだけ。床掃除(プラス各場所の埃取り)と風呂場の水切りは、もう10年になるかな。ほぼ毎日。あら、気がついたら、続いていますな。継続は、ナントカ、かな。AMの床掃除の際は、ここ数か月はもっぱらサルサ♪を流しながら。なんとなく前向きキブン♬
2022.07.11
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だよねぇ。「なぜ年齢をきくの」(土屋耕一さん/伊勢丹)というコピーを思い出す。歳を重ね、日々をあれこれで凸凹と在るなかで、申請書類を書いたり、年齢の話になったときなどを除いて、「じぶんは、いま、何歳」と、そうは意識することはないかな。鏡をみたときは、ま、相応に経てきた歳を感じはしてしまうけど。日本人は、確かに「年齢の話」は好きだと思う。職場や活動で、いろんな世代の人が集まった際に、話の内容そのものよりも、年齢の話で盛り上がったり、しやすいということもあるのだろうか。ちょいとずれるけど、歌・音楽なんかもそうではないかな。い一つの曲をして、「古い・新しい」というけれど、歌い継がれる、聴き継がれる・演じ継がれる歌(音楽)があるだけ、だと思うんだけどな。ある年齢になって、あらためて聴いて、「新しい」。そんな歌もあるんだけどな。あ、やはり、ずれたかな。
2022.07.07
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週一回、フライパン一つ、のカンタン料理。大皿にどかんと盛りつける。クックドゥなどの市販の「味」なども利用しながら、時に肉の両面の下味付けなど、案外に手間なこともあるけど、それなりに楽しみながら、何とかやり続けていると、なんとか続くものですな。「ズッキーニの肉巻きソテー」肉厚に切った野菜の歯ごたえ・甘みと、塩・コショウした豚バラ肉の味と、ん~、イケマスね♪
2022.07.07
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使う喜び、使う楽しさを、少しでも長く。自分に残された人生の時間は、いかほどのものか?おそらくは、そんなこともうっすらと意識しているのだろうと思う。モノやサービスを買う時のスピード。これが、やたらと早くなった。ほんとうに必要か? (それを購入する)他に、別の物や方法で良くないか?なにかを買う際に、ちょいとマジ考えて、それでも「要る」「欲しい」となれば、即決する。やたら買いをしているわけではないが、高額商品・サービスの部類に入るものでもそうなった。自分や家族、誰かのためにモノやサービス=お金が活かされる。このことをきちんと実感・体感するためにも、自分の意識が意識的に、カラダの自由が働くうちに。ということを、いろんな場面で思うようになっている。
2022.06.30
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誰かのために? 自分のために?とか言ったり、思ったりする以前に、人は、自分のためだけに生きることをしていないのでは。「誰かのために」と、大上段に構えなくても、家族、仕事の相手・関係者、友人・知人、地域の人たち。張り合い、愉しみ、時に残念やら失望なども。人は人に、人と人とが、の日常を無意識におくっているのでせう。、
2022.06.21
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「今まで、なぜこんなことに気持ち沈めていたのだろう」ある瞬間に、パッと心模様が切り替わる。そんなことを経験したのは、19の夏だった。幼い頃に室内で、玩具の車に乗っていて、掘りごたつに落下し、右脚の脛部分に大やけどを負った(らしい)。小~高校生の頃まで、その跡を気にして夏の体育や水泳の時間はサポーターで隠していた(いま思えば、逆に目がいくのだが)。で、時は過ぎ、田舎から都市部へ出て来て通った学校の友だちたちと気乗りはしなかったが海に泳ぎに行った(行くことになってしまった)。新しい友人たちの前では、訊かれて答えるのも面倒だったのでサポーターはしなかったが、やはり周りの眼は気にしていた。沖まで泳いで帰ってきて、砂浜に寝転んで、空を見た時、ふいに(とは、こんな時をいうのかも)、すげぇバカバカしくなった。つまんねぇことにこだわってきたな、と。そう思えた理由はわからないが、ある場面で気に病んでいたことが、どうでもよくなった時、胸の内の霧が晴れ、すーっと気持ちが軽くなった。ン10年も経った現在でも、その瞬間を覚えている。今じゃぁ、短パンなどをはいていて、そばに誰かがいたならば、「これねぇ、~~~~」などとやっているのだから、わからないものだ。物持ち、金持ちもいいけれど、「気持ち」の持ちようも人の在る時間には大きいものだなぁ。
2022.06.18
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「いつもと変わらない一日は、特別な一日」と言った人がいるけど、実感あり。そんな年齢になってしまったなぁ。身内の健康や、自分の身体の部位のあれこれの痛み。日替わりで生じる大小の凸凹問題。毎日、(深)夜に入浴し、その後の自分や風呂場の整えなど、ルーティンの作業も、あれこれありながらも、「いつもと変わらない」と思える日であってこそ、ルーティンとして成り立っている。「楽しむ」「面白がる」「感謝する」「(自分の)ドアを開けておく」など、そういうことには、できるかぎり、素直でいようと。
2022.06.14
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食べ物の好き嫌いがない。春菊は積極的には食べないが、人の家で出されたとしたら、失礼にならないように食べ(られ)る。くらいのもの。野菜でいえば、誰かが嫌いといって食べられないものを、「おいしい」と感じて食べられることって、幸せなこと。そういえば、若い頃にいた職場で、昼食の串カツ定食で同僚が玉ねぎが嫌いとかで抜き出した時には、なんでこのメニューを頼んだの? って思ったっけ。長年、人の食べ物の好き嫌いに関して思っているのは、偏食、好き嫌いの激しい人は、人に対しての好き嫌いもそのようだ、と。自分の周りでは数人該当者がいるが、さて、どんなものだろう。
2022.06.13
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「これで、間を抜かれたり、頭上を越されたら、しかたがない」もう一点も与えることはできない。ここが正念場。という時の、守り手側の思いっきりのよい守備陣形。内野手はベースラインから一歩・二歩と前に出て、腰を落とす。外野手は、定位置からぐっと前に来て、バックホーム体制を敷く。「来い、ホームで刺してやる」と、言っているかはわからないけれど、あたかも野手の心の声が聞こえてくるような潔さを感じる。守りながら、攻めている。野球観戦の醍醐味であり、いちばん好きなライブ感あふれる光景だ。深く日常につなげて観ているわけじゃないけれど、わくわくどきどき感を与えてくれるのは、場のしっかりとした意思を感じさせてくれるからなのかも。外野に近い内野の、ちょっと上の席からフィールドを見渡すのが好き。
2022.06.05
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歳を重ねて、活字媒体を中心に耳目にすることが増えた言葉。「引き算の人生・生き方」と、足し算のそれ。物事や情報、人間関係、資産と呼ばれるもの、など。捨てたり、そぎ落としたり、手放したり。反面、在るものに加えたり、新しく始めたり、必要なものは必要だったり。まぁ、「これだ」というのはわからんのですが、一個の人間が、じぶんが、より良く生き暮らしていくための、「編集」作業は必要かなぁと思っております。人の関係で言えば、年賀状なんて、ある時期は200枚くらいのやりとりをしていたのに、今じゃ10数枚。どんどんご縁を解消していったのです。仕事的にとか、お正月のみのご縁とか。義理とか。「もういいよね」というつながりをどんどこ絶ってきた。一方で、自分がたいせつだと思っている一人の友人と、1,2か月に一回は必ず食事をしてなんでも話す。数時間を一緒に過ごす。地域の活動に参加して、新しい人たちと地元のコトで盛り上がる。生きて在る暮らしの引いたり、足したり。物心両面で、意識的に楽しんでいけるといいだけどな。「捨てる」なんて、捨てるまで迷っていたのに、捨てた瞬間から、すっかり・すっきり忘れてしまう、だもんね。いいことだと思っています。
2022.04.18
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仕事の場で、地域活動の場で、「もっと、この人と一緒に」と思っていた人が、それぞれの理由で次の場へと歩を進めていく。笑顔で送り出し、でも、ふいっと寂寞の思い。時季的に、あちこちの場で見られることだろう。人と人との直接的な関わりは永遠ではなく、日々の暮らしの中で、変化は付きもの。命が有限である以上、家族とて同じこと。自分と他者とが交わった時間と、徐々に徐々に淡く消えゆくそうした時間への思いを受けとめていくのも、年齢を重ねていくことなのだろう。
2022.02.25
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「雪国でくらしていて美しいなぁと思う眺めは真冬の落葉樹である。烈風に耐え寒気をしのぐために、必要ぎりぎりのもの以外の一切をすて去っても、あばらぼねだけになってもたっている木々の姿である。春に最も近く位置しているのは、あきらかにそのような木々ですね」(詞集 たいまつI むのたけじ)冬の散歩で、いつも思い出す言葉。いまの時代になって、より感じることがある、かも。人それぞれの」春」があるのでせう。やぁ、約10年ぶりにこの広場に「迷い込んじゃった」いろいろ変わりました。「ブルーツース?」…ブルーハーツかと思っちゃったよ。
2022.02.17
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2013.01.01
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2012.12.31
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わ、わ、わ…新年の勢いで、久しぶりに入っちゃった。ウラシマタロウ状態。
2012.12.31
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なにを想いましたか?今年で、65回目の「原爆の日」。今年も、同じ歌を聴きました。「いつも見ていたヒロシマ」http://www.youtube.com/watch?v=l2-FUxoL7v0&NR=1(ライヴ版)http://www.youtube.com/watch?v=WSOs_Q5nWUQ歌詞http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND77082/index.html
2010.08.10
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「私たちにはお金はないが、人一倍、家族を思う気持ちをもっている」10数年前、務めていた会社の旅行でフィリピンのある島に。夕方、宿泊先から繁華街まで、片道1時間。往復の足に、ホテルがワゴン車を出してくれた。繁華街やリゾート地を少し離れると、未舗装の道が多い。道の片側には高木が生い茂り、粗末な家々が点在している。商店の窓には鉄格子がある。印象的だったのは、どの家の周りでも人々が円をつくり、思い思いに座り込み、談笑している姿。ほんとにどの家も、と言うくらいに。帰りの道のり、助手席に座ることになったので、ドライバーに話しかけてみた。「みんな、なにをしているの?」「家族で話をしているだけ」「毎日、こうしているの?」「そう。家の中は暑いし、夜はすることもない。(文明の機器などはない)だから夕食の後、外で涼みながら、 みんなでたわいない話をしています」「そう・・・」「ぼくたちの大事な時間だよ。フィリピンの人たちは貧しいけど、 家族をとても大切にしている」「あなたは結婚しているの?」「はい。子どもが3人います。ぼくの年齢でこっちではふつう」(確か30前だった) (沈黙の後、彼から話しかけてきて)「ぼくはホテルのドライバー以外にも、仕事を掛け持ちしています。 生活は楽ではないけど、夜、家に帰って家族の顔を見て、 一緒に過ごす時間はなによりのハッピー。 家族のために働きたい。そう思えることが喜びです」(少し間があり)「フィリピンでは、家族の時間と幸福がつながっているけど、 日本人はそうは見えません。お金はもっているけど・・・」 言われてしまったね。すごい凹凸道を行く、その頭上には月が煌々と輝き、満天の星空。押し黙ってウインドウ越しに夜空を見上げていた。ある場所で車を停めたとき、彼がジュースをおごってくれた。コップの中の氷が不安だったけど、思い切って飲み干した。「サンキュー!」彼の好意と笑顔が、旅土産となった。飛行機を乗り継ぎ、マニラへ。マニラ空港へ向かうバスの中から見えた大スラム街。ああ、あれが・・・ 思わず息をのむ。身近な誰かを、等身大でなにかを想う中に見つけるものは、家族に限ったことではなく。想う旅、という意味ではいい旅でした。というより、いま、こんなことを思い出し、書きたいと思っていることに意味があるのだろう。
2008.10.12
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古い街の夕方の路地を抜けると、暮らすにおいに出合う。窓からもれる石鹸の甘い香りは、早番で仕事を終え、ほっと息抜く人のささやかな幸福の時間だろうか。秋刀魚を焼くそのにおいとともに立ちのぼる煙には、家族を待つ母の気持ちがこめられているのか。味噌汁のダシをとっているだろうニボシのにおいに、バッタ打ちをして過ごした少年時代の放課後がよみがえる。世の中は「暗黒の一週間」らしい。画面に映る人々は、一様に憂鬱な顔をしながら、株式の掲示板を眺め、インタビューに答えている。周囲や我が身を振り返れば、自力はもとより、他者の力を借りても根本の解決をみない、生涯向き合い、つきあっていかなければいけないこともあるようだ。誰でも、大小の差はあれ言えることではないのかな。漆黒の闇が来ようとも、在るものはあり、無いものは無い。3度のごはんはやっぱり美味いし、これから誰かと食べる冬の鍋物だって美味いだろう。この先、ますます困った事態などあるかもしれないし、さらにころんでもいい心構えだけはしているが、そんなときでも誰かと大衆酒場で食べるホルモン焼きの時間に人と関わることの幸せを感じているだろう。今日も路地裏の家々から、大言なく、地道に暮らしに眼を向ける人たちのにおいが流れ、誰かに束の間の幸福と勇む気持ちを与えてくれるのだろう。
2008.10.11
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緒形拳さんの書。もう10年余もなるだろうか、雑誌からコピーして机の前にピン留めしてある。歳を重ねて、身に沁みて思うのは、自らの想いや在り方と契ることのむずかしさ、意思の弱さ。じぶんの想いと濃く契り、近づき続けることができるのなら、自ずと、人との契りや関わり方も濃くなるのではないか。そう思うのです。時間は有限。何事なく凡庸に日々が続くとしても、もう意識せざるをえないとこまで来ている。こう在りたい、これだけはも一度挑みたい。あの場所へ出かけたい。あの人と会って話がしてみたい。で、終わるだけなら、いっそのこと想いなどもたぬ方がよいのか?そうは思わないけど、「物持ち、金持ち、力持ち、持つもの色々あるけれど、人の気持ちにはかなわない」と、むのたけじさんはある著書のなかで言っているが、実にする気持ちもなく、物も金も力もないのも、やっぱり困るかなぁ。「あんた、こんなことやってよく恥ずかしくないね」「Ryu's Bar 気ままにいい夜」という番組の中で、ゲストの緒形拳さんがホスト役の村上龍さんに笑みを浮かべ話かけていた様子がいまだに印象に残っている。緒形拳さんのもつ空気とでもいうのか。無縁でも訃報に、「惜しい」と思う存在感のある人はいる。声・間合い含めてまだ観たかったなぁ。
2008.10.08
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「メリーさん」と、横浜で言えば。思い浮かぶのは、おそらくこの人のことではないだろうか。横浜に暮らす人ならば、これまで何度かは日々の話題として口にしたこともあるのではないかな。http://www.k2.dion.ne.jp/~dambala/top/merry.htmlいま、多くのメディアで取り上げられているメリーさんの映画。http://www.hamakei.com/headline/1475/index.htmlhttp://www.barks.jp/news/?id=1000022317&v=f今日の新聞にも、監督が横浜市長を訪ねたとの記事がありました。初めて勤めた会社が馬車道の近くで、昼休みにユーリンファボリ(旧・有隣堂文具館跡)に行くと、よくビルの前のベンチに一人たたずんでいた。白塗り、白装束。最初は、ほんとにぎょっとしたなぁ。そのうち、いつのまにか見かけなくなったメリーさん。その後については、聞きかじりにも満たないレベルで知ってはいる。でもそんなことより、メリーさんはいつでもメリーさんだったなぁ。生い立ちや本名がどうだとか気になりはしないのだけど、メリーさんはメリーさんとして、横浜の地に証を残していた。「メリーさん」と口にするとき、ああ自分はこの土地に暮らす時間を置いて、長くあるのだなぁということも感じるのでありました。一人ベンチで前をみつめ、彼女はなにを思っていたのだろうか。
2006.04.19
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一月一日に、おおみそかと元日がかさなっている。おわったところから、はじまっている。死ねるところは、つまり生まれるところである。(「詞集 たいまつ1 生きる章」 むのたけじ 評論社)書棚の片隅にたたずむ「たいまつ」を手にとるのは、なぜか冬が多いようだ。一つひとつ踏みしめるように進む言葉に、やわな頭と心もなにをかを思うのだろう。冷たい空気の中で、言葉が我が身を引き締める。自らにウエイトを乗せる想いをもてよ、と発する声に心の血が温まっていくのかもしれない。今年は、冷えが厳しい模様。寒さに凍えない言葉を、身にまとおう。
2006.01.13
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「くる年 とる年3 拓郎と超える60歳 今日…そして明日へ 同い年のスター支えに」(朝日新聞 2006.1.5)>吉田拓郎の歌しか流さない店が、北海道の室蘭市にある。>「居酒屋 拓郎」という。http://www2s.biglobe.ne.jp/~turky/iza/>夜七時。ネオンも少ない東室蘭の駅前。>拓郎が30年以上前につくった「今日までそして明日から」が流れて、>店が始まる。開店22年の店の主人は、拓郎さんと同い年の女性。二人の弟さんと一緒に店を開いたのだそうで、全員が拓郎ファン。店の名前にも迷いなし、だったと。拓郎さんに歌に、これまで支えられてきた。これからもその姿から元気をもらい、一緒に年齢を重ねていきたいと。♪私は今日まで生きてみました時には誰かの力をかりて 時には誰かにしがみついて ♪記事は拓郎さんでしたが、誰だって、なんだって構わないと思う。自らの動力となり、支えとなり得るものが、人だとしても、物だとしても。時代の流行が、なんとか性がどうだとか、周りが騒がしいとしても。ひたすらに想い、じぶんが生きていま在ると感じられるものだとしたら、それを。その人の、想い暮らす密度であるのかもしれないし、凸あり凹ありの影として、拠り処としてあることなのかもしれませんが。想い濃く、好きをもてるっていいなと思う。で、拓郎さん。今年の九月には、かぐや姫と31年ぶりに「つま恋」野外コンサートですか。あの、つま恋が。http://www.takuro-kaguyahime.com/http://www.forlife.co.jp/yoshidatakuro/FLBF-8072.htmlhttp://d.hatena.ne.jp/asin/B0009TNGJ4あ、そうでした。みなさん、とっくに明けましておめでとうございます。♪そしていま 私は思っています明日からもこうして生きていくだろうと ♪本年も、時々、よろしくお願いします。
2006.01.12
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携帯の待ち受け画面を変えた。どんぐり。9月下旬のある日、お寺の片隅にあった樹木の実を、携帯で一写。さて、なんという木の実だったか。よくある木なのだろう、けど、なんだか同じに見えてしまう。この程度のオツムと審美眼で、穏やかであったろう過日を小さな画面で想いやっています。携帯内の画像を眺めていて、たまたま出てきたものですが、どんぐりに静かな力を感じます。近くの里山を歩くと落ちているその実を拾い上げ、思わず立ち止まる。なんとなく手のひらで転がしてみたときの、ふぅっとしたあの力の抜け加減。そんな意味ない時間もいいもの。どんぐり。名にこめられた、身近な力がいいですね。「初秋」と言えば、ロバート・B・パーカーの小説を思い出します。http://www.○mazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4150756562/503-9656472-2679949(○にaを、→→「楽天以外のアフィリエイトが含まれています」なので)とくにパーカー好きではないのですが、初秋という言葉と連動するのが、この本。冒険小説は、ちょっとプラスワンの頃、よく読みましたが、もうちっとも。ギャビン・ライヤル、デズモンド・バグリー、ジャック・ヒギンズ、ロス・マクドナルド、チャンドラー…初秋に反応して、またページを繰ってみようかな。どんなに落ちても、逆境にいても、人としてこれだけはしない。自分なりの芯をもつことが、たいせつ。かっこつけて言えば、これらの小説の根底にあるのではないか。ぼくにとっては、そんなことを感じさせてくれる本でした。どんぐりをころころ、肩の力を抜きつつ、しっかと前を向きたいですなぁ。
2005.12.13
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のコピーです。たまたま入手したのですが、予備知識がないので、なにがなんだか??ネパールの神々が描かれているらしいことだけはわかります。Googleの画像検索で「ネパール カレンダー」と入れると、かなりの数出ます。ああ、これやこれですね。「ヴィクラム暦」って言うのですか。けっこう変則的な感じも受けますが、信仰や自然観などとも関わって、世界にはいろんな暦があるのでしょうね。一年が13月まであるのは、アフリカのどこだっけ?
2005.12.08
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風は見えないだけど 木に吹けば緑の風になり花に吹けば花の風になる今、私を過ぎていった風はどんな風になったのだろう。星野富広秋の詩みたいですが、春ということにさせていただいて。ストーブに火を入れる回数がめっきりと少なくなりました先だって年が明けたと思ったら、もう春がすぐそこまで来ているのですね。なにかをしていても、していなくても、相変わらず早い早い。♪ああ ぼくの時計はあのときのまま 広い河原の土手の上を 振り返りながら走った ああ あれは春だったね♪と、確か一年前も書いていたような。思い出すのですよ、めぐるのですよ、季節の扉をたたいてくれる曲として。あのハモンドオルガンの音色とともに。♪ああ ぼくの時計はあのときのまま 風に吹き上げられた ほこりの中 二人の声も消えてしまった ああ あれは春だったね♪って、言ってる場合じゃない、花粉でぐっしゅん今年は当たり年なのさ、の、目目かゆかゆ。
2005.03.13
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スティーヴィー・ワンダーの歌には、男女のことを歌ったものが多くあります。対訳どおりに受け取るならば、う~ん、ちょっと。日本人にはつらいかも、というものもあります。それでも聴いていて受け入れることができるのは、その曲調や声の中に、人を愛していたいというメッセージを感じるからでしょうか。ほんとは英語がよくわからないから、かな?何年か前に、ラジオで聞いた話を思い出しました。彼が来日して、都内のライブレストラン? 確か肩肘張るとこじゃない飲食系で時を過ごしていたときに、とてもごきげんだったのか、突然、歌い出してその場は大いに盛り上がったそうです。その時、その場にいた人は得したと思ったでしょうね。なにが得かって、タダで歌を聴けたというより、人の歌声が、そこに居合わせた自分の時間を、しばしじんわりと幸福な思いにしてくれた。人の歌う喜びが、自分の喜びとしてからだの中に沁みこんでくる幸福。人と歌声と生きる体温。言葉にはならないものがひとときを満たしてくれたのではないでしょうか。有名人なら誰でも、人がくつろぐ場所で歌い出だしても受け入れられるだろうか? わからない。わからないけど、彼にはその磁力や場を包みこむ存在感が、歌を通してあったのでしょう。日々を生きていくために、喜びはきっとあった方がいい。歌うように暮らす毎日。あるのなら、人それぞれ、何に対して歌っているのだろう。歌おうとしているのだろう。
2005.01.29
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小さな本屋の通路で、彼はデイパックをさりげなく肩から下ろした。そのとき、書棚の本を見ていたぼくの背中にもデイパックが。彼が、ぼくの後ろを通り抜けるには少し狭いようで、「ん? デイパックを下ろした人が…」とぼんやり人の気配に気づきかけたとき、デイパックを手に、すすっと歩いていきました。そのしぐさ・表情が、とても自然で、静かで、穏やかで。瞬間、ふうっと心地良い空気が流れるのを感じました。おそらく、彼はいつもそうなのだろう。日々の生活の、いろんな場面でそうなのだろう。なぜか、そんなことを思いました。彼は、高校生のようだった。人のしぐさに、やわらかく心あらたまる思いがした、冬の夕暮れ。
2005.01.25
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冬の日の抜け渡るような青空を眺めていると、どういうわけか、どうしても聴きたくなる音楽がある。スティーヴィー・ワンダーです。なぜか、この人の顔と声が浮かんできて、頭の中を駆け回ります。Isn't She Lovely今日一日を、ていねいな気持ちで過ごしたい。冬空の青を見ていて、そんなことを思う。というか、ちらりと感じた際に、脳裏でこの曲へのスイッチング・サインが流れるようです。邦題を「可愛いアイシャ」。スティーヴィー自身に娘が生まれた時の喜びを表した歌ということですがメロディに重なる赤ちゃんの声、彼の語りかける声、ハーモニカの音色が人の生きようとする命に、なにかを訴えかけてくるのかもしれません。夕暮れに、車の中で聴きたい気もします。ちなみに、「Isn't She Lovely」と検索にかけてみたら、ああ、やはりいろんな人がカバーしているのですね。ミルト・ジャクソンやソニー・ロリンズまで。もっといるかも。今井美樹さんと布袋寅泰さんのお子さんが「愛紗」というらしく、その名も、そうなんだそうで。先日、スティーヴィー・ワンダーの曲を携帯にダウンロードしました。Ribbon in the sky Do I DO Master Blaster Higher Groud Superstition時間帯や気分に応じて替えています。スティーヴィー・ワンダー。Isn't She Lovelyに限らず、一日のていねい。どうもそんなことを思うときに、スイッチングされるようです。言葉も、ちょっとした態度も、他人にも自分にも、ていねいに向かおうとする想いはたいせつ。けして、雄弁である必要はない。ひと言ひと言や、そのひと想いになにかをこめようとする真っ直ぐな姿がいい。先日、ある人から感じたことでした。音楽や人の言葉や心や、清々しいと感じた冬の青空も、きっとなにかでつながっているのだろう。
2005.01.22
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TOWER RECORDS「$9.99」。CDジャケットには、古びたシールが貼ってある。アルバムタイトルは、「The Band ANTHOLOGY VOLUME2」。いったい、いつ買ったのか? シールからしてオアフ島の、彼のショッピングセンター内だろう。ということは、もう10余年は経っている。なぜかハワイでこのアルバムを買って、何度かは聴き、その後どこに紛れ、そういうことも忘れて、そして先日、CDを整理しているときに出てきました。久しぶりに聴く音。いいじゃないか♪どこがいいのか? お前は英語がきちんとわからんのに歌詞の意味がわかるのか?などと訊かれると困るのですが、だから訊かないでほしいけど、いいのです。買ってきたときはどう感じたのか覚えてはいないけど、おそらくは今、聴いた感じの方が断然、身になじむ。心地いい。飽きない。聴けば聴くほど味わい深くからだに入ってくる。アンソロジーだから? それもあるかもしれませんが、そういうことだけではないのかも、かも。しばらく聴かなかったアルバムが棚で、ワインカーヴで時を経て熟成したワインのように広がりをもって届いてくるような。豊かにして新鮮、時にキレや力強さ、ほんのりと香りを漂わせ、耳に訴えかけてきます。聴く、その内側に月日を重ねた年齢なりのなにかがあるのか。いやいや、そんなことではないのでしょうが、また一枚、飽かず聴くことのできる♪に再会できたことだけでハッピーハッピー。ひょっとして! ごぶさただった他のアルバムも引っ張り出して聴いてみる。ジャニス・ジョプリン、ティン・パン・アレー、スタンゲッツ、セロニアス・モンク、久保田麻琴と夕焼け楽団…いいじゃないか♪ 気持ちがワクウキするじゃないか♪しばらくは繰り返し聴きそうじゃないか♪そのアルバムの世間的評価(たって、その対象にもならないものもあるのでしょうが)は知りませんが、温故知新。古いメロディが、新しい年の日常を新鮮な気分で包んでくれます。
2005.01.15
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正月は、結局、仕事にならなかった。今年はめずらしくお正月からスパートをかけて、と思ったのですが、やはりダメでした。日中のダメ理由は、駅伝。箱根駅伝を観ながら、PCに向かったのですが、向かったのはテレビ画面ばかりでした。それにしても駅伝といい、マラソンといい、なぜ観るのが好きなのだろう?人が長距離を走る。ずいぶんと前から、その姿に惹かれてはいたのですが、どうしてかは自分でもわからなかった。いろんな後付の理屈は付けられますが、ただ見出すと、引き込まれてしまう。としか言えない。でも、なぜ?そんなことをずっと思っていたのですが、先日、「人類の進化に、長距離走が役立ったという説」があることや「走ることは、人類がバランス感覚を養ったりするのにも役立ったらしい」などと書いたメルマガを読みました。そこにあった説の正否はともかく、人と持久走、持久力。走り続けることとバランス。など、ちょっと感覚的にそういうこととつながったのかなと。こういう話は、説得ぽくというよりは、本能的、直感的で程度でいいかなと。ちなみに、霊長類で長距離を走るのは、人間だけだそうで、ふむうむ。それにしても、人はなぜ長く走り続けるのでしょうねぇ。マラソンマウスや長距離選手に多いというミトコンドリア遺伝子の話も、はは、なるとわかったぶり。ミトコンドリア・・・どこから来た名付けなのだろう。今日を上手く走った人も、蹴っつまずいた人も、明日もそれぞれの道を走っていきまっしょい。
2005.01.08
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「雪国で暮らしていて美しいなぁと思うながめは、真冬の落葉樹である。烈風に耐え、寒気をしのぐために、必要ぎりぎりのもの以外の一切をすて去って、あばらぼねだけで立っている木々の姿である。春に最も近く位置しているものは、あきらかにそのような木々ですね」(詞集たいまつ1 むのたけじ (評論社))ずいぶん前にこの言葉に出会ってから、冬の街路樹や公園の木々を眺めると、そう見えてくるから不思議なものです。散歩がてら、歩いて温まった身体で冬の木々を眺めていると、気持ちに力が湧いてくるような気さえします。北国に住んでいた頃、雪がひとしきり降った翌日、木々に降り積もった雪が風にあおられ、パウダー状になって頭や顔面に舞い落ちてきた。あのときも、なぜか勇気めいたものが湧き、とても心地よかった。そんなことまで思い出しました。言葉は、生きる力と景色をくれるものですね。なにを持ち、なにを持たないか。所有と幸福。これからの、人それぞれの暮らしの在り方にも関係してきそうですね。人が人に向かい、どんなつながりをつくっていきたいのか。持つ、ということでいうならば、人と人との関係性について、きちんと向き合っていけるような環境をつくることができるように心を動かせ、の2005年と。皆さん、今年もよろぴく。
2005.01.06
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私たちは、「語れる以上のことを知っている」(M・ポラニー)同哲学者の「暗黙知」という言葉もあるようですが、人は毎日毎日、わけのわからないことや言葉にできないようなこと。とても身近なものから、ものすごく遠いところまで、おそらくいろんなことを思ったり、感じたりしているのでしょう。すぐに言葉や自分の考えとして表現できないが、からだがわかっているというか、五感で感じとっていること。そのようなことと、その人の一部、外に向けて表せる考えや思い、体系づけられた知識や手法などが織り交じって、その日その時の言葉や行動となっているのだと思います。公私のさまざまな場面に目を向ければ、一貫性がある、理にかなっている。論理的である。客観的である。ことが、人の評価を得やすかったり、世の中を生きやすいのかもしれません。必要なことではあると思います。それはそれとして、自分がそのときなにを思ったのか。きちんとはわからないけれど、わからないなりにその都度、どこかで声にしてみたっていい。熟さない言葉や思いに、もっと目を向けることで見えてくることがあるかもしれないし、そうすることで周囲の同じような思いにももっと目が向き、耳を傾けることができるのかもしれない。人が面白いとか、優れているとか、興味深いとか、人のある側面を見て評価、批評したりされたり。スピード時代の世の中の風にあたれば付き物ですが、その人の、今そこにある言葉や思いだけが、その人ではないだろうし。生ものの人として関わりを持とうとする心が、もっと自分自身を楽しくも、感受性を育ててもくれるのかも、と2004年大晦日前。リンクいただいている皆さん、縁あってお越しいただいた皆さん、今年一年、ありがとうございました。
2004.12.29
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歩きと、自転車と、クルマと。同じ道を通るのでも、それぞれで見えるもの、ん!と感じることが違う。歩きは、目的の店や気になる場所があれば、そこでしばらく足をとめて見たり、読んだり、選んだり、買ったりが多いし。自転車でもそれは同じですが、時に気分次第で脇道や回り道、ここを行くとどこにつながるのか、途中になにがあるのか、あの道には出ないのか。などということの方に気が回ります。クルマは、ほぼ目的地のみ。目的のみの走りが多いけれど、走る分、自然と生活情報を多く持つことにもつながっています。歩きと他の二つと違うのは、自分の足で歩くことでしょうか。自転車も文字通り、自力ですが、坂道・小道・地面を蹴って歩く感覚とまったく違います。この頃、自転車に乗ることが多く、先日、同じ道を久々に歩いてそう感じたのですね。言えば、なんの変哲もないのですけどね。たぶん、自転車や歩きが好きではなかったら、こんなこと思わなかったでしょう。同じ道を行くのでも、方法をいくつか持っていた方が風景の見え方も、感じ方も違うし、同じ道が楽しい。人にはどうでもいいことだけど、ああ今更でも気づいて心地よい~なことでしたよ。
2004.12.17
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