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このごろ、下記のサイトを更新してます。http://d.hatena.ne.jp/nachinotaki/
2011.10.09
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RIVER MAN(Played by Mehldau)川はざわめくサイダーの泡のように流れとよどみくるぶしまでつかってやってくる男の影不協和音がざわめかすアンビバレンスどこかでいつも見るあの男黒い人影知り得ない人不協和音がかきたてる無から有を流さなかった流すはずのない涙を不協和音が垣間見せる光をはらんだ雲の空の果てを--------------3年くらい前に書いた詩に絵をつけてみた。すこし続けてみようと思う。
2010.03.06
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2010.02.11
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2009年が終わり、2010年が始まった。元旦にはおせち料理とお雑煮を食べた。なぜ、それを食べるのか、それはおまじないなのである。 時間に区切りがあるということを信じるためのおまじないだ。 今日は、名古屋から高速バスに乗って東京まで戻ってきた。17時ごろに名古屋を出たバスは渋滞のために、東京の終電に間に合わなかった。 八重洲口からガランとした東京駅を出たら、雨が降り出した。だが、あまり寒くないのは、雨雲が宇宙からの風をさえぎってくれるからかもしれない。銀座の24時間営業のマクドナルドを目指して、大通りを歩いた。叔母のお古のコートを着て、リュックを背負い、そのほかに大きなバッグを二つ抱えている私は、女ホームレスのように見えるかもしれない、という羞恥心が生じた。それを恥じる気持ちがさらに恥ずかしかった。つまり、自分の中の差別心が立証されたのだから。 だが、私を見る人はほとんどいない。深夜の東京駅付近には、ホームレスと終電を逃したサラリーマンが数人あるいているだけだ。 そして、マクドナルドにたどり着く前に、銀座一丁目駅の前で、漫画喫茶の灯りを見つけた。 そして今は暖かい個室でこれを書いているというわけだ。 今年の抱負をまだ考えていないな。 とりあえず、ありのままの自分を見つめるということも抱負のひとつにしようと思う。
2010.01.05
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ovumというのは、卵子という意味の英語です。絵のタイトルつけるのってむずかしいよな、というか、言葉にすることはいかさまなのかもしれない。卵子のつもりでなんか描いていなかったのだから。でも、描いているうち、もしこれが私の卵子の屍骸だったらかわいそうだな、とふと思ってしまったので卵子とつけてみた。でも、かっこつけやがって、「いくらちゃん」でいいんだよそんなもん、とか言われそうだな。
2009.12.14
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名古屋市港区野跡osaka
2009.12.14
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絵の学校の課題で、街の絵を100枚描いてくるというのがでたので、地道に描いていこうと思います。まだ3枚しか描いてない…。街01「渋谷東1」街03「アカルイミライ」
2009.10.26
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今描きかけの絵です。これはF80号(1455×1120mm)です。わたしとしてはかなり大きめな絵で、細かい絵なのでなかなか時間がかかります。 なんかテンションがあがらないなあ。 絵を書く時に一番大切なのは、技術とかではなく、テンションなのではないかと思いました。 絵の先生もことあるごとに、テンション(という言葉ではなかったかもしれないけど)が大切だと言います。音楽やその他によって、意識を日常のものとは変成させることは画家にとってはラジオ体操のようなものだと。 でもそうなるのがなかなか難しいです。 テンションがあがるクスリにはまってしまうのも十分うなずけます。 ただし、クスリには副作用がある、つまり楽していい気分になるのはなにかしっぺ返しがあるということなのだと思います。バチがあたるというか。 気軽に使ってはいけないものなのですね。 でもヒロポンは、家庭常備薬として売っていた時期があるそうですけどね。「頭脳の明晰化 作業能の更新 疲労除去 眠気一掃!!」というコピーで。…今も売ってたらいいのに。 仕事を終わって帰って来て、疲れて家にひとりになると、なんかさびしくて、テレビとかyoutubeをつけっぱなしにしてしまったりして、そういう日常的な環境ではテンションは上がるわけないな。 つかれて、とかさびしくて、とか言ってるからだめなんだな。 もっと自分に厳しくしないとナ。 下の絵は前描きかけとしてアップしていたものの完成したものです。
2009.09.11
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アパートから歩いて5分のところに巨大な公園がある。そこの駐車場が私のアトリエです。 この公園は、自然の沼を生かした公園とのことで、なるべく自然を壊さないように作られたとのこと。 でもさ、自然を壊さないというなら、そのままにしておけばよかったのに。 公園の緑は手を加えられていて、人間の見やすいように創られる。カオスではなくなり、秩序がもたらされる。 秩序は人の心に安らぎをもたらすけど、同時に何かを失う。 この公園になる前は、この駐車場は産業廃棄物の埋め立て場だったそうだ。産廃廃棄場の森。公園の森よりはモチーフになるなと思う。
2009.09.10
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葉山信仰というのがあるらしく、森や林そのものを神とする信仰とのことだ。私は多分その信者だと思う。森をモチーフにしているのですが、その生命そのものを描きたい。ものでも自然でもなんでも、見つめていると生命や真理そのものが感じられてくるのではないか、と思っている。まだ途中なので、がんばって仕上げるぞ。
2009.06.28
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このような展示でした。体は自然の作品なので、たしかに私のへたな絵よりも迫力があるのだ。だけど私はやはり手で描きたいのだ。これからがんばっていこうと思う。それで、この会期中の5月5日に、私の絵の先生の内海信彦氏と、新右翼の鈴木邦男氏の対談イベントがあったのだが、その模様を、鈴木邦男さんのブログ鈴木邦男をぶっとばせに詳しく掲載していただけました。もしよかったら見てください。その中に、「又、女子の生徒の作品で、肉体に墨を塗って、それを作品にしたものもあった。魚だったら「魚拓」というのだろうが、これば「女拓」というのだろうか。画期的な作品だ。 」と書いて頂いているのは、これは私の作品のことなのだ!!感激!!鈴木邦男さんという人は、温厚そうでいてどこかやはり迫力のある方なんだよな~。著書『夕刻のコペルニクス』などを読むと、さまざまな修羅場をくぐってきなさって、また、自分の住所をさらしてあらゆる批判を受け入れようとする度胸のある方なのだ。そういう方から、打ち上げの席で、「体に墨を塗るなんて、度胸あるね~」と叫んでいただき、とても嬉しかった。子供のような純粋な感じもあり、それでいて右翼らしい迫力もあり、それでいてなにか色気のあるとても素敵な方だと思った!!(要はファンになってしまったのだね…)新右翼とはいうけれども、鈴木さんは右翼とか左翼とかそういう狭いことではなくもっと広い考えをもっている方だと思う。ブログを見ても、とても多様な活動をしていらっしゃるのだ。昔は暴力を辞さない硬派の右翼だったそうなのだが、それを辞められたらしい。それにしても、鈴木邦男をぶっとばせはとても面白いのでぜひ読んでみてください。
2009.05.21
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2月の終わりから3月いっぱい、帰りはずっと終電だった。残業代はでるから、稼ぐのもいいかな、と思ったけど、いいかげんもういやになってきた。まだ忙しいのは続いている。もうすこし続くかもしれない。朝会社に来て、お昼休みもほとんどとらずに仕事をして、夜11時半に会社を出て、終電に乗って帰る。帰るのに2時間かかるから、家についたら1時半で、それからご飯を食べて寝る。朝になったらシャワーを浴びて着替えて家をでる。通勤電車は満員だ。千代田線直通常磐線。綾瀬駅までは外が見えるから、ぼーっと外の風景を見ている。乗り合わせた人たちや中吊り広告をみているとイライラするからなるべく目に入らないようにする。家並み、焼酎工場、高速道路、ラブホテル、繁華街、遠くにかすんで見えるごみ焼却場の高い煙突、東京拘置所、荒川放水路。北千住からは地下鉄千代田線に入るから外が見えない。息苦しい。ワーカホリックというのはこういう状態かなと思う。仕事だけして他のことを考えないという状態は、結構楽なのだ。仕事というのは、その成果物があるから、何かをしているという気になり、ある意味満たされている。また、与えられた仕事をこなすことは、私のような事務の仕事の場合はだが、何も考えなくていいので(仕事をするための工夫はいるが)、とても簡単なことだ。絵のことを考えるほうがとてもつらく、自分にはできない、と心細くなる。仕事は受け身的に自動的にできるので、それに没頭していることは楽だ。仕事を一生懸命している人っていうのは、こんな感じなのかな。仕事をすると人にほめられるし感謝されるし、自分は満たされるし、お金もできるし。ただ、それでオーケーの人生もあるけど、わたしはそうじゃない。わたしはもうワーカホリックはやめだ。はやく仕事が落ち着いてくれたらいいな。絵を描いてもだれにもほめられないけど、そのほうがぜんぜんいい。
2009.04.04
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今まで絵を描いてきて、描いていても満足することはなかったが、なぜ満足できる絵が描けないのか、なぜさえないのか、よくわからなかった。どうしたらいいのかもわからなかった。この間、先生に見てもらった、手や指に墨をつけてぺたぺたと押した絵が、筆を使って描いた絵よりも圧倒的にパワーが感じられた。手型のほうが、筆で一生懸命に描いた絵よりも、迫力があるとは。不思議なことに、それは確かなのだ。先生に指摘されつづけて、やっと頭の硬い私に、それが心から理解できるようになったのだと思う。筆で絵を描きたいなら、その絵は手型よりもパワーがなければ意味がないのだ。そこまでの力量が、今の私には、あるとは思えない。 現代美術にもうとかったのだが、千葉茂夫さんの『現代美術逸脱史』や『未生の日本美術史』を読んでいると、出てくる絵はすべて、写実ではない。体や手を使って描いたような、原始美術のようなおどろおどろしいものも、現代の「日本美術」なのだな。それも見えてきたような気もする。だが私の好みは、エルンストのように、自然と人工の混ざったものだから、手型だけではものたりなさを感じる。自分の手を加えて、手型だけよりも良いものにできるだろうか。先生はそれはやめた方がいいというのだろうなあ。そこまでの力量がある、ということは、自然と同じかそれ以上の力量が自分にあるということ、自意識を捨てて自然そのものに近い状態になる、自然の霊媒のようになる、ということなのかな。
2009.02.25
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2009.02.01
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ギャラリーをガラスごしに見たとき、壁に何も展示していなくて、ガランとしていた。床に、人の歩けるスペースを残して、作品がひろがっている。私が見に行ったのは、最終日の一日前だったのだが、茶色のまだらの床のようなものが広がっていて、その中に「目」がある。目は、いろいろな表情をしているようだ。悲しそうな、疲れているような、そういう表情だ。最初の日は、床は真っ白だったのだそうだ。徐々に茶色のまだらの文様が浮きだしてくる。毎日、変化を続ける床。目も、はじめはくっきりしていたそうなのだが、だんだんに茶色の中に埋没していったのではないだろうか。どういう仕掛けの展示なのか、ということは、ここには書かないことにしよう。毎日変化する床の展示、というのは、大胆で、またおもしろく、また、自然の作用が作り上げる「絵」は美しいと思った。「peace offering 」の意味が、英語が身近にない私にはよくわからない。直訳すると、平和の申し出?相原さんが、この作品のこととしてその時話していたことは、世界にある苦しみなどのことだったと思う。(私には、世界のことは正直、よくわからない。そのことに、あせりのようなものを感じる。先生に毎授業、世界で起こっていることの話を聞いたり、新聞を読め、等言われているのだが、まったく身に付かない。身近なことしか考えることができない。だが、身近にも深い悲しみや悲惨なことはあるし、美も醜も、なんでもあると思っているから、私はそういう性質なのだ、と思うしかないのかもしれない。)丁度、内田輝さんが見に来ていて、相原さん、内田さんの話を聞いていると、ハイテンションだな、と感じる。それは、騒いでうるさいハイなのではなく、静かにハイテンションだと思った。表現することに心を注いでいる人たちだな、と思った。もっと美術に打ち込まなければならないな、と思ったのだった。(相原さんが、美学校の人、あんまり絵描いてないでしょ、もったいないよね、と言っていた。みただけでわかってしまうのだろうか。)展示: 2008年12月15日(月)~25日(木)
2009.01.19
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先日この展覧会に行ってきました。 住んでいる家の室内と、その中にいる自分の妻の後姿の絵がとても多かった。 ほとんどそれを描いていた画家のようです。 室内や妻という卑近な題材であるのに、永遠や普遍を感じさせる絵です。 私は思うのですが、奇抜なものだけではなく、平凡な日常の中にも、絵の題材はいくらでもあるし、永遠も普遍もすぐそばにあると思う。 通勤の道や電車の窓の中にも、美はそこらじゅうにあります。 だから、平凡な毎日でも退屈ということはないです。
2008.12.09
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黒沢監督の映画の中の家族は、幻想の中の理想的な家族像ではない。みんなバラバラであり、それがリアルなのだ、と気づかされることで、さっぱりした気分になる。映画で泣いたのははじめてかもしれない。トウキョウソナタ 予告編映画では心理のドラマではなく、肉体をみせたい、という黒沢監督。ティッシュを配るバイトをしている大学生の長男が、配れなかったティッシュを無造作に川に捨てるシーンに惹かれる。家族を守るためにアメリカの軍隊に入る、と言う長男を殴る父親は失業を家族に隠している。「お父さんは家族を守るって言っているけれど毎日なにをしているんだよ」という長男に返す言葉がないのだ。大企業の課長だったのだが、突然リストラされて、ハローワークで紹介される仕事は掃除やアルバイトしかない。権威を守るためには失業を隠さなければならない。大勢の浮浪者が公園を、行進していく。いろいろな、リアルで陰惨なエピソードの果てに、やってくるラストシーンはとても美しかった。
2008.12.07
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この頃、煙突とか、風景の中でひとつだけ突出しているビルなどが目につく。見ているとなんか不思議な気分になってくるのだ。別の世界の建物みたいな…。そしてその風景には静けさが漂っている。それなのでこんなタイトルをつけてみた。
2008.12.06
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知らない川に架かる知らない橋を渡る垂直に交わる線の世界白とブルーの格子縞のような幻想の中でどこまでも進めるような至福と格子縞に捕らわれるような憂鬱が交互に現れる意識にも登らないようなどこかで戦いが繰り広げられている橋向こうに渡るその先には思いきって顔を上げるその先には何もない無死至福
2008.11.19
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雨が降っている誰かが泣いている大量の血が流れるcatharsis風が枝を鳴らすと血管に血がゆきわたる何かが起きる予感がする
2008.11.03
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アンドレ・マッソンという画家のオートマティックなドローイングの手法で描いた。簡単に言えば瞑想状態になって頭に浮かんだものを描く、ということ。描いてみたら何か西洋風な感じになってるナ。なんでだろう。それにしても、マッソンの絵は、とても綺麗なんだよな~。
2008.10.20
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2008.10.18
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ねえ世の中のくだらないことごとにひれふすことはないよ何故みんなが笑っているかわからないのにわかると思いこまなくていいよ秘密の石の人形を恥じることはないたとえそれがどんなにおぞましくても自分の狂気を大事にしていいんだよ父も母も神も存在しないんだよそれは幻なんだお前を殺すことはできないよお前は今日も街の中で笑っているとき同時に寂しい川のほとりに倒れていたんだろう血を流しながら誰もお前を殺さない殺してくれはしないそんなのはおとぎ話さ結末はもっと不可解なものじゃないだろうか時間がどんどん流れていくんだ
2008.10.07
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現実の錘がついた言葉を手に入れると笑顔の中に空虚が生まれる意味という無意味無意味という充実立錐の余地は無い猫の額ほどの地面ならばいらないそれはあっても悲しいだけなのだ
2008.10.06
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たとえば、歩いていてふと一歩体を右に移動した瞬間、猛スピードの自転車が左をすり抜けていくような時、実は数え切れない偶然が重なって今生きているのじゃないかと思う。 もし体を左に動かしていたら、自転車とぶつかって大怪我をしたかもしれない。 そもそも、宇宙が出来て、その中に地球が出来て、父母から自分という存在が生まれたことが、ものすごい偶然の重なった結果の奇跡なのではないだろうか。 自分以外に誰も自分を救えないと決めたけれど、そもそも生は自分が作ったものではなく、父母が作ったものでもなく、ひとつの奇跡なんだと思う。 今まで、生きてきたのと同時に、この宇宙に生かされてきたのだよ。 谷川俊太郎の詩に生かすという詩があった。 たしか 咲いている花やそこにいる犬がわたしを生かす というような詩だった。
2008.09.26
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一応完成にしようかな。波の写真をコラージュした。もっと厳しさと緊張感が欲しい。極限まで、宇宙まで。そうしたらこの世の悩みも、遙か遠くに行って、見向きもしなくてすむようになるのに。絵を描くことも、瞑想の一種だと思う。描いていると頭が空っぽになる瞬間があるから。この絵の場合は残念ながら、そうでもなかったけど…。でも一瞬くらいは。
2008.09.22
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描きかけの絵。メディテーションのイメージ。瞑想をして、深く降りていけば、あの人の心にも通じるかもしれない。ただ単に生きろと言う人は俗物だし、詐欺師だ。世界はそんな人で溢れている。
2008.09.13
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ニラ玉に最近はまっていた。 ニラ玉という料理には、何種類もあることを、このごろ感じた。 子供のころ母親が作ってくれたのは、よくニラをよく炒めたところに、といた卵を入れてスクランブルにしたもの。 ニラ玉とは、この料理のことを指すのだ、と思っていた。これ以外の料理は、ニラ玉とは言わない、と。 だが、甘辛いお出汁でニラを煮て、卵でとじる料理、これもニラ玉である。ニラの卵とじでもあるけれども。 こんな料理があるとは知らなかった。 いっぽう私がこのごろはまっていたニラ玉とは、生ニラの上に、生玉子の黄身をかけたものだ。 ベトナム料理の生春巻きには、生のニラと生のもやしが入っていて、香菜の香りとともに、その刺激に驚いて以来、生のニラが好きになった。レタスのサラダなどにも、元気のない時には、生のニラを入れて、チリソースをかけて食べると、元気になる。 だけど、生ニラは、そのまま食べると、刺激が強くて、胃が重くなる。胃の弱いひとだと、体調をくずすだろう。毒にもなるほどパワーがある野菜ということだろうか。 フライパンをカンカンに熱して、ごま油をしく。そこへ5センチくらいに刻んだニラを、まず根本の太い部分をいれ、ここはゆっくりと火を通す。火が通ったら、葉の部分を入れ、ひと混ぜしたくらいで火を止めて、余熱で火をとおす。生に近いくらいの状態がいい。すぐにお皿に盛る。ごま油とお醤油をたらして、生玉子の黄身をのせる。 これを食べると、まず気分が元気になる。生きるぞ、という気分になる。元気になりたいので、毎日食べていた。一日おきくらいにニラを買いにスーパーへ行っていた。ニラ玉がないと、元気になれないかもしれない、と不安になる。薬物中毒のようなものだ。 こんな風に、自分の気分をコントロールすることを、昔はしなかった。気分の浮き沈みは自然に任せなければならない、と思って、むしろ、コントロールすることを自分に禁じていたような気がする。俗悪なことだと思っていたのだ。生きることを罪だと思っていた。少なくとも意識的には。 自然、言いかえれば神、の思し召しのままに。 修道女のようなものだったのかもしれない。 いや、修道女のこともキリスト教のことも、よく知らないから、そんなことも言えないけれども。 今は、自然なすがままではなくていい、自分の意思で、気分を、つまり世界を変えていい、と思っている。 気分が沈んでいたら、元気になるためにニラ玉を食べる。 これも自由というものかもしれない。
2008.09.09
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今描いている絵。 今までは一日くらいで描いていたが、これからはなるべく一週間以上はかけて丁寧にしあげようと思う。 この絵はいきづまったので、しばらく置いておいて、また新しい絵を描き始めることにした。
2008.09.06
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昨日は、コンペティションに落選したイラストを取りに、青山の某ギャラリーへ、とぼとぼと行った。 ただ、前から出したかったコンペなので、出すだけでもよかった。 まあ、イラストのコンペで、ファインアートではないのだけれども、小説が好きだから、挿絵にも興味があるのだ。 挿絵のコンペで、有名な装幀作家などが審査員になっている。 落選してがっかりしたけれども、絵の裏をみると、紙が貼ってあった。手書き講評をつけてくれている。 「絵力のある方なので、大いにがんばってください。」と。 これだけでも、また頑張る気になれたのであった。 ↓三島由紀夫『潮騒』の本の表紙を想定して書いたイラスト。
2008.09.06
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世界は光と影でできている。 という感じを描きたい。 映画がそうだから、かな。 今度は白黒のドットだけで描いてみようか。
2008.08.29
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神奈川県松田町の山の中に、絵の先生のアトリエがあり、絵の学校のクラスの人たちと合宿をしてきました。 音楽をがんがんかけて、それぞれに製作にはげみました。なかなか愉快なものです。 私はマイミクのsyadooooさんのCDを持っていきました。 暑くてダレていた男子も、syadooooさんの音楽をかけると、よし、と制作に入りましたヨ。★syadooooさんは、すごく素敵なミュージシャンさんです。こちらで音楽が聴けます 何枚も描いたけど、その中の2枚。 最後に5人全員で1枚の絵を描き、体も使い、絵の具でぺたべたに。 みんな絵の上で転げまわる中、男子N君は全裸になり、わたしも上半身は脱ぎ、…いい絵が描けたかな。
2008.08.20
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この間、生まれた町へ行ってきた。 絵のネタを探しに…。 生まれたのは東京の世田谷区下馬というところだ。 ただ、母親が私を連れて家出同然にその家を出て行ったので、つい最近まで、自分の生まれた家がどこにあるのか知らなかった。 最近、調べてその家を見つけた。 実の父の家族とも、会うことができた。とてもいい人たちだ。 不思議なことがあって、その家をはじめて探しにいった時、私が100回見た「アカルイミライ」という映画に出てきたカフェを見つけた。 家は、そこから数分あるいた近くにあった。 その映画とわたしの生まれた町が、リンクしてしまった気がする。 下馬に行くと、異世界にいるような気がするのだ。 私の生まれたことが物語になって、映画の中の1エピソードになっているのだと思う。そして、映画の中のカフェや木々が、光と影が、下馬にある。 眼鏡をかけたお兄さんが、信号待ちをしていた。若い頃の父親に似ていた、いや、父親そのものだ、と思った。実の父親のことを想う。父は昔、若くして亡くなっている。(育ての父親はもうひとりのほんとうの「おとうさん」だ。) … 下馬は、団地があり、昭和のにおいがする。 この道の左手が世田谷観音だ。 赤ん坊の私を連れて、母親はよくここへ来たのだそうだ。 酒乱の父親と喧嘩をして出てきて、ここでもの思いをしていたのだと聞いた。 ここでまた不思議なことがあった。 母親のことを考えていると、携帯が鳴った。 電話は母親からだった。 いい絵を描かせてください、と観音様に祈った。 帰りに、そっと家の前を通ると、三味線と、長唄が聴こえた。おばの声だろうか。 おばは、三味線の先生なのである。
2008.08.15
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2008.08.12
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輪郭をぼやけさせてみた。(-_-)
2008.08.07
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大きな作品を描こうと思っていて、そのためのアイデアスケッチです。 力をいれた作品にしたいのだ。 『美術手帖』を読んで現代アートのお勉強をしていた。 アンディ・ウォーホルの項に、最初の個展のタイトルが、「トルーマン・カポーティの著作に基づいた15のドローイング」というのだと書いてあった。ウォーホルはカポーティの小説に当時のめりこんでいたのだそうだ。 大作のタイトルをそれに習ってみた。 このごろなんとなく、自分の表現したいものを見失っていたのだ。 大作に挑戦するにあたって、本当に描きたいものとは何か問うてみたら、自分がのめりこんだ黒沢清の映画と、それに重なり合った自分の生い立ちのようなものだと思った。 考えてみたら前に、同じテーマで小説は書きかけてたんだけど、途中で中断しているので、それも続けてみようかなと思う。
2008.08.05
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2008.06.15
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こぶしを握りしめている 曇天の下 行くあてのない 迷彩柄のズボン 自動販売機と線路 かすかに歪んだ道 降りてくる ゆううつな気分 どこへも行けない 線路沿いの家で 一家惨殺がある 『シャイニング』で使われたよりもたくさんの 血糊が必要だっただろう イッてしまっている殺人者の視線の その先が見たい
2008.06.08
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2008.06.08
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2008.05.26
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流し台の小窓に置いた 植物の鉢が 月明かりの下で 燐光を放っている 静かな深夜 根は隠されて 冥界へ下っていく そしてわたしの心の中にも 忍び込んでくる そして明日すこしだけ 世界を変える
2008.05.24
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2008.05.24
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2008.05.22
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2008.05.21
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みずみずしい墨滴で描く どこまでも続く線 それはアパートの窓から遠くに見える 首都高の夜だ 異世界からの車のライトが 銀色のナイフをつきさす夜の 空気の冷たさを 鼻腔で感じ取る そんなときにはすでに体の半分から 闇に同化しはじめているんだ
2008.05.19
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嫌なことがあると(ついこの間、お酒飲み過ぎて、失敗したのサ)、見たくなる風景のひとつが、隅田川だ。南千住から浅草に向かって歩くのもいいし、吾妻橋から見るのもいい。 川を見ていると、心の半分が川に流されていくのかもしれない。川を見ているときは、痛み止めをのんだみたいに、憂鬱の感覚が鈍くなっている。 今日、地下鉄を浅草で降りると、地上から降りてくる人が普段よりも多くて、また、かすかなお囃子の音が聞こえてくる。 地上に登ると、もの凄い人だ。どうも、あの有名な三社祭らしい。神谷バーの三叉路から雷門方面が、歩行者天国になっている。普段人の歩けないところを歩くのは楽しい。はっぴを着ているのは、おそらく地元の人だろう。 吾妻橋で川を見てから戻ると、神谷バーの三叉路に、パトカーが二台乗り付け、20人あまりの警官がいる。茶髪で派手な青年とおねえちゃんが、暴れて声を張り上げて警官にくってかかっている。「障害持ってて何が悪い」と叫んでいる。近くに、太った中年男性が横になっている。その奥さんらしい人も、野次馬や警官に向かって何か叫んでいる。どうやら家族のようだ。中年男性が、何か障害を持っているようだ。うまく立てない様に見える。 誰かと喧嘩したらしいのだが、詳細はわからない。 そこを後にして、浅草六区の方へいくと、建物の前でカップルの男の子が女の子を思いきり殴った。女の子はバカアッ、と叫んで白いバッグを男の子に投げつけて去っていった。男の子の足には刺青がある。 祭りの日には喧嘩が多いのかなあ、と思った。
2008.05.18
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2008.05.14
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2008.05.11
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2008.03.06
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2008.02.25
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