エッセーのすすめ

エッセーのすすめ

2006年01月31日
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今から、お話しすることはわたくしの独断と偏見に基づいた

独り言です。軽く、素通りしてください(笑)。

さて、古今東西、多くの方が悟りを求め、修行を重ね、

実際に悟ったり、悟らなかったりを繰り返してきました。

言うまでもなく、世界的宗教といわれている、仏教、キリスト教、

イスラム教、儒教、ヒンズー教などなどの創始者はみなさん、

悟られた方々だと思います。

しかし、これからの悟りは修行は不要になると確信しています。



それはどうしても、他者との分離意識を呼び起こしてしまうからです。
(自分と他人との双方において)

簡単に言うと、「私は特別なんだ!」と勘違いしてしまうこと

周囲からみて、「あの人は浮いている」と勘違いされてしまうことです。

新興宗教はたくみに「あなただけ」という自尊心を満たしマインドコントロールします。

そもそも、さとりとはなんでしょうか?

釈迦、キリスト、モハメッド、老子、孔子などなど

偉人、賢人は悟っていても、さとってはいないのです。

理由は、一般庶民とかけ離れすぎているからです。

もし、現在、彼らが生きていたら、気楽に接する事ができますか?

もちろん、出来る人もいるでしょう。



わたしももちろん、尊重し、尊敬しますが、

それはさとりの状態ではないのです。(双方において)

勘の良い方はここまで、お読みいただいてもう気付かれているかも

しれません。そう、さとりとは

文字通り、「差をとった」人なのです。



かつ接する事が出来る人のことだとわたしは解釈しています。

そして、さとりは実は究極的に簡単でシンプルなんです。

それは、ありがとうと言うだけなのですね。

ありがとうを言っている状態がさとりそのものなのです。

どんなに、偉い方が「我、悟れり!」と言ったところで

ありがとう一ついえない方は残念ながら、いかなる宗教集団の

トップであろうと、権力者であろうとさとりから正反対の

一番遠いところにいます。錯覚者をより集めて、自分の力を

誇示しているだけなのです。

そういう意味では、無邪気に、「ありがとう」を連呼している

小さな子ども達は全員さとっています。

さとりとは完成はなく、道そのものだと思うのです。

ありがとうを唱え続ける。

そういう意味でもさとり続けたいと願っています。      一心

これをご覧の方々がさとり続けられることをお祈り申し上げます。





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最終更新日  2006年01月31日 16時31分22秒コメント(0) | コメントを書く


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