藤沢秀行先生追悼
藤沢先生が日本棋院を離れていた数年間、T先生の紹介で年会費3000円ほどで「秀行塾」というものに入会していた。年何回か独自に発行する新聞が送られて来るのだが、驚くことに御自分で封筒入れもしていたそうだ。何か秘密結社に属しているような気分があり、日本棋院に戻られた時は、ほっとしたような残念のような複雑な気持ちだった。
戦前のたいへんな時代に棋士になり、その後も波乱万丈の人生を歩んで来た秀行先生。慣習に囚われず良しと思った事に突き進む姿勢は、先生の碁のスタイルそのままだったと思う。
先生の大きな功績として旧名人戦の創設を主導したことがある。名人という伝統の名称をタイトル戦に使うことは常識破りなことだったようだが、これをきっかけに本因坊戦しかなかった新聞のタイトル戦が次々に生まれることになった。つまり日本棋院興隆の基盤を作ったのである。
そして棋院の赤字体質への転落による改革の必要性と棋士育成の問題について棋院にいち早く警鐘を鳴らしたのも秀行先生である。独自免状の発行という鬼手を放った先生には、最初から捨石になる覚悟があったに違いない。このころから、少しずつ改革の動きが見えつつある。
秀行先生は木谷門下生を始めたくさんの棋士に教えてきたけれど、高尾九段などごく少数を除き弟子という表現はしていない。当初は高尾九段にしても、教えることは引き受けたけれど「田岡さんの弟子という事で良いではないか」と言ったとのこと。今では違和感はないけれど、師弟関係を超えて教えたり「来るもの拒まず」のスタイルは画期的だったようだ。師匠という功績を求めるのでなく、碁の考え方を伝えて行きたいという思いであろう。
「人まねでなく常識に囚われず、自分で知恵を絞り工夫をする。」という教えを盤上でも実践し続けた。竹林以降の日本の棋士や韓国中国の棋士に大きな影響を与えたと思う。ただ長期間 秀行先生の教えを受けている人が先生の碁をよく理解しているとは限らないと思う。むしろその逆もあるかも知れない。
初期のころの棋聖戦で秀行先生が打った一手を見て大竹九段が「この一手を見ただけで、はるばる来たかいがあった。」とコメントしたが、当時の私には「たった一手で?誇張した表現かな。」とピンとこなかった。今ならよく理解できる。その手を理解できたという意味ではない。魂の一手はすべてを語るという事である。
数年前には、新宿の教室で院生などの子供達を指導する先生の姿を拝見する機会があった。楽しそうに碁盤に石を並べる姿が目に焼きついているが、碁の仙人のようだった。
羽根本因坊と高尾九段のタイトル戦。このタイミングで秀行先生の教えを受けた二人の戦いが見られるのは楽しみだ。
第一局、右上の狭い所に入って行った羽根本因坊の作戦。私には善悪の判断はできない。薄い打ち方で秀行先生好みではなく、検討陣の評判は良くなかったようだが、黒地を右辺の固いところに限定して大所を割ってしまうという工夫は素晴らしいと思う。間違いなく羽根本因坊にも秀行先生の心は生きていると感じた。
秀行先生も多くの先人の影響を受けたように、先生の碁も意思も引き継がれて行く。
謹んでご冥福をお祈りいたします。
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