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戦争においてあたりまえであり、かつ、おぞましいものは、ほとんどすべてこの映画のなかにある。それがかならずしも見えやすくなかったり、メタフォリックに扱われていたにしても。『悪道日記』、ヤーノシュ・サース監督による、アゴタ・クリストフ原作の映画化。☆基本的に田舎の、まわりにろくに家さえないところの話だ。でてくるのは、せいぜい買い出しにいく小さな町。大きな街ではない。国境がすぐそばにあり、有刺鉄線が張られ、収容所がある。だんだんと服装や顔が汚れ、表情が、眼が動物化してゆく双子。小説で双子である意味と、映画において双子である意味はすこし違うかもしれない。眼が2つではなく4つになることであらわれてくるもの。動物がそこにいる感触。パラパラマンガのようにして描かれる人が人を殺すさま。甲虫の標本、そしてそれがのちに収容所を描くつたない絵と接続されること。売られているリンゴやラディッシュの赤、セロリの白が鮮やか。そして、大きな木が画面いっぱいに映しだされたときの緑の美しさと生命の感触。あばあさんが雪のなか、双子に支えられるシーンは『スターウォーズ』のジャバ・ザ・ハットを想いおこさせたりもし。☆明確な輪郭をあらわすことがない音楽。低く小さい音でひびきつづけるオルガン。フレーム・ドラムが倍音と余韻をのこしながら微かに打たれる。その不穏さ。担当はヨハン・ヨハンソン(だから当然オルガンが中心になる、か)。ノイズを含んだ古い録音でひびくチャイコフスキー《交響曲第5番》のエンディング。女がハミングする。ハミングとは何と平和でやさしくひびくことか…その直後にユダヤ人を動物扱いする声をあげようと。☆ああ、これはやはりハンガリーなんだ、とクレジットをみながらおもう。双子の本名がこうならぶ------Gyémánt András Gyémánt Lászlóこの列島の言語とおなじように、姓がきて、名がくる。☆監督は映画化権を獲得した数日後にはスイスに住む作家を訪ね、それ以前の作品を見せ、承諾をとったのだという。☆ハンガリーの作曲家について想起してみる。リゲティが1923年、クルタークが1926年の生まれ、そしてエトヴェシュが1944年。このあいだにアゴタ・クリストフをおいてみること。映画の公開は10月。
2014年07月18日
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丹波明 講演会「フランスで日本人作曲家であること」2014年7月14日(月)18:15-早稲田大学戸山キャンパス36号館682教室聴講自由9月に名古屋と東京で初演されるオペラ《白峯》を前に、永年パリに滞在する作曲家におはなしをうかがいます。丹波明 略歴1932年生まれ。東京藝術大学作曲科卒業後、60年フランス政府給費留学生としてパリ国立高等音楽院に入学し、 オリヴィエ・メシアンに師事。作曲で一等賞、楽曲分析で二等賞等を受賞。64~67年フランス国立放送研究所にて 「具体音楽」研究に従事。68年フランス国立科学研究所哲学科に入り、98年主任研究員に就任。70年以降、作曲、音楽学の二分野で活躍。CD収録の主な作品は、ピアノ協奏曲〈曼荼羅〉、チェロ協奏曲〈オリオン〉弦楽四重奏〈タタター〉等。音楽学の分野では71年『能音楽の構造』によりソルボンヌ大学より音楽博士号、日本翻訳家協会文化賞、 84年『日本音楽理論とその美学』により同大学よりフランス国家博士号を授与される。日本国内で出版された著書には『創意と創造』『序破急の美学』(音楽之友社)がある。
2014年07月10日
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岩波ホールで7月に公開される『大いなる沈黙へ』を記念して、下北沢のB&Bで、光嶋裕介氏とトークをおこないます。7月5日(土)15:00-17:00映画については、こちらの公式サイトをご覧下さい↓http://www.ooinaru-chinmoku.jpこちらが予告映像です↓http://www.youtube.com/watch?v=vU9FTzbl6Z0http://bookandbeer.com/blog/event/20140717_die_grosse_stille/
2014年06月21日
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早稲田大学戸山キャンパスにて以下の上映会+トークをおこないます。一般の方でももちろんご参加可能です。
2014年06月18日
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母は舟の一族だろうか。こころもち傾いているのはどんな荷物を積みすぎているせいか。(「漢字嬉遊曲」)☆二人が睦まじくいるためには愚かでいるほうがいい立派すぎないほうがいい立派すぎることは長持ちしないことだと気付いているほうがいい(「祝婚歌」)☆戦争は国が始めたことであった。そして、国のために働いたのが民衆だった。その民衆が戦争の生んだ罪を個々に背負いこんで、それを愛する子供の前で謝罪しているのである。こんな不条理があるものだろうか。/戦争という局面では、最終的に民衆の一人々々に傷や損害を押しつけて、正体を霞の中に長く隠してしまうのが国であり、国の指導者といわれる人々の実態であること、それだからこそ、民衆である私たちは戦争に反対せざるを得ないのだと私には思われる。------吉野弘「中国残留日本人孤児のこと」(1982.3.)☆☆☆1月に87歳で亡くなった吉野弘。若い頃、わたしはこのようにはけっして書けないから、と、けっしてよい読者ではなかった。嫉妬と羨望、だったか。「ユリイカ」6月臨時増刊は「吉野弘の世界」。何人かによる詩やエッセイがあるほかは、吉野弘自身の詩、エッセイ、批評で、ひじょうによく出来たアンソロジーだ。ところどころに詩人自身の書いた文字で数行掲げられ、写真も豊富。詩の選択も、高橋順子によるもの、つれあいと二人の娘によるもの、未刊詩篇とあって、吉野弘という詩人に「ふさわしい」かたちになっている。上に引いた「中国残留日本人孤児のこと」は、作品しか知らないこの詩人の未知な側面だった。立っているのは詩篇とおなじところ。おなじところから、詩にいくとああなって、エッセイではこうなるか、とおもう。そして、このエッセイがここでとりあげられている理由をおもう。
2014年05月15日
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すっかり遅れてしまったのだけれど、「みすず」3月号、no.624に目をとおす。森まゆみの連載『国立競技場の新築は必要か』の第1回、東京のことをずっと書いてきた筆者が、スポーツ観戦に興味などないというところから始めて、いつのまにか東京での開催の賛成が圧倒的多数になってしまったことを記す。そしてまさに子どものときに東京オリンピックがあった事実と、浮かれてはいたが誰もまわりで実際に競技そのものをみたひとなどおらず、東京だろうと札幌だろうと、メディアととおしてだったではないかということを喚起する。槇文彦らがザハ案への疑問を呈したシンポジウムの時期、筆者は(東京と競っていた1つ)イスタンブールにいて、かの地の知識人が「おかげでオスマントルコの遺跡が壊されないですんだよ」と語っていたことを伝える。他方、酒井啓子の『「内なる敵」を炙りだす』では、かつて、イラクのアルメニア人が、イラクのクルド人が国籍を変えたことについて「許さない」と言ったところから、一国内にいる異なった宗教の人たち、少数民族への差別・迫害、さらには第一次世界大戦中、オスマントルコによるアルメニア人ジェノサイドについて記し、その背景をあきらかにしてゆく。こうした地域における複雑なさまは難しく、そう容易にアタマにははいってこないのだけれども、それでも筆者は丁寧に説明してくれて、ついに最終のページにいたると、何とはなしにそれまで読みながらぼんやりとアタマに浮かんできたことが、(案の定)明確に提示される。すなわち、現在のこの列島での状況について、だ。そして例として挙げられるのは沖縄独立論であり、「内なる敵」としてしまうような論調について述べられる。歴史から学ぶこと、について、こういうことなのか、をあらためて認識させられるような文章がここにある。そしてこの最後にこう置かれる-------- 「「紛争の絶えない中東は、日本人にはわかりにくい」と、いつまで言いつづけられるだろうか。いつまでも言いつづけられるほどに、日本も紛争と無縁でありつづけられれば、よいのだが。」http://www.msz.co.jp/book/magazine/201403.html
2014年04月20日
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親の臨終の場に呼ばれ、人よりも大声で泣く人はきまって、それまで仕事に忙しく、一年に何度かしか帰郷せず、晩年の親とはゆっくり話もしなかった子どもたちだ。--------中原清一郎『カノン』(河出書房新社)☆海馬を移植することで他人になり、生き延びることができるようになる近未来。この列島で二例目の手術がおこなわれようとしているところから作品は始まる。手術がおこなわれるためには多くのチェックがあり、そのための委員会も設けられている。そうしたこともこの作品の問題系のひとつだが、中心となるのはその一対の人物たちとその周囲ということになる。男性と女性、58歳と30代、つれあいとの、子どもとのつながり、そして友だち。男性は膵臓がん。女性はといえば、だんだんと記憶がなくなってゆく、いまでいう若年性アルツハイマー(ここではジンガメル症候群という名称が与えられている)である。その母親はこんなふうに言う------「ペンティメントっていう言葉があるんです。主人が死んで、わたし、趣味で油絵を始めたでしょ。そこで覚えた言葉なの。昔の画家って、材料があまりなかったから、下絵に重ね塗りをして、別の絵を描くことが多かった。でも、うんと長い時間が経つと、上絵が透明になって、下絵が表れてくる。それをペンティメントって呼ぶそうなの。あの子も、そのペンティメントになるのよね。」考えようによっては、ある種のSFとか、「いれかわり」の物語は書かれてきた。だが、ここではより現実的に、そしてより「人間的」(という語がいいかどうかはわからないが)に描かれてゆく。生について、身体について、が記されるが、また「心」についても対話があったりする--------「心って、渚みたいなものではないでしょうか。」すでに単行本となっているが、積み上げていた雑誌掲載で読んだから、もしかするとすこし変更が加えられているのかもしれないけれど、この58歳の男性が子どもだった時期の台所の描写は、いささか過去「すぎる」ようにもおもえる。近未来のGPSなどの描写はさもありなんと違和感はないのだが。タイトルは、女性の名からとられている。音楽用語としてのカノンともつながっているとみていいだろう。時間的なずれ、そして、おなじテーマがそれぞれの声部で、という意味で。『北帰行』から37年、外岡秀俊が中原清一郎名で発表した長篇小説。外岡秀俊、そう、朝日新聞の記者としてさかんに書いていた人物である。
2014年04月16日
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つまり、イジチュールの詩人にとっては、ぼくたちの行為だけでなく、言葉もまた病んでいる。それでも、ぼくたちが自分たちを治すための解毒剤か薬を、あらたな何かを、未知なるもののなかでのみ見つけることのできるその何かを探すあいだ、ぼくたちはセックスを、書物を、旅を探求し続けなくてはならない。たとえそれらがぼくたちを、偶然にもその解毒剤を発見することのできる唯一の場所である深淵へと導くことが分かっていても。--------ロベルト・ボラーニョ「文学+病気=病気」in 『鼻持ちならないガウチョ』、白水社 p.139)☆ボラーニョ晩年の短篇と講演原稿を集めた小著にはたっぷりの毒とユーモアが。作品を書きながらも、その行為そのものへの距離がまた秀逸なのだ。はっきりとボルヘスを下敷きにし、しかもアルゼンチンのパンパやガウチョを文字上でしか知らないがゆえに21世紀のドンキホーテを演じてしまう『鼻持ちならないガウチョ』(登場するのは牛ではなく、ウサギだ。しかもけっこう獰猛な)。「どちらかというと広告代理店の社員のような作家たちの一団がいた」(p.43)なんて一文もある。カフカの「ヨゼフィーネ」を下敷きにしつつ、なんとも可笑しく不穏な、つまりはブラックユーモアともいえる『鼠警察』。一作家の短い伝記のようにも読め、「すでに知られているように、いかなる文学の燦然たるホープであっても、一日だけ咲く花にすぎず、たとえその一日が文字どおり束の間であっても、あるいはその一日が十年、二十年と続いたとしても、最後には枯れるのである。」(p.82)なんて書かれもする『アルバロ・ルーセロットの旅』。また、2つの講演『文学+病気=病気』と『クトゥルフ神話』が抱腹絶倒。後者について、解説で青山南さんが、ボラーニョはゴシップ好きにちがいないと書いているのだが、まさに。そうそう、青山さんには『小説はゴシップが楽しい』という名著があったっけ。『野生の探偵たち』や『2666』の前に、まず、ここから足慣らしをしておくのもいいだろう。
2014年04月15日
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「女性は自分の体のことがよくわかっていません------それは科学的知識がないからだとわかってきました。科学が足りないのです。女性の体の仕組みについてもっとわかっていれば、この話題も恥ずかしいことではないのです」(p.131)☆女性がオーガズムに達するかどうかは基本的な神経のつながり方によるだなんて、聞いたことがない。これは女性のセクシュアリティについての、曖昧なところのない価値ある情報だった。(p.28)-------ナオミ・ウルフ『ヴァギナ』(桃井緑美子訳、青土社)☆イヴ・エンスラー『ヴァギナ・モノローグ』が木内みどり、中川安奈、北原みのりらによって上演される。もともとの本は、岸本佐知子訳で白水社刊。舞台はといえば、常田景子の翻訳。4月4日(金)@東京芸術劇場でただ1回の公演(問い合わせはアムアーツ 070-6553-6267)。あわせて、というわけではないが、制作のMに本を貸すので、ナオミ・ウルフ(桃井緑美子訳)『ヴァギナ』(青土社)を再読。原題は「Vagina, A New Biography」。著者は自らの身体的でありつつ情緒的な不調から医師にかかる。そして知ることになる事実から、女性の身体にかかわることどもが調査される。医学的、生物学的から始まるその射程はとてもとても広いのだが、その根本には女性の身体がある。それは男性よりはるかに複雑であり、そこからふりかえってみれば、歴史的な問題や暴力もかなりクリアにみえてくる。シャーロット・ブロンテ、ジョージ・エリオット、クリスティーナ・ロセッティ、ガートルード・スタイン、ジョージア・オキーフといった人たちの作品が引かれ、シェークスピアの作品の部分的な分析があり、黒人ブルース歌詞の検討がある。基本的には西洋文明・文化が中心となりつつも、インドのタントリズムや中国の金瓶梅への言及もある。そうしたところは文化論として読むことができるが、それはあくまで例示であり、最終的には女性と男性とがおなじ地平に立つことが述べられる。もちろん女性が読むほうが抵抗は少ないだろう。だが、それ以上に男性が読むことの意味はかなり大きいようにおもう。タイトルにめげず、オープンに接すれば、だけれど。
2014年03月27日
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悲しみは一種の謎である。というのも、進化論的な観点からすると、それに適当的な利点があるとはとても思えないからだ。そもそも、繁殖の相手を見つけるのに役立つわけではない。おそらく喪に服することは、亡き者にいま一度敬意を払うために集まった仲間同士の靭帯を強化するのではないかと言う学者もいる。それは、いったん弱体化した絆を一度に結び直し、グループの結束力を強化するのに役立つのかもしれない。いずれにせよ、その意義が何であれ、悲しみは、幸福と悲哀の源泉たる、仲間への献身的の代価なのである。マーク・ベコフ『動物たちの心の科学(The Emotional Lives of Animals)』(高橋洋訳、青土社、p.116)☆多くのエピソードに満ちた本。そうした部分だけ読んでも充分おもしろい。でも、けっして単なるエピソード集で終わってはいない。動物の「心」------筆者は情動(emotion)と感情(feeling)というような言い方をする------について、ひとはよく知っている。実際にふれていれば誰だってわかっている。しかしそれが科学としてどうなのか、客観性を持ったものなのか、そのあたりはいつもまた疑問だし、よくわからない(というか、ヒトの「心」だってわかっていないのだから推して知るべし)。科学者にしてからがそうなのだ。カクテルパーティで自分の愛犬の行動について楽しげに語る学者が、壇の上ではまるで逆の立場をとるエピソードが本書にもあらわれている。「心」があることによって、わたしたちはどうするか? 動物をどうとらえ、どう面するか? これが本書の問いである。そもそもひとは、日本語であろうと外国語であろうと、動物を語るとき、「擬人化」する。「よろこんでいる」「かなしんでいる」というふうに言う。これが正しくない、と考える科学者はいる。ならば、動物独自の語であらわすことができるのか? ここで想いだすのは、ジャック・デリダの「白の神話」で、ここで哲学者は「哲学から修辞学が。」という一文から、言語としておなじところに立脚していることを、哲学と修辞学の不可分性をあらわにしてみせるのだが、これはまた、動物を語る擬人化にも重ねられることではないか。先にも記したように、本書ではさまざまな実例が、ダーウィンからローレンツといった古典の延長上で記される。そのうえで、よくアクチュアルな問題にはいっていく。つまり、動物に「心」があったなら、わたしたちはどうするか、どうしたらいいのか、という問いだ。そして、「心」があることによって、ヒトが困ってしまう、対処できなくなってしまうことどもがある。さまざまな実験動物や動物園、食肉施設の環境。そうして、筆者自らはヴェジタリアンであることが明かされる。ともすればイデオロギー的なものに感じられなくはないのだけれど、それを全面的に押しだそうとはしていない。そこでわたしたちは考える。食べること、について、だ。生きているものと食べる--------わたし自身は、そうしたなかでやはり砂漠育ちの一神教ではなく、やはり仏教の姿勢を想起するわけだし、そこではあらためて食物連鎖をふかく思考した宮澤賢治の存在が浮上したりもする。訳者は2012年に『魚は痛みを感じるか?』(ヴィクトリア・プレイスウェイト著、紀伊國屋書店)を翻訳している。あの本も刺戟的だったっけ。以下、結びの文章-------「情動は私たちの祖先からの贈り物であり、人間も動物もそれを受け取っているのだ。このことを絶対に忘れないようにしよう。」(p.263)
2014年03月18日
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「草間なんておとなしいもんだ」との、2人のスーツ姿の男性の会話が耳にはいる。大阪・東京・青森とつづく『あなたの肖像 - 工藤哲巳回顧展』(東京国立近代美術館)、内覧会をまわりながら。☆ 赤瀬川原平の『いまやアクションあるのみ! 《読売アンデパンダン》という現象』(筑摩書房)のタイトルになっているのはこの作家の発言だった。フランスには断じて学びに行ったのではない、西洋人を挑発しに行ったのだ。フランス語がわからぬまま、スーパーで売られる缶詰を何年も食べつづけ、ことばがわかるようになったときに「お宅には随分たくさん猫がいらっしゃるんでしょうねえ」と言われた。東京芸大の教員になった数年後に55という年齢で亡くなってしまった。などなど、目に、耳にはいってきたエピソードは数知れず、でも、工藤哲巳作品そのものはといえば、けっして多く観ているわけではないし、観ていても晩年のものだったりするので、こうやってまとめて接すると、いやはや、すごい迫力。先の会話は、美術関係の人のものではあきらかにないけれど、一種、少なからぬ声を代弁しているだろう。 ただ、作品によっては、やはりある程度褪色したりしているのではないだろうか。褪色というよりは色の変質だろうか。 いまの時代にこの展覧会がおこなわれることもまた、考えておきたい、というのは当然ある。早い時期から放射能とか環境とかがさかんにでてくるのだから。 写真のうちのひとつは、640ページにおよぶ大部なカタログ(この厚さは『現代用語の基礎知識』や『知恵蔵』『imidas』を想起させる)。☆ 2階では『泥とジェリー』というのもやっている。「これって『トムとジェリー』……」と担当キュレイター・K.M.さんに遭遇したので尋ねたら、案の定(笑)。白髪一雄や岸田劉生、中西夏之、岡崎乾二郎といった人たちの作品がある。特に岡崎作品は大きな画面のもの、セラミックのものとあり、見応えが。岸田劉生が1914年に発表した短篇『道悪』の紹介も。http://www.tetsumi-kudo-ex.com/
2014年02月03日
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会場にはいると、一瞬、ぎょっとする。ループしているのはエノケンこと榎本健一《これが自由というものか》。あ、映画館のはなしとおもいきや、こっち方面に傾斜しているのか、と案ずるも、そんなことはない。燐光群『ここには映画館があった』@座・高円寺☆映画について話しているのを聴いているのは、熱心に語っているさまをみるのは、なんてうきうきすることなんだろう。そこに自分が加わって何か言いたい、という間さえ与えずに、アツい、ある意味ひとりよがりな話しぶりとは。映画が好きなら、この劇はきっとおもしろい。ましてや、70年代後半に青少年時代をおくっているなら、なおのこと。1976年という特権的な、そして作・演出の坂手洋二自身の個人的なことがつよく投影されているからこそ、また、観ているわたし自身が坂手と数年しか齢の差がないがゆえに共有しているものがあるからこそ、冒頭からすっかりのめりこんでしまう。冒頭に言及されるのは『ハリーとトント』。そして『JAWS』。地方の映画館という場所、そして1976年というとき(その後も含みつつ)。☆[多少ネタバレ的なところもあるかもしれないけれど、実際に劇を観るのと伝聞とではまったく違うので、敢えて。]☆登場人物はさまざまなだ。誰もが主役であり、主役でない。ある意味では、ここに登場人物たちすべてによって成りたつ場所=時間・空間。そして、1976年を中心にしながら、「その後」も、「2013年」も含みこむ。一種のユートピア? 妄想?☆映画、映画館、映画館にかかる作品、地方と都市、映画および映画興行の変化、テクノロジー。などなど。☆でも、映画と映画館から、そうか、こういうふうにつなげるか、広げるか、というかたちで、「沖縄」が、「アメリカ」が、「ヴェトナム」が、あるいは「自衛隊」「飛行機」があらわれる。坂手洋二は、抱えているテーマを一作品で使い切り、つぎつぎに変えていく、ということをしない。いい意味で反復し、使い回す。そのときどき、ほんの数カ月、半年、1年の違いのあいだにおこったアクチュアルなことどもを加えながら、変奏し、新しい作品のなかに織りこんでゆく。たとえはじめて燐光群の作品に接し、それまで「アメリカ」や「沖縄」に関心など持っていなかったとしても、あたらしいかたちで「問題系」にふれることになる。その意味では、この作家、とても親切だし、ちょっとブレヒトっぽいところもないわけではない。今回は、「クジラ」はなかったけれど。☆『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』におけるゾンビの、ヴェトナム戦争とつなげた解釈。☆1976年という「年」と、その前、その後。映画の名、映画に描かれているもの、そして、それを観る個人。映画を観る「場所」、その場所が置かれているこの列島のなかの位置、さらに、この列島が世界のなかにある位置。広げてゆくなかであらわれてくる社会的・政治的な地図・構図。この作品のなかで言及される映画のほとんどがアメリカ映画であることはけっして偶然ではない。地方の映画館でかかる、かけられる作品というバイアス。ちなみにわたしが1976年頃東京の映画館で観ていたのは、ハリウッド映画もあったけれど、リヴァイヴァルされていたチャップリンやベルイマン、レネだったりした。ジョエル・サントーニ『目を閉じて』なんて作品にショックを受けたりしたのもこの頃だったっけ。☆音響的な処理もおもしろい。『JAWS』や『アメリカの夜』などのテーマがけっしてそのままではなく、巧みにいじられて、ながれ、それを役者たちが「映画館で観ている」さまの仕草もまた。☆初日だったので、まれに役者のセリフまわしがうまくいかないところもあったけれど、それはまた、通常の会話でこんなにたくさん喋ったら当然おこることでもあり、むしろスムーズでないがゆえのリアリティもあったりし。それにしても、多いんだ、セリフが。☆椅子におかれている簡易なプログラムには、坂手洋二の映画少年であったはなしが記されていて、とてもおもしろい。それとともに挟み込まれているのは、劇中で言及される映画群が「1976年」を境に幾つかに分けられ載っているのだが、パソコンにむかってこれをつくっている坂手本人の顔が想いうかんで、なんかもう、微笑まずにはいられない。自分がこういうことをやっていても、おなじだろうなぁ、とおもうから余計に。☆なんと、24日(日)には坂手洋二と長谷川和彦とのトークもおこなわれます。11月15日(金)-26日(火) 座・高円寺1(東京)、12月4日(水) 名古屋市名東文化小劇場12月6日(金)-7日(土) ピッコロシアター 大ホール(尼崎)12月9日(月) 岡山市立市民文化ホール以下、サイトです。http://rinkogun.com/
2013年11月16日
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『小さなおうち』、監督・山田洋次原作は、言わずと知れた中島京子の直木賞作品。もちろん、小説と映画は違う。改変されている。でも、まぁ、こっちも随分前に読んで細部は忘れているし、そういうものとおもっているから、特に気にはしない。映画を観て、小説も読んでくれれば御の字だ。何よりも、キャストが揃っている。特に倍賞千恵子、橋爪功、小林稔侍、米倉斉加年あたりは、でているのは短いけれど、しっかり記憶に残る。☆メインに据えられているのは松たか子。平井時子という「小さなおうち」の、女主人とでもいったらいいのだろうか。彼女が赤い細帯をくわえながら着物を着るところは、カメラが斜め後ろあたりから撮っているのだが、とてもいい。タキ(黒木華)にもませるところ、板倉正治(吉岡秀隆)の下宿の階段を上がっていくところ、など、脚をみせるところがある。好みかどうかはべつにして、「艶」というかんじがする。「小さなおうち」はハイカラで、ほかの家とはおよそ異なっているのだけれど、ここには2階があり、窓がある。フランス窓というのだろうか、これは台風でばたばたしたりするのだが、ここから家人が顔をのぞかせ、外をみるのはただ1度しかない(正確には、もう1度、だけれど)。いろいろなモノが凝っているのも特徴。部屋の奥にたてかけられている箏。モンドリアンの複製。雑誌「みずゑ」。あるいは、タキが年取って------これが倍賞千恵子------独り暮らしをしているとき、ベッドの枕元にペットボトルがあったり。遠くで、静かな部屋のなか、汽笛が届く。ピーッと汽笛がなり、すこし間があってから、低いボーッという音がする。それが3回、だったか。この距離感とストーリー上の間合いはなかなか。☆音楽は久石譲。アコーディオンが3拍子のテーマを弾く。板倉正治が芸大出身ということになっていて、絵がたくさんでてくる。この「絵画監修」は薮野健。早稲田出身なら、というか、いま早稲田キャンパス内を歩けばいたるところで薮野作品をみることができるのは、よく知られたこと。絵葉書もいろいろあるし。☆すでにお知らせ済みですが、18日(月)には、フランスの作家、ダヴィド・フェンキノスと、中島京子さんが早稲田・戸山キャンパスで、ちょっとしゃべってくれます。18:15から31-208教室です。よろしかったら、こちらも。☆映画のロードショー公開は1月25日(土)。けっこう長くて、2時間16分。http://www.chiisai-ouchi.jp/
2013年11月15日
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EPがコンパクトなターンテーブルの上でまわっている。女性が、男性が、べつの部屋で寝ているのが上方から。そして回転し、だんだんと近づいてくる。男性はアダム(トム・ヒドルストン)、女性はイヴ(ティルダ・スウィントン)。アダムの上にはリュートがのっている。☆ジム・ジャームッシュの最新作『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』は、21世紀における吸血鬼たちの物語。アダムはデトロイトに、イヴ(そしてジョン・ハート演じるクリストファー・マーロウ)はタンジールに。タンジールでブツの受け渡しをする店は「Café mille et une nuits(カフェ千夜一夜)」。☆吸血鬼だから夜しか出歩かない。だから、夜の物語。☆『ナイト・オン・プラネット』も夜の映画だった。最近のジャームッシュ作品はいくつか見落としているのだが、この映画にはほとんどユーモアがない。そしてただよっているのはある倦怠、そして不安。☆イヴが、鞄に本を詰めてゆくシーンは美しい。ごくごく短いあいだ、指でいろいろなことばで書かれたページをさあっとたどる。英語がありフランス語があり日本語がありアラビア文字がある。それを。見知った古典のタイトルが、背表紙にみえる。☆イヴが乗る飛行機、出発も到着も夜の便は、Air Lumière。デトロイトで乗るタクシーでは、アラブ系の音楽がなっている。タクシーを降りるとスカンクがいる。スカンクは、上から撮られて、白い縞が。☆シューベルト《弦楽五重奏》のアダージョは、アダムが作曲し、シューベルトに自作として発表させたというエピソードがでてくる。この五重奏、映画のなかにときどき使われたりすることが意識されているのだろうか? たとえば『インド夜想曲』に?☆アダムは名をださないミュージシャン。自宅にスタジオがあり、古いレコードや楽器がならんでいる。持ちこまれるヴィンテージのギターを買ったりする。あるものには「ウィリアム・ローズ」と名づけたり。ギター・マニアにはたまらないだろう。ギブソンのどれどれというふうに。タンジールでイヴがアダムにプレゼントするのは、ウード。「ココボロ?」と素材を尋ね。ヤスミン・ハムダンが《HAL》をタンジールのバーでうたっているのを、アダムが聴きいるところも。☆イギリス文学へのちょっとした連想がいくつも。パスポートの偽名が「スティーヴン・ディーダラス」だったりするのは、やっぱりちょっと笑う。そうしたなかだからこそ、ジョゼフ・ヴァン・ヴィセムのリュートが、金属的でぱりぱりしたひびきが、生きる。そして、ときにエレクトリック・ギターのノイズィな音とかさなって、美しい。わたしのことば(造語)をつかうなら、ハーモノイズ。☆吸血鬼たち、というより、特にアダムが「ゾンビ」に対して嫌悪しているところが気になる。というか、この「ゾンビ」とは何か? 文字どおりゾンビというよりは、メタファーとして暗示されているのは?そして、そのどれもにおいて、わたしは、だけれども、『ポーの一族』がどこかに影をおとしているようにみえてしまったりするのだが……☆吸血鬼映画の系譜はずっとあるが、この作品もやはり21世紀のもので、その意味では、岩井俊二『ヴァンパイア』とけっして遠いところでつくられたものではない。☆映画、最後のセリフは、Excusez-moi。http://onlylovers.jp/☆『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』、イタリア語字幕がついてるけど、一応、トレイラーはこちら。http://www.youtube.com/watch?v=k1Sv4uaaT5k
2013年10月29日
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「一」unumは善であり、反対に「多」multaは悪である。というのは、もし善が完全であるならば自らの外には何も残さないからである。ところが多が[完全で]あるとき一は他のもののなかには存在せず、したがってその善性は絶対的ではない。というのは、それ自身が一であるので善であるからだ。その証拠となるのは、すべてのものが「一性」unitasへと帰着されるかぎりにおいて完成されるということ、何であれ存在するものは一へと向かう傾向があるということである。-------カルダーノ(榎本恵美子訳)『一について』☆榎本恵美子『天才カルダーノの肖像 ルネサンスの自叙伝、占星術、夢解釈』(勁草書房)には、ジローラモ・カルダーノ(1501-76/77)について、まずこの人物とは誰なのかとの入り口と、あと2つの部分、『わが人生の書』と『一について』とを論じる部分、そして最後に『一について』の翻訳が収められている。およそ縁遠い人物なので読んでいてもわからないことも少なくない、というか、ぴんとこないことが多いのだが、『一について』の発想と論理展開、そしてヨーロッパにおける中世-ルネサンスにおける一神教的な発想というのがとてもとてもはっきりとあらわれている、つまりはルネサンスという時期に至ってあらためて凝縮されたかたちで「一」を論じることの意味が感じられて、興奮してしまう。そしてだからこそ、20世紀も後半になって「多」の問題系が生まれ、また、そのありようがショッキングであることが腑に落ちもする。「多」について、もしかすると多神教的文化圏にいると、それはそれであたりまえ、特別なことじゃない、とおもってしまいがちかもしれず、それは、でも、「一」で押しとおしてきたところで攪乱的にはたらくかを想像しないと、ということにもつながるのかも。音についても、オクターヴや協和/不協和のことなど語られている。☆ジローラモ・カルダーノの名がより印象深く記憶されたのは、ハンス・ベルメール『イマージュの解剖学』を訳していたとき(翻訳はしたものの、版権の関係で結局でることはなかった)。カルダン・ジョイントというのがでてきて、調べてみたらルネッサンス期の百科全書的人物として、それまで知っていたのとはべつの相貌があらわれてきた。ルネサンス時代の思想については、ほんと、暗いことにあらためて。こうした本がでることに、また、こうした研究者がいることに、敬服。☆http://www.keisoshobo.co.jp/book/b114547.html
2013年10月18日
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手つかずのまま地上に残る生息環境に固有のオーケストラを聴くことがこれだけ困難になっていることを考えると、わたしたちの音楽の起源や同じ生物種内の複雑な関係の成り立ちを解明することは、これまで以上に困難になっていることがわかる。特に驚くべきは、地質学的に見れば十億分の一秒程度のわたしの人生のほんの半分程度の間に、音響面で劇的な変化が起きたことである。------バーニー・クラウス(伊達淳訳)『野生のオーケストラが聴こえる』(みすず書房)p.131☆原著はBernie Krause, The Great Animal Orchestra, Profile Books(左にあるのはペーパーバック版で2012年刊)、翻訳につけられた副題は「サウンドスケープ生態学と音楽の起源」。こんな本は翻訳がでない、とばかり勝手におもっていたので原著を持っていたのだったが、あっという間にでて、ろくにオリジナルを目をとおさないまま、という次第。ま、英語は苦手だからいいのだけれど。翻訳には、原著にはない言及されている音源へのアクセスなども記されている。☆19世紀の終わりから20世紀はじめに生まれた「ポピュラー音楽」において、ずっと気になっている点は、これがやはりテクノロジーや産業に依拠しており、都市化というものと不可分であること、そしてどんどんと自然からはなれていっているし、自然の音から学ぶものがけっして多くはない、ということだ。いや、そうした音楽もなくはない。でも多くはない。ヴァカンスに都会をはなれて作曲にいそしんだ19世紀の作曲家とはスタンスが違うのだ。☆植物の生きていることと音・音楽を考える藤枝守《植物文様》や「プラントロン」があり、坂本龍一《Forest Symphony》があり、動物の音に耳をかたむけるこうした本がいま登場してくることを同時的に考えること。
2013年10月16日
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☆オレカTX、P・リカルド・ミーニョ、カルロス・ヌニェス、スペインの3つの異なった文化が一堂に会するというコンサート。カルロス曰く、スペインでもこんなことはない、ここがはじめてだ、とのこと。スペインに特に関心がなければ、この広い国はどこでもフラメンコでパエリアだというふうに思いこむこともありうる。事実、わたし自身、20代はじめのころはそんなふうだった。ここに登場するのは(順番に)、バスク、アンダルシア、ガリシアの音楽。ほんとうはもうひとつ、カタルーニャがあって、スペインの4つの文化ということになるのだが、ある意味、「ふつう」のヨーロッパ音楽に一番近いカタルーニャは、こんなふうにしばしば、逆の(個性的な)側からすると脇によけられてしまうのが実情。これは政治・社会的にもパラレルかも。☆バスクのチャラパルタとライヴで接するのははじめて。背後に映像がつけられ、それと共演するかたちをとる。2人は両の手に1本ずつ棒を持って、板を叩く。それにミクセル・デュカウが、ギターのみならずシングル・リードのアルボカを吹いて、立体的な音楽をつくりだす。素朴な楽器なので、どんなところに行って、どんな音楽とでも共演ができる。インドやアフリカ、モンゴルなどの映像がでてきて、録音された音と「共演」。大きな身振りで叩く姿は、力強いという以上に、いい意味で”野蛮”であり、そこが洗練された楽器/音楽にない魅力となっている。☆ピアノでのフラメンコは、うーん、いまひとつ。ギターに慣れているというだけではなく、近代に生まれた複雑なメカニズムの楽器では、ちょっと違うんじゃないか、というのが本音。ある種の単調さゆえに、いつのまにか遠くの世界へ……(笑)。ダンスがつくと、また、音楽よりそっちに意識がいってしまうし。☆カルロス・ヌニェスは久しぶり。ガリシア・ケルトが中南米にまで行って、というような話をわかりやすい英語で。このことは10年以上前にインタヴューしたときにも話してくれたっけ。いろいろな音楽が演奏され、どれもけっこう短くて、楽しめる。トークもみごと。そんなことも人気の一因ではあるだろう。ひとつ驚いたのは、ラヴェル《ボレロ》のガイタ(ガリシアのバグパイプ)による演奏で、作曲家はあくまでオリジナルとしてつくっているのに、それとはべつのかたちで”腑に落ちる”ものがあった。これだけでも聴く価値はある。正直、ケルト音楽はあまり得意ではない。仲間・同胞が集まって、演奏家も聴き手も一体になってという音楽であり、参加してこそのものだと感じるから。なので、最後に聴き手も含め、手をつないで踊って、というのがもともとのありようとはわかりつつ、個人的にはちょっと”はいれないなぁ”なのである。ま、それと音楽の良し悪しはべつのものだが。カルロスも言っていたことだが、こうした企画を実現してくれるプランクトンに感謝。カンバセーションがなくなった後、この事務所がやってくれなければどこが、というかんじ。☆13日は所沢、14日は焼津で公演が。☆10月12日@すみだトリフォニーホールhttp://www.plankton.co.jp/
2013年10月13日
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プレトークがあるので、ゲネプロを聴いておいたほうがよかろうと、15時すぎにホールへ。 客席にいるピアニスト・向井山朋子に挨拶。娘のことを尋ねたら、「うちをでてっちゃったよ。10月から大学生だもん」と。これにはびっくり。これがトークの冒頭にもつながるのだが、向井山朋子と権代敦彦とわたしと、3人で顔をあわせたのは1996年春、アムステルダムでのことで、そのときピアニストが押す乳母車のなかにまだ小さい娘がいた。わたしはまだ会社員で、大規模なフェルメール展がどうしても観たくて、この土地に足をむけた。そして当時はまだパリに住んでいた作曲家の新作《Poème de la Force》を聴く機会も持てたのだった。それから17年。それなりの歳月だ。☆ 正直なところ、プレトークでは、会場の人たちにむけてということがあるので、プログラム全体の見取り図であったり、作曲家と演奏家との関係というようなことを3人で話ができたら、と考えていた。ところが、相手が権代敦彦とあっては、それではすまないわけで、もっと踏みこんだ、それも期せずして近年自分が考えていることとも重なることがでてきたので、かならずしもとっつきのいい話とはらなかったかもしれない。わたし自身としては何ともスリリングだったのだが。語でごくごく単純化し、テーマ的にいえば、生/死、永遠というようなこと。☆ 2曲目《デカセクシス》にあるド音のひびきは、3曲目《子守唄》、4曲目で最後の《エッド・エンド》でもあらわれ、特に後半の2曲には、このド音のピアノの連打は槌のように聴き手の心身にうちこまれる、ということ。このド音は一種のピアノ協奏曲である《ゼロ》でも、オケ中のピアノ(つまりソロとオケ中と2台がつかわれている)で聴いたように記憶するが、たしかかどうかわからない。 《デッド・エンド》でも、《ゼロ》同様、ソロにちかい扱いのオルガンがあり、対して、オケ中のポジティフ・オルガンがある。前者は何度も電気を切られ------譜面台のあかりが消えるので、客席からもそれがよくわかる------、また立ち上げられ、また切られ、と楽器にも負担がかかるし、奏者もまたこまかい音符で弾きつづけるタイヘンさがある。そして、最後にソロ・オルガンが切られて音がでなくなった後、それはポジティフの高音へと引き継がれ、モールス信号のように残っていく……。 こちらからは最後の音が微妙に低いソの音に聞こえていたのだったが、あとで譜面をみるとファ♯。隣席の某氏と、ド-ソなんだね、という話をしていたので、あら、と。自分だけが聴き間違えていたわけではないのにちょっと安堵したりもし(たぶん、ほかの音との関係で、ちょっとファ♯からするとちょっと高めに、ソからするとちょっと低めに聞こえたのかも。いずれにしろ、あまり耳がよくないのをあらためて自覚)。☆ ほぼ21時に終演したとき考えていたのは、あの人に、この人に声をかけるべきだった、学生たちは途中で寝てしまったりするかもしれないけれど、ともかくあの2時間をここに据えつけておいて体感するべきだった、というようなこと。☆2013年10月11日(金)@サントリーホール
2013年10月11日
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著書『木琴デイズ 平岡養一「天衣無縫の木琴人生」』(講談社)がでて間もないので、先達のレパートリーを生かしつつ、通崎睦美ならではプログラミングが組まれている。 べつのところにいたので、会場に到着したときには前半の最後の曲目を演奏中。西邑由記子《メンデルスゾーンコンチェルト》。ロビーでぼんやりと聴くが、「メンコン」3楽章と木琴はじつによく合うのにびっくり。後半は野田雅巳、伊佐地直の新作を含む。伊佐地《スパイと踊り子》は、リコーダーと木琴のための作品だが、視覚的要素も含むおもしろい作品。叩く行為とくるりとまわる「踊り子」。リコーダーは、バスからソプラニーノ、テノール、バスというふうに持ち替える。部分的にバスがベースラインを吹くのだが、その音色/効果には、そうか!と膝をうつ。 プログラム最後は江文也《祭りばやしの主題による狂詩曲》。6月、フェニックスホールでの映画とレクチャー・コンサートで初演(たぶん)をしたものだが、東京でははじめて。弾きなれたこともあるだろう、輝きがまた違っていた。ピアノは西脇千花、リコーダーは本村睦幸。 アンコールに、アンコールのために書き下ろされた高橋悠治《飼いならされたアマリリス》。なんとも贅沢な。 木琴は、当然、前から見ることになるのだが、通崎睦美の演奏は、横とか斜めとかからみるほうがはるかにおもしろい、というか、いい、のは事実。それはフェニックスホールで実体験したからこそわかる。なので、ふつうの見方しかできないのはちょっと残念。そして、何よりもたのしげなのがいい。 会場はほぼ満員。友人・知人に何人も会う。あれ、こんなところで?という驚きがある人も。☆ 結果的に、この日はオペラシティ内をはしご。ギャラリーでの『五線譜に描いた夢』オープニングから、東フィルの定期前半(ヘンツェ《ピアノ協奏曲》日本初演)、通崎睦美リサイタル後半、と。☆2013年10月10日 @東京オペラシティ リサイタルホール
2013年10月10日
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父は私に対し、まるで森の掟を唱えるように話した。「人は自然を汚さない。人は自然に手を加えない。」父は自分がそうするのと同様に、私も森に対して敬意を払わせようとした。こうした掟は父が作ったものだと知ったのは、ずっと後だった。父はチョウを傷つけずに観察した。コケを求めて樹皮に優しく触れた。石を動かしてその日だけのランチテーブルに使った。新しい景色を楽しむだけのために、曲がり角で立ち止まった。父は自然そのものやその美しさ、そしてそれを味わう自分の能力への感謝を忘れたことがないように、自然界のあらゆる側面に深い愛情をもって接していた。(p.96)☆父は自分の作品が人々にどんな形で提供されるかにも目を配り、それは楽譜の装丁のような細部にまで及んだ。具合がかなり悪い頃、出版社への手紙を私に代筆させたが、その中には厚紙の表紙をつけないスコア(戦時中の経済政策)を生産しないようにという要求が含まれていた。(p.242)------ペーテル・バルトーク『父・バルトーク 息子による大作曲家の思い出』(村上泰裕訳、Stylenote)
2013年10月08日
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ジョバンニ この汽車、石炭を焚いてないね。カムパネルラ アルコールか電気だろう。ああ、りんどうの花が咲いている。もうすっかり秋だねえ。------古川日出男 朗読劇『銀河鉄道の夜』☆Giovanniという名の少年が、Campanellaという名の少年と一緒に不思議な汽車に乗って旅をする話を、翻訳者1はいつになく引き込まれて、読み進めた。/やがて、’The Birdcatcher’と題されたセクションがはじまり、/’Mind if I sit down here?’/と、誰かの声が響いたとたん、翻訳者1のなかで何かが動いた。それと同時に、/「ここへかけてもようございますか。」/という訳文が、何も考えずとも頭に浮かんだ。というより、聞こえてきた。いや、それ以上に、自分がそう言った気がした。------柴田元幸「注文の多い翻訳者たち」☆窓の外は日本で、線路がつづくかぎりどこまでもどうしようもなく日本で、そのことは変えられない。けれどもすべての海が海であり川が川として重なり合うように、想像力は空間や時間の隔たりも、生と死の絶対的な隔たりも、超えてゆくことができるのだ。想像力はその動きを夢から学んだ。------管啓次郎「三十三歳のジョバンニ」☆☆『ミグラード 朗読劇『銀河鉄道の夜』』(勁草書房)古川日出男 管啓次郎 柴田元幸 小島ケイタニーラブ CDつきミグラード Migrado ------- エスペラント語で「渡り」☆☆こうなったのか……何度かおなじ朗読会にでているし現場をみている。回を重ね、そのたびに少しずつ変化も感じていた。それが最終的にこういうかたちになったのか、と感慨を抱く。感慨、というより、ふぅ、と息が洩れる。本は4つの部分からなる。古川日出男による朗読劇、柴田元幸と管啓次郎による文章、そして小島ケイタニーラブの詞/エスペラント語訳とCD。朗読劇は、詩人と小説家が登場し、『銀河鉄道の夜』をサンプリング/リミックスしたテクストとして声と音響によってたちあげる、というもの。文字として提示されたので誰が演じることもできるが、これまでは詩人=管啓次郎、小説家=古川日出男が演じていたので、ある程度本人自身とかぶっている。文字で読むことのおもしろさのひとつはト書きにある。古川日出男の小説がそもそも演劇とつながったところ、というより、声を発するところと地つづきであることもあり、分けられた声とト書きはただ分離していない。違うものではあるけれど、ただ朗読=役者や演出家への指示にとどまっていない。もっと有機的だし、端的に「読める」。客席にいる人たちのことも意識しながら、『銀河鉄道の夜』をたどりつつ、註釈し、また書き換えるテクスト。21世紀の、3.11後での再読であり書きなおし。柴田元幸と管啓次郎の文章も、それぞれ、まったく違ったところで、『銀河鉄道の夜』を読みかえし、ある意味、べつの翻訳を実践している。ここに収められてはいない、不在の『銀河鉄道の夜』のうえに、古川の、柴田の、管のテクストがパランプセストのように、三次元的に交差する。ベンヤミン『翻訳者の使命』において記されている、何度も翻訳が通過する「核」としての『銀河鉄道の夜』。あるいは、見当ハズレは承知のうえで、P.K.ディック『ヴァリス』。くりかえしになるが、柴田元幸の文章は、翻訳するという行為において、翻訳家のなかで何がおこっているのかを、わずかだけれど、みごとに描きだす。寸描ゆえにあぶりだすことができるもの。管啓次郎の文章は、ときもところも異なるところに転生した『銀河鉄道の夜』の登場人物を、「ぼく」が記述者となり、部分的にその同伴者になる、とでも言ったらいいか。☆これを読んだあとで、あらためて、朗読劇にふれられたなら……
2013年10月06日
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逆説的に聞こえるかもしれないが、専門知というのは、それが適用される現場で、いつでも棚上げにできる用意がなければ、プロの知とはいえないものである。専門知は、現時点で何が確実に言えて、何が言えないか、その限界を正確に摑んでいなければならない。しかし、現場にいる人の不安や訴えのなかで、自身の判断をいったん括弧に入れ、問題をさらに聴きなおすこと、別の判断と摺り合わせたうえでときにそれを優先させることもしなければならない。ここでは、「この点からは」「あの点からは」という複雑性の増大にしっかり耐えうるような知性の肺活量が必要となる。------鷲田清一『パラレルな知性』(晶文社)、「まえがき」☆帯にはこうある-------「専門的知性」と「市民的知性」をつなぐ鍵はどこにあるか? 危機の時代における知性のあり方を問う哲学的考察さまざまなところに書かれた文章を集めたものだが、各章には「問い1----科学のエシックス」「問い2----大学のミッション」「問い3----コミュニティの問題」「問い4----メディアの役割」そして最後には「右肩下がりの時代に」とタイトルがつけられている。『くじけそうな時の臨床哲学クリニック』(ちくま学芸文庫)に収めるため、大阪に鷲田さんを尋ねたのは2011年の春から夏へとかわる頃だった。そのときに「3.11」のはなしをした。本書にはもっと前の文章も収められているけれど、うえに引いた「まえがき」からもわかるとおり、その後、あるいはそれ以前から引き継がれている「問い」が持続し、反響している。ここにはまた、現象学から導きだされた視点、臨床哲学の射程があるのが明瞭だ。どの文章も短いが問いは鋭く、また短いだけに拡散することなく、こちらにむかってくる。
2013年10月05日
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Rhizomatiks inspired by Purfume@InterCommunicationCenter☆久々のICC。最近のPerfumeのステージングは、Rhizomatiksによるコンピュータによる演出が大きな位置を占めている------というふうな言い方でいいのかどうか、よくわからないのだけれど、いわば、Perfumeのステージにこのグループ?ユニット?の方向性=意味は欠かせないのはたしかで、近作《Spring of life》のPVから、そのステージ上の提示とか、なるほどねぇ、と最近メディア・アートから遠ざかっていた身からは田舎から都会にでてきたおっさんなみに、ほぉ、という顔をしていたんじゃないかとおもう。ま、予定調和ではあるのだが、この情報の多さはすごい。ほとんど誰もPerfumeのステージをみながら、こうしたものの全体を、細部に至るまで、把握できてなどいないだろう。ただ浴びているだけ、なんじゃなかろうか。そしてそれはそれで正しいのだし。10月20日まで。☆http://www.ntticc.or.jp/Exhibition/2013/Rhizomatiks_inspired_by_Perfume/index_j.html
2013年09月29日
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マスコミ的には「ベトナム」なのだろうが、やはり「ヴェトナム」だよな、とおもいつつ、まぁ、通常表記なので仕方がない。☆2つのコンサート、どちらも武満徹《弦楽のためのレクィエム》、グエン・チェン・ダオ《ピアノ協奏曲》(世界初演)が共通し、横浜ではベートーヴェン《交響曲第5番》、初台では《交響曲第7番》が違っている。また、アンコールが、前者は日本民謡(ヴェトナムの作曲家による編曲)とヴェトナム民謡があったのに対し、後者ではヴェトナム民謡のみであった。コンサート・ミストレスが、前者は2曲+1曲で交代、後者は3曲ともおなじ、だったのも記しておくべきか。☆ハノイでみたときにもそうおもったのだが、コントラバス奏者の弓の持ち方が、やはりフランスの植民地であったせいか、フレンチ・ボウがほとんど。今回みても、ジャーマン・ボウは1人で、あとはフレンチ・ボウだった。このコントラバス群が、ステージからみて、左の奥に配置されている。だから、というべきか、みなとみらいでは、コントラファゴットがとてもよくひびいた。2つの楽器が隣接していると、どうしてもまじってしまう。こうして分離させるのもいいかも、とあらためておもう。☆アジアのオーケストラというと、10月はじめには毎年「アジア・オーケストラ・ウィーク」という催しがあるものの、この列島の西洋志向もあって、いまひとつ客足が伸びない。今回はどちらも満席に近かったのは嬉しいのだが、はて、実質はどうだろう。そんなことはともかく、たしかにオーケストラはヨーロッパが本場ではあるし、それはそれでいいものだけれども、そうしたものを踏まえたうえで、アジアのオーケストラにふれるべき、ともおもう。大抵は故国の作品を含んでいるし、そもそも、ちょっと前まではこの列島もおなじだったのだ、ということを想起すべきだろう。このあたり、たとえば国家がアメリカをむいていて、アジア諸国にむいていないことともパラレルなのではないか。たしかに、未熟なところはある。間違いも多いし、不安定なところもある。それでいながら、いや、それでこそ感じとれるものがここにはあるのだ。ダオ作品は、アンコールでは、特にそれが感じられるのだし。☆ダオ作品は、某ピアニストを想定して作曲されたものの、演奏困難として放置されていたという。児玉桃という演奏家を得て、この作品が「世界初演」できた、という事実。児玉桃は、ECMで日本人として(こういう言い方はあまり好きではないが)、この秋はじめて「クラシック」の演奏家としてアルバムがリリースされることも想起しておこう。☆ダオ作品、3つの楽章からなっているが、どれも昨今のヨーロッパでよくある、マッスとしての音響を扱う作品となっている。第1、第2楽章ではわずかにフルートの叙情的なメロディがあらわれ、第3楽章では、メシアンを彷彿とさせるみごとに天国的な美しい和音がしばし持続する。対して、ピアノはトレモロとトゥリル、そして右手と左手の音域をかなりはなして得られるひびきの違いをクローズアップする。トゥリルしながら、高音域から下降、そしてまた上昇する運動が、オーケストラと乱反射する。そのあいまにひびくのは、金属系打楽器のアタックと余韻が。タムタムは4つ、ゴングが1つ。ヴィブラフォンにマリンバ、テューブラーベル、鉄板、またシンバルをティンパニ上に配置してグリッサンドさせ、ヴィブラフォンの弓弾きも。かといって、無駄な音符はまるでない。それまでの持続を断ち切るようにつよく、ほんとうにつよく、叩きつけられるような音が、たしか、3度ある。すべての楽器の音が余韻をのこし、それが消えさるまで、聴き手は息をぬくことができない。グエン・チェン・ダオは、わたしが中学生のとき、この列島以外のアジアの作曲家として知っていたごく少ない人物のひとりだった。韓国のユン・イサン、フィリピンのホセ・マセダ、そしてヴェトナムのグエン・チェン・ダオ。マセダとは何度か会ったものだったが、ユンともどもすでにこの世にはいない。ダオを見掛けたのはたしか高校生のとき、武満徹のMusic Todayのとき。あのときからすでに30年近く経っていて、挨拶した作曲家はとても小さく見えた。☆オペラシティでは、皇太子がおなじエリアに列席するとのことで、白いリボンを与えられた。「しるしづけられちゃったんですねぇ(笑)」と、ロビーで会った知人にからかわれたりもし。指揮者の本名徹次氏に挨拶とおもい、楽屋に行くも、殿下と話されているとのことでなかなかあらわれず。久々にお目にかかる方々と挨拶はするものの、時間切れで、退散。☆2013年9月21日(土)&27日(金)。
2013年09月27日
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第1部は、アルバム『夜のアルバム』のメンバー、クィンテットとの「ジャズ・セッション」。ステージ背後に据えつけられているオルガンの両脇に、丸くライトがあたっている。ピアノとヴィブラフォンを担当する香取良彦に、「先生、宜しくお願いします」と、「先生」をくりかえすブルーに銀ラメのドレスを着た八代亜紀。ちょっとおかしい。香取氏、恐縮気味。《サマータイム》では、最初はヴィブラフォンと声だけ。それからほかのメンバーがはいってくるのだが、このデュオは絶品。ヘレン・メリルと共演したエピソードをまじえながら、《五木の子守唄》と《いそしぎ》を、よく似ているでしょう?と言いながら、入れ子状態にして歌ったり。一部の終わりは《ジョニー・ギター》。かつては先輩の得意なレパートリーを歌うことが許されないような暗黙の了解があって、歌えなかった曲、大好きな曲と、締めくくりに。声に息がまじる。そして微妙にポルタメントする。このかんじが、演歌にあるブルース的なもの、ブルースのなかにある演歌的なものを浮きあがらせ、近づける。ヴィブラートは抑えぎみ。そして、喉で息を抑える、とでも言ったらいいか。多少なりともこの歌手について知っていれば、ジュリー・ロンドンのレコードを父親が買ってくれて、ジャズにはまった。もともとはジャズをやりたかった、というエピソードはごくあたりまえのことで、だから、『夜のアルバム』が昨年リリースされても驚きはないながらも、おぉ、そうか、と妙に納得したりしたのだった。もちろん、ここでのジャズは、おなじジャズでも比較的古いスタイルではある。ヴォーカルはほかの楽器とはやはり違って、保守的なところがあるし、またそれで成りたってもいるのだけれど。ジャズ・シンガーとしての八代亜紀、とてもいい。いいのだけれど、アルバムで聴いているのと違うのは、その身振りだ。手・腕の動かし方や腰やからだの線の動きが、ちょっと、ほんのちょっとしたところで、永年にわたってなのだろう、馴染んでしまったものの影を帯びている。☆第2部は「八代亜紀 meets 新日本フィル」。指揮は竹本泰蔵。ステージの前にはピアノがあって、編曲を担当した光田健一がつき、その脇で香取良彦がヴィブラフォンを叩く。ピンクというかオレンジというかにラメのはいった衣裳の八代亜紀。「演歌じゃなくて、映画音楽ですから」と歌手自身が言うように、「映画音楽」あるいは「大河ドラマの音楽」のようなオーケストラ・サウンドで、持ちうたが演奏される。壮大なイントロ部分、これは何だ?とアタマをめぐらせ、うたが始まって、そうか、これか、と腑に落ちる。思い掛けないアレンジ。一種のアンバランスもあくまで演出というか、意図であったろう。部分的に武満徹や池辺晋一郎の(映画音楽における)弦の重ね方があり、また、バカラック風のサウンドがあったりする。《愛の終着駅》では、第1部にベースを弾いた河上修、そして香取良彦のヴァイブのソロがあり、また2人がからみあうみごとな中間部を持つ。1曲ごとにMCがはいる。当日は台風が東京に来るかもしれないという状況にあったので、はじめのほうで、八代亜紀はこんなふうに言っていた------「ほんとに、お願いしたの、来ちゃだめよ、って。そうしたら、わかったよ、って」。そして、アンコールには、第二部の2曲目か3曲目にも歌った《雨の慕情》をあらためて。☆会場は年齢層が高い。やはり八代亜紀は若い層には知られていないのだろうか。とはいえ、自分(たち)にとってこの歌手は、子どものときに新人でデビューしているわけで、以来、歌謡番組ではごくごくふつうに聴いてきたのだし、有名なものは、たとえタイトルと曲が一致しなかったとしても、大体知っている。☆当日は、グエン・チェン・ダオ《テン・ド・グ》(打楽器協奏曲)が稲城で演奏されることになっていて、それはぜひ聴きたかったのだけれど、位置的に難しいところがあり、こちらに足を運ぶことに。9時から大学で、いささか疲労、どちらもこっちさえやめてしまおうとおもったのだったが、何とかたどり着け、一睡もせず。気分は晴れて、終演後はタクシーで東銀座へ。ラ・ヌイユでワインを。☆2013年9月26日(木)19時@すみだトリフォニーホール
2013年09月26日
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菩提寺から歩いてすこしのところにある板橋区立美術館では、『狩野派 SAIKO!』展。館蔵品展なので入場無料。すでに何度もみている作品『酔李白図/飲みすぎですよ、李白先生』(/のあとは新タイトルとして、この美術館が親しみやすいようにつけているもの)があ り、また、大きな伝・狩野探幽『風神雷神図屏風/風神&雷神』と狩野了承『秋草図屏風/秋風にそよそよと』がそれぞれの部屋の奥に対照的にならべられてい る。前者では、たとえば、あまりに有名な尾形光琳の作品では、風神と雷神のみがクローズアップされているけれども、ここでは雨にうたれている人、風に吹き飛ばされそうな人が描かれていて、あたかも「北風と太陽」みたいでおもしろい。ちなみに、ポスターになっている骸骨の絵は、河鍋暁斎『骸骨図/ホネ・骨・ロック』である。それぞれの絵については、タイトルを検索するとネット上でもみることができるだろう。地味な展覧会だが、ちょっとの時間を過ごすのにはもってこい。それにしても、この美術館、「隠れ家系」なんだな(笑)。たしかに、ちと、不便ではあるのだが。
2013年09月25日
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プーランク没後50年でおこなわれるコンサート2つについて、「一個人ブログ」で書いています。ひとつは、歌曲からピアノ曲、室内楽曲の第1部、オーケストラと独奏楽器、オーケストラと合唱による第2部とあるコンサート。もうひとつは、オペラ《カルメル会修道女の対話》、コンサート形式。アドレスは以下となります。http://www.ikkojin.net/blog/blog19/502.html
2013年09月24日
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菩提寺から歩いてすこしのところにある板橋区立美術館では、『狩野派 SAIKO!』展。館蔵品展なので入場無料。すでに何度もみている作品『酔李白図/飲みすぎですよ、李白先生』(/のあとは新タイトルとして、この美術館が親しみやすいようにつけているもの)があり、また、大きな伝・狩野探幽『風神雷神図屏風/風神&雷神』と狩野了承『秋草図屏風/秋風にそよそよと』がそれぞれの部屋の奥に対照的にならべられている。たとえば、あまりに有名な尾形光琳の作品では、風神と雷神のみがクローズアップされているけれども、ここでは雨にうたれている人、風に吹き飛ばされそうな人が描かれていて、あたかも「北風と太陽」みたいでおもしろい。ちなみに、ポスターになっている骸骨の絵は、河鍋暁斎『骸骨図/ホネ・骨・ロック』である。それぞれの絵については、タイトルを検索するとネット上でもみることができるだろう。地味な展覧会だが、ちょっとの時間を過ごすのにはもってこい。それにしても、この美術館、「隠れ家系」なんだな(笑)。たしかに、ちと、不便ではあるのだが。http://www.itabashiartmuseum.jp/art/schedule/now.html
2013年09月23日
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建畠晢 『死語のレッスン』(思潮社)。わかるようでわからず、わらかないようでときに妙にすんなり読めたりもするのが、この詩人の特徴であるようにおもう。そして、行分けなしの詩文と行分けの詩文とのあらわれもおもしろいところで、この詩集でも、「轟云々、下駄云々」のような行分け詩-------もっともページ数としてはある作品かもしれない------は、しかし、ただ行分けというだけではなく、1行の短さ、「下駄」という音、そして1行あけの空白がこの長さを要請し、読みの時間=持続もそれによってつくりだされる。☆建畠晢 は1991年、処女詩集『余白のランナー』-------偶然、依頼されて「図書新聞」に書評を書いたものだった------以来、賞に恵まれている詩人だが、この本もまた、第21回萩原朔太郎賞を受けたというのは、ごく最近知ったばかり。☆冒頭におかれた「葉桜の町」と、それにつづく数篇はすっとはいっていけるし、水や眠り、振動といったイメージも明確だ。だが、詩集の中心は、タイトルともなっている「死語」をめぐる部分。わかりやすいのは、翻訳をめぐっての省察ともなっている以下の部分だろうか。翻訳者の交代については誰も話そうとはしない。何も町の秘密というほどのことではないはずだが、入れ替わる翻訳者たちがどこから来て、どこへ去っていくのかは誰も話題にはしないのである。そう、翻訳者とはもとより亡霊のようなものであるのかもしれない。俺たちは言葉を蘇らせては葬り去る職人、手際のよい死語の更新の名手であり、仕事にいそしむその姿がどこか亡霊のように見えることは、当然といえば当然のことなのだ。この時代遅れの大学町の鉄錆の匂いがする駅に歴代の翻訳者たちが降り立った時、彼らはあらかじめ亡霊然としていたはずである。(翻訳者の死)もちろん、以下のように、ふとこぼれる言葉に惹かれないわけにはいかない。ああ、おまえは詩を嫌うが、私はもはや詩人ではない私は落ちて来た死語の刺客だおまえが誰からも離れた時間であるように……(ボスポラスの秋)最近詩集を手にとるのはツラいのだが、これはすっとはいっていけた良書、かと。http://www.shichosha.co.jp/newrelease/item_982.html
2013年09月22日
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『楽隊のうさぎ』、鈴木卓爾監督作品。「約1年をかけて子どもたちの成長とともに完成した、奇跡の吹奏楽映画」、とある。原作は、いわずと知れた中沢けいの小説。小説を愛好し、文章も書いたことのある身としては、やはり原作とは別もの、と言わざるをえないのだが、もとがあり、それを改変して別ものにした、という例はいくらもあるわけで、これはまぁ、しょうがないのだろう。小説を読んでから映画をみると、あれ?とおもうが、逆に、映画をみてから小説を読んでもらえたらいいのかな、と。☆小説には、主人公が親の実家に滞在し、ある覚醒があり、演奏が変化するというのが重要なポイントになっているし、それが、大勢で音楽をやる、演奏がコミュニケーションになるわけだが、それが欠けている。みながら、拙著『オーケストラ再入門』(平凡社新書)には、遠く、この小説と交差するところがあったことを想いだしたりしていた。また、用いられている音楽として、小説ではレスピーギ《シバの女王ベルキス》が吹奏楽レパートリーとして重要な意味を持っているのだったが、ここでは中学の先生のオリジナル曲となっているのも、かなり違う。主人公はときどき「うさぎ」をみるのである。それがタイトルにもなっているわけだ。幻想といってはつまらない。自分のなかにある何か、もうひとつのキャラクターとでもいうか、だ。それが、ここでは着ぐるみの女の子で登場する。ま、それはそれで悪くないが、やはり、小説でのホンモノ(ヘンな言い方だが)のうさぎとは違う。みえないものをみさせてしまうこと、での、難しさがここにはやはりある。とはいえ、このうさぎが、吹奏楽部の定期演奏会がおこなわれているとき、音楽室でたったひとり(一匹?)ぽつんと椅子にさわったり、たちすくんだりしているのだが、そこは、とてもいい。風の音や鳥の声がしている。吹奏楽を演奏する、個別に、あるいは全員で練習をして音楽-らしきものが多くなっている映画のなかで、ここは人為的でない音=音楽を、映画をみている/きいているものに感じさせる部分になっているのだから。☆けっこう、この中学の吹奏楽部の編成はおもしろい。テューバが3人とかいて、バス・クラリネットとやバスーンがいたりする。もちろん通常どおりのフルート、クラリネット、サックスから、トランペット、トロンボーン、ユーフォニウムは複数いるのだが。☆それにしても、みんな、ヘタ、なのである。でも、それがだんだんと、それでいいんだ、これは、という気になってくる。先生役を演じる宮崎将は、青山真治『EUREKA ユリイカ』の兄役でデビューした俳優だが、かれでさえが何かぎこちない。それは、じつは、演技なんじゃなかろうか、と。そして、最終的にこのヘタさでこその映画だと腑におちる。☆オーディションによる46人の子どもたち、という。この映画は、彼らが1年をかけて成長する記録でもあるという。出演者の名をみていくと、随分、旧来のこの列島に生まれ育ったのとは異なった名が多いのに驚く(実際、パーカッションをやっている1人の女の子は、知り合いの子によく似ていたのだが、その知り合いの子はアメリカの血がはいっていたのだったっけ)。☆監督の名は、もしかして知らなくても、『私は猫ストーカー』の監督といえば、わかるだろうか(あの蓮實重臣のテーマ曲は絶品だった)。☆音楽監督は磯田健一郎。映画のなかでひびいているもの、アレンジなども含めて、悪くない。中学校の現実というのはこういうふうかも、と、納得できるものでもある。だが、エンディングの音楽、メロディーやフルートの重ねもまあまあではあるものの、ハープの書法はいただけない。あんなふうに和音で拍をとらせるようなことをえんえんとやったり、凡庸なアルペッジョをならべるようでは……。エンディングくらいは、1ランク上であるべきではないか?☆公開は12月14日(土)より 渋谷ユーロスペース、新宿武蔵野館、浜松シネマイーラほかにて。http://www.u-picc.com/gakutai/
2013年09月19日
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特に期待していなかったのだけれど、『アートがあれば ll』@東京オペラシティ アートギャラリーはおもしろかった。副題に「9日とのコレクターによる個人コレクションの場合」とあり、各人の名はイニシャルなり、ちょっと暗号ぽくしたりしているのだが、だいたい、部屋ごとにわかれている。それぞれのコレクターがどんなものを集めているのか、どんな趣味なのか、ぼんやりとみえてきておもしろい。作品たちをとおして、コレクターの姿を透視する、とでもいうか。それはまた、たとえば、ある書き手のことを知らないけれど、書いた文章を読んで、そのむこうにいる人物を想像するのに似ている。☆多くは現代作家のもので、油彩や写真、立体なのだけれども、なかには藤本由紀夫の音をだす作品があったりもする。YSという人の作品は展示されている数も多かったなぁ。anonymousという人のは、展示も終わりのほうにあるのだが、現代というより、アジェ、カルティエ=ブレッソン、ブラッサイ、ドアノー、ケルテス、ラルティーグ、マン・レイ、そして西野達とあって、ちょっと違った空間、というより、何か懐かしい雰囲気に浸れた。☆知らない美術作家との出会いが多かったのも収穫。以前と較べて、あまり名を作品をちゃんと記憶できはしなくなっているのだが。この展覧会、最後のところでは、コレクターへの9つの問いがあり、回答が掲げられている(ないものもある)。「年齢・性別・職業」「コレクター歴」「コレクションの数」はふつうだが、「なぜコレクションをするようになったか?」「初めて買ったのは?」「集めるうちにできた作品を「買う」基準は?」「集めたものをどう展示・保管しているか?」「コレクターに必要なものは何か」「あなたにとってコレクションとは?」となかなか、おもしろいのである。☆収蔵品展は「色について」と題されていたが、こちらも見応えがある。いや、単純に、好きな作品、そこそこ親しんでいる作家の作品がならんでいた、ということによる。難波田龍起作品がまとまっているのは当然として、加納光於作品10点は特にうれしい。オノサトトシノブも、かな。☆http://www.operacity.jp/ag/exh154/
2013年09月15日
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静岡県三島市に、大岡信ことば館、があります。この夏、季刊「ことばのしごと」に原稿を依頼され、書いたのがこれ。『一柳慧の「ベルリン連詩」をめぐって』。間違えて、依頼枚数を大幅に上回り、この2013/秋 通巻・第13号には治まりきらず、次号にもすこしわたってしまうことに。ご興味のおありの方は、大岡信ことば館にお問い合わせください。サイトもありますので。http://www.zkai.co.jp/kotobakan/about/tayori/detail/tayori13.html
2013年09月10日
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今週は、かかわっているイヴェントがいくつかあります。11日(水)Le Tabou ワークショップ 「ジャック・プレヴェール」詩人プレヴェールを中心に、シャンソンや映画について、音源を聴きながら、おはなしします。http://www.letabou.jp/workshop/20130911.html13日(金)平河町ミュージックスアコーディオン奏者・御喜美江さんと大田智美さんをお迎えするコンサート。このコンサート・シリーズ、実行委員ですが、プログラム解説なども書いています。https://sites.google.com/site/hirakawachomusics/2013_fall_2214日(土)日比谷図書館特別展「終わりから始まるものがたり―25の問いと100冊の本―」の会期中に、「ひとつの音楽、ひとつの生命~音楽のはじまりと終わりをめぐって」というタイトルでトークをします。以下のサイトで下の方にでています。http://www.atpress.ne.jp/view/37008それぞれ、ご予約いただければありがたく存じます。
2013年09月09日
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聴きながら、すごい、すごい、と体中が言っていた。もう、揺れっぱなし。チック・コリア&The Vigil。おなじ「すごい」でも、今年の前半に聴いたウェイン・ショーターのとはまた全然違った意味でのすごさだ。方向が違う。各曲における構成力。そして、チックという人物がひとつの凝集点となって、音楽を統御する。もちろん、音楽そのものはこのうえもなく「動いている」のだが。チックがアコースティックだけでなく、エレクトリック・キーボード2台もあわせて弾くのをライヴで接するのははじめて。全3曲、1曲目は10分程度、しかし2曲目も3曲目も25分を上回る。そのなかにはいろいろなもの、これまでやってきたさまざまなものを含ませ、それでいて、それをみごとにひとつところに溶解している。アルバムは、こうして生演奏にふれると、ただのサンプラーにすぎないという気にさえなる。チックはこうやって若手を育ててゆく、というか、自らもそれを養分にしてゆく。キューバ出身のベーシスト、カリートス・デル・プエルトとのシンセとのやりとり、テナーとソプラノ、バス・クラリネットを持ち替えるティム・ガーランド。表情を変えずに淡々と弾いているギターのチャールズ・アルトゥラ。そしてドラムスのマーカス・ギルモアとパーカッション、ベネズエラ出身のルイス・キンテーロ。チックはときどき、カウベルとかのパーカッションも叩いて。いつのまにか、バックにあったさまざまな文字が、ただひとつ「東京JAZZ」に変わっている。☆18時からのコンサート、最初に登場したのは桑原あい トリオ・プロジェクト。小学6年生のときにここに来て、「東京JAZZ」に憧れていた、と「なんで泣いてんだよ」と自分につっこみをながら、1曲弾いたあとのMCで言っていた桑原あい。アイドルのような姿で登場し、聴いたことがないので、疑心暗鬼だったが、これはなかなか、である。前日のトップバッターとはかなり違う。最初の曲は「大好きなペトルチアーニ」作だったりする。左手とベースのからみがいいのである。3曲目、右手と左手がオクターヴ、あるいは2オクターヴでユニゾンする速いパッセージの正確さ。それが長い長い。そこからエンディングへと。息をしなくていい楽器としてのピアノをよくわかっている、とみた。かならずしも自分から観に行くわけではないから、こうして複数のグループと一緒にでているアーティストに驚かされるのはうれしい。☆楽しみにしていたボビー・マクファーリンは病気のためキャンセル。かわりにボブ・ジェームス&デヴィッド・サンボーン featuring スティーヴ・ガッド&ジェームズ・ジーナス。サンボーンはいつもながらの特徴的な音を。そしてボブ・ジェームスは、最近の作品が苦手だっただけに斜めのかんじでいたが、今回は良かった。譜面台の上にはiPad。途中、ゲストがはいる。1曲は小曽根真との2台ピアノ、1曲は娘ヒラリー・ジェームスとのデュオで(松田聖子が東北で歌った)”Put Our Hearts Together”を。さらに、クァルテットにラリー・カールトンが加わった編成もあり。スティーヴ・ガッドのバス・ドラムはいつもながらの迫力。ガッドはまた、先端が赤くなった黒いスティックを持っているようにみえたが、どういう材質なんだろう。☆終演は21時45分。2013年9月8日(日)@東京国際フォーラム ホールA
2013年09月08日
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大江千里のジャズ、を聴くことがあるとは、正直おもわなかった。「東京JAZZ」、7日、夜@東京国際フォーラム・ホールA。大江千里がビッグバンドを従えて(/に従って?)ピアノを弾き、次のステージで、リー・コニッツ・クァルテット、さらにブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブとつづいて、それぞれに異なったタイプのピアニスト3人ということになったのだが、そうすると、当然、最初にピアノを弾いた人物のことはほとんど記憶からなくなってしまう。楽しんでいるのはわかる。でもあの譜面に首っ引きな姿はないだろう。1曲に1回くらいは高音から低音にむけてのグリッサンドがあるのもどうにかしてほしかった。ま、会場の雰囲気を和ませるには良かったかもしれないし、ゲストにマット・ダスクとシーラ・ジョーダンが出演したのはなかなか。シーラがでてくると、ほとんど、ほかを食ってしまう。シーラはちなみに、1928年生まれだから、いま84。11月になったら85だ。若い。リー・コニッツも1927年生まれだから、85歳。10月になったら86歳。かなり長いソロがサックス、ベース、ピアノとそれぞれにあってから、クァルテットに。ある意味、ドラマ性を回避しながら、ディテールに凝った造形をみせる演奏。ピアニストのフロリアン・ウェーバーの右手/左手のからみ方、ドラムのマット・ウィルソンのひとつひとつのドラム/シンバルの音色をたしかめるような発音、は印象にのこる。そう、ベース、トーマス・モーガンがくびから出演者パスをさげていて、そのことを曲のあいだ、つれあいに話したら、ちょうど係の人がそれをとりにくるというところがあって、笑う。ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ featuring オマーラ・ポルトゥオンドは、まず、すごく大きな女性歌手の登場に驚く。最初の1曲を聴いて、これはかつてのブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブとは別ものだと感じるものの、それはそれで楽しめる。後半でオマーラが登場。こちらは1930年生まれだから、83歳。でも、からだは小さくなってしまったものの、声はまだまだ。これだけでも聴く価値はある。それにしても、ちがったタイプではあるが、80代を3人聴けたというのはいい。サイードではないが「晩年の思想」ならぬ、「晩年のパフォーマンス」。
2013年09月08日
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随分久しぶりに川口へ。☆《ポッペアの戴冠》は、モンテヴェルディ、最後のオペラ。1642年に書かれたものの、自筆譜は失われ、幾つもの他者の手が加えられているものが残っている、という。今回の上演は、さらに刈りこみ、また、他の曲なども入れこんで、19時開演、休憩20分、22時ぴったりに終了というかたちになった。会場をでて、エスカレータに乗っているときも、係のひとが、開館時間を過ぎているから速やかに、とさかんにくりかえしていた。公共ホールは大変である。☆ステージにはアントネッロ14名と指揮者の濱田芳道(ときどきリコーダーも吹く)。ほんの1段低いところもあって、この2段分と、アンサンブルの背後、数段高くなっているところに椅子などがあり、このあたりに登場人物たちが出入りし、演戯する。さらに背後、壁面にはオルガンが設置されているが、その前あたりの高いところは、「神々」がでてくる。ここに、ふつうの「人間たち」は来ることがない。また、この「神々」を「人間たち」はみることができない(ということになっている)。☆ネローネがポッペアと結婚する、というのが大筋。ポッペアの恋人オットーネ、ネローネの妻・オッターヴィア、オットーネに恋するドゥルジッラはローマから追放され、教師セネカは処刑される。でもまぁ、あの極悪非道な「ネロ」がこの程度とは、かなりポジティヴな扱いと言っていい。ただ、演出(ネローネを演じる彌勒忠文による)では、これが極道の世界のことに設定されていて、けっこう可笑しい。それがまた、よくはまるのだ。はじめは、ネローネの妻・オッターヴィアだけが着物で「極道の妻たち」のかんじなのだけれども、愛人だったポッペアが、愛よりも地位よ、みたいなことを言い、妻の座に落ち着くと、今度はそっちが着物で登場したりして、つい、笑ってしまう。そのくせ、照明でハート・マークがステージを何度かちらちらするのだから。☆14名のひびきは、近代型のオーケストラとは違った意味で、多様だ。タンブレロが2人(田島隆、濱本智行)と、打楽器を積極的につかっているのもポイント。キターラとテオルボ(高本一郎)は持ち替えだが、前者をフォーク・ギターかフラメンコ・ギターかのように奏するのも、音色的に、また,リズム的に、アクセントがつく。戸田薫とパウル・エレラのヴィオリーノは、即興的な部分もあるものの少なめで、しあし、ふたつがそろって動くとき、特に「そろい」の効果が生まれる。宮下宣子のトロンボーネは、相方・大内邦晴とつくりだす音の厚みや、ファンファーレ的な部分はもちろんだが、ポルタメントがユーモラスなシーンに用いられたりするのも一興。あとは、忘れてはならないのは、矢野薫のオルガノの持続音のうえで、チェンバロとアルパ・ドッピアを弾き分け、アラベスク文様を織りなしていた西山まりえだろう。鍵盤と指先との違いがあっても、ともに「絃」をはじく2つの楽器のひびきの違いと音型のフィギュールの違いが、舞台全体の色を微妙に変化させる。☆歌い手については、それぞれがそれぞれに楽しませてもらったが、一番だったのは、オッターヴィアのお小姓役・ヴァレットを演じた藤沢エリカだろう。最後に1人ずつ挨拶するときにも、一段と拍手が多かった。☆モンテヴェルディのオペラ、つづいて12月4日(水)に《オルフェオ》(正確には音楽寓話劇)、来年3月21日(金・祝)に《ウリッセの帰還》が予定されている。☆2013年9月3日(火)、川口総合文化センター リリア音楽ホール
2013年09月04日
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竹内栖鳳展 近代日本画の巨人@国立近代美術館3日から開催。2日の内覧会に出向く。15分位前に到着したのだが、開会式のときには外に列ができていたほどの人気。「東の大観、西の栖鳳」といわれ、関東ではいまひとつ人気がなかったこと、これほどの作品がまとめて展示されることは滅多にないこと、などが主催者によって語られる。そして、館長は「ネコ派にも楽しんでいただけ、イヌ派にも楽しんでいただける」と言っていたが、うん、単純に、動物好きには、この展覧会、かなり楽しい。初期のところに人々が群がるのはいつものごとく、でも、そのあたりは大したことはなく、すっとばして、動物たちを観に行く。あっちもこっちも動物、である。おもわず、あはは、と笑ったり、にこ、っと微笑んだりしてしまうように、動物がいるのである。少なからぬものは知っている。京都の美術館で観たものもの多い。でも、こうやって再会するのはうれしい。イヌもネコも、ライオンもトラも、クマ、シカ、キツネ、エイ、ウサギ、家鴨、などなど。大きな作品はもちろんのこと、画帖にデッサンされたもの、写真、あるいは、海外から送られた絵葉書での絵もいい。だから、ちゃんと観たら、けっこう時間がかかるだろう(余裕がなくて、次回にあらためて、とおもった次第)。ほとんどはまじめなものだが、なかにはわざと滑稽に描いてあるものあって。天女が楽器を奏している『散華』というのもなかなか。☆このごろ、こうした企画展のときには、常設展で近い作品を集めているのが近代美術館の特徴で、今回も、栖鳳のきつねが3匹いる作品とか、『鳥獣戯画』をもとにしたようにみえる2匹のカエルの『草相撲』など、そちらにある。前田青邨のネコ、山口華楊のイヌというのもあるし、これはまったく個人的な好みで関係ないのだが、太田聴雨『星をみる女性』が久しぶりにでていたのもうれしい。☆売店では、辻利のお菓子などもあり、最近の美術館の傾向も感じとれたりする(笑)。10月14日まで。http://seiho2013.jp/
2013年09月02日
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冒頭、筆がキャンバスに絵具を描いてゆく。描いてゆく、というより、スピードを持ってこすりつけてゆくような。それでいて波のような音をたてている。☆この夏、もっとも観たかった試写にやっと。モーリス・ピアラの1991年の、160分かかる大作『ヴァン・ゴッホ』。画家がオヴェール=シュル=オワーズ------駅は違うのだが------にやってきて亡くなる2ヵ月を描く。けっして狂気を強調はしない。でも、やはりどこかおかしい、そんな姿を、ジャック・デュトロン(あの、歌手の、だ)が演じる。映画そのものは淡々としている。ドラマティックなところはない。死ぬときもあまりにあっさりと。ベッドで死んだ姿を映し、つづくシーンは、画家が泊っていた宿屋の周辺での日常だ。誰かが亡くなっても、日常はつづく……。それでいながら、映画の最後、ガシェ医師の娘・マルグリット(アレクサンドラ・ロンドン)がよそからやってきた新参者の画家と短くことばを交わしたあと、ヴェールをあげ、”Oui, c'était mon ami.”と言うのだ。そして映画が閉じられ、エンド・クレジット。突然、オネゲル《交響曲第2番》終楽章がひびきはじめる------その衝撃は大きい。19世紀末のモノたちを、もう、みごとに再現しているのも特徴。汽車なんか、どうしたんだろう。川のそばで遊んでいるときには、文字どおり「印象派の絵画」にでてくるボートが、視界にはいってくる。水辺でみんながダンスをするときには、しっかり土ぼこりがたつ。そして、黄色くなった麦の穂がおもいおもいに揺れるさまの美しさといったら!ほとんど冒頭、ゴッホが汽車から降りてくる。そこで駅の男と会話をする。以後、映画のなかでは何度か汽車がでてくることになる。汽車の音を聞いて育った、というようなセリフもあるし、画面には映らなくとも遠くからひびきが聞こえたりもする。☆音楽は2つの例外を除いて、画面のなかで演奏されている。ガシェの家でマルグリットが弾くピアノ、川辺で遊んでいるときに野外で演奏される音楽、キャバレーでの音楽、などなど。《カルメン》の〈ハバネラ〉や《ラクメ》のアリアなんかもある。例外的に、最後のシーンでマルグリットが喪服を着て歩いているところに、ピアノがひびいてくる。それはマルグリット自身が弾いていたピアノの音-----ちょっと古びたような、19世紀のピアノのひびき------でもある。あとはエンド・クレジット。☆大きな桶を置き、それにかがんで、テオの奥さん、ヨーを演じるコリーヌ・ブルドンが湯浴みをする。こうした様子は、ドガやボナールの絵でみることができるが、ここでの女優の裸身に、19-20世紀に描かれた女性のからだの豊かさ、ということを考える。☆あまり同時代の画家がでてくるわけではない。年代的には、ゴッホ(1853-1890)、ロートレック(1864-1901)、シュザンヌ・ヴァラドン(1865-1938)といったところか。ロートレックの不具をおどけて真似してみせるゴッホ兄弟のシーンもあるが、このあたりは、『赤い風車』の記憶を喚起させずにはいない。☆弟テオに家で、知人がちょっとピアノにむかって、ドビュッシー〈パゴダ〉を弾く。でも、これは時代考証として間違い。きっと故意に、だ。ドビュッシー《版画》は1903年だし、ゴッホはとうの昔に亡くなっている。当時ドビュッシーはまだ習作に毛のはえたくらいのものしか書いていない。年代的に、わざとずれたものを挿入している例はもうひとつ、パリのキャバレーで歌われる《赤い丘》だ。これが書かれたのは第一次世界大戦後の1922か23年、内容は当然、大戦にかかわってくる。でも、ここではパリ・コミューンと重ねられているわけだ。Car les bandits qui sont cause des guerres/N'en meurent jamais, on n'tue qu'les innocents !(なぜって、戦争を始めた奴らは/決して死なない、何も知らない連中が殺されるばかり)ここに、最近のどこぞの国家のやり方を想起しないでいることは難しい。映画はずっと前のものなのに。パリ・コミューンは、ほかのところにも影をおとしている。ガシェ家で、家政婦がマルグリットに、妊娠には気をつけるように、と語る。ちょうどあんたくらいのときに、と自分の話をし、その息子をパリ・コミューンで15のときに失くしたと語る……。それからあまり経たないところで、マルグリットは父親をこんなふうに責めたりもするのだ------「自由主義を気取ってるけど、家族がからむと保守的になる」と。☆オヴェール=シュル=オワーズには行ったことがある。ゴッホの描いた糸杉があった。この映画には、あるシーンの遠くのほうに少しだけ糸杉がみえるだけ。有名な晩年の絵画に描かれる風景など、映画は排除してしまう。そんなところで媚びたりはしない。☆10月、モーリス・ピアラ、没後10年、後期代表作4本が上映される。http://www.zaziefilms.com/pialat/
2013年08月31日
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熊切和嘉監督作品『夏の終わり』。冒頭と、あと、1回、クラリネットの音階練習がきこえてくる。ちゃんと、シ♭からだんだん上にあがってゆく音階が。シンプルなのに、何か、靄にかかったような、遠くからの、不思議なひびきがスクリーンを覆う。☆満島ひかり演じる相澤知子と、初老?の作家、小杉慎吾(小林薫)、そして若い木下涼太(綾野剛)。☆舗装されていない道。音で季節がわかる。ときに正月、ときに夏、と。☆買ってきたコロッケを台所でかじる知子。☆電話で涼太が泣き言を言っているのを聴いている、そのときの知子の表情。☆画面全体のなかで、部分的に静止する映像がある。静止にいたるまで、ちょっとスローモーションになったりもし。その止まっている右側で、知子はわずかに動いている。あるいは、音が消えてしまうことのある、シーン。☆ピアノの静かな、美しい音楽が、ときどき。ほかにギターの、室内楽の音楽も。ダンスホールでなっているバンド演奏の音楽。担当はジム・オルーク。☆小田原の風景には、『カルメン故郷に帰る』(1951)が、あるいはほかのシーンでは『わが谷は緑なりき』(日本公開は1950年)のポスターが。☆この時代、あのくらいの年齢でも、あまり「トイレ」とは言わなかったんじゃないだろうか。けっこうハイカラな女性、という設定、ではあろうが。☆原作は瀬戸内寂聴。1963年、この作品で、作家は第2回女流文学賞をとっている。http://natsu-owari.com/
2013年08月12日
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ミシェル・ゴンドリーによる『ムード・インディゴ うたかたの日々』。いわずと知れた、ボリス・ヴィアンの小説の映画化。1960年代に一度制作されているが、今度はSFXなどを多用し、さまざまな視覚的な仕掛けを施す。それでいて、あくまで「つくりもの」であることにこだわっているから、ある種、特撮が「ほんものらしくない」ところが良い。そもそもこれはお伽噺なのだ。ヴィアンの小説をさらに拡大し、ほかの作品からもアイディアを持ってくる。あかるい作品、とおもっていると、終わりのほうはかなり、いろいろな意味で沈んでくる。色もだんだんとくすんできて、モノクロームに。豪奢で楽しいコラン(ロマン・デュリス)の家はどんどん荒れてくる。さかんにひびいていたデューク・エリントンの音楽さえ、ぐんと減少する。働いたことのない裕福なこの男性が、オドレイ・トトゥ演じるつれあい、クロエの病をなおそうと懸命になっても、およそ役にたたない。その意味では、みごとに、この「沈み」を映像化しているし、観ている側は否応なしに哀しみを体感することになる。いや、逆に、このさびれたかんじ、失われてゆくさまが描かれるためには、あれだけ豪華な部屋にコランは住んでいなくてはならなかったのだ、きっと。コランのありようは、でも、けっしてお伽噺ではすまなくて、それは20世紀末から21世紀現在におけるフランスの、というか、ヨーロッパの雇用やしごとの状況とはっきりシンクロしていると言っていい。タイプライターやEPレコード、スケート場、工事中のレ・アール、etc.オドレイ・トトゥが唄う「コラン」のうた、とか、やはり彼女自身がクロエの絵として病床で描いた絵、とか、何と言うこともないのだが、とても、感じさせるものがある。ちなみに、エリントン《ムード・インディゴ》、一度でもひびいただろうか? 冒頭は《A列車》だったし……。公開は10月5日から。http://moodindigo-movie.com/
2013年08月11日
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「ひとつの民族を愛したことはないわ。愛するのは友人……」マルガレーテ・フォン・トロッタ監督による『ハンナ・アーレント』は、この20世紀後半において欠かすことのできない、『全体主義の歴史』の著者である思想家を、ある1つのエピソードによってクロースアップする。ナチス戦犯アドルフ・アイヒマンのイスラエルでの裁判の傍聴と、それについてハンナが「ニューヨーカー」誌に書いた記事の波紋(『イェルサレムのアイヒマン---悪の陳腐さについて』として書籍化される)、ユダヤ人の友人・知人たち、そのコミュニティ成員たちの反応・反撥である。ハンナを演じるのは、バルバラ・スコヴァ、あの、シェーンベルクを歌う女優である。ハンナは何度も横になり、ぼーっと考えごとをしたり、眠ったりする。煙草に、ライターやマッチで火をつけ、吸う。そのときに、ぽっと火であかるくなる。ときにはそのライターやマッチがしゅっと音をたてるのも(こちらの)耳にはいる。そして、煙が、当然そのまわりには、たち、あたりに舞い、消えてゆく。白黒のTV画面に映しだされる法廷のアイヒマン。つねに退屈し、うんざりしている表情のアイヒマン。(これは実物の映像で、役者が演じているのではない。)法廷でおこなわれていることが自分とは無関係であるとからだ全体が発している。それをこそ、ハンナは感じとる。同時に、現在、その映像をみている「わたし-たち」もおなじことを感じる。ただ、当時、あの場にいた人たちはそうした客観性は持ち合わせることはなかった。そうしたハンナ・アーレントの感覚、客観性。ハンナが友人・知人たちと論争し、ほぼラスト、大学で多くの学生たちを前に自らの立場を鮮明にする演説をおこなうシーンは圧倒的な迫力を持つ。自らがユダヤ人であることはたしかだ、アイヒマンはナチスとしてユダヤ人を虐殺した。だが、アイヒマンは命令に従っただけだ。自分がどういうことをしているかを考えることもない。あまりに凡庸な、そして凡庸さゆえになしてしまうこと。そう、試写室で、これをみながら、少なからぬ人びとは現在のこの列島の状況を想いおこしていたにちがいない。「ナチス」という名称の問題ではなく、凡庸に職務をはたす、ということにおける悪、を。そして、アイヒマン自身が言うのである、職務と倫理はつねに両方ともあったけれども、わたしに一体何ができたというのか、と。映画にはまりはっきりでてこないが、ハンナ・アーレントはシオニズム運動に接近した時期があり、そこから徐々にはなれてようになる。ここでもイスラエルにいる旧友として、この運動へと導いたクルト・ブルーメンフェルトが何度も登場する。たしかにハンナ・アーレントの思考の方向と姿勢が中心にはなっている。だがそれと同時に、私人としてのハンナがつれあい、ハインリヒ・ブリュッヒャーと如何につよく結ばれていたかがとても重要な状況として表されている。この2人のあいだでは、親しげなことばとして、フランス語が用いられたりもするのだ。そして、台所でタマネギを切っているハンナとハインリヒの姿は美しい。あと、女性、ということ。目が溌剌とした、演壇のハンナにむけ、質問をむける女性学生がいる。その姿は、ハイデッガーに問い掛ける若き日のハンナを反復し、そこにひとつの反復、歴史の持続を暗示する。昔のアメリカの女性のファッション(ちょっと懐かしい……)。ドイツなまりの英語。音楽は、アンドレ・マーゲンターラー。冒頭、とても不均衡なひびきのつなぎが特徴的で、期待が高まるのだが、本篇ではほとんどは持続音が中心で、画面に対して何かをつけ加えることはない。あとは時代をあらわすために2曲ほど-----1つはハイデッガーがでてくるところで、というのが可笑しい------既存の音楽がつかわれるだけ。岩波ホール創立45周年記念/セテラ・インターナショナル創立25周年記念、として、10月26日から岩波ホールにてロードショー。http://www.cetera.co.jp/h_arendt/
2013年08月10日
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三島由紀夫作・野村萬斎演出『サド公爵夫人』@世田谷パブリックシアター。 ラシーヌ、というか、フランス古典劇を意識しているのかもしれないとはじめておもう。新潮文庫にはいったときはすぐ買って熱狂して読んだものだった(カップリングは『わが友ヒットラー』で、女性のみ/男性のみのコントラスト)。「そこ」では何も起きない。多くのことは語り・ことばのなかでのみ伝達される。 ステージの上に円形のもうひとつの舞台があり、そこに椅子やテーブルがある。一段低いところには黒い砂らしきものがあって、一度、それを手にとるところがある。 開幕すると、下りているシャンデリアを家政婦・シャルロットがあげる。第1幕と第2幕、それは変わらない。第3幕はあげることなく、そのまま下におりたまま。これが、シンプルな舞台のなかで、一種の象徴的な意味あいを持っているようだ。たとえば第2幕、サン・フォン伯爵夫人=麻美れいがテーブルの上で横になり、脚を露出しながら黒ミサを演じるとき、吊るされた真上のシャンデリアの色が変わる。そして音がひびく。 主役といえるサド公爵夫人=ルネ(蒼井優)、批判もあろうけれども(まわりではあまり拍手もしていなかった)、あれだけのセリフをよくやっていたとおもう。最後のシーンでは中央に立って、ずっと語るのである(全体のなかで何度かかんでいたけど)。その背後、ちょうどアタマのところにシャンデリアの鎖がみえ、あたかも頸を吊っているかのようにみえたりするのも一興。最後のセリフとともに、この鎖の音がし、つづいて暗転、《ラ・マルセイェーズ》がひびく。 ルネの母親・モントルイユ夫人=白石加代子についてはその存在感についていまさら言うべきことはない。 個人的な好みとしては、ルネの妹・アンヌ=美波で、つい、目が追ってしまった。ほっそりとした脚をだしていたせいもあるが、第二幕における表情の変化、ちょっとした不機嫌さ、など、いいのである。この幕では、座っていると、何度も脚を組み替えていた。幕ごとに化粧や髪型が変わってもいった(ま、ほかの役者も同様だ。それだけ年数が経ったという設定なのだから)そういえばこの子、蜷川演出の『エレンディラ』にでていたのだったな。 ヴェニス、という場所の名が何度かでてくるが、どこかでイタリアと言い換えられるところがある。それって、だけど、当時からそう呼ばれたのだったか? そこは歴史的知識が欠けていて、ちょっと疑問だった。 昔読んだときにはわかったような気がしていたけど、やっぱり難しい。ましてやパロールで耳にはいってきても意味は充分に追いきれない。サドの世界観についての解釈、それもまわりにいる女性たちによる解釈、と言ってしまえば簡単なのだけれど、いやいや、それだけではすむまい。http://setagaya-pt.jp/theater_info/2012/03/post_268.html
2012年03月12日
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オタール・イオセリアーニの半自伝的作品『汽車はふたたび故郷へ』。公開は来年2月(HPの公開はちょっとヘン)?いつもながらも不思議でありつつユーモラスな作品で、あっという間の2時間。過去のイオセリアーニ作品を想起させるシーンもいくつか挿入されるところ(『四月』にあるような建設されている幾つもビルディング、窓辺で楽器を演奏している人びと、ほかにタイトルは同定できないけれど、しばしばごくごく自然に顔をだしてくる動物たち、太い声で歌っている人たち、などなど)もいいし、尼僧の格好をした3人がタップを踊っていたり、笑えるところが各所にあったりする。パリからグルジアまで、伝書鳩で手紙をとばすのも可笑しい。(パリで主人公を迎えるのが「アレクサンドル・ボロディン」だったりするのだけれども、そう、ボロディンはグルジア出身だったのだ……。)子どものときから大人まで、仲の酔い男性2人、女性1人の「トリオ」が、余計説明も会話もなしに、一緒に行動しているのがじつにステキだ(特に女の子、子どものときも大人のときも、じつに魅力的。イオセリアーニの女性の趣味はもう……!)。もちろん、グルジアでもフランスでも、体制やプロデューサーに理解されない映画監督というのは、ある種、イオセリアーニ自身の「(反)英雄」性を読みとるひともいるだろう。だが、そんなのはどうでもいい。作者と切り離して、まずは観ること、だ。個人的には、イコンの前にあるロウソクがふっと消えて、煙がのこっているところなど、ちょっとしんみり。http://bitters.co.jp/kisha/
2011年11月12日
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今年観てきた邦画には何らかのかたちで芝居がかかわってくる作品が4本あった。『大鹿村騒動記』『少女たちの羅針盤』『行け!男子校高演劇部』『WAYA!』。ある意味『シャッフル』も戯曲をもとにしているから、近い路線かも。それぞれにおもしろくはあった。でも、こういうふうに、芝居という別の表現媒体を映画に持ちこむことで活性化するというところに、何か、邦画の現状があらわれているようにおもえなくもない。今年はあと2か月半あるから、さて、どうなることやら。
2011年10月12日
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昨晩、(9月21日・水)、ustreamで朗読をしてきました。坂本龍一さんたちがつくられた『いまだから読みたい本』(小学館)を中心にしたもので、DJのサッシャさん進行のもと、本の紹介を吉村栄一さんがされ、それから14歳の藤波心さん、わたし、坂本美雨さん、高野寛さんが朗読をしました。http://www.ustream.tv/recorded/17412347#utm_campaign=www.facebook.com&utm_source=17412347&utm_medium=socialみなさんは『いまだから』から朗読されたのでしたが、わたしは『ろうそくの炎がささやく言葉』(勁草書房)から1篇、カリン・ボイエの詩を。訳者・冨原さんの名を言い忘れ、あとでさりげなく付け加えた、という不始末。それに滑舌がわるく、恥じ入るばかり。上のリンクは前半で、わたしこの「前半」の後半にでてきます。ま、ご覧にならなくてもいいものですけど(笑)。なにしろ台風でしたから、ほんとにやるのかどうか心配していたのです。14時からの教授会は15:30くらいに中止となり、風雨のなか、一度、自宅に戻りました。それからすこししごとをしたのでしたが、放送が中止となる連絡などはない。だから、18時過ぎに自宅をでたのです。ところが!飯田橋駅に着くと、営団地下鉄はいっせいに運休。これでは行くことができない!としばし途方にくれたのでしたが、気をとりなおして、動いている大江戸線に乗り、ちょっと時間をかけて、築地市場へ。下車し、地上にでると、朝日新聞前は雨もやみ、風はすこしあったけれど、ひとも少なく、静か。そんななかを東銀座の東京ニュース通信社へ歩いていった、という次第。放送が終わったのは22時。外にでるとふつうの東京に戻っていました。こんな日に-----交通渋滞など3.11以来だろう-----こうした本の朗読をおこなう、ということになったのも、不思議なものです(高野寛さんもそう言っていました)。終わった後、友人の店ですこし飲んだのでしたが、その最中に茨城発の地震がありました。「安全」というのを確信できなくなっているのが、現在、なのでしょう。
2011年09月22日
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この映画は、観ないとわからない(もちろんどんな映画だってそうなのだけれど)。林由美香という女優とのつきあいを、平野勝之という監督が映画にしたもので、はじめはただ淡々と観ていられるのが、徐々に、というか、唐突に、というよりぐっとあるとき変化する。それについては特にふれないが、映像を記録し、残し、さらにまた一種の作品化すること、について、もろもろ考えずにはいられない。2人がつきあいはじめたころの1980年代とあとのほうの2000年代とでは、映像の質感が当然ながら違う。2人の顔や表情も違う。年月がそうしたところにあらわれている。言い方を変えれば、おなじフィルムとして、いろいろな時間が定着され、ひとつのものとして提示されることのこわさ。そして、それはまた、生も死も、であり、バルトではないが、”かつてあった”と”いまもある”が同一平面にあってしまう、ということ。由美香が《ゆうやけこやけ》をうたうシーン。自転車で北海道をめざす、という2人。映像は、ピントがずれたりぶれたり、わざと動かしたりも。タバコ。2人が吸うタバコ。あるいは、壮行会をやる飲み屋での、タバコを手にするひとの多さ。かつてはあれがふつうだった、とおもってしまう現在。由美香の(北海道行途中での)泥酔。これは、のちのちに伏線のように、あとで、おもえなくもない。ときどきあらわれる動物。由美香のママの家にいる猫。テントと猫。由美香の部屋にいる白い犬。ひたすら動いている犬。由美香の「昔の男はいいなあって」ということば。インサートされる文字/ことば、字幕、声ヴィデオ・カメラは、自動で撮れてしまう、ということ。ほおりだしても、勝手に撮っている。おもわぬところで、記録が撮れてしまう。湿度が高い日の夜、とうとう雨が降りだし、アスファルトが1粒1粒濡れてゆくさま。このシーンは2回。そしてあとでまた登場する。「監督失格」であることの意味、かさなり。反復されること。事実として、以上に、平野勝之という監督自身の、由美香から言われたこと、そして、自らにむけての、自らの確認としての。さいごにながれる矢野顕子の弾き語り。書き下ろし《しあわせなバカたれ》。ピアノのひびき、と、残響と間。このエンディングにほっとする。タイトルは、プロデューサー・庵野秀明によるものか。庵野には、つれあいの安野モヨコによる『監督不行届』がある。公開は9月3日より、TOHOシネマズ六本木ヒルズ。http://k-shikkaku.com/
2011年08月06日
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みすず 2011年8月号 no.596に鈴木了二が『「建屋」と瓦礫と』を書いている。副題としてあるのは、「テクノニヒリズム」以後。考えさせられることは幾つもある。そのなかで、とりあえず2つ。そもそも「建屋」という語に、筆者は引っ掛かる。専門家はふつうに使うようだが、わたしのような一般人には、慣れない語であり、その点では同感なのだが、そのニュアンスは異なっている。 原子炉建屋、これは明らかに差別用語だ。 ポンプ室や工場などで使う名称であるとはいえ、 これほど巨大で危険な施設に適用すること自体がなおさら差別的である。そして、もうひとつ。 ほとんど崩壊しながらも本質的なレベルで廃墟になりきれないという 宙ぶらりんの恥辱が、 神々の宿る神域にも似たその場所に剥き出しになっている状態、 それが福島第一原発という建築の存在形式にほかならない。 しかも弔うことさままならぬその恥辱を 今後も延々と生き続けなければならないのだ。 建築の新たな存在形式であることは間違いない。
2011年08月04日
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迎え火。
2011年07月13日
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東武東上線で朝霞台/北朝霞へ。そこから武蔵野線に乗り、西国分寺。中央線に乗り換えて、八王子、高尾、諏訪湖へと。帰りはその逆をとるが、意外に高尾とか八王子とか西国分寺が混む、ということを発見。東上線に乗り換えるときのホームや階段はものすごい。乗ったことがありはしたものの、大抵はすいている時間だったのだ、と気づく。写真は、相模湖。まわりは、ほとんど、何もない。でも、2時間もあれば行けることがわかった。
2011年07月13日
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相模湖交流センターにて、西陽子のレコーディング。12日(火)から始まって2日目。訪れたときには、自作の《月夜の海》を17絃箏で演奏中。午後になり、15時くらいから、古代楽器の復元・箜篌(くご)で、三輪眞弘《蝉の法》を。写真は、この珍しい楽器。
2011年07月13日
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