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盲導犬のお仕事中は話しかけたり触ったりしないというのが礼儀。それは犬が集中を切らしたり脅威を感じたりすることでユーザーの危険がアップするからだと思うがそうしたことのほかに訓練の効果が失われるというのが大きいだろうと思う。使役犬は愛玩犬とは実質的に異なる犬だ。しかし、そこを愛玩犬と混同する人たちはとても多い。使役犬育成機関では大抵どこもその育成費用の捻出に頭を悩ませている。盲導犬育成機関もその一つだと思うが資金集めのための何らかのイベントなどに育成中の犬が広報の役割を担って同行させられていることが結構ある。そうした若い盲導犬候補生の出来具合についてときどき保護活動家は彼ら独特の狭い見識から落ち着きが無いのはまだ若いからでまだまだ人の愛情を欲しているような時期だとか批判的なことを言う。犬を知らない人たち。自分達活動家がやいのやいのと訓練施設を非業の場所のように言い視察と称して訓練内容に虐待じゃないかと横槍入れるからしっかりした訓練が出来ていないということなど全く頭に無い可哀想がりの偽善者だ。若いから落ち着きがまだ無いなんていっているようだと我侭で馬鹿な犬しか知らないのだと自ら公言しているようなものだ。たとえユーザーのサポートと言う仕事中の盲導犬に対して触ったり、声かけしたりといった行為をしないとしても頭の中は使役犬としての盲導犬を愛玩犬と勘違いしている感覚なのには変わりが無い。だから盲導犬は道具じゃないなんていう言葉が出るのだと思う。イベントで広報の役割を担っている候補生の犬達もそれはお仕事中の犬であって愛玩犬とは違う。犬はしっかりしつけられているなら基本性質に問題が無ければ生後2ヵ月でも落ち着きがでる。ましてや性質には充分な配慮がなされて選択交配の上いたるところでその仕事の適性を見定めながら絞り込まれている候補生達なら素質としての落ち着きは充分持ち合わせているはずだ。仕事以外の時間における盲導犬は確かに道具ではなく「犬」だ。しかし、仕事中の盲導犬は「道具」に徹しているべきだろうし、ユーザーも、そうした割りきりを持っている方が犬は良い仕事が出来る。しかし犬と言う生き物が解かっていない人たちは「割り切ってあげることの大切さ」をご存じない。訓練する者やユーザーに割りきりが無ければおかしな可能性を感じ取り犬はいつまでたっても諦めが付かなくなり求められている作業と甘えとのハザマで混乱が生じてくる。おかしな人情感覚でものを見善意と勘違いしている偽善がどれほど訓練者やユーザー、犬達を追い込んでしまうかなどそういう人たちには想像が出来ないのだろうと思う。はっきり言って今の盲導犬と言うのはそうした連中の影響によって訓練方法が不確実なものに歪められている。歪められた不確実な訓練によって落ち着きの無い使役犬というレベル低下が起きていることも解からずそれが幼さによるとかまだまだ人の愛情を欲している時期だとかまるきり好かれたがりと優しい人ぶった希望的観測と頓珍漢な擬人化で批判しているに過ぎない。そうしたレベル低下が自分達の可哀想がりの愛玩感覚が招いた結果だとは露ほども自覚しない。彼らにはユーザーの安全確保よりも犬が楽・楽しいことが優先される。犬の訓練を知る者からすると落ち着きも出ないほどいい加減・無責任な訓練で作られている今の盲導犬に命を委ねるというのはほとんど冒険のようなものだと思う。可笑しいのは本当の虐待と思われる飼育をされているらしい盲導犬のユーザーを叩くとき彼らは「盲導犬と言うのはタバコの火を押し付けられても耐える犬」と言う。彼らが望む訓練方法で出来上がった盲導犬達全般に言えることだが今時の盲導犬にそんな見事な耐性を持つ犬は居ないしかつての盲導犬でさえタバコの火を押し付けられるなんて言う虐待を試験された犬はいないだろうと思う。そんな火傷の傷跡がある盲導犬を見たことがある人にはお目にかかったことが無い。第一そんな訓練が成されれば彼等自身がそれこそ黙っているわけが無いだろうと思う。しかし彼等は虐待しているであろうユーザーを叩く材料として盲導犬とはタバコの火を押し付けられても動じない犬達だなどと彼らは自分達の言い分を通すためにはどんな嘘でも作り上げる。
Sep 2, 2012
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人は言葉の中に潜在意識が表れる。本人が自覚しようがしまいがそんなことには関係なく言葉はその人が普段相手に対してどのような印象を抱いているかを不必要なまでに表現していることが多い。「今度いつ帰って来るの?」と「今度いつ帰って来られるの?」とではそこに含まれる意味はまるで異なる。後者は帰ってくることを望んでいるのに対し前者はどうでもよい、または、帰って欲しくない気持があると解かり易い。無意識に口から飛び出す言葉には意識の奥底の片鱗が見えていることが多い。周りとの人間関係に傷ついたことを打ち明けたとき相手から「君は繊細だから」とか「感じやすいから」といわれたら相手はあなたの感度の高さを肯定的に見ているだろう。しかし、そこで「感じすぎるから」「繊細すぎるから」と「過ぎる」と言う言葉が使われているならそれはあなたの感度の高さを否定的に見ているといってよい。相手にとってあなたの繊細さは厄介な能力と捉えられている。相手はあなたの繊細さ同様の繊細さまで自分を高めようとはしないでしょう。自分が正常で、あなたは過剰なのだという評価。それは相手がいつまでも自分を変える努力はしないと公言しているのと同じだ。早食いが良く噛んでいないからだといわれている。そういうこともあるから早いから良い遅いから悪いと全てのことが限定されるものではないが多くの場合遅いより早い方が鈍感より繊細大雑把より細かいなど精度やスピードが高い方が一般的には能力が高いと評価されている。それを「過ぎる」という言葉を用いて否定的な見方をしている相手は自分が正常相手は過剰という見方が奥底にあると自ら公言しているのと同じことでありそれは自分が相手の能力にまで到達しようと努力することは無いと言っているのと同じだ。そういう相手と能力が高い人が暮らすことはとても困難が生じやすいことは誰でも想像がつくだろう。
Aug 29, 2012
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自分と生活時間が合わない相手との暮しは自分の能力の妨げとなりやすい。睡眠不足は自分の持てる能力の発揮を妨げるというだけでなく御互いの寿命を縮めることになったりどちらか一方がその負担を負うことになりやすい。そんな暮しはいつまでも続けられるものではない。朝型人間は朝型人間を選ぶことだ!夜型人間は夜型人間を選べばこうした問題は避けられる。朝型人間が夜型人間と暮らすとか夜型人間が朝型人間と暮らすのは御互いを潰しあうことになったり相手に合わせてもらっている側に思いやりや思慮が無ければ合わせていることで自分の能力が低下してしまった方を馬鹿にするといった理不尽なことも生じてきたりする。
Aug 29, 2012
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小学校六年くらいのときに松下幸之助集なる書を読んでいた。ひとつひとつがなるほど!と感動しながら読んだ記憶がある。五十過ぎの今時々松下幸之助伝に触れる機会があったりする。そこでまた「なるほど!」と感動する。今触れているものは多分小学校のときに読んだ物だったりするのだろうなと思う。今また新たに感動していることは昔読んだものが全く頭に残っていないからで昔読んだことは無駄だったのだ!。。。と思う。
Aug 22, 2012
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子犬の頃には人間不信で物凄く手を焼いた子がこんな風に表裏の無い人と共に生きられる子に成ってくれるのはとても嬉しい。こういう犬に成ってくれれば年を取って病気になっても最期までちゃんと面倒見てあげたいと思える。が、今回、この記事の「伏せ」から一つの事柄に気づく。いろんなところで訓練としつけは別物と言うことが言われている。が、訓練もしつけも基本は一つでその基本が出来ていない犬をいくら訓練しても其の訓練は曲芸の域を出ないという風にこれまで考えてきた。そういう意味ではしつけも訓練も基礎となる土台がしっかり出来ているという前提の下に語られるべきで土台で考えるなら躾と訓練の境目など無いといえる。訓練などずっと此処何年も行なえる状況に無かったからそれでも誠意を持って反応を返してくれる犬が可愛いと思った。訓練による習慣がそのようにさせたのではなく彼女の意識が誠実であろうと言うところに居たから成された反応だ。かつて人間を小ばかにし、すきあらば出し抜こうとか逆らおうとか楽しようばかり考えていた子犬が大人になってこのように変わったことが嬉しかった。訓練からずっと離れていてそれが成しえたのだから御互いのかかわりが彼女をそのように変えたのだといえるところがまさに自分が求めてきたものだと思うからね。そんなことを考えるうちハタと一つの思いが頭に浮かぶ。しつけは訓練と別物と考える御仁たち。そういう人は訓練は特殊な技能であってふだんの生活や家庭犬として飼われる犬達には訓練は不要とそういう人たちは言う。しつけが出来ない人たちは躾で足りていないことをしつけ教室に通って(名前はしつけ教室なのに何故か訓練科目を教える不思議なところ)訓練すると事が丸く収まると錯覚している人や指導者が沢山居る。しかし、訓練すればよくなると考えているうちはきっと駄目なんだろうなと思う。だって普段の生活が駄目な状態にあるからしつけ教室に通っているのでしょ?普段の生活が正しく犬を作れるくらいに的を得た暮しだったらしつけ教室になんか通わないよね?普段の暮しが正しく的を得ていないのに訓練は不要だといってしまう人たちって普段の出来ていない部分を何とか補おうという場にも出かけようと思わないと言うことだからさ!おまけに、それが愛情みたいに錯覚している人たちだからさ!どれだけ頭の中がぐちゃぐちゃなのかが良く解かる。それは訓練なんていう可哀想なことを強いる必要は無いって言う可哀想がりを犬に対する愛情と錯覚しているだけで自分が怠惰であるとか自分に対して甘いだけなんだということとかけじめが無い、理想が無いというだけの自分にも気づいていないのだろうな。。。しかし、人間社会もね、就職とか進学と言う場面で柔道だの剣道だのといった礼儀を重んじたりするスポーツをやっていた人は礼儀正しいとか根性があるとかって若干有利に作用することが多い社会だ。が、本当は各家庭がしっかりしているならそんなスポーツ欄で好感抱かれるような社会は存在しないはずなんだよね。家庭では教育でき難い部分がスポーツの上下関係だの肉体の強化によってなしうると思われているからそういう部活動をしていたりすることがプラスのイメージで受け止められることに繋がるわけだけど、それというのは各家庭がどれだけ子供に対して厳しさが欠けているかということだとか成長を促す手腕が親に無いと言うことと同義なんじゃないかと思う。しつけ教室に通う必要等無いという台詞が犬が可哀想だから。。。ということによるのではなく家庭の中でしっかりしつけが出来ているから。。。に因って欲しいと思うこのごろ。
Aug 22, 2012
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一部に実験動物に関する扱いに関して動物愛護法適用を求めるための署名活動を進めている方たちがいらっしゃる。もしも自分の身内(親兄弟子供など)に難病で苦しむ人が居てもそういう人たちは動物実験反対を唱えるのだろうか?と疑問を感じずに居られない。可哀想可哀想だけでは解決しない問題ではないかと思うのだけど。。。難病に苦しむ人、一刻も早く特効薬が出来ることを願っている人たちは動物実験と言う経緯を取らない薬剤開発や新技術なら自ら実験動物として治験に臨まなくてはならなくなるのではないか??という疑問に誰か明確な答えを出してくれるなら署名に参加しても良いと思う。。。が、現時点自分がそういう立場にあったら動物実験の臨床データが無い技術や薬剤は子供には使いたくないと思うし何よりもそれらの開発が進まなくなる方を心配する。可哀想を優先できるのは所詮「対岸の火事」「他人事」だからなんじゃないか?という思いがしてならない。可哀想がるのは簡単だし賛同や共感を得るのも簡単だ!しかし、そこに異を唱えることはとても難しい。極悪非道のように叩かれがちだし何より難病に苦しむ人たちはそんな余分なことにエネルギー使っていられるほど暇じゃないからみんなで集まって何かしようだの意思表明しようなんて出来ようはずが無い。言ったモン勝ちの世の中だから言いだしっぺは弱者に対して思いやりを持つとか見識が広いとか経験値が高いなどの資質が求められると思うのだけどそれら一切がゼロに等しいただ動物に依存している人ほど過激な運動や過剰な要求に走るのではないかと言う気がしてしまう。
Aug 14, 2012
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新しい「犬のしつけ教材」が発売に成るというから早速どんなものかと覗いてみた。が、やっぱり過保護&野性頭で育てられたいわゆる「愛犬」と呼ばれる犬達のそれだった!腐った犬の事なかれ接触術は本当に一杯巷に溢れているのにそれにまた追加して売らんかなと言うのは儲け主義の業界体質そのまんま。飼い主が依存度合いが高いからそういうのが一般受けが良くて販売されるのだろうけど犬ってそれだけ低く見られている哀れな動物なんだなと叩きつけられる感じがして「愛の。。。なんちゃら」と題している割にその実、犬を見下し、飼い主を見下ししているこの状況は一体いつになったら改善されるのだろうか?繁殖元が手抜きと依存と無知で動物的と言うか家畜そのものといった犬を作り訓練業界とビジネス業界が密着してそういう犬を飼っていることに疑問を感じない飼い主を上手いこと丸め込む形になっていることに気付かずそれで正しいものと信じて疑わずに教材を製作する。元の犬が腐っているからそれしかないというだけだと解からないくらいに良い犬に出会ったことが無い連中がしつけの教材を作るから世の中がどんどんおかしな方向に流れていく。稼げれば後のことなんか知ったことかの儲け主義と目立ちたがりの訓練士がくっつくとろくなモンにならないのは当然の結果。
Aug 14, 2012
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自分は何もせずただボーっとしているだけでやってあげているように思い込める。犬は一緒に行動する者を仲間として信用する。自分は何もせず犬だけ動かすボール投げや自由な走りをいくらやらせても人と犬との心的距離は縮まらない。それと同じように「慣らし」によって犬にだけ苦労させ自分はただ眺めているだけと言うパターンでは犬は飼い主を信用することが無い。「慣らし」が大して効果が無い(「慣らし」の対象には有効に見えてもそれだけに有効なのであってそれが他に応用が利くわけではないということ)のは犬のそうした思考パターンにより犬は孤独感から解放されていないからだろうと思う。一つの事象を共有することが人と犬との心の距離を縮めるのには必要なのだ。体を使うことから逃げる横着さやかけるべき時間や手間をお金で代用したり他の犬にお任せにすることは自分と愛犬のかかわりを自ら放棄しているのと同じこと。自分が御互いのかかわりを放棄していながら犬にだけ自分達の言い分を理解してもらいたいとか思うのははなはだ身勝手で自己中心的といえる。犬は犬から学ぶといって自分の犬を犬任せにする人やお金を払ってトレーナーに自分の犬の教育を丸投げにしてしまう人と言うのは自分から必要な関わりを放棄しているわけだから犬が自分を見てくれないとか飼い主に対する認識が薄いとかそんなことは当然の結果といえる。そうした直接的に対象とかかわれない横着や自信の無さ感情の欠如コミュニケーション認識の薄さと言うのは満たされて育ったりテレビやビデオ、ゲームなどを与えられ直接親や友達と体を使って一緒に遊ぶという経験が無かったりした人なのかなと思ったりする。世間では、愛情に満たされて育つと感情や愛情の豊かな人が育つと考えられている。しかし、これまで見た限りでは満たされて育ったものほどそこが欠けている。ハングリーでない方がそこの価値に対して認識が薄い。世間はそんなことも理解していないよなと思う。
May 23, 2012
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積極的に強く出て行けない人。必要な緊張感を維持できない弛緩した人。そういう人が「慣らす」という思考に走りやすい。慣らすというのは何の技術も思考も強さも必要としないで済んでしまう。自分は何もせずただボーっとしているだけでやってあげているように思い込める。が、そうした消極的な内容で得られるものはそれなりだということに気づかない。犬の躾と言うのは今行った努力が今形になって見えるものははっきり言って「まやかし」でしかない。きっちり積み重ねたものは何故だか数年後になってその効果が現れる。そういうものなんだなと知っている人は今形にならなくても焦らないし迷わない。それが経験と言うものだなと感じる。
May 23, 2012
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自分を含めて人間というのは言っている事とやっていることに矛盾が一杯ある生き物だ。それは社会的な対面によることだったり自分の身勝手さや欲が知らずとそうさせている場合も多い。が、それと気づいたときに自分がどのように対処するかが自分の自信の有無に繋がっていくのだと思う。自信とは。。。自分を信じる力。信じられる自分であるように暮らしていけば自信は自らの内に育っていく。
Feb 27, 2012
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ブリーダーと言うとシリアスホビーブリーダーが一番良心的という風に世間では評されていたりするのだけれど、私はどちらかと言うと「ホビーブリーダー」ではなくシリアスであってもそれを仕事として行っている人たちの方が安心感がある。ホビーブリーダーはどうしても繁殖回数が少なかったり元犬が海外で作り上げられた犬で自分たちが作ったという犬ではなかったりすることから繁殖に関する情報量が足りていないようなイメージがあったりする。(あくまで私的な印象であって実際は研究熱心な方もいらっしゃることだろう)そこを補うのは元犬のブリーダーさんとの親交の深さだろうと思うが本当に信頼のおけるブリーダーさんと交友のある方とそうではなくブリーダーのカモとなって軽くあしらわれていることに気づかずに居るという方との開きは大きくそれというのはそれぞれその方たちが持っている人と接するときの姿勢の違いや自身の勉強の深さの差なのだろうなと思ったりする。謙虚だけれど勉強熱心であるという方は先方のブリーダーさんも末永くお付き合いしようとやはり誠実に対応してくださるのだろう。現にそういう方は将来の繁殖に繋がっていくような非常に良い犬を譲ってもらっているのが解かる。が、変にプライドが高かったり表面的なお付き合いしか出来ない人や物事の見方が偏りがちで自分の好みや感情が優先されるようだと本来必要なものは何かというのが見極めにくくなるから知らずとカモになってしまうことが多いのは何処の世界でも同じだ。先日遊びにいらっしゃった方たちと話していてブリーダーと一口に言ってもいろんなスタンスがあるけれどそれを強いて分類・表現するとしたらどんな表現方法が解かり易いだろうかと考えたりしていたが今日、サラブレッドの馬主と調教師、それ以外という風に分けると解かりやすいかもなぁと思ったりした。
Feb 17, 2012
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問題犬の更正を手がけていると普通のしつけ教室などで行なわれている「犬を良くするための手法」をいくら学んだところで普段の生活における「犬を悪くする習慣」「犬を悪くする関わり」というのを辞めない限り犬は良くならないどころか新たに導入した手法が効果が出ないことで犬側に耐性が出来てしまってそれ以上に効果を出せる内容を探すことが困難になるという弊害を感じる。しつけに悩む多くの飼い主さんたちがトレーナージプシーとなって流れてくるのはこの耐性によって最初は効果があるように思えていたことに効果が見えなくなって逆行したことによる。犬が元の問題犬に逆行してしまうともっと別の方法が無いだろうか?と探し回った挙句やりつくしてしまった感に陥り途方にくれる。。。というパターンだ!そこで、見たくも無い偉く嫌味なうちのサイトをしぶしぶ覗くことになりアクセスしてきたりする。それというのは悪しき習慣をそのままにして良くする方法を学ぶためで本当は悪しき習慣を排除していけば良くすることなど学ばずとも悪くしている原因がなくなるのだから自動的に良くなっていくものなのだけど、悪しき習慣を行なっている者が飼い主本人であることから指導者がそこを突っ込んで言えなかったりオブラートに包んだ言い方をするから飼い主がそれをしっかり理解できなかったりはっきり伝えたことで飼い主が怒って去ってしまったりということから自動的に犬をよく出来るはずのところを逸している飼い主というのが大半だろうと思う。だからいつになっても喫煙を続けたままサプリメントを摂取している頓珍漢健康オタクのようなおかしなことを続けてしまうのだけど問題犬の更正を手がけているとときどき他のトレーナーからこちらが飼い主さんたちに示している内容というのは相手が「問題犬」だからでしょ?という見方をされることがある。そう思ってしまうトレーナーさんは失礼ながら犬と言う生き物が解かっていらっしゃらないのだなと感じる。問題がありありだった犬が良くなれるということは普通の犬に行なえば普通の犬は極上の犬に成れるということなんだよね。問題犬がよくなったのは犬の本能とか思考回路とかそうしたものに合致しているからで犬の根本に働きかけたかかわりだからだということが解かっていらっしゃらない。そういう勘違いというか思い込み?というのは繁殖という行為に携わっている人たちの間にも多いなと思う。この行為が仔犬には必要だ!と思って良かれと思って繁殖者が行なっている行為というのが後々問題犬に成長する要因を作っているということが少なくない。問題犬の更正を手がけてみれば、何が犬を悪くするのか?ということの傾向が見えてくる。が、人間が気持ちよくなれる人間的観点からの「良かれ」という思い込みによってわざわざそこを強化していたりするのは犬を知らないとか問題犬と関わったことがないからだったり犬を擬人化していたり自分の願望であることに気づいていなかったりということによる。繁殖する行為というのは他人に譲渡する犬を作出していることが大半で自分の手元に残す子犬というのはこの世に生み出した仔犬のうちの極一部でしかない。そういうことを行なうにはまず問題犬というのが何故問題犬に成ったのか?それを直すのには何が必要なのか?そういう犬にしないためには何をすべきで何をしてはいけないのか?というそうしたことを理解してから関わって欲しいなと思ったりする。世間が考えている「これが仔犬には必要だ!」という内容が問題犬を作る大きな原因になっていることがとても多い。それは犬を見ずに自分たちの「良かれ」の気持を優先していて善い人に酔っていることによる。
Feb 6, 2012
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自分の人生を他人が演じてくれているのだなと思う。あんな生き方をすると損失が大きいのになぁと思うことが多い生き方をしている他者の行動は神様が老い先短い自分に時間の節約を示してくれたのだと解釈する。
Jan 25, 2012
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この子等が無事に育ってオーナーさんたちに大いなる幸をもたらす子になりますように!
Jan 24, 2012
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感情が豊かな人は一見冷徹な人に見えるかもしれない。それは捨拾選択の中から大切なものだけを選び抜く目を持っているため不要なものを切り捨てていける思い切りの良さを身につけているためだ。一方、一見優しげに見える人たちと言うのは案外感情が未発達で普段は世間体を気にしてその未発達さを悟られないように取り繕っているだけで選択の機会を得ない温い暮らしに生きているためいざ厳しい状況に追い込まれるとそれまで優しげなことを語っていた口からそんないい加減な言葉が出るとは思えないようなびっくりさせられる言葉が飛び出てきたりする。そういう追い込まれた状況になったときナンじゃこりゃ!?と驚かされる言葉が出る人ほど普段は軽薄な表面的な優しさで物を語る。
Jan 23, 2012
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感情が豊かであることと感情的なこととは同じではない。が、この簡単な違いをちゃんと理解できている人と言うのは案外社会には少ないのだなと思うこのごろ。感情が豊かであることを望む人の多くは単にわがままで自分の感情を抑圧されたくないというだけだったりする。感情が豊かと言うのは感情を抑圧される生活が長かったような苦しさを知っている人の方がその状態に至っていることが多い。感情が豊かであることを望んだわけではなく感情を抑圧される中で何がもっとも大切かを知ることにより豊かさを身に着けたというような捨拾選択の中で結果的に得たというものだったりする。そこには苦労や苦悩が通過点として存在し大事にすべきものは何か?を見つめる機会が多く存在する。が、感情が豊かであることを望む人たちと言うのは温い暮らしの中でただ、自分の感情を優先したいという自分の欲望と言うか我を優先しているに過ぎない。我を抑える努力をすることで、本当ならもっと周りの情報を自分の中に取り込むことが出来たはずのところ自分の感情や感覚を優先するだけで、他者の意見に耳を傾けようという気持ちを持たないから真実が何かということに気づく機会を自ら逸していたりする。素直であることは特に厳しい環境におかれていなくとも他者の意見を取り入れ真実は何かを知り得る機会を多くする。素直さがあることは温い暮らしにあっても感情的になるのではない感情を豊かにする機会を増やしてくれる大切なことなのだと思う。素直さは子供に広い世界を提供する。自分だけの世界にとどまってしまうのは自分の我に執着していることによる。感情的であることと感情が豊かであることの違いがちゃんと理解できる冷静な部分があると他者に対して素直に心を開けるのかもしれない。
Jan 23, 2012
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犬に依存している飼い主って自分が犬を褒めたときに犬が嬉しそうな様子を返してもらいたがるんだよね。犬を褒めているんじゃなくて、自分が犬から好かれているという風に感じたいだけ、自分が心地良く成りたいということなんだな。だから褒め方も変にテンションが上がりがちだし犬のテンションも上げがちだったりして自分自身落ち着いて褒めるとか犬を落ち着かせるように褒めるということがなかったりする。自分で犬を興奮させたがっていることも気づかず犬が興奮して落ち着きが無いって言ったりする。自分のやっていることが見えなくなっているんだな。犬に依存している飼い主って言うのはそんな風に矛盾したことを一杯やっている自分に自覚が無い。褒め方一つ見ても犬に好かれたがっている僕飼い主かどうかが解かろうってものだ。
Jan 14, 2012
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今日ドッグフードの買出しに出たのだが、帰路道路の脇にある畑に日本犬が1頭寒そうにちんまり座っていた。一応リードで繋がれて座っているようなので車道に飛び出してくる心配は無さそうとちょっと安堵しながらその犬をチラと横目で見ながら通過した。犬は、飼い主らしいお婆ちゃんが畑仕事のついでに連れ出されたらしく、犬が寒そうに座っている割に動いて暑いのだろうか元気一杯のおばあちゃんが畑の土をならしている姿があまりに対照的で犬がちょっと可哀想な気もしたのだけど、犬の様子などまったく気にすることなく畑仕事に精出すおばあちゃんの理不尽さというかマイペースさ?ってだからこそこういう静かにじっと座っている犬を作ったのだろうなと思ったりした。これがちやほやと甘やかされて勝手に生きているような頭の中身が出来上がっている犬だったらつながれている範囲の中で飛び回ったり穴掘ったりしてじっと座っているなんてことにはならないだろう。あるいは、飼い主の御婆ちゃんが動かないで座って待ってなさいと指示を与えてあったのかもしれない。訓練の時間なんていうものをわざわざもうけてしつけするようなそんなおばあちゃんでは到底無い。多分日々のこういう理不尽さというか習慣?がこういう落ちついた犬を作ったのだろうなと思いこの此方都合に犬をあわさせるという強引さはそれが良いか悪いかは別として見習うべき部分があるよなぁと変に犬を思いやって甘くなりがちの自分にはちょっと羨ましく感じるマイペースさだった。
Jan 14, 2012
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飼い主と飼い犬の信頼関係とか上下関係とかそんな言葉が語られるようになってン十年?が、未だにそれはどうやったら築けるのかと悩んでいる飼い主は沢山居る。犬を従わせられれば上下関係が成立しているかといえばそういうことでもない。かえって従わせようとしたことによって信頼関係が出来にくくなっていたりするケースは多い。何故そういうことが起きるのか?。。。といえば飼い主側が正しい犬との心的距離というのを保てて居なかったりするためだ。信頼関係とか上下関係とか、みんな小難しく考えているのだが、一口に言ってしまうと飼い主側にどれだけ人としての自立心が育っているか?が鍵。正しいお互いの関係というのは訓練の手法でも訓練の道具でもなくましてや環境がもたらすわけでもない。全ては人間側の自立心がもたらすというだけのことなのだが、何故そこに至らずに手法や道具にこだわり続けるのか?結局業界に踊らされているだけだったりするのだなと思うが、業界そのものが飼い主の自立心というものを考えていなかったりする世界。犬に寄りかからない飼い主こそが犬に信頼され尊敬される。自立している飼い主は犬に対して嘘が無い。駄目なものは駄目とはっきり示せるし良いことは良いと落ち着いてほめる。依存している人にはそうしたことが出来ないというとても簡単なことなのだ。
Dec 23, 2011
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仔犬を購入する前にエアコンの無い部屋で一度植物を育ててみてほしい。植物は何も物を言わないが葉が萎れたり根が腐ったりと環境や手入れの方法が合っていないとそれが誰の目にも解かる形になって表れる。お散歩で時間をとられることが無く排便の処理があるわけでもない。ただ観察や手入れを継続して行えばよいだけのことだ。そんな簡単なことが出来ないならましてや、もっと手がかかる仔犬の世話や教育を継続出来ようはずが無い。犬はこちらが起こすアクションに反応を返すから独りよがりで自分勝手な人は犬が返してくる反応を自分に都合良いように解釈する。しかし、そうしたことが単なる思い込みで犬の真意とかけ離れていることはよくある話だ。しかし、植物は、そんな風にその場、目に見える形でこちらに反応を返してくるわけではなく、こちらの考え方や手入れ方法が正しかったかどうかはその植物が持つ本来の姿や健全性によって示される。日々の手入れや観察の継続性を見極めるだけでなく、観察した結果が本当に正しかったかを知ることが出来たりする。エアコンの無い場所での植物管理は、幼令犬や高齢犬のようにエアコンがある部屋に居ても気候の影響を受けやすい犬たちの管理についてどれほどの気配りや手入れが必要かも解かりやすくなる。植物の場合にはもしもそうした継続性が自分に無かったとしても特に問題になることは無い。しかし、仔犬を購入してしまった後で自分が仔犬の育成に適性が無かったと解かったとき大きな問題が生じることになる。また、お子さんが子犬を飼ってほしいと願ったという場合にもその子が植物を育てられる子かどうかを見極めていただきたい。もしも、お子さんの熱意に仔犬を購入しようとなさるのであれば、あなたは、仔犬を「買ってあげる」立場で物を考えるのではなく、「飼われる仔犬」の立場で物事を考えてみてほしい。子供というのは移り気で一時犬が欲しいと言ったかと思えば、ペットショップなどに出向くと目の前に居るウサギに心を奪われることもありがちだ。しかし、そういう子は、自分が飼っている犬よりお友達が飼っている犬の方が素敵な犬に見えることもしばしばだ。本当に犬を飼いたいと願ってやまない子は犬が飼いたいというより「この子を飼いたい」という具合に飼いたい対象が細かく具体的で他の動物に気移りしたり代替え品で納得することはあまり無い。犬を飼ってもらえないなら目の前の亀で我慢する。。。とはならないものだ。
Dec 23, 2011
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何でもかんでも運動させて居ればよいと言う思い込みや運動させなくてはいけないものと言う強迫観念は捨てたほうが良い。犬=運動という短絡思考でものを考えていると犬の体の構造も理解できていなかったりする。見るべきものは「筋肉」ではなく「筋力」と「住まいの環境と精神構造」。それと「股関節」が正常かどうかと言うこと。どんなに筋肉をつけても環境がまずければ正しい立ち姿勢は形成されない。人間に対して嫌悪感を持っている場合どんなにゆったりした環境を与えても背中を丸めて人に背を向けて寝ることが常であれば狭い環境に寝かされているのと同じで正しい姿勢にはならない。筋力があれば、無駄にマッチョ体型を培わずとも正しい立ち姿を得ることが出来る。股関節が正常でない犬は体の重さを正しく支えることが出来ない。そういう犬は構造そのものに問題があるのだから立ち姿を美しくさせようとすれば過剰に運動させることになりやすい。姿は美しくなるかもしれないが、心臓に負担をかけ寿命を縮めることになりやすい。逆に、股関節が正常なら、さして大仰に運動を意識しなくても環境と精神構造が正常ならある程度の美しさは保てるはずなのである。
Dec 6, 2011
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先日行われた愛護法の義務講習で改正案の紹介があったのだけど、あんなものが施行されるようになったらただでさえ危険回避のために請け負ってくれるところが少ないと言うのにもっと問題犬の直しを請け負う訓練所・訓練士は減ってしまって問題犬は切り捨てられていく。。。というか切り捨てざるを得なくなるだろうなと思った。噛むようにしてしまったらどこも助けてくれなくなるのだからそうしないように気をつけなくては駄目なのだけど、誰も好き好んで噛み犬造っているわけじゃないって言うことが解かっていないんじゃないかな?親犬から子犬を引き離す日数なども法で定めようと言う話があったりするのだけど、母犬の健康状態が芳しくない(産後のひだちが悪い)場合や子育てが下手で子犬を潰してしまうと言うケースもあるし母犬が極端に我慢性が無かったりすれば子犬を長く一緒にしていると母犬が子犬に対して加える制裁がきつくて子犬が萎縮したり過敏になったりする。あるいはそれと逆に母犬が良すぎれば子犬が我侭・支配的になるし母犬は子犬に栄養もって行かれてボロボロになったり子犬の頭数が多すぎると言う場合には母犬の疲労が激しくなったりする>先天的に野生が強い子なんかだとますます犬の本能が強化されてしまうから余計に扱いにくい子になる。そういう実質的なことを知らない連中が変に解かった風に意見を強行しようとするから愛護法はとんでもない方向に進んでいるっていう感じ。これまでだって矯正が必要な問題犬を直しているときはそれが飼い主自身で行っていたのであっても(ていうか、こちらが直接手をかけると虐待しているかのように誤解されるから危なっかしくてかかわれないから飼い主自身でやってもらうようになったわけだけど)近隣から飼い主さんは虐待しているように責めを受けたりしているのにあんな内容が法制化されてしまうとそういう仕事に一切かかわりたくないって思うわ。獣医さんから安楽死を避けるのに噛み犬の直しをやってもらえないかと依頼されて受けていた仕事も今後は、そのまま安楽死してあげてくださいっていう話になるわ。解かっていない連中は自分たちは良いことをしていると思って疑わないのだけど、本当に困っている飼い主さんたちにとっては助けてもらえたはずの犬を殺さざるを得なくなるって言う切実な問題になってくるんだけど、偽善者にはそういう細かなこと解からないんだよね。はっきり言ってしまえば犬が安楽死になろうが関係ない。だけど、そうせざるを得なくなった飼い主さんは心ニ傷を負ってそれをずっと背負って生きなくてはならなくなるんだよね。それが嫌だからこれまでかかわってきたわけだけど、法制化されれば、犬が切り捨てられるんじゃなく、そういう飼い主さんが切り捨てられていくんだって言うことについて連中はどう思っているんだろうか?
Dec 2, 2011
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先ほど、某犬種のアメリカCH達成の動画を見ていたのだけど、何故あの犬がタイトルを取れるのかが解らないよなという犬だった。確かに見た目は豪華だったけど、歩様が不安定で立ち姿もポーズが決まらず何度もハンドラーが後足の位置を直していた。それはショーマナーが入っていないための直しというのではない股関節に問題があるために後足の位置が常に若干前気味になってしまうのを直している状態。足の運びに伸びがないから常に歩様審査では大型犬でありながら女性ハンドラーの走りに遅れをとり間に合わないからギャロップになる。あれでもタイトル取れてしまうというのだからタイトルを持っているということがそんな立派なこととは思えないなと感じてしまった。健全性が欠けている犬でも運良く審査員の好みだったりすれば取れるタイトルなんて実に馬鹿げている。タイトル持っているから健全とは限らない。。。がタイトル持っていれば繁殖に使われやすい。そういう部分が犬種の健全性を損なう原因だよね。
Nov 28, 2011
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7つの子の中のツェッペリンは元がシャイでバタバタした子だった。矯正訓練を行うまでは激しく足踏みしてジッと座ることが出来ない文字通りのバタバタ犬だったが矯正後はシャイ吠えはたまに出るものの殆ど普通の犬状態ですごせるようになっている。パッと見は普通でもまだ内的な緊張はあるのだなというのは遊びの際の反応でわかる。多分緊張がなければあそこまでのハイジャンプはしないだろうと思うし作業に対してあれほど燃えなかろうなと思う。作業意欲は緊張の逃がし先になっているに過ぎない。そんなだから、こいつはおそらく老化が他の兄弟よりも早くに現れるだろうと踏んでいたのだがやはりそれは当たっていて彼女だけ顔に白髪が出始めている。それはまた、若犬時代バタバタ犬だったグリペンも同じ状況だ。グリもこいつは矯正してあげないと落ち着けない犬でそうしなければ寿命が短くなるだろうと考えて二歳ごろに矯正訓練まがいのことわちょっとだけ試したことがあった。その結果動きが落ち着いてこちらの話を良く聞くようになったのだが、やはり彼も顔に白髪が僅かだが出始めている。同じ年の他の犬はまだ全然そうしたところは見られない。
Nov 22, 2011
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二年間、電話に縛られ身動きが取れなかった生活から抜け二年前までどう時間を使っていたのか勘を取り戻すのが大変。時は金なり。光陰矢のごとし。今やることは明日に伸ばすな。時間にまつわる諺や言い伝えは一杯あるが実質24時間しかないのにその中に納まりきらない程やるべきことが多い時間に追われる生活が続いた後で元の生活に戻すにはまだ暫らくかかりそうな感じだ。とにかく、この二年間で崩れていた犬たちを立て直さなくては!ヤマトやヴァルキリー、アテナやアレスといった頭の中身が抜け落ちた目の犬たちを元に戻さないことには何も始められない。
Nov 20, 2011
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馬鹿だよなぁ自分。。。と思うことが多い。損することはあっても得にならんことに首突っ込んだり大損すると解っているのにあえて手がける方向に動いたりして。自分を誤魔化せないってのがネックだ!絶対世渡り下手だと思う。それでも、死に際に後悔したくないってのが全ての行動基準だから自分を誤魔化さないって言うのは絶対条件だよな。。。そいつを守っているから犬たちも目が素直なんだし。。。馬鹿でも仕方ないか。。。
Nov 19, 2011
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唐辛子人間は面倒見が良くて人情に厚いって思う。私にとっての唐辛子人間は師匠を始めとして三人いらっしゃる。どの方もご自分には何の得にもならないのに拙い私にいろんな助言を与えてくださった。物事の読みが深くていつも「ふぅ~ん、そぉなんだ!?」と感心させられる。
Nov 19, 2011
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良薬口に苦しと言うけれど、苦いというよりはカライ(辛い)。。。だな。唐辛子の、あの、後からぴりぴりくる辛さ。言われたときは勿論カライのだけどその辛さというのが言われたそのときよりも後からぴりぴり度が増すっていう辛さ。師匠のお言葉もあのブリーダーさんのお言葉も本当に的を得たカライカライお言葉で辛さが身に沁みるほどに有難さを実感する。唐辛子人間が周りにいるってことは恵まれているって言うことと同じだと思っている。ときどき反抗もしていたりするけれどそれもお愛嬌ってことでお許しを!
Nov 19, 2011
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相手のサイト内で荒らすことは避けたいから絶対に伝えておきたいところだけ抜粋する。伝えたいことを全部かけるわけではないから誤解を招く。もう随分昔のことに成るけれど、自分もあるブリーダーさんから「あなたが言っている言葉は素人の人たちにはプロの言葉として絶対的な影響力があるのだから。。。」と注意を受けたことがある。そのころはまだブリードに入る手前だったから自分としてはブリードに関してまだ全然プロ意識はなく修行中と思っていたのだけどね。自分の意識と周りの意識とはギャップがあってそこらへんのギャップには注意が必要だよという忠告だった。同時にそれはプロとして責任ある言動を心がけなさいという忠告だよね。犬をコントロールする必要性についてそう思わなくてもそれはその人の考え方だから特に何を言うつもりもなかったのだけれど、そのことについて素人の方が安易に賛同するコメントを入れていたからあえて嫌な話を書かせてもらった。おそらくあの方はそちらの話で、ああそうなんだ、コントロールする必要なんかないんだなって思ったと思うよ。あなたはプロだから、ご自分がお書きになっていたようにちゃんと下準備をしてことにあたるだろうけれど、素人の方は、そんな陰の努力なんか知りえないでただ書かれている「自分にとって楽で都合のよい部分」だけを鵜呑みにして取り入れる。でもね、本当にしっかりしつけていなければそれは飼い主が後で悲しい思いをすることになる。それだけは避けたかった。だからあえて書かせてもらったし、たぶんそちらからこちらを覗きにいらっしゃるだろうなと思ったからノーリードにしていたわけではなかったのに起きた事故もあるっていうことを知るべきだと思ったからつづけて書くことにした。そういうケースがあるっていうことを考えてくれていただろうか?今一度考えてみてほしい。自分が自分をどう評価していようと他人はあなたをプロと思って読んでいる。プロの言葉が素人の方に与える影響の大きさも考えてみてほしい。実際、あのコメントには「先生」という言葉が使われているよね?あそこに書いたものが「悪意」と取られるならそれはそれでも仕方がない。此処に記した内容に間違いがあると思われるなら教えていただきたい。私は、かつて私に忠告してくださったブリーダーさんに自分が気づかなかった間違いを指摘してもらったことについて言い難い事をちゃんと言ってくださったことを今でも感謝している。それはそうした間違いを指摘されてもそれを正しく受け止めてくれればもっと伸びていけることを感じているから言って下さったのだと思うからね。
Nov 19, 2011
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人間は生まれ変わるたびに魂が高位に向かい魂年齢が上がっていくって言うけれど犬の魂はどうなるのかな?折角まともに生まれた無垢なる魂が人間によって低く落とされ堕落していく犬が多いよね。ああ、だから犬畜生は畜生界から人間界に上がれないんだ!?納得!
Nov 19, 2011
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保護活動家。別の名を「コレクター」という。でも保護活動家は「コレクター」を批判する。自分がコレクターをやっていることに自覚がないというだけなのだけどな。。。名称が保護活動となっただけでやっていることが同じであっても自分は善い人で他人は悪人。そこらへんがどうしたらああいう風に自惚れられるのか不思議でならない。ただ金持ちの道楽ってだけでしょ!?
Nov 19, 2011
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ああ、あの子は厄介払いされちゃったんだなぁ。。。というのが解るとなんだかやりきれないね。コレクターの魔の手に墜ちてしまった子。いずれまた、あのコレクターは自分が犬を悪くしては自分に都合よい理由をくっつけてポイってよそに出すんだ。もう、それは毎度毎度お決まりのパターン。そういう相手だと知っていても引き渡してしまうのだから厄介払い以外の何者でもないってわかるよ。
Nov 19, 2011
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自分が犬から受ける評価を上げることだ。そうすれば犬はもてる限りの能力を発揮しようと努力してくれる。個々の犬が持っている能力というのはその能力の最大限を発揮してくれるならあえて性能の良い犬を求めるまでも無くたいていのこちらの希望はかなえられる。それくらい犬という生き物の性能はすばらしいものだったりする。かえってわざわざ性能の良い犬というのを求めるとその犬が自らの能力を開発する意欲的な犬だったりすると人間が相当に長けていなければもてあましてしまうことになりやすい。性能の良い犬というのはナルシストで自分自身の能力を自ら伸ばすすべを体得する。体得した能力を発揮する場を求めてやまない。そういう犬を扱いこなすにはそれ相応にこちらも長けていなければお相手を勤められなくなる。が、自分のも能力の無さを補うために性能の良い犬を求めたがるわけだからそういう人が性能の高い犬を入手しても扱いきれなくなるのは目に見えている。腕がよければ犬を選ばない。犬を選ぶのは腕が悪い証拠。腕が悪いものこそ性能高い犬を求めたがる。ショー系のシェパだから競技です勝てないのではなくショー系のシェパの能力を開発できない程度の腕しかないから競技で勝てないだけなのだ。。。という自覚が必要。ショー系のシェパを扱いきれていない人が訓練系のシェパに手を出すと犬に振り回されて終わることになりやすい。今自分の手元にいる犬をもっと大事にしてみれば犬の性能のせいにして自分の能力を振り返っていなかった自分に気づけるはず。
Nov 19, 2011
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ドッグショーとか訓練競技会のように「犬を評価する」ことではなく「犬が人間を評価する」ことについての話。犬は常に相手の人間を評価している。それは言葉に従わなかったり声賭けを無視したりという具合に表現されていたり逆に呼んでもいないのにいつの間にかそばにいるとか遊んでといって遊び道具を持ってきたり。特に解りやすいのはこちらが遊ぼうと誘ってもあんたなんかとは遊びたくないとまったく乗ってこないとか道具を追いかけはするもののもって帰ってこないとかそれというのは犬が人間に対して期待が持てないと評価しているわけなのだけど、人間は、ただ、この子は性能が悪いのだと思っているだけだったりする。自分が犬からペケ食らっているとは思わないところが人間て自惚れが強いって言うかコミュニケーション能力が無いって言うことだと思う。
Nov 19, 2011
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人間てのは不思議な生き物で事故や冤罪なんていうことは自分の身には起きないものとなぜかそう信じ込んでいたりする。ところがどっこい現実はそうじゃない。自分はノーリードになんてしないから大丈夫!そう思っている人が多いだろうな。カラーからナス環が外れるなんていうことは年中あることなのに。。。異例なことにカラーのバックルが故障することだってあるのだからね。リードを装着しているから大丈夫!とか事故にあったのはノーリードだったからでしょ!?と考えるのは早計なんだということ、ノーリード状態、犬が逃げ出したくなるような普通と違った環境、それとは逆に犬が近づいていきたくなるような魅力ある環境そうした中でも、しっかりこちらの指示をこなしてくれる絶対服従というのを犬の中に刷り込んでおかなければいつだって事故死にいたる危険は回避できないということやそういう咄嗟のときに指示を守ってもらいたかったら普段何気ない中で繰り返し繰り返しトレーニングを行って例外なく従ってくれるようにしておかなければいざというときには従ってくれないということをたいてい見過ごしてしまっていて、普段からコントロール下に犬を置くことが可哀想な事のように思っていたりそういうことを嫌悪していたりする。 普段やっていないことをいざというその場に際していきなり出来るわけがない。。。だから普段からコントロール下におくことを嫌悪してはいけないのだというそんな簡単なことも考えなくなっていたりする。結局真剣みがないためにまともにしっかり細かく考えるというったことをしたことがないのだ。。。というのが解りやすい。
Nov 18, 2011
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犬を飼っている人の大半が犬とのかかわりの中に「おやつ」といった余計なものを置いて犬の食欲を刺激することによって自分の犬とつながりを持とうとする。建前上は犬が喜ぶから。。。としているが本当は、食べ物でしか自分を振り向かない犬であることを知っていてそういう犬が自分のことを好きなわけではないということへの寂しさだの自分に対する愛情の薄さへの不安だのを誤魔化して自分を納得させているに過ぎない。一度そうした馬鹿げたごまかしを辞めてみて、自分の犬が自分に対してどの程度の関心どのような感情を抱いているかを冷静に見つめてみればよいのに。。。そうすれば犬が何を求めているのか?自分は飼い主としてどう在るべきなのか?が非常に良く見えるように成るのにね。相手がもしも人間だったら援助交際といわれている関係だろう二と思うのだがそれが一度犬が相手となるとそうした歪んだ関係に誰も疑問を抱かないから不思議。
Nov 7, 2011
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道は違えど「一生懸命頑張っている人」「犬が大好きでしょうがないと言う犬馬鹿さん」に千葉の犬馬鹿から貴方のその犬馬鹿さが大好きだよ!とエールを送ります!
Sep 30, 2011
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運の良い人と悪い人というのが居るがその境目は何処だろうと考えるにそれはまともな親の元に生れ落ちたかそうでない親の元に生まれ落ちたかによるのだろうなと思う。もっとも、まともな親の元に生れ落ちると言うのは運が良いからかもしれないけど。。。
Sep 21, 2011
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仕事や人間関係で要領の良い人と言うのは良く見かけるが、なんといっても一番要領が良いと思うのはこの世で遣りたい放題自分勝手を尽くし周りに迷惑かけまくりながらいまわの際になって懺悔してこの世でこさえたカルマをそっくり(ちゃっかり?)この世におきざりにして自分だけサッサと極楽浄土に旅立つって人だよなぁと思うわ。残された者は恨むも出来なくなって振り回されて失った時間を悲しむしかなくなる。
Sep 21, 2011
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他の人にとっては何と言うことなくス~ッと終わることでも何故だか自分の場合他者の凡ミスとかで事がややこしくなると言う物事がスムーズに流れない運命を背負っているような気がする。以前は、スムーズに事が運ばない不運を恨んだり何事ものなく終える人達がうらやましかったりしたのだけど最近は、スムーズに事が運んだらきっと知りえなかった物事の裏側というのを知ることが出来る運勢なんだなと思うようになった。同じ人生でも他の人の人生の何倍も濃い人生を送れるようになっているのだろうと思えば不運が不運でなくなるから不思議。
Aug 30, 2011
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先の書き込みの感じ方っていうのはこのところ自治会の中で行われている「火の用心」の見回りなんかがそういう風に感じさせているのだと思う。震災からこっち地震の際、消火意識を強化しようと言うことでなされている火の用心の見回りだが無茶苦茶湿度が高いこの環境下でしかも地震に関しての火災予防なんていうのはすでに周知のことをわざわざ拍子木打ち鳴らして練り歩くあの感覚は理解不能。歩き方も、徒党組んでがやがや無駄話をしながらデレデレと練り歩く。あのでかい声でしゃべる「私語」と「緊張感ゼロの得体の知れない集団」ぴんぴんと耳に響く拍子木の音が犬たちを無駄に怖がらせるのがとても嫌だ!どうせ見回るのであれば、自己の精神をきちんと律してもっと真面目に真剣に遣って欲しいものだ。自己制御が正しくきちんとなされている人間達であれば犬たちもおかしな気を感じないから怖がらないのに頭の中がまったく制御されていない人間が集団で練り歩くのは犬にすると「物の怪」の集まりだからさ、花火などよりずっと犬に緊張を与えるんだぜ!
Aug 21, 2011
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夏休みみたいな長い休みが来るたび夜間にパトカーが防犯や地域の子供たちの非行防止のために住民協力を求めるアナウンスを流しながらウロウロする。ああいうのを聞く度家庭における危険予知教育だの道徳教育、自己責任意識の教育がレベルダウンした結果を他人に押し付けたり他人に求めたりする親の無責任さと言うか可笑しさを感じる。そんなだから犯罪を犯す側も劣悪になっているんじゃないのかな?子供を育てるつて親が自分を律したり努力したりする必要があると思うのだけど、他人の力を当てにしたりする緊張感の無さで子供にかかわれば当然のことながら子供は頭の悪い緊張感の無い子供に育つ。地域ぐるみで子供たちを守ろうと言う姿勢はよいことだとは思うけれど、行き過ぎると親の怠慢とか無能に結びついたりするよな。昔は、この季節のパトロールってパトカーは犯罪に目を光らせる立場で走っていたと思う。犯罪を犯せば補導されて犯罪を犯した当人やその保護者が責を負うっていう直接個人の問題だったと思う。犯罪の形が時代と共に変わったから地域ぐるみで子供を守ろうって言う考え方が当たり前になってきているわけだけど、その前に、犯罪の形が変わった原因が親の無能さや無関心さ、無責任さがそういう犯罪者を作っているって部分は大きいと思うんだよね。地域ぐるみの防犯という過保護はそういう犯罪を犯す側の人間を増やしやすいぬるい環境を作っているような気がするこの頃。。。
Aug 21, 2011
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動物愛護法というのはお金持ちの奥様によるおかしなブルジョワ意識と保護団体などが中心となって票稼ぎと可哀相意識が混ぜこぜになった議員によって改正(改悪?)されてきた法律だ。だから内容が非常にヒステリックで行き過ぎの感がある。人間の介護に関する法律もまだ新しいと言う部分と一部にでたらめな業者が存在していたことがきっかけとなってヒステリックに締め付けを強化した結果介護の会社が存在し続け難い状況が発生し介護を必要とする人口が増える中受け入れる施設の少なさが問題になりつつあって方向としては若干規制を緩和しようと言う方向に流れつつあるらしい。愛護法は、五年ごとに法の見直しを図ると言う意図で一般からの意見を募集していたりするのだが、法として整備するに当たって内容を取りまとめるために選出されているらしいいわゆる「専門家」と言われる人達も改正の指針として挙げられている海外のデータも野生頭の犬や人間を使って生きているレベルの犬を犬として考えているところで程度の悪い犬が基準となってものを考えていたりするわけだから話にならない。親犬から何時離すのが正解か?なんてことは親犬の性質や仔犬の数だの仔犬の性質だの成長度合い、親犬の体質だの条件がいろいろ異なるのに法律で数字を取り決めようと考えるのはブリードに無知な連中のなせる業だと私は思う。それが専門家と言ういうのならこの国の専門家は恥ずかしい連中だとしか思えない。ブリーダーの中にも法改正をただ可哀相がりの観点で物をとらえる好かれたがり、迎合タイプが居たりするから一般から意見を求めると言ったってまともな意見がどれほど集まるか?ってことは疑問だ。おばかな可哀相がりは良い犬を求める人や純粋種の良さにほれ込んでいる人の意見などには真っ向から反対するしね、彼等が変に頑張れば手近なメンタルケアとして犬を飼うと言うことが一部のブルジョワの特権のように成っていくことに気づかない。今回の見直し案て゜は愛護団体などについても規制が必要だというのが出ているらしいからそれは他の事を置いても何よりも優先すべきだとコメントしておいた。ただで譲渡しているから規制がかからないなんて可笑しいでしょ?他人に譲渡する目的で処分場から引き出している彼等。金品を介していないと言うだけで、他人に譲渡しているわけだよね?しかも愛護の啓蒙と言う意味からいえば絶対に危険な犬だの社会にとって迷惑になるような犬は譲渡すべきではないはず。社会的影響から言えば、ペットショップなどよりもずっと社会に与える影響は大きいはず。なのに、噛み犬、吠え犬、漏らし犬、他犬に喧嘩吹っかけまくり犬を平気で譲渡しているじゃない。それ、ペット販売業者で考えたら粗悪品の譲渡だよね。
Aug 19, 2011
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自分で自分のことを私は犬のことを沢山勉強しました!というヤツほどただの頭でっかちでなぁ~んにも解かっていない。解かっていないだけならまだ許せるが勉強したと言い切るヤツほど自分だけが善い人だったり自分だけがちゃんと遣っているという風な変な差別意識や自己顕示欲みたいなものが言葉の端々に見え隠れするから不思議。優等生で居たいのかな?でも実際は何にもわかっていないから結構大きなミスを犯していることに気づかない。犬のことってのは知識を入れるなんてのはスタートラインであって、そこから実践だの研究・観察だのがあって失敗や成功の中から真実を見つけていくような泥臭い作業が果てしなく続く。。。先輩達から見聞きしたことなんてのは参考にする程度でそれすら知識の一つでしかなく、それがベストだとか、それで知ったつもりになっていたら何時までたっても川原の砂利の一つでしかない。知識はバンバン入れてもそれがそのまま正しいとは限らないのがこの業界で、仮にそれが正しかったとしてももっと効率がよいことやもっと理解しやすい形があったりしてもそれがまったく気づかれていなかったりする。それゆえに仕入れた情報がどこまで信憑性に富むのかを自ら検証する必要がある。検証もしていない段階で解かったとか知っているとか思ってしまうのは世間知らずというものだ。
Aug 7, 2011
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保護団体にありがちな思い込みと希望的観測の激しさで繁殖に臨んでいる人が多いから人間が嫌いな犬媚を体得している仔犬が多いのだというのが最近良く解かりました。如何に相手の気持ち相手の立場になってものを考えるということが人間にとって非常に難しいことなのだというのが解かります。犬にかかわるすべての業界が大差なくこの類であるという絶望的事実。犬という生き物がどれだけ理解されぬまま人間社会で暮らさせられているかがわかります。見知らぬ場所に独り送り込まれ取り囲まれた見知らぬ他人に愛想振りまく子犬の姿が、どれだけ保身に必死な状況にあるか、どれだけ緊張で混乱している姿であるかを、何も考えず、友好的で好ましい姿と捉えて終わる安易で頓珍漢な感覚。仔犬の立場に立ってみれば、嬉しくて愛想振りまいているなんていうことがあるわけないと私は思うよ。本当にそれが友好的な意味で心に余裕を持ってのお愛想だとしたら環境の変化、人間の違いといったストレスをものともせずにいられるたくましさを何処で培ったのか?と考えれば、それまでその子が暮らしていたところがストレス満載だったということに他ならない。意識して耐性を伸ばそうという考えでストレスを与えるように心がけて暮らしていたということも無かったのに環境の変化や人の違いによるストレスをクリアできる耐性があるとするならそれまで育った環境が熾烈だったとしか思えないよね。でもそういうことではないのだろうから(一部ではそうなのだけど)行った先での仔犬の反応をまったく読み違えて悦に入っているということだと思う。ある意味、見知らぬ他人に媚びてお愛想振りまくほど仔犬はもう崩れきっているということだと思うけど。。。それと解からない人はそういう犬で満足なのだから仔犬と飼い主はお互い様?
Jun 13, 2011
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仔犬というのはその三つ子の魂の在り方が生後4週間でおおよその見当がつくのだなと思う。仔犬の目が開き始めるのが大体生後2週間ほどだ。そののちの1週間までは世界が仔犬にとってはすべてが未知なのだ。だから生後3週間まではどんな仔犬もまともな目をしている。。。がこれが生後4週間ともなると様相が異なってくる。腐った魂を持つ仔犬というのは生後4週間目にはすでに逃避だの怠惰だの人間不信だのがはっきりと目に表れていてそこで出来上がってしまっている「根っこ」というのは修正するのにかなりの努力を要する。場合によっては修正が困難な場合も多い。三週から四週までの一週間の人間の関わり方がその子犬の目にどう映っていたか?によってその仔犬の一生がかなりの割合で左右されてしまうらしい。。。一週間という僅かな期間に仔犬は世の中というものを仔犬なりに悟ってしまうのだな。
Jun 7, 2011
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どんなところでも感じることだが物事を筋道立てて考えるとか優先順位を考えて行動するとかやるべきことと遣りたいことの違いをしっかり考えて行動するとかっていうそういう考え方の鍛錬というか自己制御が出来る人間というのが少なくなったなと感じる。犬のしつけという極限られたジャンルでさえ考え方がぐちゃぐちゃなのなぁ。。。英国流のしつけとか言って宣伝しているサイトを見たがそこで飼い主がリーダーという立場を確立すると犬は他者を排除しようとして攻撃的になる。だから上下関係で教育するのは間違いだと書いてあった。馬鹿ジャン!?攻撃的になるのは自分が退くことを教えられていないからでご褒美使ってご機嫌とって関係を築いても自分が退くことを教えられていない犬は気に入らない相手や信用できそうに無い相手には攻撃するぜ!第一、他者に対して攻撃的になるなんていう状態にある犬はリーダーをリーダーと認めていないからだということが解かってない。リーダーをリーダーとして認めている犬はリーダーの居ないところで自分が強気に出ればどんな状況に陥るか良く知っているしリーダーがいる場面で他者に対して攻撃すれば攻撃した相手より先におめぇ何様だ!でしゃばるんじゃねぇ!ってリーダーから焼き入れられるんじゃないかと思う。あのサイトの管理人さんは上下関係が確立できていないリーダーぶってるだけのオーナーしか知らないで物言ってるよね。でも、見た人の中でリーダーに成り得ない器しかない人の心にスッとそういう言葉は入り込んで同意を得て客をゲットするんだろう。で、また、人を使っているだけの犬と使われていることを感じずに自分の犬に使われて心地良くなる僕飼い主が増えるんだ。その結果、他人の犬に平気でお友達にしようと自分の犬を近づけてくる無神経で遠慮の無いニブチンで愚鈍な飼い主が増えたり自分の犬を天狗にするだけして扱いきれなくなって放棄する人間が増えるんだ。あのサイトも馬鹿言ってるなと思ったけれど、昨日届いたメールマガジンも気持ち悪くなるくらい犬が殿様で暮らしている様子がありありと書かれていた。一回一万円ほどもするドッグマッサージを犬がほっこりするからと月に二、三度マッサージを依頼している飼い主が増えているとかって自分の犬を愛している飼い主はそこまで尽くしているみたいなことを書き商材を売らんがための煽り文だろうけど犬に至れり尽くせりすることが愛情見たいな事書いてあった。この人達って相当我侭に育っているんだろうなとしか思えなかったよ。根が我侭な人ってのは人間との関係で生じるストレスが大きいからそこで生じたストレスのはけ口として犬を慰み者にしないでいられない。しかも他者からチヤホヤしてもらえない(子供じゃないから他人がチヤホヤしないのは当たり前)満たされない部分を犬に至れり尽くせり尽くしている自分をアピールすることで善人に見てもらいたがる傾向が強い。そういう類が寄り集まってサロンを形成するととんでもなく気持ち悪い考え方が当たり前という世界が出来上がって犬が犬ではなくて殿様になり人間を操る妖怪化していたりする。「犬は家族の一員」という言葉を使いたがる連中ほどそういうワケ解からない飼い主だよなと思うわ。犬と人間の優先順位が逆転しているんだ。そういう人って結局自立が出来ていないんだよね。
May 17, 2011
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約束もしていないのに期待されてウハウハされている状態は甘えられているということであり勝手な都合・思い込みであちらはこちらを見ているということ。その状態が在るうち、その状態を許しているうちは甘やかしていることと同じということだ。。。が、悲しいかな人間は自分の姿を目視してウハウハする犬が可愛いとか思ってしまうのだ。「上下」の「上」を人間に認めている犬は人の姿を見たときウハウハなんかしていられないということを考えないからね。仕事が出来る上司の前で自分がウハウハ出来るか?を考えれば自分の姿を見てウハウハする犬が自分に重きを置いているわけではなくて使っているだけであるというのは解かるはず。そう。。。人を使っている犬は人を見たときウハウハする。人を尊敬している犬は人を見たとき冷静で発せられる指示を待つ姿勢がある。出来る上司を前にしたときの部下と同じなのだ。
May 13, 2011
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甘やかしていませんという割りに甘やかすとか甘えとかがどんなことなのかを知らなかったりする。いつだったかテレビの放送大学で「甘え」についての講義が流れていた。約束された内容以上のことを期待することが甘えであるらしいことをそこで言っていた。期待とは、相手を自分の枠の中に無理やり収めようとすることだとNHKラジオの対談で説明していた方が居た。結局、甘えというのは相手に対し自分にとって都合良い解釈がなされるということだろうなと思う。小学校の頃に「甘えの構造」という本を読んだことがある。内容がどんなだったかまったく覚えていないのだけど、今また読み返してみると至極納得できる内容かもしれないとふと思った。もう一度読んでみようかな?
May 12, 2011
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「今」を充実させる生き方をすると今起きている不幸でさえ楽しめるようになるから不思議だ。転んでもただでは起きない工夫が最終的に何かしらの実を我が身にもたらしてくれる。「塞翁が馬」という考え方と「果報は寝て待て」という感覚。全力尽くしてすべてに対して遣りつくしてしまえば後は天に運を任せるしかなくなるから遣りきってもう自分の力の及ばない範疇にまで達したところで諦められるようになった。遣りきってしまうということは潔さを身につけるのにはとても大切なことだと思う。遣りきってしまえばだんだんそういうゆったりとした考え方に変わってくるものなのだなと最近はかつての自分の余裕の無さがまだどこかでやり切れていなかったための諦めの悪さだったのだなと感じる。人間万事塞翁が馬!果報は寝て待て!
May 7, 2011
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